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当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年2007/06/08(金) 17:33:55ID:P1ntm8y4
なかったので立てた
鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。
0830人間七七四年2011/10/20(木) 18:37:43.24ID:gP5/Eeay
(=゚ω゚)ノしょーばいしょうーばいみりおーんスロット
0831人間七七四年2011/10/20(木) 18:50:56.04ID:5UaK7Pxg
>>827
そこまでわかってるなら、そのレベルで対応すればいいじゃないの?
ネット通販専門店と同じレベルの対応をしてほしいってのは単なる我儘だろ。

08328262011/10/20(木) 18:52:22.75ID:qJSg44ac
>>829
ありのまま起こったことを書いただけなんだけど・・・

ネット取引の手際の悪さは非常に不満だけど、
ちょっと擁護しとくと、
丸武の商品の価格や品質そのものには満足してる。
0833人間七七四年2011/10/20(木) 20:30:51.54ID:QrMhTkkH
田舎の食堂とかもそんなかんじだったw
昔ながらにのほほんとしてるのが、ファーストフードのサービスが標準になると
イライラさせられるはわからんでもない
0834人間七七四年2011/10/20(木) 22:07:10.98ID:H9rP6veR
>>831
我儘って何だよw
消費者が当たり前の対応を求めることがワガママか??

826みたいに愚痴りながらも3度も利用してるって人は「分かってる」のかもしれないが、
少なくとも初見の人は、そこまで対応がアレなら怒ると思う。
2度と買わないと言われてもおかしくないレベル。

自社サイトだけでカタログ乗っけていて、「詳細はお問い合わせください」のような業者ならともかく、
楽天とヤフーのモールにも出店していて、
それぞれのアカウントと決済システムで買い物ができるようになっている以上、
利用者からすれば、そこらの数あるネット通販サイトと比べてまぁ平均的な水準を期待するよね。

0835人間七七四年2011/10/21(金) 02:38:32.92ID:v20hA5oq
(=゚ω゚)ノ何を作ってるんでしょーか?
0836人間七七四年2011/10/21(金) 04:32:48.12ID:OImjUzlw
>>834
それはお前の勝手な思い込みだ。
満足できなきゃ自分が満足するショップで買えよ。
丸武が品物卸してる店は他にもあるだろ。
それとも中華からでも買うか?
一度中華とコンタクト取れば、丸武のサービスが神対応に思えるようになるぞw
0837人間七七四年2011/10/21(金) 14:02:23.67ID:lGjBBHpz
>>834
お前が文句をいうのは勝手だが、ショップがどんな商売の仕方をするかもショップの勝手だ。
ショップが消費者に「買ってもらっている」のと同じように、お前もショップから「売ってもらっている」んだよ。

消費者絶対が通るのは、多種類大量生産の品物だけだ。
0838人間七七四年2011/10/23(日) 00:22:42.40ID:p4SRHupG
ebayの中国人達からはまだハズレくじ引いてないなw
梱包はよくない
0839人間七七四年2011/10/23(日) 00:52:50.73ID:9k2yPkAg
http://page19.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x189495620

この業者、出しては売れてるみたいだけど、モノはどうなの?

しばらく前からちょっと注目してるが、
大体同じ形の当世具足の色違い、模様違いを、常に2品ぐらいずつ出品してて、
だいたい8〜10万で落札されている模様。
丸武の一番安い当世具足で16万円だから、それより安い感じだけど、どうだろう?

こいつも中華業者なの?
0840人間七七四年2011/10/23(日) 06:10:27.52ID:zZpsweLj
思いっ糞中華
評価のコメントが自演臭くて噴いた
一桁評価で「迅速に〜」って書いてるのはほとんどサクラだろ
ストア登録してあるから自演で吊り上げ入札かけても問題無いしね
0841人間七七四年2011/10/24(月) 19:22:32.22ID:fPmSdNPS
着るの興味ないから、精巧に作ってあってペットボトル位の大きさだったらいくつも買うのになー
コレクションしやすいし値段も抑えられるし。
0842人間七七四年2011/10/24(月) 23:14:25.87ID:cVqmns0x
それ欲しいな。何mlのペットボトルかにもよるけど
個人的には袖の無い具足に袖を付けたりとか余計なことはしないで、
出来る限り実物に忠実に再現してほしい
0843人間七七四年2011/10/25(火) 00:33:17.14ID:J5gpGsQx
んだんだ! どっかで実現してくれないかなー
0844人間七七四年2011/10/26(水) 00:06:37.17ID:okjgniG/
いつかyahoo知恵袋で「面頬はいつごろ発生しましたか?」という質問に対して
「当世具足が普及した安土桃山時代からです。」という回答がベストアンサーに選ばれてて笑ってしまった
目の下頬も総面も室町時代からあるっつーのw
0845人間七七四年2011/10/26(水) 00:37:30.29ID:s8JJui4J
>>844
更に幅広く「面具」としてみるなら、当時の遺物はないものの平安末にはすでに半首が登場していたしな。
0846人間七七四年2011/10/26(水) 00:47:01.06ID:okjgniG/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1446462874
探したらあっさり見つかった。この口ぶりだと質問者の言う「面頬」は目の下頬や総面のことなんだろうね
しかしこのベストアンサー、当世袖が小具足の一つだとも言っちゃってるし
残念な点が目立つな
0847人間七七四年2011/10/26(水) 04:45:10.60ID:WB2fppzI
古墳時代に面具なかったっけ?
0848人間七七四年2011/10/26(水) 07:07:27.45ID:Te9vx37F
室町末期と戦国時代・安土桃山は被ってるからな
質問・回答者がどの年代をイメージしてるのかが分からんとなんとも言えん
0849人間七七四年2011/10/26(水) 07:27:50.63ID:jzNawpdx
面頬は、実際に使われていたんだろうか。ヨーロッパの場合、16,7世紀ごろになると、バイザーのついた兜はあまり使われなくなる。鉄砲の弾は防ぎきれないから、顔面をオープンにして視界を良くし、物音を聞きやすくする方を選んだ。
日本の場合、面頬はひもで固定するので容易に着脱できない。顔面を保護されているという安心感はあるにせよマイナス面も多い。
鎧を道具として飾る時に、面頬があった方が様になるという理由で付いているだけではないか。
ちなみに武闘派で知られる黒田長政は、国内や朝鮮半島でも敵と直接刃を交えることも多かったが、面頬を用いないのが流儀だった。今日残される具足にも面頬は含まれず、有名な肖像画でも喉輪すら着用していない。
0850人間七七四年2011/10/26(水) 07:59:14.04ID:JF5GqA/T
>>849
>>754

0851人間七七四年2011/10/26(水) 14:18:20.76ID:okjgniG/
>>849
面頬は目の下頬と総面だけじゃない

http://www.kinokuniya.tv/images/mask/c056_2.jpg
↑両頬と顎のみを守るつばくろ頬(目の下頬の鼻がない感じ)

http://pichiska.sakura.ne.jp/jonhadi/sr2_bbs/sr2_bbs_img/8_1.jpg
↑顎のみを守る越中頬などもある

むしろ実戦期にはこうした半頬タイプが主流であったと思われる
しかしフロイスや明・朝鮮人も言及しているように、顔の大部分を覆うタイプを付けた鎧武者も結構いた
内藤昌豊や山内一豊が総面を着用していたという記録もある
江戸時代になると実用よりも飾り栄えが重視されたため
凝った意匠の目の下頬や総面が流行したという点は君が指摘した通りである
0852人間七七四年2011/10/26(水) 22:13:54.39ID:s8JJui4J
面頬などの小具足は年月の流れの中で散逸しやすい傾向にある。
昔の家宝目録に記載されていても、現在は臑当や脇引などが欠けていることは割とあるし、
徳川将軍家においてすら、二代秀忠所用の茶糸威胴具足は兜が伝わっていないのであるから、
面頬が今はないからといって当初から備えていなかったとも言い切れない。
肖像画に関しても、後世に自分の面影を伝えるなどの目的で顔をはっきりさせたいという思惑から、
実際の格好と違い、あえて素顔を晒した状態にして描かせたことも考えられる。
0853人間七七四年2011/10/26(水) 23:28:03.07ID:lIlkeA3o
>>851
大河ドラマだと半頬タイプが主流だな。
俳優の顔が見えないとどうしようもないからな。
0854人間七七四年2011/10/26(水) 23:41:19.42ID:s8JJui4J
>>853
最近の大河は半頬すら付けていないことが多いよ(「独眼流政宗」の時にはわずかに見られた)。
主役やレギュラー陣が辛うじて喉輪をしてるかどうかだな。

ドラマでの面頬着用よりも気になるのが、時代祭りなどで兜を阿弥陀に被ってる人間が多いこと多いこと。
視界を確保したいのか、帽子と同じ感覚で被ってるのか知らんが、
内兜ががら空きになっているとかっこ悪いし危険。それに兜の重さが後方に傾くので余計に首が疲れる。
演武を行うなら尚更。模造品でも武器の先が顔に当たるおそれを考えて目深に被らなきゃならん。
0855人間七七四年2011/10/27(木) 09:45:41.04ID:VgLzmP2A
俺の場合頭がでかくて、普段使っているバイク用のヘルメットもアライの最大サイズ。
歴史イベントの貸し出し甲冑の兜が深くかぶれなかったことはある。
浅く、あみだにしかかぶれなかった。
0856人間七七四年2011/10/27(木) 21:11:29.78ID:k+fR208E
兜は眉庇で正面の視界が隠れるくらい深く被るもんだよな。
上から俯瞰できる騎馬武者なら、それで視界は十分確保できる。
イギリスの近衛騎兵のヘルメットも同様に深く被ってるね。
0857人間七七四年2011/10/27(木) 21:27:46.24ID:k+fR208E
>>849
日本では鉄砲からの防御の為、面頬がより普及したと言われる事が多いが、どうなんだろう。

戦国中期においては北条の軍役帳では馬上の者は面頬の装備が義務付けられていて、
武田の天正4年の軍役定書には、馬上は面頬と喉輪を身につけること、
そして長柄、鉄砲、弓といった歩衆は兜に喉輪は身に着けるが、面頬の装備は書いていない。
0858人間七七四年2011/10/27(木) 23:10:48.33ID:QTTAtWIp
長柄や鉄砲、弓みたいな足軽にまで頬当を装着させる経済的余裕がなかったんだと思う
御貸具足自体がお粗末なものだし
0859人間七七四年2011/10/31(月) 21:00:56.01ID:NGbIEoue
足軽の長槍は、先が撓うために目標を正確につくことができない。槍襖を作って相手の進撃を止めたり、上からたたいたりして用いる。
これに対して上級の武士が持つ手鑓は、せいぜい3メートルくらいで長さが短く、重量も軽いからコントロールしやすく、訓練を積めば目標を正確に突くことができる。
それでも甲冑を貫くことは難しいから、相手の甲冑の隙間を狙うことになる。この隙間をなくすことが面頬や喉輪の役割だったのではないだろうか。
とすれば、もともと重武装でもない隙間だらけの格好で、手鑓を持った敵と対峙することを想定していない足軽が、それらをつけないのは当然。
0860人間七七四年2011/10/31(月) 22:35:49.54ID:CERMI1Ly
足軽に面頬はないよな・・・
兜に面頬の足軽はいまだかつて聞いたことがない。
陣笠に面頬のシュールな足軽って歴史上存在したのかなw
0861人間七七四年2011/10/31(月) 23:17:00.79ID:JyUrtS7q
>陣笠に面頬のシュールな足軽
なんかそれイスンシンの朝鮮ドラマで見たぞ
目の下頬完備の足軽軍団が火縄銃を連発銃のように連射してたw
0862人間七七四年2011/11/01(火) 00:06:36.37ID:ZkK8kOvj
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1334961983
映画「天と地と」では海外ロケで現地人エキストラを雇ったため、
顔が露出すると都合が悪いので足軽にいたるまで面頬を着けさせたんだって。
映画作品としては面白いが史実では絶対にありえなかった光景だな。
0863人間七七四年2011/11/01(火) 00:19:33.18ID:WyVnpUtf
貸具足ではせいぜい頬当がいいところ
>>862
カナディアンマンってバレちゃうしwww
08648622011/11/01(火) 00:24:14.78ID:ZkK8kOvj
追伸。当世具足が出現し、統一した軍装をそろえるという発想が一般化する前の
室町末〜桃山初あたりの戦場では、適当に入手したり配布されたりした頬当や喉輪を着けて、
頭や首を防護していた下級兵士はそれなりにいただろう。
宣教師の記録によれば、日本人は喉輪やシコロ程度を付けていても武装したとみなされていたようだし。

また、遺品はほとんどないが、鉢巻に横長の鉄板を縫い付けた額鉄(ひたいがね、後世の鉢鉄の前身か)
という簡易防具も使われていた。
ただ、頬当や額鉄は、兜を持てない足軽にとっては顔面よりもあくまで頭部を守るためのものであったと思われる。

江戸期に入って軍規の整備が進み、武士の階層が固定化して以降、平の足軽が面頬を装備することはなくなった。
0865人間七七四年2011/11/01(火) 05:12:17.84ID:PlXHPQeO
そういえば黒沢映画「七人の侍」で三船敏郎演じる菊千代は、周囲に鎖を垂らした兜の鉢をかぶっていた場面もあったが、最後の決戦のでは頭部には「はつぶり」(字失念)をつけただけだった。額の部分を守るのには有効だったと思われる。
最後の場面で兜を用いなかったのは、天辺の穴から髷を出せないためしっかり固定できず、撮影の激しい動きに対応できなかったからだろう。
ところで、この時小道具として用いた兜の鉢は、某有名画家が所有していた平安期の本物で、文化財指定された物、と読んだだ記憶があるのだが、現在調べても該当するものがない。映像を見る限りそれらしい物で、平安期のものと言うのは真実らしく思える。
0866人間七七四年2011/11/01(火) 15:35:59.23ID:JnbdnHSC
http://2.bp.blogspot.com/_IRgk1OdXjNY/THBZ90HcWpI/AAAAAAAABx0/w3SqXkspjks/s1600/13.jpg

↑現在ロンドン塔に所蔵されている
徳川秀忠がジェームズ1世に送った胴丸が好きだな。色合いが綺麗
これって実際に秀忠が着用したことはあるんだろうか
それとも贈答用に新しく作られたもの?
0867人間七七四年2011/11/01(火) 16:36:35.11ID:KGcMnF1n
>>866 徳川美術館(名古屋)蔵の、花色日の丸縅胴丸具足に細部の特徴が良く似ている。これは、かつては秀吉のものと言われたが、現在では家康のものと判明している。
家康の鎧は奈良の岩井が作っていたから、この秀忠のものも岩井の作だろう。日の丸縅と同時期に一連の作として作られたのではないか。
家康のものは大坂夏の陣に用いたとの説があり、これが正しいとすれば秀忠の方も夏の陣に用いた可能性がある。
しかし、実戦に使用すれば汚れるはずで、そのようなものを贈答品に用いたかは疑問もある。
0868人間七七四年2011/11/01(火) 16:41:20.60ID:R8ebT6iE
大阪夏の陣では、少なくとも家康は一度も武装していなかったはず
0869人間七七四年2011/11/01(火) 17:05:42.88ID:TwUrGR+G
>>865
七人の侍の重文クラスの鎧って敵の大将が着てるやつかと思った
0870人間七七四年2011/11/01(火) 18:17:30.81ID:zYJjO1p1
>>868 甲冑を身につけることはしなくても、武家のたしなみとして、陣中、甲冑はつねに身辺においていたと思われる。
0871人間七七四年2011/11/01(火) 20:36:05.54ID:JnbdnHSC
>>867
言われてみれば確かに似てるな、
と思って調べてみたら海外サイトで詳しい情報を見つけた↓
http://www.heritage-images.com/Preview/PreviewPage.aspx?id=1197058&pricing=true&licenseType=RM
秀忠が贈った胴丸は1610年、Iwai Yozaemonの作だそうだ
0872人間七七四年2011/11/02(水) 06:00:39.76ID:5IMCi9fo
水戸東照宮にある総毛引紅糸縅胴丸具足も、似たような作り。こちらも岩井与左衛門の作。与左衛門は今日流にいえば、多くの職人組織する甲冑プロデューサーで、自身は職人ではなかったようだ。
家康は壮年期には南蛮甲冑など、新しいもの用いたが、晩年は伝統的な毛引縅、大袖付きの胴丸具足に回帰したことがわかる。
0873人間七七四年2011/11/02(水) 17:26:01.45ID:iqOMclv6
端的に言えば「武家の棟梁」にそういうものが求められた、ということだろうな
0874人間七七四年2011/11/04(金) 11:29:34.53ID:BD+2F0HJ
>>865
「はつぶり」の漢字表記は「半首」もしくは「半頭」。
「七人の侍」で菊千代が被っていた鎖シコロ付きの星兜は、
平安期の本歌を基にして甲冑師の明珍宗恭(今年の1月に死去)が製作したもの。
江戸期のものならまだしも、動きの激しい映画の撮影に本物の中世甲冑を使えるわけがない。
ただし、そのモデルについては特定しがたい。がんばって調べてくれ。

>>866-868
>>870-873
岩井与左衛門が製作を監修し(兜のシコロの裏に朱書き銘が入っている)、
徳川将軍から海外君主に贈呈されたとされる具足は、
現在イギリスに2領、フランスに4領、オーストリアに1領が伝わっているが、
いずれも日本国内にある日の丸紋柄威胴具足(徳川美術館)、紅糸威胴具足(水戸東照宮)と
ほぼ同様の作りこみである。共通点としては、
・鍬形台を打った阿古陀形筋兜に目の下頬
・大袖付きの毛引威本小札丸胴
・筒籠手に筒臑当、佩楯はばらつきがあるが板佩楯が多い
・金銀蒔絵を金具廻や小具足に施す
といったようなことが挙げられる。
興味深いのは、徳川家一門の所用するものには葵紋を入れた金物が打たれているのに対し、
贈呈された具足については葵紋が使われていないどころか別の紋が入っているのである。
これは既製品を再生して一領に仕立てていたと考えられるが、
いかなる意図があってこのような方針をとったのかは不詳である。
宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』にもっと詳しい調査報告が載っているので、
興味がある人はそちらを読んでほしい。
0875人間七七四年2011/11/04(金) 20:44:22.64ID:50eGmW8B
徳川美術館の日の丸紋柄縅胴丸には、葵の紋は入っていない。それが長らく秀吉のものと誤解されていた理由。
そのかわり籠手や脛当てに菊、桐、巴、をはじめとして何種類もの紋が散らされている。
徳川美術館の熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず。
葵の紋が入っているのは上田博物館にある松平信一のものくらいのもの。
これはもともと家康のものであったが、紋柄縅で葵の紋を出している他、金物にも葵の紋が散らしてある。
その他、家紋が入っているのは尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴くらいではないか。これは珍しく前田又左衛門と名前まで入っている。
赤穂大石神社森長可の伊予札胴乃金物に入るはの桐紋で、鶴丸ではない。
家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか。
0876人間七七四年2011/11/05(土) 00:37:34.19ID:C2XLGN4K
>>875
徳川家用の甲冑には必ず葵紋が入っているとまで言い切るつもりはないが、
あれだけ海外に贈られた具足には一つも入っていないというのも不思議な感じがする。
>>熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず
熊毛植の方は調べていないのでわからないが、羊歯具足の方には、シコロの鉢付鋲などに葵紋が入れられている。
また、
>>尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴
は、胴の形状や弾痕からして、江戸初期に流行した試し胴であり、古く見ても利常の代が上限に見える。
「前田又左衛門」の銘切りは後世による伝来の付加の一環で行われたのではないか。
>>森長可の伊予札胴の金物に入るのは桐紋
桐紋が当時権威性の高いものだったという前提で考えると、長可の伊予札胴は目上の者から下されたものという可能性が高い。
そうであれば、自分の紋に変えたりすることなくそのまま使用するのが普通だろう。
この場合、長可にこの胴をあげたのは信長か秀吉ということになるが、作域に新しい特徴が見られるので、
実際は忠政所用だったかもしれない。
>>家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか
家紋ではなく紋様として好まれたデザインは多々あり、多くの現存甲冑にも取り入れられているが、
どう見ても一般的ではなく、家紋としか考えられない紋を付けた最古の例は、
鎌倉時代の遺品にもある(鶴嶺神社の赤糸威大鎧は十字紋の裾金物を打つ)。
それ以来連綿と続き、多少特別な意味合いを帯びることはあってもとりわけ特異な行為ではなかったと思える。
もちろん、オーダーでないレディメイドの量産品(近世の一部の御貸具足を除く)には、
最初は特定の家紋が付くことはなかったろう。
0877人間七七四年2011/11/08(火) 10:00:57.14ID:apqPjTEG
http://blogs.yahoo.co.jp/kbqbh446/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg2.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2F11%2F30%2Fkbqbh446%2Ffolder%2F1043289%2Fimg_1043289_29235983_0%3F1313136434

笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった
大高城兵糧入れの時点で仏二枚胴具足があったらオーパーツになるんじゃないか?
革包の仏胴なら当時からすでにあったのかもしれないけど
0878人間七七四年2011/11/08(火) 10:05:11.38ID:apqPjTEG
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/11/30/kbqbh446/folder/1043289/img_1043289_29235983_0?1313136434
おっと、>>877のリンク見れないな。こっちを見てね
0879人間七七四年2011/11/08(火) 13:18:00.34ID:xcmwFD7E
>>877 この金陀美具足には、ほとんど同じ仕様で白檀塗りの具足がもう1領あるのも不思議。大身ならば替え具足を持っても不思議ではないが、この当時の家康(松平元康)はそれほどでもないし。
1550年代終わりの製作と考えるのは、確かにしっくりこないが、それとてこれといった根拠があってのことではない。
現在の久能山東照宮に来る前は、江戸城紅葉山文庫に羊歯具足などともに保管されていたこと、葵の紋をつけた豪華な蒔絵の具足櫃に入れられていること、あえて修理の手をいれていないこと、などから判断して、徳川家にとって特別な意味をもった具足であったことは事実。
0880人間七七四年2011/11/08(火) 23:13:18.81ID:zrUF6GdE
>>877
金陀美具足は、人によっては製作された年代を江戸前期(家康死後)に推定することもあるが、
個人的には上限を桃山期(関が原合戦の前後)に引き上げてもいいんじゃないかと思う。

桶狭間の合戦時に、形式が何であれ金をふんだんに使った甲冑を用意できるほどの
経済的余裕や地位が松平家にあったとは考えにくいし、『信長公記』中の元康の格好を、
金色の具足が朝日に照らされて赤く見えたのだろうと解釈するのには苦しさを覚える。
そうではなく最初から朱色を添えた鎧を使用していたのではないか。

静岡浅間神社には今川義元が調製させた家康着初めの鎧と伝わる小ぶりの腹巻が伝わるが、
これを用いていたのも否定できないだろう。一般的な腹巻に比べると、
少年用とあってサイズはやや小さめだが、幅の狭い本小札(奈良小札)を紅糸で毛引きに威し、
草摺を9間に割り、背中の引き合わせには背板を設けるといった入念な室町末期の作域で、
奈良の甲冑師による作品と見られる(かつては同作の袖・兜も付いていただろうが、いまは胴のみ)。
よって、この腹巻は、本来は今川氏真の元服鎧として作られたものを、
お下がりとして元康が頂いたとする説もある。
お古とはいえ今川家嫡男の品を義元が元康に与えたことは、
彼が松平家をどのように見ていたのかを考える上でもヒントになろう。
元康も元康で、義元が戦死するまでは今川家を離れようと思わなかったはずで、
戦陣に際しては厚遇の証として主から下された鎧を着て手柄を立てることを
考えていたとするのが人情としては自然だろう。
気がかりなのは元服から桶狭間まで成長期にあっただろう元康の体形だが、
そこは当時の栄養事情から、背丈はあまり変化しなかったとすれば間に合ったかもしれない。

ttp://www.youtube.com/watch?v=SR2U6nmP2as
↑紅糸威小腹巻(0:55前後から写真が登場。字幕では増善寺所蔵とあるが誤り)

うがった見方をすれば、青年期の元康の行動を隠蔽するために、
金陀美具足(家康存命中に作られたか、死後に幕府が製作させたかは不明だが)に、
改めて大高城兵糧入れの伝来を付加し、この腹巻を世間の耳目から遠ざけようとしたと考えられる。
世情の安定化と幕府による統治の正当化の一環として家康神君化が進められたわけだが、
反乱や下克上を否定する幕府にとっては、家康も若い頃に主家である今川に対して離反・敵対し、
駆逐している事実が非常に不都合な材料だったのである。
であるから、戦国の臭いを放ち、今川家の影をまとう腹巻を封じ、
見栄えのよい金陀美具足を掲げたと思うのだが・・・。
0881人間七七四年2011/11/09(水) 00:03:56.50ID:mf3WtZO+
うむ、納得できる解釈だな
俺も金陀美具足は作風からして桃山時代が一番しっくりくるのではないかと思う
そういや、家康少年時代の召領として後世に創作された金小札の童具足なんてのもあるよね
0882人間七七四年2011/11/10(木) 00:27:08.66ID:kbSqamA4
伊達政宗の黒漆五枚胴具足って、実物を見ると小鰭がかなり大きいんだな。
肩先に付いてる程度と思ったら、肩全体を覆うくらいだった。
大袖が省略された代わりに大きくしてるんだろう。
前立以外はほんとにシンプルで実用的だなー。元和偃武以降の甲冑と好対照だ。
0883人間七七四年2011/11/10(木) 01:14:24.16ID:lgxyTSMN
>>882
大仰な立物は戦闘時の邪魔になるように見えるが、
あの時期の武将の軍装は目だって何ぼの感覚が当たり前だったので、
あの弦月の前立だけだとむしろ控えめな印象を覚える。
陣羽織や指物などと合わせて効果的に演出していたのだろう。

実戦期の兜の立物は消耗品のコンセプトで製作されており、
素材には軽い木材や薄い金属が主に使用されているため、
武器や物が引っかかった時に壊れたり抜けたりしやすい作りになっている。

また、元和偃武をもって世の中の気分が穏やかになったわけではない。
実際は幕府の武断政治によって大名の改易が多発して大量の浪人が発生、
殺気立った雰囲気は家綱・綱吉の頃までなかなか落ち着かなかった。
大阪の陣より間は空くが島原の乱が起こっているし。
甲冑もこの時期までは緊迫した時勢を反映して実用を強く意識していた。
装飾が増えるようになるのは太平気分が広がった17世紀後期から。
0884人間七七四年2011/11/10(木) 01:59:59.47ID:kbSqamA4
>>883
黒田長政や加藤嘉明のイカ兜と比べればねw
弦月の前立はスペアもあって木製と革製だそう。
0885人間七七四年2011/11/10(木) 10:20:19.52ID:NGGLqTQ7
http://www.ermjp.com/kk/bun_nani/03-kjyubun/pickup/06-003/index.htm

因島水軍城所蔵の白紫緋糸段威腹巻って、もともとは小早川隆景の着領だったんだな
「一個人」12月号にそう書いてあってびっくりした(監修・文は笹間良彦氏の弟子、棟方武城)
村上吉亮の元服時に贈ったものと聞いていたからてっきり贈答用に新しく作らせた腹巻かと思ってた
0886人間七七四年2011/11/10(木) 13:12:16.20ID:9J4vksb/
腹巻は背中の部分が割れているから、体に密着させて着ても、その部分で動きを吸収できる。
体に密着していれば、重量が肩だけにかからず分散されるから、使い心地が胴丸などよりも良かったのではないだろうか。
背中部分に合わせ目があることは防御の面では不安があるが、それが腹巻の愛用された理由だと思う。
0887人間七七四年2011/11/11(金) 20:46:32.90ID:UkVilvAC
質問なんですが鎌倉時代や南北朝時代の小札や鉢が
そのまま当世具足などの後世の鎧に使われた例とかあるのでしょうか?
0888人間七七四年2011/11/11(金) 22:01:02.50ID:9CqoG5+O
>>887
古物を形を変えずに使うことはあったかもしれないが
(寺社に奉納されていた古い甲冑を後世の人間が引っ張り出して戦に赴いた話も伝え聞くから)、
現存品では時勢に合うように改造を施されたものが結果的には目立っている。
一例として、福島県の都々古別神社には、当世眉庇や脇立用の角元を付け直された鎌倉期の星兜鉢が残っている。
また、実用を離れた江戸中期の復古調甲冑にも、古い鉢や札を流用して大鎧や胴丸を仕立てた作品が散見される。
当たり前だが年代の上がるほど、甲冑は部品が離れたり破損したりしやすいので、
特に中世甲冑が完品で伝わるケースは稀である。
江戸期の当世具足の中に室町末期の兜鉢が使われていたりするとそれだけでも大変価値のあるものといえる。
0889人間七七四年2011/11/14(月) 20:03:09.62ID:B3i4s+oe
この週末に京都の丸武主催大甲冑展行ってみたが
やっぱりレプリカはレプリカだなあ
三斎着用甲冑は京都国立博物館で見た本物が草摺下二段に緋色ビロウドなのに
レプリカは草摺下一段だけ、後何故か袖にも貼ってある意味不明仕様
乗馬時に鞍との当たりを柔らかくするためって説明が本物にはあったが
レプリカには説明も当然なくただの色分けにしかなってねえ
出来が悪いとまで言うつもりはないが、本物の後に見ると感動がないな
0890人間七七四年2011/11/14(月) 20:59:00.91ID:chseaMsY
>>889
拙者は大甲冑展の武者行列のほうに参加してたでござる
行列といっても、みやこめっせから平安神宮までの数百メートルの間だけど。

平安神宮には七五三の子供たちがいっぱいで、我々と一緒に写真撮影していった。
0891人間七七四年2011/11/15(火) 15:23:32.23ID:4s2yEod3
>>877
>笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった

例えば直江兼続の「愛」の甲冑にも(胴についての)異議は述べてないわけだが・・・
だからといって気づかなかったわけじゃあない。
所蔵者の神社や旧大名家ではそういう建前なんだから、あえて言わないだけってのも多いよ。

それを言っちゃうと出入り禁止ってとこも実際にある。
所有先が公的な博物館に移ったりすると、そこらへんも問題なく発言できるようになるけどね。
0892人間七七四年2011/11/15(火) 23:39:40.46ID:dQ7iwkUr
>>891
いや、それがどの本だったか、異議を唱えていないだけならまだしも
「人質時代にこんな高価な具足を新調した家臣の苦労が偲ばれる」みたいに書いてたので
本心から伝来を信じているように思えた
そりゃまあ、あの時代には絶対に仏二枚胴などなかったと断定するつもりはないけど
0893人間七七四年2011/11/18(金) 07:45:36.64ID:qMcLxmtL
>>890
よう同胞、お疲れ様でした。
まさか兜被ったまま本殿に入れるとは思わなかった。
0894人間七七四年2011/11/18(金) 13:20:18.23ID:8EvC3yus
兜かぶったまま本殿に入るのはいけないことなの?
0895人間七七四年2011/11/20(日) 22:38:16.48ID:o2Canb1U
宣伝というわけじゃないが、
12月11日まで靖国神社遊就館で館蔵の刀剣や甲冑が特別展で公開されてるよ。
非常に面白いし、展示品の質もよいので東京近郊に住んでる人は見に行くといい。
それとも、ここに書き込んでる人はもう知ってるか。
0896人間七七四年2011/11/25(金) 13:29:22.52ID:1WUSyaqZ
巡回しないかな
0897人間七七四年2011/11/25(金) 20:26:33.36ID:9qoOW++I
江戸時代以前、甲冑は関東でしか製造されていなかったと読んだんですが本当ですか?
0898人間七七四年2011/11/25(金) 20:59:06.65ID:qiEUe5HK
>>897
それ何て本に書いてあったの?事実誤認もはなはだしいね。
確かに室町末期ごろから地方での生産が目立ち始め、
とりわけ関東地方では五枚胴が登場するなどの特色が現れるけど、
それでも近世に入るまで日本の甲冑生産第一位は奈良で、次に京都・大坂が来る。
徳川幕府が開かれると新たに江戸が加わるんだけどね。
学術専門書だけど、宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』に詳しい研究報告が載ってるよ。
0899人間七七四年2011/11/26(土) 04:13:17.11ID:uGTmdInH
てか単純に考えて、江戸時代以前の日本の中心は西だろうに…
洛中洛外図なんかにも鎧師の絵があるよね
0900聖徳太子2011/11/29(火) 12:02:19.03ID:opS95nw7
はじめましていきなりですがいろいろなよろい画像がほしいですできればここに貼り付けてくださいおねがいします皆さんほだれのよろいがいちばんすきですか

0901人間七七四年2011/11/29(火) 14:44:25.23ID:x7Zg+wg7
>>900
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A2%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%84&oe=utf-8&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=904&bih=711&sei=MXHUTtr-JZDDmQXP-ZiDAQ
0902人間七七四年2011/11/30(水) 23:58:28.33ID:3Vy2W7CY
小ネタ投下。兜の忍緒の締め方。
ttp://www.youtube.com/watch?v=qXRlFprj9Go

忍緒を蝶結びで締めると安定性が悪いし、余った端の先がぶらぶらしてダサいし、
物に引っかかったり敵につかまれたりしてろくなことがないのできっちり締めましょう。
ちなみに解説してる人は現役甲冑師の三浦公法氏。日甲研の常務理事で、数多くの作品を修復・製作してきた方。
お兄さんの三浦権利氏も西洋甲冑師として有名である。
0903人間七七四年2011/12/01(木) 00:50:54.95ID:qfD31S6s
>>898-899
本じゃなくてとある掲示板の書き込みです。どう考えてもおかしいと思ったんですがやっぱりデタラメだったみたいですね。ありがとうございました。
0904人間七七四年2011/12/01(木) 09:48:56.36ID:BfiLUcmK
>>902
へー顎にかけるのは間違いなんだ
0905人間七七四年2011/12/03(土) 20:21:49.33ID:eG0+9E7O
鎧の歴史
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1314345476/624-633n
[632:世界@名無史さん≪sage≫ (2011/12/03(土) 17:59:38.34 0) AA]
>>630
モンゴルと満州とトルコとチベットが抜けてる
1.中国
2.日本
3.モンゴル
4.トルコ
5.満州
6.チベット
7.朝鮮
0906人間七七四年2011/12/06(火) 14:52:35.66ID:RJU0+cCS
>>905
そういう無知蒙昧なスレを貼られても困る
0907人間七七四年2011/12/07(水) 11:36:38.89ID:jWxabXk1
草摺の裾板のことを睾丸隠といふ
0908人間七七四年2011/12/09(金) 19:11:18.19ID:Lq7veLW8
何となく思ったんだが当世具足の配色に地方ごとの流行とかあるのかな?
0909人間七七四年2011/12/10(土) 02:05:41.12ID:xYw26WVe
16世紀の終わりごろ、黒糸縅の一大ブームがあって、盛んに作られた。それまでの「黒」は何度も繰り返して染めた藍色のことで、本当の黒ではなかったが、この頃、八幡黒(はちまんぐろ)と呼ばれる本当の黒色の染が生れた。
しかし、この染料の成分に絹糸を犯す成分が含まれており、糸が傷みやすいという欠点があった。家康が家臣たちに使用は好ましくないとお触れを出したが、流行は止まらなかった。
近代以後に修理される場合は、この八幡黒の縅は紺糸縅や茶縅に置き換えられていることが多い。化学染料を使えば絹糸を安全に黒く染めることも可能だが、当時とは異なった素材を使うことを避けるためにこうなる。
家康自身の物も大半が八幡黒。井伊や本多の物も、現在は紺や茶縅だが、オリジナルは八幡黒。家康の大高城兵糧入れの金陀美具足は、修理を禁止されていたのでボロボロの黒糸縅のまま。
この八幡黒は、京都の男山八幡近くで行われていた染なので、地方にはあまり用いられなかったと思われる。
0910人間七七四年2011/12/10(土) 11:00:21.96ID:U5XJc8Mf
その頃の黒は鉄媒染で糸を染めるんだよね。
刀も武用の柄巻きには黒は使うなという言い伝えがあるけど、
これも繊維が傷むのを嫌ったのが理由だと思う。
想像だけど、忍者が黒い服を着ないというのもまた同じ理由からなんじゃないかな。
0911人間七七四年2011/12/10(土) 21:50:51.76ID:e6e7O1UW
中国コピー商品のサムライコレクションがオープン

http://samurai-collection.jp/
0912人間七七四年2011/12/15(木) 10:17:43.90ID:hEMX5XDc
>>909
「八幡黒」の読みは「やわたぐろ」が正しいはずだが。
八幡黒の染料は五倍子(ふし)というヌルデの木にできる虫こぶ。
黒色の主成分は五倍子に含まれるタンニンで、
鉄気を多く含ませた水を媒染剤にして色を固定させることから劣化の具合が早いとされる。
『雑兵物語』にも「鎧の威糸に黒糸はよくない」と書いた一節があったような。
実は、五倍子と鉄水はお歯黒によく使われていた組み合わせであり、
お歯黒をヒントにして八幡黒が生まれたのかもしれない。

また、材料は違うが京都・吉岡憲法染のヤマモモと鉄媒染による黒染めや、
シャリンバイの材と泥土で色を付ける大島紬も、
タンニンを鉄で生地に固着させるという点では八幡黒と仕組みが同じである。
0913人間七七四年2011/12/16(金) 11:12:10.94ID:WZ5y2AkM
>>911
しっかしいつ見てもひどいクオリティの商品だな。
そのくせ偉そうな価格ばかり並んでいるんだから笑ってしまうよ。
中国製なら丸武よりも安く抑えてアピールすりゃいいと思うんだがなあ。
ギャラリーに甲冑購入者の家の写真が出てるが、成金趣味がにじみ出ている。
金はあるが物を知らない連中をターゲットにしてるということでいいんだな。

みんなはここから絶対に買うなよ!
0914人間七七四年2011/12/20(火) 10:30:50.38ID:JcmldS7j
そういや家紋を兜の前立にするのは江戸時代になってからって聞いたことあるけど
確かに安土桃山時代の遺品では見た記憶ないな
このイラストみたいに島津義弘が丸に十文字の前立を付けているのは時代的におかしいことなんだろうか

http://blog-imgs-30.fc2.com/r/o/u/route123/rekishikaidou.jpg
0915人間七七四年2011/12/20(火) 12:04:29.44ID:VABmyP1z
>>914
信長は?
0916人間七七四年2011/12/20(火) 12:28:49.75ID:JcmldS7j
信長のあの具足は後世の新調・補修がはなはだしく
江戸中期の新作と言っても差し支えない程らしい
木瓜の前立も後補だと思うよ
0917人間七七四年2011/12/20(火) 12:44:28.58ID:yFbvbJOJ
家康の歯朶具足の前立に輪貫があるが、輪貫は徳川家の合印なんだよね
0918人間七七四年2011/12/20(火) 13:51:53.81ID:R0dof5wQ
>>916 あの具足は江戸時代のものだが、ずいぶん昔、京都の国立博物館で同じような木瓜紋を前立につけた胴丸を見た記憶がある。
もちろん建勲神社の物とは別物で、室町後期の由緒正しい紺糸縅の胴丸。どこのものかは説明がなかったが、説明がないということは京都博物館の所有だったのかもしれない。
鍬形の間に入る形の前立で、建勲神社のものと同じ方式。前立だけが後世の作と言うことはあり得ると思うけれど。
0919人間七七四年2011/12/20(火) 21:47:02.71ID:DfnyYRDq
>>914
室町末期まで、鍬形の中央に付ける立物は、遺品・肖像・合戦絵巻などから推測するに、
利剣を立てて三鍬形とするか、鏡や笠印などを挿すのが一般的だったとされる。
家紋をあしらったもので、当時に作られたと言えるものは現在も発見されていない。
消耗品ゆえに消え去ってしまったとも考えられるが、文献や絵画にもそれらしき記録が見当たらないため、
そもそも作られていなかったのではないかという説が有力。
ただ、断っておくと、胴や袖、シコロに打つ八双鋲などに家紋としか考えられない図案を用いた例は結構ある。

また、徳川家の輪貫、仙台藩の八日月、加賀藩の猪目、高槻藩の二等辺三角形などの合印は家中のシンボルとはなりえても、家紋ではない。

>>918
伝・織田信長所用の紺糸威胴丸具足は、所蔵者はあくまでも建勲神社で、京博に寄託しているのが実情。
あれは江戸期の復古調甲冑だが、研究の進んだ後期に作られたと見られ、作域の水準は高いほうである。
ただし他にも同じくらいのできばえの復古調鎧はいくらでもあり、この具足が室町時代のものとして重文指定されてしまったことは、
いくら昔(1954年)のこととはいえ、文化庁のミスであるといわざるを得ない。
笹間良彦氏は小札の不揃いな箇所があると指摘し、古物を仕立て直したものとしている。
ここでもう一つ、あまり指摘されていないことだが、兜のシコロが江戸期の方法で作られていることが、時代の新しい証拠である。
中世末まで、本小札のシコロは、両端をひねり返して吹き返しを形成するのが定法だった。
甲冑の当世具足化が進んだ桃山・江戸初期には吹き返しが更に形骸化して小さくなり、省略されることになるのは周知の通りだが、
江戸中期以降に甲冑が太平の気分を受けて加飾化が進むと、再び吹き返しが飾りのパーツとして大型化する。
この江戸期の吹き返しは、原則としてシコロとは別に製作してから兜に取り付けるため、
ここで中世の本歌か復古調かを見分ける一つのポイントになることがある。残念ながら信長の紺糸威の兜は該当してしまうため、江戸期の作である。
0920人間七七四年2011/12/20(火) 23:16:14.97ID:JcmldS7j
>>919
いつもながら詳しい解説ありがとう!すっきりしたわ
しかし信長の胴丸って江戸時代の完全新作だったのか
0921人間七七四年2011/12/29(木) 17:37:53.54ID:iU4f3JQZ
近所の小さい神社で大掃除やってて遠くであまり見えなかったが
一軒小屋のような神社でも鎧って奉納されてるんだな
何か丸武とかで作られたっぽい古風の胴丸だったけど
0922人間七七四年2012/01/08(日) 16:02:36.65ID:uEA8dVpF
年越し前の書き込みで止まってら
あけおめ 今年こそ良い年になりますように!
0923人間七七四年2012/01/18(水) 22:50:23.23ID:ZtKnQeWx
ttp://www.youtube.com/watch?v=QZ-19bH_qpM
三重県ローカルのケーブルテレビ局が作った歴史番組で、日本の甲冑特集の回。
最初はまあまあ見ることができたが、
5:10あたりで「小札」の読みを「こふだ」と言ったところから怪しくなっていく。
8:06の「吹返し」の説明も違う。兜の種類じゃなくてパーツの名前なのに。
8:14の「笠シコロ」になると出てくるのは日根野シコロ。しかもまた兜そのものとして解説しているし。
8:33からは伝・森田浄雲の具足が出てくるが、どう見ても室町末期までには持っていけない。
総革製で、札の威しも見た感じ粗雑なので、下手すりゃ幕末物かもしれん。
11:00から信長が南蛮甲冑を着たなんてのも確固たる証拠がない話。
12:30で紹介する復古調甲冑は更にいい加減な現代作という・・・。

結論としては、見たい人は見ればいい、ただし勉強のためにはあまりならない番組だった。
0924人間七七四年2012/01/19(木) 14:59:47.69ID:k3HnnNDr
こふだwwこれは恥ずかしいな
「胴丸鎧」のキャプションとともに出てくるものも全然胴丸鎧じゃないし・・・
ひょっとして胴丸鎧と胴丸を混同してるのか?
う〜ん、お粗末と言わざるを得ない出来だな・・・
専門家に監修してもらえばよかったのに
でも威糸を穴に通す作業を動画でちょっとだけ見れたのはよかった
0925人間七七四年2012/01/25(水) 10:38:17.90ID:mbox5SCO
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/vassal/nobu.jpg

長篠の戦で真田信綱が討ち死にしたときに着用していたという具足が信綱寺に保存されてるそうだ
桶側胴を黒漆で塗り込めた仏二枚胴なんだが、当時としてはかなり新しい様式なんじゃないか?
この頃の主流は従来からの胴丸・腹巻か、せいぜい伊予札の丸胴や最上胴丸くらいだろうし
0926人間七七四年2012/01/25(水) 15:56:39.74ID:cwGOV7jb
>>925 長篠の合戦は武田方の総敗北だったから、遺骸を埋葬して甲冑を持ちかえる余裕があったかは疑問。
付近の山に逃れた武田方の兵が、飢え死にしたとかいう話もあるように、戦いののちは織田、徳川軍がその付近を支配したから、武田の関係者が行動することが出来たとは思えない。
長久手の戦いでは、数的に劣勢であったために、勝った徳川方もすぐに兵を引いたから、戦場で森長可の首のない遺体を回収する余裕があり、討ち死に時に着用していたという甲冑が残るが。
0927人間七七四年2012/02/09(木) 22:32:26.10ID:AhF6hODa
草なぎ剛主演の「BALLAD 名もなき恋のうた」はそのくっさいタイトルはともかく、
時代考証や合戦のリアリティにこだわった映画だということで観てみた
確かに中盤の攻城シーンだけは見ごたえあったけど、
天正2年(1574年)という時代設定を考えると、劇中に登場する具足がどうも・・・

文禄・慶長期に発生したはずの日根野頭形兜を草なぎが被ってるし、
出てくる具足の胴も板物の二枚胴ばかり、足軽は完全に畳具足で統一。
これが中央の織田配下の軍装というならまだしも、小大名同士の田舎合戦の話だし・・・
出来ればそのへんも専門家を招いてしっかり再現してほしかったところ

まあNHKの大河ドラマでさえ、甲冑衣装は同じものをいろいろな時代に使いまわしてるんだから
贅沢な要求なのはわかってるけど・・・新調は金かかるんだろうなあ
0928人間七七四年2012/02/10(金) 14:30:00.50ID:LrdtfC7n
>>927
舞台設定は原作のクレしんにならっておそらく武蔵国のあたり、
ていうか今の春日部市周辺だろうから、甲冑の考証にこだわるなら
関東風を強く出した格好にすべきだろうね。
大名・城主レベルなら旧来の阿古陀兜と本小札の胴丸・腹巻に加えて、
新式の六十二間の筋・小星兜や最上胴・五枚胴を当てればいいんだろうけど、
足軽あたりにばらばらな武装をさせるのがかえって困難そう。
0929人間七七四年2012/02/19(日) 15:44:44.21ID:tvkq+E1g
ttp://bunkazai.ysn21.jp/bunkazai/detail.asp?mid=70093&pid=bs&shicyouson=指定無し&meisyou=色々威胴丸&shitei=all&kubun=指定無し&syurui=指定無し&jidai=指定無し&loopcnt=0
↑は岩国歴史美術館所蔵の色々威胴丸。伝来によれば安芸武田氏の最末期当主である光和の所用という。
光和の後1、2代で安芸の武田氏は滅び、光和の遺児・小三郎が毛利氏の下で周防武田氏を興すことになる。
幅の狭い奈良小札、10間の草摺、色々威、広袖という点が室町末期の甲冑であることを物語るが、
面白いことに、胸板に最上胴(胴丸か腹巻かは不明だが)の板札を再利用している。
写真が小さいのでわかりにくいが、うっすらと胸板に素懸威用の穴が見える。
もちろん当時は表面を絵革で包んでいたので使用する分には普通の胸板と変わりなかっただろう。
こうした部品の再利用は制作費の節約と考えるのが自然だが、総体に手の込んだ作域なのでどこまで効果があったのかは疑問。
0930人間七七四年2012/04/05(木) 02:16:14.04ID:59VVc1da
英語版wikiのJapanese armourの項目がめっちゃ凄いことになってるな
各形式どころか小具足の記事すら建っている
しかも貴重な写真も豊富だからありがたい
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。