トップページsengoku
981コメント435KB

当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2007/06/08(金) 17:33:55ID:P1ntm8y4
なかったので立てた
鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。
0729人間七七四年2011/09/13(火) 21:12:03.13ID:G/hdzBtq
本山一城氏は桃形兜を西洋のモリオン兜の模倣と断言してるけど、実際どうなんだろうか?
桃形兜って烏帽子形兜と同様、変わり兜としてはかなり古い部類に入るんだよな

西洋甲冑が輸入されたのは記録上では1588年が最初と聞いたが
望月家には永禄〜天正のはじめ頃の作と推定される桃形兜が残ってるし
0730人間七七四年2011/09/13(火) 22:32:07.85ID:YjRn5XR6
>>729
俺は桃形兜の源流は明・朝鮮の兵士の鉄兜にあるのではないかと思っている。
遺品が非常に少ないのでなんとも言いがたいが、
そもそも西洋兜は日本に持ち込まれた数が圧倒的に少ないし、
モリオンやキャバセットを真似て作られたという説は、
桃形兜が下級武士の簡易兜として発生した事実とはあまり整合性が感じられない。

なお、九州を中心に、西日本に初期の遺品が多く残っているという報告が最近なされている。
それを受けて、以下は全くの推論になるが、
おそらく同地を根拠地にしていた後期倭寇が、明・朝鮮の軍と交戦した結果、
敵の武装を参考にして開発させたのが桃形兜ではないかと思うようになった。
桃形兜は一般的に鉄板4枚を前後左右からはぎ合わせて作るが、
明や朝鮮の鉄兜も、若干製法は異なるが、4枚や2枚の鉄板から構成されるものが多いのだ。
たまたまそういう形にできた、ということもあるだろうが、
何かしら技術的学習や交流はあってもおかしくなかろう。
07317302011/09/13(火) 22:40:55.56ID:YjRn5XR6
>>730
俺の説(というかあて推量)の弱点は、明・朝鮮の兜から参考にしたというなら、
もっと早く、たとえば前期倭寇の全盛だった室町初めに登場しても
よかったのではないかという問いに対して適切な答えが出せないこと。
苦し紛れの答えをするなら、大陸・半島出身者が多かった後期倭寇の時期が桃形兜が
生まれるのに適していたということになるのだろうが。
0732人間七七四年2011/09/14(水) 18:14:06.55ID:TUPgm6zO
なんか外来兜からの思いつきや単に製作に手間のかからない兜を求めるなどして
各地で自然発生していったのではないかと思ってしまった
0733人間七七四年2011/09/14(水) 20:01:10.21ID:1XrBuVv2
ネットで見れる武者図のある絵巻一覧
後三年合戦絵巻 [e国宝]
ttp://www.emuseum.jp/detail/100319/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=209&num=3

平治物語絵巻「三条殿夜討の巻」 [bowdoin大学]
ttp://learn.bowdoin.edu/heijiscroll/

平治物語絵巻「六波羅行幸巻の巻」 [e国宝]
ttp://www.emuseum.jp/detail/100148/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=17&num=3

平治物語絵巻「六波羅合戦の巻」 [国際日本文化研究センター]
ttp://kikyo.nichibun.ac.jp/heijiemaki/html/

男衾三郎絵巻 [e国宝]
ttp://www.emuseum.jp/detail/100332?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=177&num=2&mode=detail¢ury=

蒙古襲来絵詞(トレス元はwiki)
ttp://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/index.html

その他色々
絵巻物データーベース [国際日本文化研究センター]
ttp://kikyo.nichibun.ac.jp/emakimono/
奈良絵本・絵巻の世界―武士の物語絵巻を読む― [明星大学]
ttp://ehon-emaki.meisei-u.ac.jp/

他にもあったら教えて欲しいです
0734人間七七四年2011/09/21(水) 15:31:56.74ID:l04czoiw
白井成樹氏の「武将 超リアル戦国武将イラストギャラリー100」を読んだ
よく描き込まれていてとても気に入ったんだけど、一つ疑問が

同書では明智光秀や浅井長政、池田恒興が本小札毛引威の二枚胴を着てるんだけど
時代的に考えづらいのでは?胴丸・腹巻ならともかく、
二枚胴で全面毛引威なんて江戸時代以降の様式かと思うんだが
0735人間七七四年2011/09/21(水) 16:48:57.14ID:0WiXwZJO
>>734
あれ信長が普通に南蛮具足で書かれているような本でしょ?つまりそういうことだよ。
書き込みという意味ではリアルなんだろうけど、史実的という意味でのリアルじゃない。
0736人間七七四年2011/09/21(水) 18:13:15.22ID:12noqNV2
>>734
>>735
写実的に正確なのと史実に即しているのがいつも両立するわけではないということだな。

昔の例で言えば、利剣の前立の兜を着けた榊原康政の肖像画と具足がある。
肖像画のせいで東博所蔵のあの竜の蒔絵の二枚胴具足が康政所用とされているが、
作域からして実際に総体が製作された年代の上限はせいぜい江戸中期という代物。
子孫が具足を作らせたか、どこかから購入した後に伝来を付け、
肖像を描かせて初代藩主の着料にでっち上げたのが実情だろう。
0737人間七七四年2011/09/22(木) 00:31:55.84ID:64OTd7he
本多忠勝所用と伝わる具足も本人のものじゃないんだっけ
もしかして肖像画に描かれた本物には本当に大袖が付属していたんだろうか
・・・いや、それはないか
0738人間七七四年2011/09/22(木) 11:57:58.04ID:yPQSH/T0
age
0739人間七七四年2011/09/22(木) 19:05:31.47ID:Tkc9+3Ov
二枚胴は、収縮性がない素材で胴を作るから必要。本小札や伊予札ならわざわざ蝶番をつけなくても押し開いて着用できるから、二枚胴にはしないだろう。
>>736 榊原康政のあの絵は、籠手を左にしかつけていない。室町以後では諸籠手が普通でだから写実ではない。
同様に、徳川美術館蔵の三方ヶ原敗戦時のしかめっつらをした家康像も片籠手。しかも身につけているのが古式の鎧直垂。
戦いの直後に描かせたといわれるが、写実ではない。画家が顔だけスケッチして、それをもとに後からまとめたとも考えられるが少なくとも衣装はフィクション。
07407362011/09/22(木) 19:33:26.94ID:5w+raVa0
>>739
確かにあの肖像の片籠手姿からは、復古志向の強まった江戸期に描かれたと考えるのが穏当だろう。
指摘の通り、家康のしかめ面の絵も衣装が当時の格好を反映しておらず、古式過ぎる点から、
幕府による家康神格化の一環で後世に創作されたものといえる。

ぶっちゃけた話、江戸太平期に描かれた武者絵なんてやつは、
現代の戦国無双やBASARAのキャラ絵並みの感覚で描かれたものばっかりである。
美術史研究の上では考察する意義はあるものの、甲冑そのものの研究には益するところは殆どない。
0741人間七七四年2011/09/24(土) 13:32:02.42ID:1Dec0BWW
テレビの戦国物の甲冑姿、喉輪を甲冑の上から着けているが、これはおかしい。喉輪は甲冑の下に来るのが正式。
胴を身につけるのは臨戦態勢。喉輪、佩盾、脛当のような小具足は前もって身につけておく。籠手はある時期から胴につけるようになったが。
0742人間七七四年2011/09/24(土) 19:43:35.91ID:Cg3+i8nK
>>741
喉輪を胴の外に出すのは間違いだと一概に言い切るのは微妙なところである。
喉輪は胴よりも先に付けるため、胸板の内側に来るというのは細川澄元の騎馬像に描かれていることから
そういわれているが、ほぼ同時代を生きた大内義興の騎馬像では、喉輪の裾板が胴の外に出ている。↓参照。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/mushibaikin2000/50551084.html(細川澄元)
ttp://area2.sakura.ne.jp/Social_Science/history/muromachi/oouchishi.html(大内義興)
大内義興像の武装描写は細川澄元像に劣らず緻密であり、絵師のミスとは考えにくい。
喉輪を内にしまうか外に出すかは個人の好みの問題だったのではないか。

籠手の冠板を鞐で胴の肩上に連結するようになったのは天正後年に当世具足が発生してからと考えていいだろう。
ごく最初期の例としては仙台市博物館所蔵の銀伊予札丸胴具足や前田育徳会所蔵の金伊予札丸胴がそれにあたる。
以後、この鞐留めの籠手が大流行し、当世具足では当たり前となるが、これはあらかじめ籠手を胴に付けておくことで、
胴を着る時に一緒に籠手に腕を通すことで、1つの手順で上半身の防御が完成すると利点があるからである。
従来の、先に籠手を付け、互いに反対側の脇の下で紐で結ぶ方法だと、腕→胴の2段階のプロセスを踏まなければならない。
鞐留めの籠手は当時は「早着籠手」とも呼ばれたようで、武装の時間短縮を求めていた武将たちに大きく受け入れられた。

一方で、左右の籠手を大きな家地で仕立て、ワンピースにした指貫籠手も生まれるが、
こちらは鞐留め式に比べるとさほど目立たない。ただし、左右どちらかを紛失する心配がない点と、ゆとりを持って縫製すれば、
様々な体型に合わせることができる利点があるため、江戸期以降の御貸具足に採用されていることがある。
07437422011/09/24(土) 21:10:11.45ID:Cg3+i8nK
>>742の追記。
そういうわけで桃山期のドラマに甲冑を登場させる場合、籠手に関しては、
上に書いたとおりの鞐留め式籠手を使用するのが本来は望ましいのだが、
指貫籠手や古式の紐掛け式籠手と違ってフィットしすぎるがゆえに、
着用者の腕の長さに合わせられるほど融通が利かないのが欠点である。
よって衣装を使い回しせざるを得ない演劇の中(テレビ・映画含む)では、
桃山から江戸期を舞台にしていても、紐掛け式籠手が史実に反して蔓延っている。

だが、視聴者の殆どはヨロイのヨの字も知らないし、知ったところで何があるわけでもないので、
この状況はこれからずっと先も続くだろう。
0744人間七七四年2011/09/26(月) 18:32:07.95ID:9dp1hu98
大河といえば江(笑)見てると、三姉妹を護送する人とか本陣の護衛の人たちが兜じゃなくて足軽みたいに陣笠をかぶってる
要人の護送や本陣の護衛にあたるような上級武士なら兜をかぶっているはずでは?
まさかそういう仕事を百姓の足軽にはやらせないだろうし
0745人間七七四年2011/09/27(火) 06:01:05.30ID:wgqk964H
もし戦乱の世があと数百年続いてたら
銃火器への適応として甲冑の軽量化・簡素化が進んだのだろうか
とても興味がある
0746人間七七四年2011/09/27(火) 19:52:56.35ID:JSNAFtlx
>>745
鎧の上に胸甲をつけたとか妄想をする。
0747人間七七四年2011/09/27(火) 20:08:27.17ID:oIVrAUNG
>>744
まあ同じプラスチックで作るなら陣笠の方が安かっただけの話じゃない?
0748人間七七四年2011/09/29(木) 02:37:19.06ID:GmB6AJ/U
故・笹間良彦氏は肩書きに「文学博士」とあったが、本当に学位を取得していたのか、
最近、個人的に疑わしく思っているんだが、どうなんだろうか?
国会図書館の検索ページで本名の笹間恒雄で博士論文を探しても見つからない。
博士は自称だったのだろうか?
また、International University USAなるところから賞を受けたともいうが、ここも怪しい。
そんな教育機関、ググってもそれらしいのが引っかからない。
最悪の場合、笹間氏は今問題になっているディプロマミル(偽大学)に手を出していたのかとも考えられる。
もし上に挙げた不正を行っていたとすれば、研究業績の内容がそれで揺るがないことはわかっているのだが、
残念に思えてならない。

ちなみに、京都で井○美術館や大○馬を開いてるあのオッサンは、今はサイトのニュースから消してるが、
ディプロマミルで有名なイオンド大学から名誉博士号をもらっているぞ。
偽学位を持ってたって何の足しにもならんどころか、マイナス評価の要因にさえなりかねないんだが、
あそこはアレなことばっかをしているから何に使うかわからんなあ。
まあ、知らずに引っかかったというんなら「ざまぁwwwwww」と笑ってやるさ。
0749人間七七四年2011/09/29(木) 13:36:42.82ID:l247pPqD
>>748
井○美術館の人って評判悪いの?「赤備え 〜武田と井伊と真田と」はとても勉強になるなあと思いながら読んだんだが
07507482011/09/29(木) 18:48:17.55ID:GmB6AJ/U
美術鑑賞板の過去ログ「【鎧】甲冑ってどーよ?【兜】」より
あまり意味はないが名前は一応伏せた。

68 :わたしはダリ?名無しさん?:03/11/03 00:54
中○甲刀修史館っていったら悪徳甲冑ブローカーで有名だよ。甲冑関係の人なら誰でも
知ってるよ。特に伝〜っていうのを勝手に作って売ってるよね。ヤフオクでもあそこの番頭が
むっちゃインチキで売ってるよ。

246 :わたしはダリ?名無しさん?:2008/04/17(木) 21:25:33
伊○コレクションと京都井○美術館(中○コレクション)は捏造甲冑の巣窟だよ
これからも次から次へと根拠の無い○○所用甲冑が生まれると思うよ

359 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/09/19(土) 23:39:01
旧姓中○の場合は虚偽の中に真実を入れてくるのがやっかい
コレクションは怪しいが、井伊家伝来の品があるのも事実なんだよね…

362 :わたしはダリ?名無しさん?:2009/09/21(月) 14:12:11
>>361

井伊達○こと、中○達○
2005年7月に旧与板藩(所在地は新潟県長岡市。直政の長男・井伊直勝の系統)井伊家の名跡を継ぎ、中○達○から井伊達○に改姓したそうです。
夫人が井伊家とかではなく、単に養子縁組をしただけで血統は無縁。

法律的に養子縁組をしたかどうかも不明。

伊澤家所有の森蘭丸具足を命名した最初の人物で、彼の予想に反して大きな人気を得てしまったことから、
後に自著「赤備え―武田と井伊と真田と」で、現在の所有者を猛烈に非難している。

コピペは以上。

確かに彼の著書は読み応えがあるし、歴史にも非常に通じているので正面からの反論・批判が非常に難しい。
甲冑愛好家の多くは、裏では彼の悪口をたくさん言っているが、
オッサンがなかなか尻尾を見せないので表側では誰も突っ込みにいけない状況にある。
井伊家関係なら結構まじめに研究しているとは思うのだが、適当なバランスで本当のことに嘘を混ぜるので厄介な人である。
0751人間七七四年2011/09/29(木) 19:29:26.45ID:l247pPqD
>>750
詳細ありがとう
そんな胡散臭い人だったのか・・・
ていうか森蘭丸所用具足ってこの人の鑑定だったのかよ
著書にはまったく逆のこと書いてるのに
じゃあ同書の「伝○○所用」は信じないほうがいいかな
本の内容自体はためになるだけに残念だ
0752人間七七四年2011/09/29(木) 21:37:55.49ID:ckzxl/kW
石田三成の乱髪天衝脇立兜や去年NHKで紹介された宇喜多秀家所用具足
もだよね
0753人間七七四年2011/09/29(木) 22:51:25.17ID:oJ4R35UR
彦根藩関係の話はまあ信用していいんじゃないかとは思うけど、
鎧関係はややこしいな。誰とは言わずとも胡散臭い話がころころ出てくる。
0754人間七七四年2011/09/30(金) 22:52:29.96ID:IhonAuQA
実戦期である戦国時代の甲冑がそのままの状態で残ることは極めて希で、
身分の低い雑兵のものに至っては単なる消耗品なのでまず現存しないという。
実戦期の軍装の詳細についてはよくわかっていない点が多い。
その点、当時の日本を訪れた宣教師や、文禄・慶長の役で実際に日本の鎧武者を目撃した明・朝鮮人の証言は
誇張や卑下表現が含まれているとしても、参考になると思う。
何故なら日本人にとっては当たり前でいちいち記録に残さないような事柄でも、異国人である彼らには
驚きの目で捉えられることが少なくないからだ。

というわけで、以下にまとめてみた↓


「我々の武装具は極めて重い。日本の物はとても軽い」
「我々の甲冑は、すべて鋼鉄で出来ている。彼ら(日本人)のは角または革の薄片を、縒り糸で縫い合わせたものである」
「我々の兜は瞼甲(ヴィゼイラ)を着ける。日本人は顔に悪魔の半分の仮面を着ける」
・・・ポルトガル、ルイス・フロイス「日欧文化比較」

「倭国軍は鬼や獅子の面を被っていたので、人馬が驚いて退き、ぬかるみにはまって動けなかった」
・・・明国、宋応昌「両朝平攘録」

「奇怪な身なりをして敵を驚かせ、牛頭に鬼面をした者もある」
・・・明国、李睟光「芝峰類説」

「おおむね倭人たちは紅黒の鉄の甲冑を着て色とりどりの鉄兜を被り、口角には髭を縦横に生やし
鉄広大(鉄の衣を着た道化方)のような姿をしており、金冠の黄金色の羽根・金挿・羽衣・羽箒・螺角などことごとく奇怪な形相である。
奢侈であり、鬼神のようでもあり、獣のようにも見えたので、これを見る者、驚かざるをえなかった」
・・・李氏朝鮮、李舜臣「忠武公全書」

「華麗多く虎皮及び鶏尾をもって戦服を作り、金銀をもって仮面を拵え、馬面及び人面を表す、それは偽り驚かすこと甚だしく、
人の眼に眩いばかりに光り輝いた。壬辰年に敗退した軍の者たちは皆、虎・豹・水石の怪物が一時に出現したようで、不覚にも気を失い、
魂を奪われたと言っている」
・・・李氏朝鮮、姜侃「倭情録」
0755人間七七四年2011/10/03(月) 21:45:16.46ID:i1TTzgXb
達夫さんはなぁ、いつ井伊美術館に行っても会えないのよな。
この前行ったときは息子らしき人が出てきてたが、ろくに質問すらさせてくれぬ。

こっちは赤備えについて調べに行ってるのに、どうにも消化不良やで。
0756人間七七四年2011/10/04(火) 12:46:08.55ID:/28pMXmp
>>751
新米コレクターに「盛り乱○」の甲冑を売りつける

甲冑が有名になる

悔しくなって、あいつ偽者を自慢しやがって、と触れ回る(売りつけたのは自分達だけど)

そのコレクターも今となっては知識もついたけど、「本物」ってことで余計なこと言わないでいるw
0757人間七七四年2011/10/04(火) 16:20:56.48ID:glFD62Lp
>>737
本多忠勝の鹿角のついた兜と甲冑、有名な肖像画に描かれたものと同一ではないが、本人の物であることは間違いない。
現在も子孫の所有だし、江戸時代にも将軍に見せたという伝来があるもの。同じ意匠でいくつも召し替えの具足を持つのは、経済的に余裕がある大名では珍しくない。
井伊直政や直孝、伊達政宗も同じようなものが複数残っている。
0758人間七七四年2011/10/04(火) 17:45:33.02ID:8WxmD/X+
>>754
実際の戦国はもっと単純みたいに書かれてたけどかなり着飾ってるやん
0759人間七七四年2011/10/04(火) 19:16:36.42ID:SsdyZpIn
>>758
江戸中期以降の微に入り細を穿った装飾が多用された華麗な甲冑と違い、
室町末期から桃山・江戸初期の初期当世具足では、装飾の技法こそ単純だが、
遠くからも自分の存在が目立つように、わかりやすく伸び伸びしたデザインの蒔絵や箔押しを施した胴や、
大型の立物・指物が用いられた。
もっとも、自分の好みに合わせて甲冑を飾り立てることができたのは、
自分の鎧を持てる身分の武将(だいたい中堅以上)に限られていただろうが、
足軽クラスでも、軍団全体の威容を整えるために派手な軍装が支給されることはあった。
たとえば朝鮮出兵時には立花宗茂の家中が金箔押の桃形兜を被って出陣しているし、
伊達政宗も兵士に奇抜な格好をさせた話が残っている。
0760人間七七四年2011/10/04(火) 19:50:35.81ID:N5R36bef
>本多忠勝の甲冑

ttp://www.arimakinenkan.or.jp/exhibition/exhibition_2011_02_shinkansen.html
↑伝二代藩主忠頼所用「大熊」の具足に似ているような気がする。
仕立ては家康公の羊歯具足と同じように岩井のような?

俺も本山さんではないけど忠勝公より少し後のものにみえるね。


後こういうのをみつけた↓「鋼鉄の全身鎧の見本」ってのは日本の当世具足?

「懲秘録」

日本人はよく刀槍を用いる。
我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。

そこで厚鉄を用い全身鎧を作り
この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。

取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、
これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。
0761人間七七四年2011/10/04(火) 23:09:56.70ID:N10/FVi8
>>760
日本人に斬られたり突かれたりしないために鉄製の鎧を考えたというだけで、
日本の具足をモデルにしたわけではないのかもしれないな
0762人間七七四年2011/10/05(水) 02:01:19.29ID:NNEfuWGd
>>754
この書き方だと派手なのが武将クラスみたいな少数だけじゃなく、数が多かったみたいな書き方だな
前線で戦う足軽にも多くいたみたいな
下級でも面頬とか付けるのあたりまえだったのかね
0763人間七七四年2011/10/05(水) 08:33:04.54ID:swPVXaMS
>>762
どうなんだろうか?
重くなればなる程弓の的になりやすいし。
今自分の軟派な弓道選手じゃあるまいし(明治の弓でも、昔引いたことがあるがハンパなく強い)、
鋼の鎧ならまだしも革や布じゃ2、30mの距離なら打ち抜けるだろ。
せいぜい、腹と頭と手足の保護くらいしか出来ないんじゃね?
0764人間七七四年2011/10/05(水) 09:45:06.13ID:s/zrbagc
明治時代の弓でもまだ引ける状態なんだ、
もっと早くダメになるのかと思ってた。
0765人間七七四年2011/10/05(水) 11:23:22.86ID:hhbuWvHP
>>763
足軽クラスでも簡素とはいえちゃんとした御貸具足を着て
頭形兜に部隊認識用のちょっとした立物とか付けてたんじゃなかろうか
さすがに頬当は着用してなかったと思うけど、まともに甲冑すら着ていなかった朝鮮兵から見れば重武装だろうな
ただ、敵陣に肉薄して斬り込んだりするのは足軽じゃなくて徒歩武者や騎馬武者だから
比較的派手な装いのそいつらの方が印象に残ったのかも
0766人間七七四年2011/10/05(水) 11:24:56.19ID:hhbuWvHP
アンカーミスった
>>763じゃなくて>>762
0767人間七七四年2011/10/05(水) 19:44:39.03ID:swPVXaMS
>>764
丸竹の状態で乾燥

ヒゴの状態で乾燥

成形

調整

細いとうを巻積める

漆仕上げ

成形・装飾

弓師じゃないんで細かい所及び加減は不明。
漆器が長寿命なのと理屈は同じでは?
0768人間七七四年2011/10/06(木) 04:11:50.03ID:QYXgtPMT
>>765
武田の長柄足軽は前立付きの頭形兜に頬当もつけてた
加藤清正もそうだが長柄の具足は、足軽にしては重装備なことが多くね?
0769人間七七四年2011/10/06(木) 18:52:28.91ID:6IrFv8JY
加藤清正って足軽に具足の胴を着せないかわりに兜を被らせてたんだよな
0770人間七七四年2011/10/06(木) 19:40:21.74ID:JvHu0lPc
>>769
(°□°;)
良い弓の的じゃん。
足軽なんかは命より目立つ方が大切って感性なんだろうか?
0771人間七七四年2011/10/06(木) 20:55:30.09ID:e45F1214
槍での叩き合いが仕事なんだから
胴より頭守ったほうがいいだろ
0772人間七七四年2011/10/06(木) 21:27:03.69ID:6IrFv8JY
槍足軽だけでなくて弓足軽も鉄砲足軽もだろ?
0773人間七七四年2011/10/06(木) 21:35:22.38ID:3hZ0ihi/
鉄砲時代に突入してからは重装備が無駄てのを300年も早く気づいたのかもしれん
0774人間七七四年2011/10/06(木) 21:40:08.90ID:8sr2r53v
容積が大きい胴よりも兜、それも量産の効く頭形兜や桃形兜をそろえるのが
経済的に楽だったと思われる。
立花家には朝鮮の役で従者が使用したという桃形兜が二百数十頭残るが、
胴以下のパーツはまったくといってよいほどない。
戦闘に際して上層部が貸し与えたのは兜や簡単な防具くらいで、
それ以外は何も付けなかったか自己負担だったかという家中もあったのではないか。
0775人間七七四年2011/10/07(金) 11:16:24.02ID:SqwTR2aV
>>774
なるほど
建設業で取りあえずヘルメットだけは揃えるようなもんだな。
安全帯は個人負担させてる親方も確かにいる
0776人間七七四年2011/10/07(金) 11:24:13.91ID:D5RR5JQj
ハリウッド映画の「プレデターズ」を見たら
過去に狩りの対象として日本の鎧武者も惑星に連れてこられたという設定があった
惑星で十年生き残っているという元海兵隊員がその遺品と思われる兜を被っており、隠れ家には刀もあった
兜は金覆輪の阿古陀形筋兜のように見え、しころは日根野じころで板物の素懸威、
角元はあるものの立物はなかった。こうした様式を見る限り桃山〜江戸時代以降の兜のように思える
刀も打刀拵だし、連れて来られたのは大坂の陣頃の上級武士ではないかなどと想像した
まあ、ハリウッドのスタッフがそこまで考えてるとも思わないけどw
0777人間七七四年2011/10/07(金) 16:48:21.69ID:3aEkjKmx
鎧は詳しくないけど、西洋だと厚手の布で胴鎧を作ってたりするし、
足軽なんかだと、胴は布と詰め物ってケースもあったんじゃないかな?
0778人間七七四年2011/10/07(金) 20:26:19.06ID:H6fjSD8z
戦国末期に胴をつけず羽織にした鉄砲足軽は出てきてるな
0779人間七七四年2011/10/08(土) 09:36:22.92ID:UV+GY/+5
>>778
まあ、鉄砲相手じゃな。
そんな時代じゃ足軽程度の兜はチャリンコ用ヘルメットと同じ扱いじゃね。
0780人間七七四年2011/10/08(土) 14:09:56.72ID:SUFIvSei
鉄砲セット買ったら鎧兜買うお金無くなっちゃったでござる
0781人間七七四年2011/10/08(土) 14:24:35.55ID:wofD3lqE
それは無鉄砲だな
0782人間七七四年2011/10/08(土) 20:29:41.31ID:ZEYh0ZS8
第二次大戦のヘルメットみたいなもんか
0783名無し@一足軽2011/10/10(月) 10:10:47.80ID:YWM25XuS
具足なんかは鉄板を馬の革で綴ってあるだけの粗末なものだ。1回の戦闘でボロボロになってしまう。
だから戦国の遺品として残っている甲冑は将校クラスの非戦闘員のものがほとんどだ。それか江戸初期に造られた模造品だ。
信長なんかはいつも最前線で指揮を執っていたから、敵方のいい標的になり草摺も取られ、鉄砲隊に狙われて狙撃され、
甲冑の遺品はほとんど無い。劇画やドラマで南蛮胴を着用しているのもなんとなく本物らしくない。
南蛮胴は、家康の日光東照宮にあるのが初期のものか。
0784人間七七四年2011/10/10(月) 10:44:18.89ID:bYAgK63N
南蛮胴ってまるで欧州の鎧みたいな素材感の胴のことか?
あれなら、本当に戦争で使えたかどうか怪しいと思うんだが。
あの時代は日本人と欧州人の大きさの違いは、
今程度しかなかったらしい。
それに対して、馬の方は本州にいた在来種(道産子より一回り小さい。汗血馬?よりも小さい)。
欧州バリの鎧を着た武者を乗せて走れるんだろうか?
0785人間七七四年2011/10/10(月) 12:04:14.86ID:aIWpA7AV
胴を換えたくらいでそんなに重くなるわけ無いだろww
0786人間七七四年2011/10/10(月) 12:21:58.16ID:mXMoXr1k
>>784
グスタフ・アドルフのスゥエーデンなんて日本馬より体格の貧弱な馬に重装騎兵載せて
騎馬突撃してたんだがw
0787名無し@一足軽2011/10/10(月) 20:36:32.87ID:rojkN+8d
家康の東照宮所蔵の南蛮胴は、関ヶ原の合戦で着用した甲冑だ。南蛮胴なら、火縄銃の有効射程距離
100mでも弾を弾き返す。当時の合戦のルールで、勝ち戦のさなかでも大将が流れ弾にでも当たり死んで
しまったら負けということになっていた。だから、大将、大名クラスは高価な南蛮胴を着用した。つまり、
南蛮胴を着用していれば、オレは死なない、味方は勝つという武門の象徴とでもいうべきか。
0788人間七七四年2011/10/10(月) 21:04:35.78ID:G1N2JF3t
大将は戦わないから防御率だけを考えた南蛮胴でもいい
馬に乗って移動するからスピードも体力もいらないし
前線でほんとに戦う兵にはいらない
機動力と長時間たたかえることのほうが大事
0789人間七七四年2011/10/10(月) 21:48:03.48ID:mQGbYl6G
ttp://webarchives.tnm.jp/archives/img/27188
↑は東博所蔵の革包み腹巻。南北朝から室町頃、戦場の最前線を駆け回っていた雑兵の着料と推察される。
伊予札を簡単な菱綴で革に仕付けた(草摺の裾は本小札)粗製の胴で、威しの甲冑より明らかに下等な品である。
大阪の金剛寺にもこうした革包みの腹巻が10領程度残っているが、
こうした類の革包み鎧は製作・修理が簡単であることから、その多くは消耗品として使い尽くされたり、
美術観賞的な価値の低さや粗製ゆえの保存状態の悪さなどから大事にされることなく消えていってしまった。

なお、革包み胴には、手入れのしやすさのほか、表面に威毛がほとんど露出しないことから、
物が引っかかりにくい利点があるとされる。当世具足でも初期の遺品に革包み胴が結構多く見られるのは、
その機能が評価されて上士の間にも広まったという、武具界の下克上を表しているのではないだろうか。
0790名無し@一足軽2011/10/10(月) 22:53:42.85ID:vF1Uv3bc
週刊デアゴスティーニの「伊達正宗の甲冑」は全55号で108,000円。
同じく「安土城」は全100号で160,000円。

板が少しそれたのでここまで。
0791 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 2011/10/11(火) 17:01:34.36ID:s42KslIM
当世具足が普及する前の、薙刀&胴丸が騎馬武者の装備の主流だった頃の騎馬武者の鎧の画像ってあるかな?
0792人間七七四年2011/10/11(火) 22:40:38.89ID:SuN1jeQl
>>791
それなら細川澄元の騎馬像が該当する。詳細はググって確認して。
0793人間七七四年2011/10/11(火) 23:50:26.20ID:EXmWggwh
>>792
真っ先にそれが思い浮かぶw
得物は長巻という解釈があるけど、どちらがより適切なものか。
0794名無し@一足軽2011/10/12(水) 00:23:06.28ID:wvdlUzk1
NHKが2000年に放送した大河「葵徳川三代」はジェームス三木の脚本だが、登場する武将の兜が史実に基づいて
映像化されていたな。福島正則の大水牛脇立桃形とか、加藤清正の長烏帽子なんかだ。ただ、家康の甲冑は、羊歯葉前立
大黒頭巾形兜勝川具足で、787で書いたのとは違っていたな。ただ、この作品から、足軽の具足の背に会当理が付くように
なり大名の家紋の旗が立ったのが間違いだ。視聴者サービスでどちらが東軍か西軍かが判るようにしたのだろうな。でも、
これが後の戦国モノに踏襲され、「江」でもそんなふうで視聴者にはそれでいいんだろうな。NHKもいい加減なものだ。
0795 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 2011/10/12(水) 01:37:19.72ID:mMSN2Am3
>>792-793
wikiにも載ってるあれか。
画像を見ると二の腕の部分は杏葉で守っているみたいだけど、手の甲や脚部は無防備なのかな?
それとも、西洋の甲冑みたいに鎖鎧でガードしているんだろうか?

画像だと足は無防備に見えるけど、騎乗したまま歩兵と戦ったら足は一番狙われやすいところだろうし……。
0796人間七七四年2011/10/12(水) 09:02:47.09ID:FjX0k8hg
>>795
ちゃんと手足も小具足で防御してるんじゃない?
籠手は鎖や金具を表に出さずに家地で包んだ産籠手(うぶごて)という形式ならばあの描き方に納得がいく。
絵を見る限り、手甲は描かれていないように思えるが、
細かい作業や運動性を優先して手甲を省略することもあった。
ひざから下もちゃんと臑当を付けてるよ。色が黄色っぽいから装備していないように見えるだけ。
この色は金箔押か、白檀塗を表現しているのだろう。

この時期の杏葉が守るのは二の腕よりも、胴の高紐がある前胸部になる。
杏葉が二の腕というか肩先を守っていたのは平安・鎌倉後期までで、
大袖が付く位置に杏葉の板金具を付けていた。
その頃の遺品は1、2点しかないが、南北朝以降のものより2回りほど大きい。
時代が下って胴丸に袖が付くのが定着すると胸先に移動し、形式的なものとなって小型化した。
0797人間七七四年2011/10/12(水) 09:33:33.43ID:wuzLz8TD
>>794
あれってやっぱり足軽は会当理ないのが本当なんだな
変だとは思ったけど、NHKがやってるんだから正しいのかなと思ってた

そういや江といえば、小谷城攻めのときの秀吉が両乳鐶付きの切付胴を着てた。ありえねえw
0798人間七七四年2011/10/12(水) 10:58:24.24ID:W1fJxaI+
「足軽に指物なんか付けさせたら林に入ったっ時引っかかるだろ」何てことを晩年の細川忠興が
確か言ってたな。
0799名無し@一足軽2011/10/12(水) 18:18:30.74ID:iq2iRVsY
×会当理
○合当理
すまん。
0800 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 2011/10/12(水) 19:07:56.11ID:mMSN2Am3
>>796
俺が知らなかったことだらけだな。
ありがとう。勉強になった。

>>798
「兜の前立ては林の中では邪魔になるから、壊れやすいものが好ましい」といったのもこの人だっけ?
0801名無し@一足軽2011/10/12(水) 22:33:24.46ID:t/6QB7qc
798様、黒田の大水牛脇立も伝上杉謙信の三宝荒神兜も、それぞれ脇立・三宝荒神部分が
取り外しできるようになっている。出陣の儀式、凱旋時は付けたが戦闘時はヘルメット
様式だ。それに黒田の大水牛脇立は薄い木材をつなぎ合わせて作ってあるし、三宝荒神部分は
厚紙と牛革で作ってあり以外に軽量になっている。
0802人間七七四年2011/10/13(木) 16:13:54.17ID:MDzkG3nM
伊賀上野城にある、藤堂高虎所用の唐冠兜、横にやたらに長い飾りが付いている(左右それぞれ80センチくらいか)が、横にいる人が迷惑。
ちょっとでも頭を動かせば、当たってしまう。俺の近くには寄るな、というサインなんだろうか。
0803人間七七四年2011/10/13(木) 20:00:27.21ID:F/pSXP2Z
身の丈六尺二寸の高虎があの兜を被ったらさぞ見栄えが良かったろうな
0804人間七七四年2011/10/15(土) 12:52:15.93ID:HgBDEKk5
菊池夢美術館〜甲冑展示
http://video.mainichi.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48227968/48227968peevee425876.flv
0805名無し@一足軽2011/10/16(日) 01:48:44.04ID:spvpWNXF
足軽以上が武士だ。甲冑で正装した時に左側から見分するのが正式な作法だ。ちゃんと大小の刀を差しているかだ。陣中には、合戦の情報を聞いて
槍1本、鎧櫃1つで陣借りしてくる浪人も沢山いる。騎馬の者も来る。将校級が逐次面接をする。浪人の氏素性を聞く。いずれの家中の出身か?主人は
誰だったのか?何時、何処の合戦から浪人になっているのか?得て物は何か?感状は何枚持っているか??勿論、持って来ている甲冑の見分する。
兜も具足も同じ作者の銘が刻まれているかが重要なポイントだ。それに太刀。由緒ある刀鍛冶の作かだ。こうして面接は慎重に行われて目出度く
陣借りとなる。いずれにしても先鋒部隊だが、体格・面魂・武具の良し悪し・感状の枚数で配属が決められた。
話は飛ぶが、武将の甲冑姿の肖像画で、現存する甲冑に大袖が無く、絵には大袖が描かれているのは(例:本田忠勝)その武将が由緒正しい出自
であることと、正式な武士である事を示している。鎌倉期の大鎧は実戦には向かないが、戦国の武将の憧れだった。
0806人間七七四年2011/10/16(日) 14:24:48.40ID:YHGFKfOW
鎌倉期の大鎧て馬に乗って戦う用だろ
0807名無し@一足軽2011/10/16(日) 18:39:51.86ID:QRi9hpBS
↑806へ
オマエ、ほんとに歴史を知らんな。さもなくば大河の見すぎ。オマエみたいな連中に
反論するんもアホくさいw
0808人間七七四年2011/10/17(月) 00:34:18.41ID:oTZlbq4m
>>806
鎌倉期の大鎧は馬に乗って戦う用だね。
実戦に向かないと思っている人は歴史を知らな過ぎ。
0809人間七七四年2011/10/17(月) 01:35:49.93ID:DBpz+l7G
鎌倉時代の戦って馬上が基本形で、大鎧も馬上での戦いを想定されたものになってるし
大鎧は馬に乗ることで鎧の重量が自分にかかりにくい作りになってる
0810人間七七四年2011/10/17(月) 02:37:24.97ID:XVP8NiGl
大鎧は戦国時代にはとっくに時代遅れになっていたということを言いたかったのでは?>>805
復古調甲冑が作られるより前の時代で、現存する遺品の中で最後に作られたことが確認できるのは、
大内義隆が1542年に厳島神社に奉納した黒革肩紅威大鎧(重文)がある。
ttp://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/data/102040040.html

大鎧が花形甲冑だった平安・鎌倉期と違い、
この頃の大鎧はその重量や非機動性、製作にかかる手間などから敬遠され、
室町中期までには胴丸に主役の地位を譲っている。
それでも南北朝以降に定着した徒歩戦に対応すべく、胴の腰の裾を窄めたり、
筋兜を採用したりしているが、やがては時代の流れに取り残され、
祭礼の衣装用や寺社への奉納用くらいに留まるようになってしまった。
上記の大内義隆も、大鎧を奉納したのは名門守護大名の手前からであって、
あくまで戦場では自身は胴丸を着ていたと思われる。
室町末期から桃山期の、甲冑姿の武将の肖像に、大袖が描かれているのは
(その源流は大鎧にあるといえるかもしれないが)、
直接的には地位の向上に伴って重武装化した胴丸を意識しているとする方が自然であろう。
あるいは後世に作成されたものならば、復古調の空気に影響されて描き足したということになる
(これなら大鎧への憧れが直接影響していると考えられる)。
0811人間七七四年2011/10/17(月) 02:43:30.35ID:cPi+16c4
>鎌倉期の大鎧て馬に乗って戦う用だろ

しかしこれを否定してるということは単に無知だったとしか思えない
0812人間七七四年2011/10/17(月) 08:43:26.77ID:9Wga+kfF
この人ってあちこちで読みづらい文章書いてるのかな?
改行も変だし、2ちゃん慣れしてない感じ。
個人でブログでもやればっていいたい。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193685418/185
0813人間七七四年2011/10/17(月) 12:33:38.55ID:Cozye8KE
というか、平野での馬上の弓の打ち合いから
徒での拠点攻防戦に様変わりしたからそれにあわせて変化したというか。
0814人間七七四年2011/10/17(月) 20:50:38.79ID:iZeqJZtU
>>812
それは某研に言ってやれw
0815人間七七四年2011/10/17(月) 21:34:51.99ID:izrqWSNC
「センゴク」って漫画は歴史考証はしっかりしてて面白いけど具足についてはてんでデタラメだな。
徳川家康が大高城兵糧入れで金留塗の仏胴具足を着てたり、上杉謙信が三宝荒神の兜を被ってるのはいいとしても、
こりゃ構造を理解しないまま描いてるなあ、と一目でわかるような規格外の具足が次々と出てくる
0816人間七七四年2011/10/17(月) 22:42:00.04ID:XVP8NiGl
>>815
今まで日本の甲冑がハイカル・サブカルの両界でしっかりした考証の下に
表現された例なんて数えるほどしかないぞ。
江戸時代以前に描かれた絵画といえど、合戦の場面で甲冑を描く場合は、強固な監修やサポートがないと、
鎌倉時代の「男衾三郎絵詞」のように大鎧の絵が滅茶苦茶になってしまうことがあった。
江戸時代の歌舞伎の衣装鎧や武者絵の中の甲冑については論外。現代の感覚に合わせて言えば、
かっこいいアニメキャラ並のレベルでしかなく、気をつけないと甲冑研究の邪魔にすらなりかねない。

最近では宮崎駿の「もののけ姫」が、甲冑そのものについては割合よく描けていたが、
作品の時代背景が室町後期ということを考えると、
大鎧を着た兵士と当世具足を着用した兵士の両方が出てきたのはちと極端に過ぎると思われる
(中央と地方の相違を表現したかったのかもしれないが)。
0817人間七七四年2011/10/18(火) 00:02:52.77ID:eeMeUflb
>>814
某研はブログ持ってなかったっけ?
0818名無し@一足軽2011/10/18(火) 01:23:49.86ID:tF9Jh7An
↑812へ
国宝「竹雀虎」とか同じく厳島神社所蔵の「白糸縅」なんかは製作期間が2年位かかり部品の多くは中国製だ。大将のシンボルの「紅糸縅」
の赤の染料も縅糸も中国からの輸入品だ。余程の地位のある武将しか着用できない。
戦いも大鎧を着て馬上で刀を振り回すのではなく、大将は本陣にいて戦いの趨勢を見守り、武将級では本来、流鏑馬のように弓矢で戦うのが
実戦だ。胴丸を着た兵士の戦いにもルールがあり相手の烏帽子をとったら勝ちとか、旗指物を奪われたら負けとかで相手が降参したらそれで
良しで、日本人同士がそう殺し合いをするのではない。これが平安〜鎌倉の実の姿。義経の平家殲滅は完全なルール違反の合戦だ。
しかしそれが後の世に美化されてしまった。
鎧のスレだから、多くは書かないが一部の人を除いて大河の見すぎか、史書・司馬作品なんかをを読んでいない人が多すぎるな。
近年の研究書でもいいものがあるからそれらを読んでから書いた方がいい。

0819人間七七四年2011/10/18(火) 01:51:50.54ID:MVwaKoV2
>>818
いいから少し落ち着いて書きこめ
0820人間七七四年2011/10/18(火) 02:03:03.29ID:guBzAwjj
>>818
大鎧は馬上専用とはなんもつながってない論点そらし
もう止めとけ
お前の負け
0821人間七七四年2011/10/18(火) 06:56:10.29ID:l9r9z3t7
>>815
そもそもセンゴクは「刀なんて役に立たん(キリッ」
「騎乗したまま戦うなんて有り得ない(どやぁ)」
とか言ってた時点で、ただの知ったかが描いてる漫画やろ

>>818
その近年の研究とやらのソースきぼん。
烏帽子や旗取るだけだとか聞いたこともねえし、そんなんで
勝負がつく様子が書かれた一次史料とか見た事ねえよ。
0822人間七七四年2011/10/18(火) 07:48:38.87ID:4IMIXmpB
>>818
あんた2ちゃんに向いてないね。
0823人間七七四年2011/10/18(火) 16:15:27.30ID:GkDTkUOG
>>818
国宝鎧を引っ張り出して何を言ってるんだ?
竹雀虎は源義経奉納との伝来があり、一説によれば足利義満の奉納品とも推測される超高級品
あと「厳島神社所蔵の白糸縅」って櫛引八幡宮の白糸威褄取鎧のことか?
あれだって南部信光が後村上天皇から拝領したものだぞ
そんな高級品を一般の武士が着れないなんて至極当たり前のことじゃん
0824人間七七四年2011/10/18(火) 20:07:17.64ID:2WslxfBQ
>>818
重箱の隅つつきになるが、厳島神社に白糸威大鎧はないよ。
白糸威銀小札丸胴具足ならあるがね。
ひょっとして日御碕神社の白糸威大鎧のことを言いたかったのかな?
0825人間七七四年2011/10/19(水) 01:04:52.65ID:2wH1JH3p
>>818 紅の染料は、紅花の花を集めて発酵させたものから得る。もともとの起源はエジプトだが、遅くとも飛鳥時代には国産化されていた。法隆寺の近くにある藤の木古墳の棺の中から発見されている。
紅花の産地は山形が有名だが、ここにあるの修験道で有名な羽黒山は能除太子(蜂子皇子ともいう)で崇俊天皇の皇子。藤の木古墳の被葬者は特定できないものの、崇俊天皇も有力候補のひとりであるのは興味深い。
話がそれたが、平安時代の鎧の縅の糸の紅の染料が中国製であるとする根拠はない。ちなみに質の良い紅で何度も染めたものは、スカーレットに近い深い赤。
0826人間七七四年2011/10/20(木) 11:53:55.70ID:qJSg44ac
丸武でこれまで3度ほど買い物した感想を愚痴らせてください。
やっぱ丸武産業は田舎ローカルのアナログ企業だな・・・

それなりに立派なサイト構えて、全国区で商売しているにもかかわらず、ネット対応が疎かすぎる。
メールの返事が無い。ほっとくとたぶん1週間に1回も開いてない。

代表番号に電話すると、のっそりとしゃべるオバチャンが出てきて、
「3日前にメールで問い合わせた件なんですが・・・」というと、
「あぁはい わかるひとにきいてみますね〜」という感じ。

電話しないと見てくれないならメールの意味無いでしょう・・・
営業日だけでいいからせめて1日1回ぐらいメール確認してよと言いたい。

問い合わせ、購入、支払い等含めてメールなら3〜4往復で済む内容のやりとりしかしていないのに、
丸武相手の取引はやたら手間と時間がかかる。
ヤフヲクでもここまで手際の悪い出品者はなかなかいない。

昔かたぎの職人気質で、ネットの客など客じゃねぇ・・・などと邪険にされているという風ではなく、
単純にPC初心者レベルの人しかいないという感じがした。
メール文面の改行や空白の位置がヘンだったり。
いちど、個人情報が乗った他の客宛てのメールが誤送されてきたし。

せめて一人でいいから窓口となるIT担当者雇えばいいのに。
せいぜい満足にPCが使えて問題なくメール対応ができる程度の人材も鹿児島にはいないのかな?

0827人間七七四年2011/10/20(木) 12:11:30.29ID:dbx6qQAg
>>826
丸武にとってはテレビ・映画会社が一番のお得意先で、
ウェブ販売はとりあえずの余興のようなものと認識して運営してるから
対応がなおざりになるんじゃない?
店長でさえ満足に文章をタイプできてないことがあるくらいだし、
専門知識のそろった人を雇おうとか、勉強しようといった意識に欠けてるきらいがあるね。
あそこは今でもモノを作っていればそばから売れるとでも思ってそうだよ。
0828人間七七四年2011/10/20(木) 15:59:54.57ID:deaCAn8Z
殿様商売だねぇ・・・うらやましい・・・。
0829人間七七四年2011/10/20(木) 18:05:14.08ID:2k4zTOP5
ヤフオクでニセモノ売ってる中華業者がディスってるようにしか見えない。
奴らにしてみれば目の上のタンコブだもんねー。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています