それから山岳地帯の農民兵が天下無敵だというのは誰でも認識してる
ことですが知らないんですか?それに加えて↓ ↓ こういうことを
戦国で一早く実践させたのが信玄なのですよ、尾張の弱兵は信玄が指
揮する軍団とまともにやりあえる自身があったんでしょうかねえ?

元寇以降、集団戦が日本に浸透していったとはいえ、まだまだ「組織的」
と呼ぶにはほど遠いものだった。それをいち早く取り入れたのが信玄だっ
たといえよう。まず「寄親」と呼ばれる部隊長を任命(大抵武田譜代の重
臣が就いた)、その下に同心衆、さらに下に被官などの下級武士をおいた。
これが武田軍団の主力であり、他には親族衆・近習衆・直参衆などの旗本
達、主に甲斐の国境警備の任に就いた津川衆や武川衆、御嶽衆など、そし
て占領地におかれた外様の先方衆がある。駿河侵攻後には海賊衆がおかれ
計53隻の軍船が武田水軍として組織されていた。これらに所属する武士
は知行地に応じて軍役が課せられており、一度合戦ともなれば定められた
だけの人数の兵を引き連れ出陣せねばならなかった。信玄はこれを軍法・
軍令をもって厳しく統制し、組織力を強めたのである。
 これに前述の情報伝達機能が加われば、戦場での用兵が自由自在となる。実際、信玄の采配一つで兵が手足の如く動いたという。まさに臨機応変な作戦が可能なわけであり、北条軍の挟撃の危機にあった三増峠の戦いにおいて見事敵を撃退する事ができたのである。