毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
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0001人間七七四年
2007/05/14(月) 06:19:06ID:jnNXqIUx武田信玄>>毛利元就は定説です
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1159020720/
毛利元就>>武田信玄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/
0567人間七七四年
2007/05/22(火) 20:35:03ID:Y/nr/wRE(下手すりゃ家督相続すら危ういことに)
0568人間七七四年
2007/05/22(火) 20:43:51ID:nAK7re4Gその図式の内紛をまさに元就自身が経験してるからな。
だから逆に正室の子を本家に置きたくなかったのでは?
でなけりゃ妻の実家でそれなりの年齢になってた吉川家のケースはまだしも、
元服前の子供を小早川家に送り込んだりなんかしないと思う。
0569奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/22(火) 21:14:13ID:KNhJ3ObA0570人間七七四年
2007/05/22(火) 21:33:54ID:lKSsREPw毛利輝元の養子だった毛利秀元は
元就の4男の穂井田元清の子供だね。
輝元に息子秀就が出来て自ら世継ぎを返上して
お家騒動の禍根を断ってるけど、
秀就と秀元は仲が悪かったようだ。
0571人間七七四年
2007/05/22(火) 21:50:52ID:i2oSygb9実際には隆元にはちゃんと嫁が来て輝元生まれてんだし、
0572人間七七四年
2007/05/22(火) 23:26:18ID:ow9UlS2P嫡男を殺して、四男に家督を継がせて、家を滅ぼした信玄。
0573人間七七四年
2007/05/23(水) 00:54:42ID:WU8NWkjF「これでやっと アニメの国で 萌え放題」
とかにしとけ馬鹿。
0574人間七七四年
2007/05/23(水) 00:56:15ID:WU8NWkjF「これでやっと ライトノベルで 萌え放題」
とかにしろよばーか。
0575人間七七四年
2007/05/23(水) 04:16:55ID:FbKYr4/k>>甲越和与って具体的に何年続いたの?
とりあえず成立したのは1569年7月。信玄が利根川で謙信と対峙するのが
1572年1月だね。信長に友好的な手紙もこの一月には送っている。
このころには当然氏康は死んでいるよ。
>>越相同盟の崩壊は北条の和議条件の不履行、それに伴う謙信の不信感、さらにそれに対する不信感と、スパイラルな様相
和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって、信玄がどうしようがいずれ崩壊に向かう
いきなり論旨が変わったように思えるが?あなたが>>508でいっていたのは氏康の死によって
越相同盟が崩れたという事ではなかったのか?いつから予定調和になったんだ?
和議条件の不履行は氏康の時に起こっているのだし、それなら氏政の判断云々は関係ないな。
>>薩垂で互角に戦うって対峙戦じゃないか
さらに徳川が来て挟撃受ける形で撤退
信玄が撤退したのは上杉が北信濃を突く動きをみせたからだと思ったが?
家康はまだこのときは掛川城を攻めている途中だったはず。開城は5月17日じゃなかった?
信玄が一旦駿河から撤収したのは4月の末だったはず。
>>というか軍事目標達成できずに兵を引いたのに互角に戦ったって凄い強がりだな
駿河を維持できずに撤兵したのは言うまでも無く負けだ
その定義に従うなら小田原攻めで牽制の目的を果たし、駿河を攻め直して北条軍と戦い、
武田が駿河を氏康死去までにあらかた制圧したのは北条の完敗でいいんだね?
>>そもそも信玄が消極的に駿河攻めなけりゃ四方八方敵だらけという状況は回避されたわけだが
そのまま上野から越後にでも向かえばいいのにな
そもそもその前に今川は上杉と組んで武田と共闘する姿勢をとっている。あのままほうっておいても
三国同盟は崩れただろう。なら自分で主導権をとって戦うのはわるくないだろう。
その越相同盟が結局使い物にならないのは貴方も認めたんじゃないの?
0576人間七七四年
2007/05/23(水) 09:44:45ID:xpBxXA7s議論しか出来ないんだな
いいかい?武田の滅亡の原因は、織田領が毛利や上杉よりも武田に近かった
から先に攻められただけ、その後の信長に攻められた毛利や上杉の落ちぶれ
を見ても分かる通りに、家督の相続の仕方がどうのこうのなんて関係ないんだよ
毛利なんてろくに戦もせずにどれだけ改易されたの?((笑
本能寺がなければ両家も100パーセント滅亡してたね
0577人間七七四年
2007/05/23(水) 10:00:49ID:GypVpo/lその論法でいうのなら、
「武田が毛利より何年も先に織田に一方的裏切りかましたせい」のほうになるんじゃないの?
近いといえば徳川が一番近いぞ
0578人間七七四年
2007/05/23(水) 11:19:04ID:jN178D7i当然、元就は自分でそういう真似したわけじゃないから退潮の責任無しとw
0579人間七七四年
2007/05/23(水) 11:53:18ID:9pGZ+Uqu徳川攻めた後、織田と関係が悪化してもまた同盟できると考えたのか、
信玄は同盟だろうと姻戚だろうと相手が弱体化すれば裏切ってきたから、
信長の将来の行動を自分に当てはめて予想したのか
0580人間七七四年
2007/05/23(水) 13:33:25ID:yRK6Lx/l氏真の「武田と一緒に徳川攻めるようなことしたら、うちも乗っ取るんじゃないか」という挑戦的な書状は、武田の背信を責める意味もあったんだろうね
自分から工作しておいて、相手が対抗措置取ったから背信っていう理屈はそれこそ武田贔屓にしか通じないよ
0581人間七七四年
2007/05/23(水) 16:41:07ID:zOl0U24Zまるで甲越和与が三年間継続されていたみたいな書き方だなおい
もういっかい詳細に書いてみ?
むしろ謙信が北条からより有利な条件引き出すために政治的に利用されてる側面があるから
>>508が言ってるのは再同盟の要因だろ?
その後で崩壊に至ったのは「それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。」といってるが?
崩壊に至った要因として氏政の思考と挙げているところから養子の問題に関することだと思うが、氏政が無関係ね?ほぅ
駿河についてはそれでいいんじゃない?
っていうか氏政本体は駿河にいないはずだがね
奇襲して失敗して鉢形攻めて落とせず、小田原城の前で焚き火して、将軍・信長に泣きついて、甲斐に舞い戻って再度出兵して本体のいなくなった駿河をようやく占拠
随分情けないがな
その前に今川と上杉が手を組んで?ひょっとして永禄十年から同十一年の?
違うなら文書名挙げてくれる?もう甲越和与で誤魔化すような事されて信用ならないから文書名一字一句間違えないで書いてね
0582人間七七四年
2007/05/24(木) 08:22:23ID:hpmc18Rb上杉北条間での利害調整が不可能、折り合いが付かない以上
武田北条間の再同盟は可能と言うことか?
0583人間七七四年
2007/05/24(木) 08:53:24ID:7MTrTiVM0584人間七七四年
2007/05/24(木) 12:39:28ID:HgDioZNt陶とは仲良くしたくて援軍にいこうとするんだけど、家臣や一門が信じられないというのでそれに従ってしまう
結果、陶は直接安芸国人に使者を出し始めたために対決のやむなきに
大河ドラマの「お人好しが仕方なく謀略を使ったら誰よりも上手くできちゃった」元就像は噴飯モノ、と思ってたけど実は一番近いんじゃないかと思うようになった
0585人間七七四年
2007/05/24(木) 15:05:17ID:fHWn53PC>>陶とは仲良くしたくて援軍にいこうとするんだけど、家臣や一門が信じられないというのでそれに従ってしまう
これってマジ話なの?
マジなら興味あるから詳しい話をヨロシク
0586人間七七四年
2007/05/24(木) 17:30:12ID:WJCwCM6N0587人間七七四年
2007/05/24(木) 18:23:44ID:naIK9dR1越相同盟を成立させた事により、関東諸将からは猛烈な不信感を買っている。
武田は綱渡りの外交を余儀なくされている。
よって、もし北条が再同盟を望めば即座に応じるはず。
北条としては箱根に隔てられた駿河より関東が優先。
里見は勢力を回復させ北条に攻撃を仕掛けている。
越相同盟が機能しないならば武田と結ぶことも十分に考えられる。
そうなっても関東諸将の上杉に対する不信感は消えない。
信濃を攻めなければ上杉は損をし、武田は得をする。
0588人間七七四年
2007/05/24(木) 18:51:20ID:7MTrTiVM言いたいのは謙信は信濃に出兵するよってことか?
それとも上杉武田の損得について言いたいのか?
0589人間七七四年
2007/05/24(木) 19:09:12ID:naIK9dR10590人間七七四年
2007/05/24(木) 20:48:17ID:7MTrTiVMもうちょっと何かを主張するなら論旨をはっきりと書いたほうがいいと思うよ
何かに対する反論なら一々それを述べていけばいいけど
とりあえず、氏康の死去から氏政の路線大転換まで謙信に予見しろというのは酷に過ぎる
0591人間七七四年
2007/05/24(木) 20:49:23ID:1Zd62npH0592人間七七四年
2007/05/24(木) 20:54:19ID:kpwWoopF武田北条はしばしば共同で陣を張って謙信と対峙しているけど、その逆は殆ど無い
0596人間七七四年
2007/05/24(木) 23:08:04ID:x8NNE9hQ>>むしろ謙信が北条からより有利な条件引き出すために政治的に利用されてる側面があるから
それのどこが悪いのかよくわからないのだが。謙信とて利害がなければ受けないだろうよ。
結局そういったゆらぎがおきるぐらいに共同歩調の困難な関係だってことだろうよ。
>>その後で崩壊に至ったのは「それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。」といってるが?
崩壊に至った要因として氏政の思考と挙げているところから養子の問題に関することだと思うが、氏政が無関係ね?ほぅ
なにか論点がずれているような気がするのだが。氏康の死後に氏政がそりゃ
武田との同盟を選択する思考と行動を行ってはいる。それを無関係とはいわない。
俺がいいたいのは氏康が生きていても武田との再同盟をいずれは選択しなければならなかったという事
なのだが。そもそもあなたの主張は>>516にあるように
北条と武田の再同盟は伊達が押されまくっていたけど総大将の急死で危機を逃れた人取り橋を伊達の完全勝利と
いうようなもの、ということじゃなかったのか?
武田の積極的な行動によって駿河は奪われ、反北条勢力との戦いも控えていて上杉も動かない北条は武田との再同盟を選択せざるを
えなくなった。これに信玄が関与していないとはいえないだろう。
>>駿河についてはそれでいいんじゃない?
っていうか氏政本体は駿河にいないはずだがね
奇襲して失敗して鉢形攻めて落とせず、小田原城の前で焚き火して、将軍・信長に泣きついて、
甲斐に舞い戻って再度出兵して本体のいなくなった駿河をようやく占拠
随分情けないがな
なんというか、悪意で見すぎだとは思うがね。鉢形も滝山も本気で攻略する気はなく
さっさと切り上げているし、それでも滝山では随分押し込まれていたみたいだが。
小田原の前で焚き火?あまりの屈辱で上杉との書状ではひた隠しにして
いるくらいなのだが。本隊がいないというが、信玄が最初の駿河攻めで他勢力の動向から
本隊を引き上げてそれを北条がとったのは勝利としておきながら、立場が逆になるとこのいい様なのか?
北条の重臣たる北条綱重は深志城で武田に破れているし、
千本松原でも武田と北条の両軍は本格的な戦いは回避していたが戦っているし、
1570年には伊豆の韮山城まで武田に攻められている。
悪くいえることではないと思うが?特に駿河ばかりではなく伊豆まで攻め込まれる状況では
他に敵も控えている北条にしてみれば折り合わない上杉との同盟に固執する事はできなかっただろう。
>>その前に今川と上杉が手を組んで?ひょっとして永禄十年から同十一年の?
その通りだが?既に1565年の段階で今川の塩止めは開始されているし、今川と上杉の同盟まで
出来上がっていればそこへの経緯はともあれ手をこまねいてみているわけにはいかないと思うが?
0597人間七七四年
2007/05/24(木) 23:36:23ID:uqkxHmZc10万石とか5万石程度だと思う
もし本当に20万石とかあったならもっと史書に名前を残しているはずだし、
そもそも上野半分も持っていたらとっくに粛清か独立って道を選んでいるはず。
甲越和与はいつまでとは難しいと思う、
越相同盟が結ばれた後も、上杉は武田北条とどっちつかずの態度でいたし、
甲相同盟が結ばれた後に、謙信は義昭信長の仲介で武田と再同盟しようとし、
武田は上杉とは結べないと信長に断っているから(1572年1月)
それ以前に破れたのだろうけど。
>>559
「当家を恨んでいない者などいない」
それって一国人の立場から大大名になるという出世をしたため
嫉妬をかっているという意味を含んでいるんじゃなかったっけ?
あまり自信が無いが。
>>569
秀包のことじゃないか?
養子になったのは元就死後だけど。
>>575
>とりあえず成立したのは1569年7月。信玄が利根川で謙信と対峙するのが
7月?具体的には?
初出は1569年2月10日『上杉家文書』だと思うが
>1572年1月だね。信長に友好的な手紙もこの一月には送っている。
それって家康攻めたことへの弁明と上杉との同盟は出来ませんと断ってる奴?
>和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって
この和睦前は上杉は北条高広に裏切られ上野の沼田のみという状態だったのだから
プラスの要素の方が大きい気もする。
>信玄が撤退したのは上杉が北信濃を突く動きをみせたからだと思ったが?
そんな動き見せていたか?
0598人間七七四年
2007/05/24(木) 23:51:29ID:uqkxHmZc>「武田と一緒に徳川攻めるようなことしたら、うちも乗っ取るんじゃないか」
>という挑戦的な書状は、武田の背信を責める意味もあったんだろうね
挑戦的というより普通に武田の背信を責めているのだと思う。
ただこの部分を信用すると武田は山賊か何かかって気がしてくるから
いまいち信用性が無いけど、それに軍鑑だし。
>>584
そりゃ毛利は安芸の土豪程度の身分だったしな、
信玄は信虎のおかげでまだましだったろうね、
信虎は1532年まで国外勢力と結ぶ甲斐国人の反乱に悩まされているし、
信玄は板垣を改易したぐらいか?
>>585
ソースは知らないが
陶が吉見を攻めた時に家中が割れたという話し。
前年に陶は毛利に備後を攻めさせ、毛利が落とした備後の城を自分のものとする、
それに対し毛利はこっそり吉見と同盟?
陶は毛利に(前年の詫びの積りか)人質を出すからと吉見攻めの援軍を求めるが
毛利家中は元就隆元は援軍を出すべき、他のものは陶とは手を切るべきと揉め
結果毛利は陶と縁を切ることに決定したという話し。
0599人間七七四年
2007/05/25(金) 00:43:42ID:kOQrAXUZ隆元は陶を討つ派じゃなかったっけ?
0600人間七七四年
2007/05/25(金) 00:43:59ID:6rmhqpK7本願寺に援助しながら織田とは直接対決を避けるって?アハハハハ
今時の日本政府じゃあるまいし、そんなどっちつかずな態度が通用
すると考えてる自体おかしいんだよ、その態度はいつでも滅亡寸前
まで自らを貶める結果になっていってしまうんだね、てゆうか最後
は吉川の周防長門2国を強引に毛利領にしてるから事実上滅亡した
ようなもんだろ。
0601奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/25(金) 00:45:58ID:Wl5N72F20602人間七七四年
2007/05/25(金) 00:53:39ID:6rmhqpK7秀吉には両川体制を散々付け込まれ結果小早川家を廃嫡にまで追い込む。
家康には関が原の西軍の中核と見なされ、大幅に改易(吉川の二国だけ残され)
戦わずに滅亡した毛利本家でした
0603人間七七四年
2007/05/25(金) 01:00:30ID:LrGbkMJO0604人間七七四年
2007/05/25(金) 01:11:00ID:6rmhqpK7毛利にとって都合の悪いことは何も言い返せず、武田に関して都合の
いいように曲解することしか出来ないのが毛利厨でした。
中国地方でしか戦略を展開してない毛利如きと武田を比較すること自体
間違ってるんだよ、そもそも我々武田ファンは毛利なんて眼中にないん
だが、毛利厨は必死になって武田と比較したがるんだよねえ。
0605長門 ◆q8GdomS4XA
2007/05/25(金) 01:25:27ID:32TkWzE/とりあえず自重汁
お前が喋ると自爆するのは確定的に明らか
0606奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/25(金) 01:30:29ID:Wl5N72F20607人間七七四年
2007/05/25(金) 01:37:55ID:Aal/E03j自己レスを修正
>>北条の重臣たる北条綱重は深志城で武田に破れているし,
北条綱重が敗れたのは蒲原城だったな。まあ、綱重も幻庵の息子で北条の一門で
その弟や城兵多数と一緒に討ち死にしているので北条にとって誉められたものではないな。
深志ではなくて深沢城だな。ここで北条の重臣にして名将と名高い綱成が敗れている。
小田原での放火は確か氏政の書状の中に触れているのがあったか。氏照は隠していたけど。
後の北条5代記とかでも隠しているし、屈辱だったのは確かみたいだが。
>>597
甲越和与についての1569年7月の成立というのは歴史群像の平山優氏の記事から。
>和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって
この部分は俺のレスじゃない。>>555氏のに答える形で書いたもの。
謙信の北信濃侵攻云々から信玄撤退については歴史群像の小和田哲夫氏と二木謙一氏の記事から
ただそれぞれは「情報に接した」「動きを見せた」と記してある事から
北条と上杉が同盟をしたことが過大な形で武田に伝わったのかも。
0608人間七七四年
2007/05/25(金) 01:54:46ID:cwl1DBDh甲越和与については戦国遺文6巻に載っていたような気もするが
ちなみにいつの歴史群像?
0609人間七七四年
2007/05/25(金) 02:01:25ID:Aal/E03j0610人間七七四年
2007/05/25(金) 02:08:38ID:cwl1DBDh0611人間七七四年
2007/05/25(金) 02:13:26ID:Aal/E03j0612人間七七四年
2007/05/25(金) 04:54:22ID:6rmhqpK7ありませんよね、大河でも取り上げられるわけがない特に主役として
これも見得と建前の関東の文化らしさなの?
甲陽軍艦>>>>>>>北条五代記ets・・・・・
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0613人間七七四年
2007/05/25(金) 07:25:36ID:oyIbsPSz甲越和与について具体的に書けというに、さらっと無視か
ちゃんと調べればそういうこともわかるからちゃんと調べろって意味だ
北条上杉間で養子縁組が成立してから北条は里見と和睦交渉再開しているが?
越相同盟交渉時にも打診してることから氏康個人は対武田に集中する意図ありまくり
崩壊理由についてはちょっと修正しようか
氏政の考えと、それまでの謙信の不履行による上杉に対する不信感(というか之は結局謙信の体たらくと言い得るか)
まあ上杉には上杉で北条が条件履行してねえからだよって言い訳があるだろうが
鉢形も滝山も本気で攻略する気は無い?都合いいなおい
信玄が負けたのは本気じゃなくて、ちょっと信玄が本気出せば百戦百勝ですよってか?
焚き火したのも事実なら、幕府になきついたのも事実、鉢形攻めて落とせなかったのも事実、なにか誤認してることあるのか?
表現が気に入らない?あっそう、なら適当に脳内変換でもしとけ
固執することが出来ない割には必死で養子縁組までまとめようとしてるがねえ?
塩止めが永禄八年?それが書かれた書状の名前を例の如く一言一句間違えずに教えて
どっちにしてもそれ以前に義信は幽閉されとるだろ
それに遠州錯乱を堀越やらに誘いかけて起こさせたのは偉大なる甲斐の生臭坊主
さらに当時の状況よ〜く今川中心に考えてみ
西の徳川が攻めてくる、遠州錯乱はおこって支配が磐石でないことが露呈した、東は手を結んでるが、北は百万石にもなろうかという生臭坊主
これで武田と「自ら」敵対しようなんて、それこそ信玄みたいなハイエナでもない限り考えんぞ
後日に氏真は徳川北条の庇護受けることになるが、武田とは合戦にまで出向いてるぐらい恨んでることからも信玄が先という認識だろうな
>>597
戦国遺文武田氏変六巻
甲越同盟によって上野武蔵の一部手に入れたが、それによって佐竹・太田たちと敵対することになったり、関東の従属勢力の協力を得られなくなったりとマイナスもあるが
さらにこれによって佐竹が台頭してくるわけだから総合的に見ればどうだろうな
っていうか歴史群像を根拠にしてる奴と話してたのか俺は
なんか疲れるわ
0614人間七七四年
2007/05/25(金) 08:17:14ID:kJvS5eS80615人間七七四年
2007/05/25(金) 08:25:34ID:CihmzE2dリスクを恐れないといえば聞こえはいいけど……
むしろ凄いのは運や敵の失策も味方したとはいえ、失敗の辻褄を合わせて結局はプラスにしちゃってるしぶとさとしたたかさ
戦国最強なんていう虚像よりそっちのほうがはるかに凄いことだと個人的には思うんだがねw
0616人間七七四年
2007/05/25(金) 10:25:11ID:B+CR0/Q3地方の特色や状況で政策も戦略もかわるので、名将であることに違いない両名。
正直、信玄と元就では甲乙つけがたいように思われます
臆病と呼ばれるほど慎重な大名は強敵になります。
仮に戦をしていても、策を練り合ってもお互い決め手に欠けると思われます。
歴史スレなので大半の方がご存知でしょうけど・・・
信玄は遺言で、北陸では上杉謙信。中国、九州で毛利元就に優る大将はいない。
と語っています。人は城、人は石垣・・・という項目の前文ですね。
(一度も自国の城を落とされた事はないし、城の囲みを解いたこともない。と何気に自慢してますがw)
敵の大きさを認め警戒している事からしても、信玄も元就も傑物だった事は確かですね。
ちなみに
若い大将では家康が優れているが、まだ未熟。氏政は論外。
信長は一向宗を敵に回して、家康がいないとどうにもならない状況に陥っている。
と語っていますね。当時の状況が伝わってくる面白い一文です。
0617人間七七四年
2007/05/25(金) 10:56:56ID:viHx5SI/もしかして厨ファンサイトから無断コピペされたあの恐るべき贔屓計算のことを言っているのか?((((;゚Д゚))))
0618人間七七四年
2007/05/25(金) 11:47:14ID:vpl5JUnHソースが無い部分が多くて筆者の想像?で書いているような
そのまま参考にするのはちょっと・・・
歴史群像によれば信玄は信虎と違って戦略が行き当たりばったりって話しもあるし
0619人間七七四年
2007/05/25(金) 14:28:32ID:Aal/E03j>>氏政の考えと、それまでの謙信の不履行による上杉に対する不信感
(というか之は結局謙信の体たらくと言い得るか)
まあ上杉には上杉で北条が条件履行してねえからだよって言い訳があるだろうが
その上杉との条件はまず折り合えないだろうし、そうなれば上杉が兵を出す事も
考えにくい。 それでも氏康は武田との全面戦争を望んだのか?
それとそっちもスルーしているが、>>555でいわれていた
5月半ばまで掛川城を攻めていた 徳川が4月末に駿河で武田を挟撃している
という情報はどうなったんだ? 煽りじゃなくて知りたいのだが。
>>鉢形も滝山も本気で攻略する気は無い?都合いいなおい
信玄が負けたのは本気じゃなくて、ちょっと信玄が本気出せば百戦百勝ですよってか?
いや、そんな事いってないよ。とりあえず本気じゃない根拠としては
永禄12年9月吉日に小山田が出した文書で「小田原への道のりで鉢形・御岳他数城を
攻撃しました。次に向かう滝山でも放火するのは必然です。」という部分があったはずだが。
北条氏邦の書状でも9月9日に御岳が、
9月10日に鉢形がそれぞれ一日ほど攻められたことが 述べられていると思うが。
これらの点から本気で攻める気はなく、目的はあくまでも小田原だったと 思うのだが。
支城も攻略せず小田原だって三日ほど放火してさっさと切り上げている事からこの作戦自体が
北条に対する牽制が主だったと思うが。
>>焚き火したのも事実なら、幕府になきついたのも事実、
鉢形攻めて落とせなかったのも事実、なにか誤認してることあるのか?
表現が気に入らない?あっそう、なら適当に脳内変換でもしとけ
随分カリカリしているが、悪意に満ちた言い方で卑小化しようとして説明したら
この言い方はないと思うが。あなたのいう焚き火は氏照が書状で隠し、
後の軍記物でも隠されるほどの屈辱だったし、
幕府になきついたというのも信玄の外交努力だし、鉢形については上記の通り。
あなたがいう北条の上杉への外交努力も、言い方を悪くすれば悪くいえるだろう。
北条本隊が他勢力の動向からいなくなったことについての是非や、
北条の重臣たる北条綱重や綱成が敗れたことは スルーされているが。
>>固執することが出来ない割には必死で養子縁組までまとめようとしてるがねえ?
それで結局どうなったかな。景虎を養子にもらったって謙信は動かなかった。
その状態が続けば氏康だってさじを投げるのは必然じゃないのか?氏政は実際投げたし。
(続く)
0620人間七七四年
2007/05/25(金) 14:29:39ID:Aal/E03j>>塩止めが永禄八年?それが書かれた書状の名前を例の如く一言一句間違えずに教えて
どっちにしてもそれ以前に義信は幽閉されとるだろ
塩止めは1567年8月17日だったか。「萩原芹沢文書」 誤認していた。失礼。
>>それに遠州錯乱を堀越やらに誘いかけて起こさせたのは偉大なる甲斐の生臭坊主
浜松御在城記か。これ自体が江戸時代に編集されたものだし、
遠州騒乱が1563年に勃発したとき
まだ第5回川中島さえ起こっておらず、信玄は西上野と北信濃の領国化に夢中だったし
信長との同盟だってまだ起きてはいない。
信玄が黒幕というのは無理じゃないか?やる意味がない。
>>さらに当時の状況よ〜く今川中心に考えてみ
西の徳川が攻めてくる、遠州錯乱はおこって支配が磐石でないことが露呈した、
東は手を結んでるが、北は百万石にもなろうかという生臭坊主
これで武田と「自ら」敵対しようなんて、
それこそ信玄みたいなハイエナでもない限り考えんぞ
後日に氏真は徳川北条の庇護受けることになるが、
武田とは合戦にまで出向いてる
ぐらい恨んでることからも信玄が先という認識だろうな
まあ、そこへと至った経緯については信玄にも非があるだろうな。
でもね、塩止めを行い、敵対国の上杉と同盟を結んでいる状態では敵対していない、
というのは 無理だろうよ。受動的であれ自発的であれ、
信玄と敵対する路線に踏み込んだのは事実。
それを信玄が放置しておくいわれも特に無い。今川氏が混乱から立ち直り
受動的な上杉氏との同盟が積極的なものに変わりえるまで、もしくは完全に近い
防御体制を整えられるようになるまで放置しておくいわれも特に無い。
0621人間七七四年
2007/05/25(金) 14:53:34ID:6rmhqpK7可愛そうな幼稚園児はどうして信玄が最強と言われてるかが永遠に理解
出来ないという単純な脳味噌で、こんな元就如きとの比較スレで喚き続ける
から始末に終えないね。
元就は自身と同等のレベルの大名と戦ったことあるんですか?リアルタイムで
自身と同様に勢力を拡大している相手と戦ったことあるんですか?
信玄は自身の領国に隣接するほぼ全ての列強より戦略的に優位に進めていった
んですが元就にはそれがないね。
ちなみに戦は一人でするものではなくて、統率の取れた強い軍団も必要、毛利
にはそれがないね。
0622人間七七四年
2007/05/25(金) 14:57:20ID:k6e4UrJ50623人間七七四年
2007/05/25(金) 18:04:43ID:Pf9cmiwv0625人間七七四年
2007/05/25(金) 18:23:06ID:9wG4dek8っ陶
しっかし不毛な議論によく厭きないなおまいら。
0626人間七七四年
2007/05/25(金) 18:27:39ID:oyIbsPSzその上杉との条件が折り合ったからこそ越相同盟が成立したんだが、それは歴史群像には書いてなかった?
武田と結ぶ気ならもっと早期に交渉開始してる
駿河戦について歴史群像には書いてなかった?
なら今度調べてきてあげるよ
それから皮肉って歴史群像に書いてなかった?
北条と武田がどうやりあってたかなぞスレ違いって歴史群像には流石に書いてないか
事実関係が知れればそれでいいだろ
てか表現が気に入らないなら適当に自分で変えりゃいいと言ってるだろうが
そんなに気に入らないなら事実関係だけ抜き出してやるよ
同盟を破棄して今川家に侵攻するも駿河経略に失敗、甲斐から信濃に兵を向け、続いて武蔵鉢形城を攻め落とせず、小田原まで南下し、放火するも甲斐に撤退、再び駿河を目指し経略を遂げる
ご納得いただけましたかID:Aal/E03j様
養子をもらってから上杉から北条へ援軍要請して断られてるんだが?
その間に関東へ武田が出兵したなんて聞いたこともないし、一体いつ上杉が北条の為に動くというんだ?
むしろ九月に信玄が出てきてるがこのときは北条の要請にこたえる形で関東に出張ってきてるんだが?
それから堀越云々は歴史群像…じゃなくて今川家譜
第四回から遠州錯乱まで約二年、第三回から武田西上野出陣まで約四年と、まあ川中島は興味ないからwiki読んでの年号だが
第五回がおこったら安全なのか?なら四回は?三回は?
ちなみに天文十五年になんと上野の長野氏に内応の誘いをかけたりしてるわけだが
まだ信濃すら納めてないのに
長野の時は余裕があって、堀越の時には余裕が無いと?ほぅ
それから何かと意図的になのか知らないが忘れてるが、塩止め前に武田家嫡男にして今川の女をめとった義信が幽閉されたりしてるわけだが
今川からしてみれば素晴らしい背信行為なわけだが、加齢にスるー?
ところで結局甲越和与の終焉については述べなかったね?
歴史群像にのってないもんね、仕方ないよね
和与成立は永禄十二年八月十日付け義昭御内書より、終焉は翌十三年八月の直江景綱の書状から確認できる
まあ例によって信玄は持ち前の生臭振りを発揮して「謙信氏ねばいいのに」なんて祈願してる
一方の謙信はどうせまた裏切るだろうから気をつけろよなんて家臣に言ってることから、武田の外交的信用は皆無みたいだな
上杉北条間の養子入りの時期について信玄と手切れ後か否かでもめてるところ見るともっと早そうだがな
0627人間七七四年
2007/05/25(金) 19:56:40ID:6rmhqpK7交通の要害でもなく険しい山岳の国であり、災害も多く生産力に極めて
欠ける国それが甲斐。
いかにスタートから一国を領有していたとはいえ、信玄が最初から恵まれていた
なんてのは単なる無知としか考えられないね。
毛利は3000貫の地頭からのスタートだったが、武田程内政に悩まされていた
わけではあるまい、少なくともスタート当初は(当主として)
0628人間七七四年
2007/05/25(金) 19:58:03ID:vaWB4VjAhttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1180002099/
0629人間七七四年
2007/05/25(金) 20:51:17ID:Pf9cmiwv生産力に欠けるたって20万石はあったじゃん
0630人間七七四年
2007/05/25(金) 21:14:13ID:0n1m09yq武田家が直轄領としていたのは甲斐でも地味の良いところが多いですよ。
まあそれらを直轄領にしたのは信虎みたいですが。
0631人間七七四年
2007/05/25(金) 21:41:02ID:B1nWfZ7x>毛利の3000貫
司馬遼太郎曰く「自転車でグルグル回れるぐらいの広さ」
>武田程内政に悩まされていたわけではあるまい
兄の残した幼児が当主で、ライバルの異母弟・相合元綱がいたり
重臣の井上氏が勢威を振るってたり、
家臣の殆どが毛利の縁戚で言う事聞かなかったり etc etc …、
信虎の代で家臣の集住とか済ませていた信玄より恵まれているってのは
一 体 ど う い う 妄 想 で す か ?
0632人間七七四年
2007/05/25(金) 21:46:02ID:pCrLaFhd0635人間七七四年
2007/05/25(金) 22:36:51ID:dnuENMGD三増峠で浅利信種を討たれている武田だって重臣と言う点では負けていないと思う
>謙信の北信濃侵攻云々から信玄撤退については歴史群像の小和田哲夫氏と二木謙一氏の記事から
>ただそれぞれは「情報に接した」「動きを見せた」と記してある事から
>北条と上杉が同盟をしたことが過大な形で武田に伝わったのかも。
この時期はまだ北条上杉間の同盟は?だし謙信がそんな動きを見せたことも?
柴辻氏などによると薩垂山で負けたから撤退となってはいるが
>>611
講談色が十分に強いと思うが
>>613
確かに氏康は里見足利と和睦して上杉とも和睦して、西上野を奪ったりと積極的で
あのまま健康であれば武田と本格的に戦ったかもしれないけど、
里見との和睦は千葉氏との軋轢生んだというし、
上杉は結局動かずどころか、武田北条再同盟後も武田と組んで北条を攻めないかと
誘っていることから上野譲った所で裏切られる可能性もありそう、
あのまま戦い続けても北条にはあまり利が無いと思う、
なんで氏康はあんな戦略を取ったのか・・・
今川に関しては同意
0636人間七七四年
2007/05/25(金) 22:52:08ID:dnuENMGD>永禄12年9月吉日に小山田が出した文書で「小田原への道のりで鉢形・御岳他数城を
>攻撃しました。次に向かう滝山でも放火するのは必然です。」という部分があったはずだが。
その文章の前後はどうなってるの?
あと小田原焼き討ちされたってそんな屈辱的なことなのか?
戦国時代じゃ本拠焼き討ちされたなんて関東じゃよくあることだけど
関東というより平野部と言うべきかもしれないが
>>620
>浜松御在城記か。これ自体が江戸時代に編集されたものだし、
そんなこと言ったら信玄の西上戦も侘しくなると思うけど
>まあ、そこへと至った経緯については信玄にも非があるだろうな。
9割方信玄に非があると思うけど、今川は受動的としか思えないが
それでもなお今川に非があるとしたら弱体化したのに武田と対等でいようとしたこととか
弱体化したこととかじゃないか?
上杉との同盟も前後の状況考えれば武田に追い詰められてだと思うが。
>>634
元亀改元は春
4月ぐらいだったと思うが
それなのに翌十三年八月は無いだろう
0637人間七七四年
2007/05/25(金) 22:56:40ID:kJvS5eS80638人間七七四年
2007/05/26(土) 07:10:48ID:IrjoArjh碌に知らなかったりするからな。
軍鑑すら目を通したことがないだろ。
0639人間七七四年
2007/05/26(土) 07:30:23ID:Iwuvny42可能性なんか言い出したらきりがないが
越中でも色々やってるし、越相同盟による関東での政治的影響力の低下により佐竹が反北条の旗手となって関東での行動がスムーズに行かないこともある
実際に武田討っちゃうよ〜って関東に動因かけても誰も来なかったし
それから養子縁組が成立してからはむしろ北条のほうが援軍拒否してるぐらいだぞ
仮に上野と武蔵と上杉がまとめたとして、そこでなんでわざわざ北条と敵対するようなことするのか
もともとの関東介入への動機が北条の越後侵入があって対抗措置
北条から攻めるようなことが無ければ上杉から積極的に手を切るとは考えにくい
北条との仲が悪化した時に同盟維持のための使者を送って無視されて悪態ついているように、上杉方には積極的に北条を攻めるという意図はない
対立するとしたら関東収めた後か、武田が滅んでから
0640人間七七四年
2007/05/26(土) 11:59:38ID:P3wzvaFD0641人間七七四年
2007/05/27(日) 01:08:15ID:Mf74QrHN甲斐の国を知らないのは、お前の方だろうが…
>交通の要害でもなく険しい山岳の国であり、災害も多く生産力に極めて
>欠ける国それが甲斐。
本当に唖然とさせられます。
文章を見ただけで思う事は、「信濃と勘違いしてる」に100ガバス(苦笑
0642人間七七四年
2007/05/27(日) 01:30:13ID:VX01vhXj毛利は織田を安芸に一歩も足を踏み入れさせなかった
毛利>>>>>>>>武田
0643人間七七四年
2007/05/27(日) 01:33:11ID:QsHZd5u10644人間七七四年
2007/05/27(日) 03:07:18ID:IamlSEMA0645人間七七四年
2007/05/27(日) 12:27:22ID:DLMenzbgそもそも元就は小大名ですらないただの国人。しかも大名としてスタートしたのは
実質50歳過ぎてから。ここまでくると信玄はオヤジからそっくり受け継いで30年何してたのか
わからなくなるな
0646人間七七四年
2007/05/27(日) 12:35:18ID:IGlY4M/pよく後継者になれたものだ
元就みたいな有能な人物が毛利を継ぐと大変だと、尼子は必死で戦バカを推してたな
0647人間七七四年
2007/05/27(日) 17:50:32ID:plE6qRHOhttp://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1179929778/l50
0648人間七七四年
2007/05/27(日) 19:39:15ID:AL4LK0xt信玄が親父から受け継いだものなんてのは負の遺産以外に何もありませんよ
まあ甲斐一国が恵まれてるという単純な認識と、山岳地帯の領民に富を育ま
せられなかった信虎の遺産を受け継いだのが信玄という認識の差だな。
それより元就の方が先代から大内の傘下に入ってたりしてたおかげで国を存続
出来たなどというのは考慮しないの?元就って経久や義輿が死んでから身を起こすまで何年かけてるの?
明らかに元就の行動の方が遥かに鈍足だね。
0649人間七七四年
2007/05/27(日) 19:42:39ID:AL4LK0xt村上連合軍との力の差は大きくは無い、つまり信玄が小豪族に負けたという
認識は間違ってるんだよ。
それより格下相手 だ け に 勢力を広げてきた元就の言い訳はどうした?
0650人間七七四年
2007/05/27(日) 19:48:26ID:AL4LK0xt強敵だらけでもなかったわけだし
0651人間七七四年
2007/05/27(日) 19:56:50ID:IGlY4M/p武田ファンは他を正当に評価するもの。
あんたら武田を貶そうとしてるんだろ?
0652人間七七四年
2007/05/27(日) 20:01:40ID:j8X8Suf3>>その上杉との条件が折り合ったからこそ越相同盟が成立したんだが、それは歴史群像には書いてなかった?
結局甲越和与であっさり動きを控えるほどにもろい成立だったがね。しかもどっちも
条件の履行はできずに同盟は崩壊。
>>駿河戦について歴史群像には書いてなかった?
なら今度調べてきてあげるよ
駿河戦における家康の動きについては一通り知ってているよ。
歴史群像ではないのであしからず。
12月18日に徳川と武田の秋山の部隊が衝突し、徳川が信玄を非難。
信玄はただちに秋山を引かせ、侘びを入れるが家康はこれを契機に
反信玄に傾いていく。しかし遠江にまだ今川の勢力が多く残っている事から
すぐには断交せず。そして5月には氏真を和睦の形で掛川城から追い出す。
ただここまでの流れで四月の末に撤退した信玄を徳川が駿河で北条と挟撃していると
いう話は改めて調べてもわからなかった。調べてくれるならありがたい。ぜひお願いするよ。
>>養子をもらってから上杉から北条へ援軍要請して断られてるんだが?
その間に関東へ武田が出兵したなんて聞いたこともないし、一体いつ上杉が北条の為に動くというんだ?
景虎が入ったのはたしか1570年4月だったか。関東にはそりゃ出兵してないだろうさ、武田は。
でも駿河はしっかり攻めているけどね。この時点で駿河の北条領土はかなりとられている。
北条が望んでいたのは上杉が武田領に侵攻することだろう。それによって武田の動きを引っ張り込めれば
駿河を取り戻す事はおろか形成逆転も夢ではない。でも結局謙信は動かなかった。
>>むしろ九月に信玄が出てきてるがこのときは北条の要請にこたえる形で関東に出張ってきてるんだが?
それって1569年11月の上杉の沼田着陣のこと?結局武田との衝突には至らず、
むしろ1570年正月には佐野氏を攻めてなかったか?
(続く)
0653人間七七四年
2007/05/27(日) 20:04:05ID:AL4LK0xt毛利ファンは他を正当に評価したことがあるの?無いよねえww
それよりいつになったら元就のめまぐるしい言い訳を聞かせて
くれるのかなあ?
格下相手いじめで勢力拡大の元就、中国地方でしか外交戦略を展開
してない元就、内政に際立ったものがない元就
0654人間七七四年
2007/05/27(日) 20:04:41ID:j8X8Suf3>>それから堀越云々は歴史群像…じゃなくて今川家譜
>>第五回がおこったら安全なのか?なら四回は?三回は?
第一回から第5回までの川中島は武田が北信濃を制圧し、堅固な防御体制を
確立していく過程だと思うが。第5回においては謙信は6月に信玄の悪行についてつらつらと書いた
願文を書き上げ、8月には信玄撃滅を祈願していて、さらには佐竹文書とかでは
佐久を荒らしてそのまま関東に押しとおるとまでいっているが、侵略も領域拡大も出来ず
対陣してむなしく引き上げるしかなかった。
>>ちなみに天文十五年になんと上野の長野氏に内応の誘いをかけたりしてるわけだが
まだ信濃すら納めてないのに
長野の時は余裕があって、堀越の時には余裕が無いと?ほぅ
上杉氏は天文15年の時点でも武田に対する潜在的な敵なのだが。
一年後には小田井原の戦いが起きるし、信虎が追放した海野は上杉を頼ったし、
1541年の時点で小県にも侵攻している。それにゆさぶりをかけるのはおかしくないだろう。
対して今川の時はどうか。1563年の時点ではまだ義信事件も、織田との同盟さえおきて
おらず、西上野の攻略もまだまだ中途でこの時点では特に対立もない今川にやる
理由が特にない。本当に騒乱を起こすなら侵攻作戦のときにでもやればいいだろうに。
まあ、内応策はやったけど。
>>それから何かと意図的になのか知らないが忘れてるが、塩止め前に武田家嫡男にして
今川の女をめとった義信が幽閉されたりしてるわけだが
今川からしてみれば素晴らしい背信行為なわけだが、加齢にスるー?
別に意図的もなにも今川との対立は信玄にも非があるといっているだろうに。
でも義信は信玄に対して謀反を企てているし、3年に渡って猶予ももうけているので
出来れば死なせたくはなかったと思うがね。
>>ところで結局甲越和与の終焉については述べなかったね?
歴史群像にのってないもんね、仕方ないよね
和与成立は永禄十二年八月十日付け義昭御内書より、終焉は翌十三年八月の直江景綱の書状から確認できる
一応調べてはみたけどね。まずこの義昭御内書が8月10日というのは?
義昭の御内書は上杉には2月、武田には3月ではなかったか?そこから謙信が7月に家臣の鮎川に和睦交渉中なので
出兵は出来ないといっているところから丸島氏は7月下旬と推定していたはずだが。
あと破棄も元亀元年8月じゃなかったか?
0655人間七七四年
2007/05/27(日) 20:12:12ID:IGlY4M/p毛利元就は根回しの達人
これが本当のところでしょう
そしてどちらも戦上手だね
0656人間七七四年
2007/05/27(日) 20:56:31ID:DLMenzbg・戦で大敗をし部下の多くを虐殺されるという前代未聞な成果を残す(甲陽軍艦では勝ちw
・アホのように越後に侵攻し、信濃の味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・2万の兵でも飯山城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪本尊強奪三昧
・長野業政の城を4度攻めたが、一度たりとも落とせず。逆に無様な大敗を重ねるw
・気に入らない家臣を殺し嫁を強姦。
・結局上野の大半を北条に奪われる。面目丸つぶれにさせる
・降伏を了承、武装解除した志賀城の城兵1000人を嬲り殺しにする。さらに民間人は全員奴隷に
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも家臣の嫁を奪って、離反される。
・小笠原、高坂ら信濃の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、反乱を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・和平中の織田の城を汚く落とし戦果を捏造
・今川を裏切って領土を攻め略奪の限りを尽くす。北条に同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いで衰退自滅。娘婿二人に裏切られ領地の全てを失うw
・家臣に反乱起こされまくり
・徳川の足軽に撃たれ昇天
・家臣の大半を織田、徳川連合軍に討ち取られる弱小ぶり
・二万の大軍で1500の木曾に大敗する最弱ぶり(後世で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさか長篠の戦いを引き起こしてしまい、おまけに武田滅亡へ
・上杉の家臣として細々と生きる
0658人間七七四年
2007/05/27(日) 21:35:21ID:AL4LK0xt残念だけどそれ一つも当たってないよーww
お前、謙信厨を装って信玄叩きしても意味ないよー(笑)
小笠原に苦戦?高坂に苦戦?高坂は信玄の家臣だよ(笑)
0659人間七七四年
2007/05/27(日) 21:42:09ID:MosuswPfhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153644378/l50
0661人間七七四年
2007/05/27(日) 22:36:32ID:gQUu5Dwv>格下相手いじめで勢力拡大の元就
○毛利家当主になった時点の周辺勢力
高橋氏……安芸国人一揆の盟主。石見にまたがる大勢力(格上)
宍戸氏……父祖の代から対立してきた武闘派国人(格下だけど、戦上手)
吉川氏……安芸国人(同格)
武田氏……分郡守護(格上)
強敵揃いですが何か。
ここに十倍以上の大勢力、尼子氏と大内氏がたびたび乱入してくるわけで…
ちょっとした地獄ですよ?
>内政に際立ったものがない元就
能力で取り立てた側近に、経済要地を押さえさせる
貫高制による兵数の確保
法度は制定したかったけど多忙でできなかったとか自分で手紙に書いていたかな?
通貨制度は…、まぁ東国と違って、渡来銭が豊富に入手できたからなぁ…。必要無かったのかも。
0662人間七七四年
2007/05/27(日) 23:03:22ID:yKirh6FTまともに反論してくれ
甲越同盟の条件では折り合えないしなんてお前が夢想してるから、史実として成立してると返した
それで和与で動きを控えるほど脆い成立だった?条件の履行はできずに?
苦し紛れに適当に反論ですらない文章で反論したかのようにしないでくれないか?
ついでに言えば、北条にとって甲越和与は脅威であっても上杉にしてみれば格好の交渉の道具
すんなりと条件も達成しない北条の行動に対する圧力として格好の素材
まあそういうふうに余裕こいて結局関係が悪化するわけだが、氏康が対武田で専念するという意志を見抜いての交渉だったんだろうな
だから氏康を相手にする分には非常に有効な外交だったわけだ
氏政まで考えると非常にまずい外交だったわけだが、人の死期まで考えろというのは酷だ
駿河撤退は徳川が今川と和睦する動きがあり(三月)、東西に挟撃される形になるので武田は撤退した
ご満足?
まあ永禄十二年の侵攻も武田侵攻を標榜してのものだから北条の要請に応えてともいえるな
ああ、それから無駄に知識ひけらかしたいだけなのかしらんが、はっきり言っておこう
その結局桐生佐野を攻めたのとは別だ
北条家から証人の提出という条件が履行されてからは上杉方も北条への信頼が醸成されて真摯に対応している
ばかりか、北条が代替わりしたことで急速に関係が悪化、結局破綻している
つまり、それまでの氏政個人の上杉に対する不信感と、条件が逐次推敲されるまで行動を起こさなかった謙信の行動に問題があったと
結局ここに信玄個人で何とかする余地は無く、ほうっておいても氏政へと代替わりがなされれば自然に消滅するものだったというわけだ
というかそれだけ堅固な防御体制を強いて駿河攻めに磐石な体制を築いたのに、駿河攻めたときにちょっと信濃突っつかれたぐらいで撤退したといってたのか?
自分の発言に整合性をもてよ
まあ論点としては武田が先か今川が先かが問題なわけで、君の論点くらまかし戦略にまんまとはまっちゃったよ
つまり自ら三方敵に回した愚かな外交をしたということが確認できて大変うれしく思います
「まとめると、甲越同盟とはそれまでの氏政個人の上杉に対する不信感と、条件が逐次推敲されるまで行動を起こさなかった謙信の行動に問題があり、ここになんら武田が介入する余地はない
そしてそもそも甲越同盟に至った経過については武田側が起こした今川敵対政策によるものである
この甲駿相三国同盟破綻から甲相再同盟までの経過でなんら武田信玄の外交手腕について特記できる事項はない」と
和与については俺のレスを目を皿にしてよく読め
それから以後の反論は「」内についてしかレスしないから
それに関わっていると思われる過去レスに対する反論なら反応するがな
俺が最期にレスして反論無いから俺が勝った!と思いたいならどうぞご随意に
0664人間七七四年
2007/05/27(日) 23:51:04ID:AL4LK0xt>>661 ハア、やっぱりその程度のことでしか誇れるものがないんだね元就はw
ご自慢の倒した大勢力の大名は凡将じゃなかったの?(笑)
甲州法度 治水新田開発 鉱山発掘 棒道 狼煙台ネットワークなどなど
山国の不憫さを覆した様々な内政を行った信玄と比較出来るの?
0665人間七七四年
2007/05/28(月) 00:00:32ID:b4AXAxKEってことを知らないのはわかった。
0666人間七七四年
2007/05/28(月) 00:08:35ID:aptF1HbD知らないのは分かった(笑)
で?で?で?元就に関する史料で信憑性のあるものってどれだけあるの?
まーーーた毛利厨は、毛利そっちのけで話題を信玄にばかり向けるわけ?
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