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家康は本当に野戦の達人?

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0001人間七七四年2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey
野戦の天才と呼ばれる徳川家康ですが、
本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0663人間七七四年2007/04/04(水) 17:24:56ID:N8MWJsqv
ていうか家康本隊3万も殆ど交戦してないだろ
0664人間七七四年2007/04/04(水) 17:31:17ID:QOxZoSj0
兵を使わずに野戦で勝利する。まさに達人の域だろ。
0665人間七七四年2007/04/04(水) 17:31:35ID:W2MhxHir
>>662
おまえいろんな史料ちゃんと読んだことあるか?
0666人間七七四年2007/04/04(水) 17:42:39ID:QOxZoSj0
>慌てふためいて一か八かの裏切り催促。
で、これは何のことさしてんだ?いってみ。
0667人間七七四年2007/04/04(水) 19:33:09ID:ohJmOCWV
また鉄砲厨かよ
0668人間七七四年2007/04/04(水) 20:20:35ID:zRpBF6z7
なんて史料?花の慶二?
0669人間七七四年2007/04/04(水) 20:35:43ID:N8MWJsqv
花の慶次というより影武者徳川家康じゃないか
あれは秀秋の身体付近にも弾丸が飛んできて凄かったなw
さすがにあれは創作
0670人間七七四年2007/04/04(水) 20:52:22ID:VxbQxBB4
だからこそおもしろいんだろ漫画もドラマも講談も。
0671人間七七四年2007/04/04(水) 23:16:20ID:qiU/lGo+
家康には、上の方で出てたハンニバルのカンネ会戦のようなパーフェクトゲームも
戦史研究の対象となる合戦もないんじゃない。
0672人間七七四年2007/04/05(木) 00:31:02ID:wQ6Q8Ea1
関ヶ原の戦いはまるで自民党の総裁選挙をみるような派閥抗争だからねえ
戦いそのものも結局はこの派閥抗争の影響がモロに影響したわけで、
類稀なる素晴らしい戦術が生かされた戦いとかとは言い難い
0673人間七七四年2007/04/05(木) 01:36:23ID:dVIdavgH
小牧・長久手や関ヶ原は後年参謀本部が詳細な研究書を出してたけどな
後年司馬遼太郎の「関ヶ原」なんかの種本になったやつ
けど内容自体は講談・軍記をソースにしてて手放しで信頼できるものではない
0674人間七七四年2007/04/05(木) 01:50:38ID:WUu/wThc
つーか戦ってのは本来どれもそういうもんだっつーの。
記録が曖昧なものほど尾ひれがつくもんだが。
0675人間七七四年2007/04/05(木) 01:55:50ID:dVIdavgH
一体どこの世界に戦前に総大将が敵方に調略されて
まともに戦わず負けた戦があるというのかw
どう考えても関ヶ原は特殊な事例
0676人間七七四年2007/04/05(木) 02:13:13ID:TfYWnMkr
輝元って調略されたっけ?
0677人間七七四年2007/04/05(木) 07:04:38ID:5yWlZsgm
戦略抜きで戦術だけを論じても意味が無い。
戦略のない戦争なんてありえないのだから。
0678人間七七四年2007/04/05(木) 07:11:59ID:WDaYLEbM
戦術に通じているものほど、少しでも戦場で有利になるよう開戦前から周到な準備をするもの。

だとしても、関ヶ原がかなり特殊な例であることは異論ない。
0679人間七七四年2007/04/05(木) 08:14:02ID:TfYWnMkr
少なくとも西軍は城から出たし、かなり無茶な戦略機動をした。
つまり、西軍にあった戦術的な優位は減っていている。

表面上の兵力的にほぼ互角だし(実質優位)、
家康が関ヶ原に出た判断は妥当。
0680人間七七四年2007/04/05(木) 12:33:18ID:KX39WcY5
布陣図だけを見れば西軍圧勝
何しろ片翼包囲を喰らった体勢で戦闘が開始されてるんだから
しかし西軍の内実は不和でグダグダ
0681人間七七四年2007/04/05(木) 13:34:59ID:iAcjBKKH
ぐだぐだつう前に総大将が山の上じゃ包囲もくそもないぞ
0682人間七七四年2007/04/05(木) 16:26:51ID:vvdUfjW6
お互い想定外の結果、西軍有利の陣形になったなら
それは三成らを誉めなくてはならない
しかし、調略済みだからと西軍有利の陣形を許すというのでアレば
家康の神経を疑う
戦は水物、何が起こるか判らないのに相手に脇腹を晒すのは誉められない
関ケ原の布陣すら家康の支配下だったのなら、陣形だって西軍に勝てる配置にする訳で
実際に関ケ原に陣取った時に家康はキモを冷やした筈だ
0683人間七七四年2007/04/05(木) 17:59:01ID:1t4qcOgk
>>682
同意
0684人間七七四年2007/04/05(木) 18:25:33ID:iAcjBKKH
だから扇の要に総大将が居ない布陣ってどうなのよ
0685人間七七四年2007/04/05(木) 20:38:16ID:WDaYLEbM
>関ケ原の布陣すら家康の支配下だったのなら、陣形だって西軍に勝てる配置にする訳で

それには、最初から小早川たちを東軍として旗色を明確にさせとくことになり、せっかくの調略が効果半減だろ。
西軍側とみなされていたからこそ、三成たちも安心して松尾山に大軍で布陣させたわけだし。
0686人間七七四年2007/04/05(木) 20:53:20ID:WUu/wThc
>>685
三成は安心などして無い。無理やり陣取ったんだよ小早川は。

またそこまで調略にこだわる意味も無い、最初から味方ならそれに越した事は無い。
0687人間七七四年2007/04/05(木) 21:03:53ID:+QOVvCsR
>旗色を明確にさせとくことになり、せっかくの調略が効果半減
>三成たちも安心して松尾山に大軍で布陣させた
これは酷いwwww

>>386
これだけ認識に差があると、そのレスは無駄になると思うけどwwww
0688人間七七四年2007/04/05(木) 22:25:13ID:g0V6me1R
東軍大勝で一気に決着つけるためには、史実以外のやり方はそうない
最初から東軍優勢が明白であれば正面衝突避けただろうし
もしかして神業ともいえる攻略法?
偶然が積み重なってそうなっただけだとしたら、家康はとんでもない強運
0689人間七七四年2007/04/05(木) 22:39:23ID:dVIdavgH
家康がラッキーマンだということは常識だろ
まあラッキーマンみたいに運だけじゃないけど
0690人間七七四年2007/04/05(木) 22:54:13ID:WUu/wThc
>>688
正面衝突避けてたら、家康の不戦勝で終わってしまうよ。

もともと三成は既に政治的には中央から退かされてしまってるし、秀頼を引き出すことも出来てないから
基本的に大義名分は余り無い、ゲリラ的な挙兵だった訳で。

それも家康不在だったからこその芸当なのに、家康が迫ってる状況で下手に二の足を踏むようなら
もともと家康とつながりがあった連中が家康の方へ走るのが目に見えてる。
0691人間七七四年2007/04/05(木) 23:16:00ID:iAcjBKKH
三成さん、良く挙兵してくれました、ありがとう、だろう。
0692人間七七四年2007/04/05(木) 23:28:50ID:WUu/wThc
何事も無く上杉を血祭りに上げたほうが楽に決まってる、
本来ならそれに越した事は無いし、そういう流れも想定していただろう。

ただまず確実に何らかの形でそうはさせてはもらえないだろうと既に読んでいただろうし、
そうなっても大丈夫なように事前に動いていたと言うだけの事。
0693人間七七四年2007/04/05(木) 23:46:03ID:TfYWnMkr
>>690
正面衝突を避けたら、輝元の部隊・大津城攻めの部隊その他各地の西軍
部隊が関ヶ原に来たでしょうけど・・・。
東軍は、秀忠以外は強いて言えば前田以外はくるあてがないので、
より戦力的に不利になるわけで。

外線的な東軍に対して内線的な西軍は兵力集中が容易なわけで。
普通に東軍の勝ち目が落ちていきます。

>それも家康不在だったからこその芸当なのに、家康が迫ってる状況で下手に二の足を踏むようなら
>もともと家康とつながりがあった連中が家康の方へ走るのが目に見えてる。

基本的に、小早川・吉川・鍋島・長宗我部以外は家康とつながりがあった連中はすでに東軍ですが?
以外に家康は人望ありません。寝返りそうな人間を上げていただくとうれしいのですが。
個人的に、前田玄以と増田あたりが寝返りそうだと思いますが(w。
0694人間七七四年2007/04/06(金) 01:21:13ID:WKe9DZG3
自分であげてるじゃないか

更には小早川・吉川が家康に来てるのに毛利本家だけ頑なに西軍とかありえん
史実でも前半であれだけ西軍が優勢に進めてても動かなかったのに
衝突すら避けてるような状況の西軍に何で輝元がそこまで義理立てしなけりゃいかんのか。
プラス鍋島・長宗我部がつくだけで充分すぎる。奉行連中もつくというのであれば余計に。

だいたい3万8千の家康直属軍、前田軍2万5千の大きさも舐めすぎではないか。
石高の桁が違うのに一緒の数で計算する意味がわからんのだが。
大津城攻めてる連中など徳川はおろか前田軍の半分強程度、しかもその兵力は小早川・毛利の
兵も多く混ざってるのでこれらは上記の理由で東軍に寝返るだろう。
まともに信用できるのは立花宗茂ぐらいのもんだ。

島津もそうだが九州の連中はみんな怪しいもんだし。
0695人間七七四年2007/04/06(金) 02:29:20ID:WWr4lhBt
>>694
>更には小早川・吉川が家康に来てるのに毛利本家だけ頑なに西軍とかありえん
毛利を小早川・吉川を基準に考えている理由を教えてください。
そもそも、小早川・吉川が寝返った理由わかってますか?

>だいたい3万8千の家康直属軍、前田軍2万5千の大きさも舐めすぎではないか。

大坂城にいる。毛利本隊と豊臣直轄軍の5万の軍勢を舐めすぎではと返しておきましょう
前田よりは関ヶ原に近い位置にいますし。
前田も本土防衛用に一万残さなきゃならんでしょ。
そもそも利政の件はスルーですか?

>石高の桁が違うのに一緒の数で計算する意味がわからんのだが。

言っている意味は分からないのですが。
基本的に関ヶ原に追加で来るのは東軍は秀忠隊と前田隊で5万〜6万
西軍は大津城と伊勢と丹後総計の3万と大坂城にいる4万。

数値で言えば西軍の方が投入できる兵力は大きいとさえ言えます。
無論それぞれ時間的なズレがありますが、大津城や伊勢は数日あれば
関ヶ原にこれますし、基本的に西軍の方が投入できる兵力が多いですね。

>島津もそうだが九州の連中はみんな怪しいもんだし。

その論拠は?島津はまあそれはそれとして九州勢は基本的に親石田なんですが。

0696人間七七四年2007/04/06(金) 09:13:32ID:w2wy5olv
無知でごめんなさい
0697人間七七四年2007/04/06(金) 14:54:34ID:vtNccxiQ
戦争は結果がすべてじゃ 何が起こるかわからんし
事前調略も戦のうちじゃー
よって野戦に優れてる
0698人間七七四年2007/04/06(金) 15:37:57ID:hz+VvztE
関ヶ原は一日で方を付いたのが、かなり異常
もうちょい小競り合い続いたりして、長引いてたら、秀忠の大活躍が見られたのに・・・
0699人間七七四年2007/04/06(金) 15:51:01ID:hz+VvztE
>>695
三成が指折り数えて兵を計算した姿が思い浮かんでくる・・・・
自分に都合良く、兵を集めたつもりになって勝てると思ったんだろうな

三成の思考がそんな感じだったと思えて、悲しくなる。
0700人間七七四年2007/04/06(金) 17:13:32ID:l0M86C8B
三成厨は、三成がやったことで家康を大幅に利することになったと認めたがらないだろうな
三成が工作しなければ家康はもっと容易に天下を取ったと・・・
しかしそれは家康を過大評価しすぎ
0701人間七七四年2007/04/06(金) 18:32:44ID:O8fV6pG3
秀吉の唐入りの根拠になったのが築城能力、ロジステクスの発達だが
その使い道がもはや日本にないので唐入りしたのだと言う説まである
その要にいたのが三成で、こんな能力を持った指導者つうと
アイゼンハワーを思い浮かべるが、彼もまた大統領にはなったが
何をしたのかと疑問になる、まるで三成の実戦能力のようだ…。
0702人間七七四年2007/04/06(金) 22:45:26ID:WKe9DZG3
>>695
大阪城と毛利本軍がちゃんと味方で、そのぐらい積極的に動くなら
関ヶ原は問題なく西軍は勝てたろう。だが史実では一切動かなかった。

なのになんでなんの脈絡も無く、関ヶ原を避けて時間稼ぎしただけで完全な味方になってんだ?
0703人間七七四年2007/04/07(土) 00:06:39ID:hAU/x1NA
>>702
>だが史実では一切動かなかった。

出陣の準備をしていたが、
家康が密書の公開に踏み切り、その性で
疑心暗鬼になって動けなかった。

ええと、もしかして毛利の関ヶ原の動き知らないの?
0704人間七七四年2007/04/07(土) 00:52:58ID:rVn2tMuB
>>703
>>出陣の準備をしていたが、
>>家康が密書の公開に踏み切り、その性で
>>疑心暗鬼になって動けなかった。

↑こんなこと言ってる奴が信用できるなら、松尾山にいる小倅も
弁当食ってる宰相殿も信用できるんでは無いか?
0705人間七七四年2007/04/07(土) 01:00:55ID:FupR7WzV
ところで輝元って実戦の経験があるのか?
0706人間七七四年2007/04/07(土) 01:27:53ID:QaLXgFLA
輝元なんて両川の叔父たちに支えられてなんぼの無能人間だから
自分で出陣して戦うなんて不可能だよ
0707人間七七四年2007/04/07(土) 02:55:02ID:KKzgFCyi
関が原当時限定でいうと家康が単に場数だけは踏んでいるだけだろ。
あえて言うなら、義弘の方が実績あるんじゃないの。
達人という言葉が合うのは信玄・謙信・氏康だろう。
0708人間七七四年2007/04/07(土) 03:12:01ID:jPbkNIrM
またまたご冗談を
0709人間七七四年2007/04/07(土) 09:49:04ID:Tcb71wby
家康は初めから複数の戦闘集団を束ねる総大将の地位にいた。
ならば、自身が戦術的な采配を振るう時は余程の苦戦というより敗戦時
であろうし、それ以上は常に戦略的な指示に終始していた。

彼が自らの主導において戦術指揮を執ったのは長久手の戦い時における
池田・森勢との戦闘のみであろう。
0710人間七七四年2007/04/07(土) 09:58:38ID:1zhxK9Wf
上田攻めや三方が原はスルーですかwww
0711人間七七四年2007/04/07(土) 10:29:04ID:T/GVmoTV
上田攻めなら明らかに違うだろう
なんでも煽ればよいってものでもw
0712人間七七四年2007/04/07(土) 11:13:14ID:DxUvJ5Dr
家康の武功、実力は、その実態より過大評価されていた。
その理由は、
1)長年、織田信長の忠実な同盟者だったという経歴
2)小牧長久手での局地戦の勝利により、秀吉に負けなかったという実績
3)秀吉から封ぜられた過分の250万石という巨封の威圧

中でも2)の影響が最も大きい。

関が原の勝利は事前の政治工作が功を奏したためだが、
計算通りだったのは吉川広家だけ。
実態は不透明な小早川秀秋の裏切り頼みという他力本願。

戦場で家康がやった事は、
なかなか裏切りを実行しない小早川秀秋に焦れて、
奮戦中の黒田長政にその旨を再確認した事と、
本陣をやや前進させた事、
そして一か八かの小早川秀秋への裏切りを催促する威嚇射撃という博打だけ。
お粗末極まりない。

所詮家康などこの程度。
戦の駆け引きは豊臣秀長の方が上だろう。
0713人間七七四年2007/04/07(土) 12:15:15ID:Tcb71wby
>>712
それら1)〜3)総てに家康の戦略・政略判断という要因が介在している。
家康はまずそれらを土台にして成り上がり、最後の詰めとして戦術能力
を発揮した。
0714人間七七四年2007/04/07(土) 13:00:24ID:1zhxK9Wf
戦歴はホントたいしたものが無い。
要は巧く泳いだというだけ。
信長の同盟者になったことが儲けものだった。
実質信長に守られていたようなもの。
その信長が死ぬと火事場泥棒のように甲斐・信濃を奪っただけ。
ホントついてるよ。
0715人間七七四年2007/04/07(土) 13:05:25ID:QaLXgFLA
浅井みたいに信長の同盟者になれて儲けものだったのに
耐えられなくて滅亡した輩もいる
信長の同盟者を続けられただけでも凄いことだよ
0716人間七七四年2007/04/07(土) 13:13:50ID:z1neuE/j
自分で火を付けておいて泥棒するのを火事場泥棒とは言わない
河尻秀隆あわれ
0717人間七七四年2007/04/07(土) 13:21:33ID:on0l6tXz
家康が大した事ないなら、他はもっと大した事なかったことになるだろうな
0718人間七七四年2007/04/07(土) 13:24:09ID:UIqorB/v
>>715
浅井は信長殺せるチャンスだと思って自分から寝返ったんだろ
長政が家康みたいに従順な犬と化していれば
徳川より優遇されたろうけど
0719人間七七四年2007/04/07(土) 13:31:20ID:1zhxK9Wf
>>718 goodjob


家康 = 犬 dog 狸 → 犬

家康 = ポチ
0720仙台藩百姓2007/04/07(土) 13:46:21ID:KUFWBef1
家康の実績は長宗我部元親や大友宗麟以下だおね( ^ω^)
長久手で局地的勝利して臣従(≧ω≦)した事以前にやった事と言えば
織田の庇護下、武田と共同で斜陽の今川家を潰した事
これだけだお…(TωT)ショボス
敢えて加えるなら織田にくっついて行って勝頼倒した事
氏政と引き分けた事
…(^ω^)
…(^ω^;)
…以上(TωT)
0721人間七七四年2007/04/07(土) 13:56:04ID:o8x1kjUF
一向一揆に手こずったあげく、後世もやるペテン講和で
お茶を濁した経歴もお忘れなく
0722仙台藩百姓2007/04/07(土) 14:14:36ID:KUFWBef1
そういや三河一揆でもセコいインチキ講和やってたね
戦上手…
律義者…
あまりにバレバレの捏造だお(;^ω^)
まさしく大きな嘘ほどバレないって奴だお( ^ω^)
0723人間七七四年2007/04/07(土) 14:30:05ID:rVn2tMuB
政宗のファンなら、家康をそう悪く言う奴はいねーよ
コテ変えろメガ豚。
0724人間七七四年2007/04/07(土) 15:08:54ID:Tcb71wby
戦術的才能のみを云々される様な状況下に陥った事は殆どない家康だから
勝っても負けても戦術より上が要因となる
スタートラインからそういう立場なんだから戦術的才能のみを抽出しようとしても
しょうがないんですよ

第一、野戦なんというものは双方がやる気がないと発生しないものだから、
そこへどうやって持っていくかが、最も重要なんですよ
0725人間七七四年2007/04/07(土) 15:34:09ID:IWhiIUhc
また「家康は運だけ」という鈴木信者が現れ始めたか

大事なのは「運が巡ってきた時にどう行動するか」であり、
「運が巡るべくどう手を打つか」なのだが、彼らはそういう点が見えないらしい。


>>712

1)
隣接する強大な武田に臣従する手もあったが、
最後まで織田との同盟を維持して武田との抗争を続け勝利している。
信玄亡き後も積極的な攻勢を維持しつづけた武田との敵対関係を続ける事が、
容易な道でないことくらいは想像がつくだろう。

2)
小牧長久手で大きいのは局地戦の勝利もそうだが、
それ以上に秀吉は家康を武力制圧する事が出来ず、
この後家康を臣従させるのに2年も時間をかけてしまっていること。
しかもこのとき秀吉の方から妹や母親まで人質に差し出すような始末だった。
「運」しか便りに出来ないような男ならば、
小牧長久手直後に「秀吉にはかなわない」とさっさと臣従していたことだろう。

3)
関八州を得る前から三河・遠江・駿河・甲州・信濃の5カ国の大領主ですが何か?


あと関ヶ原の小早川について言えば、
挙動不審な秀秋に対して奥平を軍監として送り込んで監視している。
対する西軍はこれを行っておらず、
よって行動に迷う小早川に対し説得を行うには非常に有利な立場に東軍は最初からいた。
家康は何も「運だより」で彼の裏切りに期待していたわけではない。
0726人間七七四年2007/04/07(土) 15:42:10ID:IWhiIUhc
>>714
信長との同盟を維持した事が儲けものとは、結果をみているから言えるだけ。
当時の情勢からいえば徳川が武田につくという手も十分ありえた。

その当時の家康が信長に守られていたようなものというのは間違いではないが、
しかし対武田戦では長篠及び最後の甲州攻めを除くと、
徳川が単独で武田と事に当たっている。

信玄の死の直後長篠を奪還し、
長篠後も攻勢を続ける武田から、
高天神城・二俣城など主要拠点を奪還するのに成功している。

信長死後甲斐などを火事場泥棒のように得た、というが、
ここでは北条と構えることとなったのであり、
容易に奪い去れたものではない。

要するに「運だけで救われた」というような単純な話ではない。

逆に、
「偉大なる東照大神君は全ての戦に勝つべくして勝った」
というのが間違いなのも言うまでもない。
0727人間七七四年2007/04/07(土) 15:55:03ID:IWhiIUhc
あと家康を運だけ、と言うなら、
ほかにもいくらでもそういう例はあげられる。

信玄について言えば、
父親の信虎が既に甲斐一国を束ねてくれて、
しかも家臣団から反発を買っているような状況があったからこそ、
すぐにクーデターを起こして当主に立つ事が出来た。
しかも隣接する信濃が強大な大名がいない混戦地帯であった事も幸いして、
すぐに侵攻を開始できて領地拡大に成功した。
仮に信虎への信望が高かったら、
クーデターに成功したとしても信濃に大大名が居座っていたら、
信玄がどのような道を歩んだかわかったものではない。
大勢力であった北条や今川とは同盟を結んだ信玄だから、
信濃攻めを行う可能性は低いだろう。

毛利元就なんかもそう。
有田中井手合戦で勝利したと言うが、
あの勝利はすべて元就の作戦どおりに事が進んで勝利した、
というようなものではなく、現実は敗走寸前の状況下、
敵の総大将が討ち死にした為に勝利した奇跡的なもの。

伊達政宗の手取橋合戦や摺上原合戦なんかも同様。

あと信玄や元就は策略が巧みだったが、
そんなのは成功する保証などどこにもないのだから、
これらが成功したのは運がよかっただけといわねばならない。


「運」という要素で全てを切り捨てるのならば、
上のように他にもいくらでも例はあるので、彼らについても同様の批判をすべき。
それをしないで家康だけを批判するのはおかしい。
0728人間七七四年2007/04/07(土) 15:57:39ID:bBocriD+
まあ小牧・長久手に関して言えば先に人質を差し出してきたのは家康のほうなんだけどな
0729人間七七四年2007/04/07(土) 16:00:01ID:IWhiIUhc
>>728
結城秀康でしょ。
あれは小牧長久手で和議が整ったからそうしたまでで、
それをもって「秀吉様に従います」と臣従したわけじゃない。
0730人間七七四年2007/04/07(土) 16:18:38ID:OYZOPAZp
小牧役は秀吉にタフな外交をおこなって譲歩を引き出した
家康の政治力の勝利ということなら、小牧役を家康の武功に
みなさないという712のいうこともわからんではないなあ。
0731人間七七四年2007/04/07(土) 16:22:01ID:UcdjGn1Z
自分としては、むしろ外交で勝利したのは秀吉の方だと思うが。
戦場で勝って、戦さそのものに負けた感じ。
0732人間七七四年2007/04/07(土) 16:36:32ID:IWhiIUhc
>>730
>>712は「家康は過大評価されている」と批判を展開したが、
その批判に問題があると判断した為反論したまで。

「家康公は天才なんだから欠陥なんかあるわけがない」
などと上のほうにあるような三河者のようなことをいうつもりはない。

>>731
小牧・長久手での家康・信雄連合との戦争には秀吉は間違いなく勝利。
家康は窮地に立たされ始めていたから。

ただし、家康を臣従させたのはどうかと言うと、
この小牧長久手の時点では失敗。
ここではあくまで和議を結んだだけであり、家康を臣従させられなかった。
これにはその後2年の時間がかかった。

その間に秀吉が家康に人質を送ると同時に、
家康の敷いた秀吉包囲網を瓦解させ、
臣従させるような空気を作ったことは言うまでもない。
ただそこに至るまで家康は実にしぶとかったということ。

「小牧長久手の局地戦で勝利しただけで運がよかった」
というような簡単な話じゃないということ。
0733人間七七四年2007/04/07(土) 17:00:19ID:NTYXR2e6
結局、信長というバックボーンがあったからこそ全力で武田にあたることができたわけだし、
同盟締結時の情勢を考えれば、今川領を狙っている武田と組む選択はできないだろう。
四方に敵の多い当時の武田と組んでも、後押しの期待はできず、口八丁の信玄は信頼できない。
隙あらば今川のように同盟を反古にされて滅ぼされてしまう。
それに一向一揆で三河一国維持するのがせいいっぱいだった家康など
信長がその気になればすぐに滅ぼせた規模だし、
家康にしたら敵対したのに従属ではなく同盟者と扱ってくれた信長に
感謝していたんじゃないの。
武田なら従属でしょ。
遠江を分割できたのも家康の後ろに信長がいたからで
織田・武田のクッションになったことも運がいいというべき。
なにより長生きが最大の武器ですな。
スレタイ変えるべきだな。
積極的にアクション自体を起こしたのって三方原の大敗と甲信を盗み取る時と秀吉・利家という
実力者が亡くなって、やりたい放題できるようになった関ヶ原ぐらいだろ。
0734人間七七四年2007/04/07(土) 17:14:16ID:RN3JnXiO
勝てるときにしか動かないってのも将才
0735人間七七四年2007/04/07(土) 17:18:25ID:IWhiIUhc
>>733
今川からの独立直後の織田との同盟締結時はともかく、
その後の武田の攻勢を考えたら十分武田と組む可能性もあり得た。
四方八方が敵だらけだったのは信長だって同じ。

あと三河一向一揆が起こったころの信長はまだ畿内を制圧したわけでもなく、
背後の三河まで敵に回したら最悪の状況だったことをお忘れなく。

対武田抗争で織田の後ろ盾が大きかったのは言うまでもないし、
家康はもちろんこのことに感謝もしていただろうが、
その後ろ盾を持っていただけで戦に勝利できるほど甘いものではない。

織田武田のクッションになりえたのは運がいいというが、
逆にいえば強者二つにはさまれ、非常に際どい立場にあったともいえるわけで、
「幸運」の一言ですむようなものではない。

現実に武田はそのクッションを潰しにかかってきた。
運がいいだけのような男ならここであっさりやられているだろう。

関ヶ原とかについては何度も繰り返すが、
幸運が巡ってきても問題はそこでどう行動を起こすかであり、
運があったから成功するというような簡単なものじゃない。

それでもなお運ということで切り捨てたいのならば、
他にもいくらでも例はあるのでこれらについても批判をするように。

長生きをしただけで成功するわけでもないことは言うまでもない。
0736人間七七四年2007/04/07(土) 17:33:00ID:Tcb71wby
小牧・長久手の家康優位を否定するのなら上田合戦の真田も否定しなければなるまい
0737人間七七四年2007/04/07(土) 17:37:14ID:IWhiIUhc
>>733の論理に従えば、
少なくとも同盟を背景にして敵と戦い勝利した人間は、
「同盟を持っていた事が幸運」ということで、
例えば武田・北条・今川も幸運だっただけということになる。
この同盟があるからこそおのおの背後を気にせず動けたのだから。

特に武田なんかこの同盟に救われ領地拡大に成功するのだから、
実に幸運だったというべき。
0738人間七七四年2007/04/07(土) 19:12:14ID:NTYXR2e6
>>737
そのとおりだよ。裏切・離反なんて当たり前の時代に律儀に同盟者として働きとおした家康は
信長からみても希有な存在だったろうし、最期まで守られた同盟としてはこの時代
驚くべきことだった。こういう関係が結べたことは両者が幸運というべきで、
後破られる武田・北条・今川の三国同盟にしても、かなりの成果をあげることができた点
幸運なパターンだったというべきだろう。
同盟なんていっても当時は一種の謀のようなものというニュアンスのほうが合ってたと思うしね。
ただ、運というのはひとつのファクターに過ぎないし、
運ではなく、戦略、もしくは大局観と評価する人もいるだろう。
よってテーマの野戦に限ればそれほど評価できるものは無いのではないか。
しいて言うなら家康は「駆け引き」「交渉」が巧かったという印象が強い。
ある時は泣き落とし、あるときは黙殺し、あるときは恫喝し、
強国の狭間で苦労しながら立ち回ったからこそ身に付いた
処世術とでもいうべきか。だから現代人の参考になるのは家康であり、
信長、秀吉のような天才肌は人気こそあれ、参考にはならないのでは・・・
決して無能という訳ではないが達人という表現は適切ではない。
0739仙台藩百姓2007/04/07(土) 19:26:17ID:KUFWBef1
家康は運だけだお( ^ω^)
あんな糞デブに計画性なんてあるわけないお
毎日食う飯の適量もはかれずに
食いたいだけ食ってブクブク太ってる家康は汁かけ氏政より酷い話しだお
70過ぎて食い過ぎで寝込むなんて意地汚いもうろく爺だお(;^ω^)
デブ爺が糞垂れ流して寝込んでるんだから介護するのも大変だったおうね( ´ω`)
最後まで迷惑な糞豚だお
0740人間七七四年2007/04/07(土) 19:38:58ID:xhCpx658
一番運が良いのは、伊達政宗かな
秀吉に首切られなくてよかったよな
0741人間七七四年2007/04/07(土) 19:52:36ID:rVn2tMuB
>>740
コイツは伊達厨騙ってるだけだから政宗で煽ってもムダだよ。
0742人間七七四年2007/04/07(土) 19:52:43ID:Tcb71wby
戦術のみをもってその優越を語れるのは独立勢力より下の侍大将あたり
で、家康は義元敗死以降は常に独立勢力の長であり続けた。
よって、家康を戦術能力のみで判断することは不可能。

そこで、戦略・政略まで広げると凄い高評価となり、達人となる。
野戦という枠には収まりきらない意味で
0743人間七七四年2007/04/07(土) 20:14:30ID:jPbkNIrM
野戦の達人というとやっぱり織田信長でしょう
劣勢を覆したり、陣頭で戦ったり、実績は一番あるだろ
0744人間七七四年2007/04/07(土) 20:31:01ID:xhCpx658
>>741
ありがとう
本物の伊達厨かと思ったよ
0745人間七七四年2007/04/07(土) 21:02:45ID:hAU/x1NA
>>742
つまり、野戦の達人じゃないと。
0746人間七七四年2007/04/07(土) 21:33:54ID:9iPdPZVr
君らのいう野戦の達人っていうのは、例えば槍で3人の首を取ったとか、数人の敵に包囲されながらも
逃げ切ったとかなんでしょ?

やっぱりそういう勇猛な武将にはかなわないよね。
0747人間七七四年2007/04/07(土) 21:34:16ID:QaLXgFLA
>>718
信長を殺せるチャンスだと思って自分から寝返って背後から奇襲を掛けておきながら
信長を取り逃がし返り討ちにあって滅亡
まさに愚将の代名詞といっていい
0748仙台藩百姓2007/04/07(土) 22:00:42ID:KUFWBef1
あらゆる状況で勝てるのが達人だお( ^ω^)
つまり生涯無敗の政宗公は達人に相応しい
野戦に限らず無敗だけどね
達人と言うより軍神というべきかな
0749人間七七四年2007/04/07(土) 22:08:46ID:rVn2tMuB
>>748
そうだね、政宗は上杉謙信なんかより遥かに強いと思うよ
0750人間七七四年2007/04/07(土) 22:58:40ID:bBocriD+
逃げの実績で言うなら家康に勝る奴はなかなか居ないなw
0751人間七七四年2007/04/07(土) 23:23:47ID:dtL/5sKQ
信長の方が金ヶ崎みたいに逃げ能力は上だよ
0752人間七七四年2007/04/07(土) 23:24:44ID:hVV62M6E
信長の立ち直りの早さは神懸かり
0753人間七七四年2007/04/08(日) 01:21:32ID:RCNyVTsV
陣頭指揮が大好きなのに討ち死にしなかったのはスゴイ>信長
0754人間七七四年2007/04/08(日) 01:23:02ID:xWKbj7Nf
いわゆる馬廻衆が優秀だったんだろうなぁ
0755人間七七四年2007/04/08(日) 03:33:14ID:SCeMFe5Y
>>733
よほど家康嫌いなんだろうね
甲信盗み取るって表現からそれが見て取れる
最初の方で家康のやりかたは「弱いものいじめ」だって書いてた奴と
同一人物じゃないの?
0756人間七七四年2007/04/08(日) 03:39:06ID:GBFrWaww
本能寺の変後の甲信略取は誉められたものじゃないだろ
河尻秀長を謀殺した疑いすら有るからな
0757人間七七四年2007/04/08(日) 04:11:58ID:SCeMFe5Y
>>757
戦国時代なのに何を言ってるんだ?
謀殺をした疑いがある事例なんて、他にも腐るほどあるし
どういう領土獲得なら誉められたものになるんだ?
0758人間七七四年2007/04/08(日) 04:13:26ID:SCeMFe5Y
アンカーミスった。>757は>756宛てね

0759人間七七四年2007/04/08(日) 05:22:00ID:GBFrWaww
だったら>>733の「盗み取る」という表現にも一々突っ込まず鷹揚に構えてればいいのにw
0760人間七七四年2007/04/08(日) 06:19:17ID:Hzu9JHqd
またまた何の脈絡もありません
0761人間七七四年2007/04/08(日) 07:49:41ID:rhURMYdH
事後処理が悪質だから嫌われるんだろ
0762人間七七四年2007/04/08(日) 09:47:48ID:xOrMSUxg
>>751
信長は本能寺のとき逃げれなかった。
家康は最後まで逃げおおせた。

>>756
どう誉められないのか教えてほしい。
あのまま指くわえて北条領になるのを眺めていろとでも

どうも筋道を重視して、現状を省みない、観念主義者のようですな
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