毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
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0001人間七七四年
2007/05/14(月) 06:19:06ID:jnNXqIUx武田信玄>>毛利元就は定説です
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1159020720/
毛利元就>>武田信玄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/
0724人間七七四年
2007/05/29(火) 18:26:32ID:USa7hGks少なくとも北条が武田との再同盟に動く保障はどこにも無い。
上杉がもう少し北条に譲歩していれば同盟は継続してただろう。
戦はせずとも、信濃に出兵する構えさえ見せれば武田は引かざるを得ない。
北条としてはそれで十分過ぎる結果。
下手な駆け引きでせっかく関東の恨みを買ってでも得た和睦に亀裂をいれる必要はない。
武田は上杉の下手な駆け引きの失敗で偶然利を得ただけでしょ。
0725人間七七四年
2007/05/29(火) 18:54:23ID:wwcCRDEP>信玄の内政云々っていうけどさ
史料的に裏付けが取れないor否定されている案件ばかりを持ち出してもしょうがないだろ
ここは「虚像の信玄」と「虚像の元就」を比較するスレじゃないんだし
きちんと裏づけがあるから甲州法度之次第や信玄堤から始まる新田事業などが
あるんだろうが。
安易に批判ばかりしてる研究者の意見を鵜呑みなのは君達の方だな、いい加減気づけ
0726人間七七四年
2007/05/29(火) 19:05:11ID:wwcCRDEP1563年から恵林寺領と佐久地方などで実施しているが、領国全体に
及ぶものではなくとも、戦国大名の検地実施例としてはかなり早期の物
でありその先進性は改めて注目に値する。
江戸時代の農政学者佐藤信淵は「農政本論」の中で、信玄の農業政策を
絶賛している、その農政は一等地を抜きん出ていたのである。
信玄の政治家としての偉大さは、他の戦国大名が農業を民政の中心に
すえていたのに対し、山国という甲斐の国情を知悉して総合開発的な
殖産興業策を展開した点にも求められる。
0727人間七七四年
2007/05/29(火) 19:15:00ID:wwcCRDEPを促進するとともに地場産業の振興をはかって富国の実をあげたのである。
他国の追随を許さない鉱山開発はその一例だし、一般木材の他和紙の原材料
に漆などを広範囲に植栽させたのも、特殊品奨励策の一環だった。
和紙や漆が信玄時代の甲斐の代表的特産品であったことは周知の通りで、
信玄の施策が見事に結実していることが分かる。
ちなみに今なお山梨の特産品として有名な甲州印田や雨畑硯、水晶加工品など
は、信玄時代からの伝統を受け継いだものなのである。
0728人間七七四年
2007/05/29(火) 19:22:59ID:wwcCRDEPアンチは散々信玄の政策は創作だ史料が無いとかいってる割には
多くの古文書や学者の論文などに対してこれ程無知だったとはね
おまけに甲相越同盟という全くスレとは関係の無い話題を延々と
続ける有様
元就に信玄と対抗出来るような政策が無いのであれば最初から
統治で比較するなっての
0729人間七七四年
2007/05/29(火) 19:26:56ID:kpIo9jUE0730人間七七四年
2007/05/29(火) 19:41:00ID:wwcCRDEPあのう横からついでに言わせてもらえば、偶然利を得ただけなんてのは
誤った見方しているよ。
利を得たことによってむしろ信玄は北条を一喝し、再同盟を組ませ、駿河
を難なく平定したわけだし、包囲網の隙を旨くくぐりぬけた信玄の勝ち
0731人間七七四年
2007/05/29(火) 19:55:03ID:wwcCRDEPと組み直す方が得策と考えたんでしょう、信玄は駿河を取ったから相模
にその後も侵攻するとは思ってなかっただろう、普通に関八州平定の為
の後ろ盾と思っていたと思う。
0732人間七七四年
2007/05/29(火) 20:35:57ID:USa7hGksが、越後を含めた一連の動きを信玄が狙ったというのは無理がありすぎる。
あくまで他者の下手な動きが決定打となっての結果オーライ。
信玄の行った行動は決して誉められるもんじゃない。
0733人間七七四年
2007/05/29(火) 20:37:05ID:ir5KbA5W北条氏政の判断で越相同盟が破棄され、甲駿同盟に至ったというのは反論が無いようで
となれば今川義元の死に続いてまたまた棚ぼたで同盟を締結したと
凄いよラッキー続きだよ信玄!
ほんとナイスタイミングで死んでくれたよね、氏康
これは逆に言えば氏康であり続ける限りは越相同盟は維持されるということなんだけどね
氏政は上杉の足元を見る交渉に憤懣を募らせ、氏康は当然のこととみなして推し進めたと
それは養子入りが済んだ後の里見との再和睦の動きからもわかるよね
結局和与で成功したのは氏政の不信感の構築で、実権者の氏康にはたいした影響与えられなかったと
そういや氏政の嫁か誰か忘れたけど武田の女だったけ
この辺も影響してるんだろうね
反論するなら、甲相再同盟にいたった理由と根拠と明確にして論じてね
根拠を明確にってのは歴史群像の何巻にそれが書いてあったのか書けってことじゃないよ、念のためにね
色々と事実誤認があるが、ひとつだけ聞いておこう
>結果的に上杉に振り回され、武田に駿河を奪われただけに終わった北条の外交努力は評価すると?
誰がこんなこと言った?
0735人間七七四年
2007/05/29(火) 21:12:21ID:wwcCRDEPあのねえ、結果オーライってアホですか?
そもそも上杉や北条の外交下手さ加減をそっちのけで何が信玄の
結果オーライなんですか?
いや、むしろ信玄とまた派手な合戦をしたくないと踏んだ謙信の
判断も良かったんだろうな、北条は信玄と謙信を戦わせて潰しあい
させようと考えていた節もある。
何にしろ駿河攻略を完成させ今川北条を一度に破った信玄がやっぱ
勝者だよ。
0736人間七七四年
2007/05/29(火) 21:22:37ID:wwcCRDEP度々関東に攻め込まれていた相手の上杉に援軍を要請するのならそれなりの態度
を示さなければならないがそれをしなかったからね北条は。
これを見ると良いよ。
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0737人間七七四年
2007/05/29(火) 21:45:50ID:USa7hGks上杉北条と武田を比較する話なんかしてないんだよ。
武田の外交についての話だ。
北条や上杉や下手な外交した?ああ、そうだろうさ。
しかしそれで武田の外交の評価はあがらないよな。
それを狙うのなんて謙信の不手際と氏康の死を知ってないと不可能だし。
とりあえず、反論できないからって上杉や北条に話を逸らすのはやめろ
0738人間七七四年
2007/05/29(火) 22:03:28ID:wwcCRDEP超ど級の大馬鹿者だなこりゃwwww
スレタイ読め????????????
武田の外交についての話???どこがなの??
何も反論出来なくなった毛利厨が外交と統治で信玄に勝てない
からって話を甲相越同盟に切り替えてるだけだろ?
0739人間七七四年
2007/05/29(火) 22:04:02ID:+O7kAmsb0740人間七七四年
2007/05/29(火) 22:10:40ID:eW7yhz1r>>738
とりあえず落ち着けって。
信玄の外交と元就の外交を比べればいいんだろ?
北条や上杉抜きで語ってみれ。
0741人間七七四年
2007/05/29(火) 22:13:15ID:wwcCRDEP無理やり信玄に負けてないとか妄想抱いてる連中だからな、そりゃ
外交でも必死になるわな。
謙信に不手際なんてないよ、それは信玄を挟撃出来なかった北条厨が
勝手にそう思い込んでるだけ、そもそも北条は小田原城に引っ込んでおきな
がら援軍出せだの武田領に攻め込めだの謙信に頼む方がどうかしているよ。
この時期北条も武田程兵力を揃えられたはずだが、何で城に引っ込むの?
謙信からすれば武田領に攻め込んでまた大規模な戦闘になるのは回避したい
だろうし、むしろ関東侵攻の方を望んでるのは言うまでもないでしょ。
結局北条側が駿河も取れないわ、出来もしない謙信との同盟を無理に考え
ようとしていただけだね。
一方信玄は信玄で、北条を逆に包囲させたし、一枚上だったな
0742人間七七四年
2007/05/29(火) 22:14:21ID:+O7kAmsbなんで元就が信玄に政治力で劣るんだ?大内と尼子の間の立ち回り、宍戸、熊谷などの
近隣領主との合同や後継問題介入での勢力伸長、両川体制の確立。
どう考えても大名として超一流だと思うが
0744人間七七四年
2007/05/29(火) 22:17:01ID:wwcCRDEP>信玄の行動は誉められたもんじゃない
こういう発言が理解出来ない、誰が見ても負け惜しみにしか聞こえないな。
駿河攻めのどこがいけないんだか、そんなこといったら上杉や北条どころか
戦国大名みな誉められない存在になるんだが。
まあ先に信玄に駿河を取られたという悔しさは分かるよ。
0745人間七七四年
2007/05/29(火) 22:21:34ID:PElZ0/uRやつは武田厨を落としたいんだよ
こんな基地外のせいで武田を嫌わないでくれよ。頼むから
0746人間七七四年
2007/05/29(火) 22:21:35ID:wwcCRDEP落ち着け落ち着け、撤退したように見せかけて待ち伏せで北条を撃退
したんだよ、知らなかった?三方原のようにおびき出して北条を叩き
潰したわけ、駿河に駐屯している北条勢が邪魔だから一喝しなといけ
ないでしょ。
それと元就の内政のどこが信玄より勝ってるか詳しく言いなさい、
今まで散々話題を信玄ばかりに振ってきたお前らなんだから当然
元就の手腕は戦国一評価されるものなんでしょ?
0747人間七七四年
2007/05/29(火) 22:22:25ID:+O7kAmsbいや>>732の文章は駿河攻めの善悪を説いたものじゃないだろ・・・
一部分だけ抜き出して変な解釈するなよ、朝日新聞かよ
0748人間七七四年
2007/05/29(火) 22:25:58ID:Pp5gbhmr0749人間七七四年
2007/05/29(火) 22:27:12ID:+O7kAmsb>したんだよ、知らなかった?三方原のようにおびき出して北条を叩き
>潰したわけ、駿河に駐屯している北条勢が邪魔だから一喝しなといけ
>ないでしょ
甲陽軍艦www
0750人間七七四年
2007/05/29(火) 22:29:24ID:wwcCRDEP信玄は信長や将軍との仲介を頼み謙信と和議するのでした。
0751人間七七四年
2007/05/29(火) 22:32:21ID:wwcCRDEPまあみっともないものをひた隠しにしたいという関東人の姑息さは
現代人でも同じなのかな?
武田勢を打ち破ったなんて捏造をどうどうと書いている北条でした。
0752人間七七四年
2007/05/29(火) 22:35:46ID:+O7kAmsb0753人間七七四年
2007/05/29(火) 22:37:30ID:wwcCRDEP0754人間七七四年
2007/05/29(火) 22:39:26ID:tJVS4Llv元就&輝元は秀吉にすら何もできず、重臣を討ち取られ一方的に領土を奪われ滅亡の危機
本能寺の変という運に恵まれただけの毛利なんてカスだよ
0755人間七七四年
2007/05/29(火) 22:42:59ID:tJVS4Llv0756人間七七四年
2007/05/29(火) 22:45:37ID:wwcCRDEP元就の外交は中国地方限定と小略的
0757人間七七四年
2007/05/29(火) 22:46:28ID:PElZ0/uR武田厨の端くれなら孫子読んでこいボケ
0758人間七七四年
2007/05/29(火) 22:52:09ID:T5yrcTEc0759人間七七四年
2007/05/29(火) 23:15:01ID:eW7yhz1r0760人間七七四年
2007/05/29(火) 23:39:52ID:PmzBFDzk>>682
最近の流れだと
甲州法度
これに関しては今川仮名目録に強い影響を受けている、それまでの慣習、
信虎の出した法をまとめたものとされている
狼煙台
ソースが存在せず、当時としては一般的な事柄だったと推定されている
税制
1522年に信虎が甲斐一円に棟別銭を課した『塩山向嶽禅庵小年代記』のを初めとして
基礎的な税制は信虎時代に整えられた
信玄に肯定的な学者は信玄時代に様々な新税が課されていることから信玄が税制を
発展させたと
否定的な意見だと北条などの税の簡素化と比較すると逆行しているとか
鉱山発掘
考古学側の調査によって多くが信虎時代(山によってはそれ以前から)に
開発がはじまったことが判明
松木氏?に伝わるといわれている伝承だと信虎の代により伊勢から来たとか
めむしろ被官化していない証拠
検地
検地に関しては関連史料合わせて70ほどあるらしいが
すべて差出 寺社家臣の権利を認めるためのものが多いとか
隠し湯
『川浦湯屋造営下知状』がソース
以前からあった寺社の造営を許可しただけであって、
それを通説の隠し湯と結びつけるのはおかしい
0761人間七七四年
2007/05/29(火) 23:41:51ID:PmzBFDzk鉱山発掘
考古学側の調査によって多くが信虎時代(山によってはそれ以前から)に
開発がはじまったことが判明
松木氏?に伝わるといわれている伝承だと信虎の代により伊勢から来たとか
金山衆の被官化
肯定 1570年ぐらいに出された感状をソースとしている
否定 その感状の形式が家臣に対するものではなく外部の者に対する形式と一緒であるため
むしろ被官化していない証拠
0762人間七七四年
2007/05/29(火) 23:44:24ID:PmzBFDzk上にもあったが『高見沢文書』が唯一のソース
肯定 原文だと思うから、内容形式が現在から見ておかしくてもそれは些細な問題で
正しいに決まっているこの史料が棒道に当て嵌まらないなら何を指している?
現在棒道とされている道のほとんどが荒野と化している以上昔からあったなどではなく
純軍事目的に造られた道、つまり棒道に違いない
否定 文章の内容がおかしい、駿河攻め上野攻めの時に出された道に関する文書は
ちゃんと夫役を申し付けているのに、これは命令書になっていないため信玄がやらした
わけではない
軍事目的だとしても何故複数のルートが必要なのか?
何故目的地が諏訪までなのか、出発地は甲府なのに目的地が上原とかの具体的
目的地ではなく諏訪という曖昧な地域を指しているのか
信玄堤
1 竜王に新村を作るよう指示した文書
2 川の氾濫に対しいくつかの村に復旧するよう指示
3 破損した用水路の修復の指示
4 堤防の維持に勤める代わりに棟別銭免除
などがソース
否定
1はそもそも諏訪への街道整備の一環として出された宿場町建設のための文書
それを通説の信玄堤の証拠に転用するのはおかしい
2は国主として当たり前の事で信玄堤のソースになっていない
3も当たり前のことまたそれ以前や他地域にも普通にあることなので特別扱いすることではない
4も当たり前のことでその時代にそこに堤防があったことは分かるが信玄が堤防
を造ったという証拠にはならない
そもそも棒道も信玄堤もそれほどの事業なら『妙法寺記』や『王代記』に
何も記述が無いのはおかしくはないか?
と言った感じに揉めているのが最近?
ただ棒道や信玄堤などを肯定している学者の本でも最近は
殊更強調するのでなければ信玄の功績として構わないとか、
通説のような功績は無いからといって信玄の功績のすべてを全否定すべきではない
などとトーンダウンしていて、実質否定派の意見に近づいている
あと何年かすれば信長の楽市楽座や兵農分離などと同じような扱いされるかもしれない
0763人間七七四年
2007/05/29(火) 23:50:54ID:kpIo9jUE0764人間七七四年
2007/05/29(火) 23:56:23ID:8wk0PI6Rhttp://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1171627914/
教来石景政=馬場信春のスレ
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1169044696/
●風林火山の視聴率について語るスレPart8●
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1179148482/
甲 斐 の 山 猿
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1179929778/
風林火山の織田信長・木下藤吉郎・松平元康
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1168667282/
いろんなところで見るな
0765人間七七四年
2007/05/29(火) 23:58:11ID:8wk0PI6Rhttp://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1168292422/
0766人間七七四年
2007/05/30(水) 00:03:37ID:Nf1pD0Cg言ってるの?信虎がどれだけそれをもって繁栄させたんだよ。
鉱山発掘にしろ法整備にしろ税制にしろ、信虎時代に実地されて
いたならとっくに勢力拡大出来たでしょ。
税制の統一は領国経営の大きな根幹で、江戸時代の甲斐には大小切
と呼ばれる独特の税法があった、その始原は信玄時代にまでさかのぼる
といわれている。
田畑貢租を三等分しそれの三分の二を物納、残り三分の一を金納すると
いうもの。
この税法は後に改正されて大切分の三分の一も金納するようになったが
これはその年の公定米価に換算して納めたもので、さして珍しいもので
はない。
大小切法の特異性は、むしろ小切のほうにある。小切値段は江戸時代を
通じて、金一両につき米四石一斗四升という換算比率がすえおかれている。
これは農民にとって極めて有利な税法だった、米価は次第に上昇していったが
換算率が300年近くも一定だった為実質的な貢租負担率は米価に反比例して
減少していったからである。
0767人間七七四年
2007/05/30(水) 00:13:58ID:Nf1pD0Cg今川の影響を強く受けているっていう根拠はなあに?
信玄が作った法整備の否定になってないんだが。
0768人間七七四年
2007/05/30(水) 00:17:09ID:6Jlr+Oi3なんという史料にあるのか?
0769人間七七四年
2007/05/30(水) 00:23:10ID:scG9Nwc+武田が割れやすいからだな
0770人間七七四年
2007/05/30(水) 00:25:55ID:Nf1pD0Cg堤が完成し出したのはいつか説明出来ないといけないね、それが出来ないと
否定する資格は無し!
棒道だが、「高見沢文書」によって示される棒道開削は「補修」と理解
されるという、ちなみに対して信濃攻略が出来なかった信虎の時代に
積極的に行われてきたものとは考えにくい。
0771人間七七四年
2007/05/30(水) 00:27:35ID:hJ1FDTAM上洛スレはおかげ様で書き込み激減だよw
0772人間七七四年
2007/05/30(水) 00:30:29ID:KuRsO4+u>信玄が作った法整備の否定になってないんだが。
もとから否定も肯定もする気は無いんだが
文頭に書いたようにあくまで最近の学者の流れを紹介しただけ
影響を受けているという根拠は似たような条文が書き出しあるからでしょ
逆に影響を受けていないという学者が論文があるなら是非教えて欲しいのだが
0773人間七七四年
2007/05/30(水) 00:35:36ID:KuRsO4+u棒道だが、「高見沢文書」によって示される棒道開削は「補修」と理解
されるという
つまり信玄が作らせたとしても一から作ったわけでは無いということでしょ
また補修と解釈しても信玄が作らせたかどうかもまだ揉めている
0774人間七七四年
2007/05/30(水) 00:39:53ID:Nf1pD0Cg認識だからね、以下のようなことを今川はやってるの?
数ある戦国法典の中でも傑出した内容を備えてるんだよねえ、その評価の高さは、信玄
自らが遵法の姿勢を明らかにし法を犯した場合は責任を負うことも辞さないとま
で公言しているという事を見ても容易に理解出来る。
現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。
0775人間七七四年
2007/05/30(水) 00:48:22ID:Nf1pD0Cg別に一から信玄が作らなくても目をつけて改修するだけでも凄いと思うが、
大規模な軍勢を素早く送り込む為の直線的な軍事要路が棒道だから、一万
以上の兵を率いて信濃に攻め入ったことのない信虎が建設したとは考えに
くい。
0776人間七七四年
2007/05/30(水) 00:50:30ID:5CoQ1kvx普通に資料を読むんじゃなくて、資料から必死に信玄マンセーになりそうな箇所を探し出して勝手に解釈してるだけというか。
つーか真面目に戦術面やら戦略面やらで元就と信玄比較してた奴らは
前スレのメガ豚自演誤魔化し連投などに呆れて消え去り
今残ってるのはメガ豚に構ってあげる優しさと暇な時間とを兼ね備えた奴らだけって感じだね、ここ。
0777人間七七四年
2007/05/30(水) 00:50:36ID:KuRsO4+u>数ある戦国法典の中でも傑出した内容を備えてるんだよねえ
具体的にどの部分?番号は?
>現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
>の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。
ぶっちゃっけその部分は今川仮名目録の影響受けているという部分なんだが・・・
0778人間七七四年
2007/05/30(水) 00:57:57ID:KuRsO4+uだから一番最初に書いたように
肯定的な学者も否定的な学者も
通説としての信玄の内政は否定、だけどそのすべてを否定すべきでもないと言う論調
信虎が建設したとかでなく昔からあったんじゃないかと言う話し
最も信虎も信濃佐久に対して伝馬制を整えているかある程度
補修しているかもしれないが
取りあえず棒道に関してはソースが足りないと言うのが問題なんだろうな
0779人間七七四年
2007/05/30(水) 01:00:56ID:Nf1pD0Cg最高権力者である信玄自らが、遵法の姿勢を明らかにし、法を犯した場合は
責任を負うことも辞さないって記載条55に書いてあるよ。
まあ確かに元々は今川の家法を元に二十六カ条からスタートさせたんだろうが
同世代の義元はそれ以上のものを作ったの?北条も
0780人間七七四年
2007/05/30(水) 01:07:17ID:KuRsO4+u>で公言しているという事を見ても容易に理解出来る。
あとこれは大名権限の低さの証明と捕らえる人間の方が多いと思う
他に最後の方にある(50以降だと思うが)譜代が威張らないようにとかは
国内の国衆に気を遣っているとも考えられる
今川の方は逆に
勝手に戦争するな婚姻結ぶな商人と商売するな
今川の派遣した役人に従え
不入の権なんて存在しないよ
みたいに国衆を統制する内容が多い
0781人間七七四年
2007/05/30(水) 01:10:41ID:N4XtVA4V平山優氏の説では
当初の甲州法度26か条のうち12か条に今川仮名目録の氏親が制定した
33か条の影響が見られるとのこと。ただし義元の増補版の影響はほぼ見られず
甲州法度が増補された57か条においては一条しか今川仮名目録からの
影響は見られず、天文16年以降は武田は今川の経験を参考にせずに独自に
法度を定めていったのだろうとしている。
0782人間七七四年
2007/05/30(水) 01:12:22ID:KuRsO4+u本当に早雲が作ったのか?という問題もあるが
あれは内容的に比較すべきは武田信繁の方だからあまり意味が無い
>>780
つけたし
甲州法度も他国との通信を一応制限していたな
国境のものはしてもいいよとなっているが
0783人間七七四年
2007/05/30(水) 01:15:34ID:Nf1pD0Cgそれはそう解釈する連中の方がおかしいだろ、現に大名権限の低さなんて
いうが独裁すぎてもいかんだろ。
まあ57カ条の信玄の分国法と義元の33カ条では(先に死んだせいもあるか
もしれないが)どちらが勝ってるかは言うまでも無い。
とにかく分国法は民政の基本であり、領国経営のバックボーンを成すわけでしょ?
信玄はその治国方針を成分化することで領民に指標と行動基準を示し、法秩序の
確立をはかった。
0784人間七七四年
2007/05/30(水) 01:27:00ID:Nf1pD0Cg商業政策や税制にしろ、これだけ多数行う程傑出した政治家は
信玄以外にこの時代いないでしょ。
0785人間七七四年
2007/05/30(水) 01:27:05ID:KuRsO4+u順次増やしていったか当初から55条だったかは置いておくとして
義元の増補版の方は大名権限が強すぎて
武田の内情に合わないから参考にしようにも参考にならないのでは?と思う
まあそれ以前に甲州法度が当初から55条じゃ義元の増補版は影響しようにも
年代的に無理が生じるが
>当初の甲州法度26か条のうち12か条に今川仮名目録の氏親が制定した
>33か条の影響が見られるとのこと。
個人的には当時の慣習を条文にしたため今川仮名目録と甲州法度に
共通の部分が多いだけなんじゃないかと思うけど、どうなんだろ
>それはそう解釈する連中の方がおかしいだろ
あれを逆に数ある戦国法典の中でも傑出したなんて捕らえる学者なんてまだ残っているの?
>まあ57カ条の信玄の分国法と義元の33カ条では(先に死んだせいもあるか
>もしれないが)どちらが勝ってるかは言うまでも無い。
あと多いほうが上って正気?
ちなみに義元が作ったのは1553年『仮名目録追加21条』
33条は氏親で1526年
甲州法度は1547年で1554年に追加2条
自分も寝る
0787人間七七四年
2007/05/30(水) 01:35:03ID:Nf1pD0Cg「何でも余の命に従え!」とアホな凡将が多かった戦国の世で、自らも戒めるような
条文は他の大名には見られなかったからね。
それからなあ(笑)軽薄な条例であれば多くても意味ないだろうがそうじゃないだろう(笑)
そもそも親子2代で作ったのと信玄一代で作ったのとじゃあそりゃあどちらが凄いかは伺える。
0788人間七七四年
2007/05/30(水) 01:38:10ID:PRmWe5xB治水新田
鉱山発掘
狼煙棒道
商業政策や税制
領国の基本だろ、これやらないで大名って他に仕事あるのか?
鉱山あれば誰だって発掘するし水害があれば治水は当然だし
信玄が行った商業政策に真新しいものは特に無い、その上信玄が主導したなんて
記述どこにもない。狼煙なんて2000年前からあるもの自慢にも何にもならない。
棒道も信玄堤も信玄主導したという記述は無い。あるというなら根拠を示せ。
メガ豚の信玄神話はもう聞き飽きた。
0789人間七七四年
2007/05/30(水) 01:50:18ID:Nf1pD0Cgもうやめとけ、自分が惨めになるだけだよ、てゆうか元就の信玄より
勝ってる内政手腕はどうしたの?(笑)
君の言ってることは要するに信玄の内政手腕は何もかも捏造だと言いたい
んだね、そんな風に言ってて君自身が自滅レスしてることに気がつかない?
甲斐の国の水害と鉱山とそれに対する政策を他の大名と一緒にするなと何度
言わせれば気が済むのか、全くwww
レスの流れで憤りを感じてるのが手に取るように分かるよ(笑)
「甲陽軍艦」、「甲斐国志」、「高白斎記」、「農政本論」、1560年八月の古文書、
1552年武田晴信竜朱印状、などなど
様 々 な 史 料 が あ り ま す よ 〜 〜 〜 〜 ^▽^
0790人間七七四年
2007/05/30(水) 01:54:00ID:6Jlr+Oi30791人間七七四年
2007/05/30(水) 01:59:20ID:Nf1pD0Cg江戸時代、甲陽軍艦のあまりの評判の良さに刺激されて「信長記、太閤記、北越軍記」
などがやや遅れて版本となったが、兵制の根幹にすえられた軍艦の用途とは違い、
軍記物、戦記物としての読み物としての需要の方が高かった。
甲陽軍艦のあまりの評判の良さから、これに嫉妬して批判を加えようという書物まで
現れるにいたった。「甲陽軍艦評判」とか「甲陽軍艦弁疑」といった書物である。
松浦鎮信が編集した「武功雑記」という書物が、決定的に軍艦を否定した。
0792人間七七四年
2007/05/30(水) 02:02:07ID:Nf1pD0Cgま、俺は君達の言う通り多くの史料を紹介したんだから、そんなに気になるんなら
他は 自 分 で 調 べ な さ い ね ^▽^
いい加減成長しろよアンチは、幼稚園児じゃないんだからさあ
0793人間七七四年
2007/05/30(水) 02:04:32ID:RaPLbarR0794人間七七四年
2007/05/30(水) 02:05:21ID:yRd0x7bL760によれば肯定派でも今まで言われてきたような信玄マンセーからはだいぶ落ち着いて
きた様だし、信玄の功績は通説よりは落ちると見ざるを得ないな。
0795人間七七四年
2007/05/30(水) 02:10:39ID:PRmWe5xB0796人間七七四年
2007/05/30(水) 02:15:42ID:Nf1pD0Cg明治の史学会をリードした田中義成博士は甲陽軍艦に学術的な批判を加える。
この愚か者は正式な学術論文を書かず、当時思いつくままに書かれた甲陽軍艦
の読後感想文を学術論文としており、裏づけ史料を求めることもなく甲陽軍艦
の価値を引き下げるような事をしたと言われている。
その結果、軍艦は学術書として取り上げるのは危険とし、敬遠されたばかりでは
なく、信玄の歩みの前半期に活躍する山本勘助は、軽輩もしくは架空と見なされ
伝説の人物という評価が揺ぎ無いものになってしまった。
しかし昭和四十三年に勘助の実在を示す重要史料が発見され、ようやく勘助は日の目
を見るやに思われたが、史学の主流は田中説をそのまま支持しているから、勘助の
実在を相変わらず疑ってるのである。
ではそのアホな田中博士はどんなことを行ったのか?
0797人間七七四年
2007/05/30(水) 02:20:32ID:Nf1pD0Cg見れば見る程笑えるwwwお前らって信玄の事業一定理解していた
つもりでいたんじゃないの?その上で批判ばかりしてたんじゃないの?
そんな一文>>760>>762見ただけでまーーーた喜んで喚くあたり、結局
ただ単に信玄叩きがしたいだけなんだな、まあそれより元就の話を進めろよ
君達は君達でね(笑)いつになったらまともな元就の統治能力を教えてくれるの?
無 い な ら 無 い で 早 く 謝 罪 す れ ば (笑)
0798人間七七四年
2007/05/30(水) 02:42:19ID:Nf1pD0Cg「武功雑記」というものは甲陽軍艦を決定的に批判しておりその一文を
掲げてみると、
「勘助子、関山僧にてちと学問有りしが、甲州信州の間にて信玄の事など覚書して
置たる反古などを取りあつめ、吾親の勘助事を結構につくり書たるなり。是を高坂
弾正が作といつわりて書たるなり・・・・・・・・・・」
と疑ってかかったのである。
田中博士はこの記録にさらに学術的批判を加え、この甲陽軍艦は、甲州流軍学を起こした
小幡景憲自身が、いろんな遺記をつなぎ合わせたのだと言い切ったのである。
この博士の論説は、その頃日本で唯一の官学の牙城である東京帝国大学の教授が、史料を
検討した上での研究ということであったので近代的な視野にたっての学術論文として大いに
注目され、それまで高かった甲陽軍艦の価値を大幅に引き下げる結果になるのである。
田中博士は、先に言ったように、正式な学術論文を出さず当時思いつくままに書かれた軍艦
の読後感想文を出してしまっているのである。極めて軽い気持ちで裏づけ史料を求めることも
なく「武功雑記」などが伝える巷間の極めて怪しい史料を素材にあげて批判してるのでる。
山本勘助の子の関山僧などという人物は、どこを探しても出てくるはずもなく、ましてや勘助
が山県昌景の一部卒に過ぎないという説も、とるに足らない伝説の見本のようなものであった。
0800人間七七四年
2007/05/30(水) 08:41:52ID:iCcpEn4Mことを考えれば、答えはおのずと明らか。
武田家は当主から跡継ぎへの権力移譲が2代
に渡って円滑に行われていない。
そのため移譲のたびに家臣団が分裂するはめになった。
一方、毛利元就は謀略を駆使した新興勢力であることを
良くわきまえ、中国者の律儀という方針を徹底させて、
傘下の豪族の信頼を得て戦国時代を生き残った。
0801人間七七四年
2007/05/30(水) 09:09:34ID:KxQSkCPa0802人間七七四年
2007/05/30(水) 09:12:41ID:76WCUDTX戦術戦略関連で真面目に語ってた連中がいなくなったのもわかる
「岩見銀山を朝廷の御料所とする方策」なんていうのは初見、かつ金山をいくつも持っていた信玄にも見られない新しい材料なのに
あっさり無視されてるw
0803人間七七四年
2007/05/30(水) 09:13:28ID:76WCUDTX0804人間七七四年
2007/05/30(水) 12:26:46ID:5CoQ1kvx後継者問題も目を覆いたくなる程の決定的な失敗だったが、それまでの積み重ねも見逃せない。
外交裏切り連発の勢力拡大法は、間違いなく後年の滅亡へと繋がった布石の一つ。
元々が信玄は境遇的に坊ちゃん大名と言っていいからな。
親父の信虎追放は家臣団が主導して担がれただけだし、信繁も良く出来た弟で内乱も起こさず支えてくれた。
そこら辺の、人格的な驕りが信玄にはあったんじゃないか、という気がする。
信玄って男の生涯は(特に晩年の駿河侵攻以降は決定的に)
勢力を拡げる毎に敵を作り、滅亡へのカウントダウンを早めていったのだという部分が面白い。
やっぱ親子だから信虎に似てるんだよ。手段を選ばず周りから嫌われて自滅するってコースが。
元就は根っこに「自分は成り上がり者に過ぎない」という考えがあって
それを常日頃から息子や家臣団に言い聞かせてたからね。
謀略で尼子を内部崩壊させた元就の事だから、如何に国の内部を固める事が重要か身に染みて分かってたんだろう。
あと誰もツッコまんから俺が書いとくが
信玄の戦略はスケールが大きく、元就のそれは小さいって何の冗談だ?
北は本願寺から南は大友まで、ほとんど日本の半分に近い程の大きさで元就の名前は出てくるぞ。
京都の将軍、足利義輝との親交が深かった事も見逃せない。
中国統一の総仕上げ・尼子攻めの際に、後方の大敵・九州の大友との和議にも繋がったしな。
大体が四方を海に囲まれた中国地方と、四方を山に囲まれた甲斐信濃じゃ明らかに後者のが狭い世界。
当時の最も重要な交通手段は船。主な経済都市が港に面してる事からも分かる。
まぁ、そもそも元就の出発点は同じく安芸の山国で、それを異常なほどに大きくしたから海に突き当たったって感じだけどな。
0805人間七七四年
2007/05/30(水) 12:54:35ID:mS5TiRAqこれは暗に負けを認めているということだな
0806人間七七四年
2007/05/30(水) 17:29:59ID:Dt38//uv元就は自分より遥かに大きい勢力と何度も戦って勝った。
0807人間七七四年
2007/05/30(水) 19:12:55ID:c2rdpQ4sワンピ一巻でいうと
元就→シャンクス
信玄→名無しの山賊頭領
みたいなもんだ。
0808人間七七四年
2007/05/30(水) 19:18:41ID:5CoQ1kvx信玄は「劣る相手に勝ち、同勢力相手にはジリ賓、大恩ある織田に喧嘩売って自滅」が正しいかと。
前半部分は間違ってないと思うよ。弱い相手潰して強大化するのは立派な戦略だ罠
川中島の和睦後すぐ騙し討ち→そこまでやっても上杉に勝てず引き分け。更に汚名が広がっただけ損、など
どうも大名同士での戦略駆け引きの段になると、粗が目立っちゃうのが困り物だけど。
冬季に攻め立てて朝倉の援護を当てにしてたら
「はぁ?俺らんとこ冬になったら雪降って動けんぜ。何言ってんだお前」と返されてポカーンとかね。
ちょっとスケールが小さすぎるし、織田を敵に回すにしちゃ、あまりに遠くの物が見えなさ過ぎる。
やはり信玄は、どこまでいっても「甲斐の虎」。
立派な英傑ではあったが、甲斐一国の名主として終わるのが本人にとっても幸せだった希ガス
元就に関する戦略を語ると、敵が強すぎたのは散々既出だが、コイツの場合
戦略ではもーどうしようもない力の差を、戦術的勝利で覆しちゃう変態だからね。
有田合戦しかり、厳島合戦しかり。
「劣勢で大軍相手に勝つ」「しかも総大将討ち取り」とかね、有り得へん。
第二次月山富田城攻略戦とか、巧妙に敵の力を削っていき、天下の名城を陥落させた見事な戦ぶりなのに
元就の戦績の中じゃ大して目立たないんだもん。
そら優秀な隆元でも親父に対して劣等感抱くだろなー、って感じ。
そーいや信玄が、毛利元就を「英雄である」として称えたという逸話は見つかるんだが
逆に元就が、武田信玄を称えたっていう逸話は見つかんないんだよなぁ。信長に対してならあるけど。
「中国一帯を制した覇者と、関東の一部地域で小競り合いしてただけの一大名を比べりゃ、そんなもんだろ」
と言われてしまえばそれまでだけど、ちょっと寂しい。
0809人間七七四年
2007/05/30(水) 19:40:16ID:c2rdpQ4sこれも村上や長野の豪族に戦術では負けておきながら国力に物言わせて勝ったんだから
国力が互角以上の大名相手には勝てる道理がない罠。
オレ朝倉好きなんで少しだけフォローしてくれてウレシスw
0810人間七七四年
2007/05/30(水) 19:50:07ID:KxQSkCPaしかし、元就は戦に頼らず調略によってなるべく血が流れないように頑張ってる。
どちらも孫子に沿った名将だが、信玄は下策で元就は上策に長じていたんだな、実際
0811人間七七四年
2007/05/30(水) 20:06:36ID:bnacfITV虚像の横行って怖いよね。
0812人間七七四年
2007/05/30(水) 20:09:54ID:5CoQ1kvxそれで実績残してるのが大事だよ。前例があろうと、効果が見劣りしても、プラスはプラス。
信玄の内政家としての手腕は評価して欲しい。
俺、軍事なら「元就>信玄」内政なら「信玄>元就」派だし。
0813人間七七四年
2007/05/30(水) 20:16:52ID:Dt38//uvそれまでは、力押し一辺倒だったよな。
信玄が元就の立場だったら即滅亡だな。
0814人間七七四年
2007/05/30(水) 20:29:10ID:c2rdpQ4s0815人間七七四年
2007/05/30(水) 21:30:07ID:PEY9N/xg軍鑑みたいに史実をベースにしつつ、創作を載せているモノが一番性質悪いね。真偽の判別が困難
0816人間七七四年
2007/05/30(水) 21:39:06ID:N4XtVA4V海賊が主力なんていう説まであるくらいだぞ。
0817人間七七四年
2007/05/30(水) 21:45:36ID:PEY9N/xgロクな史料がないって説はないぞ
それは「毛利の主だった武将への感状が見つかってないから主力は水軍じゃないか?」という話
史料量は毛利方・陶方武将の覚書や書状、神官の覚書などがいくつもあるべ
0818人間七七四年
2007/05/30(水) 21:49:18ID:1ZCdGnlM0819人間七七四年
2007/05/30(水) 21:57:07ID:jbtLXNYa綿密な計画のもとに実行された厳島とは天地の差
0820人間七七四年
2007/05/30(水) 22:09:11ID:oHbtjQky0821人間七七四年
2007/05/30(水) 22:11:09ID:5CoQ1kvxまぁ義元と比べりゃ、流石に厳しいが。
そもそもの話が「有田合戦を乗り切れるのって元就の他には信長くらいしかいないんじゃない?」
なんだから「一緒にするな」とかいうのも的外れな気もする。
実際、元就レベルの智謀か、信長レベルの神懸り的な強運がなきゃ
大抵の武将は有田合戦で滅びていただろう、というのは特に異論はない。
こういう次元の話になると前スレで「今川氏真すら討ち取ってない」と揶揄された信玄が可哀想だな。
あと遅レスだけど>>720
確かに元就の民政も充分凄いんだけど、直轄領支配とかどうも軍人の発想って気がすんだよね。
あくまで領土拡大の延長戦上にある方策で、国力上昇とかとは違う分野での政治力かなーって。
朝廷への工作など、外交手腕で言ったら元就は信玄より圧倒的に上だろ、ってのは同意なんだが。
0822人間七七四年
2007/05/30(水) 22:24:45ID:XbFeQTJ+0823人間七七四年
2007/05/30(水) 22:33:12ID:c2rdpQ4s武田氏が相手だったんだから一度くらい撃退しても何度も攻められていずれは国力の差で負ける。
元就・信長くらいだろ。こんな絶望的な状況下で敵総大将の首とって戦局ひっくり返した実績がある奴。
信玄なんか論外。
長野業正や村上義清なら、もしかしたら一度勝って追い返すくらいは出来るかも試練
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