毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
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0001人間七七四年
2007/05/14(月) 06:19:06ID:jnNXqIUx武田信玄>>毛利元就は定説です
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1159020720/
毛利元就>>武田信玄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/
0525人間七七四年
2007/05/21(月) 01:38:13ID:sncru68L0526人間七七四年
2007/05/21(月) 01:54:33ID:4y5WJHuX笹本正治の本によれば高見沢文書は疑問点が結構あって通説の根拠とは出来ないらしい。
具体的にはスタートが甲府なのに目的地が諏訪郡ではっきりしないとか宛名がないとか。
いずれにせよ結論はハッキリしないわけで。
てか棒道と信玄の接点自体が高見沢文書しかないんだよね。
0527人間七七四年
2007/05/21(月) 10:44:20ID:nWQ1Pgnz徳川氏や幕府がやった政策でも、信玄の遺法だとか現地の人の心を擽る話に変えた可能性はある
時期的に考えれば、信虎が強権的手法でやったためにプラスよりマイナスが印象に残り、功績が抹殺されたのかも
「マイナスの面だけは何故か信虎のせいにされている」というのは税金の面でもあったことだし
0529人間七七四年
2007/05/21(月) 13:12:57ID:oVZgHmH/甲州法度は今川仮名目録の劣化コピー
治水は史料的に怪し気
足軽(上意ノ衆)運用は信虎がやったことの真似に過ぎない(妙法寺記には信虎時代に既に上意ノ衆が活躍したことが載っている)
うーん、信玄ネタにするのならまず虚像と実像の乖離を相手にせにゃならんなぁ(汗
0530人間七七四年
2007/05/21(月) 15:52:04ID:GmR7ob2w下手したら整備した棒道使って自分を潰すのかもとか思って拒否する可能性もあるし。
まあ棒道作れたとしても関所を廃止できなければ経済的なメリットはこれっぽっちも
ないだろうけど。
0531人間七七四年
2007/05/21(月) 17:02:55ID:RiuVI4ZM0532人間七七四年
2007/05/21(月) 17:26:28ID:YHbgRsXF毛利って自分より弱いやつと戦っただけじゃん。
自軍より強いやつを打ち負かしたとかそんなんあるわけ?
0533人間七七四年
2007/05/21(月) 17:57:58ID:AxPrAHf7少 し は ス レ タ イ 通 り に 話 す 努 力 を し ろ よ
0534人間七七四年
2007/05/21(月) 18:00:36ID:YHbgRsXF少 し は 日 本 語 理 解 し ろ よ
0535人間七七四年
2007/05/21(月) 18:06:06ID:RiuVI4ZMhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1178360250/l50
みてこい
相手するだけ無駄なバカだ
0536人間七七四年
2007/05/21(月) 18:09:14ID:YHbgRsXF元就が独立した大名になったのは陶との戦いからなんだから
拡大率でも
武田>>>>>>毛利
だろ
0537人間七七四年
2007/05/21(月) 19:41:55ID:DvDIXrSj0538人間七七四年
2007/05/21(月) 20:13:57ID:2OmWQmoO陶に討たれて敵を取った
秀吉と似たようなもんでしょ
0539人間七七四年
2007/05/21(月) 20:17:31ID:PejKtaZr元就の勲等を受けた輝元ー隆景が主導した第二次織田包囲網を比べれば、
完成度から言っても、信長を苦しめた度合いから言っても、第二次織田包囲網の方が、上だな。
0540人間七七四年
2007/05/21(月) 20:26:21ID:AxPrAHf7>>538それだと毛利ファンは「天下人と同等」とか言うと思う。
なんかこの手のスレで何度も言ってるけど
甲乙はつけれないけどパッと見元就のほうが器用な印象がある
0541人間七七四年
2007/05/21(月) 20:47:38ID:6XdwY4++どう考えても第一次のほうが織田を追い詰めた
まぁ追い詰めたのは朝倉だからだがな
武田は織田包囲網に全く参加していない
0542人間七七四年
2007/05/21(月) 23:47:43ID:tm8YNsZ3を侵攻してきたおかげで畿内の諸将が奮起したのは明白なこと
なんだけどな
ちなみに輝元主導って???毛利厨のご都合主義かどうしよう
もない程の無知さ加減はあきれて物が言えないよ
0543人間七七四年
2007/05/21(月) 23:53:50ID:ZOw7FFc91554年毛利20万石未満から1571年で100万石強
1541年武田20万石以上から1573年で100万石強
だから拡大率は元就の方が上じゃないか?
0544人間七七四年
2007/05/21(月) 23:55:03ID:tm8YNsZ3何か必死になって甲相同盟の成り立ちがどうのこうのと言ってる人いるが
信玄と駿河を取り合って敗れた時点で北条方の完全敗北なの
北条氏政は謙信より信玄と敵対する方が下策と見た氏康の遺言に乗っ取って
信玄と再同盟したのは明白なこと、そもそも三増峠で信玄に敗れたのが決定的
だったね、元々信玄の駿河侵攻を阻止出来ず、結果駿河を先に信玄に取られた
北条方の明らかな敗北
0545人間七七四年
2007/05/21(月) 23:56:35ID:tm8YNsZ3の姿そのものですね
甲陽軍艦>>>>>>北条五代記ets・・・・
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0546人間七七四年
2007/05/22(火) 00:06:55ID:l/3i+Nr7さすが捏造武田厨
0547人間七七四年
2007/05/22(火) 02:14:57ID:ow9UlS2Pただ、包囲網が効率的だったのは、第二次の方じゃね?
当時の交通事情や通信手段を考慮すると、共同作戦って、直接援軍や兵糧を送れないと、あまり意味がない。
第一次の場合は、浅井朝倉、三好本願寺は、機能していたが、この四者が同時に機能したのは、志賀の陣以外にほとんどない。
だが、第二次の場合は、毛利水軍が紐帯となって、別所、雑賀衆、本願寺、波多野等が、毛利と共同作戦を行えた。
しかも、各戦線が膠着状態の時に、織田から見れば、西部戦線の、扇の要部分に当たる摂津で、荒木を寝返らせたんだから、毛利が主導的な役割だったのは、言い過ぎじゃないのでは…?
まあ、この時に、もっと積極的に行動していれば、羽柴、明智、佐久間を各戦線から追い落とし、上洛も可能だったんだけど、毛利はどうも腰が退けてるというか、腰が重いというのか…?
0548人間七七四年
2007/05/22(火) 02:31:58ID:rWGwV4Mw東側で謙信死亡で御館の乱で武田まで引きずられ
包囲どころか徳川は駿河に攻め入るは斉藤は飛騨経由で越中に攻め入るは
信忠どころか前田佐々まで西部戦線に参加と柴田と一部の美濃衆以外が西に
これでは毛利も直接対決は避けるしかなかったのかも
0549人間七七四年
2007/05/22(火) 09:04:58ID:P1senoid憧れの信玄の虚像に話が及んで、涙目になったメガトンの話逸らしにあえて乗ってやるおまえら素直すぎる
0550人間七七四年
2007/05/22(火) 11:38:02ID:n3kLMTHP自分の死と軍事作戦中止を同盟者に伝えなかったばかりに、義昭なんかは無謀な決起やってあぼん
生存中も様々な相手に不義や裏切りを働いてきた信玄だが、死後もやるとは見事な一貫性
0551人間七七四年
2007/05/22(火) 12:13:47ID:ow9UlS2P信玄は、自分が生きているかのように振る舞え、信玄が作った組織、人材、経済基盤に乗っかっていれば、つまり、組織も、人材も、経済基盤も変更しなければ安全だと考えていた。
対する元就は、自分の死後、起こりうる危機を察知して、三家の結束を口説いほど、言い聞かせている。
加えて、毛利の領地を半分に、いや四分の一に減らしても構わないとまで、言い残している。
家名を残すと言う意味では、毛利の方が上だな。
0552人間七七四年
2007/05/22(火) 12:41:27ID:ZfzfLeUp信虎や今川家の政策を劣化コピーするだけで名君呼ばわりしてもらえるんだから。
0553人間七七四年
2007/05/22(火) 12:44:53ID:0jegOTMx武田と織田にはそれに相当する人物がいないな。
0555人間七七四年
2007/05/22(火) 16:31:57ID:srLYfA7D>>429は関東幕注文からまるまる拾ってきた文章と思うが
同じく浣腸幕注文には白井衆、惣社衆、岩下衆、厩橋衆、沼田衆等などがある
白井、惣社衆はあくまで同盟関係であって、また箕輪衆に加えられてないところからも、長野の支配下ではない
厩橋衆は長野の同族だが、箕輪長野が上杉に降伏した後も抵抗続けてる
後には従ったが、勘違いで殺されたみたいでその後は景虎の家臣が入って後に北条が入ってることから、謙信に接収されたんだろう
これらから考えれて幕注文全てを基本にすえて考えると十万石ちょっと超えるぐらいか
さらに関東幕注文をみれば>>429の人たちは同心、家風なんてかかれてないから長野の直接的な隷属化にあったとするのは困難
そうしていく五万石が微妙になる程度の所領と思われる
ちゃんと計算したわけじゃないからもうちょっと代わるかもしれないが、どちらにしても20万石は確実にいかない
>>523
甲越和与って具体的に何年続いたの?
越相同盟の崩壊は北条の和議条件の不履行、それに伴う謙信の不信感、さらにそれに対する不信感と、スパイラルな様相
和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって、信玄がどうしようがいずれ崩壊に向かう
そこまで考えれば当然武田との再同盟は浮上してくる考えであって、信玄の行動如何に関わらず崩壊するのは予定調和
薩垂で互角に戦うって対峙戦じゃないか
さらに徳川が来て挟撃受ける形で撤退
というか軍事目標達成できずに兵を引いたのに互角に戦ったって凄い強がりだな
駿河を維持できずに撤兵したのは言うまでも無く負けだ
そもそも信玄が消極的に駿河攻めなけりゃ四方八方敵だらけという状況は回避されたわけだが
そのまま上野から越後にでも向かえばいいのにな
0556人間七七四年
2007/05/22(火) 16:47:20ID:9lrnleCp春秋時代は匈奴に負け続け
劉邦は匈奴にぼろ負けした。
曹操は騎馬民族に勝利し、ほとんどを服属させた。
夏侯淵も戦果を挙げた
晋以降は立場が逆転した。
五胡南北朝宋は異民族政権
明は日本にぼろ負けw
中華民国は語るに及ばず
中国はアメリカ、ソ連、ロシアに勝てない
つまり
三国時代>>>>>>>>>>>他の時代
0557人間七七四年
2007/05/22(火) 17:10:38ID:ZHzipxnV信玄はちと過大評価されすぎ。
0558人間七七四年
2007/05/22(火) 17:15:32ID:b1AzNBp8信玄が信長にへりくだったお礼状を出してからすぐに上野方面で上杉武田はぶつかってるし
0559人間七七四年
2007/05/22(火) 19:36:34ID:nAK7re4G元就の場合は自業自得でそういう後継者対策を採らざる得なかっただけでは?
調略やりすぎて、「当家を恨んでいない者などいない」とまで言い切ってるし。
そういえば、当主より世継ぎが先に死んで幼い孫+後見人という形で家督を動かして
上手くいった大名ってあったっけ?
武田毛利どころか連合型の大名から脱した織田や官僚制整えた豊臣ですら失敗してる
0560人間七七四年
2007/05/22(火) 19:42:37ID:nAK7re4G上のは通常の世代交代が出来ず、後見人を建てた場合において、って程度の意味ね。
0561人間七七四年
2007/05/22(火) 19:49:38ID:oGS4SYDSもともと嫡男に何かあったらどうするつもりだったんだろうという気がする。
幸い輝元が生まれてたから嫡男死亡のダメージは最低限ですんだけど、
もし輝元が生まれてなきゃどうしてたのかと。
0562人間七七四年
2007/05/22(火) 19:54:54ID:Y/nr/wRE残せば残したで御家騒動の危険があるんだから、一長一短なのは仕方無い
0563人間七七四年
2007/05/22(火) 20:05:13ID:pNJ5DzUr0564人間七七四年
2007/05/22(火) 20:09:14ID:nAK7re4G後の隆景亡き後の小早川家見るとそれが一番危険では?
とはいえ分家ごと取り込んだらそれはそれでお家騒動の原因になるし
まあ元就の場合実子が多かったから何とかなったと思う。
なにせ子供を孫の養子にするという、平安貴族もびっくりな家系図ですから
0565人間七七四年
2007/05/22(火) 20:11:11ID:lKSsREPw0566人間七七四年
2007/05/22(火) 20:32:15ID:oGS4SYDSやっぱりそういうつもりだったのかね?
>564-565
でも元就が側室をもったのは正室が亡くなった後で、正室との子供は三兄弟だけ。
正室の子供が復性するか、毛利性の側室の子が次ぐかでやっぱりもめた予感
0567人間七七四年
2007/05/22(火) 20:35:03ID:Y/nr/wRE(下手すりゃ家督相続すら危ういことに)
0568人間七七四年
2007/05/22(火) 20:43:51ID:nAK7re4Gその図式の内紛をまさに元就自身が経験してるからな。
だから逆に正室の子を本家に置きたくなかったのでは?
でなけりゃ妻の実家でそれなりの年齢になってた吉川家のケースはまだしも、
元服前の子供を小早川家に送り込んだりなんかしないと思う。
0569奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/22(火) 21:14:13ID:KNhJ3ObA0570人間七七四年
2007/05/22(火) 21:33:54ID:lKSsREPw毛利輝元の養子だった毛利秀元は
元就の4男の穂井田元清の子供だね。
輝元に息子秀就が出来て自ら世継ぎを返上して
お家騒動の禍根を断ってるけど、
秀就と秀元は仲が悪かったようだ。
0571人間七七四年
2007/05/22(火) 21:50:52ID:i2oSygb9実際には隆元にはちゃんと嫁が来て輝元生まれてんだし、
0572人間七七四年
2007/05/22(火) 23:26:18ID:ow9UlS2P嫡男を殺して、四男に家督を継がせて、家を滅ぼした信玄。
0573人間七七四年
2007/05/23(水) 00:54:42ID:WU8NWkjF「これでやっと アニメの国で 萌え放題」
とかにしとけ馬鹿。
0574人間七七四年
2007/05/23(水) 00:56:15ID:WU8NWkjF「これでやっと ライトノベルで 萌え放題」
とかにしろよばーか。
0575人間七七四年
2007/05/23(水) 04:16:55ID:FbKYr4/k>>甲越和与って具体的に何年続いたの?
とりあえず成立したのは1569年7月。信玄が利根川で謙信と対峙するのが
1572年1月だね。信長に友好的な手紙もこの一月には送っている。
このころには当然氏康は死んでいるよ。
>>越相同盟の崩壊は北条の和議条件の不履行、それに伴う謙信の不信感、さらにそれに対する不信感と、スパイラルな様相
和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって、信玄がどうしようがいずれ崩壊に向かう
いきなり論旨が変わったように思えるが?あなたが>>508でいっていたのは氏康の死によって
越相同盟が崩れたという事ではなかったのか?いつから予定調和になったんだ?
和議条件の不履行は氏康の時に起こっているのだし、それなら氏政の判断云々は関係ないな。
>>薩垂で互角に戦うって対峙戦じゃないか
さらに徳川が来て挟撃受ける形で撤退
信玄が撤退したのは上杉が北信濃を突く動きをみせたからだと思ったが?
家康はまだこのときは掛川城を攻めている途中だったはず。開城は5月17日じゃなかった?
信玄が一旦駿河から撤収したのは4月の末だったはず。
>>というか軍事目標達成できずに兵を引いたのに互角に戦ったって凄い強がりだな
駿河を維持できずに撤兵したのは言うまでも無く負けだ
その定義に従うなら小田原攻めで牽制の目的を果たし、駿河を攻め直して北条軍と戦い、
武田が駿河を氏康死去までにあらかた制圧したのは北条の完敗でいいんだね?
>>そもそも信玄が消極的に駿河攻めなけりゃ四方八方敵だらけという状況は回避されたわけだが
そのまま上野から越後にでも向かえばいいのにな
そもそもその前に今川は上杉と組んで武田と共闘する姿勢をとっている。あのままほうっておいても
三国同盟は崩れただろう。なら自分で主導権をとって戦うのはわるくないだろう。
その越相同盟が結局使い物にならないのは貴方も認めたんじゃないの?
0576人間七七四年
2007/05/23(水) 09:44:45ID:xpBxXA7s議論しか出来ないんだな
いいかい?武田の滅亡の原因は、織田領が毛利や上杉よりも武田に近かった
から先に攻められただけ、その後の信長に攻められた毛利や上杉の落ちぶれ
を見ても分かる通りに、家督の相続の仕方がどうのこうのなんて関係ないんだよ
毛利なんてろくに戦もせずにどれだけ改易されたの?((笑
本能寺がなければ両家も100パーセント滅亡してたね
0577人間七七四年
2007/05/23(水) 10:00:49ID:GypVpo/lその論法でいうのなら、
「武田が毛利より何年も先に織田に一方的裏切りかましたせい」のほうになるんじゃないの?
近いといえば徳川が一番近いぞ
0578人間七七四年
2007/05/23(水) 11:19:04ID:jN178D7i当然、元就は自分でそういう真似したわけじゃないから退潮の責任無しとw
0579人間七七四年
2007/05/23(水) 11:53:18ID:9pGZ+Uqu徳川攻めた後、織田と関係が悪化してもまた同盟できると考えたのか、
信玄は同盟だろうと姻戚だろうと相手が弱体化すれば裏切ってきたから、
信長の将来の行動を自分に当てはめて予想したのか
0580人間七七四年
2007/05/23(水) 13:33:25ID:yRK6Lx/l氏真の「武田と一緒に徳川攻めるようなことしたら、うちも乗っ取るんじゃないか」という挑戦的な書状は、武田の背信を責める意味もあったんだろうね
自分から工作しておいて、相手が対抗措置取ったから背信っていう理屈はそれこそ武田贔屓にしか通じないよ
0581人間七七四年
2007/05/23(水) 16:41:07ID:zOl0U24Zまるで甲越和与が三年間継続されていたみたいな書き方だなおい
もういっかい詳細に書いてみ?
むしろ謙信が北条からより有利な条件引き出すために政治的に利用されてる側面があるから
>>508が言ってるのは再同盟の要因だろ?
その後で崩壊に至ったのは「それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。」といってるが?
崩壊に至った要因として氏政の思考と挙げているところから養子の問題に関することだと思うが、氏政が無関係ね?ほぅ
駿河についてはそれでいいんじゃない?
っていうか氏政本体は駿河にいないはずだがね
奇襲して失敗して鉢形攻めて落とせず、小田原城の前で焚き火して、将軍・信長に泣きついて、甲斐に舞い戻って再度出兵して本体のいなくなった駿河をようやく占拠
随分情けないがな
その前に今川と上杉が手を組んで?ひょっとして永禄十年から同十一年の?
違うなら文書名挙げてくれる?もう甲越和与で誤魔化すような事されて信用ならないから文書名一字一句間違えないで書いてね
0582人間七七四年
2007/05/24(木) 08:22:23ID:hpmc18Rb上杉北条間での利害調整が不可能、折り合いが付かない以上
武田北条間の再同盟は可能と言うことか?
0583人間七七四年
2007/05/24(木) 08:53:24ID:7MTrTiVM0584人間七七四年
2007/05/24(木) 12:39:28ID:HgDioZNt陶とは仲良くしたくて援軍にいこうとするんだけど、家臣や一門が信じられないというのでそれに従ってしまう
結果、陶は直接安芸国人に使者を出し始めたために対決のやむなきに
大河ドラマの「お人好しが仕方なく謀略を使ったら誰よりも上手くできちゃった」元就像は噴飯モノ、と思ってたけど実は一番近いんじゃないかと思うようになった
0585人間七七四年
2007/05/24(木) 15:05:17ID:fHWn53PC>>陶とは仲良くしたくて援軍にいこうとするんだけど、家臣や一門が信じられないというのでそれに従ってしまう
これってマジ話なの?
マジなら興味あるから詳しい話をヨロシク
0586人間七七四年
2007/05/24(木) 17:30:12ID:WJCwCM6N0587人間七七四年
2007/05/24(木) 18:23:44ID:naIK9dR1越相同盟を成立させた事により、関東諸将からは猛烈な不信感を買っている。
武田は綱渡りの外交を余儀なくされている。
よって、もし北条が再同盟を望めば即座に応じるはず。
北条としては箱根に隔てられた駿河より関東が優先。
里見は勢力を回復させ北条に攻撃を仕掛けている。
越相同盟が機能しないならば武田と結ぶことも十分に考えられる。
そうなっても関東諸将の上杉に対する不信感は消えない。
信濃を攻めなければ上杉は損をし、武田は得をする。
0588人間七七四年
2007/05/24(木) 18:51:20ID:7MTrTiVM言いたいのは謙信は信濃に出兵するよってことか?
それとも上杉武田の損得について言いたいのか?
0589人間七七四年
2007/05/24(木) 19:09:12ID:naIK9dR10590人間七七四年
2007/05/24(木) 20:48:17ID:7MTrTiVMもうちょっと何かを主張するなら論旨をはっきりと書いたほうがいいと思うよ
何かに対する反論なら一々それを述べていけばいいけど
とりあえず、氏康の死去から氏政の路線大転換まで謙信に予見しろというのは酷に過ぎる
0591人間七七四年
2007/05/24(木) 20:49:23ID:1Zd62npH0592人間七七四年
2007/05/24(木) 20:54:19ID:kpwWoopF武田北条はしばしば共同で陣を張って謙信と対峙しているけど、その逆は殆ど無い
0596人間七七四年
2007/05/24(木) 23:08:04ID:x8NNE9hQ>>むしろ謙信が北条からより有利な条件引き出すために政治的に利用されてる側面があるから
それのどこが悪いのかよくわからないのだが。謙信とて利害がなければ受けないだろうよ。
結局そういったゆらぎがおきるぐらいに共同歩調の困難な関係だってことだろうよ。
>>その後で崩壊に至ったのは「それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。」といってるが?
崩壊に至った要因として氏政の思考と挙げているところから養子の問題に関することだと思うが、氏政が無関係ね?ほぅ
なにか論点がずれているような気がするのだが。氏康の死後に氏政がそりゃ
武田との同盟を選択する思考と行動を行ってはいる。それを無関係とはいわない。
俺がいいたいのは氏康が生きていても武田との再同盟をいずれは選択しなければならなかったという事
なのだが。そもそもあなたの主張は>>516にあるように
北条と武田の再同盟は伊達が押されまくっていたけど総大将の急死で危機を逃れた人取り橋を伊達の完全勝利と
いうようなもの、ということじゃなかったのか?
武田の積極的な行動によって駿河は奪われ、反北条勢力との戦いも控えていて上杉も動かない北条は武田との再同盟を選択せざるを
えなくなった。これに信玄が関与していないとはいえないだろう。
>>駿河についてはそれでいいんじゃない?
っていうか氏政本体は駿河にいないはずだがね
奇襲して失敗して鉢形攻めて落とせず、小田原城の前で焚き火して、将軍・信長に泣きついて、
甲斐に舞い戻って再度出兵して本体のいなくなった駿河をようやく占拠
随分情けないがな
なんというか、悪意で見すぎだとは思うがね。鉢形も滝山も本気で攻略する気はなく
さっさと切り上げているし、それでも滝山では随分押し込まれていたみたいだが。
小田原の前で焚き火?あまりの屈辱で上杉との書状ではひた隠しにして
いるくらいなのだが。本隊がいないというが、信玄が最初の駿河攻めで他勢力の動向から
本隊を引き上げてそれを北条がとったのは勝利としておきながら、立場が逆になるとこのいい様なのか?
北条の重臣たる北条綱重は深志城で武田に破れているし、
千本松原でも武田と北条の両軍は本格的な戦いは回避していたが戦っているし、
1570年には伊豆の韮山城まで武田に攻められている。
悪くいえることではないと思うが?特に駿河ばかりではなく伊豆まで攻め込まれる状況では
他に敵も控えている北条にしてみれば折り合わない上杉との同盟に固執する事はできなかっただろう。
>>その前に今川と上杉が手を組んで?ひょっとして永禄十年から同十一年の?
その通りだが?既に1565年の段階で今川の塩止めは開始されているし、今川と上杉の同盟まで
出来上がっていればそこへの経緯はともあれ手をこまねいてみているわけにはいかないと思うが?
0597人間七七四年
2007/05/24(木) 23:36:23ID:uqkxHmZc10万石とか5万石程度だと思う
もし本当に20万石とかあったならもっと史書に名前を残しているはずだし、
そもそも上野半分も持っていたらとっくに粛清か独立って道を選んでいるはず。
甲越和与はいつまでとは難しいと思う、
越相同盟が結ばれた後も、上杉は武田北条とどっちつかずの態度でいたし、
甲相同盟が結ばれた後に、謙信は義昭信長の仲介で武田と再同盟しようとし、
武田は上杉とは結べないと信長に断っているから(1572年1月)
それ以前に破れたのだろうけど。
>>559
「当家を恨んでいない者などいない」
それって一国人の立場から大大名になるという出世をしたため
嫉妬をかっているという意味を含んでいるんじゃなかったっけ?
あまり自信が無いが。
>>569
秀包のことじゃないか?
養子になったのは元就死後だけど。
>>575
>とりあえず成立したのは1569年7月。信玄が利根川で謙信と対峙するのが
7月?具体的には?
初出は1569年2月10日『上杉家文書』だと思うが
>1572年1月だね。信長に友好的な手紙もこの一月には送っている。
それって家康攻めたことへの弁明と上杉との同盟は出来ませんと断ってる奴?
>和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって
この和睦前は上杉は北条高広に裏切られ上野の沼田のみという状態だったのだから
プラスの要素の方が大きい気もする。
>信玄が撤退したのは上杉が北信濃を突く動きをみせたからだと思ったが?
そんな動き見せていたか?
0598人間七七四年
2007/05/24(木) 23:51:29ID:uqkxHmZc>「武田と一緒に徳川攻めるようなことしたら、うちも乗っ取るんじゃないか」
>という挑戦的な書状は、武田の背信を責める意味もあったんだろうね
挑戦的というより普通に武田の背信を責めているのだと思う。
ただこの部分を信用すると武田は山賊か何かかって気がしてくるから
いまいち信用性が無いけど、それに軍鑑だし。
>>584
そりゃ毛利は安芸の土豪程度の身分だったしな、
信玄は信虎のおかげでまだましだったろうね、
信虎は1532年まで国外勢力と結ぶ甲斐国人の反乱に悩まされているし、
信玄は板垣を改易したぐらいか?
>>585
ソースは知らないが
陶が吉見を攻めた時に家中が割れたという話し。
前年に陶は毛利に備後を攻めさせ、毛利が落とした備後の城を自分のものとする、
それに対し毛利はこっそり吉見と同盟?
陶は毛利に(前年の詫びの積りか)人質を出すからと吉見攻めの援軍を求めるが
毛利家中は元就隆元は援軍を出すべき、他のものは陶とは手を切るべきと揉め
結果毛利は陶と縁を切ることに決定したという話し。
0599人間七七四年
2007/05/25(金) 00:43:42ID:kOQrAXUZ隆元は陶を討つ派じゃなかったっけ?
0600人間七七四年
2007/05/25(金) 00:43:59ID:6rmhqpK7本願寺に援助しながら織田とは直接対決を避けるって?アハハハハ
今時の日本政府じゃあるまいし、そんなどっちつかずな態度が通用
すると考えてる自体おかしいんだよ、その態度はいつでも滅亡寸前
まで自らを貶める結果になっていってしまうんだね、てゆうか最後
は吉川の周防長門2国を強引に毛利領にしてるから事実上滅亡した
ようなもんだろ。
0601奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/25(金) 00:45:58ID:Wl5N72F20602人間七七四年
2007/05/25(金) 00:53:39ID:6rmhqpK7秀吉には両川体制を散々付け込まれ結果小早川家を廃嫡にまで追い込む。
家康には関が原の西軍の中核と見なされ、大幅に改易(吉川の二国だけ残され)
戦わずに滅亡した毛利本家でした
0603人間七七四年
2007/05/25(金) 01:00:30ID:LrGbkMJO0604人間七七四年
2007/05/25(金) 01:11:00ID:6rmhqpK7毛利にとって都合の悪いことは何も言い返せず、武田に関して都合の
いいように曲解することしか出来ないのが毛利厨でした。
中国地方でしか戦略を展開してない毛利如きと武田を比較すること自体
間違ってるんだよ、そもそも我々武田ファンは毛利なんて眼中にないん
だが、毛利厨は必死になって武田と比較したがるんだよねえ。
0605長門 ◆q8GdomS4XA
2007/05/25(金) 01:25:27ID:32TkWzE/とりあえず自重汁
お前が喋ると自爆するのは確定的に明らか
0606奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/25(金) 01:30:29ID:Wl5N72F20607人間七七四年
2007/05/25(金) 01:37:55ID:Aal/E03j自己レスを修正
>>北条の重臣たる北条綱重は深志城で武田に破れているし,
北条綱重が敗れたのは蒲原城だったな。まあ、綱重も幻庵の息子で北条の一門で
その弟や城兵多数と一緒に討ち死にしているので北条にとって誉められたものではないな。
深志ではなくて深沢城だな。ここで北条の重臣にして名将と名高い綱成が敗れている。
小田原での放火は確か氏政の書状の中に触れているのがあったか。氏照は隠していたけど。
後の北条5代記とかでも隠しているし、屈辱だったのは確かみたいだが。
>>597
甲越和与についての1569年7月の成立というのは歴史群像の平山優氏の記事から。
>和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって
この部分は俺のレスじゃない。>>555氏のに答える形で書いたもの。
謙信の北信濃侵攻云々から信玄撤退については歴史群像の小和田哲夫氏と二木謙一氏の記事から
ただそれぞれは「情報に接した」「動きを見せた」と記してある事から
北条と上杉が同盟をしたことが過大な形で武田に伝わったのかも。
0608人間七七四年
2007/05/25(金) 01:54:46ID:cwl1DBDh甲越和与については戦国遺文6巻に載っていたような気もするが
ちなみにいつの歴史群像?
0609人間七七四年
2007/05/25(金) 02:01:25ID:Aal/E03j0610人間七七四年
2007/05/25(金) 02:08:38ID:cwl1DBDh0611人間七七四年
2007/05/25(金) 02:13:26ID:Aal/E03j0612人間七七四年
2007/05/25(金) 04:54:22ID:6rmhqpK7ありませんよね、大河でも取り上げられるわけがない特に主役として
これも見得と建前の関東の文化らしさなの?
甲陽軍艦>>>>>>>北条五代記ets・・・・・
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0613人間七七四年
2007/05/25(金) 07:25:36ID:oyIbsPSz甲越和与について具体的に書けというに、さらっと無視か
ちゃんと調べればそういうこともわかるからちゃんと調べろって意味だ
北条上杉間で養子縁組が成立してから北条は里見と和睦交渉再開しているが?
越相同盟交渉時にも打診してることから氏康個人は対武田に集中する意図ありまくり
崩壊理由についてはちょっと修正しようか
氏政の考えと、それまでの謙信の不履行による上杉に対する不信感(というか之は結局謙信の体たらくと言い得るか)
まあ上杉には上杉で北条が条件履行してねえからだよって言い訳があるだろうが
鉢形も滝山も本気で攻略する気は無い?都合いいなおい
信玄が負けたのは本気じゃなくて、ちょっと信玄が本気出せば百戦百勝ですよってか?
焚き火したのも事実なら、幕府になきついたのも事実、鉢形攻めて落とせなかったのも事実、なにか誤認してることあるのか?
表現が気に入らない?あっそう、なら適当に脳内変換でもしとけ
固執することが出来ない割には必死で養子縁組までまとめようとしてるがねえ?
塩止めが永禄八年?それが書かれた書状の名前を例の如く一言一句間違えずに教えて
どっちにしてもそれ以前に義信は幽閉されとるだろ
それに遠州錯乱を堀越やらに誘いかけて起こさせたのは偉大なる甲斐の生臭坊主
さらに当時の状況よ〜く今川中心に考えてみ
西の徳川が攻めてくる、遠州錯乱はおこって支配が磐石でないことが露呈した、東は手を結んでるが、北は百万石にもなろうかという生臭坊主
これで武田と「自ら」敵対しようなんて、それこそ信玄みたいなハイエナでもない限り考えんぞ
後日に氏真は徳川北条の庇護受けることになるが、武田とは合戦にまで出向いてるぐらい恨んでることからも信玄が先という認識だろうな
>>597
戦国遺文武田氏変六巻
甲越同盟によって上野武蔵の一部手に入れたが、それによって佐竹・太田たちと敵対することになったり、関東の従属勢力の協力を得られなくなったりとマイナスもあるが
さらにこれによって佐竹が台頭してくるわけだから総合的に見ればどうだろうな
っていうか歴史群像を根拠にしてる奴と話してたのか俺は
なんか疲れるわ
0614人間七七四年
2007/05/25(金) 08:17:14ID:kJvS5eS80615人間七七四年
2007/05/25(金) 08:25:34ID:CihmzE2dリスクを恐れないといえば聞こえはいいけど……
むしろ凄いのは運や敵の失策も味方したとはいえ、失敗の辻褄を合わせて結局はプラスにしちゃってるしぶとさとしたたかさ
戦国最強なんていう虚像よりそっちのほうがはるかに凄いことだと個人的には思うんだがねw
0616人間七七四年
2007/05/25(金) 10:25:11ID:B+CR0/Q3地方の特色や状況で政策も戦略もかわるので、名将であることに違いない両名。
正直、信玄と元就では甲乙つけがたいように思われます
臆病と呼ばれるほど慎重な大名は強敵になります。
仮に戦をしていても、策を練り合ってもお互い決め手に欠けると思われます。
歴史スレなので大半の方がご存知でしょうけど・・・
信玄は遺言で、北陸では上杉謙信。中国、九州で毛利元就に優る大将はいない。
と語っています。人は城、人は石垣・・・という項目の前文ですね。
(一度も自国の城を落とされた事はないし、城の囲みを解いたこともない。と何気に自慢してますがw)
敵の大きさを認め警戒している事からしても、信玄も元就も傑物だった事は確かですね。
ちなみに
若い大将では家康が優れているが、まだ未熟。氏政は論外。
信長は一向宗を敵に回して、家康がいないとどうにもならない状況に陥っている。
と語っていますね。当時の状況が伝わってくる面白い一文です。
0617人間七七四年
2007/05/25(金) 10:56:56ID:viHx5SI/もしかして厨ファンサイトから無断コピペされたあの恐るべき贔屓計算のことを言っているのか?((((;゚Д゚))))
0618人間七七四年
2007/05/25(金) 11:47:14ID:vpl5JUnHソースが無い部分が多くて筆者の想像?で書いているような
そのまま参考にするのはちょっと・・・
歴史群像によれば信玄は信虎と違って戦略が行き当たりばったりって話しもあるし
0619人間七七四年
2007/05/25(金) 14:28:32ID:Aal/E03j>>氏政の考えと、それまでの謙信の不履行による上杉に対する不信感
(というか之は結局謙信の体たらくと言い得るか)
まあ上杉には上杉で北条が条件履行してねえからだよって言い訳があるだろうが
その上杉との条件はまず折り合えないだろうし、そうなれば上杉が兵を出す事も
考えにくい。 それでも氏康は武田との全面戦争を望んだのか?
それとそっちもスルーしているが、>>555でいわれていた
5月半ばまで掛川城を攻めていた 徳川が4月末に駿河で武田を挟撃している
という情報はどうなったんだ? 煽りじゃなくて知りたいのだが。
>>鉢形も滝山も本気で攻略する気は無い?都合いいなおい
信玄が負けたのは本気じゃなくて、ちょっと信玄が本気出せば百戦百勝ですよってか?
いや、そんな事いってないよ。とりあえず本気じゃない根拠としては
永禄12年9月吉日に小山田が出した文書で「小田原への道のりで鉢形・御岳他数城を
攻撃しました。次に向かう滝山でも放火するのは必然です。」という部分があったはずだが。
北条氏邦の書状でも9月9日に御岳が、
9月10日に鉢形がそれぞれ一日ほど攻められたことが 述べられていると思うが。
これらの点から本気で攻める気はなく、目的はあくまでも小田原だったと 思うのだが。
支城も攻略せず小田原だって三日ほど放火してさっさと切り上げている事からこの作戦自体が
北条に対する牽制が主だったと思うが。
>>焚き火したのも事実なら、幕府になきついたのも事実、
鉢形攻めて落とせなかったのも事実、なにか誤認してることあるのか?
表現が気に入らない?あっそう、なら適当に脳内変換でもしとけ
随分カリカリしているが、悪意に満ちた言い方で卑小化しようとして説明したら
この言い方はないと思うが。あなたのいう焚き火は氏照が書状で隠し、
後の軍記物でも隠されるほどの屈辱だったし、
幕府になきついたというのも信玄の外交努力だし、鉢形については上記の通り。
あなたがいう北条の上杉への外交努力も、言い方を悪くすれば悪くいえるだろう。
北条本隊が他勢力の動向からいなくなったことについての是非や、
北条の重臣たる北条綱重や綱成が敗れたことは スルーされているが。
>>固執することが出来ない割には必死で養子縁組までまとめようとしてるがねえ?
それで結局どうなったかな。景虎を養子にもらったって謙信は動かなかった。
その状態が続けば氏康だってさじを投げるのは必然じゃないのか?氏政は実際投げたし。
(続く)
0620人間七七四年
2007/05/25(金) 14:29:39ID:Aal/E03j>>塩止めが永禄八年?それが書かれた書状の名前を例の如く一言一句間違えずに教えて
どっちにしてもそれ以前に義信は幽閉されとるだろ
塩止めは1567年8月17日だったか。「萩原芹沢文書」 誤認していた。失礼。
>>それに遠州錯乱を堀越やらに誘いかけて起こさせたのは偉大なる甲斐の生臭坊主
浜松御在城記か。これ自体が江戸時代に編集されたものだし、
遠州騒乱が1563年に勃発したとき
まだ第5回川中島さえ起こっておらず、信玄は西上野と北信濃の領国化に夢中だったし
信長との同盟だってまだ起きてはいない。
信玄が黒幕というのは無理じゃないか?やる意味がない。
>>さらに当時の状況よ〜く今川中心に考えてみ
西の徳川が攻めてくる、遠州錯乱はおこって支配が磐石でないことが露呈した、
東は手を結んでるが、北は百万石にもなろうかという生臭坊主
これで武田と「自ら」敵対しようなんて、
それこそ信玄みたいなハイエナでもない限り考えんぞ
後日に氏真は徳川北条の庇護受けることになるが、
武田とは合戦にまで出向いてる
ぐらい恨んでることからも信玄が先という認識だろうな
まあ、そこへと至った経緯については信玄にも非があるだろうな。
でもね、塩止めを行い、敵対国の上杉と同盟を結んでいる状態では敵対していない、
というのは 無理だろうよ。受動的であれ自発的であれ、
信玄と敵対する路線に踏み込んだのは事実。
それを信玄が放置しておくいわれも特に無い。今川氏が混乱から立ち直り
受動的な上杉氏との同盟が積極的なものに変わりえるまで、もしくは完全に近い
防御体制を整えられるようになるまで放置しておくいわれも特に無い。
0621人間七七四年
2007/05/25(金) 14:53:34ID:6rmhqpK7可愛そうな幼稚園児はどうして信玄が最強と言われてるかが永遠に理解
出来ないという単純な脳味噌で、こんな元就如きとの比較スレで喚き続ける
から始末に終えないね。
元就は自身と同等のレベルの大名と戦ったことあるんですか?リアルタイムで
自身と同様に勢力を拡大している相手と戦ったことあるんですか?
信玄は自身の領国に隣接するほぼ全ての列強より戦略的に優位に進めていった
んですが元就にはそれがないね。
ちなみに戦は一人でするものではなくて、統率の取れた強い軍団も必要、毛利
にはそれがないね。
0622人間七七四年
2007/05/25(金) 14:57:20ID:k6e4UrJ50623人間七七四年
2007/05/25(金) 18:04:43ID:Pf9cmiwv■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています