毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
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0001人間七七四年
2007/05/14(月) 06:19:06ID:jnNXqIUx武田信玄>>毛利元就は定説です
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1159020720/
毛利元就>>武田信玄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/
0002人間七七四年
2007/05/14(月) 09:03:22ID:t4NQd8jeがっこどなもかんけーねども
ひだてかわしりのよすのやさいったおんな? よすのや
したっきゃひとおがいでなもすわらいねっけおん
よぐみだらめへさ150円やしぐするってかいでらっけものな
てがよほずねな、ばかけだなっ
んがらたんた150円やしがらっていっつもこねよすのやさくなって!ばがけっ!
150円だや?150円
みだっきゃわらしつれでらやづもいだし、えのものみなしてよすのやが?すたげおがしー
とさはらへったがらとぐもりくがな〜どがしゃべってらし あどみでらいね
んがらよ150円やるんてぐどそごあげれって
よすのやだばんがらくるどごでねって
むげのはんだいさねまったやづどいづぶなぐりあったっておがしゃぐねった
そやんたあんべがいいんだべ? おなごがだだばででくなっ
すて、やっとねまれだがどおもたっきゃおいのとなりおおもりつゆだぐどがいってらおんな
そごでまだおらきえだおん
んがよー、おおもりつゆだぐどがなのいまはやんねーやんだ
なにいっきなっておおもりつゆだぐや?
んがまずめにおおもりつゆだぐどごくいてのがってききてっ んがのしょねどごききてっ
おめだばたんだおおもりつゆだぐどしゃべてえだげだんてねがど
よすのやどどやぐのおいがらしゃべらへればいまおらがだのあいだではやってらんは
ねぎだぐだべな
おおもりねぎだぐ こいがおらだのたのむやづだ
してねぎだぐってねぎすたげはいってらどもにぐなもはいってねえものな?
そいさたまごどごかげればばんよ
したたってこいどごたのめばあどがにめへのものかってめえつけらいるんて
おめがださだばしかへらいね
んがらだばながさぎやのむがいのえすえるずしごさぐでいがでもくってれって
0003人間七七四年
2007/05/14(月) 09:05:20ID:ng939ZbB続きは三戦板でやりましょう。
http://ex21.2ch.net/warhis/
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167304387/554
0004人間七七四年
2007/05/14(月) 10:17:26ID:N7FDxnN40005人間七七四年
2007/05/14(月) 10:54:20ID:maqf6+OE思い込み、上田原と砥石城攻めだけが武田VS村上戦と勘違いする始末www
●が信玄の勝ち、▼が負け
17 1548 小県・上田原合戦 村上義清 野戦・対陣 ▼
塩尻・勝弦峠合戦 小笠原長時 野戦・対陣 ●
19 1550 筑摩・林城 小笠原長時 調略・自落 ●
小県・戸石城 村上義清 攻城戦 ▼
20 1551 小県・戸石城 村上方 調略・自落 ●
筑摩・刈谷原城 小笠原方 攻城戦 ●
筑摩・平瀬城 平瀬甚助 攻城戦 ●
安曇・小岩岳城 村上方 攻城戦 ▼
21 1552 安曇・上野原 小笠原長時 攻城戦 ●
安曇・小岩岳城 村上方 攻城戦 ●
22 1553 小県・葛尾城 村上義清 調略・自落 ●
小県・塩田城 村上義清 攻城戦 ●
川中島合戦(第一次) 上杉謙信 野戦・対陣 ●
23 1554 伊奈・鈴岡城 小笠原信貞 攻城戦 ●
伊奈・神之峰 知久頼元 攻城戦 ●
筑摩・福島城 木曽義康 調略・自落 ●
弘治1 1555 川中島合戦(第二次) 上杉謙信 野戦・対陣 △
2 1556 埴科・雨飾城 村上残党 攻城戦 ●
0006人間七七四年
2007/05/14(月) 10:55:45ID:ng939ZbB続きは三戦板でやりましょう。
http://ex21.2ch.net/warhis/
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167304387/554
0007人間七七四年
2007/05/14(月) 11:39:02ID:u5G8ladZ削除人が武田好きだったのかも知れんな。
0008人間七七四年
2007/05/14(月) 12:34:44ID:c7KxqsB4>22 1553 小県・葛尾城 村上義清 調略・自落 ●
この直後に逆襲喰らって城将の於曽源八郎を討ち取られ城取り戻される大敗喰らった
なんでこういちいち指摘するのもうっとーしーぐらいに信玄の負けを隠すんだ?
わざとか、元々知識不足なのか?
0009人間七七四年
2007/05/14(月) 13:47:28ID:G119tSpY被害妄想キ○ガイのメガ豚(ID:lFygoP6c)の発狂ぶりは
コチラでお楽しみいただけます♪
戦国板で有名な甲斐の山猿のオナニーにご期待ください
●風林火山の視聴率について語るスレPart7●
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1177849085/l50
しかしながら諏訪殿が裏切ったのが悪い
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1178095470/l50
毛利元就>>武田信玄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/l50
ID:maqf6+OE
0010人間七七四年
2007/05/14(月) 14:12:12ID:UN+f7kgx武田が親子2代でやったことを元就は一代で成し遂げた訳だし。
元就は信虎より3年くれて生まれて、信玄より1年前に没した
武田親子と全く同時代に活躍した人物。
0011人間七七四年
2007/05/14(月) 14:36:13ID:kJXIvQP00012人間七七四年
2007/05/14(月) 14:43:24ID:ALO9ylMR0013人間七七四年
2007/05/14(月) 15:53:30ID:ndCGag0w0014人間七七四年
2007/05/14(月) 18:26:48ID:2dw7E+/a無駄な人生だったね
0015仙台藩百姓
2007/05/14(月) 18:33:55ID:5An23Mw7同じ貧しい山岳部族
世継ぎはボンクラ
似た者同士だおね( ^ω^)
0016人間七七四年
2007/05/14(月) 18:36:31ID:jnNXqIUxその場合
「信虎は最終的に息子(実際は家臣団の力だろうけれど)に追放された」
「信玄は最初に、親父が残した業績のお陰で恵まれたスタートを切れた」
という重大ポイントが曖昧になってしまいそうな懸念はある。
もっとも、道三だって親子二代説が、ほぼ確定した昨今
武田親子二代併せての業績と比較するのも面白いとは思うけど。
元就長生きだかんねー、70で子供作ってるしw
んでもって、実は信虎も、息子の信玄より長生きしてたりするんだよね。
自分を追放した息子に生活費を工面してもらっていた心境とは如何なるものか。
勝頼と対面して、自分が甲斐に戻れるよう願ったが受け入れられなかった話など
信虎の人生には、粗暴な性格ゆえに落ちぶれた英雄、という一言では片付けられない悲哀があって、なんとなく好きだ。
0017人間七七四年
2007/05/14(月) 18:39:08ID:auBI0JiB源氏と大江氏の優劣を語る気はないからここで失礼
0018人間七七四年
2007/05/14(月) 19:33:08ID:qKGUmz/7自由気ままに?生きて。
武田の衰退を見ることもなかったわけで。
0019人間七七四年
2007/05/14(月) 19:36:23ID:qyVkxlJK>358 名前: 人間七七四年 投稿日: 2007/04/02(月) 23:23:31 ID:zbV7RIL4
>「孫子の兵法」を国内で最も実践させた人物として後世まで伝えられる
誰もつっこまなかったんで俺が言うが、
毛利元就は「孫子」を読んでいたし、
信玄より深いレベルで実践してるんだが…
元就が「孫子」を読んでいたっていうのは、
奴の書状に「孫子」からの引用があるのでほぼ確実。
その引用した言葉こそが、かの有名な
「謀多きは勝ち、少なきは負ける」
で、この言葉は「孫子」のキモ「戦わずして勝つ」に非常に近い。
元就が謀将と化したのは孫子を実践しまくった所為とも言える。
翻って、信玄が引用した言葉って「風林火山」だろ。
「記録より、記憶に残る」を念頭に置いたスローガンだな。
まぁかく言う俺は、尼子晴久派なんだが(w
0020人間七七四年
2007/05/14(月) 19:38:29ID:IvoZIdoZでも実際は生涯戦歴226戦で多分戦国時代最多の戦闘回数。
0021人間七七四年
2007/05/14(月) 19:47:51ID:i0nJ9Cr1算多きは勝ち・少なきは負けるじゃなかったけ?
晩年はどうかしらんが、若い頃は孫子は家に置いてない確率のが高いと思うけどな。
002319
2007/05/14(月) 20:07:58ID:qyVkxlJK確かに。
まぁ、初期の弱小勢力ぶりと年齢の長さを考えると仕方ないかもしれんが。
>>21
>算多きは勝ち、少なきは負け
あー、そうだったような…
ま、いいか。オレ晴久派だしw
確かその書状の続きの内容が
「算多きは勝ち、少なきは負けと中国の兵書にもあるんだが、
ウチの隆元はバカ正直で困っている。
信心深い親孝行者で本当に良い奴なんだが…。」
だったかでけっこう感慨深かった。
んで、隆元が死んだあと、
「親父に比べて自分は無能で…」
とか、知り合いの僧侶に悩み相談してた手紙が出てきて
元就は号泣したらしい。人間くさいなぁ…
んで色々細部が間違っているかもしれんが、全体として>>19の論旨はどうかしら?
間違ってたら撤回する
0024人間七七四年
2007/05/14(月) 20:10:54ID:tT2nUm5C0025人間七七四年
2007/05/14(月) 20:31:37ID:3fsasXL/元就の初陣は21歳と遅かったけどその後
毎年の如く戦に明け暮れておりますからね
1年以上戦わなかった年はないからw
0026人間七七四年
2007/05/14(月) 20:33:55ID:qKGUmz/7信長や謙信を抑えて戦闘最強になるんじゃない?
ゲームの話になるけど。
226戦って、追随する武将いないんじゃないの。
0027人間七七四年
2007/05/14(月) 20:37:00ID:aTz/EdL1相手が家康なら、瞬殺されてるだろうし。
0028人間七七四年
2007/05/14(月) 20:46:56ID:jnNXqIUx必然的に戦の回数が多くなるんだと思う。
元から大名として(ないしは、それに近い位置から)スタートした英傑達と比べれば、単純な戦歴で差があるのは当然な事かと。
勝たなきゃ領土増えない境遇だったんだから。
俺は勝率云々より「大事な局面で勝つ、大事な局面で負けない」事が肝だと思ってるんで
元就が200勝云々とかはあんま興味ないなぁ。
凄いのは有田中井出や厳島で勝ってる事だと思う。
信長の凄いとこも、例えば美濃攻めなんかでは負けていても、桶狭間で勝ってるとこだろうから。
基本的に、大名としての能力では「信玄>勝頼」だと思ってるんだけど
その理由の一つとして、勝頼は一番大事といってもいい長篠で大敗しちゃったからね。
翻ってみるに、信玄が負けた相手って豪族連中でしかない訳。
だから、大敗しても国力でカバー出来、最終的には領土併呑できてるんだし。
「重要な局面で負けていない。負けをカバー出来る」というのは、信玄の一番凄いところだと思うよ。
0029人間七七四年
2007/05/14(月) 20:50:04ID:s+uOqcW1戦場における部隊の運用の心得としては適してると思うよ
本人は調略重視で、かならず相手より大軍で戦場に臨んだりと
戦略面でも孫子を実践しようとしてるしね
0030人間七七四年
2007/05/14(月) 20:52:23ID:CbghpL8z0031人間七七四年
2007/05/14(月) 20:56:52ID:ng939ZbBお前らが三戦板に移住すればいいんだよ屑。
屑らしく三戦板に移住しろ雑魚WWWWWWWWWWWWWWWWWW
0032人間七七四年
2007/05/14(月) 20:59:07ID:/3W8BNil0033人間七七四年
2007/05/14(月) 21:00:54ID:ng939ZbBIDあっても意味がいないんだから三戦板の慈悲に縋ってブヒブヒ言っておけよ。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ははははははああああああああああああああああああああああああああああああ
0034人間七七四年
2007/05/14(月) 21:05:35ID:jnNXqIUx孫の勝頼に警戒されて、甲斐の地で往生出来なかったのは哀れだと思ってたんだけど
見方を変えれば、確かに幸せだったのかもね。
道三なんか、同じように息子に反乱されて、討ち取られちゃってるんだし。
>>23
元就と隆元の父子関係は泣ける。
尼子攻めの最中で死んだっていうんだから、元就の半生ってドラマチックだよねぇ。
大河物語に一番肝心な「滅びの美学」が無いのが困り物だけど。
>>30
インパクト強すぎだかんね>風林火山
そういったイメージ戦略でも信玄は優れていたんじゃないかな。
前スレは変な流れのせいで、やたら戦術レベルでの強さの比較が多かったけど
もっと戦略や調略についてもスポットを当てて
両雄の凄さを再発見、再認識、といきたい所。
0035人間七七四年
2007/05/14(月) 21:08:13ID:ng939ZbB0036人間七七四年
2007/05/14(月) 21:15:39ID:t4NQd8je0037奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/14(月) 21:29:15ID:77RxM8IC0038人間七七四年
2007/05/14(月) 22:10:21ID:IvoZIdoZ>>もっと戦略や調略についてもスポットを当てて
両雄の凄さを再発見、再認識、といきたい所。
このような事をいってくれる人がいるとは(感涙)
ちょっとうれしくなったので前スレでも話題だった箕輪を主要とする
西上野制圧のダイジェストをちょいと貼ってみたい。話のネタにでもしてくれい
0039人間七七四年
2007/05/14(月) 22:12:08ID:IvoZIdoZ1561年8月から9月 第4次川中島の戦い。
1561年11月 武田軍高田城・和田城を攻略。その余勢を駆って西上野の主要な城の一つである
倉賀野を攻めるも攻略にはいたらず撤退。
1562年5月 武田が上野の浦野(大戸)・高山氏・和田氏を服属させる。
1562年9月 武田軍、箕輪・惣社・倉賀野城を攻めるが本格的には戦わず刈り働きして放火して兵を引く。
1562年10月 追放されていた元国峰城主小幡信実を立てて武田軍が国峰城を攻撃し攻略。
1563年2月 武田軍、北条軍に協力して武蔵松山城を攻略。
1563年10月 武田方に属していた上野衆と呼応して城主斉藤越前を追放し、
武田軍岩櫃城を攻略。西上野攻略の重要拠点とする。
1564年夏 武田軍安中・松井田の2城を攻略。
(しかしこれには1566年説もあり。いづれにせよ箕輪攻略前。)
1564年8月 第5次川中島の戦い。上杉謙信は決戦を望むが信玄は応じず。
結局10月に上杉軍撤退。
1565年5月 武田軍、倉賀野城を攻略。これにより箕輪城追い詰められる。
1565年7月 長野業盛を始めとする上野の上杉方、謙信に信濃への出兵を要請。
特に業盛は何度も使者を送り武田の矛先をそらしてくれるように懇請する。
1566年9月29日 武田軍、箕輪城を攻略し長野業盛を自刃させる。
1567年10月 武田軍、惣社城を北条軍と共に攻めて攻略。武田の西上野経略がひとまず終了する。
0040人間七七四年
2007/05/14(月) 22:15:57ID:IvoZIdoZ1561年6月 長野業正死去。
1561年8月から9月 第4次川中島の戦い。
1561年11月 武田軍高田城・和田城を攻略。
その余勢を駆って西上野の主要な城の一つである
倉賀野を攻めるも攻略にはいたらず撤退。
1562年5月 武田が上野の浦野(大戸)・高山氏・和田氏を服属させる。
1562年9月 武田軍、箕輪・惣社・倉賀野城を攻めるが
本格的には戦わず刈り働きして放火して兵を引く。
1562年10月 追放されていた元国峰城主小幡信実を立てて武田軍が国峰城を攻撃し攻略。
1563年2月 武田軍、北条軍に協力して武蔵松山城を攻略。
1563年10月 武田方に属していた上野衆と呼応して城主斉藤越前を追放し、
武田軍岩櫃城を攻略。西上野攻略の重要拠点とする。
1564年夏 武田軍安中・松井田の2城を攻略。
(しかしこれには1566年説もあり。いづれにせよ箕輪攻略前。)
1564年8月 第5次川中島の戦い。上杉謙信は決戦を望むが信玄は応じず。
結局10月に上杉軍撤退。
1565年5月 武田軍、倉賀野城を攻略。これにより箕輪城追い詰められる。
1565年7月 長野業盛を始めとする上野の上杉方、謙信に信濃への出兵を要請。
特に業盛は何度も使者を送り武田の矛先をそらしてくれるように懇請する。
1566年9月29日 武田軍、箕輪城を攻略し長野業盛を自刃させる。
1567年10月 武田軍、惣社城を北条軍と共に攻めて攻略。武田の西上野経略がひとまず終了
0041人間七七四年
2007/05/14(月) 22:28:04ID:IvoZIdoZ長野氏は上野国衆の中でも最大規模の勢力を誇っていた。
惣社・臼井長尾氏と同盟し、上野国碓氷・甘楽・多野郡を勢力下に収め、
長野・高井郷をはじめ、八幡・碓氷荘など多数の荘園と国衙領を掌握。
長野氏の勢力は交通の要所に位置し、経済力も有していた。
それに加えて長野業正は12人の娘を近隣の国人にとつがせて
強力な勢力をつくりあげた。
0042人間七七四年
2007/05/14(月) 22:31:42ID:lQiPK3i10043人間七七四年
2007/05/14(月) 22:32:33ID:IvoZIdoZ各地の箕輪の味方勢力を各個撃破してその力をそぐ事に勤めている。
そして最終的に味方があらかたいなくなった箕輪城を2万の大軍で攻めて
攻略している。5年の歳月はあらかたこれに費やされている。
0044人間七七四年
2007/05/14(月) 22:34:53ID:IvoZIdoZとりあえず業政死去からまとめました。
0045人間七七四年
2007/05/14(月) 22:36:51ID:IvoZIdoZ0046人間七七四年
2007/05/15(火) 00:27:09ID:+JpN0Vro乙
信玄の慎重な攻め方が窺い知れてオモロイわ。
ところで「長野業正」が正しい表記だよな?
なんか、ちょくちょく「業政」って書かれてるのを見かけるんだけど
もしかして「業政」説もある?
0047人間七七四年
2007/05/15(火) 09:29:27ID:gPLJ6YdT少しでも信玄の有能性を証明されれば、まともに反論出来ずメガトン
のせいにするこの小心さは笑えるよw
ところで元就の戦って地の利が生かせるような領内での戦いや篭城戦なんか多くない?
信玄の戦の8割以上は戦で最も複雑な城攻めなんだが、篭城戦もなければ
地の利を生かせるような領内で戦うこともほとんどといっていいほど皆無。
これは謙信にも言えることだが、やはり最強は信玄と謙信だろう。
0048人間七七四年
2007/05/15(火) 09:35:57ID:4BuRJDGJ笑わせようとする部分が露骨過ぎる
偽メガトンとしては20点弱
0049人間七七四年
2007/05/15(火) 09:48:01ID:gPLJ6YdT負け戦と思い込みたがるんだ?
0050人間七七四年
2007/05/15(火) 09:56:12ID:4BuRJDGJメガブタは「そりゃ信玄の勝ちに信玄が直接戦ってないものまで含めている以上、負けもそうしないと単なるダブスタだろw」
とまっとうな突っ込みが入るようなボケはかまさない
もっと電波出して!
0051人間七七四年
2007/05/15(火) 10:03:41ID:gPLJ6YdT砥石城攻めのことかな?大将として真田幸隆の策を用いて城を落とした
わけなんだがそれがどうかしました?全軍を指揮するのは信玄なんだよ。
とまあ、いつまでもこういう下衆なアンチを相手にしてても仕方ないが
信玄の戦いに記録されてるものとされてないものとをちゃんと区別しなきゃな。
しかし元就ってしょぼいねえ、200戦もしておきながらたったあれだけしか
領土拡大出来なかったの?
0052人間七七四年
2007/05/15(火) 10:20:01ID:4BuRJDGJ「じゃあ部下の負けも全軍を指揮した信玄の責任じゃんw」の一言で終わるような弱い電波でアホコテの振りは務まらんよ
出直して来い
0053人間七七四年
2007/05/15(火) 10:25:27ID:gPLJ6YdTやっぱメガトンに普段から遊ばれてるアンチだけのことはあるね
頭が悪いよ、信玄が大将として出陣した戦ならば部下の不手際が
その戦全体の負けに繋がれば必然的に信玄の負けになる、しかし
信玄が出陣しない戦はどう考えても部下の負けだ。
それから「砥石城は真田一人で落としただろうがーーー!!!」
みたいな反応はどうした?俺はそれを楽しみにしてたんだが(笑)
毎度毎度信玄の負け戦だけ持ち出してやいのやいのと子供っぷりな
ところを見せてみろよ。
0054人間七七四年
2007/05/15(火) 10:54:25ID:gPLJ6YdTそれにしても元就の200戦も元就自身が戦ったのってどれだけあるんだろうねえ
常識で考えて200戦全勝なんてありえないからまあ捏造されてるのは見え見え
だけどね、そもそも元就の戦歴なんて江戸時代に作られたっていうし。
0055人間七七四年
2007/05/15(火) 11:09:21ID:T0kVLeE9本人だったら大間抜けだな、「普段から遊ばれてる」とか意識過剰丸出しw
0056人間七七四年
2007/05/15(火) 11:46:03ID:Kh2dxAt8場違いだよおまいら
0057人間七七四年
2007/05/15(火) 12:54:44ID:+bM4RqxA0058人間七七四年
2007/05/15(火) 13:27:18ID:xp+IpInI具体的にどうやって1700対5000の劣勢を覆したんでしょう?
大河だと元就自身が囮になって元繁を引き寄せて弓を浴びせたことになってたけど、これは創作ですよね?
村上義清が上田原でやったように伏兵を敷いたんですか?
0059人間七七四年
2007/05/15(火) 13:41:00ID:Dy3xqBVe安西軍策によれば正面からぶつかって討ちとったっぽいな。
まあ安西軍策は森脇覚書が下敷きだから絶対間違いないとは言い切れないけど。
0061人間七七四年
2007/05/15(火) 19:11:27ID:0TdBIafd0062人間七七四年
2007/05/15(火) 19:13:46ID:+JpN0Vro0063人間七七四年
2007/05/15(火) 20:43:38ID:7vppWsteレスが遅れてすいません。
長野業政というのは確かにあちこちで書かれていますね。
ですがやはり業正のほうが正しいそうです。「政」の字は上杉憲政の字であり、
それを下におくのは考えにくいそうです。
0064人間七七四年
2007/05/15(火) 20:55:04ID:yCECI+bP劣勢でも相手を討ち取るのが得意な毛利元就
この二人が戦ったどうなっていたのだろうか?
0065人間七七四年
2007/05/15(火) 20:58:11ID:7vppWste得意っていうほど多くはないんだが。精々上田原でしょ。
川中島第4回も講談含めるならそうか?あとは討ち取られそうになった事は
確か無かったと思う。
0066人間七七四年
2007/05/15(火) 21:08:08ID:dNdgyk8Kまあさすがにフィクションだろうけど。
0067人間七七四年
2007/05/15(火) 21:55:01ID:+JpN0Vroおそらく信玄が戦場で接した危機の中では最大級だろうね。
運であれ何であれ、ここでも何とか生き延びてるのは信玄の凄さ。
川中島も、結局は防衛に成功して、謙信に奪われる事も無かった訳だから。
それから、戦術レベルでの優劣に拘り過ぎるのは止めとこうよ。
戦術って、元就という英雄にとっては最大の得意分野の一つだけど
信玄という英雄にとっては、どちらかといえば苦手な分野の一つなんだから。
軍人と政治家を、戦場での働きでばかり比較しても不公平な気がする。
元就の戦術が、本当に異常な程に凄い戦果を残してるから
どうしても元就の凄さを語る際に戦術能力は外せないけど
対して、信玄の真価って>>40にもあるような戦の前準備にこそあるでしょ。
「大軍で寡兵に負けた」というの戦術レベルでは失策の部類だが
「大軍で寡兵に挑んだ」というのは戦略レベルでの成功を意味する物。
実際、信玄からすれば「大軍で寡兵に負けても大丈夫」な事を承知の上で敵を選んだのだろうから
そこで「信玄は戦術で失敗してる」というのを過剰に掘り下げるのって有り得ないと思う。
むしろ「戦術で失敗しても大丈夫」な戦略をこそ評価すべき。
0068人間七七四年
2007/05/15(火) 22:07:26ID:+JpN0Vroそーなのか。回答トン
いや、主君が「上杉憲政」だからこそ
もしかしたら長野も「業政」だった(あるいは改名した)?
と気になっていたんだけどね。
「下に置くのは考えにくい」というのは実にもっとも。
上杉輝虎(足利義輝から一字拝領)や松平信康(織田信長から一字拝領)の例に比べてみればね。
むしろ輝虎の前の「上杉政虎」が「憲政」から一字拝領してるくらいだし。
なんにせよ、長野に関する胸の痞えが取れたよ。
0069人間七七四年
2007/05/15(火) 22:52:52ID:ZLJXBq/f0070人間七七四年
2007/05/16(水) 00:53:33ID:xYsGs+ia元就と信玄の戦術の差は、出発点(国人と大名)と敵の強さ(大大名と豪族)の差。
0071長門 ◆q8GdomS4XA
2007/05/16(水) 02:56:42ID:Tlvj/7y0その音を聴きに来て銃撃された信玄ってのがあったんだが
これって何がソースなのか誰かしらない?
0072人間七七四年
2007/05/16(水) 03:03:01ID:+TvpfNrW0073人間七七四年
2007/05/16(水) 08:22:55ID:5ZevClkLその謙信の留守を狙っても駄目だった以上、やはり武田信玄の軍勢には戦術的に何か欠陥があったんじゃ
格下と有利な布陣で対峙しながら、しばしば敗れているのも何か原因があるのでは?
0074人間七七四年
2007/05/16(水) 09:23:26ID:AHaQYd3J越後に乱入して一部を占拠したら、すぐさま反転してきて芦名勢を
痛めつけて越後からたたきだしているしな。なんだかんだいって強い。
駿河攻めのときの事をいっているなら、あれは駿河攻めの為の陽動という説もある。
信玄もそんな簡単に越後攻めがうまくいくとは思っていなかったとは思う。
0075人間七七四年
2007/05/16(水) 09:28:14ID:AHaQYd3J孫引きだけど「松平記」や野田城主だった菅沼の子孫が書いた「貞亨書上」に
あるらしい。どちらも確証がなく、徳川を痛めつけた信玄を徳川の手で
討ち取ったという事にしたいという意思の産物だと書いてあったな。
0076人間七七四年
2007/05/16(水) 10:04:56ID:bGeVftdN経験の少ない「大軍を動員しての戦闘」について触れないね。
寡兵で大群を倒すのが得意だから元就の方が凄いっていうけど、なら信玄
が得意にしている大軍同士での戦闘であれば信玄に勝てるの?
いっておくけど長野業正も2万を率いて信玄に負けたんだよ。
それと元就のお家芸の内部工作が武田家にどこまで通用したでしょうね、
まあ完全失敗に終わると思うけど、逆に毛利家は武田程結束強くはあるまい。
0077人間七七四年
2007/05/16(水) 10:17:18ID:8+Ponw/m全土を支配していたわけでもない長野氏が、諸豪族を糾合したとして2万いくとは思えん
1万石辺り500人役という無茶苦茶な軍役設定をすれば可能だが……?
0078人間七七四年
2007/05/16(水) 10:19:52ID:bGeVftdN長野氏は上野国衆の中でも最大規模の勢力を誇っていた。
惣社・臼井長尾氏と同盟し、上野国碓氷・甘楽・多野郡を勢力下に収め、
長野・高井郷をはじめ、八幡・碓氷荘など多数の荘園と国衙領を掌握。
長野氏の勢力は交通の要所に位置し、経済力も有していた。
それに加えて長野業正は12人の娘を近隣の国人にとつがせて
強力な勢力をつくりあげた。
0079人間七七四年
2007/05/16(水) 10:20:46ID:bGeVftdN関東武者の醜い姿が伺えますね、武田>>>>>>北条 は史実通り。
そういえば上州も関東に入るんだっけ?箕輪軍記や上州治乱記もこの
分なら捏造大だと思われますね。
0081人間七七四年
2007/05/16(水) 13:14:08ID:wMatMOs+普通に稼動戦力の問題じゃないの?
総数が多くても、実際に戦う兵が少なければ何の意味も無い
0082人間七七四年
2007/05/16(水) 17:19:43ID:bGeVftdN大軍同士で信玄VS業正があったのは事実
いずれにせよ関東の軍記物が信玄VS長野戦を捏造しているのがいけない。
>>81何だその言い訳は?(笑)
元就が寡兵で勝つからどうだとか、信玄は大軍で勝ったからどうだとか言って
おきながら、少しでも弱みを見せられればそういう言い訳がましいことしか言えない
のが元就厨www
意味がなくて大軍なんか揃えるわけないだろ、大軍での戦闘兵と寡兵での戦闘兵
の数が同じぐらいだとか思ってるんなら相当な馬鹿だね
0083人間七七四年
2007/05/16(水) 17:34:31ID:cLkMf9XMこのうち長野の勢力を上野半分として25万。
1万石あたり400人という無理目な設定をしてやっと1万人集められるかってところだが。
それとしつこいくらい書いてるが箕輪軍記や上州治乱記は推測だってのに都合よく決定事項にするな。
コピペの元ネタが上記2つと断言できるなら該当部分を両記から引用して示せ。
またはコピペが捏造やデタラメである証拠を示せ。
お前はコピペの元ネタが何だか知っているから捏造だデタラメだと断言して言っているんだろ。
お前がその証拠をとっとと出せば解決する話だ。
0084尼子フラッグ甲斐に立つ
2007/05/16(水) 17:35:39ID:XUEcvPz7行く先々の神社や寺に武田菱が満載されてて爆笑した覚えがある。
あと、要害山に登ったら、仲間が次々疲労で脱落した苦い思い出も…
とりあえず友人と二人で
「ひゃーはっはっは、小便鉄砲喰らえ〜」
とか前田慶次郎ごっこして帰りました。
0085人間七七四年
2007/05/16(水) 17:39:41ID:6nxMm3dv長野「だけ」で武田と戦ってたわけじゃないだろう。
上杉も、村上も、小笠原もその他の残党も当時は十分に居るだろうに。
0086人間七七四年
2007/05/16(水) 17:49:50ID:cLkMf9XM0087人間七七四年
2007/05/16(水) 18:01:04ID:bGeVftdNがマジで笑えると言ってるんだよww
今も昔も信玄が業正に散々に負けたなんて史料はどこにも無いんでしょ?
村上戦だけが唯一の敗退と通説されてる以上は、いくら業正がどうたらこうたら
言っても意味ないこと。
0088人間七七四年
2007/05/16(水) 18:09:36ID:cLkMf9XM憶測なのはコピペの元ネタになった史料についてでコピペの内容そのものについてではない。
お前は要求している史料や証拠が出せないから勝手に箕輪軍記だと決め付けて強弁しているだけだ。
>今も昔も信玄が業正に散々に負けたなんて史料はどこにも無いんでしょ?
ないかどうかはお前の方が良く知っているだろう。
なにせコピペを「確信を持って」デタラメ・捏造である証拠があると言っているのだから。
0089人間七七四年
2007/05/16(水) 18:29:52ID:bGeVftdN業正が信玄を散々に打ちのめしたっていう証拠を早く提示しろよ、そして
それが歴史家や一般に対してどういう認識を持たれてるか説明したら?
>無いかどうかはお前自身が良く知っているだろう
何この言い方(笑)、誰かさんの過去の発言をいつまで引きずってるの?
0090人間七七四年
2007/05/16(水) 18:41:12ID:cLkMf9XM>業正が信玄を散々に打ちのめしたっていう証拠を早く提示しろよ、そして
>それが歴史家や一般に対してどういう認識を持たれてるか説明したら?
話をそらすなよ。
お前がことさらに箕輪軍記・上州治乱記だと決め付けて取り上げるから書いてるんだろ。
それにお前が言うようにコピペが両記を元ネタとしたものならそれこそ他に証拠なんて出す
必要もないだろ。
コピペの元ネタは箕輪軍記・上州治乱記でこれらはデタラメです、で話は終わりだ。
>何この言い方(笑)、誰かさんの過去の発言をいつまで引きずってるの
自分はメガトンではないとはいわないわけだ。
0091人間七七四年
2007/05/16(水) 18:59:25ID:bGeVftdN何でそんなデタラメな記録を持ち出して、アンチの連中は業正を
過大評価してるわけ?
少しでも信玄を酷評することが出来ればとか考えてる連中ならでは
の醜い姿そのものだな。
0092人間七七四年
2007/05/16(水) 19:05:02ID:cLkMf9XM>過大評価してるわけ?
お前が勝手に「コピペの元ネタは箕輪軍記・上州治乱記」と決め付けてるんだが。
0095人間七七四年
2007/05/16(水) 19:39:06ID:cLkMf9XMコピペの元ネタが箕輪軍記・上州治乱記である根拠を提示し、かつ両記が信用できない代物だとの根拠を示せる
または群馬県民の捏造という証拠が出せる
↓
コピペはデタラメ
という話だが。
お前はコピペが両記を元にしたもの(かつそれらが捏造されたもの)、または群馬県民の捏造だとわかってるんだろ?
だからデタラメだと言っているわけだ。
ならコピペが両記を元にしているなら該当部分を両記より引用できる、群馬県民のでっち上げと言う証拠をだせる
という話になるだけだ。
何度も言うが俺はコピペの元ネタは両記かもしれないとの推測しかしていない。
0096人間七七四年
2007/05/16(水) 19:44:21ID:bGeVftdNなかったんだね、群馬県史をどうぞ
http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/nagano_z.html
0097人間七七四年
2007/05/16(水) 19:57:48ID:cLkMf9XM以下抜粋。
業政は侍六百二十一騎、精兵一万を擁して箕輪城を守っていた。信玄は業政にまともに当たる愚を避けるため懐柔策を講じた。
信玄は業政に書状を送り、武田の上野侵攻の先導役を努めてくれるよう依頼した。天文十五年、憲政が上州の諸将を率いて
信玄に戦いを挑んだとき、一人業政のみは兵を出さず箕輪城から動かなかった。このことに成算を感じた信玄からの依頼で
あったが、業政はにべもなくその申し入れを断わった。
懐柔に失敗した信玄は、武力による上野侵攻を決行することになる。弘治三年(1557)四月、信玄の嫡子義信を大将とする
一万三千の武田軍は、余地峠をこえ上州に攻め込んだ。これを迎え撃った業政は、先陣を叩くと箕輪城に籠城し武田軍の矛先を
かわした。翌永禄元年、信玄みずからが武田軍団を率いて上州に侵攻した。このとき、たまたま吾妻方面に出向いていた業政は、
信玄の来攻を知るやただちに兵を帰し、夜営中の武田勢を急襲して散々に打ち破った。翌日には折りからの強風を利して武田勢の
風上にまわると火を放った。武田軍は食糧を焼き、弾薬を爆発させるという有様になり、命からがら甲斐に逃げ帰った。
やがて、憲政を庇護していた越後の長尾景虎(のち上杉謙信)が、永禄三年から翌年にかけて関東に出兵してくると、長野氏は
箕輪衆、厩橋衆を率いてこれに参陣した。このとき謙信は「関東幕注文」を作成したが、そのなかに箕輪衆、厩橋衆も名をつらね、
当時の長野氏の勢力のほどがうかがえる
一方、度重なる敗戦に意地となった信玄は、永禄四年五月、二万の軍勢をもって鷹留城を攻撃し、さらに箕輪城へ攻め寄せた。
しかし、箕輪城を抜くことはできず、またもや信玄は無残な敗退を味わわされた。しかし、信玄は長野方の戦術の変化に気付き、
業政の死を直感したという。流石に信玄で、業政は永禄三年(永禄四年説もある)六月に病没していて、長野勢はそれを秘して
武田軍を迎え撃っていたのであった。
でもコピペはデタラメなんだよな?
このサイトの内容はコピペを打ち消すようなことかいてないぞ。
0098人間七七四年
2007/05/16(水) 20:17:33ID:xYsGs+iaにしても、いくら戦術レベルでの勝利を重ねても、一敗してしまえば
それで長野は終わりだったんだよな…国力の差という奴は残酷だ。
0099人間七七四年
2007/05/16(水) 20:18:46ID:AHaQYd3J肝心のその部分が何を元にしているのかわからないのは問題だな。
0100人間七七四年
2007/05/16(水) 20:27:05ID:3fvuYO5x0101人間七七四年
2007/05/16(水) 21:05:55ID:5n9L7OEh…と戦争経験の全くない漏れが信玄を叩いても笑われるだけか。
0102人間七七四年
2007/05/16(水) 21:24:41ID:GF80W2Pf>いっておくけど長野業正も2万を率いて信玄に負けたんだよ。
だからこれは一体何て史料に記述してあるんだ?
0103人間七七四年
2007/05/16(水) 21:44:41ID:bGeVftdN内容も捏造になるんじゃないの?似たようなこと書いてるんだから。
そもそも過去のメガトンの発言にアホのように執着しておいて、一体どうしたいわけ?
結局メガトンに遊ばれてるんだよお前は、「史実が知りたければ自分で探せ」ってな。
自分でコピペがデタラメとか言っておいてほんと理解に苦しむ発言ばかりするね。
メガトンの発言なんて支離滅裂だってのはみんな理解してるのにお前一人執着してて馬鹿
みたいだぞwwww
0104人間七七四年
2007/05/16(水) 21:48:33ID:bGeVftdN0105人間七七四年
2007/05/16(水) 21:54:10ID:qHVu6dzQ0106人間七七四年
2007/05/16(水) 22:07:58ID:N4zY4iIT>お前相当頭悪いね、コピペの内容が捏造であればこのサイトに書かれている
>内容も捏造になるんじゃないの?似たようなこと書いてるんだから。
ならなぜこのサイトを出したんだ?
コピペを打ち消す内容出すならともかく似たような内容出して何になる。
ただ似たような内容が書いてありますって示しただけだぞ。
結局、
コピペの元ネタが箕輪軍記・上州治乱記である根拠を提示し、かつ両記が信用できない代物だとの根拠を示せる
または群馬県民の捏造という証拠が出せる
↓
コピペはデタラメ
という話に戻るだけだ。
>自分でコピペがデタラメとか言っておいてほんと理解に苦しむ発言ばかりするね
いつ俺がコピペの内容はデタラメなんて言ったんだ?
お前がコピペは両記が元ネタでだからでたらめであると言ってるんだろうが。
>結局メガトンに遊ばれてるんだよお前は、「史実が知りたければ自分で探せ」ってな
だれが史実が知りたいと書いたんだ?
コピペがデタラメならそれを証明せよって書いてるのに。
>メガトンの発言なんて支離滅裂だってのはみんな理解してるのにお前一人執着してて馬鹿
>みたいだぞwwww
つまりメガトンが言っていたことはまったく根拠がないということか。
なら同じような内容のことを言ってるお前の発言も同様となる。
79 :人間七七四年:2007/05/16(水) 10:20:46 ID:bGeVftdN
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
関東武者の醜い姿が伺えますね、武田>>>>>>北条 は史実通り。
そういえば上州も関東に入るんだっけ?箕輪軍記や上州治乱記もこの
分なら捏造大だと思われますね。
ついでに>>79のサイトは仙台藩百姓が言ってる様に
「北条が書いたものは北条贔屓だから嘘で武田が書いたものは武田贔屓だけど正しいと思いたい」
「書状なんて当てにならないと言って北条の書状を否定してるのに武田の書状にこう書いてあるから
甲陽軍鑑は正しいと言う辺りの理屈がトリッキー過ぎて訳分からん」
と言わざるをえない。
0107人間七七四年
2007/05/16(水) 22:10:12ID:QHK8D2P1上洛スレの郡別石高を基にするなら
群馬郡9.3万石-厩橋などと甘楽5.2万石 多古1.0万石 禄野2.4万石 碓氷3.2万石
で20万石ほどだから長野氏が万を越える軍勢というのは不可能じゃないかと思う。
>>85
最初に攻めたとされるのが1557年4月
上杉はともかく村上小笠原はとうに駆逐されて居ると思う。
0108人間七七四年
2007/05/16(水) 22:18:16ID:QHK8D2P14月の終りには謙信が北信濃飯山に入りそれから川中島となるので、それを考えると実際には・・・
1558年1559年は戦いも無く、1559年は謙信は上洛しているので武田が大軍で攻めることも
可能だろうけど。
>>106
>「北条が書いたものは北条贔屓だから嘘で武田が書いたものは武田贔屓だけど正しいと思いたい」
>「書状なんて当てにならないと言って北条の書状を否定してるのに武田の書状にこう書いてあるから
>甲陽軍鑑は正しいと言う辺りの理屈がトリッキー過ぎて訳分からん」
確かにそんな印象を受ける・・・
0109人間七七四年
2007/05/16(水) 22:28:41ID:bGeVftdNほれ、今度は群馬町提供だ、逆のことが書かれている、まあ2万というのは過大かも知れない
http://www9.wind.ne.jp/fujin/gunma/kokudo/minowa/minowa.htm
0110人間七七四年
2007/05/16(水) 22:35:46ID:bGeVftdN以上、武田、北条双方の文書をざっと見てきたが、それらから想像される合戦
の実像は、細かい装飾的な部分をのぞけば「甲陽軍鑑」と較べてもあまり矛盾
はないようである。北条方の書状では、いかにも負けていないように書いてい
るが、実際の敗北についてはわざととぼけた表現をしているのだと考えると符
合するところが多い。
1つ大きな違いは、「甲陽軍鑑」では、あらかじめ三増峠で待ちかまえてい
た北条勢が、信玄の到着とともに、陣を移していったと言うところである。北
条の文書からでは、もともと信玄が陣取っていたところに、北条勢が攻め寄せ
ていったと読める。「甲陽軍鑑」のように北条が陣を移していったとすると、
それが何のためなのか理解に苦しむ面もある。最初から武田勢が陣取っていっ
たところに攻め寄せたというように解釈する方が自然のようである。後で紹介
する北条系の軍記物も、そのように書いている。
「甲陽軍鑑」では「北条氏照・北条安房守・忍衆・深谷衆・江戸川越衆・
碓井衆(臼井衆)・佐倉衆・小金衆・岩槻衆・玉縄の北条上総守ら二万余騎」
が待ちかまえていたことになっていた。しかし、この事も疑問である。北条系
の文書で見たとおりに、北条氏は武田氏に対して「手を出すな、城に籠もって
いろ」という指令を出している。本気で決戦をしようとしていたのかどうか怪
しい面があるのである。「甲陽軍鑑」であげられている面々は、北条軍団の主
要な衆ほとんどであり、「甲陽軍鑑」の作者が単に名前を羅列しただけとも取
れる。もっともこの辺りのことは、実際に動員が行われていることを示す文書
が存在しているかどうかを調べてみないと結論は下せない。
もう1つ、「甲陽軍鑑」では「御獄・鉢形攻め」については触れられていな
い。武田・北条双方の文書に見られるので、この2城での戦闘は間違いなくあ
ったはずである。単純に忘れてしまったものだろうか。ただ「甲陽軍鑑」では
、武田勢が八王子に向かう途中、氏照が戸取と言うところに陣取って、そこで
戦闘になったという記事があった。この戦闘については文書からは確認できな
いが、あるいは先の戦いと関係があるのかどうか。
しかし、大まかなところでは、「甲陽軍鑑」に矛盾はない。ということは
「甲陽軍鑑」に見られる合戦の内容が、だいたいあっていると見てよいうこと
になるであろう
0111人間七七四年
2007/05/16(水) 22:45:49ID:bGeVftdNそこで北条氏に関する代表的な軍記物も見てみて、それらとも比較検討してみ
よう。
まずは「北条五代記」である。「五代記」は慶長年間頃に三浦浄心がまとめた
ものである。三浦浄心は若い頃は出口五郎左衛門といい、北条氏に使えた武士
であった。彼は永禄7年(1564)の生まれであると思われるので、三増峠
の合戦の行われた永禄12年には5歳に過ぎなかったことになるが、彼の父も
北条氏に使えた武士であり、この合戦については、いろいろな人物から話を聞
いて間接的に知る殊のできる立場にはいたであろうと思われる。「五代記」で
の概要をまとめると次のようになる。
まず、信玄が甲府を出発したという日付が間違っている。武田・北条双方の文
書から、信玄は9月中には武蔵で城攻めを行っているので、甲府出発は9月の
ことであったはずである。
それから小田原城が包囲されたことも書いていない。敵は10月になってさっ
と現れて、小田原城までたどりつけずに、北東の芦子河原で退陣しただけで去
っていったとある。そこで北条勢はすぐに追撃を開始し、1000余人も討ち
取ったという。この数も水増しが入っているであろう。
その後10月6日に三増峠で戦いが行われたとあるが、この期日はあってい
る。戦いの経過としては、武田がもともと三増峠に陣取っていたところに、北
条勢が三々五々攻め寄せていったことになっている。「甲陽軍鑑」とは違って
いるが、武田・北条の文書とは矛盾していない。敵が峠にいることに北条勢は
気が付かなかったので、押し崩されて、雑兵が2,30人討たれたという。
雑兵2,30人が討たれただけでは、北条の負けとはとても言えないと思う
のであるが、その後「信玄が北条に勝利したのはこの一戦だけであった」と
言っていることから、北条の負けを隠そうと装飾しながら、結局吐露してしま
っている。「五代記」は北条ひいきの内容の書であるが、この書においてさえ
「北条が負けた」といっているのだから、この戦いでの北条の敗北は間違いな
いことだったと見てよいと思う。そして「敗北した」戦いであったのだから、
北条勢の損害が「雑兵2,30人」であったという数字は偽りであろう。実際
にはもっと多くの将兵が討ち死にしているはずである。しかし、それは一体ど
の程度のものだったのであろうか。
信玄書状ではこの戦いで討ち取った北条勢は2000余であったとある。2000余
も討ち取られては完全に負けと言うことになるが、しかし、これだけの数を討ち取るほどの
戦いと言うことになると、武田勢にもかなりの損害が出ているはずである。信玄はそれほど
真剣に戦ったのであろうか。
そもそも今回の小田原攻めはどちらかというと雌雄を決するためというよりは、北条に対する
示威行動という側面が強い遠征であった。ここで消耗しきってしまうことは、背後に上杉謙信
がいる信玄にとっては避けたいところであったろう。もちろん、退却していく際にまともに追
撃されては多くの損害が出ることは目に見えているから、ある程度の反撃を行った後に有利な
態勢にしてから退却する必要があった。とはいえ、殲滅戦にする必要もない。敵2000余人
も討ち取るほどの激戦になる必要はなかったのではないかと思うのである。かといって、「五代記」
の2.30人は明らかに少ない。「信玄書状」と「五代記」の中間を取って「2,300人」とする
のが実は最も実態に近い数字になるのではないかと思えるのだが、どうだろうか。
0112人間七七四年
2007/05/16(水) 22:49:00ID:bGeVftdN焼かれたというような北条方の面目がつぶれるような所は黙っているし、北条
勢の犠牲者数も少なく見積もっているが、合戦の様相に関しては、「北条氏の
書状」にあるものと矛盾はしていないといえる。つまりこの書の北条びいき的
な側面を除けば、この書も意外と真実を伝えていると言えるかもしれない。
小田原城包囲、放火などの都合の悪い場面を省略したのは誰であると見るべき
であろうか。これには2つ考えられる。
1つは、作者の三浦浄心自身が都合の悪いところを省いたという可能性である。
この書はもともと北条氏の威徳を称えるためのものであるから、彼が省いてし
まったことは十分考えられる。もう1つは、彼が聞き得た情報そのものが、北
条にとって都合の良いものに書き換えられていたものであったと言うことであ
る。彼が実際に北条に仕える前の事件に関しての彼の情報ソースの主なものは
、父や知り合いの見聞を聞いたものであったろう。たとえば父が子に、その武
功を語る際には、かなり自分や味方のことを飾り立て、敵に対してはおとしめ
るようなことを言っている可能性がある。その話を真実として受け取ってしま
えば、そこから生み出される書物は必然的に北条びいきのものとならざるを得
ないのである。
ところで、「北条五代記」と「甲陽軍鑑」との照応関係はどうなっているので
あろうか。実は今、別のあることを調べていて、このことについては関心があ
るのである。いずれも慶長年間には成立していたと思われるので、どちらが先
に成立し、もう一方に影響を与えていたのかが気になっている。
「五代記」が「甲陽軍鑑」を参照していたと思われる記述に次のようなものが
ある。
「上杉輝虎・武田信玄、小田原へ働くこと」の項目の中にある次の描写である。
「永禄4年9月10日、信州河中嶋において、輝虎と信玄と合戦あり。語りて
いはく、信玄床机に腰をかけ居所へ、輝虎はせ来て、馬上にてつ〃けて三刀を
うつ。信玄少しもさはがず、「小勇は太刀をとり、大勇はうちはをとる取」と
いふ兵書の軍法を知て、三度ながら団扇をもて請ながし、其外敵共にもうちは
にて請られたり。後見れば、うちはに疵八刀有といふ」
これは川中島の合戦での信玄・謙信一騎打ちの場面の描写である。この一騎打ち
は「甲陽軍鑑」によって世に知られるようになったものである。「五代記」の
作者はこのことを取り上げて後、「団扇で刀を受けられるはずがない」といっ
て批判しているのだが、それはそのまま「甲陽軍鑑」に対する批判となってい
るのではないだろうか。(ただし、「甲陽軍鑑」ではなく、「語りて」とある
ことから、「甲陽軍鑑」も拠り所とした別の出典があったのかもしれない。「兵
書に云々」というところは「甲陽軍鑑」には見えないのである。)
しかし、三増峠の合戦に関しては、「甲陽軍鑑」と「五代記」には内容の違い
が見られるので、「五代記」は「甲陽軍鑑」を参照していないのかもしれない。あるいは、参照していたとしても、自分の持っている情報の方が正しいと判断して、記述の参考にはしなかったのであろう。
0113人間七七四年
2007/05/16(水) 22:57:17ID:qHVu6dzQ比較検討には比較基準が必要。
拡大率
毛利元就>>>>>>>>>>>武田信玄
敵の強さ
武田信玄>毛利
(ただし織田含め)
戦績
毛利元就>>>>>>>>>武田信玄
領土獲得
武田信玄>>>>>>>>毛利元就
財力
武田>>>>>>>>>毛利
0114人間七七四年
2007/05/16(水) 22:58:17ID:bGeVftdN「北条記」では武田勢はまず江戸・葛西まで進軍してきて、そこで軍勢を2つに分け、
八王子コースと、海岸コースの2方向から小田原を目指したということになっている。
しかし、このコースについては「北条記」が間違っているといっていいだろう。甲斐から
小田原を攻めに来るのにまず江戸まで出てくるというのは非常識に遠回りなコースであるし、
武田・北条の双方の文書とも矛盾している。想像するに、この江戸から小田原を目指すという
コースは、上杉謙信の小田原攻めの話と混同されているのではないだろうか。
鉢形城攻めも滝山城攻めも無いが、小田原を囲んでからの信玄の行動に関しては、
「甲陽軍鑑」や「北条五代記」の話と近くなっている。ことに戦いの様相に関して
「三増峠に陣取っていた武田勢に対して、追撃に乗じてむやみに攻めた北条勢が、
敵の反撃にあって結局負けてしまったこと」は「五代記」と共通するし、
「様子待ちをしていた氏康の本隊が、味方が敗北したという戦況を聞いて、
そのまま引き上げていった」というのは「甲陽軍鑑」と同じである。
「北条記」を読んでいて感じるのは「小田原勢はそこそこ討たれた」
「是非なき状況で力が及ばなかった」といった表現で、これは北条方には落ち度が
なかったということを暗に言いたいのだと思われるが、しかし「敵は勝って甲の緒を
締めて」と言っているのだから、結局は武田勢の勝利を認めざるを得ないような戦い
であったと言うことである。
「五代記」もそうであったが、この「北条記」も徹底的に北条びいきの書物である。
例えば「北条記」は氏康をべた褒めにしていることでも知られており次のように書いている。
「御年十六にて武州小沢原陣より初めて、一生の勝利三十六ケ度、終に一度も敵にあげまきを
見せ玉はず、日本広しといへども、古今ためしなき名将なり」と述べている。確かに北条氏康は
不敗の将として知られているが、その根拠は「北条記」にある、この部分に拠っている。
つまり、これほど北条びいきである「北条記」ですら、武田の勝ちと言っているのだから、
北条が敗北したことは、間違いないと言える。「甲陽軍鑑」「北条五代記」「北条記」における
三増峠合戦の内容にはそれぞれ相違した部分があり、それらは、情報ソースの違いによると思われる。
このように複数の情報ソースから作成されたと思われる書物すべてで、この合戦の結末は一致している。
実は双方の文書と「甲陽軍鑑」の記述を見ただけでは、本当にこの合戦を武田側の勝利と決めていいのか
どうか疑問に思っていた。しかし、「北条五代記」「北条記」までもこのように武田の勝ちとしているのだから、
もはやこのことについては疑う余地はないといっていいだろう。
0115人間七七四年
2007/05/16(水) 23:02:47ID:APlaC7jl0116人間七七四年
2007/05/16(水) 23:03:25ID:bGeVftdNを比較しながら見てきたが、最後にこれらから想像できる三増峠の合戦前後の
状況をまとめてみよう。それは次のようなものである。
永禄12年、北条が上杉と和睦したことや、駿河領域での争いなどから、
武田と北条との関係が悪化、武田信玄は北条氏に圧力を掛ける必要性に
ついて考えるようになり、相模遠征の計画を立てる。
信玄の侵攻を予測し始めた北条氏は、上杉謙信に対して盛んに援助を要請
する。
9月、信玄は甲府を出発、9日に御獄城、10日に鉢形城を軽く攻めて自軍
の威力を見せつける。
その後信玄は八王子に南下して、滝山城を攻める。ここでは2日間戦闘が行わ
れ、3日目に信玄は去っていった。
次に信玄はいよいよ小田原本城に向かう。無駄な戦いはさけるという方針でい
た北条氏は、周辺豪族に対しても「城に籠もって外に出るな」という指令を出
武田軍は小田原城を包囲し、蓮池門まで攻め寄せる。しかし城方は相手にしな
い。包囲2日で、兵糧の不足を感じ始めた武田勢は、引き上げを開始する。
北条勢はそれを追撃するかどうか検討を始める。
武田勢は、北条勢を一当てたたいておかないと、安全に帰路に付けないと判断
して、三増峠に陣取った。
北条の先勢はそこへどっと押し寄せる。戦いは混戦になるが、山県昌景らの奇襲
もあって、北条方にはそこそこの損害が出た。氏康・氏政の本隊は、この戦い
が有利に進みそうなら決戦に挑もうと考えていたが、敗軍したという知らせを
聞いて、戦意を喪失して小田原に引き上げた。
信玄も、この勝利に力を得て、甲斐に引き上げていった。
と言ったようなことになるだろうか。
振り返ってみて、この戦いにはどんな意味があったといえるだろう。信玄は、
北条に示威行動を示したくて敵の本拠地まで攻め込みはしたが、結局わずかな
土地を得ることができたわけでもなく、各地の戦闘での犠牲者を出しただけで
引き上げたのだから、信玄らしからぬ、意味のない戦いであったように思われ
る。
一方、北条も、自分の本拠地まで敵に包囲され、さらに退却する敵を攻撃しよ
うとして逆に撃退されてしまうと言う失態を演じている。北条にとって実に対
面の悪い戦いであった。
こうしてみると、双方、勝ち負けをいう以前に、余り意味のない戦いをしてし
まったということになるのではないだろうか。見栄や対面で戦いをするのは、
領主当人以外の者にとってはただただ迷惑なだけのことであったろう。
実際、「甲陽軍鑑」では高坂弾正が信玄に対して戒めている。
「これは無用の戦いである。今まで築き上げてきた殿の名誉がこれによって失
われてしまうかもしれません」と言うように彼は主張している。
この高坂弾正こそが「甲陽軍鑑」の作者である、というように「軍鑑」そのも
のには記されている。しかし、現在では作者は高坂ではないと言われており、
それが定説のようになっている。だが、信玄を諫め、無用の戦いをすべきでな
いと主張する高坂弾正の姿は、真実の作者の姿の投影でもあろう。このような
場面が、実は「甲陽軍鑑」成立の重要な契機を示しているのかもしれないと、
ふと思うのである。
0117人間七七四年
2007/05/16(水) 23:12:28ID:qHVu6dzQ真面目な意見で、
真面目な比較検討をしよう。
比較検討には比較基準が必要。
拡大率
毛利元就>>>>>>>>>>>武田信玄
毛利:3000貫
武田:22万石
敵の強さ
武田信玄>毛利
武田:織田、徳川、北条、上杉、村上、小笠原、諏訪
毛利:安芸武田、内紛陶、当主急死尼子、大友(敗北)
(ただし織田含め)
戦績
毛利元就>>>>>>>>>武田信玄
毛利元就:寡兵で大軍を仕留める。大友に負ける。
武田信玄:豪族に負けることがあったが無難な運用。
晩年は逆転していた可能性あり
領土獲得
武田信玄>>>>>>>>毛利元就
武田120万
毛利110万
財力
武田>>>>>>>>>毛利
武田:金山、経済政策、駿河
毛利:石見銀山だが、博多を押さえられず。
0118人間七七四年
2007/05/16(水) 23:19:27ID:XUEcvPz7俺が笑い死ぬ
0119人間七七四年
2007/05/16(水) 23:19:44ID:93kU92c9瀬戸内と近畿をつなぐ海運ラインの生命線だし。
少なくともそんな不等号がたくさん付くほどの経済力の差はないぞ、
動員兵力や鉄砲の装備率などから考慮して。
0121人間七七四年
2007/05/16(水) 23:23:17ID:PaRgc9N6戦場で華麗な死を遂げたあとにも優秀な武将が出てきている
敵もせっかく討ち取ったと思っても次から次へと名将が輩出される武田にびびりまくりだろうな
0122人間七七四年
2007/05/16(水) 23:26:11ID:XUEcvPz7>>119
つーか、
財力
毛利>>>>武田
ぐらいじゃね?
武田:金山(小規模)、経済政策、駿河
毛利:石見銀山(世界有数)、中国山地の鉄(日本最大)、瀬戸内沿岸、下関
だから
0123人間七七四年
2007/05/16(水) 23:31:12ID:qHVu6dzQ毛利の動因人数がわからんのですよ。
毛利って4万、3万動かしていたわりには、100万石ちょっとの勢力でしょ。
武田って信玄の二万五千が最高のようだしそれが財力の差なら納得するけど。
石見銀山は、直接支配じゃなかったようだし銀山最盛期は江戸時代じゃないのか?
武田もそうだけど。
0124人間七七四年
2007/05/16(水) 23:40:53ID:qHVu6dzQ最大領土を築いたのはどれくらいかという指標にしないと
拡大率とは違う評価なんだから。
普通にでかけりゃでかいでそれはそれで苦労するし。
勝頼だって、100万石もってても滅んだでしょ。
>>121
当主の能力関係ない。
0125人間七七四年
2007/05/16(水) 23:45:08ID:QHK8D2P1そこの筆者も分かって書いているのか、武田に対しては検討を要する史料まで認めているだろ
>>117
武田は120万石あるか怪しい
100万石強ぐらいじゃないかと思うが
敵の強さも相対値でなく絶対値でなら
確かに大内尼子は織田には勝てないだろうけど・・・
0126人間七七四年
2007/05/16(水) 23:49:30ID:qHVu6dzQ当時の武田が立ち向かっていった相手の方が
当時の毛利が立ち向かっていった相手よりも強いと思うんだよな。
特に織田戦では包囲網が死に体の状態で朝倉のボイコットがありながら絶大な戦力差がある織田に向かっていったのは
とてつもないものが武田にはあるとは思うけど、戦っていないんだよな。
でも戦役自体は武田有利だったでしょ、だからさ。
毛利は大友に負けてるんだよな同時期に。
0127人間七七四年
2007/05/17(木) 00:23:54ID:z9dCcdnM「戦った相手」だけ比較してもな…
むしろ信玄の失敗の一つでしょ。勝てない上杉北条相手に何度も攻め込んで、その間に織田はどんどん強大化。
信長包囲網につけこんで同盟破棄して織田に攻め入ったかと思えば信玄急死。この裏切りがどれだけ勝頼の代に悪影響をもたらした事か。
信玄の「裏切りを繰り返して敵を作りすぎた」という戦略的失敗は評価すべきだろ。
「勝った相手」を比較すれば断然「元就>>信玄」な訳で。
0128人間七七四年
2007/05/17(木) 00:31:33ID:FHuTTaTI北条には勝ってる。
上杉には引き分け。
信長との戦いだって優勢だったし、死んだのは仕方が無いと思う。
ただ、死後を考えた政治、戦略では元就を評価していいだろう。
0129人間七七四年
2007/05/17(木) 00:35:10ID:NO/vTfKpまあ、輝元が後に信長包囲網に参戦しているように
強大化していく織田を決定的になる前に叩かねば、という意思と行動は
状況さえあえば毛利にも発生していたはずだし、現に輝元のときに発生している。
戦国大名にしてみれば圧倒的優位な存在に主導権を握られるのは好ましくないし、
それが近接しているならばそれを抑えようと動くのはおかしくないと思うが。
よく信忠と姫の結婚の約束でそれがあれば武田は安泰という主張もあるが
親子さえ戦う戦国時代にそれだけで身の安全を図れると思うのは少し都合が良すぎるのでは?
最上と伊達、武田と今川、織田と斉藤、縁戚であっても衝突した例は戦国時代にはある。
0130人間七七四年
2007/05/17(木) 00:57:51ID:BNnRtrH+もうどんなに言い訳しても武田に対してというか東国に対して無知なの
いい加減にしたらどう?
勝った相手を比較するの?なら完全に
信玄>>>>>>>>>元就だよ。
元就なんて経久や義輿という老練が死んでからようやく動き出して、若輩
ばかりを倒しただけの大名だよ、信玄は若い時期から村上や長野などの老練
を相手し、同等の力と実力を持った大名を圧倒してきている。
0131人間七七四年
2007/05/17(木) 01:01:48ID:BNnRtrH+見つけようとしてるだけにしか見えないんだが、幕末まで家名が続いたからどう
だっての?本能寺がなかったら間違いなく信長に滅ぼされてたの間違いないでしょう。
中国四国を敵に回し、本願寺の機能も衰退しきっていた状態でどうやって生き残るつ
もりだったんだろうねえ輝元は
0132人間七七四年
2007/05/17(木) 01:02:03ID:jb7GJ3Lw0133人間七七四年
2007/05/17(木) 01:04:01ID:ZMjv4ZKUでも最終的には門司城は毛利所有になっていないか?
元就宗麟の時は毛利は一時は豊前筑前を大友からそれなりに奪うが
最終的には一部を除いて毛利が放棄
結果だけ見るならやや毛利が優位な状態で終わっていると思うが
0135人間七七四年
2007/05/17(木) 01:17:40ID:BNnRtrH+これと若輩ものが支配する大内と尼子・・・・・・・この差というのは小学生
でも分かる範囲だ(冗談抜きで)
結局毛利厨が誇れるのは領土拡大率だとかそんな程度のものだけ
0136人間七七四年
2007/05/17(木) 01:18:26ID:NO/vTfKp目的だった博多も抑えられず、それ以後毛利は大友領国に影響を及ぼせなく
なっている事から優位というのはかなり厳しいと思うが。
門司城も結局大友のものになっていたと思ったが。
まあ、戦闘では結構毛利もリードしていたし、これは大友の外交手腕によるところも
大きいな。
0137人間七七四年
2007/05/17(木) 01:22:05ID:J09ZQ4oI出来は信玄のがいいけど、泣けるのは元就かな。
あの森田剛の小寿丸の泣けること泣けること。
0138人間七七四年
2007/05/17(木) 01:23:38ID:BNnRtrH+家康に根こそぎあっさりと力を吸い取られたりとまあ惨めなことw
毛利両川体制なんて中途半端なことしてるからああいう目に会うんだよねえ、
それもこれも元就が衰退の原因を作ってるんだよね
0139人間七七四年
2007/05/17(木) 01:29:52ID:BNnRtrH+対して本気で突っ込まなかったが、両川体制などというものがいつまでも続く
と真剣に思ってたの?
信長との戦いでどっちつかずの曖昧な態度を取り、あわや滅亡寸前まで追い込まれ
秀吉の分断工作で小早川家独立かと思いきや、まーた毛利本家とのどっちつかずな
態度。
家康の天下取りでも結局何も出来ずに大軍を歩かしただけ(笑)戦後何もしてない
のにも関わらず改易されるというお笑い大国、それが毛利です。
0140人間七七四年
2007/05/17(木) 01:32:49ID:ZMjv4ZKU諏訪頼重、小笠原長時も老練な頼満、長棟が死んでとも言える
>>136
>扇動した駒をあらかたつぶされて大友に領国の拡大を許し
大友が衰退すると永禄時に離反した豪族がまた一斉に離反したことから
ほとんど潰せていないと思う。
また門司城も大友のものとなったのはおそらく元就死亡後のこと、だと思う。
0141人間七七四年
2007/05/17(木) 02:46:39ID:NO/vTfKp>>大友が衰退すると永禄時に離反した豪族がまた一斉に離反したことから
ほとんど潰せていないと思う。
西大友とまで言われた立花氏と、高橋氏といった強力な豪族をつぶして
取り込めたのは大きなことだと思うが。両方とも後の大友の主力になったし。
勢力が衰退すれば離反が起きるのはよくあることでは?
それをいったら毛利も従えていた南条や宇喜多、三村とあまり他所のことは笑えないと思うが。
0143人間七七四年
2007/05/17(木) 09:13:25ID:FHuTTaTI信長包囲網と、武田包囲網の時にこれをやっている。
やっかいで狡猾だよ。元就より。
0144人間七七四年
2007/05/17(木) 09:51:11ID:jb7GJ3Lw0145人間七七四年
2007/05/17(木) 10:31:34ID:BNnRtrH+手当たり次第適当に手紙を出しただけの公方と、列国の情勢を
見極めて「敵の敵は見方」作戦を縦横無尽に展開させた信玄を
一緒にするとは
それとも元就がこんなに広範囲に渡って大略なことをした試し
があるんですか?
0146人間七七四年
2007/05/17(木) 10:38:41ID:FHuTTaTI信玄は戦略ミスを犯して武田包囲網が築かれたのはミスだけど、それも戦術で乗り切ってるし
包囲網なんてどんな大名でも築かれてるよ。
0147人間七七四年
2007/05/17(木) 13:23:47ID:KF+dFcpF最初は有利だったが逆転され、当主の死去で完全に諦めたところ
0148人間七七四年
2007/05/17(木) 13:24:48ID:KF+dFcpF0149人間七七四年
2007/05/17(木) 13:24:58ID:NO/vTfKpこれ極論に見えてそうなんだよなあ。吉川広家が自分に与えられるはずだった
防長2国を毛利に進呈してお家の存続を徳川に働きかけなかったら
本当にこの通りの評価になってしまうところだった。
0150人間七七四年
2007/05/17(木) 13:30:20ID:E0onQ31J風林火山の旗印で、武田には、風のように戦場を駆け抜ける騎馬隊が在るように思わせたり、
金山からは、際限なく金が掘り出され、財政は豊かだと信じられたり、
人は城、堀、石垣と、甲斐には城を築かずとも、人心は治まり、兵は強いと振る舞ったりと、一つ一つは、他の戦国武将でも、例はあるけど、こういう総合的な宣伝能力は、戦国時代でも、一番じゃないかなぁ…。
0151人間七七四年
2007/05/17(木) 13:33:28ID:FX/gMucJ個別の事項だと主観や好みでいくらでも贔屓弁論を展開できるが
結果だけは誤魔化せない
信玄、22万石でスタートして100万石(潰せたのは弱体化した今川が最高の大国)
元就、1万石あるかどうかからスタートして120万石(数ヶ国を保有する大内(陶)・尼子の二大勢力を撃破)
0152人間七七四年
2007/05/17(木) 13:41:04ID:NO/vTfKp甲斐約22万石 信濃約38万石 西上野約21万石 駿河約15万石
東美濃、飛騨、三河、遠江をあわせればどう見たって110万石以上はいくだろう。
それに信玄は内治に随分業績もあげているし、ただ拡大率だけですべてを決めるのは
いかがなものか。
0154人間七七四年
2007/05/17(木) 13:56:30ID:NO/vTfKpまあ、厳島からなる元就の業績は大したものだが。
尼子との戦いは大内を吸収して対等以上の勢力を造ってから
戦っているしなあ。しかもそれで晴久相手には痛い目を見せられている。
尼子に勝てたのは経験不足な義久に代わってからだしな。
信玄が北条や上杉をつぶせなかったというのをあまり悪し様にはいえまい。
信玄はこの2つの強豪大名相手にちゃんと領土を獲得してもいるしな。
0155人間七七四年
2007/05/17(木) 14:15:22ID:ip/st4st信玄が強かったかは知らないが、武田厨が最強なのは確か
手におえないw
0156人間七七四年
2007/05/17(木) 14:18:22ID:NO/vTfKpまさかそれが総合だとでもいうわけか?
そうやって言葉につまると武田厨とか言い出して煽るのが
正しいとでも思ってる?
0157人間七七四年
2007/05/17(木) 14:21:03ID:FHuTTaTIでも秀吉が、元就や信玄より上とは限らないし。
0158人間七七四年
2007/05/17(木) 14:24:48ID:FHuTTaTI>戦っているしなあ。
これは普通に評価できる。
0159人間七七四年
2007/05/17(木) 14:30:04ID:NO/vTfKp北条・上杉相手に領土拡大しているけど滅ぼせなかった信玄はだめという
理屈がよくわからないという意味で書いた。
0161人間七七四年
2007/05/17(木) 14:35:38ID:NO/vTfKp総合結果でとりあげるといいつつ拡大率を持ち出してきたからそう答えたまで。
それでその反論にたいしても贔屓とか個別とか言い出したから
拡大率も個別にすぎないと言葉で説明したまで。
ひょっとして釣られているのかな?俺。
0162人間七七四年
2007/05/17(木) 14:47:22ID:FHuTTaTI0163人間七七四年
2007/05/17(木) 14:52:46ID:FHuTTaTI戦略はあまり問題ないけど、(上杉相手にも北条にも押していたし)たまに負けたりする信玄(村上戦、上杉戦)。
微妙だよな。拡大率は、元就だけど、最大勢力織田に喧嘩売って有利に勧めていた信玄はではな。
0164人間七七四年
2007/05/17(木) 14:54:43ID:NO/vTfKp本城常光が銀山守備の要とされ、毛利の攻撃を阻んでいる。
小笠原が毛利に攻撃された時は大雨で救援できなかったが、
その後も生きていたら反撃にでたろ。晴久の死後に尼子の行動は
消極的になり、それで毛利に完全に主導権を奪われて各個撃破されていった。
0165人間七七四年
2007/05/17(木) 15:02:11ID:FHuTTaTIあと忍原崩れくらいしかないじゃん。尼子が毛利に勝ったのって。
反撃たって、国力が違うので尼子は毛利に押されていた可能性は高いと思うよ。
0166人間七七四年
2007/05/17(木) 15:10:29ID:CNwyyJEVそれだけで評価するというのなら、贔屓の引き倒しも良い所。
やはり、一から実力で這い上がった元就に魅力を感じるな。
一カ国を親から掠め取りながら格下相手にすら苦戦した信玄は、なんかショボい。
0167人間七七四年
2007/05/17(木) 15:13:05ID:NO/vTfKp毛利が備後を制してはいるがやられっぱなしだったわけでもない。
とったり取られたりしてる。備前からは追い出されていたっけ?
美作には尼子は影響力をもっていたと思うが。
一応晴久も8カ国の太守に任じられているし、相応の実力は持っていたと
思うが。
0168人間七七四年
2007/05/17(木) 15:13:11ID:FHuTTaTIそれなのに大内を滅ぼしたりしてたのは、似たようなものだよ。
0169人間七七四年
2007/05/17(木) 17:13:08ID:6sx2IxCm毛利元就は小大名から中国地方の覇者にまで成り上がった。
やはり元就がすごい
0171仙台藩百姓
2007/05/17(木) 17:27:35ID:dM7GNAY/しかも中国地方(≧ω≦)ブプーッ
0172人間七七四年
2007/05/17(木) 17:39:18ID:pjesd+t9戦国時代なのに都会だってww
0174人間七七四年
2007/05/17(木) 17:46:12ID:6sx2IxCm現実社会で風林火山なんて言ってるヤツはアホと武田信玄だけ
0175人間七七四年
2007/05/17(木) 17:53:31ID:Qs8AWRFt0176人間七七四年
2007/05/17(木) 17:59:37ID:6sx2IxCm信玄坊主と魔王信長と独眼龍政宗。
しかも信玄は恥ずかしいラブレターが未だに残ってる始末。
こんな軽率なハードゲイが覇者毛利元就より優秀なわけがない
0177人間七七四年
2007/05/17(木) 18:01:31ID:FHuTTaTI0178人間七七四年
2007/05/17(木) 18:16:30ID:NRN/DqvH武田信玄
信濃の豪族たち(所詮豪族だからひとくくりでいいだろ)
上杉謙信(50万石クラス)
今川氏真(40〜50万石クラス)
徳川家康(40〜50万石クラス)
北条氏康(100万石クラス)
この中で倒して領土を奪うことができたのは氏真と信濃の豪族だけ
毛利元就
安芸の豪族とか色々(まぁ、この頃が一番元就にとってきつかった時期だろうが・・)
尼子経久(100万石クラス)
大内義隆→陶晴賢(100万石クラス)
大友宗麟(50万石クラス)
この中で倒して領土を奪うことができたのは陶と尼子(とうに経久は死んでいたが)
どう考えても武田が戦ったほうが雑魚ばっか
0179人間七七四年
2007/05/17(木) 18:26:23ID:6sx2IxCm確かに歴戦のソースからも元就が格上なのは誰の目にも明らかだね。
しかも信玄はホモだ。男色は仏教の教えに反する。生臭坊主でホモ。
つまり救いようがない
0180人間七七四年
2007/05/17(木) 18:27:06ID:m5RaFQSr大友は豊後に豊前筑前筑後肥後に肥前筑前の一部まで動員できる大大名
150万石ぐらいあると思う
0181人間七七四年
2007/05/17(木) 18:30:08ID:FHuTTaTIそして恣意的に織田を削除している。
基準をごちゃまぜにして議論を混乱させる手段だ。
戦国最強決定戦でやればよろしい。
>>179
信玄がホモという性癖と大名としての能力は関係が無い。
0182人間七七四年
2007/05/17(木) 18:32:37ID:FHuTTaTI一級資料で信憑性のあるホームページで頼みます。
無きゃ普通に作りますのでぜひ誰か紹介してください。
0183人間七七四年
2007/05/17(木) 18:33:06ID:4Web5RQP武田信玄は横綱、大関クラスの大名
上杉謙信、今川氏真、徳川家康、北条氏康
毛利元就は前頭、小結クラスの大名
尼子経久、大内義隆→陶晴賢、大友宗麟
どう考えても毛利が戦ったほうが雑魚ばっか
0184人間七七四年
2007/05/17(木) 18:34:40ID:6sx2IxCm自分の主が男のケツの穴にチンポコ入れたり自分のケツの穴にチンポコ入れられてアヘアへ言ってるようなクズなら俺は謀反を起こすね。
明智光秀もそんな心境だったんだろう。
0185人間七七四年
2007/05/17(木) 18:35:23ID:+aGHdp4L>>167
>備後攻防戦
府野崩れ→新宮党敗北→備後がほぼ大内方へ→
尼子晴久が江田氏を調略→毛利氏、江田氏を攻撃→尼子氏来援するも敗退
んー、確かに一進一退やね
>備前
天文20年頃から尼子氏来襲→浦上政宗尼子方へ→
弟・浦上宗景、反尼子方として独立→浦上宗景が戦国大名化
こんな感じ?
>美作
8割方抑えるも後藤氏が浦上宗景に通じて離反など問題山積
>ついでに備中
殆ど尼子方だったが、三村氏が毛利に通じて離反して以来影響力減退
(でも富田落城時まで、尼子方がいた)
0186人間七七四年
2007/05/17(木) 18:38:52ID:FHuTTaTIまず君は戦国時代に生きていたわけではないし、気持ち悪いというのも君の主観に過ぎない。
明智光秀の心境も推測でしかない。
ホモということで軍事、政治能力の増減の客観的根拠が提示されたならばともかく、
主観を押し並べるなら「ホモは素晴らしい」でも同次元なのでただのつりにしかかならないよ?
0187人間七七四年
2007/05/17(木) 18:46:56ID:6sx2IxCmお前だって戦国時代に生きてないだろが。上から目線でものを言うな。
俺が言いたいのは下調べが全てで戦は事後処理に過ぎんとまで言ってた信玄が恥ずかしいラブレターが21世紀の今でも残ってることだ。
ホモ大名は星の数ほどいるけど物的証拠であるラブレターを後世まで残してるドジでマヌケなヤツは信玄だけだ。
信長とかはそんなドジはしてない
0188人間七七四年
2007/05/17(木) 18:54:09ID:FHuTTaTIメガ豚がどう反論するんだろう。この手の煽りあいみたいなのはメガ豚に任せよう。
議題出すけど
謀略では、どうだろう。
0189人間七七四年
2007/05/17(木) 19:09:53ID:X0WThtVEってことでOK?
0190人間七七四年
2007/05/17(木) 19:32:40ID:+aGHdp4L田舎って蔑称だったのか
中国に住んでると、田舎呼ばわりされてもあまり気にならないんだよなー…
中央より古かったり、同じぐらいの歴史を持ってる地方ばっかりだから
別段都会が羨ましいとか思わないのよ。盛者必衰
辛いのは就職先がすくないことぐらいかしら?
…つらつら考えてて気付いたが、東北出身者の漫画にはやたら罵倒として、
「田舎もん」って言葉が出てくるが、あれは作者のコンプレックスが表出してたのか?
0191人間七七四年
2007/05/17(木) 19:39:03ID:jb7GJ3Lwそうですけど何か?ww
ってな感覚しか沸かない俺by熊本県民
空気は汚い水は不味い、人は多い、星は見えん、まあ精々俺から見て良いところと言えば夏はあまり蒸し暑く無いところくらいかなww
熊本の夏は蒸し暑いぞ〜ww
0192人間七七四年
2007/05/17(木) 19:40:06ID:lGoGMSXE山口、特に萩あたりは、朝鮮半島との交流が深く、毛利氏の家臣
には朝鮮人を祖先に持つ人も多かった。
0193人間七七四年
2007/05/17(木) 19:47:35ID:6sx2IxCmこの時点で毛利元就派の勝ちだろ。
朝鮮とか言い出したし信玄厨は負け認めたようなもんじゃんか
0194人間七七四年
2007/05/17(木) 19:53:35ID:wtx/mOj3ブッサイクなチョン顔ばかりだよなwwwwww
0195人間七七四年
2007/05/17(木) 19:54:43ID:FHuTTaTI晴久時代には、石見を間接支配してたんだったらば、鉄と銀合わせて経済大国だったことになる。
0196人間七七四年
2007/05/17(木) 19:56:04ID:ylQFsbJqただ当時の風習や価値観か現代と違い
資料や公文で確立された当時の風習を
新たな資料もなしに現代の価値観で否定したり憶測で批判するのは
歴史板の住人には相応しくないわな
0197人間七七四年
2007/05/17(木) 19:57:37ID:ylQFsbJq価値観か Χ
0198人間七七四年
2007/05/17(木) 19:59:50ID:jlS2ay4H吉田松陰
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
長州人が大和民族以外の民族意識を持ってるわけが無いだろ。
最近のなりすまし野郎と一緒にするな。
0199人間七七四年
2007/05/17(木) 20:00:55ID:6sx2IxCm0200人間七七四年
2007/05/17(木) 20:09:20ID:jlS2ay4H秀吉軍団は朝鮮ではぱんぴーの鼻や耳を切って日本に持って帰ったらしい。
マジ意味分からん。未だに韓国で嫌いな日本人第一位は秀吉らしいし。
まさに日本人の恥だ。全く軽率なヤツだ
193 :人間七七四年:2007/05/17(木) 19:47:35 ID:6sx2IxCm
2ちゃんでディスカッションしてて負けそうなヤツって絶対相手に悔し紛れにチョンとかキムチとか朝鮮とか言い出すんだよな。
この時点で毛利元就派の勝ちだろ。
朝鮮とか言い出したし信玄厨は負け認めたようなもんじゃんか
なんで、ID:6sx2IxCm
は朝鮮を叩いたり、秀吉を叩いたりしてるんだ?
0201人間七七四年
2007/05/17(木) 20:09:51ID:FHuTTaTI大和民族って征服者だからね。大陸とか半島とかの。
日本列島の原住民みたいな言い方はよせよな。
0202人間七七四年
2007/05/17(木) 20:12:02ID:wtx/mOj3日本ですらないw
中国の武将と言ったら誰?
と尋ねたら
絶対、項羽とか曹操って答えるだろwww
0203人間七七四年
2007/05/17(木) 20:12:22ID:jlS2ay4H大和が大陸や半島の民族なわけがないだろ。
日本の民族そのものじゃないか。
「和」だぞ?
日本人を倭人、倭猿と呼んできたのは大陸や半島の人間じゃないか。
なりすましもいい加減にしろ。
0204人間七七四年
2007/05/17(木) 20:14:09ID:6sx2IxCm0205人間七七四年
2007/05/17(木) 20:15:08ID:Qs8AWRFt対して武田は背後に上杉を抱えていたとはいえ2.5万。
50スレも消費してる伝統の某信玄スレでも武田の動員兵力は総計25035〜26635と見積もられてる。
毛利の最大動員兵力も同じように見積もったらどれぐらいいくんだろう?
0206人間七七四年
2007/05/17(木) 20:17:17ID:jlS2ay4Hそれは「血」だろ?
民族って何なのか理解してるのか?
民族は肉体の遺伝子ではない。
もしそうなら、朝鮮民族も、漢、女真、モンゴル、大和にレイプされているから
民族と言えなくなるだろ?あらゆる民族がそうだ。
血じゃないぞ。
同じ伝統と文化、歴史を紡いできた共同の人々の集まりを民族と言うんだ。
0207人間七七四年
2007/05/17(木) 20:19:48ID:wtx/mOj30208人間七七四年
2007/05/17(木) 20:20:19ID:jlS2ay4Hだいたい、大和民族を日本人がなんで否定する必要があるんだ。
毛利も武田も大和だ。
だいたいスレを見返すと、大和民族を否定した発言をしたIDの奴は
豚だのホモだの酷い言葉を発している。
要するに、「半島人のなりすまし野郎が分断工作していた」のがこのスレ
だったわけだ。
0209人間七七四年
2007/05/17(木) 20:21:55ID:6sx2IxCmその理論だとデーブスペクターもヤマト民族ってことになるな。
あいつは下手な日本人より日本詳しいし
0212人間七七四年
2007/05/17(木) 20:40:20ID:jlS2ay4H誇りがあるだろうし、勝手に大和にするのは失礼ではある。
日本国籍を持ってるだけではないか。国籍と民族は違う。
たとえば、日本民族ってのは無いとおもうぞ。
日本という国家に、大和、アイヌ、琉球民族、その他が居るわけで。
>>211
その言い方が適切だと思う。
漢民族やらゲルマン民族やら、世界中の民族は特に「モンゴル民族」に
種付けされすぎているから、血で民族を表せるわけが無いし。
0213人間七七四年
2007/05/17(木) 20:44:04ID:NO/vTfKpっていうか大名の能力に関係ない衆道を挙げてののしってきたのはお前さんだ。
議論に負けそうになると関係ないこと持ち出して罵倒に走るっていうのはお前さんに
ぴったりあてはまるぞ。衆道なんて戦国じゃあ珍しくもないしな。
0214人間七七四年
2007/05/17(木) 20:46:25ID:lGoGMSXE311 名前:人間七七四年 :2007/05/17(木) 14:56:24 ID:6sx2IxCm
謙信なんて領地も少ないし絶対弱い。
中国を統一した中国地方の元就のが余裕で強い
179 :人間七七四年:2007/05/17(木) 18:26:23 ID:6sx2IxCm
うむ。
確かに歴戦のソースからも元就が格上なのは誰の目にも明らかだね。
しかも信玄はホモだ。男色は仏教の教えに反する。生臭坊主でホモ。
つまり救いようがない
0215人間七七四年
2007/05/17(木) 20:49:10ID:6sx2IxCm中東やアフリカなら公開死刑かリンチだ。
お前ら戦国オタクはホモ行為に寛大過ぎるだけ。
どんだけぇ〜ってか
0217人間七七四年
2007/05/17(木) 21:00:45ID:BNnRtrH+相手にした元就と、上杉謙信 北条氏康 という信玄と同世代の強豪に加え
村上義清や長野業正という上の世代の強豪を相手にした信玄を本当に同等に
見てるわけ?
それに若い元就(つまり信玄と同年代の時期としよう)が村上や長野に勝てる
ような戦上手だと言えるの?その辺り聞いてみたいなあ(笑)
0218人間七七四年
2007/05/17(木) 21:00:54ID:RevJj/WBここは日本です。
ついでにいうと「同姓を繁殖相手とする(同姓としかできない)」はNGだが、
女体の代用品として男児の菊紋を使う文化は洋の東西を問わずどこにでも
見られる行為。
ま、宗教で禁止する=望ましくないが蔓延している悪癖ってことだけどな。
絶対権威でも使わない限り止まらないから教義で規制される。
0219人間七七四年
2007/05/17(木) 21:03:08ID:NO/vTfKp0220人間七七四年
2007/05/17(木) 21:05:34ID:jlS2ay4H自分も大和魂がどうのといえるような人間じゃないしな。
吉田松陰のような人物で無いと、魂がどうの、民族がどうのとは言えない
気もする。
でも、ラモスやらローズやらは大和魂を持ってると喋っても
おかしくは無い人だろうな。
民族は、自分の自覚に拠るものとしか・・・表現の仕様が無い。
0221人間七七四年
2007/05/17(木) 21:07:14ID:Qs8AWRFt若輩者だから必ずしも弱いって訳でもないし、逆もしかり。
まして信玄はその"同世代の強豪"を結局一人も滅ぼせなかった訳で。
0222人間七七四年
2007/05/17(木) 21:07:46ID:jb7GJ3Lw毛利元就(1497ー1571)
武田信玄(1521ー1573)
長野業正(1491ー1561)
大内義隆(1507ー1551)
尼子晴久(1514ー1560)
村上義清(1503ー1573)
おまけ
上杉謙信(1530ー1578)
北条氏康(1515ー1571)
0223人間七七四年
2007/05/17(木) 21:08:39ID:BNnRtrH+格下としか戦ってこなかった元就の業績なんて意味ないんだよ
151 :人間七七四年:2007/05/17(木) 13:33:28 ID:FX/gMucJ
元就のほうが上だと思う
個別の事項だと主観や好みでいくらでも贔屓弁論を展開できるが
結果だけは誤魔化せない
信玄、22万石でスタートして100万石(潰せたのは弱体化した今川が最高の大国)
元就、1万石あるかどうかからスタートして120万石(数ヶ国を保有する大内(陶)・尼子の二大勢力を撃破)
比叡山焼き討ちで信玄に西上の大儀を与え、苦しくなったのは信長の方ですよ。
それから元就は大国の傘下に何十年といましたから自力で領土拡大したわけじゃありません
し、優柔不断な家臣ばかりを育て、両川体制などというもののおかげで滅亡寸前まで起こさせました。↓↓
166 :人間七七四年:2007/05/17(木) 15:10:29 ID:CNwyyJEV
織田に喧嘩売った、といっても「信長に見捨てられたら信玄は滅亡です」とか泣き付くほど仲良しだった相手を一方的に裏切って、
御家滅亡の原因作ったわけだからなぁ。
それだけで評価するというのなら、贔屓の引き倒しも良い所。
やはり、一から実力で這い上がった元就に魅力を感じるな。
一カ国を親から掠め取りながら格下相手にすら苦戦した信玄は、なんかショボい。
0224仙台藩百姓
2007/05/17(木) 21:12:47ID:dM7GNAY/衆道は仏教から発生したと言われるぐらい
僧の間では頻繁に行為があったのを知らないのかお( ^ω^)
寺院によっては稚児、所謂ショタを大勢囲って
性処理をさせていたお
仏教は男色よりむしろ女犯を禁止する宗派がほとんどだお
0225人間七七四年
2007/05/17(木) 21:13:56ID:jb7GJ3Lwそして信玄が滅亡の下地を作って「本能寺が有っても無くても」滅亡した武田家
0226人間七七四年
2007/05/17(木) 21:15:16ID:BNnRtrH+信玄はねえ、元就みたいに中国地方のような小さな(半島か?あれ)ところ
ばかりを戦略範囲と見てたわけじゃないんだよ。
信濃攻略を邪魔した謙信を蹴散らし、北から甲斐へ進入させない為に長野を攻め
駿河攻略〜西上を邪魔した北条を蹴散らし抑えただけのこと。
つまりそれだけ列強渦巻いてたのが甲信越と関東東海なんだよ。
海で隔離されてたおかげで九州や四国と関わり無く楽に中国を平定できた元就
なんかとは比較にならないね、てゆうか四国に強豪なんていたっけ?
0227人間七七四年
2007/05/17(木) 21:18:20ID:NO/vTfKp織田・徳川・北条という大大名に3方向から袋にされればそりゃ滅びるしかないだろう。
毛利は秀吉の軍団にすら滅ぼされかけていたがね。
0229人間七七四年
2007/05/17(木) 21:21:15ID:BNnRtrH+一国や半国の国主から領土を広げていったのが上杉北条である、この差だな
それより早く>>217の問いに答えろよ、都合の悪いものは何も答えられない
んだね
0230人間七七四年
2007/05/17(木) 21:25:04ID:BNnRtrH+てゆうかお前こそ、元就が若輩者ばかりを相手にしてきたことに関して
何も言えないわけ?
0231人間七七四年
2007/05/17(木) 21:25:06ID:FHuTTaTI大内義隆は相手にしてないけどな。
むしろ助けられていた存在であって。
元就が勝ったのって、「陶晴方」と「尼子義久」でしょ。
これはちょっと弱すぎるとは思うけど、「意味が無い」とは暴論だな。
釣りだと思うけど
0232人間七七四年
2007/05/17(木) 21:30:04ID:BNnRtrH+意味のないものばかり、最終石高は五分五分という事実を無視。
そして何もかも都合が悪くなれば勝頼と輝元による衰退への話題に切り替えるという。
運良く助かった本能寺や、秀吉に両川を付け込まれたことや、家康に騙されて改易さ
れたことに関するドジ振りに関する問いにはいつになったら答えてくれるの?
0233人間七七四年
2007/05/17(木) 21:33:58ID:jb7GJ3Lw今川氏真(1538ー1614)
徳川家康(1542ー1616)
上杉謙信(1530ー1578)
長野業盛(1546ー1563)
だいたい年代が上なのに若輩者ばかり相手もくそもあるか。
15世紀生まれだぞ。
>そして何もかも都合が悪くなれば勝頼と輝元による衰退への話題に切り替えるという。
から
>運良く助かった本能寺や、秀吉に両川を付け込まれたことや、家康に騙されて改易さ
れたことに関するドジ振りに関する問いにはいつになったら答えてくれるの?
この時の毛利の当主は誰だったかな〜?
0234人間七七四年
2007/05/17(木) 21:34:16ID:FHuTTaTI0235人間七七四年
2007/05/17(木) 21:34:17ID:BNnRtrH+領内統治 信玄>>>>>>>>>元就
外交戦略 信玄>>>>>>>>>元就
信玄より20も年上の元就って一体何?
0236人間七七四年
2007/05/17(木) 21:37:51ID:jb7GJ3Lw結んじゃ破り結んじゃ破りが賢い外交戦略ですかww
0237人間七七四年
2007/05/17(木) 21:38:21ID:FHuTTaTI0238人間七七四年
2007/05/17(木) 21:40:35ID:BNnRtrH+何それ?お前らが元就で勝負すれば負けは見えてるという思いから
いつも信玄元就死後の話題に切り替えたいんだろ?
0239仙台藩百姓
2007/05/17(木) 21:41:59ID:dM7GNAY/じゃあお隣りの宇喜多直家などは殆ど裸一貫から始めて
拡大率で言ったら元就より遥かに上だお
元就は直家より格段に劣ると言う事かお?( ^ω^)
0240人間七七四年
2007/05/17(木) 21:42:30ID:6sx2IxCmこのケツの穴マニアの功績って水害対策にショボい土手を作ったことと恥ずかしいラブレターを後世に残したことのみ。
覇者毛利元就の足元にも及ばん。元就は文字通り0からの出発で覇者に上り詰めた
0242人間七七四年
2007/05/17(木) 21:46:08ID:FHuTTaTI尼子義久は当時20代だし、陶も30ちょっとでしょ。
相手は、戦歴、戦力差、国力差でみないと意味が無いけど、
実績が無いんだよな。この二人って。
0243人間七七四年
2007/05/17(木) 21:48:03ID:BNnRtrH+織田に喧嘩売って滅亡寸前まで言った毛利は無視するの?
信玄生前の武田領からは一揆なんて起きた試し無いんだよ、知らない?
まあ中国地方に関することしか知らない単細胞には、甲信越や関東東海
の列強渦巻く複雑な模様(外交戦略)なんて理解出来るわけないか
0244人間七七四年
2007/05/17(木) 21:49:11ID:I9bbAkzrホモ信玄厨らしい
0245人間七七四年
2007/05/17(木) 21:49:21ID:6sx2IxCm人生50年の時代の20代とガキと変わらん今の20代を同じにすんな。
当時は若ければ有利だ。怖いもの知らずでイケイケで行けるし
0246人間七七四年
2007/05/17(木) 21:51:22ID:jb7GJ3Lwんで、残念ながら俺は九州人なもんで大して中国地方には興味無いんだわ。
自分で相手に支離滅裂だとか何だとか言いながら言ってる自分が一番支離滅裂な奴を見るのが楽しくて楽しくてww
0247人間七七四年
2007/05/17(木) 21:53:38ID:BNnRtrH+まあ最初から海に恵まれていた毛利の統治とは比較にならない
複雑さがあったでしょうねえ。
河川工事 鉱山 などなど
0248人間七七四年
2007/05/17(木) 21:55:12ID:daqzovzS740 名前: 日曜8時の名無しさん 投稿日: 2007/05/12(土) 13:49:00.32 ID:8FsDoERn
大 爆 笑 !!!
何だ何だ?いつのまにか風林火山に嫉妬しまくってるアホウが巣窟
してるっての?
残念だけど、世間での評価(特に玄人目)では近年まれに見る大河
だってのは誰しも認識してるんだよ〜〜〜
そこら辺のチャラチャラしたドラマとはわけが違うの、分かった?
841 名前: 日曜8時の名無しさん 投稿日: 2007/05/14(月) 00:21:15.33 ID:lFygoP6c
また武田に嫉妬してるどっかの田舎大名マンセー君が噛み付いてるの?
戦国時代ってのはねえ、武田家を語らなければ戦国ではないんだよ、分かる?
君達も下らない3傑中心ばかりでいい加減飽き飽きしてるだろう
996 名前: 日曜8時の名無しさん 投稿日: 2007/05/15(火) 10:28:33.86 ID:yjtxumrv
どうやら武田に嫉妬するどっかの田舎者連中は消えたようだね
大河で取り上げてもらえないからって僻んでるのかな?
0250人間七七四年
2007/05/17(木) 21:56:29ID:FHuTTaTI0252人間七七四年
2007/05/17(木) 22:00:48ID:BNnRtrH+信玄公と元就を同等に見ないでね。
毛利なんてその優柔不断で中途半端な両川体制から何度も運良く助かった
だけの家柄だろ?
信長 秀吉 家康時代に振り回されてきた情けない家柄を言ってみれば?
あきれ返る程のドジ振りだもんねえ
0253人間七七四年
2007/05/17(木) 22:03:34ID:QtBeugNE0254人間七七四年
2007/05/17(木) 22:03:39ID:BNnRtrH+信玄より勝てると思ってるの?
まあお前らの方から元就の方が何もかも勝ってるみたいに話を進めてきたから
元就の内政のどこが優秀かそれを先に言わなきゃね。
0255人間七七四年
2007/05/17(木) 22:05:30ID:jb7GJ3Lwほら、自称無知じゃないお前は>>249や>>251の疑問に答えてやったらどうだよww
>>254がいつもお前の逃げ方だよなww
0256人間七七四年
2007/05/17(木) 22:08:04ID:2DqOtgWw隆元は神経質な性格で細かい所まで
気がついたので結構細かくみてたようです。
隆元の死後は隆景が隆元の領国経営を参考に
毛利の内政をみてたそうです。
0257人間七七四年
2007/05/17(木) 22:09:18ID:6sx2IxCmさすがの覇者毛利元就もそこは負けてる。他は全部格上だけど
0259人間七七四年
2007/05/17(木) 22:14:45ID:BNnRtrH+どうにかして俺のレスの中から突っ込み所になるものを探そうと必死に
なってる姿が目に浮かぶよん〜〜〜
信玄と元就との比較なのに何で両名の死後にまで話が飛ぶのかな?それは
君達毛利厨が武田が滅亡したということしか対抗できる武器が無い理解し
てるからだろ?それより先に早く答えたら?信玄の戦ってきた強豪と元就
の戦ってきた若輩者ばかりについてどう説明するの?
0260人間七七四年
2007/05/17(木) 22:15:43ID:1OxVE5Wl多分俺へのレスも含んでると思うから反応するけど
武田の領内統治が毛利のそれより優れている(それも遥かに)と主張してるのはあんた自身
だからyouがそう考えるに至ったモノを教えてくれと聞いてるわけ
俺は純粋に疑問に思ってるから聞いてるだけ
どっちが優れてるとか一つも判断してないし、そんなこといってない
示せないなら別にそれでいいよ
0261人間七七四年
2007/05/17(木) 22:15:59ID:FHuTTaTI信玄が戦ってきた相手が強豪だって根拠を出して欲しいです。
相手が弱いかったかもしれないだけだし、そんな弱いのに勝った信玄なんて弱いだけじゃないですか?
0262人間七七四年
2007/05/17(木) 22:17:16ID:dsrY/yvG0263人間七七四年
2007/05/17(木) 22:18:48ID:jb7GJ3Lwどうせまともな答えは返せないだろうがよww
無知がどうだの言って結局まともに返すのは避けるんだよなww
0264人間七七四年
2007/05/17(木) 22:24:29ID:dsrY/yvG0265人間七七四年
2007/05/17(木) 22:27:17ID:BNnRtrH+信玄の最も優れていた点は、政治手腕に大変長けていた事です。
外交策もその一環ですが、内政において才を発揮し、「棒道」と呼ばれる
軍用道路の整備、狼煙台の配備(これにより新潟の上杉謙信の動きを甲府に
居ながら2時間で知ったと言う)、後世に多大な影響を与えた法制度「甲州法度之次第」
の制定、日本の貨幣制度の先駆けと言われる「甲州金」の制定、特に有名なのは「信玄堤
(しんげんづつみ)」と呼ばれる堤防に代表される治水事業で、400年以上経った今でも
河川の氾濫から甲州一帯を守っており、その他様々な施策を行なって非常に高度な領国経営を
行ないました。
決して土地的には恵まれた場所とは言えない甲信にあって、あれほど強力な国を作り得たのは、
ひとえに信玄の優れた政治手腕があってこそです。
>>261 やはり幼稚園児は何度言っても理解出来ないらしい
上杉謙信 北条氏康 今川義元は領土を拡大しつつ維持出来る。
村上義清や長野業正は老練な戦才家。
まさか本気で中国地方が甲信越周辺の大名よりレベルが高いと思ってるの?
元就のことばかり知ってるとそれに対して神格化してしまうからいけないね
一度戦国時代全般を勉強し直すことを薦めるよ
0266人間七七四年
2007/05/17(木) 22:27:28ID:+aGHdp4L0267人間七七四年
2007/05/17(木) 22:29:03ID:dsrY/yvG0268人間七七四年
2007/05/17(木) 22:30:11ID:dsrY/yvGお前の脳内だしなぁ
0269人間七七四年
2007/05/17(木) 22:34:16ID:Qs8AWRFt0270人間七七四年
2007/05/17(木) 22:34:38ID:BNnRtrH+甲信越周辺の列強を同じに見てるとはアホも甚だしいww
元就が倒した相手でまともなのは陶春方ぐらいでしょ
0271人間七七四年
2007/05/17(木) 22:34:59ID:1OxVE5Wl文体が明らかに違うからどこかからの引用なんだろうけど、できれば出店元も教えて欲しいな
まとめると郡道路の整備と狼煙と口臭法度と口臭金、治水事業にその成果があるんであって、
その他の戦国大名権力強化についての功績は無いって事ね?
答えてくれてどうもありがとうございました
0273人間七七四年
2007/05/17(木) 22:37:41ID:poDXGykvあるていど処置できたのはその2者ぐらいで
残りの秋月筑紫原田宗像杉竜造寺なんかは潰せていない、
博多は抑えているので最重要地域は保持しているけど。
また高橋鑑種に対しても滅ぼすではなく筑前から豊前に移すに留まっている。
高橋鑑種に関しては毛利から小倉など豊前半国を与えられたとも言われている、
実際には毛利大友に両属、緩衝地帯として残されただけかもしれないが。
そして高橋も後に離反することに。
>>151
元就も120万石あるかな?
死亡時は浦上宇喜多尼子などが敵対して
出雲美作備中などを攻められている。
>>152
飛騨はどの程度支配できているものか?
東美濃といっても実質は恵那郡の外れのみだし
三河も遠江も山間部のみで、石高で見ればどれほどのものか
遠江も二俣以南は荒らした程度で実質的に支配しているか怪しいし、
信濃も水内に関しては完全に支配できていたわけじゃない、
上洛スレの100万石強ぐらいが妥当な所だと思うが。
>>154
晴久に関しては毛利が周防長門を手に入れたのは1557年
晴久死亡は1560年
領地の安定や大友とも敵対していたし
対等の力を手に入れてから戦った期間は短いのに、そのように判断するのはどうかと
0274人間七七四年
2007/05/17(木) 22:39:30ID:YDIOPehFそれで強力な国とか、ゲーム脳もいいとこだわ。
0275人間七七四年
2007/05/17(木) 22:41:07ID:RevJj/WBスルーされるようになってきてるな。
0276人間七七四年
2007/05/17(木) 22:43:41ID:NRN/DqvH武田厨はまさしくガソリンだな
0277人間七七四年
2007/05/17(木) 22:53:33ID:vsrnTbCu0278人間七七四年
2007/05/17(木) 22:57:00ID:BNnRtrH+北信濃を平定するかそのまま放置かで、その後の戦略に大きく関わるという
戦略眼は、狭い視野でしか戦略を打ち立てられない元就をマンセーしてるアホ
には理解出来ないと思うね。
0279奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/17(木) 22:58:06ID:gJFvbj9q0280人間七七四年
2007/05/17(木) 22:59:27ID:jb7GJ3Lw0281人間七七四年
2007/05/17(木) 22:59:58ID:poDXGykv大内尼子も勢力広げているが
>>247
毛利は最初は海に恵まれていない
>>249
>>251
各種金山
信虎時代から続いていたものを更に積極的に行い
信玄時代に最盛期迎えたが、その後江戸時代まで衰退
ただ毛利の銀山経営と大差があるとは思えないが
検地は基本差出、豪族や寺社の権利を認めるために実施したり
毛利と比べて大差があるとは思えないが
戦国大名制
信虎が今井大井飯富など有力氏族を滅ぼす弱体化させ
穴山小山田と婚姻をしていたため、特に特筆すべきようなことは?
武田家以外の命令に従う必要なしという大名権限強化も最初は信虎だし
税制を整えたのも伝馬制度を整えたのも信虎、
信玄法度は今川仮名目録を参考にしたと言われるが、
大名権限に関しては今川仮名目録より劣る、
ただこの大名権限に関しては武田の方が遥かに上だろうけど
でもそれは信虎の功績と一国人として生まれた毛利との立場の差が主要因だと思う。
棒道に関しては新たに信玄が作ったと言えそうなのは・・・
街道整備なら謙信や信長もやっていることだし
信玄堤と貨幣制度以外は基本は信虎の政策を受け継ぎ発展させた程度だと思う。
度量衡に関してもそれは小山田などには及んでいない。
0282人間七七四年
2007/05/17(木) 23:00:33ID:YDIOPehF上洛直前で病死するなんて馬鹿すぎる
0283人間七七四年
2007/05/17(木) 23:02:12ID:BNnRtrH+家康をコテンパンにし孤立させ 信長を恐々とさせる
まあどう考えても信玄の病死によって、その最高石高の具合から元就が
信玄のおかげで運良く比較されて貰ってるということが伺えるね。
0284人間七七四年
2007/05/17(木) 23:04:54ID:BNnRtrH+有力大名が密集していたってことだよ、だから知名度も高いの
中国地方なんて経久と義輿が死んでから藻抜けのカラそのものwww
0285人間七七四年
2007/05/17(木) 23:05:40ID:jb7GJ3Lw0287人間七七四年
2007/05/17(木) 23:08:18ID:YDIOPehF0288人間七七四年
2007/05/17(木) 23:08:32ID:poDXGykv川中島に関して言えば
信濃最大の経済地域であった善光寺の争奪が絡み
あと謙信にとっては本拠春日山の防衛からも
非常に重要だったと思う。
両者にとってほとんど利益をもたらさなかったから無駄に争ったように見えるかもしれないが
それなら毛利と大友の争いも1557年から1571年まで
(1578年にも毛利はちょっと出兵しているが)
争ったものの最終的には初期状態に近い形で落ちつき無駄に争ったことに、
そして毛利は織田に、大友は島津によって危機的状況へと追い込まれていくことに。
まあ軍の規模と争点となった地域の重要性では川中島とは比較にならないが。
0289人間七七四年
2007/05/17(木) 23:13:57ID:BNnRtrH+街道整備なら謙信や信長もやっていることだし
信玄堤と貨幣制度以外は基本は信虎の政策を受け継ぎ発展させた程度だと思う。
度量衡に関してもそれは小山田などには及んでいない。
しかしそれが日本一の山国に住んでいた領民には、現代まで強く語り継がれる
程有難いものだったんだろうね、ちなみに棒道は信濃攻略などには特別必要だろ
行軍が難関な険しい山国では尚更だ。
それから信虎の政策にどんな記録があろうが、勝ち負け戦を繰り返し、甲斐一国から
抜け出せずに飢饉と水害を放置していた時点で評価なんて出来ないね。
信玄は善政を敷いていた上にその政策を引き継いでるからね。
0290人間七七四年
2007/05/17(木) 23:19:04ID:BNnRtrH+家康は浜松城で何してたのかな?信玄はとっくに遠州を半ば平定しつつ
三河まで進軍していたんだが、信長との挟撃作戦は失敗したしねえ。
てゆうか元就との比較じゃなかったの?
0291奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/17(木) 23:21:47ID:gJFvbj9q0292人間七七四年
2007/05/17(木) 23:21:52ID:NO/vTfKpあんたはスタンスをころころ変えるね。三戦復興計画とかいってるけど本気?
>>267
騙し取っただけってわけじゃないよ。ちゃんと今川も応戦しているし。
内応策が決まってあっけなく勝負がついてしまったが。
>>271
一応検地とか新村開発とか新田開発とか度量衡統一とか伝馬制の整備とか
商人・職人の保護育成とか他にもいろいろやっているよ。
>>273
信濃38万石というのはその支配してない所を差し引いてるよ。信濃は約41万石だしね。
高橋鑑種って殺されてなかった?その後を吉弘鎮種がついで高橋紹運になったと思ったが。
>>274
ちゃんと北条や上杉から領土獲得しているでしょうが。
百万石以上でで強力な国じゃないというのはむりだろう。
>>275
別に独創とも最高ともいわんが、あれだけやっているのは他の大名と比べると
内政に力を注いでいたのは事実だろう。
>>277
川中島は上杉への対処。ほっといたらそれこそ苦労してとった信濃をとられてしまう。
0293人間七七四年
2007/05/17(木) 23:21:57ID:3OFM+P6xもう上洛スレには帰ってくるなよww
0295人間七七四年
2007/05/17(木) 23:26:27ID:FHuTTaTI根拠を出せと言っていることに関してどこがスタンスを変えているのでしょうか?
ちゃんと仮定で?までつけて発言をして強さの判断基準を求めている行動がわからないんだったら
俺のスタンスがただ勝手に理解できていないだけで、その自己の理解の無さを考え直してください。
0297人間七七四年
2007/05/17(木) 23:29:27ID:NO/vTfKp>>250で三戦復興計画とか書いてるからてっきり煽りかなと思ってね。
あなたは基本的にどういうスタンスなの?三戦復興とかいうので最近
いろいろ動いている人?
0298奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/17(木) 23:32:03ID:gJFvbj9qこういう人。
0299人間七七四年
2007/05/17(木) 23:35:24ID:FHuTTaTI素人の人間に「文体構造の共通性」を指摘できるとは全く思いませんね。
顔文字付ければ、仙台藩百姓になっちゃうようなレベルの人たちだから尚更無意味です。
誰ですかIDxなんとかって?違いますよ。勘違いはやめてくださいw
0300人間七七四年
2007/05/17(木) 23:36:42ID:poDXGykv>それから信虎の政策にどんな記録があろうが、勝ち負け戦を繰り返し、甲斐一国から
>抜け出せずに飢饉と水害を放置していた時点で評価なんて出来ないね。
それ言い出すんじゃ内治で比較する意味がないだろ
信玄なんて滅亡の原因を作った時点で他にどんな功績があろうと評価できないなんて
言うのと一緒だ
棒道も信玄が作ったとされるだけで実際には
街道整備修復の書状はあるけど
>>292
>信濃38万石というのはその支配してない所を差し引いてるよ。信濃は約41万石だしね。
勘違いしていたスマン
死んだのは立花の方で高橋鑑種は実家の一万田の助命で生きていて、
後に秋月から養子を取っていたと思う。
>あれだけやっているのは他の大名と比べると
>内政に力を注いでいたのは事実だろう。
内政に力を入れていたのは事実だろうけど他の大名とそう変わらないと思うが。
0301人間七七四年
2007/05/17(木) 23:39:52ID:FHuTTaTI元就スレっていつも、元就は大内、尼子に勝ったんだとか言っているけど
毛利って大内の支配力を利用して勢力を拡大してきた勢力なんだから普通の裏切り行為だな。
あと、偽和議で、尼子を騙してというペテン師みたいなことやっているからそれは信玄も同じだけど。
真っ向から立ち向かって戦った人間を評価しろよ。人生自体がペテンなんだから仕方が無いかも知れないけど。
0302人間七七四年
2007/05/17(木) 23:40:13ID:NO/vTfKp>>250で三戦復興計画とかかいている時点で煽りと見られても仕方ないと思うぞ。
存在を定義していない名無しがほとんどの板で何をいっているんだ?
それでもIDがあるから人の識別はある程度できるんだよ。
仙台藩百姓は別に排撃するようなもんじゃないと思うが。
なんだかんだいってあの人結構知識あるぞ。
0303人間七七四年
2007/05/17(木) 23:43:57ID:jb7GJ3Lw後、仙台藩百姓のあのカチンとくる文体と意外と豊富な知識は侮れないんだがな。
そこで出すならメガトンしかいないだろ。
0304人間七七四年
2007/05/17(木) 23:45:29ID:l/BZ3zZb0305人間七七四年
2007/05/17(木) 23:47:11ID:NO/vTfKp>>内政に力を入れていたのは事実だろうけど他の大名とそう変わらないと思うが
確かに他の大名と被るところもあるだろうが、法度や貨幣制度、税制整備その他とかは
やってない大名のほうが多いと思うが。別に独創とも最高ともいわないが
評価はされていいと思うが。
しかし高橋鑑種がそうだとすると高橋紹運の高橋家ってなに?知ってたら教えて欲しい。
0307人間七七四年
2007/05/17(木) 23:49:54ID:FHuTTaTI煽りってこのスレの人間に対する煽りとは違うし、
メガ豚自体がクレーム付けてくるならともかく、(本人は違うと主張してるのでありえないが)
そもそも三戦板復興計画のどこが煽りなのかわかりません。
>それでもIDがあるから人の識別はある程度できるんだよ。
その識別は、発言の矛盾や自作自演の防止ならともかく
IDストーカーのごとく関係ない発言に突っ込んでも無意味だと思うけどな。
関係ない話なら基本的に関係無く扱うべきですね。
自己同一性を求めても仕方が無い。話題に対する同一性ならともかく。
>仙台藩百姓は別に排撃するようなもんじゃないと思うが。
>なんだかんだいってあの人結構知識あるぞ。
知識があるというのと、やっている行動って別物だし。
じゃあ、知識があれば荒らし放題だな。最高だな。
史板との差別を付けると言っていたなら、史板
>うみてもID:X/jrV3rBにしか見えん。
あんたの主観でしょ。根拠も証拠も無い決め付け。
>後、仙台藩百姓のあのカチンとくる文体
おつけてる(しかもそれもvipのパクリで全く独自性がない)以外に取りえあるのかね。
吐いて捨てるほどの無個性キャラ、トリップも無いため個性としての確立すらしていない。
0308奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/17(木) 23:50:39ID:gJFvbj9q0310人間七七四年
2007/05/17(木) 23:53:33ID:FHuTTaTI0311人間七七四年
2007/05/17(木) 23:57:24ID:FHuTTaTI固定としては最低だと思うよ。トリップも付けて無いし。
0312人間七七四年
2007/05/18(金) 00:01:58ID:xJJocLBA>>250で
>>よしメガ豚のおかげで三戦復興計画が進むぜ。
という文脈からはどうにも煽って混乱させようとしているようにうかがえたのでね。
そうだとしたらそれこそ君の嫌う(らしい)煽りや荒らしと変わりなくなってしまう。
>>関係ない話なら基本的に関係無く扱うべきですね。
自己同一性を求めても仕方が無い。話題に対する同一性ならともかく
そんな事をいってもなあ。IDがある以上ある程度の一貫性がないと
ただ場を混乱させようとする荒らしや煽りに思われても仕方があるまい。
>>知識があるというのと、やっている行動って別物だし。
じゃあ、知識があれば荒らし放題だな。最高だな
だから別に仙台藩百姓は荒らしているわけじゃないんだってば。多少ふざけた書き込み方してるけど
結構知識があって言っている事は結構的を得ている事も多い。
文句があるならちゃんと当人に反論すればいいじゃないか。
0313人間七七四年
2007/05/18(金) 00:09:31ID:HZVuRIYW評価はすべきだろうけど、
税制に関して言えばいろんな大名がやっていることだし、
法度はあるからと言って別に何とも、大名権限を制限するようなものじゃむしろ・・・
貨幣制度と堤防に関しては上で言ったように別だろうけど。
高橋家はまず一万田家から鑑種が養子に入って
筑後筑前の国境を治めさせていたが、毛利に通じて謀反
毛利が撤退し高橋などの国衆の降伏後に鑑種は筑前を追放され、豊前に
その後高橋家は吉弘家から紹運が入ってその後を継ぐ
という流れだったと思う。
高橋鑑種の方は小倉に入ってその周辺を支配、
(大友に任されたのか毛利に任されたのかはよく分からないが)
1578年の謀反時には豊前の半分ほどを支配するほどにまでなる。
高橋紹運の方は高橋家を継いで筑前南部を統治。
0315人間七七四年
2007/05/18(金) 00:15:56ID:XJrJjdAm>そうだとしたらそれこそ君の嫌う(らしい)煽りや荒らしと変わりなくなってしまう。
「三戦板復興計画」のどこが煽って混乱させる
要素が含まれているかの具体的な指摘が無い。
「こいつが俺に反論してくるのは混乱させているようにうかがえる、
そうだとした煽りだ」。のように。
主観や拡大解釈だけのものだ論理ですらありません。
>>関係ない話なら基本的に関係無く扱うべきですね。
>そんな事をいってもなあ。IDがある以上ある程度の一貫性がないと
>ただ場を混乱させようとする荒らしや煽りに思われても仕方があるまい。
その同一性、一貫性は話題に対してのみだと言っているんだ。
>だから別に仙台藩百姓は荒らしているわけじゃないんだってば。
>多少ふざけた書き込み方してるけど
>結構知識があって言っている事は結構的を得ている事も多い。
じゃああいつが荒らし、煽りじゃないんだったらば
「三戦板復興計画」の俺だって煽り荒らしじゃなくなる。
スタンスの一貫性が無いのはお前だ。
文句はありませんよ。
ただ、彼は他の大名のスレの煽りスレでもなんでもないスレなんかで、
煽りをしているのでああいう行為は「問題」だから板的に規制するべきで
あきらかに自治の問題であって、彼自体に言っても仕方が無いと思います。
0316人間七七四年
2007/05/18(金) 00:23:49ID:XJrJjdAmあれが煽り、荒らしじゃないんだったら俺だって「煽り、荒らし」とお前の中では判断されないよな。
俺のは根拠不明の決め付けなのに、あいつは明らかにスレの趣旨を守っていない煽り荒らしの類で(笑
便利だよなあ。色眼鏡って。
0317人間七七四年
2007/05/18(金) 00:28:43ID:xJJocLBA俺は別に君に反論された覚えはないんだがね。
理由がなければ君を煽りとするつもりはないよ。
数日前に三戦に人を戻すとか復興するとかいって戦国板のあちこちに
いろいろ荒らしたりした人がいるんだよ。
君に聞きたいのだが、メガトン氏が暴れるのが三戦復興にどう結びつくんだ?
まずそれを述べてもらえるかな。
>>じゃああいつが荒らし、煽りじゃないんだったらば
「三戦板復興計画」の俺だって煽り荒らしじゃなくなる。
スタンスの一貫性が無いのはお前だ。
正直な話仙台藩百姓の何にムキになっているのか良くわからない。
だしてくる話はちゃんとした知識があって的を得ているのも多い。
構う人だってネタと割り切っているのがほとんどだろう。
ちゃんと話題もあっていることだし、嫌ならスルーすればいいのであって
ムキになって規制する必要はないだろう。
0318人間七七四年
2007/05/18(金) 00:56:37ID:XJrJjdAmお前は明らかに「荒らし煽り」だと言っていたんだけど。
「思われても仕方があるまい」とか。「見られても仕方が無い」とかなんだこいつ。
>数日前に三戦に人を戻すとか復興するとかいって戦国板のあちこちに
>いろいろ荒らしたりした人がいるんだよ。
どこ?三戦板では今は人を戻そうぜ的な流れになっているから
そういう運動をやっているやつがいても不思議じゃないけど、
そいつと同一人物認定にも証拠も、根拠も無いよな。
そんなやつ沢山いるということで俺じゃない。
>君に聞きたいのだが、メガトン氏が暴れるのが三戦復興にどう結びつくんだ?
>まずそれを述べてもらえるかな。
君から「三戦板復興は荒らし煽りだ」と判断したんならそれ相応の根拠が必要だ。
君が主張したんだろ?「三戦板復興は荒らし煽りだ」と。
だったらあんたが指し示してくれないか?
論理も根拠も具体性も無く、問題点を提示しておいたくせに
「荒らし、煽り」だと「うかがえた」から、あおりだと見られても仕方が無い。
「お前が証明しろ」というのは、問題を証明するのはあんただ。
>正直な話仙台藩百姓の何にムキになっているのか良くわからない。
>だしてくる話はちゃんとした知識があって的を得ているのも多い。
確かにそう思うね。俺も。
でも、彼やメガ豚みたいに、スレッドの趣旨とは関係無く煽りまくったりするのは
最低だね。
煽り荒らしスレとかだったらばともかく、普通のスレでまで煽り口調で
煽ったり罵倒をするのは最低だと思うし、そういうのは板的に問題とするべきですね。
スレのモラルのためにも
>構う人だってネタと割り切っているのがほとんどだろう。
反感を抱いている人だって沢山いるかもしれない。
>ちゃんと話題もあっていることだし、嫌ならスルーすればいいのであって
>ムキになって規制する必要はないだろう。
規制する行為は、仙台藩やメガ豚がやっている、普通のスレなどで
罵倒や煽りをする行為を規制するべきだと書いているだけですよ。
荒らしは論外ですが。
0319人間七七四年
2007/05/18(金) 01:03:04ID:XJrJjdAm問題を証明するのはあんただよ。そのうかがいが正しいのかどうかの。
で
0320人間七七四年
2007/05/18(金) 01:04:24ID:vjFrxbWc0321人間七七四年
2007/05/18(金) 01:08:07ID:ue/zpK5g常に相手に対して包囲網を作り上げるところかな。
駿河進攻時に包囲網くらいかけたけど、基本的に相手を包囲して追い込んでいくのが
信玄の基本戦略。 まあ調略でも優位に立てるし。
0322人間七七四年
2007/05/18(金) 01:17:46ID:vjFrxbWcありがとうございます。
その戦略は、具体的に毛利の外交戦略よりも、どのように優れていたのでしょうか?
0323人間七七四年
2007/05/18(金) 01:21:14ID:xJJocLBA>>君から「三戦板復興は荒らし煽りだ」と判断したんならそれ相応の根拠が必要だ。
君が主張したんだろ?「三戦板復興は荒らし煽りだ」と。
だったらあんたが指し示してくれないか?
ちょっとまてここが一番重要なところだぞ。なんでこの一番肝心な所で
答えずにこちらに回答を突きつけるんだ?
まずそっちが答えてもらえるか?俺が三戦の煽りかもといったのと
メガトン氏が君の計画とやらに結びつくかは別問題だろう?
なんでいきなり話をそらすんだ?そっちが答えたらこちらも答えるよ。
そもそも最初にメガトンで三戦復興計画といいだしたのは君だろう。
君がその三戦復興計画にどうメガトンが結びつくのか説明できてそれがよこしま
でないならなんの問題もないだろう。
>>反感を抱いている人だって沢山いるかもしれない。
そうじゃない人だってたくさんいるだろう。楽しんでいる人さえも。
それを君の一存で規制するのか?
0324人間七七四年
2007/05/18(金) 01:25:21ID:ue/zpK5gいや知らんけど。 毛利の外交戦略ってなんだ? 弱小すぎて外交的駆けすらできない
レベルだったと思うが。
ああ、尼子と手切って大内に付いたのは素晴らしい決断だったんじゃないか?
あのまま尼子だといいように使われてただろうね。
でもまあ外交戦略というもんでもないな。
0325人間七七四年
2007/05/18(金) 01:30:57ID:HZVuRIYW村上小笠原戦に関しては包囲網を作るようなことは出来ていないと思う
背後は今川とは同盟、北条とは停戦で安全な上
村上小笠原を合わせたよりも武田の方が上だから問題にはならないけど
>>322
両者を取り巻く環境が違いすぎるから
そのような比較は難しいんじゃないかと思う
個人的には大内尼子の間で生き延び勢力を伸ばした
元就の方が凄いと思うが
0326人間七七四年
2007/05/18(金) 01:36:36ID:ue/zpK5g悪い意味ではなく、相手に自分の腹を読ませない、相手を騙し続ける。
その間に機を見て勢力を拡大するって感じの、いわゆるマキャベリズム的な外交姿勢。
まあ信玄とは置かれてる立場が違うから比較しにくいけど、こういう外交で勢力拡大できた
武将は信玄的な外交は簡単にできるとは思う。
といいつつ信長は常に包囲網引かれてたな・・・ 本質的に違うものなのかな?
0327人間七七四年
2007/05/18(金) 01:37:47ID:HZVuRIYW同感
毛利に関しては大内滅ぼすまでは外交戦略と言うよりもいかに生き残れるかのような
外交しか出来なかったようなもの
吉川小早川への養子も大内の許可を得たり、
備後への進出も大内先手としての行動だったりするし。
独立後は尼子大友に挟まれたわけだけど、大友と和睦したりして尼子を攻めたりしている
対大友戦では豊前筑前肥前の国衆と結んだり
1569年には大友の外交戦略によって包囲網が築かれたが、その時も大友に対しては
豊前筑前肥前の国衆と結んだり、三好浦上宇喜多に対しては織田と結んだりしている
0328人間七七四年
2007/05/18(金) 01:39:45ID:ue/zpK5gそうだね村上・小笠原に関しては、内戦の利を確保して勢力的優勢を保持した上で
当たってるね。 まあ要は相手に対して算多きは勝つの状態を確保したのが
信玄の絶対的姿勢だよな。 包囲網はその一貫かな。
0329人間七七四年
2007/05/18(金) 01:50:28ID:HZVuRIYW細かく見ると
今川とは最初から同盟、北条は最初は武田に構う余裕無し後に同盟
諏訪攻めでは高遠と結び、信虎が諏訪に送り込んだ金指氏とともに攻める
高遠は藤沢と結んで武田に抵抗、後に小笠原も加わる、武田は今川から援軍
佐久攻めに関しては関東で上杉が大敗して信濃への影響力が減った時に攻めている
村上小笠原は同盟し、藤沢を武田から離反させ、仁科などと組んで武田に抵抗
それに対し武田は仁科を離反させ小笠原から潰して抵抗
対上杉では越後北条氏本庄氏を離反させたり、越中神保一向宗や、葦名氏と連絡を取り
相模北条と協力したりしている
川中島でも北条や今川に援軍を出してもらっている
対今川戦では徳川と組み
対北条戦では織田の仲介で徳川と和睦し、同じく上杉も織田や一向宗に牽制させ
北条に対しては佐竹里見太田古河などと結んでいる
そして対織田戦も浅井朝倉足利三好松永本願寺と連絡をとり
越中一向宗に上杉を牽制させている
0330人間七七四年
2007/05/18(金) 02:02:11ID:HZVuRIYW織田は当初は斉藤と同盟していたが
今川他、尾張国内でも敵は清洲岩倉犬山にあと兄弟と一向宗
後には斉藤も敵対
信長はそれに対し清洲家は斯波氏と組み
岩倉家には犬山の信清と組んで攻めたのかな
その後徳川と同盟して美濃攻め、東美濃を取ると武田と同盟
上洛戦では浅井朝倉松永と同盟、
北畠攻めでは畿内の諸将の協力を得た他、九鬼氏なども協力している
包囲網後は上杉と同盟し、松永は筒井に牽制、河内三好は畠山に牽制させ
摂津池田は荒木に牽制させたりしている
この間浅井朝倉などと争う一方で本願寺と和睦したり、毛利と連絡取り合ったり
上杉が加わった包囲網時は
葦名伊達能登畠山長、長宗我部大友などと結んだりしている
こんな処か?
0331人間七七四年
2007/05/18(金) 07:25:09ID:fVjcizf8越後の豪族に調略をするなどこれだけのことをしたにも
関わらずついに越後に侵入できなかったわけだが
0332人間七七四年
2007/05/18(金) 08:25:39ID:FWiCcBP0やっぱり贔屓の引き倒し……
0333人間七七四年
2007/05/18(金) 10:07:54ID:vjFrxbWc>>322で、武田、毛利の外交戦略を質問した者ですが、敵の敵は味方式に、包囲網形成するのは、武田のお家芸だけではなく、単独で強敵に当たる愚を避けるのは、
ある程度の戦略眼を持つ大名なら、どこでも、やってることだったんですね。
0334人間七七四年
2007/05/18(金) 11:07:56ID:u2bE/I3uこれなんか言い訳できない欲張りのためのミスでしょ
さらにその包囲網解消に協力してもらった信長をこれまた一方的に裏切り
孫子の原則に反しまくり
0335人間七七四年
2007/05/18(金) 11:49:31ID:xJJocLBAでも実際の所、芦名は信玄が工作したにも動かなかったし、北条も特に動いていない。
今川に対する動きは前々から準備が施されていたものだし、
「越後とれなかったから駿河でも攻めるか」という動きにしては入念すぎると
思うけどね。この時もちゃんと徳川と結んで今川を挟み込んで攻撃し
内応策を決めて今川軍主力を一気に崩壊させている。
行き当たりばったりの動きというのは厳しいと思うがどうだろうか。
0336人間七七四年
2007/05/18(金) 11:52:36ID:rmN4Kp4D余談だが、信玄贔屓の軍鑑ではその越後攻撃失敗のくだりで「こんなに奴隷が奪えた、これも信玄様の武威のお陰だ」と吐き気のするマンセーしてたのが嫌だった
0337人間七七四年
2007/05/18(金) 12:00:55ID:xJJocLBA>>芦名は動いたが上野から戻ってきた謙信に撃退されたんじゃなかった?
それは1564年の事だよ。このときは謙信の留守を狙って攻めて越後の一部を
占拠したけどもどってきた謙信に叩きのめされて泣きついて和議をした。
それが嫌な思い出でもあったのか1568年では特に動いてない。
>>余談だが、信玄贔屓の軍鑑ではその越後攻撃失敗のくだりで
「こんなに奴隷が奪えた、これも信玄様の武威のお陰だ」と吐き気のするマンセーしてたのが嫌だった
気持ちはわかるが現代とは価値観が違うことを考慮しないと。貧しい地域では戦争で略奪とかを
するのは生きていく上で重要な事だった。他所の地域でも似たようなもの。
武田の側からしてみると戦に勝って略奪品を与えてくれる信玄はありがたかっただろう。
0338人間七七四年
2007/05/18(金) 12:40:33ID:ZZ7/WXKu0339人間七七四年
2007/05/18(金) 12:45:16ID:xJJocLBA0340人間七七四年
2007/05/18(金) 14:14:10ID:vjFrxbWc織田信長も、実際に美濃攻めで、伊勢や三河に不穏有りと噂を流し、兵力の一部を割いて、陽動作戦を行っているので、兵数と割合が分かれば、陽動か、そうでないのかが、想像し易いのでは…?
0341人間七七四年
2007/05/18(金) 14:52:46ID:xJJocLBAとりあえず今川攻めでは2万(当時の武田が動員できる最大兵力)を率いて
向かっている。越後侵攻の兵力はよくわからない。信玄自身は7月に長沼城に本陣を
布いて飯山・関山・上倉の城を攻めて上倉は攻略したけど飯山と関山は攻略できず
飯山ではそれなりの激戦が展開されたらしい。その一方で信玄は北信濃の寺社や諸士に
所領安堵や替地を行い、それまでも確保していた北信濃のほぼ完全な領国化を達成している。
この越後侵攻自体も武田にしても意味のない戦いでは無かったらしい。
信玄は本庄に対して兵糧支援とかをしつつ10月になるといきなり兵を引いて
甲斐にもどり、11月に甲斐と駿河の道の普請を仕上げるように命令を出し、
12月3日に甲斐を出陣して今川を攻める。信玄の前々からの内応策が決まって今川軍は
崩壊し、信玄は駿府を占領する。年が明けた1月半ばには北条が押し寄せてくるが
そこからは別の話。
0342人間七七四年
2007/05/18(金) 15:39:38ID:vjFrxbWcということは、陽動作戦ってのは、無理があるってことですか?
って言うか、本来の目的は、北信濃の領国化で、あわよくば越後侵攻のように読めますね。
0343人間七七四年
2007/05/18(金) 15:47:47ID:xJJocLBA一応陽動の意味があってもついでに何らかの利益を求めるのはおかしくないと
思う。信玄にしてみれば諸勢力を使い、自らも侵攻して謙信に行動の余裕を
なくさせる。その間に北信濃を領国化し、謙信を拘束している間に駿河攻め
っていう感じじゃないかと思うが。そうでも考えないと甲斐にもどってから
間髪入れずに駿河攻めに取り掛かっているのがわからない。
結果も信玄の内応策が決まって望みどおり短期であっさり駿河を取れたし、
前々から計画してあったと考えていいと思うが。
0344人間七七四年
2007/05/18(金) 17:29:28ID:5cU3VW19例えるなら、武田か上杉かの後ろ盾がないと即日滅ぼされかねない小豪族が上手く立ち回って両者を倒したようなもの
何故か外交面でよく協力してくれた織田に対する一方的背信が上洛狙いの壮挙に摩り替わっている程度の信玄で本気で対抗馬になると?
0345人間七七四年
2007/05/18(金) 17:45:27ID:xJJocLBAとりもったりしてるよ。
0346自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 19:17:59ID:XJrJjdAmお山の大将同士の対決だな。
うんこ支持派が有利見たいだけど
0347人間七七四年
2007/05/18(金) 19:27:16ID:N8APueT4なんだ、やっぱ厨房かよww
0348人間七七四年
2007/05/18(金) 19:38:57ID:xJJocLBA知識があって面白いからなんだよなあ。
ただの低俗な煽りじゃあ相手にもされんよなあ。
0349自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 19:41:06ID:XJrJjdAmここで思い切り短期間でレスしておいて相手にしていること自体が
矛盾に気がついていない馬鹿だからです。
0351自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 20:01:27ID:XJrJjdAm「宗教的な盲目」のデフォルメされた皮肉を形を変えて素やっている人間がいるとは大爆笑だね。
メガトンは普通に頭が良いと思うし。
あいつらは擬似的にやっているからそのことに自覚があって、大丈夫なんだろうけど
こいつらはそうじゃない。心配だ。
0352人間七七四年
2007/05/18(金) 20:06:45ID:0pp++VOr釣り針はもう少し隠そうなw
0353自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 20:15:45ID:XJrJjdAmそういう人間を思い切り妨害するようなことを「あのスレではプロレスだからありなのだ」と言い切っちゃったからなあ。
馬鹿なんだろうか。
0354人間七七四年
2007/05/18(金) 20:22:43ID:0pp++VOr入念なのも当然
永禄五年の時点で、既に信玄は遠江の有力者・山田氏に内応の誘いをかけている
これが信玄の対今川工作の初見だったはず
普通に二つの戦略を同時並行してたんじゃないの?で、進捗しないほうを早々に諦めたと
0355人間七七四年
2007/05/18(金) 20:22:54ID:xJJocLBAメガトンや仙台藩百姓の思わず食いつきたくなる煽りの
なんと洗練されている事か。
0356自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 20:24:31ID:XJrJjdAm大内のお世話になったのにも関わらず大内を滅ぼしたり
凄惨なお家乗っ取りをしたりするという、人間とは思えない行動をとりました。
「結果」だけを見て、毛利元就がやったことを正当化するならば、
日本人は第二次のアメリカの原爆やスターリンのことを非難できないんじゃないでしょうか?
武田信玄が息子を殺したというのは大嘘で彼は病死しただけです。切腹も自殺のようなものなので止められません。
親も「追放」にとどめました。追放は殺害とは違うので問題ないと思います。
今川攻めも今川から「」が届きました。同盟を最初に破ったのは今川からです。
最初に武田は提案を出してます。蹴ったのは今川のほうです。
今川家臣だって生き残りました。武田信玄は殺してはいません。
逆に毛利はぶち殺しました。
武田の「倫理」を追求するなら、毛利の凄惨な行為についてはどう説明するんでしょうか。
0357人間七七四年
2007/05/18(金) 20:28:39ID:xJJocLBA進捗しないほうを諦めた、か。戦略の同時並行っていうのは興味深いけど
それにしてはどうも越後侵攻がねえ。なんか北信濃の領国化と謙信の拘束が
主になっているように思えるんだよなあ。本気で越後侵攻する気だったのだろうか?
その場合駿河攻めの準備はどうする気だったんだろうか。
0358自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 20:31:02ID:XJrJjdAm>それにしてはどうも越後侵攻がねえ。なんか北信濃の領国化と謙信の拘束が
>主になっているように思えるんだよなあ。本気で越後侵攻する気だったのだろうか?
>その場合駿河攻めの準備はどうする気だったんだろうか。
思えるだけでしょ。思いたいだけでしょ。何で思えるのか書けよ。馬鹿なりに。
0359人間七七四年
2007/05/18(金) 20:32:50ID:0pp++VOr見落としていることがあると思う
信玄の敵側にも攻撃の選択肢がある、ということ
相手への工作は何も攻撃だけじゃなく、防御を考えた場合にも有用
攻めないことになったからって無駄になるわけじゃない
後、積極的に上野方面に兵を出してくる上杉勢と、消極的な今川勢。同じ労力で撃破できるのなら当然上杉を倒そうとしたほうが得
無理だから次善の策に出た、としても別に不自然とは思えない
ってかそういう柔軟性無しで南北二正面作戦とろうとしたら、そのほうが不思議
0360自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 21:07:54ID:XJrJjdAm馬鹿じゃねーのか信玄は。敵作りすぎただけだろ。後の武田包囲網につながるだけの。
0361人間七七四年
2007/05/18(金) 21:24:52ID:xJJocLBAしかしなんだかんだいって上杉の守りは堅い。堅実に倒せる相手を狙っていく
信玄の戦略からすると上杉を主攻にするだろうか。
上杉への攻撃は、あなたの言葉を借りるなら工作は防御的にも作用するわけで
駿河攻めの為に必要な時間を稼ぐのには必要だったのでは?
信玄は北信濃において長沼に滞在していた3ヶ月の間にほぼ完全な北信の領国化をすすめている。
これから攻め入ろうとする侵攻作戦にしては悠長に感じる。まあこの領国化はとても
武田にとって大切な意味を持っていたのだが。
0362自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 21:43:16ID:XJrJjdAm無いと思いたいけど。
0363人間七七四年
2007/05/18(金) 21:43:54ID:zJfiEhSsそれを言ってるオマエID:XJrJjdAmがメガトンなんだがw
自演するなら口癖の「大爆笑」「煽り荒らし」は使わんようにせんとなwwww
0364人間七七四年
2007/05/18(金) 21:48:20ID:zJfiEhSs0365自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 21:49:41ID:XJrJjdAm>ちょっとまてここが一番重要なところだぞ。なんでこの一番肝心な所で
>答えずにこちらに回答を突きつけるんだ?
君が、三戦板復興計画を「煽りだと判断しても仕方が無い」というのは
「そこまでの判断で正当性のある理由や根拠がなければ」
いけないことでしょ。
でも君はそれを提示していないんだから意味がないよな。
>まずそっちが答えてもらえるか?俺が三戦の煽りかもといったのと
なんで?君は、
>メガトン氏が君の計画とやらに結びつくかは別問題だろう?
>なんでいきなり話をそらすんだ?そっちが答えたらこちらも答えるよ。
話をそらしているのはお前だ。指し示してくれよ。
煽りだと判断されても仕方が無い根拠さ。
>そもそも最初にメガトンで三戦復興計画といいだしたのは君だろう。
それを煽りだと根拠も無く判断したのは君だろう。
>君がその三戦復興計画にどうメガトンが結びつくのか説明できてそれがよこしま
>でないならなんの問題もないだろう。
問題としているのはお前だ。
つまり「邪」だとの判断は君の被害妄想に過ぎないわけだ。現状では。
こ
君のは、警官が「無罪」であることを証明しろと言っているようなものだ。
有罪だったらば、なぜ有罪なのかを説明してくれないと。
0366自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 21:51:18ID:XJrJjdAm0367自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 21:53:05ID:XJrJjdAm0368人間七七四年
2007/05/18(金) 22:00:15ID:xJJocLBA自治スレを見てみたがどうやらID:XJrJjdAmは厨房の三戦信者のようだ。
これと同じにしてはさすがにメガトンがかわいそうだと思う。
0370自治スレで認められた行為です
2007/05/18(金) 22:07:59ID:XJrJjdAmものごとを捏造するような人間が、このスレで比較検討だぜ?
プロレスとか言ってたのによ。頭悪すぎだろ。メガトンの気持ちがわかってきたよ。ザ時代の。
これじゃ正しさを追求しても意味がないな。だったらばそれを皮肉った別の手法に変えるだけで。
釣りには違いないだろうけど。
0371人間七七四年
2007/05/18(金) 22:14:01ID:xJJocLBA隆元がどんな事していたのか知ってる人っているかな?
0372人間七七四年
2007/05/18(金) 22:41:22ID:xJJocLBA助かります。
0373人間七七四年
2007/05/18(金) 23:48:05ID:I1RS5VSG0375人間七七四年
2007/05/19(土) 02:18:39ID:8Eq/JQBQさすがに上にいる厨房と一緒にしたらメガトンがカワイソウ。
自治スレッド見たけど正真正銘の荒らしの厨房だ、これは。
0376人間七七四年
2007/05/19(土) 03:41:20ID:oQtotnVsおれも信玄とエルトンのおかげでホモを隠さずに生活できるようになった。
あとTDN氏のおかげ。
信玄のラブレターもすごくいい。
主君と家臣という間を越えた熱いものをかんじる。
0377人間七七四年
2007/05/19(土) 07:35:40ID:5RS4nY77>>375
メガトンの厨房っぷりは異常だから別に可哀相でもなんでもない
0378人間七七四年
2007/05/19(土) 11:14:20ID:JKaKlTbD逆に言えば、この分野なら、元就は信玄の足下にも及ばないってところをいくつか挙げないと駄目かな…?
0379人間七七四年
2007/05/19(土) 11:27:45ID:j7s8uIzRなぜなら初期が小さいほうに有利な結果がでるから。
で、信玄が優れてるのは内政。これは圧倒的な差。
0380人間七七四年
2007/05/19(土) 11:44:00ID:pO8cFMh0元就の圧勝
0381人間七七四年
2007/05/19(土) 12:08:12ID:8Eq/JQBQあの太った肖像画ってそんなにいいか?
俺は実像と思われる30歳くらいの痩せ型の信玄を描いた肖像画のほうが
好きだな。
>>380
元就だって大勢力になって強豪の大友とかと戦っている時は勝ててないのだから
小勢力の時と大勢力の時っていうのは求められる戦い方が違うんじゃないか?
信玄はちゃんと強豪の北条と上杉から領土を獲得してるじゃないか。
0383人間七七四年
2007/05/19(土) 12:37:46ID:K0kPQRwt>>メガトンの厨房っぷりは異常だから別に可哀相でもなんでもない
お前さんの理屈だと、
懲役食らったけど冤罪だった、しかしそいつは前科者だから可哀想じゃない
ということと同じになるよな?
それはいくらなんでもww
0385人間七七四年
2007/05/19(土) 13:11:07ID:Jw1wK9ap不遇な一国人のしかも傍流という立場から、中国の覇者に伸し上がった英雄だよ?
一代でこれだけ成り上がった武将は、秀吉を別格とすれば他にちょっといないんじゃない?
比較として成り立たない。
0386人間七七四年
2007/05/19(土) 13:43:23ID:RMFEM7Ok大内・尼子は領土はでかいが、将はカスばっかだからな。
治政もほめられたものではない。
「当家をよかれと思う者は、他国は言うに及ばず、当国内にだって一人もいない。」
と、元就自身も心情を吐露している。
まあ、己を知っているという点では慧眼か。
0387人間七七四年
2007/05/19(土) 13:46:32ID:XDO8U/0c安芸武田・陶・尼子・大内・大友・吉川・小早川・・・etc
ほとんどの勢力が全盛期じゃねーかw
0388人間七七四年
2007/05/19(土) 13:57:45ID:PKWH5Uu+内政に関してもそんなに差があるかね
両者の生まれ立場の違いを考慮すれば共に最善を尽くしたと思うが
そういったものを考慮せず絶対的に評価するのであれば信長や秀吉北条に比べれば
両者ともってことになるし
拡大率でも元就が20万石ほどから15年ほどで100万石強
信玄は20万石ほどから30年で100万石強
同程度の時期からの比較でも元就の方が上
>>381
大勢力になってからも尼子滅ぼしている
大友に関しても豊前を奪ったりしているし、上杉や北条から領土奪ったと言っても
北信濃も駿河も上杉や北条の本領ではなく保護国みたいな地域だし
そもそも元就は大内を滅ぼす時に九州の国衆を誘って大友を足止めして介入させず
また後年大内輝弘の蜂起もそく潰しているが、
信玄は駿河を取るさいに北条に介入されて数年争うことになっているから、
北条から駿河奪った以前の段階で元就の方が上と言うことになるんじゃ
まあ豊前筑前は大友領となったので
大友としてもその時点ではそれで十分だったかもしれないが
0389人間七七四年
2007/05/19(土) 14:07:45ID:RMFEM7Ok全盛期なのに毛利を滅ぼせないのだから、大した将がいなかったのだろう。
大内義興や尼子経久を打ち破ったわけでもなし。
大内義長や尼子義久の代になってようやく戦えるレベルになったわけだ。
まあ、国力の点でしょうがないとこもあるが。
0390自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 14:31:38ID:aP83lk+aなんなんだろう。これを崇拝している馬鹿どもは。
0391自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 14:38:24ID:aP83lk+a政治的と褒め称えるんだもんな。
0392人間七七四年
2007/05/19(土) 14:44:44ID:dEVXx5PQ全盛期で倒せなかったのが何故大した将が居なかったになるんだよw
ゲーム脳は大人しく信長の野望でもやってろ。
0393自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 14:45:04ID:aP83lk+aとは、当時の評価です。
ようするにアメリカが原爆を落としたのを当時の人間が非難したのと同じレベルです。
「モラル」から逸脱した行為をして得た実績に対する非難です。
しかし数百年たってしまうと「原爆って30万人を殺した兵器で戦争を決めたのは評価するべき」
となってしまうのです。なんておっかないんでしょうか。
0394人間七七四年
2007/05/19(土) 14:52:31ID:RMFEM7Okはいはい、そう来ると思ったよ。
で、大した将の名前でも挙げてみてくれよ?
信玄が相手したレベルの奴でな。
0395自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 14:56:53ID:aP83lk+a北条氏康 名将
今川氏真 名政治家
上杉謙信 後に信長を敗走させ、北条を圧倒
徳川家康 天下を取った
織田信長 天才
毛利元就
安芸武田 大内の序力を得た
陶晴賢 馬鹿
尼子義久 当時20代
大友 敗北
0396人間七七四年
2007/05/19(土) 14:57:13ID:8Eq/JQBQそんな絶対的に評価するなら全ての比較が無意味になってしまう。
領土拡大率だって元就は信長や宇喜多直家に及ばなくなってしまう。
大友については毛利ともともと利害の打算で結びついていたし、
実際に毛利と大友の戦いにおいても毛利はたびたび違約を重ねて多くの勢力を
煽って数年戦ったが結局大友にうまく対処されてたたきだされてしまった。
大内輝弘は大友がそそのかしたものじゃなかったっけ。
大友にしても毛利を引かせるための捨石覚悟だろう。
信玄はその分包囲網しかれながらもうまく対処して駿河を手にいれているので
悪くはないと思うが。何気に駿河をめぐる攻防戦も熾烈だし。
0397自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:02:35ID:aP83lk+aどういう打算なんだ?この板は、ただの嘘ばかり書いてある解説本を見て
語っているだけのやつが多くて困る。
>実際に毛利と大友の戦いにおいても毛利はたびたび違約を重ねて多くの勢力を
>煽って数年戦ったが結局大友にうまく対処されてたたきだされてしまった。
あほなのか。
毛利元就は、北九州の領土を切り取り、手放しませんでした。
大友は将軍様に泣きつくのが精一杯でした。
博多を守ってれば勝ちのレベルだったらば低すぎて困る。
>大内輝弘は大友がそそのかしたものじゃなかったっけ。
>大友にしても毛利を引かせるための捨石覚悟だろう。
意味不明だ。毛利も大友も捨石を煽っているのに、
なんで大友だけ評価して、毛利を評価しないんだ?
それならば毛利だって大内潰してるだろばーか。
>信玄はその分包囲網しかれながらもうまく対処して駿河を手にいれているので
>悪くはないと思うが。何気に駿河をめぐる攻防戦も熾烈だし。
それならば、毛利も包囲網しかれて尼子に勝ってるだろ。
比較対象がなんで、大友と北条なんだよばか。
0398人間七七四年
2007/05/19(土) 15:15:11ID:8Eq/JQBQあと内政に関していうのなら
毛利は57くらいになるまで国内整備に力を注げたともいえるわけで。
信玄は若くして国主となり、侵略と国内整備を平行して行っていた
わけでもあると思う。
0399人間七七四年
2007/05/19(土) 15:15:39ID:dEVXx5PQ信玄レベルってのがあれだけど、相手したってんなら。
陶晴賢、大友宗鱗、尼子晴久、立花道雪、武田元繁、山中鹿之助等々。
0401自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:19:19ID:aP83lk+aこれは評価できる。
がただの裏切り。
>大友宗鱗
敗北。
しかもこいつ島津や竜造寺に負けてたごみ
>尼子晴久
勝ってない
>立花道雪
大名じゃない
>武田元繁
単独で勝ったわけじゃない
>山中鹿之助
ただの残党
0403自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:28:44ID:aP83lk+a氏康は戦場で信玄に暗殺されたのを、「病死」にしただけだろ?
謙信は信玄を攻めることは無かったので、防戦一方でかわいそうだからやめてあげただけ。
0404自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:36:42ID:aP83lk+a武田に暗殺されただけに違いない。
武田信玄は暗殺で北条氏康を倒して親武田政権を氏政に立てさせ駿河を割譲させ援軍を出させた。
0405自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:40:02ID:aP83lk+a花押しも武田家のようなものを使っていた。
武田勝頼との婚姻を行っている。
武田信玄の死も北条では信じていなかった。
0406自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:41:46ID:aP83lk+aこれはどう考えても武田信玄の工作により暗殺されたに違いない。
0407自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:48:23ID:aP83lk+a・北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で2年も生きられるかというとそうではないだろう。
・北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れた人間がどうやって戦うのか?
・もし上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
・なぜか武田と講和、城も明け渡しているし援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
・氏康が暗殺されたなら、暗殺後の消極性もぴったり来る。
・武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
・氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
・ちなみに武田の嫁である。なぜ離婚なのか?人質として取ってあるなら利用できるはずである。
・武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である。何故だか圧力すらかけない。
0408自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 15:53:32ID:aP83lk+aなので信玄は氏康を倒している。
0410人間七七四年
2007/05/19(土) 15:57:05ID:cfTUnG/Y当主が馬鹿・未熟の場合に一気に攻め滅ぼす。
武田信玄の戦略→強くても色々策を練って戦う。緒戦でも勝利を収める。が、滅亡させた大名は今川(最後に手を下したのは徳川)と長野、諏訪レベル。
ってことだろ?
0411人間七七四年
2007/05/19(土) 16:01:30ID:8Eq/JQBQ強くて被害が出そうなら引き分けに持ち込む。
策を練って戦略的に目的の領土を獲得する。って感じじゃない?
0412人間七七四年
2007/05/19(土) 16:01:40ID:dEVXx5PQあくまで相手して領土広げたなら元就も晴久相手に広げられたから同じ。
ところで専ブラって凄く便利そうだね、携帯でau対応があればどれだけ嬉しいか、、、、
0413自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 16:04:00ID:aP83lk+aなんでここまでアホなんだ。
反論できないからってスルーをしなくていいよ。自治スレでも認められ誰もかかってこない状況。
信玄は氏真との戦いではこういう気分だったんだろうな。
0414人間七七四年
2007/05/19(土) 16:09:50ID:8Eq/JQBQ専ブラって金かかるんだっけ?
まあ、明らかに滅ぼせる相手なら戦略を練って滅ぼすが
ある程度大勢力になると対立する大勢力からいかにうまく領土を獲得できるかの
手腕が重要になりそうだね。同等で戦って大勢力を滅ぼすのは至難だ。
当主が有能で経験豊富ならなおさら。
0415自治スレで認められた行為です
2007/05/19(土) 16:13:19ID:aP83lk+aとかいいつつ、それを行ったらいきなり議論をしだして「排除」しようとしているダブルスタンダートで俺中心に世界が回っているだけの判断基準すら明確で無いアホどもです。
ようは俺信者なだけです。
0417人間七七四年
2007/05/19(土) 18:00:13ID:8Eq/JQBQ0418人間七七四年
2007/05/19(土) 18:43:10ID:k8VIz6ZE具体的に支配下の城若しくは領主の名前も
0421人間七七四年
2007/05/19(土) 19:16:31ID:8Eq/JQBQそれで>>96にあるサイトや本でも長野氏は兵力約1万、侍621とされているし、
誇張はあってもそれなりの勢力だったでしょ。
関東幕注文では23名もの武将を従えているし。
0422人間七七四年
2007/05/19(土) 19:25:44ID:JKaKlTbD武田が信濃に侵攻した時の、諏訪や小笠原も、実際そんなもんだろ?
0423人間七七四年
2007/05/19(土) 21:25:25ID:i/ePkkPD>進捗しないほうを諦めた、か。戦略の同時並行っていうのは興味深いけど
それにしてはどうも越後侵攻がねえ。なんか北信濃の領国化と謙信の拘束が
主になっているように思えるんだよなあ。本気で越後侵攻する気だったのだろうか?
その場合駿河攻めの準備はどうする気だったんだろうか。
今川の衰退を察知したから、越後をあきらめて駿河攻略したんだろうが。
北と南両方を一度に相手するわけないだろ、基本的な幼稚園児でも分かる
ような事を知りもしないでよく武田を安易に批判できるよなあ
0424人間七七四年
2007/05/19(土) 21:28:21ID:i/ePkkPDばかりで一度も元就の外交戦略について教えてもらってないんだが。
それから山国の武田と海に面した毛利とでは内政の困難さが違うのは幼稚園児
でも分かることだからね。
0425人間七七四年
2007/05/19(土) 21:30:32ID:5RS4nY77小早川と吉川を取り込んだことは数ある外交戦略の中でもトップクラスだと思うんだが
後は尼子を見限って大内についたとか 全て相手が用意してくれた信玄の外交戦略(笑)とは大違い
0426人間七七四年
2007/05/19(土) 21:36:38ID:i/ePkkPDあまりにも信玄の外交戦略と比較すればボリュームが無さ過ぎるね。
尼子を見限って大内についたって何それ?wwwwそれが評価する
ような事なの?尼子より大内の方が力が強くて経久が危険だから乗り換えた
ってだけの話でしょ?
自らの包囲網の中、長年の強い隣国である北条と今川を一度に撃退し、今度は
逆に信長に対して包囲するような戦略を打ち立てる信玄の方が遥かに大略的だね。
0427人間七七四年
2007/05/19(土) 21:39:39ID:i/ePkkPD影響せず
信玄の外交戦略・・・・・・・・甲信越 関東 東海 畿内と大略的
0428人間七七四年
2007/05/19(土) 21:40:48ID:d+ZpOsSv0429人間七七四年
2007/05/19(土) 21:41:05ID:k8VIz6ZEということは唯一の具体的な地域としては
>箕輪衆は業政の箕輪城を中心に、その北方に八木原・長塩・漆原氏が、東方には須賀谷、南方には浜川・下田・和田・倉賀野氏が、碓氷谷・甘楽谷にかけては依田・高田・内山氏が・西方には大戸・羽尾氏らが割拠して、長野業政を旗頭とする一揆を構成していたのである。
の領域って事だな?
上洛のほうは吾妻郡、群馬郡の半分、録野、片岡郡を加えて 二十一万だろ?
だからこれだけじゃ二十には満たないといってるんだが
>>422
揚北衆なんか大々的な勢力だが、大名足り得ない
各国人間で同列的な関係結んで長尾氏やらに対抗してきた勢力
国人と大名は違うぞ
0430人間七七四年
2007/05/19(土) 21:45:50ID:d+ZpOsSv0431人間七七四年
2007/05/19(土) 21:48:37ID:5RS4nY77元就の外交戦略・・大内と尼子という大国の間を行ったりきたり、その上吉川小早川を取り込んだ 大内の旧領を取ったあたりで大ポカをやらかした
MAXを100とすると元就が90、信玄は-(マイナス)30
いくら信玄厨の脳内元就でも元就の外交戦略が0以下になることは絶対に無いから元就の完全勝利
0432人間七七四年
2007/05/19(土) 21:50:22ID:i/ePkkPD大きく毛利を衰退させた原因の一つではなくて主原因でしょ?
敵と戦ったわけでもなく勢力を大幅に削られるなんて世界史上まれ
に見る大馬鹿大名だな元就は。
0434人間七七四年
2007/05/19(土) 21:57:10ID:i/ePkkPD同 盟 破 棄 出 来 な い に 決 ま っ て る だろばーーーか
「信玄殿同盟を組んで下され」と頭下げに来てるんだから、信玄が状況によって
破棄しても相手にとっては文句は言えないことだ。
それと破棄するってことはそれなりに戦略上破棄する必要があるってのが元就
には理解出来ないだろうね、何せレベルの低い中国地方は混沌としてないから。
0435人間七七四年
2007/05/19(土) 21:59:44ID:u1oO3FLLこのスレはメガ豚隔離スレとして機能してんのな
0436人間七七四年
2007/05/19(土) 22:01:12ID:N18Z4UN2毛利が初期に海に面してた?地図見た方がいいんじゃない。
0437人間七七四年
2007/05/19(土) 22:01:34ID:i/ePkkPD毛利両川の言い訳はどうするの?
元就って寡兵で戦うの得意みたいだけど、大軍ではどれだけの戦火をあげてるの?
毛利の軍略ってどれだけ凄いの?
海に面して恵まれた安芸の国の内政はどんなのがあるの?
0438人間七七四年
2007/05/19(土) 22:15:51ID:5RS4nY77元就を信玄
毛利を武田に置き換えてみる
何も無いwwwwwwwww
0に勝つにはマイナスしかないが元就は内政面ではさしたる失敗などしていない
戦争では元就は最高峰だからな
0439人間七七四年
2007/05/19(土) 22:22:08ID:i/ePkkPD流石幼稚園児は結局そんな単調なレスしか出来ないんだねえ。
ほらほら言い訳してみろよ、両川だよww大軍だよww
中国地方限定の戦略だよww
0440人間七七四年
2007/05/19(土) 22:27:06ID:i/ePkkPD上杉謙信 北条氏康 今川義元 村上義清 長野業正・・・・これ全て信玄と
同年代の強豪であるか一世代上の強豪
大内義隆 尼子春久 陶春方・・・・・一体どこが信玄の敵との対抗馬になるの?
親の七光りから始まってろくに勢力拡大した試しがあるのこいつら?
0441人間七七四年
2007/05/19(土) 23:17:22ID:i/ePkkPD全く自らがマンセーしてる元就の基本的なことまで何も言えないなんてね
0442人間七七四年
2007/05/19(土) 23:42:23ID:j7s8uIzR上杉厨か北条厨あたりを味方につけたか?
0443人間七七四年
2007/05/19(土) 23:56:05ID:6i7gg8zs同年代の強豪であるか一世代上の強豪
はい。どこからどう見ても各々周辺止まりの関東甲信越の田舎大名集団ですが何か?
己が軍勢をもって京都に上洛出来た大名家は誰一人としていませんね。
0444人間七七四年
2007/05/20(日) 00:06:14ID:x35X9uwW0445奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/20(日) 00:07:15ID:DEFy4LeS0446人間七七四年
2007/05/20(日) 00:07:32ID:x35X9uwW0447人間七七四年
2007/05/20(日) 00:10:06ID:bbRKh+N00448人間七七四年
2007/05/20(日) 00:11:38ID:4I59lRyy>上杉 村上 長野
↑こいつらなんかしたっけ?明らかに大内や尼子より格下だが。
信玄を苦しめたから強いことにしたいのかw?
だいたい兵力差が違う、元就は圧倒的国力差を鬼謀を駆使して乗り越えた。
信玄は兵力数倍でも>上杉 村上 長野 に負けまくっている。
0449人間七七四年
2007/05/20(日) 00:16:27ID:x35X9uwWまくっているというほどには負けてないんだがなあ。
長野業正との戦いはよくわからないし。
上杉は普通に英雄でしょ。越後一国ももっていなかった状態から百万石を
超える領国を作り上げた。
0450人間七七四年
2007/05/20(日) 00:18:09ID:I8YRkLzi0453人間七七四年
2007/05/20(日) 00:30:43ID:bbRKh+N0必死だなw
結局ね、尼子大内の実力が疑わしいわけよw
武田の場合、謙信織田徳川の実力がはっきり分かるわけね
しかも比較にならんほど尼子大内はヘボ
0454奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/20(日) 00:33:36ID:DEFy4LeS0455人間七七四年
2007/05/20(日) 00:50:14ID:bbRKh+N0で毛利が基準になるわけね
元就と比較するなら伊達政宗あたり妥当でしょ
弱小でがんばった対決なら
真田昌幸>元就
0456奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/20(日) 00:53:11ID:DEFy4LeS0457人間七七四年
2007/05/20(日) 01:00:33ID:N1DCNeESあの当時の中国地方は、それ以前に統一されたことがある地域だった、ということ。
まず、大内義興が治め、次に尼子経久が治めた。
例えるなら、天下統一を果たした秀吉が死んだ後の関が原の状況に似ていて、
どうして関が原のあと戦乱が起きなかったか、どうして家康が簡単にその支配を広げることができたか、
というと、諸侯は一度秀吉に屈服していたから。
つまり統治機構として「さて次は誰を頼もう」という空気ができあがっていたわけだ。
屈服したことのある相手を屈服させるのと、
屈服させたことの無い相手を屈服させるのとでは後者の方が断然労力がいるわけで、
その点だけ元就は得してる。
0458人間七七四年
2007/05/20(日) 01:00:54ID:51Poi6Azノブヤボ準拠な気がするなあ。
0459奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/20(日) 01:02:43ID:DEFy4LeS0461尼子晴久 派
2007/05/20(日) 01:48:57ID:rWaBrNap毛利の内政に関する話だが、毛利元就は商人や浪人から優秀な奴を直臣を取り立てて、
領国内の経済中心地(下関・広島湾岸・石見銀山・出雲大社門前町etc)に配置していた模様
毛利派の諸君は感情が前に出過ぎているので、 [sage ]氏に圧倒されるのです
論理と知略を駆使して、強敵を迎撃なされよ
0462奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/20(日) 01:52:07ID:DEFy4LeS0463人間七七四年
2007/05/20(日) 02:01:09ID:ly9c853i0464尼子晴久 派
2007/05/20(日) 02:03:45ID:rWaBrNap試合としてみると面白さが…
もう少し良い試合になると思うんですよ。
いや、毛利・武田双方の知識が皆無な、
観客のオレが言うのもなんですけどね…
0465尼子晴久 派
2007/05/20(日) 02:10:09ID:rWaBrNapいや、端から見てると気○がいとは思えんけどなぁ…
例え相手が気○がいだとしても、論理的に撃破することは可能だし。
キチンと紳士的に対応した方が、毛利スキーの名声も高まろうもの
0466人間七七四年
2007/05/20(日) 02:11:43ID:x35X9uwW一応大久保長安ももとは他国の猿楽士の流れだといわれているな。
父親が猿楽士として武田に召抱えられ、長安は能力を見込まれて
武士として取り立てられたといわれている。
よく既出だと思うけど、春日虎綱も元は武士ではない。
真田幸隆も領地を持たなかった状態から信玄に拾われた。(まあ真田がそんな境遇に
なったのは信虎などが原因だが。)
信玄も商人・職人の保護育成はやっているし、特産品奨励にも熱心だったみたいだね。
0467人間七七四年
2007/05/20(日) 02:14:33ID:x35X9uwW[sage ]氏っていうのはひょっとして俺のことかな?
なんかメール欄が変なんだよなあ、俺のは。
間違えていたらスマソ。
0468人間七七四年
2007/05/20(日) 02:24:31ID:ly9c853iそっちじゃなくて豚のことだよ。
>>467
あんた今のいままで気づかなかったの?
てっきりわざとそうしてるかと、、、、
にゃんこ(笑)が居た時からずっとそれだよ。
0469人間七七四年
2007/05/20(日) 02:26:24ID:x35X9uwWそうだったのかーΣ(゚д゚lll)
わざとのつもりは全然なかった。
というか直し方がわからない・・・。
0470人間七七四年
2007/05/20(日) 02:34:03ID:x35X9uwW0471人間七七四年
2007/05/20(日) 02:34:54ID:x35X9uwW良かったー。
0473人間七七四年
2007/05/20(日) 02:41:20ID:ly9c853iあと違うスレかも知れんが、前スレもあんたが建てだろ。
sageが空いてたし。
0474人間七七四年
2007/05/20(日) 02:41:48ID:x35X9uwWみんな知っとったのか。ハズカシス
0477人間七七四年
2007/05/20(日) 02:44:34ID:x35X9uwW0480人間七七四年
2007/05/20(日) 02:51:15ID:ly9c853iもう今更名無しにしても特定されるだろ、>>476みたいなのも居るし、武田騎馬軍団みたいなコテ付ければ。
まぁ無理してとは言わんが。
0481人間七七四年
2007/05/20(日) 02:56:18ID:x35X9uwWまあ、コテはよく叩かれるしなあ。
今までもコテとして目立つ気持ちはさらさらなくてやってきたからなあ。
まあ、しばらく普通の名無しにもどって考えてみるよ。
0482人間七七四年
2007/05/20(日) 03:05:35ID:ly9c853i織田スレで結構叩かれてると思ったんだが。
まぁ少しの間自分のレス辿ればいいと思うよ、どう言い訳しても武田好きである事が一発でバレるから。
0483人間七七四年
2007/05/20(日) 03:13:00ID:x35X9uwWまあ、出会い頭に叩かれた覚えはとりあえず無い。
話が進んだ過程で叩かれたことはあるけどさ。
まあ、戦国最強スレで単純にいえば元就が226戦ほぼ不敗でスレが終わってしまうと
言った時に「本当に元就好きなんだなw」と特定されたのはびっくりしたが
それは文体や主張で特定されたのかなー、と思っていた。
武田は好きだよ。無名の武田ファンと思われることは別に不快ではない。
0484人間七七四年
2007/05/20(日) 03:33:01ID:ly9c853iそれか百姓、メガ豚みたいな面白ろコテw
それと中途半端な知ったかは自滅の元、にゃんこみたいに逃げるのは最悪のパターン。
ただちと武田贔屓になってる所があるからそこを直せば良コテになれるかも、まぁ本当にもしもの話w
0485人間七七四年
2007/05/20(日) 03:43:20ID:x35X9uwWお気遣いありがとうw
もともと知識は普通の名無しのつもりでやっていたからなあ。
武田贔屓っていうのも武田が叩かれがちな戦国板での意見提起のつもりも
あったからなあ。まあ、武田は好きだどね。ファンなのは否定しないよ。
一応書き込む時はそれなりに調べたりするんだけどね。
調べをおろそかにして書き込んで逆襲くらった事も確かにあるね(バレとったのか・・・汗)
まあ、コテを名乗るかはこれから考えるよw知識もこれからもっとつけていきたいと思う。
あなたがどこかで俺を特定した時はまあ、お手柔らかにw
0486人間七七四年
2007/05/20(日) 03:57:07ID:ly9c853i0487人間七七四年
2007/05/20(日) 03:59:29ID:x35X9uwW0488人間七七四年
2007/05/20(日) 04:30:07ID:DntdzpB2叩き合いのこのスレで、イヤ、この板で、友情が芽生えるのを見れるとは、思いもしなかった。
両者の明日からの健闘を、心から祈る!
武田ファン頑張れ!!
毛利ファンも負けるな!!
0490尼子晴久 派
2007/05/20(日) 09:02:37ID:rWaBrNap>>466-488
( ゚д゚) …
_(__つ / ̄ ̄ ̄/_
\/ /
 ̄ ̄ ̄
( ゚д゚)
_(__つ / ̄ ̄ ̄/_
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 ̄ ̄ ̄
( ゚д゚ )
_(__つ / ̄ ̄ ̄/_
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0491人間七七四年
2007/05/20(日) 10:52:51ID:YcwAF/WI説明しなさいよー
>>443>>448はまさに信玄に対する嫉妬心塊の愚か者
大内と尼子の何が凄いか 一 度 も 説 明 で き て な い よ ね え
0492人間七七四年
2007/05/20(日) 10:59:38ID:YcwAF/WI元就厨のやってることといえば、信玄批判一点張りなのが笑えるwww
早く言ってみろよ元就って大軍をどれだけ指揮したことがあるの?
中国地方以外の大名と外交戦略展開したことあるの?内政にどんな
秀でたものがあるの?
毛 利 両 川 っ て 一 体 何 な の ? こ の 中 途
半 端 な 体 制 は wwwww
当主が3つも存在してるってアホですか?wwwww
0493人間七七四年
2007/05/20(日) 11:37:38ID:dzdnf2bcそんな私は政宗様のファンです
0494人間七七四年
2007/05/20(日) 15:28:27ID:DntdzpB2スルーって、知ってる?
バカバカしくて、相手にする気にもなれないんだよ。
外交戦略なんか、必要に応じて行うもの。
元就が、日本の中央部を支配した織田信長と直接対決していない以上、何で、そこまで、大規模な外交を展開する必要があるんだ。
内政にしてもそう。
中国10ヶ国を、馬鹿に治められるわけないだろ?
バクテリアの選択って言葉、知ってる?
理論歴史学って、知ってる?
0495人間七七四年
2007/05/20(日) 16:00:12ID:UCripCbwマジレスすると両川体制は積極的な政策ではなく、後付の政策。
後のお家騒動防止のためと、内紛の発生した有力国人取り込みのために、
吉川、小早川に次男三男を養子に送り込んだ。
ところがこれが肥大化し始めたころ、よりにもよって本家の長男が早死に。
三家のパワーバランスを保つため、三子教訓状を書くなど両川体制を作るしかなかった。
実際、後に吉川家の方が先に当主が死んだ後、バランスは完全に崩れることになる。
その結果が吉川・小早川・安国寺・毛利本家の関が原のグダグダに繋がるわけだ。
正直あと10年、毛利隆元が生きていたら歴史は大分変わったと思う。たらればだけど。
0496人間七七四年
2007/05/20(日) 17:21:16ID:UvUCQ62y(城下町形成と家臣強制移住等。この付随効果で信玄のほうが信虎より戦争して重税かけてるのに後世そのことはすっぱりスルーされている。当時の人は流石に「信玄は信虎と変わらない(妙法寺記)とか愚痴ってるけど」)
それでも独立性の強い連中(一門衆も)の統制には四苦八苦しているぐらいだからな
成り上がりの元就なんて、それこそ脳味噌湧くぐらいの悩みだったんだろう
0497人間七七四年
2007/05/20(日) 18:02:58ID:I+dqxqSk信玄の内政に関する多くの功績とされているもの(例えば竜王堤)とかが実は史料的裏付けが無い、ということでショックだった
棒道も、古代からあるものの真似に過ぎないそうだし
虚像って凄いね
0498人間七七四年
2007/05/20(日) 18:08:01ID:x35X9uwW税を免除するという信玄の書状があったはずだが。
0499人間七七四年
2007/05/20(日) 18:09:57ID:I+dqxqSkだからそれは建設した治水したって証拠じゃなくて、やったことの追認に過ぎないんだと
で、ある時期からはその追認する史料すらぱったり絶えている
0502人間七七四年
2007/05/20(日) 18:24:01ID:YcwAF/WIハア?何それ、凄い醜い言い訳するねえ、必要に応じて外交戦略
を続けた信玄を散々批判してたのは何なの?
元就程度の小物を中国限定大名と認めるんなら最初から信玄と比較
するのは止めなさいね。
大国を馬鹿に治められないのは誰でも一緒、それより散々信玄の統治
を批判してきたんだから当然元就はそれ以上なんだろ?説明まだなの?
>>497
限られたルート(行軍する為の)しかない山岳地帯を攻略しようとすれば棒道
を新たに切り開く必要があるのは当然のこと、甲斐〜信濃を平定した信玄が特に
これをフル活用したからこそ後世まで伝えられてるんだろう。
そもそも信玄の内政が虚像であれば、甲斐や信濃を治めることは逆に不可能だった
だろうね、災害と飢饉続きであれば、どうやって富国強兵を実行し続けていったって
言うのかな?
0503人間七七四年
2007/05/20(日) 18:24:21ID:x35X9uwWそりゃ一通り造ったらそれ以上造る必要はないのだから
書状を出す必要もないんじゃないか?
というか、笹本氏のってあの伝説的英雄像からの脱却っていうやつ?
前に読んだ覚えがあるが、それでの結論は信玄は国全体で洪水に対処するシステムを
構築した、という感じじゃなかったかな。今手元にはないが。
築堤によって不利益をこうむる所もあったりするから調整も必要だし、
大規模な治水工事を行うにはそれなりの大きな権力が必要だろう。
平山優氏は信玄堤は現在の釜無川流路を確定したとまではいかないが
各地に小規模に細かく作られていったものだと書いていたな。
0504人間七七四年
2007/05/20(日) 18:58:41ID:x35X9uwW一応参考にした本では長野氏の勢力紹介という形で載っていたので
>>41と>>96にある領域のほかには俺もそれほど詳細を知っていない。
とりあえずそこらに載っていない領域としては国衙領桃井郷が長野氏の支配に
あったことと、沼田氏の領主顕泰が長野業正の娘を娶っている事、
長野氏の領国が鎌倉街道と東山道を掌握して経済力を有していた事くらい。
調べるのが厳しかったらもう調べられなくて結構です。
お手数をとらせて申し訳なかった。
0505人間七七四年
2007/05/20(日) 19:37:19ID:2HV/Wh0W0506人間七七四年
2007/05/20(日) 19:41:11ID:DntdzpB2お前、それでスネて、元就が必要性がなくて、やらなかったことを、できなかった、やれなかったって、喚いてたのか?
信玄の外交戦略が批判されたのは、信玄が必要だと考え、実行した外交戦略が失敗したからだろ?
0507人間七七四年
2007/05/20(日) 21:16:17ID:x35X9uwW0508人間七七四年
2007/05/20(日) 21:27:07ID:2/6bLpzT詳細しらずに20万石はあるって言ってたの?
なんというかまあ。
>>507
そりゃ結果的には北条と際同盟できたが、それは信玄の功績というよりも謙信が動かなかったのと、氏康の死亡が最大の理由。
0509人間七七四年
2007/05/20(日) 21:33:44ID:x35X9uwW竜王において堤を信玄が作り、それが江戸時代に延長されて現在の形になったらしい。
信玄は各地に堤防を作り、それによって釜無川流路の変更があり、
江戸時代にそれが延長されていって釜無川は盆地の西側に収束し現在の形になったそうだ。
なんだかんだいって後世の礎にはなったみたいだね。
0510人間七七四年
2007/05/20(日) 21:39:24ID:x35X9uwWもともと越相同盟自体がつい最近まで敵同士だったのがいきなり手を組んだものだし、
急に協力するのは難しいでしょ。条件だって折り合わなかったし。
小田原攻めのとき随分書状送っても動いてくれなかった謙信に
氏康がいつまでも頼り続けただろうか?生きていても適当な所で手打ちじゃないかな。
0511人間七七四年
2007/05/20(日) 21:51:38ID:2/6bLpzTだからそれは信玄個人の手腕によるものではなくて、北条の判断によるものでしょ?
なんら信玄個人の功績、成果として掲げられるものではない。
謙信の行動を逐一妨害して北条へ不信感を芽生えさせたというならべつだけど。
0512人間七七四年
2007/05/20(日) 22:13:43ID:x35X9uwW一応甲越和与を作って謙信との間に停戦状態も作っているじゃないか。
それに国力対等以上の北条から駿河を取っただけでも十分に功績として
いいだろう。小田原攻めで北条に上杉に対する不信を植え付ける事にも
成功しているし。そもそも成立段階で無理のあった越相同盟に過大な期待を
寄せるのもどうかと思う。
0513人間七七四年
2007/05/20(日) 22:19:42ID:kmFU0gCq>その一方で信玄は北信濃の寺社や諸士に
>所領安堵や替地を行い
これを理由に陽動とか越後攻めが本気で無かったとするなら
西上戦も陽動、本気じゃないになる。
個人的には本気ではなく可能なら実行、無理そうなら手堅くといった程度だと思うが。
>信玄の前々からの内応策
具体的にソースは?
武田が滅ぶ時とか木曽穴山の内応から侵攻までほとんど時間が無かった
ことを考えると、直前って可能性も高いんじゃないか?
入念な準備と言うのであれば1568年の越後攻めの方が入念な準備をしているし
北条氏が離反していることもあって越後攻めの絶好のチャンスでもあるし。
>>342
同感。
越後攻めにしても上手くいくようなら更に全力で攻めただろうと思う、
初期段階で躓いたため戦略方針を転換したのだと思う。
>>354
是非ソースをお願いします。
0514人間七七四年
2007/05/20(日) 22:33:32ID:kmFU0gCq家臣統制とかだと元就は最晩年でも信玄が継いだ段階に及ばないんじゃないか?
ようやく奉行制とか整えたけど、一揆状態のままで終わっていると思うが。
信虎と元就でも信虎の方が条件いいだろうから仕方が無いと思うが。
>>395
大友が敗北となるなら武田だって上杉北条に敗北になるんじゃないか?
陶晴賢だって見事クーデターをやってのけたのだからそう卑下するものでもないと思うが
>>398
スタート地点があまりに違いすぎる
内政に関して言うなら0から90ぐらいまで頑張った元就と
100から150ぐらいまで頑張った信玄じゃどっちが上とかは難しい。(数字は適当)
織田信秀とか武田信虎なんかと比べるならまだ比較もしやすそうだが
>>414
北条上杉から領土奪ったこと評価するなら他の人もいってるように
大友宗麟尼子晴久から領土奪ったことも評価しないとおかしい
0515人間七七四年
2007/05/20(日) 22:52:25ID:kmFU0gCq中国以外にも九州四国畿内と外交戦略を繰り広げているが・・・
>>437
尼子破ってるけど
対大友戦では元就は指揮していないけど
>>440
大内義隆も尼子晴久も陶晴賢も勢力拡大しているが
>>508
でも支配範囲と回りの姻戚関係含めれば20万石ぐらいあると思うが
その親戚達をどこまで範囲に加えていいかはよく分からないが
氏康の死は大きな理由だろうけど
信玄の方は織田徳川と同盟して背後は安全
それに対し北条は上杉は動かずで、里見佐竹足利の攻勢
信玄が本気である以上いずれ北条は諦めるしかなかったと思う
0516人間七七四年
2007/05/20(日) 23:14:21ID:2/6bLpzT甲越和与は駿河侵攻のためであって越相同盟への牽制のためじゃないでしょ?
当時の北条は東に敵を抱えて石高も武田と同程度で、武田の奇襲的な駿河侵攻なら取れて当たり前だが、緒戦において撤退してるでしょ。
小田原まで南下してたのは忘れてた。
そもそも北条上杉の同盟は無理があったのは認めるが、それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。
越相同盟破棄に関して言えば、そして北条との再同盟は信玄の積極的な行動によるものじゃない。
言ってみれば奥州の人取橋の戦いを伊達の完全勝利というようなもの。
>>515
なら代わりに詳細な長野の支配領域と、長野が彼らに軍役を課していたということを示してくれる?
0517人間七七四年
2007/05/20(日) 23:33:06ID:lP693P5yそれこそ3国同盟自体が・・・
0518人間七七四年
2007/05/20(日) 23:42:11ID:oC9Rp3lIとりあえず棒道に関しては信玄が新たに作ったっていう話は高白斎記、勝山記という
一級史料にもないよ。
ていうか棒道の話自体が全くない。
それより後世の史料にも棒道の記述はあっても信玄がつくったって話は全くない。
だから信玄の功績(?)にすることは出来ないと思う。
0519人間七七四年
2007/05/21(月) 00:00:30ID:0H7edPME街道整備なら信長達もやっててむしろ土木事業なら信長のほうが上だと思うのだが?
棒道と街道整備の違いとかあるの?
質問だらけでスマン
0520人間七七四年
2007/05/21(月) 00:02:07ID:sncru68L上野
甘楽 6.7万石 5.2万石
禄野 3.1万石 2.4万石
多古 1.3万石 1.0万石
片岡 0.4万石 0.3万石
碓氷 4.1万石 3.2万石
吾妻 2.6万石 2.0万石
利根 3.1万石 2.4万石
勢多 7.7万石 6.0万石
群馬 12.1万石 9.3万石
那波 2.6万石 2.0万石
佐位 2.1万石 1.6万石
山田 3.7万石 2.8万石
新田 6.7万石 5.2万石
邑楽 8.1万石 6.3万石端数
計 64.3万石 計49.6万石 0.77
0521人間七七四年
2007/05/21(月) 00:18:58ID:4y5WJHuX>棒道、街道整備
とりあえずこのスレは信玄、元就の比較検証スレだからこの両者に関してならありなんじゃない?
で、繰り返すけど信玄が棒道を作ったことは確認できないよ。
もし仮に作ったとすれば甲斐〜信濃の山の中に整備された道路作ったわけだから経済効果とか
兵の移動に役立ったとかの効果はあったろうから評価されてもいいと思う。
まあ棒道と信長の街道整備じゃ規模つーか完成度(?)が違うから後者に軍配あがるわけだが。
0522人間七七四年
2007/05/21(月) 00:21:55ID:sncru68L>>429などの支配範囲で考えるなら
群馬9.3・碓氷3.2・甘楽5.2・禄野2.4・多古1.0
で21.1万石
片岡0.3だけ抜けているというのも地理的に妙なのでこれも加算
まあひょっとしたら上杉領かもしれないけど
長野が吾妻を攻めたという話しもあるから西上野のうち吾妻2.0は除外
となるとやっぱ20万石近くになるんじゃないか?
>>517
武蔵や東上野の姻戚関係は講談でも長野に協力していないからそりゃ別だろうけど
0523人間七七四年
2007/05/21(月) 01:01:09ID:dRsMZtrn>>甲越和与は駿河侵攻のためであって越相同盟への牽制のためじゃないでしょ?
武田の駿河攻めを阻むものこそが北条と上杉。その片一方と停戦する事は
北条と上杉の同盟に大きな楔を打ち込む意味もあるだろう。そのまま武田が北条と
戦い続けて上杉が動かなければ北条が越相同盟に愛想をつかすのは必然だろう。
実際その通りになったし。
>>当時の北条は東に敵を抱えて石高も武田と同程度で、
武田の奇襲的な駿河侵攻なら取れて当たり前だが、緒戦において撤退してるでしょ。
武田が撤退したのは上杉が動きだしてからだろうに。それまでは薩垂で互角に戦っているだろう。
石高は当時は武田が甲斐・信濃・西上野で約80万石余り、北条は伊豆、相模、武蔵その他で
90〜100万石くらいでしょ。
>>それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。
当時の上杉と北条が武田に対して全力でかかれば武田をつぶせたかも知れないが
当時それができたのかな?勝てるにしても全力で戦って犠牲も出ることは必定だ。
北条はあなたが言うように他に敵もいるし、それらを無視できたのか?
ヘタすれば北条は関東の敵に向かっていって武田の相手を上杉に押し付ける可能性も十分にある。
謙信にしてみても条件も折り合わないのに何故に武田に対して全力でぶつかって被害をださにゃならない、
という気持ちがあるだろう。体たらくとかいう以前の問題だよ。
それでもこの状況で信玄が消極的な動きしか示さなかったなら駿河は取れなかったし、
北条と上杉の同盟も特に崩れなかっただろう。信玄は積極的に小田原まで攻めて牽制し、
駿河を果敢に攻めて攻略していった。この結果北条と上杉が協力できないことが
現実として示された。上杉が当てにならないなら他に敵も控えている北条にしてみれば
いずれ武田との再同盟に踏み切るしか手は無かっただろう。当主が氏康であろうとも。
人取橋は伊達が押し捲られながらもラッキーパンチで逆転した例で駿河を氏康死去までに
あらかた制圧してあった武田とのたとえとしては不適当だろう。
0524人間七七四年
2007/05/21(月) 01:09:04ID:dRsMZtrn棒道に関してだけど高見沢文書の武田晴信竜朱印状で
「甲府より諏訪郡への路次のこと、勧進いたして之を作るべし
同じく何方の山といえども木を切り橋を架けるべきものなり」
っていうのがあるんじゃないの?
これの解釈の仕方で改修なのか補修なのか新造なのかで議論されていると聞いたが。
0525人間七七四年
2007/05/21(月) 01:38:13ID:sncru68L0526人間七七四年
2007/05/21(月) 01:54:33ID:4y5WJHuX笹本正治の本によれば高見沢文書は疑問点が結構あって通説の根拠とは出来ないらしい。
具体的にはスタートが甲府なのに目的地が諏訪郡ではっきりしないとか宛名がないとか。
いずれにせよ結論はハッキリしないわけで。
てか棒道と信玄の接点自体が高見沢文書しかないんだよね。
0527人間七七四年
2007/05/21(月) 10:44:20ID:nWQ1Pgnz徳川氏や幕府がやった政策でも、信玄の遺法だとか現地の人の心を擽る話に変えた可能性はある
時期的に考えれば、信虎が強権的手法でやったためにプラスよりマイナスが印象に残り、功績が抹殺されたのかも
「マイナスの面だけは何故か信虎のせいにされている」というのは税金の面でもあったことだし
0529人間七七四年
2007/05/21(月) 13:12:57ID:oVZgHmH/甲州法度は今川仮名目録の劣化コピー
治水は史料的に怪し気
足軽(上意ノ衆)運用は信虎がやったことの真似に過ぎない(妙法寺記には信虎時代に既に上意ノ衆が活躍したことが載っている)
うーん、信玄ネタにするのならまず虚像と実像の乖離を相手にせにゃならんなぁ(汗
0530人間七七四年
2007/05/21(月) 15:52:04ID:GmR7ob2w下手したら整備した棒道使って自分を潰すのかもとか思って拒否する可能性もあるし。
まあ棒道作れたとしても関所を廃止できなければ経済的なメリットはこれっぽっちも
ないだろうけど。
0531人間七七四年
2007/05/21(月) 17:02:55ID:RiuVI4ZM0532人間七七四年
2007/05/21(月) 17:26:28ID:YHbgRsXF毛利って自分より弱いやつと戦っただけじゃん。
自軍より強いやつを打ち負かしたとかそんなんあるわけ?
0533人間七七四年
2007/05/21(月) 17:57:58ID:AxPrAHf7少 し は ス レ タ イ 通 り に 話 す 努 力 を し ろ よ
0534人間七七四年
2007/05/21(月) 18:00:36ID:YHbgRsXF少 し は 日 本 語 理 解 し ろ よ
0535人間七七四年
2007/05/21(月) 18:06:06ID:RiuVI4ZMhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1178360250/l50
みてこい
相手するだけ無駄なバカだ
0536人間七七四年
2007/05/21(月) 18:09:14ID:YHbgRsXF元就が独立した大名になったのは陶との戦いからなんだから
拡大率でも
武田>>>>>>毛利
だろ
0537人間七七四年
2007/05/21(月) 19:41:55ID:DvDIXrSj0538人間七七四年
2007/05/21(月) 20:13:57ID:2OmWQmoO陶に討たれて敵を取った
秀吉と似たようなもんでしょ
0539人間七七四年
2007/05/21(月) 20:17:31ID:PejKtaZr元就の勲等を受けた輝元ー隆景が主導した第二次織田包囲網を比べれば、
完成度から言っても、信長を苦しめた度合いから言っても、第二次織田包囲網の方が、上だな。
0540人間七七四年
2007/05/21(月) 20:26:21ID:AxPrAHf7>>538それだと毛利ファンは「天下人と同等」とか言うと思う。
なんかこの手のスレで何度も言ってるけど
甲乙はつけれないけどパッと見元就のほうが器用な印象がある
0541人間七七四年
2007/05/21(月) 20:47:38ID:6XdwY4++どう考えても第一次のほうが織田を追い詰めた
まぁ追い詰めたのは朝倉だからだがな
武田は織田包囲網に全く参加していない
0542人間七七四年
2007/05/21(月) 23:47:43ID:tm8YNsZ3を侵攻してきたおかげで畿内の諸将が奮起したのは明白なこと
なんだけどな
ちなみに輝元主導って???毛利厨のご都合主義かどうしよう
もない程の無知さ加減はあきれて物が言えないよ
0543人間七七四年
2007/05/21(月) 23:53:50ID:ZOw7FFc91554年毛利20万石未満から1571年で100万石強
1541年武田20万石以上から1573年で100万石強
だから拡大率は元就の方が上じゃないか?
0544人間七七四年
2007/05/21(月) 23:55:03ID:tm8YNsZ3何か必死になって甲相同盟の成り立ちがどうのこうのと言ってる人いるが
信玄と駿河を取り合って敗れた時点で北条方の完全敗北なの
北条氏政は謙信より信玄と敵対する方が下策と見た氏康の遺言に乗っ取って
信玄と再同盟したのは明白なこと、そもそも三増峠で信玄に敗れたのが決定的
だったね、元々信玄の駿河侵攻を阻止出来ず、結果駿河を先に信玄に取られた
北条方の明らかな敗北
0545人間七七四年
2007/05/21(月) 23:56:35ID:tm8YNsZ3の姿そのものですね
甲陽軍艦>>>>>>北条五代記ets・・・・
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0546人間七七四年
2007/05/22(火) 00:06:55ID:l/3i+Nr7さすが捏造武田厨
0547人間七七四年
2007/05/22(火) 02:14:57ID:ow9UlS2Pただ、包囲網が効率的だったのは、第二次の方じゃね?
当時の交通事情や通信手段を考慮すると、共同作戦って、直接援軍や兵糧を送れないと、あまり意味がない。
第一次の場合は、浅井朝倉、三好本願寺は、機能していたが、この四者が同時に機能したのは、志賀の陣以外にほとんどない。
だが、第二次の場合は、毛利水軍が紐帯となって、別所、雑賀衆、本願寺、波多野等が、毛利と共同作戦を行えた。
しかも、各戦線が膠着状態の時に、織田から見れば、西部戦線の、扇の要部分に当たる摂津で、荒木を寝返らせたんだから、毛利が主導的な役割だったのは、言い過ぎじゃないのでは…?
まあ、この時に、もっと積極的に行動していれば、羽柴、明智、佐久間を各戦線から追い落とし、上洛も可能だったんだけど、毛利はどうも腰が退けてるというか、腰が重いというのか…?
0548人間七七四年
2007/05/22(火) 02:31:58ID:rWGwV4Mw東側で謙信死亡で御館の乱で武田まで引きずられ
包囲どころか徳川は駿河に攻め入るは斉藤は飛騨経由で越中に攻め入るは
信忠どころか前田佐々まで西部戦線に参加と柴田と一部の美濃衆以外が西に
これでは毛利も直接対決は避けるしかなかったのかも
0549人間七七四年
2007/05/22(火) 09:04:58ID:P1senoid憧れの信玄の虚像に話が及んで、涙目になったメガトンの話逸らしにあえて乗ってやるおまえら素直すぎる
0550人間七七四年
2007/05/22(火) 11:38:02ID:n3kLMTHP自分の死と軍事作戦中止を同盟者に伝えなかったばかりに、義昭なんかは無謀な決起やってあぼん
生存中も様々な相手に不義や裏切りを働いてきた信玄だが、死後もやるとは見事な一貫性
0551人間七七四年
2007/05/22(火) 12:13:47ID:ow9UlS2P信玄は、自分が生きているかのように振る舞え、信玄が作った組織、人材、経済基盤に乗っかっていれば、つまり、組織も、人材も、経済基盤も変更しなければ安全だと考えていた。
対する元就は、自分の死後、起こりうる危機を察知して、三家の結束を口説いほど、言い聞かせている。
加えて、毛利の領地を半分に、いや四分の一に減らしても構わないとまで、言い残している。
家名を残すと言う意味では、毛利の方が上だな。
0552人間七七四年
2007/05/22(火) 12:41:27ID:ZfzfLeUp信虎や今川家の政策を劣化コピーするだけで名君呼ばわりしてもらえるんだから。
0553人間七七四年
2007/05/22(火) 12:44:53ID:0jegOTMx武田と織田にはそれに相当する人物がいないな。
0555人間七七四年
2007/05/22(火) 16:31:57ID:srLYfA7D>>429は関東幕注文からまるまる拾ってきた文章と思うが
同じく浣腸幕注文には白井衆、惣社衆、岩下衆、厩橋衆、沼田衆等などがある
白井、惣社衆はあくまで同盟関係であって、また箕輪衆に加えられてないところからも、長野の支配下ではない
厩橋衆は長野の同族だが、箕輪長野が上杉に降伏した後も抵抗続けてる
後には従ったが、勘違いで殺されたみたいでその後は景虎の家臣が入って後に北条が入ってることから、謙信に接収されたんだろう
これらから考えれて幕注文全てを基本にすえて考えると十万石ちょっと超えるぐらいか
さらに関東幕注文をみれば>>429の人たちは同心、家風なんてかかれてないから長野の直接的な隷属化にあったとするのは困難
そうしていく五万石が微妙になる程度の所領と思われる
ちゃんと計算したわけじゃないからもうちょっと代わるかもしれないが、どちらにしても20万石は確実にいかない
>>523
甲越和与って具体的に何年続いたの?
越相同盟の崩壊は北条の和議条件の不履行、それに伴う謙信の不信感、さらにそれに対する不信感と、スパイラルな様相
和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって、信玄がどうしようがいずれ崩壊に向かう
そこまで考えれば当然武田との再同盟は浮上してくる考えであって、信玄の行動如何に関わらず崩壊するのは予定調和
薩垂で互角に戦うって対峙戦じゃないか
さらに徳川が来て挟撃受ける形で撤退
というか軍事目標達成できずに兵を引いたのに互角に戦ったって凄い強がりだな
駿河を維持できずに撤兵したのは言うまでも無く負けだ
そもそも信玄が消極的に駿河攻めなけりゃ四方八方敵だらけという状況は回避されたわけだが
そのまま上野から越後にでも向かえばいいのにな
0556人間七七四年
2007/05/22(火) 16:47:20ID:9lrnleCp春秋時代は匈奴に負け続け
劉邦は匈奴にぼろ負けした。
曹操は騎馬民族に勝利し、ほとんどを服属させた。
夏侯淵も戦果を挙げた
晋以降は立場が逆転した。
五胡南北朝宋は異民族政権
明は日本にぼろ負けw
中華民国は語るに及ばず
中国はアメリカ、ソ連、ロシアに勝てない
つまり
三国時代>>>>>>>>>>>他の時代
0557人間七七四年
2007/05/22(火) 17:10:38ID:ZHzipxnV信玄はちと過大評価されすぎ。
0558人間七七四年
2007/05/22(火) 17:15:32ID:b1AzNBp8信玄が信長にへりくだったお礼状を出してからすぐに上野方面で上杉武田はぶつかってるし
0559人間七七四年
2007/05/22(火) 19:36:34ID:nAK7re4G元就の場合は自業自得でそういう後継者対策を採らざる得なかっただけでは?
調略やりすぎて、「当家を恨んでいない者などいない」とまで言い切ってるし。
そういえば、当主より世継ぎが先に死んで幼い孫+後見人という形で家督を動かして
上手くいった大名ってあったっけ?
武田毛利どころか連合型の大名から脱した織田や官僚制整えた豊臣ですら失敗してる
0560人間七七四年
2007/05/22(火) 19:42:37ID:nAK7re4G上のは通常の世代交代が出来ず、後見人を建てた場合において、って程度の意味ね。
0561人間七七四年
2007/05/22(火) 19:49:38ID:oGS4SYDSもともと嫡男に何かあったらどうするつもりだったんだろうという気がする。
幸い輝元が生まれてたから嫡男死亡のダメージは最低限ですんだけど、
もし輝元が生まれてなきゃどうしてたのかと。
0562人間七七四年
2007/05/22(火) 19:54:54ID:Y/nr/wRE残せば残したで御家騒動の危険があるんだから、一長一短なのは仕方無い
0563人間七七四年
2007/05/22(火) 20:05:13ID:pNJ5DzUr0564人間七七四年
2007/05/22(火) 20:09:14ID:nAK7re4G後の隆景亡き後の小早川家見るとそれが一番危険では?
とはいえ分家ごと取り込んだらそれはそれでお家騒動の原因になるし
まあ元就の場合実子が多かったから何とかなったと思う。
なにせ子供を孫の養子にするという、平安貴族もびっくりな家系図ですから
0565人間七七四年
2007/05/22(火) 20:11:11ID:lKSsREPw0566人間七七四年
2007/05/22(火) 20:32:15ID:oGS4SYDSやっぱりそういうつもりだったのかね?
>564-565
でも元就が側室をもったのは正室が亡くなった後で、正室との子供は三兄弟だけ。
正室の子供が復性するか、毛利性の側室の子が次ぐかでやっぱりもめた予感
0567人間七七四年
2007/05/22(火) 20:35:03ID:Y/nr/wRE(下手すりゃ家督相続すら危ういことに)
0568人間七七四年
2007/05/22(火) 20:43:51ID:nAK7re4Gその図式の内紛をまさに元就自身が経験してるからな。
だから逆に正室の子を本家に置きたくなかったのでは?
でなけりゃ妻の実家でそれなりの年齢になってた吉川家のケースはまだしも、
元服前の子供を小早川家に送り込んだりなんかしないと思う。
0569奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/22(火) 21:14:13ID:KNhJ3ObA0570人間七七四年
2007/05/22(火) 21:33:54ID:lKSsREPw毛利輝元の養子だった毛利秀元は
元就の4男の穂井田元清の子供だね。
輝元に息子秀就が出来て自ら世継ぎを返上して
お家騒動の禍根を断ってるけど、
秀就と秀元は仲が悪かったようだ。
0571人間七七四年
2007/05/22(火) 21:50:52ID:i2oSygb9実際には隆元にはちゃんと嫁が来て輝元生まれてんだし、
0572人間七七四年
2007/05/22(火) 23:26:18ID:ow9UlS2P嫡男を殺して、四男に家督を継がせて、家を滅ぼした信玄。
0573人間七七四年
2007/05/23(水) 00:54:42ID:WU8NWkjF「これでやっと アニメの国で 萌え放題」
とかにしとけ馬鹿。
0574人間七七四年
2007/05/23(水) 00:56:15ID:WU8NWkjF「これでやっと ライトノベルで 萌え放題」
とかにしろよばーか。
0575人間七七四年
2007/05/23(水) 04:16:55ID:FbKYr4/k>>甲越和与って具体的に何年続いたの?
とりあえず成立したのは1569年7月。信玄が利根川で謙信と対峙するのが
1572年1月だね。信長に友好的な手紙もこの一月には送っている。
このころには当然氏康は死んでいるよ。
>>越相同盟の崩壊は北条の和議条件の不履行、それに伴う謙信の不信感、さらにそれに対する不信感と、スパイラルな様相
和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって、信玄がどうしようがいずれ崩壊に向かう
いきなり論旨が変わったように思えるが?あなたが>>508でいっていたのは氏康の死によって
越相同盟が崩れたという事ではなかったのか?いつから予定調和になったんだ?
和議条件の不履行は氏康の時に起こっているのだし、それなら氏政の判断云々は関係ないな。
>>薩垂で互角に戦うって対峙戦じゃないか
さらに徳川が来て挟撃受ける形で撤退
信玄が撤退したのは上杉が北信濃を突く動きをみせたからだと思ったが?
家康はまだこのときは掛川城を攻めている途中だったはず。開城は5月17日じゃなかった?
信玄が一旦駿河から撤収したのは4月の末だったはず。
>>というか軍事目標達成できずに兵を引いたのに互角に戦ったって凄い強がりだな
駿河を維持できずに撤兵したのは言うまでも無く負けだ
その定義に従うなら小田原攻めで牽制の目的を果たし、駿河を攻め直して北条軍と戦い、
武田が駿河を氏康死去までにあらかた制圧したのは北条の完敗でいいんだね?
>>そもそも信玄が消極的に駿河攻めなけりゃ四方八方敵だらけという状況は回避されたわけだが
そのまま上野から越後にでも向かえばいいのにな
そもそもその前に今川は上杉と組んで武田と共闘する姿勢をとっている。あのままほうっておいても
三国同盟は崩れただろう。なら自分で主導権をとって戦うのはわるくないだろう。
その越相同盟が結局使い物にならないのは貴方も認めたんじゃないの?
0576人間七七四年
2007/05/23(水) 09:44:45ID:xpBxXA7s議論しか出来ないんだな
いいかい?武田の滅亡の原因は、織田領が毛利や上杉よりも武田に近かった
から先に攻められただけ、その後の信長に攻められた毛利や上杉の落ちぶれ
を見ても分かる通りに、家督の相続の仕方がどうのこうのなんて関係ないんだよ
毛利なんてろくに戦もせずにどれだけ改易されたの?((笑
本能寺がなければ両家も100パーセント滅亡してたね
0577人間七七四年
2007/05/23(水) 10:00:49ID:GypVpo/lその論法でいうのなら、
「武田が毛利より何年も先に織田に一方的裏切りかましたせい」のほうになるんじゃないの?
近いといえば徳川が一番近いぞ
0578人間七七四年
2007/05/23(水) 11:19:04ID:jN178D7i当然、元就は自分でそういう真似したわけじゃないから退潮の責任無しとw
0579人間七七四年
2007/05/23(水) 11:53:18ID:9pGZ+Uqu徳川攻めた後、織田と関係が悪化してもまた同盟できると考えたのか、
信玄は同盟だろうと姻戚だろうと相手が弱体化すれば裏切ってきたから、
信長の将来の行動を自分に当てはめて予想したのか
0580人間七七四年
2007/05/23(水) 13:33:25ID:yRK6Lx/l氏真の「武田と一緒に徳川攻めるようなことしたら、うちも乗っ取るんじゃないか」という挑戦的な書状は、武田の背信を責める意味もあったんだろうね
自分から工作しておいて、相手が対抗措置取ったから背信っていう理屈はそれこそ武田贔屓にしか通じないよ
0581人間七七四年
2007/05/23(水) 16:41:07ID:zOl0U24Zまるで甲越和与が三年間継続されていたみたいな書き方だなおい
もういっかい詳細に書いてみ?
むしろ謙信が北条からより有利な条件引き出すために政治的に利用されてる側面があるから
>>508が言ってるのは再同盟の要因だろ?
その後で崩壊に至ったのは「それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。」といってるが?
崩壊に至った要因として氏政の思考と挙げているところから養子の問題に関することだと思うが、氏政が無関係ね?ほぅ
駿河についてはそれでいいんじゃない?
っていうか氏政本体は駿河にいないはずだがね
奇襲して失敗して鉢形攻めて落とせず、小田原城の前で焚き火して、将軍・信長に泣きついて、甲斐に舞い戻って再度出兵して本体のいなくなった駿河をようやく占拠
随分情けないがな
その前に今川と上杉が手を組んで?ひょっとして永禄十年から同十一年の?
違うなら文書名挙げてくれる?もう甲越和与で誤魔化すような事されて信用ならないから文書名一字一句間違えないで書いてね
0582人間七七四年
2007/05/24(木) 08:22:23ID:hpmc18Rb上杉北条間での利害調整が不可能、折り合いが付かない以上
武田北条間の再同盟は可能と言うことか?
0583人間七七四年
2007/05/24(木) 08:53:24ID:7MTrTiVM0584人間七七四年
2007/05/24(木) 12:39:28ID:HgDioZNt陶とは仲良くしたくて援軍にいこうとするんだけど、家臣や一門が信じられないというのでそれに従ってしまう
結果、陶は直接安芸国人に使者を出し始めたために対決のやむなきに
大河ドラマの「お人好しが仕方なく謀略を使ったら誰よりも上手くできちゃった」元就像は噴飯モノ、と思ってたけど実は一番近いんじゃないかと思うようになった
0585人間七七四年
2007/05/24(木) 15:05:17ID:fHWn53PC>>陶とは仲良くしたくて援軍にいこうとするんだけど、家臣や一門が信じられないというのでそれに従ってしまう
これってマジ話なの?
マジなら興味あるから詳しい話をヨロシク
0586人間七七四年
2007/05/24(木) 17:30:12ID:WJCwCM6N0587人間七七四年
2007/05/24(木) 18:23:44ID:naIK9dR1越相同盟を成立させた事により、関東諸将からは猛烈な不信感を買っている。
武田は綱渡りの外交を余儀なくされている。
よって、もし北条が再同盟を望めば即座に応じるはず。
北条としては箱根に隔てられた駿河より関東が優先。
里見は勢力を回復させ北条に攻撃を仕掛けている。
越相同盟が機能しないならば武田と結ぶことも十分に考えられる。
そうなっても関東諸将の上杉に対する不信感は消えない。
信濃を攻めなければ上杉は損をし、武田は得をする。
0588人間七七四年
2007/05/24(木) 18:51:20ID:7MTrTiVM言いたいのは謙信は信濃に出兵するよってことか?
それとも上杉武田の損得について言いたいのか?
0589人間七七四年
2007/05/24(木) 19:09:12ID:naIK9dR10590人間七七四年
2007/05/24(木) 20:48:17ID:7MTrTiVMもうちょっと何かを主張するなら論旨をはっきりと書いたほうがいいと思うよ
何かに対する反論なら一々それを述べていけばいいけど
とりあえず、氏康の死去から氏政の路線大転換まで謙信に予見しろというのは酷に過ぎる
0591人間七七四年
2007/05/24(木) 20:49:23ID:1Zd62npH0592人間七七四年
2007/05/24(木) 20:54:19ID:kpwWoopF武田北条はしばしば共同で陣を張って謙信と対峙しているけど、その逆は殆ど無い
0596人間七七四年
2007/05/24(木) 23:08:04ID:x8NNE9hQ>>むしろ謙信が北条からより有利な条件引き出すために政治的に利用されてる側面があるから
それのどこが悪いのかよくわからないのだが。謙信とて利害がなければ受けないだろうよ。
結局そういったゆらぎがおきるぐらいに共同歩調の困難な関係だってことだろうよ。
>>その後で崩壊に至ったのは「それを破局に導いたのは氏政の思考と謙信の体たらくぶり。」といってるが?
崩壊に至った要因として氏政の思考と挙げているところから養子の問題に関することだと思うが、氏政が無関係ね?ほぅ
なにか論点がずれているような気がするのだが。氏康の死後に氏政がそりゃ
武田との同盟を選択する思考と行動を行ってはいる。それを無関係とはいわない。
俺がいいたいのは氏康が生きていても武田との再同盟をいずれは選択しなければならなかったという事
なのだが。そもそもあなたの主張は>>516にあるように
北条と武田の再同盟は伊達が押されまくっていたけど総大将の急死で危機を逃れた人取り橋を伊達の完全勝利と
いうようなもの、ということじゃなかったのか?
武田の積極的な行動によって駿河は奪われ、反北条勢力との戦いも控えていて上杉も動かない北条は武田との再同盟を選択せざるを
えなくなった。これに信玄が関与していないとはいえないだろう。
>>駿河についてはそれでいいんじゃない?
っていうか氏政本体は駿河にいないはずだがね
奇襲して失敗して鉢形攻めて落とせず、小田原城の前で焚き火して、将軍・信長に泣きついて、
甲斐に舞い戻って再度出兵して本体のいなくなった駿河をようやく占拠
随分情けないがな
なんというか、悪意で見すぎだとは思うがね。鉢形も滝山も本気で攻略する気はなく
さっさと切り上げているし、それでも滝山では随分押し込まれていたみたいだが。
小田原の前で焚き火?あまりの屈辱で上杉との書状ではひた隠しにして
いるくらいなのだが。本隊がいないというが、信玄が最初の駿河攻めで他勢力の動向から
本隊を引き上げてそれを北条がとったのは勝利としておきながら、立場が逆になるとこのいい様なのか?
北条の重臣たる北条綱重は深志城で武田に破れているし、
千本松原でも武田と北条の両軍は本格的な戦いは回避していたが戦っているし、
1570年には伊豆の韮山城まで武田に攻められている。
悪くいえることではないと思うが?特に駿河ばかりではなく伊豆まで攻め込まれる状況では
他に敵も控えている北条にしてみれば折り合わない上杉との同盟に固執する事はできなかっただろう。
>>その前に今川と上杉が手を組んで?ひょっとして永禄十年から同十一年の?
その通りだが?既に1565年の段階で今川の塩止めは開始されているし、今川と上杉の同盟まで
出来上がっていればそこへの経緯はともあれ手をこまねいてみているわけにはいかないと思うが?
0597人間七七四年
2007/05/24(木) 23:36:23ID:uqkxHmZc10万石とか5万石程度だと思う
もし本当に20万石とかあったならもっと史書に名前を残しているはずだし、
そもそも上野半分も持っていたらとっくに粛清か独立って道を選んでいるはず。
甲越和与はいつまでとは難しいと思う、
越相同盟が結ばれた後も、上杉は武田北条とどっちつかずの態度でいたし、
甲相同盟が結ばれた後に、謙信は義昭信長の仲介で武田と再同盟しようとし、
武田は上杉とは結べないと信長に断っているから(1572年1月)
それ以前に破れたのだろうけど。
>>559
「当家を恨んでいない者などいない」
それって一国人の立場から大大名になるという出世をしたため
嫉妬をかっているという意味を含んでいるんじゃなかったっけ?
あまり自信が無いが。
>>569
秀包のことじゃないか?
養子になったのは元就死後だけど。
>>575
>とりあえず成立したのは1569年7月。信玄が利根川で謙信と対峙するのが
7月?具体的には?
初出は1569年2月10日『上杉家文書』だと思うが
>1572年1月だね。信長に友好的な手紙もこの一月には送っている。
それって家康攻めたことへの弁明と上杉との同盟は出来ませんと断ってる奴?
>和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって
この和睦前は上杉は北条高広に裏切られ上野の沼田のみという状態だったのだから
プラスの要素の方が大きい気もする。
>信玄が撤退したのは上杉が北信濃を突く動きをみせたからだと思ったが?
そんな動き見せていたか?
0598人間七七四年
2007/05/24(木) 23:51:29ID:uqkxHmZc>「武田と一緒に徳川攻めるようなことしたら、うちも乗っ取るんじゃないか」
>という挑戦的な書状は、武田の背信を責める意味もあったんだろうね
挑戦的というより普通に武田の背信を責めているのだと思う。
ただこの部分を信用すると武田は山賊か何かかって気がしてくるから
いまいち信用性が無いけど、それに軍鑑だし。
>>584
そりゃ毛利は安芸の土豪程度の身分だったしな、
信玄は信虎のおかげでまだましだったろうね、
信虎は1532年まで国外勢力と結ぶ甲斐国人の反乱に悩まされているし、
信玄は板垣を改易したぐらいか?
>>585
ソースは知らないが
陶が吉見を攻めた時に家中が割れたという話し。
前年に陶は毛利に備後を攻めさせ、毛利が落とした備後の城を自分のものとする、
それに対し毛利はこっそり吉見と同盟?
陶は毛利に(前年の詫びの積りか)人質を出すからと吉見攻めの援軍を求めるが
毛利家中は元就隆元は援軍を出すべき、他のものは陶とは手を切るべきと揉め
結果毛利は陶と縁を切ることに決定したという話し。
0599人間七七四年
2007/05/25(金) 00:43:42ID:kOQrAXUZ隆元は陶を討つ派じゃなかったっけ?
0600人間七七四年
2007/05/25(金) 00:43:59ID:6rmhqpK7本願寺に援助しながら織田とは直接対決を避けるって?アハハハハ
今時の日本政府じゃあるまいし、そんなどっちつかずな態度が通用
すると考えてる自体おかしいんだよ、その態度はいつでも滅亡寸前
まで自らを貶める結果になっていってしまうんだね、てゆうか最後
は吉川の周防長門2国を強引に毛利領にしてるから事実上滅亡した
ようなもんだろ。
0601奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/25(金) 00:45:58ID:Wl5N72F20602人間七七四年
2007/05/25(金) 00:53:39ID:6rmhqpK7秀吉には両川体制を散々付け込まれ結果小早川家を廃嫡にまで追い込む。
家康には関が原の西軍の中核と見なされ、大幅に改易(吉川の二国だけ残され)
戦わずに滅亡した毛利本家でした
0603人間七七四年
2007/05/25(金) 01:00:30ID:LrGbkMJO0604人間七七四年
2007/05/25(金) 01:11:00ID:6rmhqpK7毛利にとって都合の悪いことは何も言い返せず、武田に関して都合の
いいように曲解することしか出来ないのが毛利厨でした。
中国地方でしか戦略を展開してない毛利如きと武田を比較すること自体
間違ってるんだよ、そもそも我々武田ファンは毛利なんて眼中にないん
だが、毛利厨は必死になって武田と比較したがるんだよねえ。
0605長門 ◆q8GdomS4XA
2007/05/25(金) 01:25:27ID:32TkWzE/とりあえず自重汁
お前が喋ると自爆するのは確定的に明らか
0606奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/25(金) 01:30:29ID:Wl5N72F20607人間七七四年
2007/05/25(金) 01:37:55ID:Aal/E03j自己レスを修正
>>北条の重臣たる北条綱重は深志城で武田に破れているし,
北条綱重が敗れたのは蒲原城だったな。まあ、綱重も幻庵の息子で北条の一門で
その弟や城兵多数と一緒に討ち死にしているので北条にとって誉められたものではないな。
深志ではなくて深沢城だな。ここで北条の重臣にして名将と名高い綱成が敗れている。
小田原での放火は確か氏政の書状の中に触れているのがあったか。氏照は隠していたけど。
後の北条5代記とかでも隠しているし、屈辱だったのは確かみたいだが。
>>597
甲越和与についての1569年7月の成立というのは歴史群像の平山優氏の記事から。
>和議そのものが謙信の勢力を著しく減退させる要因であって
この部分は俺のレスじゃない。>>555氏のに答える形で書いたもの。
謙信の北信濃侵攻云々から信玄撤退については歴史群像の小和田哲夫氏と二木謙一氏の記事から
ただそれぞれは「情報に接した」「動きを見せた」と記してある事から
北条と上杉が同盟をしたことが過大な形で武田に伝わったのかも。
0608人間七七四年
2007/05/25(金) 01:54:46ID:cwl1DBDh甲越和与については戦国遺文6巻に載っていたような気もするが
ちなみにいつの歴史群像?
0609人間七七四年
2007/05/25(金) 02:01:25ID:Aal/E03j0610人間七七四年
2007/05/25(金) 02:08:38ID:cwl1DBDh0611人間七七四年
2007/05/25(金) 02:13:26ID:Aal/E03j0612人間七七四年
2007/05/25(金) 04:54:22ID:6rmhqpK7ありませんよね、大河でも取り上げられるわけがない特に主役として
これも見得と建前の関東の文化らしさなの?
甲陽軍艦>>>>>>>北条五代記ets・・・・・
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0613人間七七四年
2007/05/25(金) 07:25:36ID:oyIbsPSz甲越和与について具体的に書けというに、さらっと無視か
ちゃんと調べればそういうこともわかるからちゃんと調べろって意味だ
北条上杉間で養子縁組が成立してから北条は里見と和睦交渉再開しているが?
越相同盟交渉時にも打診してることから氏康個人は対武田に集中する意図ありまくり
崩壊理由についてはちょっと修正しようか
氏政の考えと、それまでの謙信の不履行による上杉に対する不信感(というか之は結局謙信の体たらくと言い得るか)
まあ上杉には上杉で北条が条件履行してねえからだよって言い訳があるだろうが
鉢形も滝山も本気で攻略する気は無い?都合いいなおい
信玄が負けたのは本気じゃなくて、ちょっと信玄が本気出せば百戦百勝ですよってか?
焚き火したのも事実なら、幕府になきついたのも事実、鉢形攻めて落とせなかったのも事実、なにか誤認してることあるのか?
表現が気に入らない?あっそう、なら適当に脳内変換でもしとけ
固執することが出来ない割には必死で養子縁組までまとめようとしてるがねえ?
塩止めが永禄八年?それが書かれた書状の名前を例の如く一言一句間違えずに教えて
どっちにしてもそれ以前に義信は幽閉されとるだろ
それに遠州錯乱を堀越やらに誘いかけて起こさせたのは偉大なる甲斐の生臭坊主
さらに当時の状況よ〜く今川中心に考えてみ
西の徳川が攻めてくる、遠州錯乱はおこって支配が磐石でないことが露呈した、東は手を結んでるが、北は百万石にもなろうかという生臭坊主
これで武田と「自ら」敵対しようなんて、それこそ信玄みたいなハイエナでもない限り考えんぞ
後日に氏真は徳川北条の庇護受けることになるが、武田とは合戦にまで出向いてるぐらい恨んでることからも信玄が先という認識だろうな
>>597
戦国遺文武田氏変六巻
甲越同盟によって上野武蔵の一部手に入れたが、それによって佐竹・太田たちと敵対することになったり、関東の従属勢力の協力を得られなくなったりとマイナスもあるが
さらにこれによって佐竹が台頭してくるわけだから総合的に見ればどうだろうな
っていうか歴史群像を根拠にしてる奴と話してたのか俺は
なんか疲れるわ
0614人間七七四年
2007/05/25(金) 08:17:14ID:kJvS5eS80615人間七七四年
2007/05/25(金) 08:25:34ID:CihmzE2dリスクを恐れないといえば聞こえはいいけど……
むしろ凄いのは運や敵の失策も味方したとはいえ、失敗の辻褄を合わせて結局はプラスにしちゃってるしぶとさとしたたかさ
戦国最強なんていう虚像よりそっちのほうがはるかに凄いことだと個人的には思うんだがねw
0616人間七七四年
2007/05/25(金) 10:25:11ID:B+CR0/Q3地方の特色や状況で政策も戦略もかわるので、名将であることに違いない両名。
正直、信玄と元就では甲乙つけがたいように思われます
臆病と呼ばれるほど慎重な大名は強敵になります。
仮に戦をしていても、策を練り合ってもお互い決め手に欠けると思われます。
歴史スレなので大半の方がご存知でしょうけど・・・
信玄は遺言で、北陸では上杉謙信。中国、九州で毛利元就に優る大将はいない。
と語っています。人は城、人は石垣・・・という項目の前文ですね。
(一度も自国の城を落とされた事はないし、城の囲みを解いたこともない。と何気に自慢してますがw)
敵の大きさを認め警戒している事からしても、信玄も元就も傑物だった事は確かですね。
ちなみに
若い大将では家康が優れているが、まだ未熟。氏政は論外。
信長は一向宗を敵に回して、家康がいないとどうにもならない状況に陥っている。
と語っていますね。当時の状況が伝わってくる面白い一文です。
0617人間七七四年
2007/05/25(金) 10:56:56ID:viHx5SI/もしかして厨ファンサイトから無断コピペされたあの恐るべき贔屓計算のことを言っているのか?((((;゚Д゚))))
0618人間七七四年
2007/05/25(金) 11:47:14ID:vpl5JUnHソースが無い部分が多くて筆者の想像?で書いているような
そのまま参考にするのはちょっと・・・
歴史群像によれば信玄は信虎と違って戦略が行き当たりばったりって話しもあるし
0619人間七七四年
2007/05/25(金) 14:28:32ID:Aal/E03j>>氏政の考えと、それまでの謙信の不履行による上杉に対する不信感
(というか之は結局謙信の体たらくと言い得るか)
まあ上杉には上杉で北条が条件履行してねえからだよって言い訳があるだろうが
その上杉との条件はまず折り合えないだろうし、そうなれば上杉が兵を出す事も
考えにくい。 それでも氏康は武田との全面戦争を望んだのか?
それとそっちもスルーしているが、>>555でいわれていた
5月半ばまで掛川城を攻めていた 徳川が4月末に駿河で武田を挟撃している
という情報はどうなったんだ? 煽りじゃなくて知りたいのだが。
>>鉢形も滝山も本気で攻略する気は無い?都合いいなおい
信玄が負けたのは本気じゃなくて、ちょっと信玄が本気出せば百戦百勝ですよってか?
いや、そんな事いってないよ。とりあえず本気じゃない根拠としては
永禄12年9月吉日に小山田が出した文書で「小田原への道のりで鉢形・御岳他数城を
攻撃しました。次に向かう滝山でも放火するのは必然です。」という部分があったはずだが。
北条氏邦の書状でも9月9日に御岳が、
9月10日に鉢形がそれぞれ一日ほど攻められたことが 述べられていると思うが。
これらの点から本気で攻める気はなく、目的はあくまでも小田原だったと 思うのだが。
支城も攻略せず小田原だって三日ほど放火してさっさと切り上げている事からこの作戦自体が
北条に対する牽制が主だったと思うが。
>>焚き火したのも事実なら、幕府になきついたのも事実、
鉢形攻めて落とせなかったのも事実、なにか誤認してることあるのか?
表現が気に入らない?あっそう、なら適当に脳内変換でもしとけ
随分カリカリしているが、悪意に満ちた言い方で卑小化しようとして説明したら
この言い方はないと思うが。あなたのいう焚き火は氏照が書状で隠し、
後の軍記物でも隠されるほどの屈辱だったし、
幕府になきついたというのも信玄の外交努力だし、鉢形については上記の通り。
あなたがいう北条の上杉への外交努力も、言い方を悪くすれば悪くいえるだろう。
北条本隊が他勢力の動向からいなくなったことについての是非や、
北条の重臣たる北条綱重や綱成が敗れたことは スルーされているが。
>>固執することが出来ない割には必死で養子縁組までまとめようとしてるがねえ?
それで結局どうなったかな。景虎を養子にもらったって謙信は動かなかった。
その状態が続けば氏康だってさじを投げるのは必然じゃないのか?氏政は実際投げたし。
(続く)
0620人間七七四年
2007/05/25(金) 14:29:39ID:Aal/E03j>>塩止めが永禄八年?それが書かれた書状の名前を例の如く一言一句間違えずに教えて
どっちにしてもそれ以前に義信は幽閉されとるだろ
塩止めは1567年8月17日だったか。「萩原芹沢文書」 誤認していた。失礼。
>>それに遠州錯乱を堀越やらに誘いかけて起こさせたのは偉大なる甲斐の生臭坊主
浜松御在城記か。これ自体が江戸時代に編集されたものだし、
遠州騒乱が1563年に勃発したとき
まだ第5回川中島さえ起こっておらず、信玄は西上野と北信濃の領国化に夢中だったし
信長との同盟だってまだ起きてはいない。
信玄が黒幕というのは無理じゃないか?やる意味がない。
>>さらに当時の状況よ〜く今川中心に考えてみ
西の徳川が攻めてくる、遠州錯乱はおこって支配が磐石でないことが露呈した、
東は手を結んでるが、北は百万石にもなろうかという生臭坊主
これで武田と「自ら」敵対しようなんて、
それこそ信玄みたいなハイエナでもない限り考えんぞ
後日に氏真は徳川北条の庇護受けることになるが、
武田とは合戦にまで出向いてる
ぐらい恨んでることからも信玄が先という認識だろうな
まあ、そこへと至った経緯については信玄にも非があるだろうな。
でもね、塩止めを行い、敵対国の上杉と同盟を結んでいる状態では敵対していない、
というのは 無理だろうよ。受動的であれ自発的であれ、
信玄と敵対する路線に踏み込んだのは事実。
それを信玄が放置しておくいわれも特に無い。今川氏が混乱から立ち直り
受動的な上杉氏との同盟が積極的なものに変わりえるまで、もしくは完全に近い
防御体制を整えられるようになるまで放置しておくいわれも特に無い。
0621人間七七四年
2007/05/25(金) 14:53:34ID:6rmhqpK7可愛そうな幼稚園児はどうして信玄が最強と言われてるかが永遠に理解
出来ないという単純な脳味噌で、こんな元就如きとの比較スレで喚き続ける
から始末に終えないね。
元就は自身と同等のレベルの大名と戦ったことあるんですか?リアルタイムで
自身と同様に勢力を拡大している相手と戦ったことあるんですか?
信玄は自身の領国に隣接するほぼ全ての列強より戦略的に優位に進めていった
んですが元就にはそれがないね。
ちなみに戦は一人でするものではなくて、統率の取れた強い軍団も必要、毛利
にはそれがないね。
0622人間七七四年
2007/05/25(金) 14:57:20ID:k6e4UrJ50623人間七七四年
2007/05/25(金) 18:04:43ID:Pf9cmiwv0625人間七七四年
2007/05/25(金) 18:23:06ID:9wG4dek8っ陶
しっかし不毛な議論によく厭きないなおまいら。
0626人間七七四年
2007/05/25(金) 18:27:39ID:oyIbsPSzその上杉との条件が折り合ったからこそ越相同盟が成立したんだが、それは歴史群像には書いてなかった?
武田と結ぶ気ならもっと早期に交渉開始してる
駿河戦について歴史群像には書いてなかった?
なら今度調べてきてあげるよ
それから皮肉って歴史群像に書いてなかった?
北条と武田がどうやりあってたかなぞスレ違いって歴史群像には流石に書いてないか
事実関係が知れればそれでいいだろ
てか表現が気に入らないなら適当に自分で変えりゃいいと言ってるだろうが
そんなに気に入らないなら事実関係だけ抜き出してやるよ
同盟を破棄して今川家に侵攻するも駿河経略に失敗、甲斐から信濃に兵を向け、続いて武蔵鉢形城を攻め落とせず、小田原まで南下し、放火するも甲斐に撤退、再び駿河を目指し経略を遂げる
ご納得いただけましたかID:Aal/E03j様
養子をもらってから上杉から北条へ援軍要請して断られてるんだが?
その間に関東へ武田が出兵したなんて聞いたこともないし、一体いつ上杉が北条の為に動くというんだ?
むしろ九月に信玄が出てきてるがこのときは北条の要請にこたえる形で関東に出張ってきてるんだが?
それから堀越云々は歴史群像…じゃなくて今川家譜
第四回から遠州錯乱まで約二年、第三回から武田西上野出陣まで約四年と、まあ川中島は興味ないからwiki読んでの年号だが
第五回がおこったら安全なのか?なら四回は?三回は?
ちなみに天文十五年になんと上野の長野氏に内応の誘いをかけたりしてるわけだが
まだ信濃すら納めてないのに
長野の時は余裕があって、堀越の時には余裕が無いと?ほぅ
それから何かと意図的になのか知らないが忘れてるが、塩止め前に武田家嫡男にして今川の女をめとった義信が幽閉されたりしてるわけだが
今川からしてみれば素晴らしい背信行為なわけだが、加齢にスるー?
ところで結局甲越和与の終焉については述べなかったね?
歴史群像にのってないもんね、仕方ないよね
和与成立は永禄十二年八月十日付け義昭御内書より、終焉は翌十三年八月の直江景綱の書状から確認できる
まあ例によって信玄は持ち前の生臭振りを発揮して「謙信氏ねばいいのに」なんて祈願してる
一方の謙信はどうせまた裏切るだろうから気をつけろよなんて家臣に言ってることから、武田の外交的信用は皆無みたいだな
上杉北条間の養子入りの時期について信玄と手切れ後か否かでもめてるところ見るともっと早そうだがな
0627人間七七四年
2007/05/25(金) 19:56:40ID:6rmhqpK7交通の要害でもなく険しい山岳の国であり、災害も多く生産力に極めて
欠ける国それが甲斐。
いかにスタートから一国を領有していたとはいえ、信玄が最初から恵まれていた
なんてのは単なる無知としか考えられないね。
毛利は3000貫の地頭からのスタートだったが、武田程内政に悩まされていた
わけではあるまい、少なくともスタート当初は(当主として)
0628人間七七四年
2007/05/25(金) 19:58:03ID:vaWB4VjAhttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1180002099/
0629人間七七四年
2007/05/25(金) 20:51:17ID:Pf9cmiwv生産力に欠けるたって20万石はあったじゃん
0630人間七七四年
2007/05/25(金) 21:14:13ID:0n1m09yq武田家が直轄領としていたのは甲斐でも地味の良いところが多いですよ。
まあそれらを直轄領にしたのは信虎みたいですが。
0631人間七七四年
2007/05/25(金) 21:41:02ID:B1nWfZ7x>毛利の3000貫
司馬遼太郎曰く「自転車でグルグル回れるぐらいの広さ」
>武田程内政に悩まされていたわけではあるまい
兄の残した幼児が当主で、ライバルの異母弟・相合元綱がいたり
重臣の井上氏が勢威を振るってたり、
家臣の殆どが毛利の縁戚で言う事聞かなかったり etc etc …、
信虎の代で家臣の集住とか済ませていた信玄より恵まれているってのは
一 体 ど う い う 妄 想 で す か ?
0632人間七七四年
2007/05/25(金) 21:46:02ID:pCrLaFhd0635人間七七四年
2007/05/25(金) 22:36:51ID:dnuENMGD三増峠で浅利信種を討たれている武田だって重臣と言う点では負けていないと思う
>謙信の北信濃侵攻云々から信玄撤退については歴史群像の小和田哲夫氏と二木謙一氏の記事から
>ただそれぞれは「情報に接した」「動きを見せた」と記してある事から
>北条と上杉が同盟をしたことが過大な形で武田に伝わったのかも。
この時期はまだ北条上杉間の同盟は?だし謙信がそんな動きを見せたことも?
柴辻氏などによると薩垂山で負けたから撤退となってはいるが
>>611
講談色が十分に強いと思うが
>>613
確かに氏康は里見足利と和睦して上杉とも和睦して、西上野を奪ったりと積極的で
あのまま健康であれば武田と本格的に戦ったかもしれないけど、
里見との和睦は千葉氏との軋轢生んだというし、
上杉は結局動かずどころか、武田北条再同盟後も武田と組んで北条を攻めないかと
誘っていることから上野譲った所で裏切られる可能性もありそう、
あのまま戦い続けても北条にはあまり利が無いと思う、
なんで氏康はあんな戦略を取ったのか・・・
今川に関しては同意
0636人間七七四年
2007/05/25(金) 22:52:08ID:dnuENMGD>永禄12年9月吉日に小山田が出した文書で「小田原への道のりで鉢形・御岳他数城を
>攻撃しました。次に向かう滝山でも放火するのは必然です。」という部分があったはずだが。
その文章の前後はどうなってるの?
あと小田原焼き討ちされたってそんな屈辱的なことなのか?
戦国時代じゃ本拠焼き討ちされたなんて関東じゃよくあることだけど
関東というより平野部と言うべきかもしれないが
>>620
>浜松御在城記か。これ自体が江戸時代に編集されたものだし、
そんなこと言ったら信玄の西上戦も侘しくなると思うけど
>まあ、そこへと至った経緯については信玄にも非があるだろうな。
9割方信玄に非があると思うけど、今川は受動的としか思えないが
それでもなお今川に非があるとしたら弱体化したのに武田と対等でいようとしたこととか
弱体化したこととかじゃないか?
上杉との同盟も前後の状況考えれば武田に追い詰められてだと思うが。
>>634
元亀改元は春
4月ぐらいだったと思うが
それなのに翌十三年八月は無いだろう
0637人間七七四年
2007/05/25(金) 22:56:40ID:kJvS5eS80638人間七七四年
2007/05/26(土) 07:10:48ID:IrjoArjh碌に知らなかったりするからな。
軍鑑すら目を通したことがないだろ。
0639人間七七四年
2007/05/26(土) 07:30:23ID:Iwuvny42可能性なんか言い出したらきりがないが
越中でも色々やってるし、越相同盟による関東での政治的影響力の低下により佐竹が反北条の旗手となって関東での行動がスムーズに行かないこともある
実際に武田討っちゃうよ〜って関東に動因かけても誰も来なかったし
それから養子縁組が成立してからはむしろ北条のほうが援軍拒否してるぐらいだぞ
仮に上野と武蔵と上杉がまとめたとして、そこでなんでわざわざ北条と敵対するようなことするのか
もともとの関東介入への動機が北条の越後侵入があって対抗措置
北条から攻めるようなことが無ければ上杉から積極的に手を切るとは考えにくい
北条との仲が悪化した時に同盟維持のための使者を送って無視されて悪態ついているように、上杉方には積極的に北条を攻めるという意図はない
対立するとしたら関東収めた後か、武田が滅んでから
0640人間七七四年
2007/05/26(土) 11:59:38ID:P3wzvaFD0641人間七七四年
2007/05/27(日) 01:08:15ID:Mf74QrHN甲斐の国を知らないのは、お前の方だろうが…
>交通の要害でもなく険しい山岳の国であり、災害も多く生産力に極めて
>欠ける国それが甲斐。
本当に唖然とさせられます。
文章を見ただけで思う事は、「信濃と勘違いしてる」に100ガバス(苦笑
0642人間七七四年
2007/05/27(日) 01:30:13ID:VX01vhXj毛利は織田を安芸に一歩も足を踏み入れさせなかった
毛利>>>>>>>>武田
0643人間七七四年
2007/05/27(日) 01:33:11ID:QsHZd5u10644人間七七四年
2007/05/27(日) 03:07:18ID:IamlSEMA0645人間七七四年
2007/05/27(日) 12:27:22ID:DLMenzbgそもそも元就は小大名ですらないただの国人。しかも大名としてスタートしたのは
実質50歳過ぎてから。ここまでくると信玄はオヤジからそっくり受け継いで30年何してたのか
わからなくなるな
0646人間七七四年
2007/05/27(日) 12:35:18ID:IGlY4M/pよく後継者になれたものだ
元就みたいな有能な人物が毛利を継ぐと大変だと、尼子は必死で戦バカを推してたな
0647人間七七四年
2007/05/27(日) 17:50:32ID:plE6qRHOhttp://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1179929778/l50
0648人間七七四年
2007/05/27(日) 19:39:15ID:AL4LK0xt信玄が親父から受け継いだものなんてのは負の遺産以外に何もありませんよ
まあ甲斐一国が恵まれてるという単純な認識と、山岳地帯の領民に富を育ま
せられなかった信虎の遺産を受け継いだのが信玄という認識の差だな。
それより元就の方が先代から大内の傘下に入ってたりしてたおかげで国を存続
出来たなどというのは考慮しないの?元就って経久や義輿が死んでから身を起こすまで何年かけてるの?
明らかに元就の行動の方が遥かに鈍足だね。
0649人間七七四年
2007/05/27(日) 19:42:39ID:AL4LK0xt村上連合軍との力の差は大きくは無い、つまり信玄が小豪族に負けたという
認識は間違ってるんだよ。
それより格下相手 だ け に 勢力を広げてきた元就の言い訳はどうした?
0650人間七七四年
2007/05/27(日) 19:48:26ID:AL4LK0xt強敵だらけでもなかったわけだし
0651人間七七四年
2007/05/27(日) 19:56:50ID:IGlY4M/p武田ファンは他を正当に評価するもの。
あんたら武田を貶そうとしてるんだろ?
0652人間七七四年
2007/05/27(日) 20:01:40ID:j8X8Suf3>>その上杉との条件が折り合ったからこそ越相同盟が成立したんだが、それは歴史群像には書いてなかった?
結局甲越和与であっさり動きを控えるほどにもろい成立だったがね。しかもどっちも
条件の履行はできずに同盟は崩壊。
>>駿河戦について歴史群像には書いてなかった?
なら今度調べてきてあげるよ
駿河戦における家康の動きについては一通り知ってているよ。
歴史群像ではないのであしからず。
12月18日に徳川と武田の秋山の部隊が衝突し、徳川が信玄を非難。
信玄はただちに秋山を引かせ、侘びを入れるが家康はこれを契機に
反信玄に傾いていく。しかし遠江にまだ今川の勢力が多く残っている事から
すぐには断交せず。そして5月には氏真を和睦の形で掛川城から追い出す。
ただここまでの流れで四月の末に撤退した信玄を徳川が駿河で北条と挟撃していると
いう話は改めて調べてもわからなかった。調べてくれるならありがたい。ぜひお願いするよ。
>>養子をもらってから上杉から北条へ援軍要請して断られてるんだが?
その間に関東へ武田が出兵したなんて聞いたこともないし、一体いつ上杉が北条の為に動くというんだ?
景虎が入ったのはたしか1570年4月だったか。関東にはそりゃ出兵してないだろうさ、武田は。
でも駿河はしっかり攻めているけどね。この時点で駿河の北条領土はかなりとられている。
北条が望んでいたのは上杉が武田領に侵攻することだろう。それによって武田の動きを引っ張り込めれば
駿河を取り戻す事はおろか形成逆転も夢ではない。でも結局謙信は動かなかった。
>>むしろ九月に信玄が出てきてるがこのときは北条の要請にこたえる形で関東に出張ってきてるんだが?
それって1569年11月の上杉の沼田着陣のこと?結局武田との衝突には至らず、
むしろ1570年正月には佐野氏を攻めてなかったか?
(続く)
0653人間七七四年
2007/05/27(日) 20:04:05ID:AL4LK0xt毛利ファンは他を正当に評価したことがあるの?無いよねえww
それよりいつになったら元就のめまぐるしい言い訳を聞かせて
くれるのかなあ?
格下相手いじめで勢力拡大の元就、中国地方でしか外交戦略を展開
してない元就、内政に際立ったものがない元就
0654人間七七四年
2007/05/27(日) 20:04:41ID:j8X8Suf3>>それから堀越云々は歴史群像…じゃなくて今川家譜
>>第五回がおこったら安全なのか?なら四回は?三回は?
第一回から第5回までの川中島は武田が北信濃を制圧し、堅固な防御体制を
確立していく過程だと思うが。第5回においては謙信は6月に信玄の悪行についてつらつらと書いた
願文を書き上げ、8月には信玄撃滅を祈願していて、さらには佐竹文書とかでは
佐久を荒らしてそのまま関東に押しとおるとまでいっているが、侵略も領域拡大も出来ず
対陣してむなしく引き上げるしかなかった。
>>ちなみに天文十五年になんと上野の長野氏に内応の誘いをかけたりしてるわけだが
まだ信濃すら納めてないのに
長野の時は余裕があって、堀越の時には余裕が無いと?ほぅ
上杉氏は天文15年の時点でも武田に対する潜在的な敵なのだが。
一年後には小田井原の戦いが起きるし、信虎が追放した海野は上杉を頼ったし、
1541年の時点で小県にも侵攻している。それにゆさぶりをかけるのはおかしくないだろう。
対して今川の時はどうか。1563年の時点ではまだ義信事件も、織田との同盟さえおきて
おらず、西上野の攻略もまだまだ中途でこの時点では特に対立もない今川にやる
理由が特にない。本当に騒乱を起こすなら侵攻作戦のときにでもやればいいだろうに。
まあ、内応策はやったけど。
>>それから何かと意図的になのか知らないが忘れてるが、塩止め前に武田家嫡男にして
今川の女をめとった義信が幽閉されたりしてるわけだが
今川からしてみれば素晴らしい背信行為なわけだが、加齢にスるー?
別に意図的もなにも今川との対立は信玄にも非があるといっているだろうに。
でも義信は信玄に対して謀反を企てているし、3年に渡って猶予ももうけているので
出来れば死なせたくはなかったと思うがね。
>>ところで結局甲越和与の終焉については述べなかったね?
歴史群像にのってないもんね、仕方ないよね
和与成立は永禄十二年八月十日付け義昭御内書より、終焉は翌十三年八月の直江景綱の書状から確認できる
一応調べてはみたけどね。まずこの義昭御内書が8月10日というのは?
義昭の御内書は上杉には2月、武田には3月ではなかったか?そこから謙信が7月に家臣の鮎川に和睦交渉中なので
出兵は出来ないといっているところから丸島氏は7月下旬と推定していたはずだが。
あと破棄も元亀元年8月じゃなかったか?
0655人間七七四年
2007/05/27(日) 20:12:12ID:IGlY4M/p毛利元就は根回しの達人
これが本当のところでしょう
そしてどちらも戦上手だね
0656人間七七四年
2007/05/27(日) 20:56:31ID:DLMenzbg・戦で大敗をし部下の多くを虐殺されるという前代未聞な成果を残す(甲陽軍艦では勝ちw
・アホのように越後に侵攻し、信濃の味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・2万の兵でも飯山城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪本尊強奪三昧
・長野業政の城を4度攻めたが、一度たりとも落とせず。逆に無様な大敗を重ねるw
・気に入らない家臣を殺し嫁を強姦。
・結局上野の大半を北条に奪われる。面目丸つぶれにさせる
・降伏を了承、武装解除した志賀城の城兵1000人を嬲り殺しにする。さらに民間人は全員奴隷に
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも家臣の嫁を奪って、離反される。
・小笠原、高坂ら信濃の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、反乱を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・和平中の織田の城を汚く落とし戦果を捏造
・今川を裏切って領土を攻め略奪の限りを尽くす。北条に同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いで衰退自滅。娘婿二人に裏切られ領地の全てを失うw
・家臣に反乱起こされまくり
・徳川の足軽に撃たれ昇天
・家臣の大半を織田、徳川連合軍に討ち取られる弱小ぶり
・二万の大軍で1500の木曾に大敗する最弱ぶり(後世で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさか長篠の戦いを引き起こしてしまい、おまけに武田滅亡へ
・上杉の家臣として細々と生きる
0658人間七七四年
2007/05/27(日) 21:35:21ID:AL4LK0xt残念だけどそれ一つも当たってないよーww
お前、謙信厨を装って信玄叩きしても意味ないよー(笑)
小笠原に苦戦?高坂に苦戦?高坂は信玄の家臣だよ(笑)
0659人間七七四年
2007/05/27(日) 21:42:09ID:MosuswPfhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153644378/l50
0661人間七七四年
2007/05/27(日) 22:36:32ID:gQUu5Dwv>格下相手いじめで勢力拡大の元就
○毛利家当主になった時点の周辺勢力
高橋氏……安芸国人一揆の盟主。石見にまたがる大勢力(格上)
宍戸氏……父祖の代から対立してきた武闘派国人(格下だけど、戦上手)
吉川氏……安芸国人(同格)
武田氏……分郡守護(格上)
強敵揃いですが何か。
ここに十倍以上の大勢力、尼子氏と大内氏がたびたび乱入してくるわけで…
ちょっとした地獄ですよ?
>内政に際立ったものがない元就
能力で取り立てた側近に、経済要地を押さえさせる
貫高制による兵数の確保
法度は制定したかったけど多忙でできなかったとか自分で手紙に書いていたかな?
通貨制度は…、まぁ東国と違って、渡来銭が豊富に入手できたからなぁ…。必要無かったのかも。
0662人間七七四年
2007/05/27(日) 23:03:22ID:yKirh6FTまともに反論してくれ
甲越同盟の条件では折り合えないしなんてお前が夢想してるから、史実として成立してると返した
それで和与で動きを控えるほど脆い成立だった?条件の履行はできずに?
苦し紛れに適当に反論ですらない文章で反論したかのようにしないでくれないか?
ついでに言えば、北条にとって甲越和与は脅威であっても上杉にしてみれば格好の交渉の道具
すんなりと条件も達成しない北条の行動に対する圧力として格好の素材
まあそういうふうに余裕こいて結局関係が悪化するわけだが、氏康が対武田で専念するという意志を見抜いての交渉だったんだろうな
だから氏康を相手にする分には非常に有効な外交だったわけだ
氏政まで考えると非常にまずい外交だったわけだが、人の死期まで考えろというのは酷だ
駿河撤退は徳川が今川と和睦する動きがあり(三月)、東西に挟撃される形になるので武田は撤退した
ご満足?
まあ永禄十二年の侵攻も武田侵攻を標榜してのものだから北条の要請に応えてともいえるな
ああ、それから無駄に知識ひけらかしたいだけなのかしらんが、はっきり言っておこう
その結局桐生佐野を攻めたのとは別だ
北条家から証人の提出という条件が履行されてからは上杉方も北条への信頼が醸成されて真摯に対応している
ばかりか、北条が代替わりしたことで急速に関係が悪化、結局破綻している
つまり、それまでの氏政個人の上杉に対する不信感と、条件が逐次推敲されるまで行動を起こさなかった謙信の行動に問題があったと
結局ここに信玄個人で何とかする余地は無く、ほうっておいても氏政へと代替わりがなされれば自然に消滅するものだったというわけだ
というかそれだけ堅固な防御体制を強いて駿河攻めに磐石な体制を築いたのに、駿河攻めたときにちょっと信濃突っつかれたぐらいで撤退したといってたのか?
自分の発言に整合性をもてよ
まあ論点としては武田が先か今川が先かが問題なわけで、君の論点くらまかし戦略にまんまとはまっちゃったよ
つまり自ら三方敵に回した愚かな外交をしたということが確認できて大変うれしく思います
「まとめると、甲越同盟とはそれまでの氏政個人の上杉に対する不信感と、条件が逐次推敲されるまで行動を起こさなかった謙信の行動に問題があり、ここになんら武田が介入する余地はない
そしてそもそも甲越同盟に至った経過については武田側が起こした今川敵対政策によるものである
この甲駿相三国同盟破綻から甲相再同盟までの経過でなんら武田信玄の外交手腕について特記できる事項はない」と
和与については俺のレスを目を皿にしてよく読め
それから以後の反論は「」内についてしかレスしないから
それに関わっていると思われる過去レスに対する反論なら反応するがな
俺が最期にレスして反論無いから俺が勝った!と思いたいならどうぞご随意に
0664人間七七四年
2007/05/27(日) 23:51:04ID:AL4LK0xt>>661 ハア、やっぱりその程度のことでしか誇れるものがないんだね元就はw
ご自慢の倒した大勢力の大名は凡将じゃなかったの?(笑)
甲州法度 治水新田開発 鉱山発掘 棒道 狼煙台ネットワークなどなど
山国の不憫さを覆した様々な内政を行った信玄と比較出来るの?
0665人間七七四年
2007/05/28(月) 00:00:32ID:b4AXAxKEってことを知らないのはわかった。
0666人間七七四年
2007/05/28(月) 00:08:35ID:aptF1HbD知らないのは分かった(笑)
で?で?で?元就に関する史料で信憑性のあるものってどれだけあるの?
まーーーた毛利厨は、毛利そっちのけで話題を信玄にばかり向けるわけ?
0667人間七七四年
2007/05/28(月) 00:12:00ID:UsbH7n0B棒道は資料的裏づけがない、鉱山開発は黒川金山に限って言えば武田が経営していたわけじゃないって
笹本正治が指摘してるんだがこれらは説得力がないの?
0668人間七七四年
2007/05/28(月) 00:12:46ID:9q0of21y0669人間七七四年
2007/05/28(月) 00:13:36ID:NUsIrUhy>>苦戦した相手なの?お馬鹿ちゃんww
>>660は苦戦したとかではなくお前が>>658で言った春日虎綱ではなく
別の高坂氏だと述べてるだけじゃねーかw
0670人間七七四年
2007/05/28(月) 00:17:59ID:D3er+DNI>>656 アハハハハ可愛い奴だなww
残念だけどそれ一つも当たってないよーww
お前、謙信厨を装って信玄叩きしても意味ないよー(笑)
小笠原に苦戦?高坂に苦戦?高坂は信玄の家臣だよ(笑)
とりあえずこのレスでこいつが毛利どころか武田についても全くの無知ということが
再確認できた。
0671人間七七四年
2007/05/28(月) 00:22:31ID:NUsIrUhy誰が見ても明らかに悪意に満ちた書き方なんだから
心配していちいち反応しなくてもコピペなんて誰も見ないよw
0672人間七七四年
2007/05/28(月) 00:26:48ID:aptF1HbD信玄が甲斐の豊富な金山を利用して鉱山技術を発達させた事に関して意を唱える
連中がいるっての?
>>669>>670 爆笑!人のレスを違って捕らえて喜んでるアホでしたwww
春日で無い高坂であることぐらい知ってるよ、からかって遊んでるだけお前らをww
0673人間七七四年
2007/05/28(月) 00:45:49ID:UsbH7n0B今手元にないので上記サイトを引用する。
まず黒川金山は甲斐でも最大の金山。
直轄といえそうなのはとりあえず駿河の鉱山みたいだが(直轄領に含まれるから)。
それに信玄時代に金山衆に知行を与えた文書が1つもない(つまり金山衆との被官関係が証明できない)。
こういう疑問点を無視することはできないだろ。
0674人間七七四年
2007/05/28(月) 00:58:23ID:aptF1HbD鉱山産業を専業にしていた技能集団の金堀は金山衆として武田に掌握されている。
武田から鉱山開発の許可を受けていたんだよ、信玄が領国を拡大していくにつれて金山衆は他国へと
手を伸ばし、他国の金山にも手を伸ばしていくことぐらい知ってるよ。
信虎時代には貧弱だった技術も信玄の代になれば次第に発達していった。
ちなみに甲斐国内には大小22ヶ所の金山が存在していた。
0675人間七七四年
2007/05/28(月) 01:13:24ID:UsbH7n0Bまさにこれが結論。
武田は金山衆の保護者であったのであって直接の開発者ではない。
よって信玄を保護者として評するならいざ知らず発掘者、つまり直接経営者として
評価するのはおかしい。
0676人間七七四年
2007/05/28(月) 01:30:54ID:aptF1HbD誰も今更信玄が、直接の経営者と認識してる連中はいないよ、ただ信玄
の時代に一番鉱山発掘が進んでいったのは事実だからね。
信虎以前の当主であればどうなっていたことやら。
0677人間七七四年
2007/05/28(月) 01:31:19ID:NUsIrUhy信虎時代以前からの継続した技術研究があったからこその技術なんじゃないか?
0678人間七七四年
2007/05/28(月) 01:40:36ID:UsbH7n0B>>660苦戦した相手なの?お馬鹿ちゃんww
>>661 ハア、やっぱりその程度のことでしか誇れるものがないんだね元就はw
ご自慢の倒した大勢力の大名は凡将じゃなかったの?(笑)
甲州法度 治水新田開発 鉱山発掘 棒道 狼煙台ネットワークなどなど
山国の不憫さを覆した様々な内政を行った信玄と比較出来るの?
こう書いてるから内政として評価するなら金山衆の保護で評価されることはあっても開発者
としては評価できないよって書いてるんじゃん。
それに
>直接の経営者と認識してる連中はいないよ、
というけど、通説では経営者とみなされてるんだけど。
0679人間七七四年
2007/05/28(月) 02:26:47ID:aptF1HbD他国に勢力広げてたり出来たんじゃないのか?
0680人間七七四年
2007/05/28(月) 02:32:19ID:M6KdPDhw0681人間七七四年
2007/05/28(月) 03:12:14ID:aptF1HbD金山衆は武田の要請に応じて戦にも参加している、信玄による深沢城攻略
には、甲斐国内の多数の金山衆が参戦し、その功績が称えられて信玄から
多くの褒章を得ている。
0682人間七七四年
2007/05/28(月) 03:54:02ID:1Y766Zsl667で研究者の名前上がってるみたいだが…
>>664
>ご自慢の倒した大勢力の大名は凡将
陶晴賢と大内義長はどうだかしらんが、尼子晴久は少なくとも凡将ではないぞ
粛正も裏切りも離間工作も中央工作も宗教弾圧も全部やってる。
「国の法に従い…」なる文書が残っている事から、分国法も制定してた気配がある。
少なくとも無能じゃないわな。
>甲州法度 治水新田開発 鉱山発掘 棒道 狼煙台ネットワーク
×甲州法度→今川仮名目録劣化コピー
×棒道→古代からあった
×狼煙台ネットワーク→何処の国でもやってる、つかソース何?
×鉱山発掘→発掘してねーし、保護ならどの国でも(ry
×治水新田開発→治水はやったが、技術革新はない。治水だけなら凡将の尼子でもやってる
新田開発?なにそれ?ソースきぼん
いまのところこんな状況?
>>681
>金山衆が参戦
んー? ソース何? 感状?
軍記物とかだったら嗤うよ?
>退散
夜も遅いし、寝たんじゃね?
オレも寝るわ。 また明日〜
0683人間七七四年
2007/05/28(月) 06:39:17ID:6xsbCOTn武田厨の面汚しのカスだから
0684人間七七四年
2007/05/28(月) 06:46:08ID:29iPSe/a0685人間七七四年
2007/05/28(月) 07:23:11ID:9q0of21y心が狭く排他的である。
打算的で悪賢い。
自分の利益の為には他人を省みない。
他人の幸福をねたみうらやむ。
協力心、団結心にかける理屈が多く感情的である。
封建的である。
虚栄心が強い。
同情心が少ない。
利己的、個人主義的である。
模倣性が強く流行を追う風がある。
信仰心に乏しい。
広い意味での公徳心にかける。
言語動作が粗野で愛嬌なく社交が下手である。
0686人間七七四年
2007/05/28(月) 08:20:09ID:DeE/GvtV0687人間七七四年
2007/05/28(月) 08:39:47ID:LDT0tKsR0688人間七七四年
2007/05/28(月) 11:33:09ID:TwHW0zbO0689人間七七四年
2007/05/28(月) 19:24:25ID:Q7gJIKSP小田原など、領内に無数の堅城を構築した北条の軍資金
これらはどうやって捻出したんだろうか。
0690人間七七四年
2007/05/28(月) 20:28:05ID:D3er+DNI0691人間七七四年
2007/05/28(月) 21:00:38ID:aptF1HbD大爆笑!!お前何も知らないんだねえ、どんなに悔しがっても信玄の内政は
永遠に覆されることはないんだよターーーーコ(笑)
まあ毛利元就なんて信玄と比べて何も無いに等しいから悔しがる気持ちも分かるが
甲州法度制度が今川の劣化コピーなんて言ってる連中は誰もいないよ、北条や今川のそれ
なんて先例や習慣を成分化した程度のものなのに知らないの?
数ある戦国法典の中でも傑出した内容を備えてるんだよねえ、その評価の高さは、信玄
自らが遵法の姿勢を明らかにし法を犯した場合は責任を負うことも辞さないとま
で公言しているという事を見ても容易に理解出来る。
現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。
で?で?毛利元就ちゃんはどんな法制度を作ったりしたの?それを教えてね
お馬鹿ちゃん
0692人間七七四年
2007/05/28(月) 21:03:20ID:XHBwKC/N書き込みは端的に頼むわ。
>現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
>の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。
具体例が挙がってないのを差し引いても、お前さんの書き込みはこれだけで充分伝わる。
0693人間七七四年
2007/05/28(月) 21:07:19ID:FAOmK+G3だいたいそんな感じだと思うけど
棒道鉱山開発治水などはまだ揉めていると思う
>金山衆が参戦
北条と争った時の伊豆か駿河での城攻めの時の感状か何かだったと思うけど
それも解釈がいくつかあったと思う
0694人間七七四年
2007/05/28(月) 21:11:30ID:aptF1HbD当時の史料に狼煙が出てくることはまれだが、山国の甲斐においては、正確
で迅速な情報の収集が合戦の勝利への重要な決め手であった。
まあ山国である甲斐の不利な状況を理解出来ないアホなアンチには、いかに
狼煙が特に武田にとって重要だったかが理解出来ないんだろうねえ単細胞だから。
「甲斐国志」が各地(甲斐国内)に残る狼煙台伝承を網羅しているよ、信濃
との境を接する地域からの情報伝達にはいくつかのルートがあったと伺える。
0695人間七七四年
2007/05/28(月) 21:13:02ID:aptF1HbD早く元就の内政手腕を説明しろよばーーーーーーーーか、ばーーーーーか
0696人間七七四年
2007/05/28(月) 21:16:48ID:XHBwKC/N0697人間七七四年
2007/05/28(月) 21:21:43ID:aptF1HbD領民を水害から救う為に信玄堤を築いたといわれ。単に水害防止の為なら
概存の河川の両側に頑固な堤防を築けばよいのであろうが、信玄が進めた
のは川筋を変えることだった。
信玄堤築造は治水面ばかりが強調されてきたが、土地利用や水利体系の
再構築が大きな目的であったと推測されている。
築堤開始の時期ははっきりしないが、堤防の裏側に棟別役免除の条件で
集住者を募る(1560年)八月の古文書が残る為、この頃には一応の
完成をみたと考えられる。
0698人間七七四年
2007/05/28(月) 21:24:05ID:aptF1HbDここは信玄と元就の比較スレじゃないの?しかも毛利厨は信玄のことばかり
とやかく言うだけで、肝心の崇拝者の元就の事業に関して何一つ言えてないし
結局信玄が悔しくてただむやみに噛み付いてるだけだね、哀れなことだwww
0699人間七七四年
2007/05/28(月) 21:28:26ID:aptF1HbD理解しなきゃいけないね、てゆうか元就の内政手腕のソースはどうした?
金山衆が武田の戦に参加していることも知らなかったの?黒川金山衆や中山金山衆
が土木技術を戦場で生かしてたのも知らなかった?それで良くアンチやってるねえ。
まあ無知だから武田アンチになるんだろうが。
0700人間七七四年
2007/05/28(月) 21:42:27ID:aptF1HbD信玄の治水事業は防災上のメリットだけではなく、用水の整備や新田開発、村
の新設などにも繋がる多目的事業だった。
事実信玄は工事が完成した永禄三年、堤防の近くに竜王河原宿を新たに設け、
農民に恩典を与えて移住させている、その時の古文書がある。
新居住者に棟別役(税金)の免除を約束し、堤防の保護管理にあたらせると共に
新田の開発にも従事させたのである。
しかもその新村設置の規模は壮大に広がり、釜無川と御勅使川の流域に、開田事業
に伴って上条新居村、清水新居村など多数の村が誕生している。
信玄堤は竜王町のものが有名だが、山神郷万力郷など数箇所に残っており、農業政策
にかけた信玄の遠大な理想が垣間見える。
0701人間七七四年
2007/05/28(月) 21:43:40ID:6xsbCOTn基地外なフリなら今すぐ辞めろ。みんなお前程暇じゃない。連書きもやめろよ、バカか?
0702人間七七四年
2007/05/28(月) 21:47:21ID:aptF1HbD一々説明するのも面倒臭いので、アンチは自分で調べて悔しがれな(笑)
それよりいい加減にしろよ無知で井の中の蛙の毛利厨共!元就の内政手腕の説明
がねえぞ説明が!(笑)
0703人間七七四年
2007/05/28(月) 21:49:56ID:aptF1HbD何でお前らって都合が悪くなればそうやって逃げ出そうとするの?
ほんと理解出来ないねえ。
アンチ共がソース出せとか説明して欲しいみたいなレスするから、説明
してやってるだけなんだが
0704人間七七四年
2007/05/28(月) 22:18:45ID:6xsbCOTn早く寝ろ
武田も毛利も優れた人物だと何故思えないんだろう?
信玄が神じゃないと満足出来ないのか?
0705人間七七四年
2007/05/28(月) 22:23:05ID:hkKvnc3Iそこから相当莫大な資金を得ていたようだ。
0706人間七七四年
2007/05/28(月) 22:36:06ID:aptF1HbD精神科に行った方がいいよ君ww
信玄が最も優れた大名なのは揺るぎもしないが、むやみに信玄叩きしか
脳の無い毛利厨はそれだけで満足な生き物らしい。
0707人間七七四年
2007/05/28(月) 22:42:24ID:nsl30Owl信玄が最も優れた大名だとは思わないけど、優秀な為政者らしいって事は解る。
しかし、〜厨しか言えない奴もレベルが低いな。
0708人間七七四年
2007/05/28(月) 22:50:20ID:NUsIrUhy政治?軍事?外交?
まあ総合力は信長ってのが揺るぎなくね?
0709人間七七四年
2007/05/28(月) 23:17:27ID:1C7CsYYM法なんていうのは、当主の能力如何に関らず、もっと言えば当主が居なくても
(一個人の裁決が無くても)国が機能するように創られた決り事な訳で、武田家
の末路を考えればお笑いとしか思えなくない?^^
0710人間七七四年
2007/05/28(月) 23:46:43ID:aptF1HbD外交 軍略 内政 いずれも他の大名には見られない一味違うものであって
最強の称号にふさわしいってのはどんな歴史家研究家も認めてるとこだ。
>>709精一杯考えた屁理屈がそれなの?(笑)
ならば他の戦国大名の業績も全く意味のないものになるのかな?ってことになるだろ
日本の歴史に武田信玄という卓越した政治家が戦国の世に存在したという事実はどん
なに悔しがっても覆されることではない、その他の大名は全てゴミww
0711人間七七四年
2007/05/28(月) 23:49:31ID:aptF1HbDを批判する始末www
全く毛利厨の幼稚な荒らし加減はほんと大問題だな
0712人間七七四年
2007/05/29(火) 02:39:10ID:18ajSrOrひたすら屁理屈でごまかしてさ。スレのみんな無視モードだし、
たまに新参や俺みたいなのが弄ってるだけ。
厨の振りしてんだろうけど、毎日来て同じ事繰り返して。その
時間勉学や資格取得に使ってみ? 人生変わるぞ?
0713人間七七四年
2007/05/29(火) 05:05:54ID:ct3WqljSそうかそうか、そんなに信玄の内政手腕が羨ましいか、精一杯の言い訳
がそんな程度のレスになるんだねえ。
それより信玄以上に内政に手腕を発揮した大名がいるんなら言うてみ?
0714人間七七四年
2007/05/29(火) 05:12:14ID:Usx/hrwA0715人間七七四年
2007/05/29(火) 06:54:39ID:ge7Ry0Izそれを相手が反論出来ないからだ!とか一人で悦に入り、それすらもスルーされる奴。
0716人間七七四年
2007/05/29(火) 07:30:48ID:PElZ0/uR思考が極端
躁病としか思えないDQNさは萎える。
コテハンつけたらどうかと思う?
0717人間七七四年
2007/05/29(火) 07:36:02ID:kpIo9jUE後退していると評価してるんだけどな。
0718人間七七四年
2007/05/29(火) 08:18:21ID:PElZ0/uR信玄は内政の達人と言うことだな。
なら元就は調略・謀略・外交に優れたいくさ人
そして家臣との絆や、客分に対しての心遣いや己の分を弁えた人物だな
0719人間七七四年
2007/05/29(火) 09:08:56ID:ejrhoC+n史料的に裏付けが取れないor否定されている案件ばかりを持ち出してもしょうがないだろ
ここは「虚像の信玄」と「虚像の元就」を比較するスレじゃないんだし
0720人間七七四年
2007/05/29(火) 11:29:19ID:6GqGWWKR元就は温泉津のような港湾を直轄化しているよ
岩見銀山支配も有名だけど、これはちょっと名目上の違いがある
元就は銀山を朝廷に御料所として寄進している(勿論、実質支配は握ったままだが)
国人上がりの元就は、支配の正当性を認めてもらうために朝廷に色々工作して最終的には武田家の位階を抜きさるんだけど、その一環だったんだろうね
0721人間七七四年
2007/05/29(火) 12:50:44ID:E3VXL4vQまあ答えないらしいが、誤解されたままもしゃくなので答えておこう。
>>まともに反論してくれ
>>甲越同盟の条件では折り合えないしなんてお前が夢想してるから、史実として成立してると返した
結局その履行もできない条件と共同歩調もとれない関係で同盟成立というならご自由に。
結局役には立たなかったがね。
>>ついでに言えば、北条にとって甲越和与は脅威であっても上杉にしてみれば格好の交渉の道具
すんなりと条件も達成しない北条の行動に対する圧力として格好の素材
まあそういうふうに余裕こいて結局関係が悪化するわけだが
氏康が対武田で専念するという意志を見抜いての交渉だったんだろうな
だから氏康を相手にする分には非常に有効な外交だったわけだ
結局それは謙信の思惑に氏康が振り回されている状態。いざ戦闘になった所で
上杉は北条が望むほどに戦ってくれるとは思えないがね。越中も攻めていたし。
北条にとってプラスに評価できるものではとてもない。
>>駿河撤退は徳川が今川と和睦する動きがあり(三月)、東西に挟撃される形になるので武田は撤退した
ご満足?
まあ永禄十二年の侵攻も武田侵攻を標榜してのものだから北条の要請に応えてともいえるな
その3月の和睦は知っているよ。でも結局それは武田の撤退の主要因ではなかったのだがね。
その後も5月まで徳川と今川は戦い続けるし。永禄12年の侵攻は北条びいきに見すぎ。
あくまでも家康は自分の領土拡大が目的。攻めてるのは北条の縁戚たる今川の遠江だしね。
>>それから無駄に知識ひけらかしたいだけなのかしらんが、はっきり言っておこう
その結局桐生佐野を攻めたのとは別だ
北条家から証人の提出という条件が履行されてからは上杉方も北条への信頼が醸成されて真摯に対応している
それじゃあ信玄が武蔵を攻めたときの話?真摯に対応というが結局謙信は
信玄をへこませるくらい戦ってくれたのかい?真摯に対応していようが
結局それが信玄の駿河経略を鈍らせることが出来るほどの動きは示さなかった。
越中を攻めたり、沼田に送った援軍も武田軍と本格的には戦わず。
正直氏康が存命していようと謙信がどれだけ戦ってくれるか激しく疑問なのだが。
ぶっちゃけ振り回されているだけに見えるのは気のせいか?
(続く)
0722人間七七四年
2007/05/29(火) 12:51:42ID:E3VXL4vQ>>つまり、それまでの氏政個人の上杉に対する不信感と、条件が逐次推敲されるまで行動を
起こさなかった謙信の行動に問題があったと 結局ここに信玄個人で何とかする余地は無く、
ほうっておいても氏政へと代替わりがなされれば自然に消滅するものだったというわけだ
最後の段と被るが、それまでに氏政に不信感を植え付けたのは誰の行動によるものだった?
甲越和与によって謙信の動きを封じ、小田原を攻めても駿河を制圧しても
謙信が動かない事を認識させ、駿河ばかりではなく伊豆にも攻め寄せ
武田と争うのが損だという認識を北条に植えつけたのは信玄の行動によるものだろう。
信玄が消極的にしか動かなければ氏政も特にこんな反応を示す事も必要もなかっただろうし
駿河もとられなかっただろうな。
>>というかそれだけ堅固な防御体制を強いて駿河攻めに磐石な体制を築いたのに、
駿河攻めたときにちょっと信濃突っつかれたぐらいで撤退したといってたのか?
自分の発言に整合性をもてよ
なにか誤解されているがその信玄の防衛体制は主力軍による牽制と備えがあって初めて機能するのだが。
信玄はこの直前に飛騨を攻めているが第五回で謙信が襲来するとその部隊を
呼び戻して本軍に加えて川中島に向かっている。
それでも主力がいても謙信の跳梁を許していたそれまでとくらべると
主力がいれば謙信の動きをほぼ封じられるというのは大きな進歩だ。
駿河攻めにおいて信玄が謙信の足止めとして使ったのは本庄や芦名。
芦名は動かなかったけど本庄は随分健闘して上杉の動きをつなぎとめた。
それがなくなったから甲越和与にむけて動いたわけでね。
>>まあ論点としては武田が先か今川が先かが問題なわけで、
君の論点くらまかし戦略にまんまとはまっちゃったよ
そもそも俺が信玄の積極的な行動がなければ北条と上杉の同盟は崩れなかったし
駿河も取れなかったといったのを>>555で論点をそらしてきたのはそっちだろう。
話が進むとこちらに論点くらまかしとおしつけるのは止めてもらおうか。
(続く)
0723人間七七四年
2007/05/29(火) 12:52:36ID:E3VXL4vQまあここまでのは答えないらしいが。本題にはいろうか。
「まとめると、甲越同盟とはそれまでの氏政個人の上杉に対する不信感と、条件が逐次推敲されるまで行動を起こさなかった
謙信の行動に問題があり、ここになんら武田が介入する余地はない
そしてそもそも甲越同盟に至った経過については武田側が起こした今川敵対政策によるものである
この甲駿相三国同盟破綻から甲相再同盟までの経過でなんら武田信玄の外交手腕について特記できる事項はない」と
上とも被るが、氏政に不信感が醸成されたのは甲越和与と信玄の積極的な行動に
よって謙信がろくに動かなかった事が示された事。謙信にしてみても 領土は
結局もらえていないし、なんで信玄と戦って被害をださにゃならないという
気だろう。それよりはこの機に乗じて自分の権益を拡大したほうがましという考えだろう。
それでも鮎川氏に当てた書状からわかるように甲越和与がなければ謙信が侵攻してくる
可能性はあった。それを甲越和与によって防止してみせたのは悪くないだろう。
そしてちゃんと駿河も奪取して北条との同盟も復活させたのに特記はできないとし、
結果的に上杉に振り回され、武田に駿河を奪われただけに
終わった北条の外交努力は評価すると?無理があるだろう。
0724人間七七四年
2007/05/29(火) 18:26:32ID:USa7hGks少なくとも北条が武田との再同盟に動く保障はどこにも無い。
上杉がもう少し北条に譲歩していれば同盟は継続してただろう。
戦はせずとも、信濃に出兵する構えさえ見せれば武田は引かざるを得ない。
北条としてはそれで十分過ぎる結果。
下手な駆け引きでせっかく関東の恨みを買ってでも得た和睦に亀裂をいれる必要はない。
武田は上杉の下手な駆け引きの失敗で偶然利を得ただけでしょ。
0725人間七七四年
2007/05/29(火) 18:54:23ID:wwcCRDEP>信玄の内政云々っていうけどさ
史料的に裏付けが取れないor否定されている案件ばかりを持ち出してもしょうがないだろ
ここは「虚像の信玄」と「虚像の元就」を比較するスレじゃないんだし
きちんと裏づけがあるから甲州法度之次第や信玄堤から始まる新田事業などが
あるんだろうが。
安易に批判ばかりしてる研究者の意見を鵜呑みなのは君達の方だな、いい加減気づけ
0726人間七七四年
2007/05/29(火) 19:05:11ID:wwcCRDEP1563年から恵林寺領と佐久地方などで実施しているが、領国全体に
及ぶものではなくとも、戦国大名の検地実施例としてはかなり早期の物
でありその先進性は改めて注目に値する。
江戸時代の農政学者佐藤信淵は「農政本論」の中で、信玄の農業政策を
絶賛している、その農政は一等地を抜きん出ていたのである。
信玄の政治家としての偉大さは、他の戦国大名が農業を民政の中心に
すえていたのに対し、山国という甲斐の国情を知悉して総合開発的な
殖産興業策を展開した点にも求められる。
0727人間七七四年
2007/05/29(火) 19:15:00ID:wwcCRDEPを促進するとともに地場産業の振興をはかって富国の実をあげたのである。
他国の追随を許さない鉱山開発はその一例だし、一般木材の他和紙の原材料
に漆などを広範囲に植栽させたのも、特殊品奨励策の一環だった。
和紙や漆が信玄時代の甲斐の代表的特産品であったことは周知の通りで、
信玄の施策が見事に結実していることが分かる。
ちなみに今なお山梨の特産品として有名な甲州印田や雨畑硯、水晶加工品など
は、信玄時代からの伝統を受け継いだものなのである。
0728人間七七四年
2007/05/29(火) 19:22:59ID:wwcCRDEPアンチは散々信玄の政策は創作だ史料が無いとかいってる割には
多くの古文書や学者の論文などに対してこれ程無知だったとはね
おまけに甲相越同盟という全くスレとは関係の無い話題を延々と
続ける有様
元就に信玄と対抗出来るような政策が無いのであれば最初から
統治で比較するなっての
0729人間七七四年
2007/05/29(火) 19:26:56ID:kpIo9jUE0730人間七七四年
2007/05/29(火) 19:41:00ID:wwcCRDEPあのう横からついでに言わせてもらえば、偶然利を得ただけなんてのは
誤った見方しているよ。
利を得たことによってむしろ信玄は北条を一喝し、再同盟を組ませ、駿河
を難なく平定したわけだし、包囲網の隙を旨くくぐりぬけた信玄の勝ち
0731人間七七四年
2007/05/29(火) 19:55:03ID:wwcCRDEPと組み直す方が得策と考えたんでしょう、信玄は駿河を取ったから相模
にその後も侵攻するとは思ってなかっただろう、普通に関八州平定の為
の後ろ盾と思っていたと思う。
0732人間七七四年
2007/05/29(火) 20:35:57ID:USa7hGksが、越後を含めた一連の動きを信玄が狙ったというのは無理がありすぎる。
あくまで他者の下手な動きが決定打となっての結果オーライ。
信玄の行った行動は決して誉められるもんじゃない。
0733人間七七四年
2007/05/29(火) 20:37:05ID:ir5KbA5W北条氏政の判断で越相同盟が破棄され、甲駿同盟に至ったというのは反論が無いようで
となれば今川義元の死に続いてまたまた棚ぼたで同盟を締結したと
凄いよラッキー続きだよ信玄!
ほんとナイスタイミングで死んでくれたよね、氏康
これは逆に言えば氏康であり続ける限りは越相同盟は維持されるということなんだけどね
氏政は上杉の足元を見る交渉に憤懣を募らせ、氏康は当然のこととみなして推し進めたと
それは養子入りが済んだ後の里見との再和睦の動きからもわかるよね
結局和与で成功したのは氏政の不信感の構築で、実権者の氏康にはたいした影響与えられなかったと
そういや氏政の嫁か誰か忘れたけど武田の女だったけ
この辺も影響してるんだろうね
反論するなら、甲相再同盟にいたった理由と根拠と明確にして論じてね
根拠を明確にってのは歴史群像の何巻にそれが書いてあったのか書けってことじゃないよ、念のためにね
色々と事実誤認があるが、ひとつだけ聞いておこう
>結果的に上杉に振り回され、武田に駿河を奪われただけに終わった北条の外交努力は評価すると?
誰がこんなこと言った?
0735人間七七四年
2007/05/29(火) 21:12:21ID:wwcCRDEPあのねえ、結果オーライってアホですか?
そもそも上杉や北条の外交下手さ加減をそっちのけで何が信玄の
結果オーライなんですか?
いや、むしろ信玄とまた派手な合戦をしたくないと踏んだ謙信の
判断も良かったんだろうな、北条は信玄と謙信を戦わせて潰しあい
させようと考えていた節もある。
何にしろ駿河攻略を完成させ今川北条を一度に破った信玄がやっぱ
勝者だよ。
0736人間七七四年
2007/05/29(火) 21:22:37ID:wwcCRDEP度々関東に攻め込まれていた相手の上杉に援軍を要請するのならそれなりの態度
を示さなければならないがそれをしなかったからね北条は。
これを見ると良いよ。
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
0737人間七七四年
2007/05/29(火) 21:45:50ID:USa7hGks上杉北条と武田を比較する話なんかしてないんだよ。
武田の外交についての話だ。
北条や上杉や下手な外交した?ああ、そうだろうさ。
しかしそれで武田の外交の評価はあがらないよな。
それを狙うのなんて謙信の不手際と氏康の死を知ってないと不可能だし。
とりあえず、反論できないからって上杉や北条に話を逸らすのはやめろ
0738人間七七四年
2007/05/29(火) 22:03:28ID:wwcCRDEP超ど級の大馬鹿者だなこりゃwwww
スレタイ読め????????????
武田の外交についての話???どこがなの??
何も反論出来なくなった毛利厨が外交と統治で信玄に勝てない
からって話を甲相越同盟に切り替えてるだけだろ?
0739人間七七四年
2007/05/29(火) 22:04:02ID:+O7kAmsb0740人間七七四年
2007/05/29(火) 22:10:40ID:eW7yhz1r>>738
とりあえず落ち着けって。
信玄の外交と元就の外交を比べればいいんだろ?
北条や上杉抜きで語ってみれ。
0741人間七七四年
2007/05/29(火) 22:13:15ID:wwcCRDEP無理やり信玄に負けてないとか妄想抱いてる連中だからな、そりゃ
外交でも必死になるわな。
謙信に不手際なんてないよ、それは信玄を挟撃出来なかった北条厨が
勝手にそう思い込んでるだけ、そもそも北条は小田原城に引っ込んでおきな
がら援軍出せだの武田領に攻め込めだの謙信に頼む方がどうかしているよ。
この時期北条も武田程兵力を揃えられたはずだが、何で城に引っ込むの?
謙信からすれば武田領に攻め込んでまた大規模な戦闘になるのは回避したい
だろうし、むしろ関東侵攻の方を望んでるのは言うまでもないでしょ。
結局北条側が駿河も取れないわ、出来もしない謙信との同盟を無理に考え
ようとしていただけだね。
一方信玄は信玄で、北条を逆に包囲させたし、一枚上だったな
0742人間七七四年
2007/05/29(火) 22:14:21ID:+O7kAmsbなんで元就が信玄に政治力で劣るんだ?大内と尼子の間の立ち回り、宍戸、熊谷などの
近隣領主との合同や後継問題介入での勢力伸長、両川体制の確立。
どう考えても大名として超一流だと思うが
0744人間七七四年
2007/05/29(火) 22:17:01ID:wwcCRDEP>信玄の行動は誉められたもんじゃない
こういう発言が理解出来ない、誰が見ても負け惜しみにしか聞こえないな。
駿河攻めのどこがいけないんだか、そんなこといったら上杉や北条どころか
戦国大名みな誉められない存在になるんだが。
まあ先に信玄に駿河を取られたという悔しさは分かるよ。
0745人間七七四年
2007/05/29(火) 22:21:34ID:PElZ0/uRやつは武田厨を落としたいんだよ
こんな基地外のせいで武田を嫌わないでくれよ。頼むから
0746人間七七四年
2007/05/29(火) 22:21:35ID:wwcCRDEP落ち着け落ち着け、撤退したように見せかけて待ち伏せで北条を撃退
したんだよ、知らなかった?三方原のようにおびき出して北条を叩き
潰したわけ、駿河に駐屯している北条勢が邪魔だから一喝しなといけ
ないでしょ。
それと元就の内政のどこが信玄より勝ってるか詳しく言いなさい、
今まで散々話題を信玄ばかりに振ってきたお前らなんだから当然
元就の手腕は戦国一評価されるものなんでしょ?
0747人間七七四年
2007/05/29(火) 22:22:25ID:+O7kAmsbいや>>732の文章は駿河攻めの善悪を説いたものじゃないだろ・・・
一部分だけ抜き出して変な解釈するなよ、朝日新聞かよ
0748人間七七四年
2007/05/29(火) 22:25:58ID:Pp5gbhmr0749人間七七四年
2007/05/29(火) 22:27:12ID:+O7kAmsb>したんだよ、知らなかった?三方原のようにおびき出して北条を叩き
>潰したわけ、駿河に駐屯している北条勢が邪魔だから一喝しなといけ
>ないでしょ
甲陽軍艦www
0750人間七七四年
2007/05/29(火) 22:29:24ID:wwcCRDEP信玄は信長や将軍との仲介を頼み謙信と和議するのでした。
0751人間七七四年
2007/05/29(火) 22:32:21ID:wwcCRDEPまあみっともないものをひた隠しにしたいという関東人の姑息さは
現代人でも同じなのかな?
武田勢を打ち破ったなんて捏造をどうどうと書いている北条でした。
0752人間七七四年
2007/05/29(火) 22:35:46ID:+O7kAmsb0753人間七七四年
2007/05/29(火) 22:37:30ID:wwcCRDEP0754人間七七四年
2007/05/29(火) 22:39:26ID:tJVS4Llv元就&輝元は秀吉にすら何もできず、重臣を討ち取られ一方的に領土を奪われ滅亡の危機
本能寺の変という運に恵まれただけの毛利なんてカスだよ
0755人間七七四年
2007/05/29(火) 22:42:59ID:tJVS4Llv0756人間七七四年
2007/05/29(火) 22:45:37ID:wwcCRDEP元就の外交は中国地方限定と小略的
0757人間七七四年
2007/05/29(火) 22:46:28ID:PElZ0/uR武田厨の端くれなら孫子読んでこいボケ
0758人間七七四年
2007/05/29(火) 22:52:09ID:T5yrcTEc0759人間七七四年
2007/05/29(火) 23:15:01ID:eW7yhz1r0760人間七七四年
2007/05/29(火) 23:39:52ID:PmzBFDzk>>682
最近の流れだと
甲州法度
これに関しては今川仮名目録に強い影響を受けている、それまでの慣習、
信虎の出した法をまとめたものとされている
狼煙台
ソースが存在せず、当時としては一般的な事柄だったと推定されている
税制
1522年に信虎が甲斐一円に棟別銭を課した『塩山向嶽禅庵小年代記』のを初めとして
基礎的な税制は信虎時代に整えられた
信玄に肯定的な学者は信玄時代に様々な新税が課されていることから信玄が税制を
発展させたと
否定的な意見だと北条などの税の簡素化と比較すると逆行しているとか
鉱山発掘
考古学側の調査によって多くが信虎時代(山によってはそれ以前から)に
開発がはじまったことが判明
松木氏?に伝わるといわれている伝承だと信虎の代により伊勢から来たとか
めむしろ被官化していない証拠
検地
検地に関しては関連史料合わせて70ほどあるらしいが
すべて差出 寺社家臣の権利を認めるためのものが多いとか
隠し湯
『川浦湯屋造営下知状』がソース
以前からあった寺社の造営を許可しただけであって、
それを通説の隠し湯と結びつけるのはおかしい
0761人間七七四年
2007/05/29(火) 23:41:51ID:PmzBFDzk鉱山発掘
考古学側の調査によって多くが信虎時代(山によってはそれ以前から)に
開発がはじまったことが判明
松木氏?に伝わるといわれている伝承だと信虎の代により伊勢から来たとか
金山衆の被官化
肯定 1570年ぐらいに出された感状をソースとしている
否定 その感状の形式が家臣に対するものではなく外部の者に対する形式と一緒であるため
むしろ被官化していない証拠
0762人間七七四年
2007/05/29(火) 23:44:24ID:PmzBFDzk上にもあったが『高見沢文書』が唯一のソース
肯定 原文だと思うから、内容形式が現在から見ておかしくてもそれは些細な問題で
正しいに決まっているこの史料が棒道に当て嵌まらないなら何を指している?
現在棒道とされている道のほとんどが荒野と化している以上昔からあったなどではなく
純軍事目的に造られた道、つまり棒道に違いない
否定 文章の内容がおかしい、駿河攻め上野攻めの時に出された道に関する文書は
ちゃんと夫役を申し付けているのに、これは命令書になっていないため信玄がやらした
わけではない
軍事目的だとしても何故複数のルートが必要なのか?
何故目的地が諏訪までなのか、出発地は甲府なのに目的地が上原とかの具体的
目的地ではなく諏訪という曖昧な地域を指しているのか
信玄堤
1 竜王に新村を作るよう指示した文書
2 川の氾濫に対しいくつかの村に復旧するよう指示
3 破損した用水路の修復の指示
4 堤防の維持に勤める代わりに棟別銭免除
などがソース
否定
1はそもそも諏訪への街道整備の一環として出された宿場町建設のための文書
それを通説の信玄堤の証拠に転用するのはおかしい
2は国主として当たり前の事で信玄堤のソースになっていない
3も当たり前のことまたそれ以前や他地域にも普通にあることなので特別扱いすることではない
4も当たり前のことでその時代にそこに堤防があったことは分かるが信玄が堤防
を造ったという証拠にはならない
そもそも棒道も信玄堤もそれほどの事業なら『妙法寺記』や『王代記』に
何も記述が無いのはおかしくはないか?
と言った感じに揉めているのが最近?
ただ棒道や信玄堤などを肯定している学者の本でも最近は
殊更強調するのでなければ信玄の功績として構わないとか、
通説のような功績は無いからといって信玄の功績のすべてを全否定すべきではない
などとトーンダウンしていて、実質否定派の意見に近づいている
あと何年かすれば信長の楽市楽座や兵農分離などと同じような扱いされるかもしれない
0763人間七七四年
2007/05/29(火) 23:50:54ID:kpIo9jUE0764人間七七四年
2007/05/29(火) 23:56:23ID:8wk0PI6Rhttp://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1171627914/
教来石景政=馬場信春のスレ
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1169044696/
●風林火山の視聴率について語るスレPart8●
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1179148482/
甲 斐 の 山 猿
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1179929778/
風林火山の織田信長・木下藤吉郎・松平元康
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1168667282/
いろんなところで見るな
0765人間七七四年
2007/05/29(火) 23:58:11ID:8wk0PI6Rhttp://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1168292422/
0766人間七七四年
2007/05/30(水) 00:03:37ID:Nf1pD0Cg言ってるの?信虎がどれだけそれをもって繁栄させたんだよ。
鉱山発掘にしろ法整備にしろ税制にしろ、信虎時代に実地されて
いたならとっくに勢力拡大出来たでしょ。
税制の統一は領国経営の大きな根幹で、江戸時代の甲斐には大小切
と呼ばれる独特の税法があった、その始原は信玄時代にまでさかのぼる
といわれている。
田畑貢租を三等分しそれの三分の二を物納、残り三分の一を金納すると
いうもの。
この税法は後に改正されて大切分の三分の一も金納するようになったが
これはその年の公定米価に換算して納めたもので、さして珍しいもので
はない。
大小切法の特異性は、むしろ小切のほうにある。小切値段は江戸時代を
通じて、金一両につき米四石一斗四升という換算比率がすえおかれている。
これは農民にとって極めて有利な税法だった、米価は次第に上昇していったが
換算率が300年近くも一定だった為実質的な貢租負担率は米価に反比例して
減少していったからである。
0767人間七七四年
2007/05/30(水) 00:13:58ID:Nf1pD0Cg今川の影響を強く受けているっていう根拠はなあに?
信玄が作った法整備の否定になってないんだが。
0768人間七七四年
2007/05/30(水) 00:17:09ID:6Jlr+Oi3なんという史料にあるのか?
0769人間七七四年
2007/05/30(水) 00:23:10ID:scG9Nwc+武田が割れやすいからだな
0770人間七七四年
2007/05/30(水) 00:25:55ID:Nf1pD0Cg堤が完成し出したのはいつか説明出来ないといけないね、それが出来ないと
否定する資格は無し!
棒道だが、「高見沢文書」によって示される棒道開削は「補修」と理解
されるという、ちなみに対して信濃攻略が出来なかった信虎の時代に
積極的に行われてきたものとは考えにくい。
0771人間七七四年
2007/05/30(水) 00:27:35ID:hJ1FDTAM上洛スレはおかげ様で書き込み激減だよw
0772人間七七四年
2007/05/30(水) 00:30:29ID:KuRsO4+u>信玄が作った法整備の否定になってないんだが。
もとから否定も肯定もする気は無いんだが
文頭に書いたようにあくまで最近の学者の流れを紹介しただけ
影響を受けているという根拠は似たような条文が書き出しあるからでしょ
逆に影響を受けていないという学者が論文があるなら是非教えて欲しいのだが
0773人間七七四年
2007/05/30(水) 00:35:36ID:KuRsO4+u棒道だが、「高見沢文書」によって示される棒道開削は「補修」と理解
されるという
つまり信玄が作らせたとしても一から作ったわけでは無いということでしょ
また補修と解釈しても信玄が作らせたかどうかもまだ揉めている
0774人間七七四年
2007/05/30(水) 00:39:53ID:Nf1pD0Cg認識だからね、以下のようなことを今川はやってるの?
数ある戦国法典の中でも傑出した内容を備えてるんだよねえ、その評価の高さは、信玄
自らが遵法の姿勢を明らかにし法を犯した場合は責任を負うことも辞さないとま
で公言しているという事を見ても容易に理解出来る。
現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。
0775人間七七四年
2007/05/30(水) 00:48:22ID:Nf1pD0Cg別に一から信玄が作らなくても目をつけて改修するだけでも凄いと思うが、
大規模な軍勢を素早く送り込む為の直線的な軍事要路が棒道だから、一万
以上の兵を率いて信濃に攻め入ったことのない信虎が建設したとは考えに
くい。
0776人間七七四年
2007/05/30(水) 00:50:30ID:5CoQ1kvx普通に資料を読むんじゃなくて、資料から必死に信玄マンセーになりそうな箇所を探し出して勝手に解釈してるだけというか。
つーか真面目に戦術面やら戦略面やらで元就と信玄比較してた奴らは
前スレのメガ豚自演誤魔化し連投などに呆れて消え去り
今残ってるのはメガ豚に構ってあげる優しさと暇な時間とを兼ね備えた奴らだけって感じだね、ここ。
0777人間七七四年
2007/05/30(水) 00:50:36ID:KuRsO4+u>数ある戦国法典の中でも傑出した内容を備えてるんだよねえ
具体的にどの部分?番号は?
>現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
>の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。
ぶっちゃっけその部分は今川仮名目録の影響受けているという部分なんだが・・・
0778人間七七四年
2007/05/30(水) 00:57:57ID:KuRsO4+uだから一番最初に書いたように
肯定的な学者も否定的な学者も
通説としての信玄の内政は否定、だけどそのすべてを否定すべきでもないと言う論調
信虎が建設したとかでなく昔からあったんじゃないかと言う話し
最も信虎も信濃佐久に対して伝馬制を整えているかある程度
補修しているかもしれないが
取りあえず棒道に関してはソースが足りないと言うのが問題なんだろうな
0779人間七七四年
2007/05/30(水) 01:00:56ID:Nf1pD0Cg最高権力者である信玄自らが、遵法の姿勢を明らかにし、法を犯した場合は
責任を負うことも辞さないって記載条55に書いてあるよ。
まあ確かに元々は今川の家法を元に二十六カ条からスタートさせたんだろうが
同世代の義元はそれ以上のものを作ったの?北条も
0780人間七七四年
2007/05/30(水) 01:07:17ID:KuRsO4+u>で公言しているという事を見ても容易に理解出来る。
あとこれは大名権限の低さの証明と捕らえる人間の方が多いと思う
他に最後の方にある(50以降だと思うが)譜代が威張らないようにとかは
国内の国衆に気を遣っているとも考えられる
今川の方は逆に
勝手に戦争するな婚姻結ぶな商人と商売するな
今川の派遣した役人に従え
不入の権なんて存在しないよ
みたいに国衆を統制する内容が多い
0781人間七七四年
2007/05/30(水) 01:10:41ID:N4XtVA4V平山優氏の説では
当初の甲州法度26か条のうち12か条に今川仮名目録の氏親が制定した
33か条の影響が見られるとのこと。ただし義元の増補版の影響はほぼ見られず
甲州法度が増補された57か条においては一条しか今川仮名目録からの
影響は見られず、天文16年以降は武田は今川の経験を参考にせずに独自に
法度を定めていったのだろうとしている。
0782人間七七四年
2007/05/30(水) 01:12:22ID:KuRsO4+u本当に早雲が作ったのか?という問題もあるが
あれは内容的に比較すべきは武田信繁の方だからあまり意味が無い
>>780
つけたし
甲州法度も他国との通信を一応制限していたな
国境のものはしてもいいよとなっているが
0783人間七七四年
2007/05/30(水) 01:15:34ID:Nf1pD0Cgそれはそう解釈する連中の方がおかしいだろ、現に大名権限の低さなんて
いうが独裁すぎてもいかんだろ。
まあ57カ条の信玄の分国法と義元の33カ条では(先に死んだせいもあるか
もしれないが)どちらが勝ってるかは言うまでも無い。
とにかく分国法は民政の基本であり、領国経営のバックボーンを成すわけでしょ?
信玄はその治国方針を成分化することで領民に指標と行動基準を示し、法秩序の
確立をはかった。
0784人間七七四年
2007/05/30(水) 01:27:00ID:Nf1pD0Cg商業政策や税制にしろ、これだけ多数行う程傑出した政治家は
信玄以外にこの時代いないでしょ。
0785人間七七四年
2007/05/30(水) 01:27:05ID:KuRsO4+u順次増やしていったか当初から55条だったかは置いておくとして
義元の増補版の方は大名権限が強すぎて
武田の内情に合わないから参考にしようにも参考にならないのでは?と思う
まあそれ以前に甲州法度が当初から55条じゃ義元の増補版は影響しようにも
年代的に無理が生じるが
>当初の甲州法度26か条のうち12か条に今川仮名目録の氏親が制定した
>33か条の影響が見られるとのこと。
個人的には当時の慣習を条文にしたため今川仮名目録と甲州法度に
共通の部分が多いだけなんじゃないかと思うけど、どうなんだろ
>それはそう解釈する連中の方がおかしいだろ
あれを逆に数ある戦国法典の中でも傑出したなんて捕らえる学者なんてまだ残っているの?
>まあ57カ条の信玄の分国法と義元の33カ条では(先に死んだせいもあるか
>もしれないが)どちらが勝ってるかは言うまでも無い。
あと多いほうが上って正気?
ちなみに義元が作ったのは1553年『仮名目録追加21条』
33条は氏親で1526年
甲州法度は1547年で1554年に追加2条
自分も寝る
0787人間七七四年
2007/05/30(水) 01:35:03ID:Nf1pD0Cg「何でも余の命に従え!」とアホな凡将が多かった戦国の世で、自らも戒めるような
条文は他の大名には見られなかったからね。
それからなあ(笑)軽薄な条例であれば多くても意味ないだろうがそうじゃないだろう(笑)
そもそも親子2代で作ったのと信玄一代で作ったのとじゃあそりゃあどちらが凄いかは伺える。
0788人間七七四年
2007/05/30(水) 01:38:10ID:PRmWe5xB治水新田
鉱山発掘
狼煙棒道
商業政策や税制
領国の基本だろ、これやらないで大名って他に仕事あるのか?
鉱山あれば誰だって発掘するし水害があれば治水は当然だし
信玄が行った商業政策に真新しいものは特に無い、その上信玄が主導したなんて
記述どこにもない。狼煙なんて2000年前からあるもの自慢にも何にもならない。
棒道も信玄堤も信玄主導したという記述は無い。あるというなら根拠を示せ。
メガ豚の信玄神話はもう聞き飽きた。
0789人間七七四年
2007/05/30(水) 01:50:18ID:Nf1pD0Cgもうやめとけ、自分が惨めになるだけだよ、てゆうか元就の信玄より
勝ってる内政手腕はどうしたの?(笑)
君の言ってることは要するに信玄の内政手腕は何もかも捏造だと言いたい
んだね、そんな風に言ってて君自身が自滅レスしてることに気がつかない?
甲斐の国の水害と鉱山とそれに対する政策を他の大名と一緒にするなと何度
言わせれば気が済むのか、全くwww
レスの流れで憤りを感じてるのが手に取るように分かるよ(笑)
「甲陽軍艦」、「甲斐国志」、「高白斎記」、「農政本論」、1560年八月の古文書、
1552年武田晴信竜朱印状、などなど
様 々 な 史 料 が あ り ま す よ 〜 〜 〜 〜 ^▽^
0790人間七七四年
2007/05/30(水) 01:54:00ID:6Jlr+Oi30791人間七七四年
2007/05/30(水) 01:59:20ID:Nf1pD0Cg江戸時代、甲陽軍艦のあまりの評判の良さに刺激されて「信長記、太閤記、北越軍記」
などがやや遅れて版本となったが、兵制の根幹にすえられた軍艦の用途とは違い、
軍記物、戦記物としての読み物としての需要の方が高かった。
甲陽軍艦のあまりの評判の良さから、これに嫉妬して批判を加えようという書物まで
現れるにいたった。「甲陽軍艦評判」とか「甲陽軍艦弁疑」といった書物である。
松浦鎮信が編集した「武功雑記」という書物が、決定的に軍艦を否定した。
0792人間七七四年
2007/05/30(水) 02:02:07ID:Nf1pD0Cgま、俺は君達の言う通り多くの史料を紹介したんだから、そんなに気になるんなら
他は 自 分 で 調 べ な さ い ね ^▽^
いい加減成長しろよアンチは、幼稚園児じゃないんだからさあ
0793人間七七四年
2007/05/30(水) 02:04:32ID:RaPLbarR0794人間七七四年
2007/05/30(水) 02:05:21ID:yRd0x7bL760によれば肯定派でも今まで言われてきたような信玄マンセーからはだいぶ落ち着いて
きた様だし、信玄の功績は通説よりは落ちると見ざるを得ないな。
0795人間七七四年
2007/05/30(水) 02:10:39ID:PRmWe5xB0796人間七七四年
2007/05/30(水) 02:15:42ID:Nf1pD0Cg明治の史学会をリードした田中義成博士は甲陽軍艦に学術的な批判を加える。
この愚か者は正式な学術論文を書かず、当時思いつくままに書かれた甲陽軍艦
の読後感想文を学術論文としており、裏づけ史料を求めることもなく甲陽軍艦
の価値を引き下げるような事をしたと言われている。
その結果、軍艦は学術書として取り上げるのは危険とし、敬遠されたばかりでは
なく、信玄の歩みの前半期に活躍する山本勘助は、軽輩もしくは架空と見なされ
伝説の人物という評価が揺ぎ無いものになってしまった。
しかし昭和四十三年に勘助の実在を示す重要史料が発見され、ようやく勘助は日の目
を見るやに思われたが、史学の主流は田中説をそのまま支持しているから、勘助の
実在を相変わらず疑ってるのである。
ではそのアホな田中博士はどんなことを行ったのか?
0797人間七七四年
2007/05/30(水) 02:20:32ID:Nf1pD0Cg見れば見る程笑えるwwwお前らって信玄の事業一定理解していた
つもりでいたんじゃないの?その上で批判ばかりしてたんじゃないの?
そんな一文>>760>>762見ただけでまーーーた喜んで喚くあたり、結局
ただ単に信玄叩きがしたいだけなんだな、まあそれより元就の話を進めろよ
君達は君達でね(笑)いつになったらまともな元就の統治能力を教えてくれるの?
無 い な ら 無 い で 早 く 謝 罪 す れ ば (笑)
0798人間七七四年
2007/05/30(水) 02:42:19ID:Nf1pD0Cg「武功雑記」というものは甲陽軍艦を決定的に批判しておりその一文を
掲げてみると、
「勘助子、関山僧にてちと学問有りしが、甲州信州の間にて信玄の事など覚書して
置たる反古などを取りあつめ、吾親の勘助事を結構につくり書たるなり。是を高坂
弾正が作といつわりて書たるなり・・・・・・・・・・」
と疑ってかかったのである。
田中博士はこの記録にさらに学術的批判を加え、この甲陽軍艦は、甲州流軍学を起こした
小幡景憲自身が、いろんな遺記をつなぎ合わせたのだと言い切ったのである。
この博士の論説は、その頃日本で唯一の官学の牙城である東京帝国大学の教授が、史料を
検討した上での研究ということであったので近代的な視野にたっての学術論文として大いに
注目され、それまで高かった甲陽軍艦の価値を大幅に引き下げる結果になるのである。
田中博士は、先に言ったように、正式な学術論文を出さず当時思いつくままに書かれた軍艦
の読後感想文を出してしまっているのである。極めて軽い気持ちで裏づけ史料を求めることも
なく「武功雑記」などが伝える巷間の極めて怪しい史料を素材にあげて批判してるのでる。
山本勘助の子の関山僧などという人物は、どこを探しても出てくるはずもなく、ましてや勘助
が山県昌景の一部卒に過ぎないという説も、とるに足らない伝説の見本のようなものであった。
0800人間七七四年
2007/05/30(水) 08:41:52ID:iCcpEn4Mことを考えれば、答えはおのずと明らか。
武田家は当主から跡継ぎへの権力移譲が2代
に渡って円滑に行われていない。
そのため移譲のたびに家臣団が分裂するはめになった。
一方、毛利元就は謀略を駆使した新興勢力であることを
良くわきまえ、中国者の律儀という方針を徹底させて、
傘下の豪族の信頼を得て戦国時代を生き残った。
0801人間七七四年
2007/05/30(水) 09:09:34ID:KxQSkCPa0802人間七七四年
2007/05/30(水) 09:12:41ID:76WCUDTX戦術戦略関連で真面目に語ってた連中がいなくなったのもわかる
「岩見銀山を朝廷の御料所とする方策」なんていうのは初見、かつ金山をいくつも持っていた信玄にも見られない新しい材料なのに
あっさり無視されてるw
0803人間七七四年
2007/05/30(水) 09:13:28ID:76WCUDTX0804人間七七四年
2007/05/30(水) 12:26:46ID:5CoQ1kvx後継者問題も目を覆いたくなる程の決定的な失敗だったが、それまでの積み重ねも見逃せない。
外交裏切り連発の勢力拡大法は、間違いなく後年の滅亡へと繋がった布石の一つ。
元々が信玄は境遇的に坊ちゃん大名と言っていいからな。
親父の信虎追放は家臣団が主導して担がれただけだし、信繁も良く出来た弟で内乱も起こさず支えてくれた。
そこら辺の、人格的な驕りが信玄にはあったんじゃないか、という気がする。
信玄って男の生涯は(特に晩年の駿河侵攻以降は決定的に)
勢力を拡げる毎に敵を作り、滅亡へのカウントダウンを早めていったのだという部分が面白い。
やっぱ親子だから信虎に似てるんだよ。手段を選ばず周りから嫌われて自滅するってコースが。
元就は根っこに「自分は成り上がり者に過ぎない」という考えがあって
それを常日頃から息子や家臣団に言い聞かせてたからね。
謀略で尼子を内部崩壊させた元就の事だから、如何に国の内部を固める事が重要か身に染みて分かってたんだろう。
あと誰もツッコまんから俺が書いとくが
信玄の戦略はスケールが大きく、元就のそれは小さいって何の冗談だ?
北は本願寺から南は大友まで、ほとんど日本の半分に近い程の大きさで元就の名前は出てくるぞ。
京都の将軍、足利義輝との親交が深かった事も見逃せない。
中国統一の総仕上げ・尼子攻めの際に、後方の大敵・九州の大友との和議にも繋がったしな。
大体が四方を海に囲まれた中国地方と、四方を山に囲まれた甲斐信濃じゃ明らかに後者のが狭い世界。
当時の最も重要な交通手段は船。主な経済都市が港に面してる事からも分かる。
まぁ、そもそも元就の出発点は同じく安芸の山国で、それを異常なほどに大きくしたから海に突き当たったって感じだけどな。
0805人間七七四年
2007/05/30(水) 12:54:35ID:mS5TiRAqこれは暗に負けを認めているということだな
0806人間七七四年
2007/05/30(水) 17:29:59ID:Dt38//uv元就は自分より遥かに大きい勢力と何度も戦って勝った。
0807人間七七四年
2007/05/30(水) 19:12:55ID:c2rdpQ4sワンピ一巻でいうと
元就→シャンクス
信玄→名無しの山賊頭領
みたいなもんだ。
0808人間七七四年
2007/05/30(水) 19:18:41ID:5CoQ1kvx信玄は「劣る相手に勝ち、同勢力相手にはジリ賓、大恩ある織田に喧嘩売って自滅」が正しいかと。
前半部分は間違ってないと思うよ。弱い相手潰して強大化するのは立派な戦略だ罠
川中島の和睦後すぐ騙し討ち→そこまでやっても上杉に勝てず引き分け。更に汚名が広がっただけ損、など
どうも大名同士での戦略駆け引きの段になると、粗が目立っちゃうのが困り物だけど。
冬季に攻め立てて朝倉の援護を当てにしてたら
「はぁ?俺らんとこ冬になったら雪降って動けんぜ。何言ってんだお前」と返されてポカーンとかね。
ちょっとスケールが小さすぎるし、織田を敵に回すにしちゃ、あまりに遠くの物が見えなさ過ぎる。
やはり信玄は、どこまでいっても「甲斐の虎」。
立派な英傑ではあったが、甲斐一国の名主として終わるのが本人にとっても幸せだった希ガス
元就に関する戦略を語ると、敵が強すぎたのは散々既出だが、コイツの場合
戦略ではもーどうしようもない力の差を、戦術的勝利で覆しちゃう変態だからね。
有田合戦しかり、厳島合戦しかり。
「劣勢で大軍相手に勝つ」「しかも総大将討ち取り」とかね、有り得へん。
第二次月山富田城攻略戦とか、巧妙に敵の力を削っていき、天下の名城を陥落させた見事な戦ぶりなのに
元就の戦績の中じゃ大して目立たないんだもん。
そら優秀な隆元でも親父に対して劣等感抱くだろなー、って感じ。
そーいや信玄が、毛利元就を「英雄である」として称えたという逸話は見つかるんだが
逆に元就が、武田信玄を称えたっていう逸話は見つかんないんだよなぁ。信長に対してならあるけど。
「中国一帯を制した覇者と、関東の一部地域で小競り合いしてただけの一大名を比べりゃ、そんなもんだろ」
と言われてしまえばそれまでだけど、ちょっと寂しい。
0809人間七七四年
2007/05/30(水) 19:40:16ID:c2rdpQ4sこれも村上や長野の豪族に戦術では負けておきながら国力に物言わせて勝ったんだから
国力が互角以上の大名相手には勝てる道理がない罠。
オレ朝倉好きなんで少しだけフォローしてくれてウレシスw
0810人間七七四年
2007/05/30(水) 19:50:07ID:KxQSkCPaしかし、元就は戦に頼らず調略によってなるべく血が流れないように頑張ってる。
どちらも孫子に沿った名将だが、信玄は下策で元就は上策に長じていたんだな、実際
0811人間七七四年
2007/05/30(水) 20:06:36ID:bnacfITV虚像の横行って怖いよね。
0812人間七七四年
2007/05/30(水) 20:09:54ID:5CoQ1kvxそれで実績残してるのが大事だよ。前例があろうと、効果が見劣りしても、プラスはプラス。
信玄の内政家としての手腕は評価して欲しい。
俺、軍事なら「元就>信玄」内政なら「信玄>元就」派だし。
0813人間七七四年
2007/05/30(水) 20:16:52ID:Dt38//uvそれまでは、力押し一辺倒だったよな。
信玄が元就の立場だったら即滅亡だな。
0814人間七七四年
2007/05/30(水) 20:29:10ID:c2rdpQ4s0815人間七七四年
2007/05/30(水) 21:30:07ID:PEY9N/xg軍鑑みたいに史実をベースにしつつ、創作を載せているモノが一番性質悪いね。真偽の判別が困難
0816人間七七四年
2007/05/30(水) 21:39:06ID:N4XtVA4V海賊が主力なんていう説まであるくらいだぞ。
0817人間七七四年
2007/05/30(水) 21:45:36ID:PEY9N/xgロクな史料がないって説はないぞ
それは「毛利の主だった武将への感状が見つかってないから主力は水軍じゃないか?」という話
史料量は毛利方・陶方武将の覚書や書状、神官の覚書などがいくつもあるべ
0818人間七七四年
2007/05/30(水) 21:49:18ID:1ZCdGnlM0819人間七七四年
2007/05/30(水) 21:57:07ID:jbtLXNYa綿密な計画のもとに実行された厳島とは天地の差
0820人間七七四年
2007/05/30(水) 22:09:11ID:oHbtjQky0821人間七七四年
2007/05/30(水) 22:11:09ID:5CoQ1kvxまぁ義元と比べりゃ、流石に厳しいが。
そもそもの話が「有田合戦を乗り切れるのって元就の他には信長くらいしかいないんじゃない?」
なんだから「一緒にするな」とかいうのも的外れな気もする。
実際、元就レベルの智謀か、信長レベルの神懸り的な強運がなきゃ
大抵の武将は有田合戦で滅びていただろう、というのは特に異論はない。
こういう次元の話になると前スレで「今川氏真すら討ち取ってない」と揶揄された信玄が可哀想だな。
あと遅レスだけど>>720
確かに元就の民政も充分凄いんだけど、直轄領支配とかどうも軍人の発想って気がすんだよね。
あくまで領土拡大の延長戦上にある方策で、国力上昇とかとは違う分野での政治力かなーって。
朝廷への工作など、外交手腕で言ったら元就は信玄より圧倒的に上だろ、ってのは同意なんだが。
0822人間七七四年
2007/05/30(水) 22:24:45ID:XbFeQTJ+0823人間七七四年
2007/05/30(水) 22:33:12ID:c2rdpQ4s武田氏が相手だったんだから一度くらい撃退しても何度も攻められていずれは国力の差で負ける。
元就・信長くらいだろ。こんな絶望的な状況下で敵総大将の首とって戦局ひっくり返した実績がある奴。
信玄なんか論外。
長野業正や村上義清なら、もしかしたら一度勝って追い返すくらいは出来るかも試練
0824人間七七四年
2007/05/30(水) 23:07:21ID:N4XtVA4V0825人間七七四年
2007/05/30(水) 23:08:38ID:Dt38//uv北条早雲もいけると思うのだが
0826人間七七四年
2007/05/30(水) 23:16:53ID:XbFeQTJ+局地戦が元就並みに強いわけではないと思う。
0827人間七七四年
2007/05/30(水) 23:47:27ID:Xeia8N84「以不思儀之器用、揚名天下、振誉八州」(大森氏頼が曽我祐重に送った書状)
0828人間七七四年
2007/05/31(木) 00:05:07ID:O2MK0new>「甲陽軍艦」、「甲斐国志」、「高白斎記」、「農政本論」、1560年八月の古文書、
>1552年武田晴信竜朱印状、などなど
最初に書いたが否定派の学者によるとそれらは通説の根拠とは成り得ない史料
>>790
初出は17世紀前半の記録だったと思う。
甲州枡そのものは少なくとも信玄時代に褒美か何かの時に升枡を指定していて
それがソースとなるらしい
武田家に仕えた小倉氏が甲州枡の独占販売をしていたと言われている
否定派によるとそれが信玄の時代にあったことはそれで分かるが信玄が始めた
というソースにはならないと
また郡内では独自の枡が使われているため統一とは言いきれない
多くの大名が各自に広めた度量衡と同じで、武田家だけを特別扱いする必要は?
という論調も
0829人間七七四年
2007/05/31(木) 00:45:25ID:Mkimeqrt村上とか小笠原領とか今川領とかで検地したことってあるのかな?
信玄の功績で検地ってのは聞いたことないんだがどうなんだろ?
0830人間七七四年
2007/05/31(木) 03:09:12ID:EQ9ChTxJ信長とか元就が別格としても氏康の河越の奇襲とかも相当凄いと思うが。
兵力差10倍とかだと戦う気すら起きないだろ普通。
政宗だと人取橋や窪田、島津だと耳川や木崎原。まぁ島津の場合かなり怪しいけど
寡兵で打ち破ったことは間違いないしな。
信玄はあまりそういうのないんだよね、最初から国がある程度大きかったから
寡兵で戦う必要がなかったんだろうけど。
0831人間七七四年
2007/05/31(木) 07:11:45ID:eauZ293Hホント、寡兵で大軍を打ち破ったっていう、それだけでも凄いんだよ。
後は九州なら立花宗茂とか。一向一揆衆相手で良いんなら朝倉宗滴なんかも大したもん。
>>825-826
早雲は異例の出世人で、道三のスケールアップ版みたいなとこあるが、どーだろね。
まず何とか有田合戦に勝つ。そっから色々工作して三百貫の自家がどうにか生き残れるように骨を折る、かな?
考えられるコースとしては、そんなとこだと思うが、相当厳しそう。
やはり、勝つだけでなく「敵総大将を討ち取る」という奇跡まで起こした元就や信長が変態、もとい別格なんだよな。
ちなみに、緻密な計算に基づいて陶を撃破した厳島合戦に比べれば
有田合戦で武田元繁を討ち取ったのは、確かに運の要素もあったと思う。
ただ、その前の段階で(初陣の)元就が行った陽動作戦で熊谷の別働隊を撃破。
その後の本隊同士の激突では数に押され後退しつつも元就自身が前線で兵士を叱咤激励し戦線を支え
それに業を煮やした元繁が勝機を掴まんと前線に出てきたところを見逃さずに矢を放つなど
やはり運の良さで片付けられる話ではなく、元就自身の才覚による処が大きいと思う。
0833人間七七四年
2007/05/31(木) 08:18:56ID:iQ1YYYJV有田合戦で一度勝ってから少しでも有利な条件で、と言いたいところだが正直無理ぽ
負けるのを見越して戦う前の段階で降伏しかなさそうだ。
つか宗滴の名前出してくるとかw
織田や上杉なんかも手を焼いた一向一揆相手なんだから凄いべ。
0834人間七七四年
2007/05/31(木) 08:32:25ID:eauZ293H有田合戦では一応毛利軍の指揮権を握ってるから戦術レベルでは辣腕を振るえたんだけど。
早雲が臥薪嘗胆の心持で、一時は武田の傘下に入る事を決意しても家中が納得しないだろう。
やはり有田合戦で何とか勝って一時的に武田の脅威を退けた後、確保した時間で内部工作するしかないと思う。
降伏するならするで、まずは毛利家内部での自身の地位を絶対的にして、それからという話になる。
関係ないけど「毛利早雲」って案外語呂良いね。
とりあえずこの議論だと信玄は良いとこないな。戦略でどうこうのレベルじゃないから。
0835人間七七四年
2007/05/31(木) 09:16:23ID:bqoPcuqN厨でしたwwww
800以降爆笑もんだな、元就の功績なんて信玄の足元にも及ばないっての
がまだ理解出来ないみたいだね、若輩者ばかりを倒した元就なんて誰も認め
てくれないよ永遠にwww
信玄が戦った相手は強豪ばかり、同世代もしくは年上の老練な武将だらけ。
元就が戦った相手は所詮は自分より若輩者だらけ、この差は大きいね。
ま、毛利というのは戦わずに馬鹿みたいに落ちぶれていったところを見ると
いかに元就が築いた版図が無駄なものかが伺えるね。
0836人間七七四年
2007/05/31(木) 09:29:42ID:bqoPcuqN先代が進めていた事業を引き継いでようが、信玄の手腕の評価が下がるわ
けではないよ、不遇な山国であれだけの事業を展開出来るのは歴史上随一
なのは揺るぎもないことだと思う。
ま、史料の裏づけがどうだとか言うのであれば元就の業績の方が信憑性無い
という事も考えられるんだが。マイナーな大名だから学者もいい加減に考えてる
のかもしれないが。
それと信玄の外交は多数のライバルの大勢力との戦いであり、中途半端な所で
病死しなければ間違いなく北条も徳川も信玄の足元にひれ伏してたと思うよ、誰
が見ても。
元就の外交なんてのは大内と尼子にしか影響与えてないでしょ、天下人から
散々踊らされ続けて滅亡寸前?
0837人間七七四年
2007/05/31(木) 09:32:41ID:eauZ293H書き忘れ。
河越夜戦は氏康の名前ばかりが挙げられるけど、俺としては北条綱成の功績も忘れないで欲しい。
地味だけど、綱成が一番好きなんよ、関東の武将だと。
ま、日本三大夜戦という呼称を持ち出すまでもなく
元就の戦上手っぷりを語る上で信長や氏康は外せんからね。
あんまりこのスレで戦術レベルの議論を続けるのも信玄が可哀想なんだけど。
0838人間七七四年
2007/05/31(木) 09:37:12ID:bqoPcuqN明らかに元就自身が作っていると全ての戦国ファンが認識してるんですが。
3つの両川体制というのを何であんなに版図を広げてまで続ける必要があるの?
あれで天下人の協力者として永遠に繁栄出来るつもりでいたのでれば凡将と言わざる
をえないね。
内部工作で分断されるというのを想定してなかったんだろうか?
0839人間七七四年
2007/05/31(木) 09:37:29ID:9Ar2SSa/早雲の持ち味は調停能力にある。大内氏か山名氏の
助力を受けられるようにするかもしれん。
また、家中に頼らずとも同士を集めてなんとか
しちゃうかも。
>>835
戦は兵力が同等の場合、指揮官の年齢が若い方が有利
という言葉をご存知ないようで
0840833
2007/05/31(木) 09:43:54ID:iQ1YYYJVそうだな。ちょっと当時の元就が置かれた状況を甘く見てたか。
なんか思ったけど次スレは「毛利氏と北条氏を比較検証するスレ」のがよくね?
信玄じゃ明らかに役者不足だし。
そうすりゃ豚みたいな変な信者も寄ってこねーだろ。
0841人間七七四年
2007/05/31(木) 09:44:12ID:bqoPcuqNその3大野戦の勝者はどうして信玄よりも戦の評価が低いのでしょうか?
北条厨はたかだかそんな戦一つだけで勝ち誇ったようにしてるから馬鹿にされ
るんですよ、全体的には信玄の方がはるかに武勇伝が多いから別になんとも
思ってないよ、その後の北条の戦い方見てると川越はただのまぐれだね。
桶狭間?今更寡兵での戦いと思い込んでちゃあ世話ないね。
0842人間七七四年
2007/05/31(木) 09:48:00ID:bqoPcuqN被害妄想にひたってきたか毛利厨ww
0843人間七七四年
2007/05/31(木) 09:48:58ID:vbTjVjA70844人間七七四年
2007/05/31(木) 09:51:21ID:bqoPcuqN毛利VS織田スレ見れば分かるが明らかに殺風景、北条との比較?やってくれた
方が武田ファンとしても邪魔な毛利厨が消えてくれれば大助かりだね。
0845人間七七四年
2007/05/31(木) 09:54:52ID:RDfVwDZ/>以上、武田ファンがいない間に無駄な負け惜しみレスを延々と続ける毛利
>厨でしたwwww
>>836 >>838
ID:bqoPcuqN お前一人しか武田信者いないじゃん。
信玄が不遇な山国っつっても金山があったからな。
要するに金持ちだったんだよ。だから大規模な
土木工事もできた。
>毛利の衰退=最後は吉川領のみ安堵=事実上の本家滅亡
武田は本当に滅亡しているけどな。
明治維新の原動力となったのは、長州農民が元々は
藩士だったという思い込みから、平民軍隊を組織できた
ことによることが大きい。
0846人間七七四年
2007/05/31(木) 09:57:02ID:bqoPcuqN妄想ばかりを抱きマイナーだと言う事もわきまえず、絶えず信玄や謙信などと
比較したがる付きまといたがるストーカーwww
北条厨・・・・信玄や謙信に散々にコテンパンにされたのを恨み続け、精神崩壊
になり、外交戦略で北条のふがいなさを認めたがらない駄々っ子ww
0847人間七七四年
2007/05/31(木) 10:00:39ID:bqoPcuqNやっぱ無知な素人なんだね毛利厨ってのはwww
海に面するかもしくは交通の要害である国の方がはるかに恵まれてるに
決まってるでしょうが、要するにタダで財力がまかなえるってわけ。
金山は特に甲斐の多数あるそれは信玄が発掘させた物、最初から手に入った
わけじゃない
0848人間七七四年
2007/05/31(木) 10:03:02ID:RDfVwDZ/武田信玄、毛利元就、北条早雲、各個人の実績を比べているのに、
元就、早雲の死後の家中を叩くわりには、信玄の死後については
何も言わないのか?
0849人間七七四年
2007/05/31(木) 10:07:44ID:bqoPcuqNするのがいかに困難でそこで手腕を抜群に発揮する事がいかに素晴らしいか
感じるものだが、やはり「信玄憎し=極めて羨ましい」と考えてる連中はどこか
歪んだ感覚持ってるんだろうね。
甲州法度にしてもそう、大名自らが法を犯した場合でも甘んじて罰を受けるとする
ような事を考えるのは当時の大名には真似の出来ないことだね、現代人であればこれ
を考えた信玄がいかに素晴らしいか理解出来るから武田信玄は戦国一評価がピカ一だと
言われてるんだねえ、そしてそれが理解出来ないアンチはただの性格が歪んだ人格欠落者
0850人間七七四年
2007/05/31(木) 10:10:43ID:bqoPcuqN何でそうやっていつまでもアホなレスを続けるの?(笑)
今まで信玄死後の武田のこととやかく言ってきたのが毛利厨だろ?北条厨だろ?
いやそれより、元就の内政手腕についてもっと取り上げないの?
ご自慢の元就の領国統治は史料などに信憑性があったりするの?しないの?
0851人間七七四年
2007/05/31(木) 10:10:55ID:RDfVwDZ/>海に面するかもしくは交通の要害である国の方がはるかに恵まれてるに
>決まってるでしょうが
元就が海岸線を勢力に取り込めたのは随分あとですが、なにか?
0852人間七七四年
2007/05/31(木) 10:14:00ID:bqoPcuqN更にアホなレスを連発する毛利厨www
そんな理屈であれば、信玄かて最初から(当主になった時)金山を多数
発掘出来たわけじゃない。
0853人間七七四年
2007/05/31(木) 10:20:56ID:vbTjVjA7甲斐も河川があって、田んぼは作れてたよ。貧しいというのはおかしいよ。
河川の氾濫はあったけど、治水なら結構な大名がやってるよ。
0854人間七七四年
2007/05/31(木) 10:21:25ID:Gfefpr+J後は大抵、穴山氏などを介した間接支配
実力で切り取ったはずの駿河金山さえ穴山氏に渡しているところを見ると、武田宗家の鉱山開発能力には何か問題があったのかもね
0855人間七七四年
2007/05/31(木) 10:26:58ID:u61MtR1f心機一転このスレに引っ越してきたんだろうけど、
やる事が全く同じで進歩ねえやつだよなw
0856人間七七四年
2007/05/31(木) 10:29:25ID:bqoPcuqNまず貧しいというのを理解していない、根本的なことを理解していない
山国と平地の国との差を全く把握していないね、まあこういう連中には
釜無川と御勅使川の境目付近の流れを変えるという事を説明しても無駄
だろうけど、他国の治水と甲斐の治水を一緒に見てる時点でこのスレに
要る資格無いね、無知であれば信玄と元就比較しても意味ないよ。ww
0857人間七七四年
2007/05/31(木) 10:32:20ID:0gl41dV2>>733
>>北条氏政の判断で越相同盟が破棄され、甲駿同盟に至ったというのは反論が無いようで
これは特に普通だとして
>>となれば今川義元の死に続いてまたまた棚ぼたで同盟を締結したと
凄いよラッキー続きだよ信玄!
ほんとナイスタイミングで死んでくれたよね、氏康
これは逆に言えば氏康であり続ける限りは越相同盟は維持されるということなんだけどね
これは別に直結はしないな。
>>氏政は上杉の足元を見る交渉に憤懣を募らせ、氏康は当然のこととみなして推し進めたと
それは養子入りが済んだ後の里見との再和睦の動きからもわかるよね
随分と里見との和睦にこだわるみたいだが、結局里見と和睦できたのかな?
里見と北条が和睦したのは1577年だったと思うが。
他の佐竹や簗田晴助、宇都宮は?こいつらは武田と北条が争っている時はそれに
呼応し、再同盟の後も戦い続けていたはずだが?
>>結局和与で成功したのは氏政の不信感の構築で、実権者の氏康にはたいした影響与えられなかったと
そういや氏政の嫁か誰か忘れたけど武田の女だったけ
この辺も影響してるんだろうね
反論するなら、甲相再同盟にいたった理由と根拠と明確にして論じてね
甲相再同盟に至った理由は武田と北条の利害の一致だろう。
北条にしてみても武田との争いの中で本願たる関東で気勢を上げ始めた反北条勢力
佐竹、里見、梁田、宇都宮といった連中の対処が必要であり、
上杉もろくに動かない状況では武田と結んで関東の敵に向かうほうが得策であったろう。
あのまま氏康が生きていようともこういった関東の敵たちが消えてなくなるわけではないし
上杉とて氏康が望むほどに武田と戦ってくれたかははっきりいって疑問。
そのまま状況が推移すればいずれは氏康といえど武田と同盟し関東に専念する方策に
切り替えざるを得ないと思うが?こういった反北条勢力を武田は自分の為とはいえ
煽って手を結んでいたしそれは信玄の外交として効果があったと見ていいだろう。
>>誰がこんなこと言った?
随分と北条の外交政策を持ち上げていたように思うが、
結局上杉に振り回され駿河を取られるだけに終わった北条の外交は
評価してないという事でいいのかい?
0858人間七七四年
2007/05/31(木) 10:41:41ID:bqoPcuqN信玄と和睦してしまう、氏康が生きてようが死のうが一緒だよ、信玄は
先に手を打って信長経由で謙信と和議だ。
ま、援軍出せと言ってる方が城に篭ってれば世話は無いね、所詮それだけの
器ってことだ氏康は
0859人間七七四年
2007/05/31(木) 10:41:42ID:Gfefpr+J確認できる「用水路を整備した」「堤防管理の賦役の代わりに免税した」程度なら、それこそ元就どころか氏真でもやっている
0860人間七七四年
2007/05/31(木) 10:42:06ID:vbTjVjA7武田信玄の偉大さって何なの?
勢力拡大したこと?最強の軍団?戦略?政治?
それとも織田と戦って勝ったこと?
0861人間七七四年
2007/05/31(木) 10:45:31ID:cQTCSv5e所詮は血が重要だよな
0862人間七七四年
2007/05/31(木) 10:46:00ID:bqoPcuqN出た出た一切ないだって?いくらでもありますよ史料なら。
川筋を変えるような事業を他の大名もやってるっていうの?
お前ら知ってるくせに悔しいから、駄々こねてるだけなんじゃないの?
>>860何そのレスは?(笑)
無知な小学生は早く勉強しろww
0863人間七七四年
2007/05/31(木) 10:47:04ID:vbTjVjA7無知だから聞いてるじゃん。
0864人間七七四年
2007/05/31(木) 10:49:48ID:Gfefpr+Jじゃあ史料を出せ
そしてそれがなぜ証明になるのか説明しろ
こちらはそれに則り「用水路整備」「管理住民への免税」レベルは認めてるんだから
お前はお前の主張を言い切りではなく、事実の提示で証明せよ
逃げるなよ?w
0865人間七七四年
2007/05/31(木) 10:51:48ID:bqoPcuqN否定したがる連中は何を説明しても否定的な考えしか出来ないから始末に終えないね
領民を水害から救う為に信玄堤を築いたといわれ。単に水害防止の為なら
概存の河川の両側に頑固な堤防を築けばよいのであろうが、信玄が進めた
のは川筋を変えることだった。
信玄堤築造は治水面ばかりが強調されてきたが、土地利用や水利体系の
再構築が大きな目的であったと推測されている。
築堤開始の時期ははっきりしないが、堤防の裏側に棟別役免除の条件で
集住者を募る(1560年)八月の古文書が残る為、この頃には一応の
完成をみたと考えられる。
信玄の治水事業は防災上のメリットだけではなく、用水の整備や新田開発、村
の新設などにも繋がる多目的事業だった。
事実信玄は工事が完成した永禄三年、堤防の近くに竜王河原宿を新たに設け、
農民に恩典を与えて移住させている、その時の古文書がある。
新居住者に棟別役(税金)の免除を約束し、堤防の保護管理にあたらせると共に
新田の開発にも従事させたのである。
しかもその新村設置の規模は壮大に広がり、釜無川と御勅使川の流域に、開田事業
に伴って上条新居村、清水新居村など多数の村が誕生している。
信玄堤は竜王町のものが有名だが、山神郷万力郷など数箇所に残っており、農業政策
にかけた信玄の遠大な理想が垣間見える。
0866人間七七四年
2007/05/31(木) 10:56:19ID:Gfefpr+J文盲乙w
>築堤開始
このことをまず証明せよ、といっているしお前が大風呂敷広げた事
逃げるだけでわざわざ長文コピペなんて使ってスレ資源無駄にすなw
0868人間七七四年
2007/05/31(木) 11:01:03ID:bqoPcuqNみっともねええええええ!!!!何怒ってるの?お前(爆笑)
否定ばかりしてる連中はどんな史料を見ようがどんな発想を
めぐらそうが無駄なあがきなんだよ、分かる?甲斐の国が度重なる
水害で苦しんでいたことも否定するんだろうかお前みたいなのは(笑)
信虎や以前の武田の当主が治水を率先していれば甲斐はとっくに信玄
以前から領国を拡大出来たでしょうね。
てゆうか信虎時代の治水の史料は気にかけないの?なければ信玄の功績
に繋がり、あればあったでまた違ってくるかもしれないが、お前その辺り
どうなの?ええ?(笑)
0869人間七七四年
2007/05/31(木) 11:04:41ID:bqoPcuqNにしてる姿見え見えだな、お前らに信玄はおろか歴史を語る資格無しだというのが
いい加減理解できたよ俺も
「甲陽軍艦」、「甲斐国志」、「高白斎記」、「農政本論」、1560年八月の古文書、
1552年武田晴信竜朱印状、などなど 俺はこれだけ提示した、まあアンチ共は自分でも
史料をこのスレで提示しない以上卑怯を通り越して人間として失格だよ
0870人間七七四年
2007/05/31(木) 11:05:52ID:Gfefpr+Jなんで話し逸らしの質問返しに何行も費やすのかね君は?w
つまり、証明できないことをエラソウに振り回してたヴァカはボクです、と認めるんだな
よし、もう苛めないでやるから安心して泣けwww
0871人間七七四年
2007/05/31(木) 11:06:00ID:vbTjVjA7信玄って義信殺したじゃん。あれはなんで?義信を殺したら離反者が出るよ。
0872人間七七四年
2007/05/31(木) 11:10:58ID:bqoPcuqN一度信玄の偉大さを見せ付けられれば、烈火の如く怒りだす姿はいつ
見ても滑稽だよwww
いかに信玄に対して嫉妬してるかが伺えるってもんだ、お前らは歴史
研究家なの?アマチュア研究家?
まあ何にしても、のっけから否定したくて否定してるのであれば、どんな
史料に眼を通しても意味無いね君達にはwww
発想が貧相過ぎるwww
0873人間七七四年
2007/05/31(木) 11:12:17ID:vbTjVjA7信玄以外で凄い大名いるの?
信玄が凄いなら信玄に負けたやつも凄いんだよねえ。
0875人間七七四年
2007/05/31(木) 11:15:04ID:vbTjVjA70876人間七七四年
2007/05/31(木) 11:17:55ID:n7vCcbg9元々、甲斐では治水やそれに関する祭祀の記録が平安時代の分から存在するのに、信玄だけが特筆されるのは疑問だったんだ。
堤防工事しようと思ったら、それこそ膨大な労役が必要なわけだし。一代もかけずにできるのなら、それこそ長年苦労しない。
0877人間七七四年
2007/05/31(木) 11:18:44ID:RDfVwDZ/編纂された資料だろ。カス
0878人間七七四年
2007/05/31(木) 11:23:24ID:EQ9ChTxJ0879人間七七四年
2007/05/31(木) 11:25:18ID:bqoPcuqN貧相な発想をどうも有難うwww
御勅使川と釜無川が交差する付近の暴水を知ってればそんな考えは出てこない
当時のあの地域の村々には大災害であったんだが
0880人間七七四年
2007/05/31(木) 11:27:38ID:bqoPcuqNの再構築を考えてきたのであれば君の意見も分かるが
0881人間七七四年
2007/05/31(木) 11:30:39ID:n7vCcbg9なんで「信玄の治水」を大々的に言ってる側が、挙証責任をあっさり放棄しているわけ?
史料を並べ立ててるけど、本当に読んで確認したの?
試しに聞くけど、甲陽軍鑑の何品に治水の話があるかいってみ?
0882人間七七四年
2007/05/31(木) 11:31:01ID:vbTjVjA7で、どれくらい効果が出たの?
変な資料を引用するのは良くないよ。
あと君はなんで豚と呼ばれてるの?デブだから。腕立てでもやれよ。そうすれば精強な信玄みたくなれるよ。
0883人間七七四年
2007/05/31(木) 11:31:14ID:bqoPcuqN話なんかも無知なんじゃないだろうか?段々そう思えてきたな。
0885人間七七四年
2007/05/31(木) 11:36:19ID:bqoPcuqN可愛い貧相な発想からくるレスを有難うww
どれぐらい効果が出たかは、信玄の生涯の版図を見れば分かるだろ、
富国強兵が実践された証拠だね、水害飢饉のままなら120万石は築けない。
版図の大きさだけなら生前の当時日本一。
0886人間七七四年
2007/05/31(木) 11:38:20ID:n7vCcbg9ちょっとまて。
生前の当時日本一ってありえない。
死亡時石高でさえ信長や元就、宗麟に抜かれてるじゃないか。
君は史実や講談ともかけ離れた妄想世界のことを語っているのか・・・?
0887人間七七四年
2007/05/31(木) 11:40:57ID:TZJHISiy「版図の大きさなら」
つまり武田領がいかに高山市みたいに
広いだけの田舎であったかをメガ豚は自慢してるんじゃないか?
0888人間七七四年
2007/05/31(木) 11:41:19ID:bqoPcuqN一体どこまで貧相な発想レスを続けるのやらwww
狭い甲府盆地の水害の癌である上流からくる暴水が甲府の民にとって
どれだけの災害だったか一切無視なんだねえ、それでよく信玄批判できる
よなあ。
要するに甲斐について一切無知なんだろ?もうやめたらみっともないレス
するのは(笑)
利根川の暴水?その付近にどれだけ人がいたの?
0889人間七七四年
2007/05/31(木) 11:43:23ID:n7vCcbg9ああ、面積か!確かに長野県はデカいからな。
>>888
ねぇ、そろそろ軍鑑の何品を根拠に治水について語ったのか答えてくれよ。
それとも本当は 全 く 読んでないとか?
0890人間七七四年
2007/05/31(木) 11:44:07ID:vbTjVjA70892人間七七四年
2007/05/31(木) 11:49:18ID:n7vCcbg9甲斐は22万8千石。これは慶長(太閤)検地時のデータ
でもそれ以前は貫高制だし、信玄の治世から既に何十年も経過した後だから参考になるかいな?
0893人間七七四年
2007/05/31(木) 11:50:14ID:bqoPcuqNなりすぎで笑えるwwww少し引っ掛けてやったつもりでいたがやはり噛み付いて
きやがったwww
甲斐 信濃 駿河これら丸々3国と、上野 飛騨 越中 遠州 三河 美濃
にも侵攻している。
元就よりでかいんじゃないか?大友んあかそれの半分程度だろ、一度当時の
勢力図みてみた方がいいよ
0894人間七七四年
2007/05/31(木) 11:51:36ID:vbTjVjA70895人間七七四年
2007/05/31(木) 11:54:12ID:n7vCcbg9面積だけの話なら版図とは言わない。
未だに軍鑑の何品かも答えられない点といい、史料はおろか辞書すら読めない?
0896人間七七四年
2007/05/31(木) 11:54:51ID:bqoPcuqN君は笑えるwww
その利根川ではどんな工夫がされたの?あれ?そういえば関東管領などという
チンケな大名がいたんだよねえ。
そうかそうかそんなに甲斐の治水事業が羨ましいんだねえ、全くこれだから
田舎者は困るねwww
信玄の卓越した政治手腕にいつまでも嫉妬する姿を見る事程面白いことはないからね。
0897人間七七四年
2007/05/31(木) 11:58:14ID:iQ1YYYJVまぁ住人は皆お前が議論に値しない低能だって前スレの自演騒動で分かってるから適当に構って遊んでやってるだけなんだろうが。
まともな武田好きからも毛嫌いされ、一人ぼっちでひたすら妄想信玄マンセーして楽しいか?
0898人間七七四年
2007/05/31(木) 11:59:54ID:bqoPcuqN全くこれだから発想に乏しい連中は冷静さを保てないから笑えるよwww
そうじゃないだろ、信玄の治水にどの程度効果があったかなんていう質問
してた小学生がいたから答えてやったんだろうが、水害飢饉が続いてれば
侵略戦争どころじゃないからね。
それから自分で一度見てみろな、どれだけの広さがあったか信玄生前の武田に。
経済地区に恵まれていた織田領の石高が凄いっていいたいの?1572年当時で
大友って九州の半分程度じゃないの?元就生前の毛利領って信玄より低いよね
0899人間七七四年
2007/05/31(木) 12:00:10ID:RDfVwDZ/関東管領は上杉謙信だバーカ。
利根川くらいの巨大な川だと、江戸幕府が成立してから
でないと治水が出来ないんだよ。
0900人間七七四年
2007/05/31(木) 12:02:25ID:vbTjVjA70901人間七七四年
2007/05/31(木) 12:03:34ID:bqoPcuqN見ろ!こいつらの必死さを(笑)俺一人に執拗に突っかかってくるこの姿を
この無知で貧相な発想レスを。
しかし残念ながら、武田信玄の偉大さが永遠に覆されることはないんですよ
領国統治にしても外交戦略にしても戦にしてもね。
ま、少なくとも元就や北条如きは比較にならないね、やはり信玄に対抗出来る
のはかろうじて3傑ぐらいじゃ内科医?
0902人間七七四年
2007/05/31(木) 12:07:37ID:RDfVwDZ/>俺一人に執拗に突っかかってくるこの姿
お前しか武田信者がいない現実を見ろ
0903仙台藩百姓
2007/05/31(木) 12:09:33ID:Jq2zQy1N0904人間七七四年
2007/05/31(木) 12:12:33ID:vbTjVjA70905人間七七四年
2007/05/31(木) 12:14:28ID:TZJHISiy「武田軍は騎馬隊だからつおいの!織田兵なんて目じゃないの!」
って涙目になりながら主張してたやつがいたな。あれってメガ豚?
0906人間七七四年
2007/05/31(木) 12:18:11ID:RDfVwDZ/0908人間七七四年
2007/05/31(木) 12:22:18ID:bqoPcuqNならいたが。
0909人間七七四年
2007/05/31(木) 12:23:23ID:bqoPcuqN0910人間七七四年
2007/05/31(木) 12:23:43ID:vbTjVjA70911人間七七四年
2007/05/31(木) 12:33:00ID:iQ1YYYJVもうホントね、メガ豚とか誤字連発で…
皆の笑い者になってんの自覚して、涙目になりながら必死に連投してる様が思い浮かんで、いと哀れ。
「てゆうぁ必死になりすぎて笑える」
(↑必死になりすぎて肝心なところでトチる図)
「発想が貧困」
「田舎者」
全部お前や信玄に当てはまる言葉だよ。
実生活のコンプレックスをネットで発散して、他の住人に迷惑かけんなや。
>>910
嫌われ者の武田信者を指す。
0914人間七七四年
2007/05/31(木) 13:01:19ID:eauZ293H「天然の要害」って言葉があるからね。混合して覚えちゃったんだろう。
「交通の要所/要害」
それぞれをググってみれば、同じような間違いが1000件くらい見つかるよ。
本当は元就と早雲の比較面白そうで色々レスしたかったんだけど
すっかり白けた流れなんで自重しとく。
0915人間七七四年
2007/05/31(木) 13:12:02ID:RDfVwDZ/>元就生前の毛利領って信玄より低いよね
同じくらいじゃねーのか。
ただ、石高は毛利領のが多かったようだが
0916仙台藩百姓
2007/05/31(木) 13:25:13ID:Jq2zQy1N元就時代の毛利でも検地やってたお?
0917人間七七四年
2007/05/31(木) 14:00:08ID:RDfVwDZ/正確には分かりませんが、精度が高いと言われる吉宗検地で比較した結果
毛利家の方が格段に多く、元就死後の増加分を差っ引いても、
若干多いんじゃないかと推測
吉宗検地
毛利輝元 278万石
武田信玄 173万石
0918人間七七四年
2007/05/31(木) 14:20:08ID:0gl41dV2必死になって干拓や新田開発とかしたからなあ。
幕末には実質100万石とかいわれていたのでは?
100数十年経った吉宗検地の時代ではややアンフェアでは、と思う。
0919人間七七四年
2007/05/31(木) 14:29:59ID:sPhrx/hAせめて同条件で計算しないと、単なる贔屓目になっちゃうな
0920人間七七四年
2007/05/31(木) 15:29:21ID:XTLGuNu7あと、感状が無いというのは間違いで「萩藩閥閲録」には元就直筆の感状が何枚も収録されている
研究者の間では、「水軍が主力」説とは全く逆で野島・因島村上家関連の感状が無いことから「水軍不参加説」のほうが活発に議論されている
それが何かの間違いで広がったんじゃ?
0921人間七七四年
2007/05/31(木) 16:51:16ID:1+Y0m4p/×野島→能島○
なので誤解しないように。(全くどうでもいいことだが)
0923仙台藩百姓
2007/05/31(木) 19:38:16ID:Jq2zQy1N聞かなかった事にしておくお
自家記録の戦果でいったら
ほとんど侍は死に絶えてるお( ^ω^)
0924人間七七四年
2007/05/31(木) 21:47:46ID:Y9VbWyxL毛利家は幕末まで存続したから、「毛利家文書」とかがあったはずだが…
そういえば、武田信玄関連のまとまった一級資料って何?
0925人間七七四年
2007/05/31(木) 22:11:36ID:5jyonKH8>他の佐竹や簗田晴助、宇都宮は?こいつらは武田と北条が争っている時はそれに
>呼応し、再同盟の後も戦い続けていたはずだが?
その辺事情が複雑だから一概にどうとは言えないと思うが
里見佐竹梁田などとの和睦交渉は1569年から
里見氏とは和睦交渉するも成功せずだと思う、1570年には伊豆小田原を攻撃
佐竹氏は武田と同盟結んだと言っても、自分の敵である小田氏と争ったり、
上杉と争ったり、陸奥に手を出したり
簗田氏は北条氏と和睦して足利義氏を古河城に
宇都宮は知らない
>>884
利根川や木曽川は昭和に入っても・・・だからなあ
その点甲斐は当時の技術で何とかできる程度だったんだろうな
1583年に氾濫した気もするが
>>889
ぶっちゃっけ軍鑑に治水の話しあったかなーと思うが・・・
つか武田厨は軍鑑読んだことない人間多いんじゃないか?
「 sage」の人も読んだこと無いみたいだったし
0926人間七七四年
2007/05/31(木) 22:21:24ID:rFXlAktN0927人間七七四年
2007/05/31(木) 22:50:07ID:A1S0L0bP氏康が実権者の時に具体的に武田と再度結ぼうという動きがなく、甲相再同盟が氏政の判断で行われたものならば、氏康が実権者である間は再び武田と結ぶなど余程のことが無い限り考えられない
加えて里見との再和睦交渉の動き
あとお前は本当に文章の上っ面しか見ないのな
里見と結ぼうとした行為そのものを重視してるんであって、それこそが武田に専念したいという氏康の考えの表れだとしてるわけだが
梁田は相馬、宇都宮・佐竹は那須、由良、葦名、土岐、菅谷、岡見と相手するのがいるわけだが?
なんで意図的に書かなかったの?
そもそも当時の状況で北条と佐竹は直接領地接してないし
>>上杉もろくに動かない状況では
いままでの俺のレスは全く忘れたのか?
>>上杉とて氏康が望むほどに武田と戦ってくれたかははっきりいって疑問
上野の領有を認められたわけだが?
>>そのまま状況が推移すればいずれは氏康といえど武田と同盟し関東に専念する方策に 切り替えざるを得ないと思うが?
これの根拠であろう上記二つは前者はお前の誤認、後者は希望的観測に過ぎない
>>こういった反北条勢力を武田は自分の為とはいえ 煽って手を結んでいたしそれは信玄の外交として効果があったと見ていいだろう。
遠交近攻外交
初歩の初歩でどこの大名もやってることで別に特記されるようなことではあるまい
またまた論点そらしだろうからこれにはこれ以上反応しないが、今俺が言ってるのは武田の駿河侵攻による三国同盟の破棄、甲越和与、甲相同盟においてのそれぞれの武田の外交手腕についてだ
>>随分と北条の外交政策を持ち上げていたように思うが、
具体的に俺が北条の外交政策を持ち上げたところを抜き出して来い
>>結局上杉に振り回され駿河を取られるだけに終わった北条の外交は 評価してないという事でいいのかい?
駿河侵攻から小田原での焚き火についてはアレだけ噛み付いてたのにな
なんというか飽きれてものも言えん
とりあえず俺が「随分と北条の外交政策を持ち上げていた」レスを抜き出してからの話だ
0928人間七七四年
2007/06/01(金) 07:57:14ID:zi9O8VeP謙信が懐柔され、越中に出兵。
0929人間七七四年
2007/06/01(金) 08:02:15ID:Pft+ViAM兎に角、大戦果だったことには違いないようだね
総大将の陶が逃亡もできず自害に追い込まれているぐらいだから
狭い島に追い込んでの殲滅戦だからこそ、だろうな
0930人間七七四年
2007/06/01(金) 09:34:20ID:PQHnPA99東国というのは、我が北条に武田に上杉に今川に徳川にと100万石クラスの
集積地帯、そんな各大名は互いに英知を火花ちらして戦ってきたからこそその実力
の度合いも分かるというもの、それにひきかえ元就は弱い相手とばかりしか戦った
ことない上、厳島なんて怪しげな合戦記録を持ち出しても凄みが見えないんだよね
0931人間七七四年
2007/06/01(金) 09:39:03ID:7jmCdVVgコーエーの本にも書いてあったっけ。
0932人間七七四年
2007/06/01(金) 09:55:23ID:pe4CQqA60933人間七七四年
2007/06/01(金) 09:57:00ID:zi9O8VeP武田は毛利より石高も拡大率も経済力も戦術も無い。
0934人間七七四年
2007/06/01(金) 10:04:13ID:PQHnPA99義元といった具合に、群雄割拠していた時代を勝ち上がって勢力を大きく
してきたもの同士の戦いこそが戦国のメジャーなわけ
所詮弱い相手とばかり相手にしてきた元就の能力なんて氏康の一家臣並みだよ
大名としての器かなあ元就は
0935人間七七四年
2007/06/01(金) 10:12:44ID:Pft+ViAM0936人間七七四年
2007/06/01(金) 10:37:02ID:6vIDzziC前半部分だけならお前の意見に賛同してくれる奴がいるかもしれんが
後半でかりにも中国地方の雄の元就を氏康の家臣程度だとした時点でww
元就に大名としての器があるかという疑問とか言ってたら
いったい誰に大名としての器があるっていうんだよw
お前の基準なら三傑も大名の器がないんだろうなw
0937人間七七四年
2007/06/01(金) 10:49:40ID:PQHnPA99吉川小早川両家から領土の配分について迫られる程大名権力に乏しい元就さん
に器があるっての?三本の矢の教訓って何?
それにお得意の内部工作は、氏康や東国の列強には100パーセント通用しないね
家臣を信じきれない凡大名だけに引っ掛けやすい策略だったからね元就のは。
0938人間七七四年
2007/06/01(金) 10:53:34ID:pe4CQqA60939人間七七四年
2007/06/01(金) 11:03:26ID:Pft+ViAM信玄の虚像と同様にね
0940人間七七四年
2007/06/01(金) 11:17:37ID:PQHnPA99んじゃないのか?東国は皆雌雄を決してるから戦ったもの同士史料などを見比べれば
氏康の凄さや、信玄や謙信や義元の凄さが見えてくる分、少々通説と違う部分も見えてくる
のもやむをえないことだけど、元就は思いっきり虚像だらけだからね
そもそも厳島や有田合戦や郡山城の戦いなども信憑性の無いものばかり
厳島合戦から元就没後まで弱い勢力相手に20年もかかってやっと中国地方統一しただけの
田舎武将の元就の何が凄いの?
0941人間七七四年
2007/06/01(金) 11:28:50ID:1mDvra++やっぱり軍記物の関八州古戦録を信じてる人間には、史料の信憑性の見分けもつかないんだね
で、軍鑑すら実は読んだことが無いというオチw
0942人間七七四年
2007/06/01(金) 11:58:50ID:qzhr/58f信長よりも前の時代でこれだけ先進的な武将だったとは
やりかたが強引すぎて追放されたようだが
逆に信玄は戦が強いだけのボンボンという印象
特に戦略がいきあたりばったりすぎ
上杉相手にも正面からいきすぎ
信長のようにしたたかにいけないのはどうも
戦の強さと内政面での信虎の遺産で領土を広げただけなんじゃね?
実質3代目の勝頼で亡んだのもよくある話だな
元就はしらね
0943人間七七四年
2007/06/01(金) 12:55:58ID:goO/M9PF0944人間七七四年
2007/06/01(金) 13:29:21ID:CqLh2WH3だが、元就は毎度毎度一族が仲違うことのないようにと諭していたようだから、あながち嘘ではないということくらいも戦国板居るくらいならわかるよな?
0945人間七七四年
2007/06/01(金) 13:55:25ID:VPwmW2+d神格化されるほどじゃないだろ、家康に兵力2.5倍なら勝てるくらいの強さ。
0947人間七七四年
2007/06/01(金) 14:27:27ID:ocC/SD7Fってか軍鑑が「品」で分けられているのもそもそも知らないっぽかったがw
0948人間七七四年
2007/06/01(金) 14:28:06ID:pe4CQqA6客観的に見て、元就の立場は、武田や上杉に挟まれた真田や村上が、最終的に武田上杉を滅ぼして、百万石の大大名になるぐらい、凄いことだろ?
0949人間七七四年
2007/06/01(金) 16:11:50ID:XDiUVZNeちゃんと信玄自身が信虎の政策を発展させているし
なんでも信虎の功績にするのはどうかと思うがな。
なんか見解が極端じゃないか?
0950人間七七四年
2007/06/01(金) 16:26:43ID:PQHnPA99地域のトップがこんな程度じゃあ、元就風情でも大勢力になれて当然だな
200戦もこなしていておいて、あの程度しか勢力広げられないの?っと言われても
仕方がないしな
0951人間七七四年
2007/06/01(金) 16:35:56ID:PQHnPA99考えても中国地方なんて明らかにレベル格は下なのは必然なことですね
義隆と晴久の愉快なお二人=親から受け継いだ大勢力を維持できず衰退滅亡
弱小の元就に敗れ去る
東国の強豪=皆一代で大勢力を築き上げた名将揃い
0952人間七七四年
2007/06/01(金) 17:09:39ID:CqLh2WH3歴史小説の読みすぎか、時代背景の混同ではないかと思う
0954人間七七四年
2007/06/01(金) 17:27:42ID:PQHnPA99そりゃ毛利の存在した中国地方についてしか知らない側の人間からすれば
一般人や歴史家がどう考えてるかなんて想像もつかないでしょうね、井の中の蛙
というやつです
大国同士ひしめきあってる地域の戦略を楽しむものなのですよ人間はね
確かに歴史小説を読みすぎてる人間からすれば元就を過大に評価したがる事も頷けます
0955人間七七四年
2007/06/01(金) 18:12:39ID:1/3SP92B>義隆と晴久
何を根拠に尼子晴久公を愚将だと言い切った?
吉田郡山城戦以外はほとんどミスがないぞ?
0956人間七七四年
2007/06/01(金) 18:12:41ID:kznLzmvh0957人間七七四年
2007/06/01(金) 18:13:37ID:mdlV7VQmしかも新クソスレまでたててw
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180656784/http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180656784/
0958人間七七四年
2007/06/01(金) 20:07:52ID:vOKyFh4k100万石の今川義元相手に勝ったのなら、
すごいと認めるんだがな。
でも信玄じゃムリポ
0959人間七七四年
2007/06/01(金) 21:51:45ID:XDiUVZNeぶっちゃけ信長を持ち上げているようにしか見えん。
0961人間七七四年
2007/06/01(金) 22:27:28ID:rSFL2MMQ甲斐国史の棒道、それは1600年に秀忠が棒道を利用して諏訪に入ったと言うだけで
棒道が信玄が作ったとは書いていないようだが・・・
甲斐国史の編纂時期には棒道を信玄が作ったという話しは無かったみたいだが
あと遅くなったが関八州古戦録には武田が長野2万を破るという話しになっていた
>>941
甲陽軍鑑には
当時最も優れた大名の一人として毛利元就の名が挙げられていて
その功績がいろいろと書かれているからねー
他に信長氏康謙信義清などの名も
信長については戦に関しても謀略に関しても凄いとかいろいろ書かれているけど
信玄の遺言の辺りでは信長なんて家康いなければ何も出来ないとなっているw
>>942
信玄が戦に強いかボンボンかはともかく
信玄初期の戦は信虎の蓄えた軍資金によって賄われていたと軍鑑にはある
信虎追放の原因はいろいろ言われているけど
その年甲斐では天災などにより100年に一度の凶作だったため
当時の価値観から異常気象を防ぐために当主の交代が必要だったと言う説も
ちなみに義信謀反幽閉自害の時期も大凶作の時期で甲斐か信濃で子どもを
売り払う時の証文が残っていたりする
0962人間七七四年
2007/06/01(金) 22:48:54ID:rSFL2MMQ他に詳しく書くと
王代記には15世紀末に地震で金山が潰れとかあるから
信虎以前の可能性がある
税制も信玄は1542年に棟別台帳作っているが信虎時代に作られていたかは不明だし
信虎時代は棟別銭は領国全体とは言え一部の層に課せられていただけと考えられている
他に税額を信虎時代より引き上げたり
平山氏などによると信玄は地下人や寺社職人などにまでその対象を増やしている
そのため逃散があいついだとか
1550年前後の大飢饉の時には
逃散が相次いだため当初の『甲州法度』の規定では対応できなくなり
様々な規定を追加している
0963人間七七四年
2007/06/01(金) 23:07:22ID:iMd1C7DThttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/
0964人間七七四年
2007/06/01(金) 23:30:34ID:Efd7XJ4Vハンガリーの大逆襲! 立ち上がりの猛攻撃!
現在大激戦中! ハンガリーに一億超の大差で苦戦中!
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0965人間七七四年
2007/06/02(土) 01:04:39ID:k1rHU62N屁理屈レスを続けておりますwww
信虎が有能な政治家とか言ってるようなレスしてれば世話ないね、そうであれば
侵略戦争はもっと楽に進めていたはずなのは誰が見ても分かること、そもそも
領民の生活や侵略戦争を行いやすいような実直な政策を出来てないと有能とは言えない
所詮こんな基本的なことも知らないのが毛利厨、だから元就自身も馬鹿にされる。
山岳地帯における内政手腕を発揮した信玄と元就のそれは比較にならないというのは
誰でも理解出来るが、毛利厨は必死になって無駄な悪あがきをしております。
また絶対的な太守がいなくなって弱体化しつつある大内と尼子を攻め滅ぼす元就より
最強といわれた謙信との戦いや、長年の3国同盟の北条今川を一度に攻め勝ったこと
の方が評価は高いのは当然のこと、信長包囲網でもその信玄の壮大さが理解出来ると
いうもの
0966人間七七四年
2007/06/02(土) 01:19:15ID:k1rHU62Nまず戦に強いかどうか分からないと言ってる連中はろくに調べもせず根が信玄否定信者
なもんだから、勝手に「どうせ兵法ではなく兵力にものを言わせた戦いだろ」とか妄想する
ことしか出来ない哀れな連中なんだね。
信玄とその軍団最強説もそう、武田軍に致命的な負けがどれだけあったのか説明してほしいね、当時の
逆に上杉や北条や今川は武田軍に勝ったこと一度もないよねえ、徳川もそう。
0967人間七七四年
2007/06/02(土) 01:24:22ID:zky8RmzJ>>氏康が実権者の時に具体的に武田と再度結ぼうという動きがなく、甲相再同盟が氏政の判断で行われたものならば、氏康が実権者である間は再び武田と結ぶなど余程のことが無い限り考えられない
加えて里見との再和睦交渉の動き
あとお前は本当に文章の上っ面しか見ないのな
里見と結ぼうとした行為そのものを重視してるんであって、それこそが武田に専念したいという氏康の考えの表れだとしてるわけだが
意思だけでうまくいくならこの世は成功者しかいなくなるぞ。里見と和睦しようとして
武田に集中したいと思ったはいいが結局里見と和睦できず戦いは続く。
里見との和睦が武田との戦いに集中する意思の表明だというなら逆にいえば
里見に絡みつかれながら武田と戦うのは厳しいという事になる。
三船山で北条を打ち破り房総に力を拡大し1570年には逆に攻め込んで来ている里見は
決して北条にとって侮れる相手ではない。謙信は上野よりも越中に夢中だし
氏康といえどその状況でいつまでも信玄相手に我を張り続けたとは思えないがな。
>>いままでの俺のレスは全く忘れたのか?
ぶっちゃけた話謙信が動いたとかいっても信玄とろくに戦ってないだろう。
1569年8月から10月末までは越中侵攻、1569年11月からは関東の倉内にはいったけど
武田を攻めるどころか佐野を攻めている。
貴方が上杉が北条に対して真摯に向き合うようになったという養子縁組成立は1570年4月
それまでも、そしてその後も駿河では武田と北条の熾烈な攻防戦が展開されているのに
謙信はろくに攻めず、9月に信玄が来たら自領に援軍を送っているだけ。
12月には「来年の2、3月に越中を攻めて攻略できたら毎日看経します」と
いう願文を書いているはずだが?どうみても越中で領土拡大するのに夢中で
武田領土侵攻なんて片手間だろう。そもそもやる気があったのかどうか。
1571年一月には駿河で深沢城が攻められて北条から援軍を要請されているが
これまた部下を上野に送っただけでろくに戦わなかった。
しかも武田勢が来ないと見るやその部隊も呼び戻して越中攻めに動員している。
3月には越中を攻めて10数城攻略。このころには駿河をめぐる攻防戦はあらかた
決着がついている。1572年2月には西上野の武田領土の石倉を攻めているが
これは越相同盟崩壊後。しかも信玄が来たらろくに戦わず
対峙戦に終始してる。石倉は1571年12月にも攻めていたか?
ちなみに5月からはまた越中攻め。
正直こんな状況で氏康が生きていようと上杉がどれだけ戦ってくれるというんだ?
謙信にしてみても信玄と無理に戦うよりも越中を攻めたほうが効率的だし
うまみもあるだろう。
>>今俺が言ってるのは武田の駿河侵攻による三国同盟の破棄、甲越和与、
甲相同盟においてのそれぞれの武田の外交手腕についてだ
だから甲相再同盟において北条が武田と戦う事の不利を考慮する事態に
なるにあたってその遠交近攻政策は一定の効果を持ち、それは武田の
外交として評価していいんじゃないか、という事だよ。
0968人間七七四年
2007/06/02(土) 01:31:38ID:k1rHU62N将軍義昭との仲介を頼み謙信と和睦したのは信玄
氏康は有能だけど外交戦略では信玄の方が一枚上といわざるを得ないね
0969人間七七四年
2007/06/02(土) 02:08:13ID:DHi5QasC横からだが
相手の人は
上杉は武田北条の意向に関わらず両者との争いから距離を置いている
里見は武田北条の意向に関わらず北条と争いつづける
だから史実で武田が上杉に邪魔されること無く北条と戦えたのも
北条が里見に邪魔されつつ上杉の協力を得られず武田と戦うことになったのも
武田北条の外交努力に因る部分は少なく外交能力を評価するほどでもない
と言うことなんじゃないか?
個人的には武田がそのような上杉里見の行動を見越した上で北条と戦ったというなら
その外交能力は素晴らしいと思うが史実は北条がいきなり介入してきたで違うし。
北条に関しては上杉が領土返還養子差出をしてもあそこまで消極的だったと
気づかなかったのは北条の外交能力諜報力の不足だと思う。
で氏康の戦う意思だけど越相同盟が機能し出した1570年ぐらいは
駿東郡において一応は一進一退
上野方面は多分北条が優勢でまるっきり不利というわけでも無かったけど
0970人間七七四年
2007/06/02(土) 02:38:52ID:NoR1Iy+c>>951の自称北条ファンは 東国の強豪=皆一代で大勢力を築き上げた名将揃い
といってるわけだけどこれについてはどう思う?
もちろん951は強豪には北条氏(具体的には氏康)も入れてると思うけど。
0971人間七七四年
2007/06/02(土) 03:05:37ID:k1rHU62N>義隆と晴久の愉快な二人(笑えるw)
に対する疑問は無いわけ?ちゃんと君達毛利厨が元就の相手は凡将ばかりと
理解してるからじゃないの?そろそろ本格的に堂々と言ってみろよ。
大内尼子は親から譲り受けた大国を滅亡させる大名であり、一国から大勢力
を築き上げた東国の大名なんか目じゃないっていう頓珍漢な考えが毛利厨だろ?
0972人間七七四年
2007/06/02(土) 03:14:02ID:NoR1Iy+cで、どう思う?
0973人間七七四年
2007/06/02(土) 03:47:31ID:k1rHU62N毛利北条をマンセーしてれば叩かれないとの思い込みですか?ww
群雄割拠していた時期から関東甲信越の力関係をみていけばおのずと
明らかですね。
武田は信濃〜駿河〜海道方面へ
北条は関東方面
上杉は北陸〜関東の一部
今川は海道方面
それぞれが広範囲に渡って一代で大勢力を築き上げてきた名将。
で、逆に大国を衰退滅亡させた中国の凡将についてはどう思いますか?
0974人間七七四年
2007/06/02(土) 08:42:32ID:JOPps+sS本当になんと言うか…
氏康がそういう思考をしたと言っているのにそれで成功するわけが無いとか頓珍漢なこと言って真面目に話すつもり無いのか?
>>逆にいえば 里見に絡みつかれながら武田と戦うのは厳しいという事になる。
逆でもなんでもないし、佐竹は陸奥に下野に常陸南部に手を伸ばして勢力拡大してるわけだが、佐竹に出来て北条に出来ないと?
>>房総に力を拡大し1570年には
越相同盟により北条氏康の子が上杉の養子入りしたのがいつかお忘れですか?
>>謙信は上野よりも越中に夢中
越中にも親武田がいるのをご存知ですか?
>>1569年11月からは関東の倉内にはいったけど 武田を攻めるどころか佐野を攻めている。
そのときにその佐野君たちは親武田の立場をとってるわけだが、これは牽制として認めてくれないのですか、そうですか
>>ぶっちゃけた話謙信が動いたとかいっても信玄とろくに戦ってないだろう。
信濃にちょっと上杉が出てきただけで駿河から撤退したと主張していた人がいましたが、どなたでしたっけ?
ついうっかり忘れてしまいましたが、確かにこのスレにいた覚えがあるのですが、ご存じないですか?
>>だから甲相再同盟において北条が武田と戦う事の不利を考慮する事態に なるにあたってその遠交近攻政策は一定の効果を持ち、それは武田の 外交として評価していいんじゃないか、という事だよ
そもそもその親武田の立場をとった者たちは最初から反北条で抗争してきたわけで、その後甲相同盟が成立した後は佐竹を旗頭に反北条で団結しているように、武田の行動如何に関わらず敵対するものであって、格別武田が反北条で団結させたわけでもない
で、評価できるのか?
上洛上洛とせっついて織田の同盟者であった武田を離反させた足利義昭ぐらいしたなら評価できるがな
それから那須を反佐竹といっていたが反北条だったな
で、「俺が随分と北条の外交政策を持ち上げていたレス」の抜き出しはまだなのかい?
妄想を元に訳のわからん主張をしていたと言われた側としてはハッキリして欲しいんだが?
0975人間七七四年
2007/06/02(土) 10:40:30ID:k1rHU62Nただでさえ謙信に関東を脅かされ北と東の関東の敵勢力も存在してるから
普通に考えれば信玄と敵対すれば自分が周囲を敵に回すと考えないのだろうか?
義元死後の今川家が大国を維持できない事くらい考えられない程情勢を把握する
能力が無いわけではあるまい。
北条厨は何か氏康の外交戦略が運が悪かったみたいな言い訳してるけど、謙信から
の援軍を得られず、信玄からは北条包囲網を敷かれ結局駿河を攻め取られたという
のは史実です、全体の情勢を見誤ったとしか考えられませんよ氏康は。
細かいところを主張したくても無駄だと思います。
0976人間七七四年
2007/06/02(土) 10:50:16ID:jMDgM7jNそれってなんて循環論法?
0977人間七七四年
2007/06/02(土) 11:37:18ID:C/xPmTdn>それぞれが広範囲に渡って一代で大勢力を築き上げてきた名将。
氏康が一代で大勢力を築いたってところに何の疑問も持たないとはね。
氏康が家督継承した時点ですでに関東では最大勢力なのに。
そこまでのし上がったのは氏綱、宗瑞の活躍あればこそなのにさ。
0978人間七七四年
2007/06/02(土) 11:56:45ID:J02bb3OG小さな側はあっちについたりこっちについたり、時には連合してある勢力に対抗しようとしたりした
その中で中小豪族を潰してまわったのが信玄で、氏康は連合してきた足利・両上杉と対峙しこれを撃破した
ところが、中国地方は既に数ヶ国を持っていた大勢力が二大対立の段階に入っていたにもかかわらず、元就一人が歴史に出るや否や関東の段階を飛び越して地方制覇を実現
そして東海・畿内でも織田信長がやはり一代で勃興して一ヶ国程度を保持していた諸勢力すらあっさりと抜き去る事に
結局のところ、関東には「地盤を固めた大名を潰せるほどの英雄が一人も出なかった」から延々と地方制覇すらできずに小競り合いが続いたわけだ
0979人間七七四年
2007/06/02(土) 14:03:28ID:TT10sJys大内の場合は陶の謀反で大分地盤は揺らいでると思うが。
0980人間七七四年
2007/06/02(土) 15:41:29ID:OB3AboMkそれも元就が厳島で勝利を収めたからこその話だしな。
陶だって毛利を遥かに凌ぐ大勢力で、兵力差が嫌んなるくらいあったという事は変わらない。
ただ元就の凄さを語る際には、単純に尼子と大内を潰した、ではなく尼子と陶を潰した、の方がより正確だとオモ
家臣が謀反を起こしたケースとしちゃ、曲がりなりにも百万石を瓦解させずに維持させた晴賢は大したもんだ。
義長を傀儡に据えて大友との連携を図るなど、ベタだが効果的な手も打ってるしな。
このスレ、すっかりメガ豚の隔離スレと化した感があるが
アイツ一人さえいない状態の時は普通に雑談できんだよな。
>>800-834の流れとかそれぞれ楽しそうなのに、メガ豚が顔出した途端に呆れて帰っていった。
0981人間七七四年
2007/06/02(土) 15:52:40ID:zky8RmzJ>>氏康がそういう思考をしたと言っているのに
それで成功するわけが無いとか頓珍漢なこと言って真面目に話すつもり無いのか?
あのねえ・・・。もともと貴方の主張は>>733で述べられていた
>>ほんとナイスタイミングで死んでくれたよね、氏康
>>これは逆に言えば氏康であり続ける限りは越相同盟は維持されるということなんだけどね
これだろ?
>>氏政は上杉の足元を見る交渉に憤懣を募らせ、氏康は当然のこととみなして推し進めたと
>>それは養子入りが済んだ後の里見との再和睦の動きからもわかるよね
そしてこう続けた。里見との和議がうまくいけば信玄と戦い続ける路線を
続ける事もできたかも知れない。まあ個人的には動かない上杉にいづれは愛想をつかすと
思うが。しかし里見との和議は結局うまくいかず上杉は動かず、武田は活発に動いている。
こんな状況で里見と和議をしようとしたことで貴方が示されたという
氏康の武田と戦い続ける意思がその後も持続されたとは考えにくく
>>氏康であり続ける限りは越相同盟は維持されるということなんだけどね
という事にはならない。そして氏康である限り越相同盟が維持されるという根拠として
里見との和睦をしようとしたことを根拠とするのも不適当という事になる。
結局うまくいかなかったし、その後でいづれは武田との和睦を決断せねばならない時が
来るのは十分考えられる。
>>逆でもなんでもないし、佐竹は陸奥に下野に常陸南部に手を伸ばして勢力拡大してるわけだが、
>>佐竹に出来て北条に出来ないと?
史実では氏政は武田と再同盟をする事によって関東の敵に集中し1577年に里見と和議
梁田は1574年に攻略。宇都宮は戦い続け、佐竹とは1571年に岩井で戦っている。
集中しても手こずったこいつらを対等に近い力を持つ武田に後ろを突かれながら
倒せるとでも?上杉は越中にかかりきりだしこの状況で武田と戦い続ける不利に
気づかない氏康でもないだろう。自分で上杉に随分と譲歩して同盟を結んだ手前
こだわりもあるだろうが、いつまでも我を張っているわけにはいくまい。
(続く)
0982人間七七四年
2007/06/02(土) 15:53:52ID:0+zrbBuWただ流れが
信虎→実は凄かった
勝頼→実は頑張ってた
信玄→実は大した事なかった
だから信玄厨の豚が一匹フォビってるだけで
0983人間七七四年
2007/06/02(土) 15:55:16ID:zky8RmzJ>>越相同盟により北条氏康の子が上杉の養子入りしたのがいつかお忘れですか?
1570年4月ですがそれがなにか?里見が伊豆を攻めたのも武田が伊豆韮山を攻めたのも
その後だったように思いますが?結局その後もろくすっぽ動かなかった謙信が
どうかしましたか?
>>越中にも親武田がいるのをご存知ですか?
知っていますがそれがなにか?椎名とか随分頑張っていますね。信玄も煽っていますね。
でもそれを攻めることが信玄に駿河を奪われ、伊豆まで攻められて武田領土侵攻を求めている
北条に対する誠意ある回答だったというおつもりですか?
>>そのときにその佐野君たちは親武田の立場をとってるわけだが、
>>これは牽制として認めてくれないのですか、そうですか
上記と被るところもあるけど、佐野を上杉が攻めるのはいつもの事なのですが?
上杉は祈願文でわざわざ佐野・倉内・厩橋の無事を願っているように
関東における上杉の重要拠点なのですが?佐野が親武田の立場をとっていようと
それは謙信にしてみれば確保しておきたい佐野を抑えにいったわけで
武田領土侵攻を期待していた北条にしてみれば期待はずれもいい所だったでしょうがね。
>>信濃にちょっと上杉が出てきただけで駿河から撤退したと主張していた人がいましたが、
>>どなたでしたっけ?
上杉が本気で信濃を攻撃しにかかれば武田としてもそれに対処せざるを得ないでしょうね。
でも上杉は結局そうしなかった。越中を攻めてばかり。
まあ、駿河撤退の経緯は訂正しておく。調べてみたところ薩垂で北条と対峙して
いる間に今川旧家臣のゲリラ戦によって補給をかく乱されて苦しくなり
そのまま北条と戦い続ける不利を考慮して撤退したらしい。
>>で、評価できるのか?
ばらばらに戦うよりも手を結んで戦ったほうがいいのは自明。大勢力である
武田と共同したことによって反北条勢力もはずみがついたのは事実。悪くないだろう。
>>で、「俺が随分と北条の外交政策を持ち上げていたレス」の抜き出しはまだなのかい?
>>516の>>言ってみれば奥州の人取橋の戦いを伊達の完全勝利というようなもの。
ラッキーパンチで逆転した人取り橋をあげた以上、それは外交上では北条が
勝っていたといいたかったのではないのか?
0984人間七七四年
2007/06/02(土) 16:07:06ID:k1rHU62N信玄は侵略戦争をしつつ版図を広げながら、大規模な事業を展開してきた
信虎は版図を築けず水害飢饉を引き起こしまくり、ちなみに国主であれば
ある程度の内政手腕があって当たり前、それをアンチ信玄はひたすら
「それいけ突っ込め!」といわんばかりに一方的に信虎の方が善政を敷いてる
と思い込み信玄叩きする始末ww
0985人間七七四年
2007/06/02(土) 16:13:17ID:k1rHU62N江戸時代、甲陽軍艦のあまりの評判の良さに刺激されて「信長記、太閤記、北越軍記」
などがやや遅れて版本となったが、兵制の根幹にすえられた軍艦の用途とは違い、
軍記物、戦記物としての読み物としての需要の方が高かった。
甲陽軍艦のあまりの評判の良さから、これに嫉妬して批判を加えようという書物まで
現れるにいたった。「甲陽軍艦評判」とか「甲陽軍艦弁疑」といった書物である。
松浦鎮信が編集した「武功雑記」という書物が、決定的に軍艦を否定した。
0986人間七七四年
2007/06/02(土) 16:14:28ID:k1rHU62N明治の史学会をリードした田中義成博士は甲陽軍艦に学術的な批判を加える。
この愚か者は正式な学術論文を書かず、当時思いつくままに書かれた甲陽軍艦
の読後感想文を学術論文としており、裏づけ史料を求めることもなく甲陽軍艦
の価値を引き下げるような事をしたと言われている。
その結果、軍艦は学術書として取り上げるのは危険とし、敬遠されたばかりでは
なく、信玄の歩みの前半期に活躍する山本勘助は、軽輩もしくは架空と見なされ
伝説の人物という評価が揺ぎ無いものになってしまった。
しかし昭和四十三年に勘助の実在を示す重要史料が発見され、ようやく勘助は日の目
を見るやに思われたが、史学の主流は田中説をそのまま支持しているから、勘助の
実在を相変わらず疑ってるのである。
ではそのアホな田中博士はどんなことを行ったのか?
0987某板住人
2007/06/02(土) 16:14:51ID:Vgp0Yipk戦国板の皆さんここから逃がさないでね。では(逃走
某板住人として敬具。
0988人間七七四年
2007/06/02(土) 16:16:23ID:0+zrbBuWじゃあ信玄が受け継いだ20万石以上の領地はどっから降って湧いてきたんだよ
信玄マンセーの為なら誰でもけなすんだな豚は
0989人間七七四年
2007/06/02(土) 16:17:44ID:k1rHU62N「武功雑記」というものは甲陽軍艦を決定的に批判しておりその一文を
掲げてみると、
「勘助子、関山僧にてちと学問有りしが、甲州信州の間にて信玄の事など覚書して
置たる反古などを取りあつめ、吾親の勘助事を結構につくり書たるなり。是を高坂
弾正が作といつわりて書たるなり・・・・・・・・・・」
と疑ってかかったのである。
田中博士はこの記録にさらに学術的批判を加え、この甲陽軍艦は、甲州流軍学を起こした
小幡景憲自身が、いろんな遺記をつなぎ合わせたのだと言い切ったのである。
この博士の論説は、その頃日本で唯一の官学の牙城である東京帝国大学の教授が、史料を
検討した上での研究ということであったので近代的な視野にたっての学術論文として大いに
注目され、それまで高かった甲陽軍艦の価値を大幅に引き下げる結果になるのである。
田中博士は、先に言ったように、正式な学術論文を出さず当時思いつくままに書かれた軍艦
の読後感想文を出してしまっているのである。極めて軽い気持ちで裏づけ史料を求めることも
なく「武功雑記」などが伝える巷間の極めて怪しい史料を素材にあげて批判してるのでる。
山本勘助の子の関山僧などという人物は、どこを探しても出てくるはずもなく、ましてや勘助
が山県昌景の一部卒に過ぎないという説も、とるに足らない伝説の見本のようなものであった。
0990人間七七四年
2007/06/02(土) 16:37:28ID:OB3AboMkメガ豚は毛利だけでなく武田についてすら無知なまま、コピペだけを繰り返す低脳なんで仕方ない。
信玄が地方統一すら出来なかった事実を指摘したら
「北条などの敵が強かったから」で誤魔化してたくせに
住人が毛利北条比較で盛り上がってたら、構ってちゃんぶりを発揮して北条も平気で叩き始める始末。
信玄が家臣団に担がれて親父追放しただけの坊ちゃん大名だって事も知らんのだろう。
大好きなくせに読んですらいない「甲陽軍鑑」が伝える捏造の信虎像を平気で信じてる模様。
メガ豚にとっては自己投影の対象である武田信玄のみが正義であり
信虎も勝頼も、妄想信玄を持ち上げる為なら平気で叩く。
だから普通の歴史好き住人や、他の武田好きにも嫌われて孤立。
0991人間七七四年
2007/06/02(土) 16:52:11ID:k1rHU62Nそうやっていつまでも長々と喚けば喚くほど、その必死さが伝ってくるんですが
大丈夫ですか?
中部地方に具体的な境界なんてあるのでしょうか?そもそも信玄生前は全国で
一番版図を広く築いた大名なんですがご存知ですか?同じく広く版図を築いた
上杉謙信や北条氏康と今川徳川を押しのけてです。
学者間で論議の最中という現実を無視して、明らかに信玄が虚像とか言い切ってる
単細胞なアンチが多いのは無視ですか?
信玄が担ぎ出された坊ちゃん大名だからどうしましたか?信虎みたいに家臣から他国に追放
される程の人物に国主の資格なんて無いのですよ、そういう事は無視ですか?
ま、「甲陽軍艦」をのっけから捏造などと疑ってればどんな史料を見渡してもあなた方アンチ
にまともに解釈出来る能力も感性も持ち合わせていないのは明白ですね。
君達が甲陽軍艦が近年再評価されているという事に関しても一切無知なのは明白ですね。
0992人間七七四年
2007/06/02(土) 16:56:19ID:0+zrbBuW0993人間七七四年
2007/06/02(土) 17:21:15ID:OB3AboMkまぁ信虎に関しては、親父も息子同様に十数万石を受け継いでスタートしたんだとでも勘違いしてたんじゃね?
じゃなきゃ下克上の代名詞の一人である信虎を「版図を築けず」とか意味不明な表現しねーだろ。
信虎が駿河にいて留守の間に家臣団が担ぎ上げただけの信玄、ってのは流石に否定できんかったようやね。
0994人間七七四年
2007/06/02(土) 17:46:27ID:xw1Ryi+K次スレ
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/
0995人間七七四年
2007/06/02(土) 17:56:39ID:OB3AboMk信虎、信玄、勝頼の三人に
「お前ら親子なんだから、もちっと仲良くせい」と説教してるの希望しつつ梅。
0996人間七七四年
2007/06/02(土) 18:07:49ID:TT10sJysどうも。
0997人間七七四年
2007/06/02(土) 18:09:17ID:0+zrbBuW信虎「うちの信玄も英雄の素質はあると思うんだが、男の尻穴にばかり夢中になってしまって・・・」
実は3歳違いだったりする両雄
どちらも長子より長生きしてしまったという共通点もあったりする訳で梅
0998人間七七四年
2007/06/02(土) 19:17:45ID:ZFflNHIK0999人間七七四年
2007/06/02(土) 19:27:03ID:nnrDAALQ1000人間七七四年
2007/06/02(土) 19:29:07ID:Vgp0Yipk10011001
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