【武田】2万5千で上洛【信玄】その48
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 14:58:15ID:jBb7ct+L【武田】2万5千で上洛【信玄】その47
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171873604/
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
テンプレ
>>2-30ぐらい?
0005人間七七四年
2007/03/11(日) 15:47:21ID:8gfIiuQO●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
0006人間七七四年
2007/03/11(日) 15:54:10ID:8gfIiuQO・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
0007人間七七四年
2007/03/11(日) 15:54:42ID:8gfIiuQO1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
0008人間七七四年
2007/03/11(日) 15:55:16ID:8gfIiuQO織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
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