>>108ちゃんと文章読んでないね、もしくは苦し紛れにそう言ってるかだな。
以上、武田、北条双方の文書をざっと見てきたが、それらから想像される合戦
の実像は、細かい装飾的な部分をのぞけば「甲陽軍鑑」と較べてもあまり矛盾
はないようである。北条方の書状では、いかにも負けていないように書いてい
るが、実際の敗北についてはわざととぼけた表現をしているのだと考えると符
合するところが多い。
 1つ大きな違いは、「甲陽軍鑑」では、あらかじめ三増峠で待ちかまえてい
た北条勢が、信玄の到着とともに、陣を移していったと言うところである。北
条の文書からでは、もともと信玄が陣取っていたところに、北条勢が攻め寄せ
ていったと読める。「甲陽軍鑑」のように北条が陣を移していったとすると、
それが何のためなのか理解に苦しむ面もある。最初から武田勢が陣取っていっ
たところに攻め寄せたというように解釈する方が自然のようである。後で紹介
する北条系の軍記物も、そのように書いている。
 「甲陽軍鑑」では「北条氏照・北条安房守・忍衆・深谷衆・江戸川越衆・
碓井衆(臼井衆)・佐倉衆・小金衆・岩槻衆・玉縄の北条上総守ら二万余騎」
が待ちかまえていたことになっていた。しかし、この事も疑問である。北条系
の文書で見たとおりに、北条氏は武田氏に対して「手を出すな、城に籠もって
いろ」という指令を出している。本気で決戦をしようとしていたのかどうか怪
しい面があるのである。「甲陽軍鑑」であげられている面々は、北条軍団の主
要な衆ほとんどであり、「甲陽軍鑑」の作者が単に名前を羅列しただけとも取
れる。もっともこの辺りのことは、実際に動員が行われていることを示す文書
が存在しているかどうかを調べてみないと結論は下せない。
 もう1つ、「甲陽軍鑑」では「御獄・鉢形攻め」については触れられていな
い。武田・北条双方の文書に見られるので、この2城での戦闘は間違いなくあ
ったはずである。単純に忘れてしまったものだろうか。ただ「甲陽軍鑑」では
、武田勢が八王子に向かう途中、氏照が戸取と言うところに陣取って、そこで
戦闘になったという記事があった。この戦闘については文書からは確認できな
いが、あるいは先の戦いと関係があるのかどうか。
 しかし、大まかなところでは、「甲陽軍鑑」に矛盾はない。ということは
「甲陽軍鑑」に見られる合戦の内容が、だいたいあっていると見てよいうこと
になるであろう