毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
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0001人間七七四年
2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0209人間七七四年
2007/07/08(日) 21:24:39ID:O7l6yCFh小田原でもあのまま引っ張り出して叩けば、そのまま駿河どころか伊豆相模も手に入ったぞ
箕輪城も同じく、何年もかける必要なかったのにな
結局武田の挑発に乗った徳川部隊の突出が原因なんだから、それを制御しきれなかった徳川の失点でありこそすれ、別段武田を褒めるようなことじゃない
それとも徳川のこのときだけえげつない挑発でもしたのか?
あんまり思いつかないが
0210人間七七四年
2007/07/08(日) 22:14:33ID:xGRJGbN0>なら野田城でも引っ張り出して叩けよって話し
小田原でもあのまま引っ張り出して叩けば、そのまま駿河どころか伊豆相模も手に入ったぞ
そういうのを屁理屈と言うんだよww
>結局武田の挑発に乗った徳川部隊の突出が原因なんだから
三方ヶ原台地での話しなら、あの時点で撤退できるわけねーだろw
その前の浜松城から引っ張りだした話だよ。
それとも浜松城から勝手に出陣した部隊でもいたのかよwwそんなの初耳だけどな
0212人間七七四年
2007/07/08(日) 22:27:25ID:Y20PL0sX信長の言うとおりにしてたら遠江での支配力低下は必至
別に信玄が引っ張り出したわけじゃないww
0213長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/08(日) 22:33:17ID:guj7cIC0織田に籠城策を勧められても領主としては一戦やって領主の立場を見せる必要性があるわけだ。
只でさえ一向一揆を経験して領民の統制に躍起に成っているのにこれを
見過ごしては例え信長の作戦は成功して武田に勝っても後に禍根を残すことになる。
ここでは上手く家康をボコった信玄は中々ここでは上手くやったと思うが。
家康もちょっとどつくつもりが……って感じだったと思うが。
0214人間七七四年
2007/07/08(日) 22:57:11ID:kalVcAz2数が劣ってるのに包囲殲滅しようと鶴翼の陣で攻撃かけたからな
丘の上で魚鱗の陣に陣立てを変えて待ち構えられてるとは
思わなかったんだろうなw
0215人間七七四年
2007/07/08(日) 23:44:32ID:XodJD+ge>三方が原は戦略的に見てみたら家康の判断は妥当
それこそ屁理屈だろ。
単騎で命からがら逃げなきゃならんくらい、
ヘタすりゃ死んでたわけだから、無謀というべき
0216人間七七四年
2007/07/09(月) 00:33:08ID:Mz4cUA8g出撃して武田と戦おうという姿勢を見せたのは政治的には正しい判断。
しかし深入りしすぎて多大な被害を出してしまったのは戦術的に失敗。
0217人間七七四年
2007/07/09(月) 07:15:11ID:JBfz7kvkだから戦術的には負けたんじゃないか
ただ、三方が原は武田の大勝といっているが実際のところ死んだ武将は織田の平手ぐらい
家康は死にかけたけど、重臣クラスは全く死んでない(酒井、石川、本多あたりは普通に生きてるし)
大勝というなら長篠みたいに重臣皆殺しにするか、一乗谷のように相手大名まで勢いで殺してしまわないと
0218人間七七四年
2007/07/09(月) 09:35:14ID:T4n0uarM武将貶めるレスは全部メガトンだ。ちゃんしたレスしろよ、できないならROMってろよ
0219山形義光
2007/07/09(月) 09:46:40ID:LRaIueEYあれはどうなの?
0220人間七七四年
2007/07/09(月) 11:22:41ID:/sddX87Zさすが毛利厨、敵方を取り込むことせず殲滅がデフォ。
尼子残党を農民使って鉈や鎌で惨殺、怨霊がその土地に居座り
津山事件を誘発したのも全て毛利の仕業
0221人間七七四年
2007/07/09(月) 12:51:29ID:JBfz7kvkあんなの実際にあったわけないだろ
兵士は農民だし 大体そもそもわざわざ陣形とかいうのを使う必要もない
0222人間七七四年
2007/07/09(月) 12:53:56ID:T4n0uarM0223長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/09(月) 13:00:41ID:9WIGhSmp実際使われるのは2、3種って話しらしいが。
それとゲームみたいに劇的な効果は無いってことだね。
0224人間七七四年
2007/07/09(月) 13:04:35ID:JBfz7kvkでもそれ以上のはまず無い
カクヨクの陣っても長篠の織田みたいに横に長く軍を並べてるぐらい
後付けで魚鱗だのカクヨクだの呼んでるだけ
0225人間七七四年
2007/07/09(月) 15:11:50ID:UQMK5Swi降伏した義兄・諏訪頼重を騙し殺した信玄と一緒にするなw
0226山形義光
2007/07/09(月) 15:13:51ID:LRaIueEY0227人間七七四年
2007/07/09(月) 15:56:47ID:41OIblZN>>179
対大友は戦術的には毛利が勝ってるだろ。
終盤は特に毛利方が連勝してんぞ。両川を投入した成果だろうが。
和議締結に関しては、本領の中国にて尼子残党の蜂起があったのが大きいし
毛利の九州への侵略失敗を全て大友の功績とするのは疑問が残る。
大友の勝ちと主張するにしても、戦略的に見た場合での結果論だろ。最終的に婚姻結んで和睦してんし。
ま、外交手腕では普通に宗麟>元就だったんだろーと思うがね。
なんせ戦場での負けによって奪われた九州の領土を、外交によって奪い返したってんだから
宗麟の駆け引きに関する能力は図抜けてる。
尼子残党の蜂起、足利将軍家の権威、と利用出来るものは全て利用して毛利の弱みに付け込んでるからな。
こと戦術に関してなら、門司城における小早川隆景の活躍なんかは見事だよ。
隆景は本質においては政治家だったんだろうけど、軍略もスゲーよな。
0228人間七七四年
2007/07/09(月) 16:38:56ID:B4iYE1T9あれはサッサと大友と和睦して、内乱鎮圧に取り掛かった元就の判断も褒めるべきだとオモ
所詮九州は戦で一時的に奪った土地、和睦して大半を返してもプラス5がプラス1になるだけ。
だらだら未練を残さずに奪った領土を返上し、内乱鎮圧にも成功して失う物の無かった毛利は戦略的にも負けたとは思えない。
戦で負けてた宗麟が外交によって引き分けに持ち込んだって所だろ。
元就が明確に敵対した大勢力、尼子、大内、大友の中で元就に滅ぼされなかったのは大友だけ。それで十分。
0229人間七七四年
2007/07/10(火) 03:10:37ID:9Y1yyzaE元就が九州に攻め込んだ目的ってご存知?博多がほしかったんだよ。
で、元就は博多を手に入れることができたのかな?
戦略と戦術、戦争と戦闘の違いを理解してからどうぞ。
0230人間七七四年
2007/07/10(火) 06:58:02ID:HovTYsuG戦場においては毛利が勝利し領土を侵食していたからこそ、和議の段階で大友に返還する領土を有していた訳で。
戦前との領土比較を行えば、毛利は北九州の要地である門司城を奪い取ってる。
それは大友から見ればマイナスの結果であり、毛利から見ればプラスの結果。
「とにかく博多を奪えなかったら負け。博多さえ守れば他の領地奪われていても勝ち」なんて事はないだろ。
大友は領土を失ってるが、毛利は大部分を返還してもなお領土を増やしてる。
俺に言わせりゃ毛利の判定勝ちだが(もちろん博多まで手に入れてりゃ完全勝利だ)
失った領土の大半を取り戻し、和議を結んだ大友の外交戦術を考慮して引き分けが妥当だろう。
0231人間七七四年
2007/07/10(火) 08:35:21ID:wdTTL7lw桶狭間以来のゴタゴタで実質壊滅状態の今川はともかく、既存の敵に加えて徳川北条を敵に回したら大ピンチになることぐらい、わかるよね
信長に「あなたに見捨てられたら信玄は滅亡です」と講和仲介願い出したけど、単独講和能力すらなくなってたわけ?
0232人間七七四年
2007/07/10(火) 09:31:48ID:KuR65Rsg軍事の吉川、政治の小早川といった風に差別化されるのは主に隆元の死後の話で
生前は両川共に軍事方面で活躍してる。
0233人間七七四年
2007/07/10(火) 09:42:13ID:XN0FwW+90234人間七七四年
2007/07/10(火) 10:12:51ID:HovTYsuG(邪推だが、元就が大事な嫡男を戦死させぬように、この役割につかせた可能性もあり)
隆元の死後は、隆景がその任を帯びる事となり、吉川元春が単独で戦線を支えるような形になった。
隆景は自らが「縁の下の力持ち」を代行する事で、初めて隆元の存在が如何に重要であったのかを身に染みて感じたという話。
0235人間七七四年
2007/07/10(火) 10:13:15ID:jBMxbnms脅威度数は、島津 > 鍋島 > 秋月 > 毛利 こんなところ。
0236人間七七四年
2007/07/10(火) 10:27:36ID:HovTYsuG尼子大内残党 > 大友
だったからこそ、九州で獲得した領地の大半を返還してまで和睦し
尼子大内残党とサシで向き合う必要があった訳で。
0237人間七七四年
2007/07/10(火) 11:22:35ID:+rxgzqXv何年ごろの脅威だ?
島津なんて元就が生きているころは大友の眼中にあったかどうか怪しいものだと思うが
鍋島は竜造寺の家臣だし、秋月は毛利の支援を受けたから大友に抵抗できたようなものだし
0238人間七七四年
2007/07/10(火) 11:24:23ID:KuR65Rsg海を隔てた外の大国より、内に抱えた豪族のが厄介という。
織田の脅威度数でもトップは浅井朝倉では?
0239人間七七四年
2007/07/10(火) 12:06:08ID:9Y1yyzaE他の領土も、ほとんど大友に奪回されてますが。
個々の局面でみれば毛利の勝利は多い。戦術の勝利だが。しかし最終的には
大友は目的を達成し、毛利は目的を達成できなかったばかりか、何年もかけて
築いてきた戦果を全て失った。
大友にとっては防衛戦争で、毛利にとっては侵略戦争。戦争の途中経過では
領土を蚕食されたが最終的にはほぼ取り戻した大友と、多年の侵略でもわずかな
領地しか得られなかった毛利。
もう一度いいますが、戦争と戦闘の違いというものを学んでください。
そして、宗麟にせよ元就にせよ、大名に求められるのは戦闘で勝つ能力以上に、
戦争で勝つ能力です。(前者も持ち合わせていれば言うこと無いが)
極端な話、戦闘でいくら勝っても戦争で負けた例なんて歴史上いくらでもある。
世界史だったらレパント海戦とか、日本史でも長久手合戦なんてありますね。
0240人間七七四年
2007/07/10(火) 12:26:09ID:hG1nFdF6>>239
戦争を、お互いの王を取り合う将棋のように、単純だったら、あんたの言う通りなんだが…。
毛利大友双方の痛み分けというのが、オレ流の見方なんだけどね。
毛利は、勿論、博多どころか、出費以上の戦果を獲得したとは言えないし。
大友も、防衛戦の費用は、マイナスで、おまけに、門司を取られたんだからね。
費用対効果で考えれば、どちらもマイナスなんだよな。
>>230が言いたいのは、そういうことじゃない?
0241人間七七四年
2007/07/10(火) 12:27:08ID:uVd78HhAそんな価値観を持ち込むのなら、あらゆる戦争が不法私戦になる罠
0242人間七七四年
2007/07/10(火) 12:46:43ID:diEdrhVf外交とかの戦略を駆使して相手を追い詰めて
最後に戦闘してトドメをさすのが戦争だな。
戦闘は戦争の課程ってことか
じゃある程度、戦闘をする前に勝敗は決している
0243230
2007/07/10(火) 13:51:43ID:HovTYsuG毛利が中国西端を押さえてるのは変わらずに
それと繋がる九州北端を支配するのを、九州探題の大友が認めた形での和議締結だからね。
中国〜九州間における制海権において毛利が優位に立つし
なんといっても無視できないのが、その影響力。
重臣の高橋やら旧大内派の豪族やらが元就と内通して蜂起した事件だってあったんだから。
九州に毛利の勢力を残したままの和議が大友にとってどれだけのマイナスであった事か。
戦費に関しては毛利も大友も同様だし
どう考えても大友の方がマイナスは大きかったんでないかな、と。
ま、俺の主張としちゃ「毛利の判定勝ちに近い引き分け」だったんだけど
>>240の言う「痛み分け」が一番正解かもね。
「毛利と大友を比較すれば、毛利はプラス、大友はマイナス」と言ってみたところで
「毛利も戦費に見合う程のプラスではなかった。結果的に見ればマイナス」なのには反論できない。
0244人間七七四年
2007/07/10(火) 14:19:09ID:KuR65Rsg大友はそれ以上のマイナス
つか戦場で負け続きだった癖に「和睦したけりゃ領土返せ」で埋め合わせする宗麟の外交術は神。
元就は元就で連勝してたから将軍家からの仲裁も一度は拒否したのに
尼子残党が蜂起したら、これまでに切り取った領土を返してでも引き上げなきゃならんかったんだもんな。
戦術=毛利>大友
外交=大友>毛利
0245仙台藩百姓
2007/07/10(火) 16:42:05ID:h7PPF1fvそんな大友も島津には軽くボコられてあっと言う間に瀕死
その島津も豊臣相手には無様に逃げ惑うばかりでした
所詮猿山で大将気取りの田舎者ですお(≧ω≦)ブププーッ
0246宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/10(火) 17:00:20ID:gJh/PzzM友好関係にあった三村を捨ててまで宇喜多と結ぶ。
謀反も許す。毛利はどうも宇喜多に弱いし甘い。
0247宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/10(火) 17:01:47ID:gJh/PzzM0248人間七七四年
2007/07/10(火) 17:36:30ID:hG1nFdF6もしも、本能寺の変の際に、直家が生きていたら
板立てたら、結構伸びるんじゃない?
天下取りは無理でも、中国地方東部の大大名になるんじゃない?
0249人間七七四年
2007/07/10(火) 17:52:18ID:nXpshcy2いや、明善寺合戦とかを評価してないわけじゃないんだが
実際、どの程度暗殺によって勢力拡大したかは知らんが、同じ暗殺で比較される松永久秀と比べると
そういった面で見劣りする。
0250人間七七四年
2007/07/10(火) 18:07:35ID:HovTYsuG直家なんか、それこそ下克上の典型みたいな成り上がり方した英傑だしね。
両川ですら宇喜多の暗殺の魔手から危うく逃れたという逸話も残ってるくらい。
ただまぁ、何かと対応が甘かったのは織田に対する防波堤的な意味合いも大きかったと思うんだが、どうだろう。
「こりゃ勝てん」と判断するや否や、さっさと裏切って織田に臣従してる辺りが流石だけどね。
信者も認めてる通り、元就とはちっと活躍期が違う人物だけど。
ところで>>245みたいなコテ名乗ってる奴が「田舎者」とか抜かすのって
やっぱコンプレックスの裏返しなんだろな。いと哀れ。
0251人間七七四年
2007/07/10(火) 18:10:25ID:Q6Y2a3Lv日本人を生きたまま焼き殺されて謝罪も要求できない国とマスコミ
(あなたはアジア系アメリカ人によって日本が恐喝されている事実をご存知ですか)
原爆問題で大臣たたきをしているマスコミや広島長崎は、
加害国のアメリカには抗議らしい抗議をしていない。
正義の使い方が間違っている。
謝罪と賠償金を要求すべきであろう。
人を生きたまま焼き殺すなど、
従軍慰安婦の人権問題など比較できないほどの人権侵害である。
アメリカが従軍慰安婦問題で、中国韓国系移民の力によって政治力を振るって日本から賠償金を脅し取ろうとする美人局的行為をしているのとは雲泥の差だ。
原爆問題で日本がおよびごしなら、百年たっても日本は、アジア系アメリカ人によって賠償金を脅し取られるであろう。
原爆による人権侵害の提起は、アメリカが韓国の手先となって日本に行おうとしている謝罪と賠償金に対する牽制になるのだ。
0252宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/10(火) 18:15:02ID:gJh/PzzM中央であんなことやってたらたちまち滅ぼされる。
また、暗殺は生涯の敵をつくる。最後まで反抗した三村が一例。
スレ違いすまぬ。
0253人間七七四年
2007/07/10(火) 18:33:57ID:xCBSm88Q曹操だったら川中島、つまり決戦クラスの戦いを何度もしたりせずに一発で制するからね。
>>229>>239
ゲーム的発想だな。
勝利条件を最初に定めて、それを満たせば勝ちという単純思考。
戦国において勝利というのは相手の土地を取らなければ意味がない。
防衛でも勝利と言える場合もあるが、その時は相手に大きなダメージを与えなくては意味がない。
多年の戦闘により大友も被害を被ったのだから、土地を取り返せてよかったねのレベル。
俺もこの前曹操云々言ってた様に(>>169)、結局大きな戦には勝って領土をどんだけ拡大できたが君主にとっては重要だとは思っている。
その点ではあんたと同意見だが、大友が勝利には賛成できない。
0254人間七七四年
2007/07/10(火) 19:05:00ID:nXpshcy20255人間七七四年
2007/07/10(火) 19:36:07ID:HovTYsuG三国志の英傑に例えるにしても、流石に信玄=韓玄は酷い。
益州を制した劉焉辺りが近いんじゃないか。
軍事的なイメージで言えば公孫瓚でも良い。
ってか俺も>>204みたく
「なんで韓信やねん。用兵の天才という意味なら元就のがよっぽど韓信に近いだろ」
と早合点しかけたな。
項羽と謳われた武田元繁も討ち取ってるし、元就。
国士無双ならぬ西国無双と呼ばれた陶晴賢を打ち破った毛利元就だが、意外とコレといった異名は無かったりする。
なんつーか倒した相手の異名が凄すぎて、それより凄いの付けられんかったんかね。
幼少の頃は安芸の麒麟児なんて呼ばれてたって話もあるけど、これもスケールが小さすぎる異名だから立ち消え。
甲陽軍鑑あたりじゃ山本勘助が「毛利元就これ即ち当代随一の英傑なり」とか言ってたけど、これも異名とは呼べない。
稀代の謀将とか、調略の鬼だとかいうのは後世のイメージから来るもんで、実際は戦場での働きの方が目立つ人だしな。
ちょっと寂しい。
0256人間七七四年
2007/07/10(火) 19:44:43ID:KuR65Rsg0257人間七七四年
2007/07/10(火) 19:58:30ID:9Y1yyzaE戦争とはなんのためにやるのかを知ってください。
例えるなら太平洋戦争のようなもの。日本は過程では大進撃して領土を大きく拡げ、
個々の戦場をみれば日本軍が勝利した会戦も多くあるが、最終的な戦争の勝敗は
問答無用に反論のしようもなく日本の負け。まあ毛利はそうなる前に講和で痛み別け
くらいで手打ちさせたが。
得失利益で考えればどちらも結果マイナスなのはその通り。しかし、戦争とは政治上
の目的を達成するための手段というのは紀元前から言われていること。
英仏百年戦争の勝利者は、フランスでしょう。たとえその過程で領土を半分以上
奪われ、多大な被害をだして収支すれば大マイナスだとしても。
0258人間七七四年
2007/07/10(火) 20:00:17ID:vjZhqiJV侵攻を開始しただろうな、尼子攻めのように
周りの豪族やら家臣やらを調略しつつじわじわと、
元就の寿命が来たのと織田の脅威で
二度と九州に目を向ける余裕が無くなってしまったけど。
0259人間七七四年
2007/07/10(火) 20:15:58ID:KuR65Rsg喩えが下手だね。
近代の国家間同士の戦争と
戦国大名同士の陣取り合戦とじゃ全然意味合いが違う。
毛利は大友に連勝してたのに、後方の内乱が原因で撤退を余儀なくされた形。
その弱みにつけ込んだ大友の外交手腕は見事だが
それでも豊前の一部は毛利に譲らざるをえなかった。
それだけ毛利が大友から勝ち取っていた領土が大きかったという事。
毛利の戦略目標が博多占領と断定するなら、大友の政治上の目的とは何だ?
九州探題としての防衛戦で、要地の門司を奪われたのは負けじゃないと?
毛利の判定勝ちと言われても仕方ない結果
0260人間七七四年
2007/07/10(火) 20:32:23ID:HovTYsuG俺個人の主張もあらかた書き終えた後なんで誘導↓
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/
0261人間七七四年
2007/07/10(火) 20:42:47ID:xCBSm88Q韓玄だとは思ってないですよw
>>257
日本軍の場合は敵の反撃によって押し返されたが毛利の場合は違うでしょ?
それに太平洋戦争は攻撃に出た時点でツーク・ツワンクに掛かったわけで、戦略負けしている。
パターンが違う物を比較に出しても・・・
こっちも例を出そうかな。
毛利の九州攻めでの講和は、攻城戦で門以外の入り込んだ城の一部を返したようなもの。
毛利は九州という城の内部にいつでも攻め込める状態にできたので勝利と言える。
0262人間七七四年
2007/07/10(火) 20:46:20ID:xCBSm88Q毛利と大勢力との戦いと武田の大勢力との戦いを比較することにはじまって、今毛利の戦闘能力を検証しているのだから問題ないのでは?
0263255
2007/07/10(火) 20:51:48ID:HovTYsuG直接253に文句をつけてた訳じゃないよ。誤解させてしまったのなら申し訳ない。
大友毛利比較に関してだけど、>>260で誘導したスレでは
結果で勝ち負けがどうこうだけじゃなく、それぞれの合戦の内容なども語られていて面白い。
未見の人は一読するのをオススメ。
0264人間七七四年
2007/07/10(火) 22:16:57ID:ecrlJS//0265人間七七四年
2007/07/10(火) 22:28:59ID:KuR65Rsg0266人間七七四年
2007/07/10(火) 22:33:56ID:0Istod90日頃から気をつけてない信長でも本能寺の変までしぶとく生き続けてたんだ
普通の大名を暗殺できるわけないだろ 天翔記じゃあるまいし
0267人間七七四年
2007/07/10(火) 22:35:42ID:ecrlJS//0268人間七七四年
2007/07/10(火) 22:59:29ID:xCBSm88Q毛利じゃなくて宇喜多主体にしたらスレ違いだぞ。
0269人間七七四年
2007/07/10(火) 23:17:25ID:9Y1yyzaE大友の政治目的>領土を毛利から取り返すこと。博多を確保すること。
毛利の政治目的>九州の旧大内領とくに博多を手に入れること。
で、どちらがより大きく達成できたでしょう?
特に、博多の一歩手前まで進出していながら、最後に大敗してそれまでの
戦果をふいにしたことを思えば、敗戦とするしかないでしょう。ただ、それ
までの勝ち分が大きかったので、その貯金のおかげで門司は確保できたけど。
認識が違うのでこれ以上続けてもどうにもならないと思いますが、戦争と
いうのは領土のとったりとられたり以上のことが求められます。地方領主
レベルならそれでいいですが、大名ともなれば何故、どうして、なんのために
その土地が必要なのか、という観点から行われるものでしょう。私は元就は
大名としても非常に優れた人物だと思っていますので、ほとんど領地は取り
返され、戦略上の要地ではあってもわずかな領地が増えただけで「勝った!」なんて
思うようなちっちゃい小物とは思いません。
0272人間七七四年
2007/07/10(火) 23:56:13ID:CVj9SfS4密告者がいたため元春と隆景は美作を通って帰った。
0273人間七七四年
2007/07/10(火) 23:59:08ID:gJh/PzzMおれは立てれんので誰か頼む
0274宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 00:07:22ID:YFwHXhzE0275人間七七四年
2007/07/11(水) 00:10:39ID:hnRNah3d0276宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 00:49:16ID:YFwHXhzEこの事は中村三郎左衛門によって明らかになったため、
この事から直家元春隆景を比較する事はできない。
スレ違いで申し訳ない。
0277人間七七四年
2007/07/11(水) 01:26:39ID:jHnZpDCc大友の政治目的が明らかにおかしい。
戦端が開かれる以前の北九州は大友が支配していたのだから
大友の目的とは「領土を取り返す事」ではなく「領土を守りきる事」。
取り返す必要があるのは、大友が戦場で負けて奪われたからに他ならない。
そして大友は、その政治目的を達成していない。
毛利本領においての内乱という好機を生かし、大半の領土を外交によって取り戻したが
それでもなお門司は毛利が支配した状況のまま。
つまり大友は防衛すべき領土を失ってる。それが講和を結ぶ前に比べれば少なくなっただけ。
逆に毛利の政治目的に関しては、ほぼ正しい。
そして毛利は、その政治目的を達成してる。
連勝で九州の領土を多く獲得し、講和の条件として大半を返還してもなお門司は確保した。
両者の違いは
「毛利の成功は、講和前に比べれば小さな成功」
「大友の失敗は、講和前に比べれば小さな失敗」
という事に過ぎない。
それは>>269自体も認めてる。
「戦略上の要地」である門司を毛利は奪い取り、大友は奪われたと。
確かに博多は北九州における最重要拠点と言っても良いが
アンタが言うような「博多を守れば勝ち、博多を奪えなければ負け」なんて判定は
それこそ>>253の言うようにゲーム的発想だと評せざるを得ない。
んで
>博多の一歩手前まで進出していながら、最後に大敗してそれまでの戦果をふいにした
とは何の事?
毛利の撤退が後方の内乱に対応する為だったのは過去レスでも語られている。
まさか立花家文書にしか記述が見受けられないような
「九州から撤退する両川の部隊を大友が追撃して大戦果を挙げた」って話か?
少なくとも陰徳太平記では無傷で撤退成功(立花道雪や高橋らがそれを見送って悔しがってる
そして両川が撤退した目的である山口の内乱も、そのまま駆けつけて迅速に鎮圧してる。
大友の史料にのみ記された「大打撃を受けて敗走した両川の部隊」を信じてしまったら
その後の内乱鎮圧へと繋がる両川の部隊移動と明らかに矛盾するんだが。
0279人間七七四年
2007/07/11(水) 02:01:52ID:qx3lBvZz上杉の戦略目標は最低限越後の防衛、出来れば村上小笠原を旧領に
武田の戦略目標は信濃の統一、出来れば越後の領有
で15年ほど争って結果はどちらにとっても曖昧な結果に
武田が多少領土を増やしたぐらいで
毛利大友も15年ほど争って多少毛利が領土を増やしたぐらいと
0280人間七七四年
2007/07/11(水) 02:02:16ID:jHnZpDCcむしろ将軍家の調停すらも連勝中の毛利は拒否して
>>269の仰る通り「博多の一歩手前まで進出」した所で尼子残党の蜂起に見舞われてしまい
一度は拒否した講和を渋々受け入れたんだから。
「尼子残党の蜂起は、実は全て大友宗麟の計略だった!」なんていう
「本能寺の黒幕は足利義昭だった!」的な推測論でもぶちまけん限り、厳しい。
無論、その幸運を存分に生かして領土を取り戻せるだけ取り戻した宗麟の外交手腕がネ甲なのは認める。
それでも「大友は戦場で負けたが、外交で何とか引き分けに近い形に持ち込んだ」が精一杯の評価だ。
0281人間七七四年
2007/07/11(水) 02:14:04ID:vU61A4hA毛利の敗戦と主張してるのは博多さんだけみたいだし
毛利の判定勝ちとする人も引き分けなら文句ないみたいだし。
>>279
川中島とは条件大分違うけどね。
侵略した側の毛利が結構な重要ポイントを押さえてるのが厄介の種。
つか北九州攻防戦と比べるとスケールが違いすぎだw
0282人間七七四年
2007/07/11(水) 07:30:57ID:Re2nyhIJ百年戦争ではイギリスは要地カレーをついに確保したまま戦争を終結
させている。これがフランスの手にもどるのは1558年の事。
カレーはイギリスにとっては大陸への進出拠点として地理的要因及び
補給ルートの問題などでも理想的なものだった。
これほどの拠点を確保しながらも百年戦争はイギリスの敗北とされている。
同様に毛利・大友の争いは毛利の判定勝利といえるのだろうか?
詳しい人教えて。
0283人間七七四年
2007/07/11(水) 08:45:57ID:enNqC+x50284人間七七四年
2007/07/11(水) 10:51:04ID:Re2nyhIJ0285長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/11(水) 11:45:33ID:trsI45Il北九州で失っても中国で領土の安定化と進出した訳だからマイナスにはならんでしょ
博多は確かにとれなかったけどこの地域の領主は直ぐに裏切る・鞍替えするからまだ後にチャンスあると考えていたのでは?
立花が入って来たから難しくはなるんだろうけど。
0286人間七七四年
2007/07/11(水) 12:20:49ID:yPpoZeoc百年戦争前はイングランドはフランスのギエンヌ地方を領有していたのに対し
戦争後はカレーのみとなってしまった
毛利大友は1557年以前は毛利は九州に領土は無かったが
元就死亡時の1571年には豊前の一部を領有
戦争前後の状況が完全に異なると思うが・・・
>一時は北九州に大きな力をもったのに
って具体的に何?毛利が博多近辺まで進出したのは1569年の数ヶ月程度だと思うけど
その一時的な状態を指しての話し?
それに豊前筑前の反大友勢力はその大半が勢力温存してそのまま残っているみたいだし
0287人間七七四年
2007/07/12(木) 10:03:01ID:/rYZnhyI一度は死にかけたぐらいでしょ(京から将軍家が派遣した名医のお陰で助かって、その後子供まで作ってるがw)
それが事後処理のために出張ったんじゃ?
0288人間七七四年
2007/07/13(金) 19:13:04ID:56sj9yQD0289人間七七四年
2007/07/13(金) 23:23:01ID:c6Iq4zwQ0290人間七七四年
2007/07/14(土) 11:42:02ID:EGA1ctkRしかし世の中晩年が悪いと低い評価しかされない
実際、個人の素行もかなーり問題があった人だしねぇ
0291人間七七四年
2007/07/14(土) 12:17:58ID:myLKaxo00292人間七七四年
2007/07/14(土) 12:35:13ID:sXbnWFaI成り上がったってのはちと違うな
0293長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/14(土) 12:49:24ID:ePoMZvCpつまるところ薩摩の島津以外は最早大友に敵はいないという九州統一まであと一歩な状況まできてたし、
晩年や性格を差し引いてもこれだけの状況に持ってこれたんだからやはり大友はやり手だとは思う。
大友と武田を比較すると甲乙つけがたい。
0294人間七七四年
2007/07/14(土) 13:35:04ID:RRCGeTW4没落したのもたくさんいるけど、島津とか大友なんて元寇の時から名前が歴史に出てくる伝統持ってる
0295人間七七四年
2007/07/16(月) 22:16:29ID:kAXFirCd0296人間七七四年
2007/07/17(火) 00:19:43ID:n6d7uj/O語ること語ったからじゃないw
0297人間七七四年
2007/07/17(火) 12:18:42ID:WrIlpVMS0299人間七七四年
2007/07/18(水) 09:56:02ID:hqEPNZrOでいいおね?
0302人間七七四年
2007/07/23(月) 17:07:52ID:njUmpy/4イチローと松井を比較するスレのような信者同士の言葉遊びになっている」だろ
0303人間七七四年
2007/07/24(火) 21:38:48ID:IsA7BBF0しかしネタが尽きて見事にとまったな。
0304人間七七四年
2007/07/25(水) 23:03:06ID:27+3l7ISご自由に利用してください。
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/17.html
0305人間七七四年
2007/07/26(木) 22:45:30ID:/W5BGCYuそれでもずっと思っていたことには、武田はいかにももったいないことをしたと。
「桶狭間で今川義元が死んでから、武田が反織田の軍を起こす準備をするまで」
この期間、いったいなにやってたんだということ。
当時の武田領を見ると、
@地理的に、北も東も西も山脈で隔てられていて、次は南に出るしかない。
A大名を見ても、北の上杉、東の北条は強敵、南だけ弱い。(西は物理的に無理)
B経済力でも、武田の生命線である金山が枯渇したが、駿河には安倍金山があった。
Cさらに加えれば、海への出口としてもっとも出やすいのが、駿河である。
これだけの条件下で、生き残るにはいずれは南(駿河)に出るしかない、
という状況が明らかであったにもかかわらず、やたらと上杉との戦いに凝ってしまった。
同じ期間に、織田信長は今川に消されそうだった勢力だったにもかかわらず、
濃尾から近畿を席巻して、事実上天下を手中に収めたといってよいほどの勢力になった。
同じだけの期間において、かくも成長の差が出たというのは、
もちろん、近畿濃尾のほうが一円支配のための、経済的政治的条件が揃っていたためであるが、
ここまで実現したことの差が出てしまったという時点で、武田はこの時点で敗北したといってよいだろう。
上記に挙げた条件下では、「今川義元が死んで、氏真が後を継いだ」という歴史的転機にきちんと反応し、
しばらくは氏真の実力を見極めてからでも良いが、すぐに駿遠併合に向けて準備をすすめるべき。
上杉謙信とは外交革命により同盟を結ぶ(謙信は信頼できるし、上越国境に近い郡まで獲る必要はないのだ)。
北条氏康とは敵対関係になるが、割り切るしかない。西上州や東駿河を割譲してなだめることもできる。
もちろん、徳川家康が、遠州に手を伸ばす時間を与えない(この時期の徳川はまだ三河支配が未完了)。
これだけのことをやって、初めて生き残りのめどが立つというのに、
桶狭間の時に動かずに、人生の終盤に近づいてから織田攻めの軍を起こすなど、中途半端すぎるように思う。
長期遠征が不可能な農民兵で、(戦場での強さ以外の)すべてにおいて武田を凌駕する織田勢力を消すのは、
信玄晩年になってからでは手遅れであって、この時点なら、むしろ織田と同盟を結んで生き残るべきだったのだ。
なぜなら、この時期になると、もはや織田との総合力は時間を経るにしたがって大きくなるばかりであって、
織田と敵対関係にある以上、こちらが決戦を挑まなければならない側になるからだ(この焦りが長篠の伏線になる)。
もちろん、この期間を信玄も無駄に過ごしていたわけではなく、いろいろ実力を涵養していたのであろう。
しかし、この期間に織田はもっと早い勢いで伸びていった。その情勢も信玄には収集できたはずであった。
信玄は、優れた武将であったがゆえに、すべてのことを玄人的領域でこなそうとして、必要以上に極めてしまった。
反面、乱世を制するのにもっとも重要な「天の時」を見方につける機会を失ってしまったのだ。
(おわり)
0306人間七七四年
2007/07/27(金) 11:01:49ID:l7h2SILk義元死亡時の武田が北条今川との同盟破棄したら信州は上杉に取られ、
甲斐は北条今川に同時攻めされ、という散々な結果になったと思う。
信玄に都合よく話が動くと思いすぎ。
ついでに謙信は自分の都合で関東の豪族を裏切って北条と同盟したり
織田家と同盟時に、共通の敵扱いだった一向宗と信長に連絡無く和睦
したりと割と好き勝手する人間だぞ。
0307人間七七四年
2007/07/28(土) 00:10:35ID:ID/AXti8@早期の三・遠・駿の確保か、あるいはA織田との同盟非破棄か、2つだけだったのではないかということ。
どっちかにするならわかるけど、信玄坊主は、2つとも中途半端に手をつける結果になった。
早期の駿河進出がそこまで不可能かつ非現実的な案なのであれば、そのオプションは捨てても良い。
仮に晩年に駿河を得たにせよ、さらに織田勢力と戦争状態に入ってしまったのは、この点で中途半端。
信玄坊主がまだ若ければ冒険してもよいのかもしれない。
しかし、すでに平均寿命に近いにもかかわらず、死後の火種を残すようなことをしなけれよかった。
だって、ここが一番引っかかるところなのだが、武田兵が一度の遠征で織田中枢を破壊できるはずがない。
豪族の農兵に依存しているし、補給線も伸びきるので、複数年にわたって、繰り返し遠征が必要になるのでは?
繰り返してしまうが、信玄死後、武田は時間の経過と共に織田に差をつけられる運命を背負い込んでしまった。
そのため、織田と修復不可能な敵対関係にある限りは、常に戦いを仕掛けることを強いられることになるのだ。
国力的にも限界なので、国内の豪族・農民をかなり酷使することになるだろう。よって国力はさらに開く。
これでは、時間がたつだけ悪循環になる。
戦略上のフリーハンドは完全に失われ、滅亡を待つばかりだ。
長篠については、いろいろ言われるが、敗戦の遠因にあるのは、この焦燥感だと思える。
なぜ、名君信玄坊主が、このように戦略上修復できない制約を課すことを選んだのか、まったく理解に苦しむ。
そこまでリスクを冒して天下したければ、もっと早期から徹底的に動けばよかったと思うのは、俺だけでないはず。
信玄がベストの道を歩んだかというと、俺は賛成はできない。
こう考えると、武田、あと上杉もそうだが、地理上の制約が戦略の幅を宿命的なまでに狭めているな。
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