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家康は本当に野戦の達人?

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0001人間七七四年2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey
野戦の天才と呼ばれる徳川家康ですが、
本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0562人間七七四年2007/04/01(日) 14:26:48ID:akcNsTGW
その家康配下の鉄砲隊が松尾山麓に近づくことすら至難でしょ
0563人間七七四年2007/04/01(日) 14:27:50ID:tRTmfZDP
>>561
その間に他の陣があってもかい?
届かない距離で、方向だけこちらを向いていることが、仮に千里眼のような観察力で見極めることができたとしても、その手前にある
部隊への射撃と思うのが関の山。

近づけたら良いだけって‥‥‥だから陣形図を見ろっていったんだ。
0564人間七七四年2007/04/01(日) 14:35:34ID:IJxyWYlf
>>558
>現実は東西合わせて10万を超える大軍が狭い関ヶ原でひしめきあってる状態
家康の本陣は激戦の場所の後方にあり、それなりに距離がある。
どこから射撃を受けたのか容易に認識できる。

>>558 >>559
>秀秋と家康の間には大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げてたわけで・・・
 こういう状況で家康配下の鉄砲隊が松尾山の方へ向けて射撃を開始したら、
 普通は大谷隊へ攻撃してると判断するんじゃないか
>真下で大谷隊と藤堂隊がばんばんやりあってるのに
 大谷隊か藤堂隊のどちらかだと普通に思うだろ

秀秋は盲目じゃねーんだよ。
しかも朝鮮でも実戦を積んでいる。
射撃の方向さえ分からないだなんて有り得ねぇっつーの。
現代人の見地を当時の武将に当てはめようとする愚劣。

0565人間七七四年2007/04/01(日) 14:37:52ID:akcNsTGW
朝鮮で実戦積んでるわりには阿呆で臆病で優柔不断なんだなw>秀秋
随分複雑な秀秋像だな
0566人間七七四年2007/04/01(日) 14:38:46ID:JrRYiAi2
小早川側は必死に見ようとしてただろうし、
必死に聞こうとしてたはずだよ。
ぼーっと眺めてたわけじゃないと思う。
とりわけ家康の動きは注視してただろうし、分からなければ斥候を出す。

仮に下の様子が煙や怒号で分からなかったとした場合、
下の様子が分からずに突然東軍に寝返ったなんて事の方が理解できない。
0567人間七七四年2007/04/01(日) 14:41:38ID:GK3FFgBz
>ちなみに家康が秀秋を本気で射殺するなら最低でも200メートルくらいまで肉薄しないといけない

それでも”伍流後十三”に頼んだんだろうな…当時の実用射程は20mくらいだよ…
雑賀孫一は10mぐらいまでひきつけたらしいけど。
0568人間七七四年2007/04/01(日) 14:43:21ID:tRTmfZDP
東軍に寝返るのはそもそもからの作戦事項。
ただ、戦場ではっきりと裏切り行為を行うのはやはり勇気がいるし、逡巡するのも当然。

それでも、大軍を擁しながら傍観したままで戦さが終わればどちらが勝っても非難されるのは明白で
いずれにせよどちらかに決断しなければならない時期であった。それだけのこと。
0569人間七七四年2007/04/01(日) 14:43:36ID:9SfQLv+O
>>558 559
大谷隊と藤堂隊が戦ってる場所から秀秋の陣はわりと離れてるし、
両者が戦ってる場所よりも後方を回り込んで松尾山の西側から回り込み、
交戦地からちょっと離れた場所に位置し、そこから撃たれれば
交戦地とは別方向からの射撃になるんで気づくと思うけど。
ましてや徳川家の部隊(と馬印や旗印で判断できる)が鉄砲を構えて、
松尾山を撃ってる所を物見にでも見せれば間違いようがないんじゃないの。

>>563
西側から回り込んで近づけば他の陣と接触しなくても良いと思う。
0570人間七七四年2007/04/01(日) 14:46:47ID:9SfQLv+O
>西側から回り込んで
西じゃない、東だね。訂正。
0571人間七七四年2007/04/01(日) 14:47:39ID:akcNsTGW
松尾山の西側に回りこんで威嚇射撃する、となると
今度は宇喜多隊と福島隊の間を突っ切ることになるんじゃないか?
0572人間七七四年2007/04/01(日) 14:52:23ID:lYqs2FSi
脊椎反射する前にリロードしなさい
0573人間七七四年2007/04/01(日) 14:55:03ID:lYqs2FSi
秋秀の裏切りのきっかけと、家康の野戦指揮能力との因果関係がわかりません
0574人間七七四年2007/04/01(日) 14:57:18ID:akcNsTGW
あ、訂正が入ってたか
これは失礼
松尾山は東西に長いから大谷&藤堂隊の激戦地を避けて
東側から威嚇射撃しようとするなら尚更距離が遠くなるな
家康配下の鉄砲隊がいきなり戦列を離れて松尾山東方へ大迂回し、
松尾山の山頂に陣取った小早川隊へ遙か彼方から鉄砲を撃ちかける・・・
これは随分不自然な動きに思えるぞ
家康本隊から離れてこれだけ遠くに逝っちゃったらむしろ秀秋の注意も逝かなくなるんじゃないか
0575人間七七四年2007/04/01(日) 15:33:11ID:JrRYiAi2
要は松尾山から見える位置で鉄砲撃ち掛けれるかどうかで
人数は100人ぐらい?200人ぐらい?
これぐらいなら狭い関ヶ原でもスペースはあるんじゃないかな。
小早川はこっちを見てるんだから、家康の意図さえ気付かせればいいんだし。
0576人間七七四年2007/04/01(日) 15:50:20ID:KKyl8eRm
皆、落ち着け。
こういう時は順序立てて考えるんだ。

Q、家康が秀秋に何度も寝返りの催促の使者を送っているのに、秀秋が寝返らなかったのは何故か?
A、当初西軍が優勢だったから。

Q、西軍優勢なら寝返らないだろ普通、なのにどうして寝返ったのか?
A、秀秋に寝返りを決心させる強い働きかけがあったからです。

Q、それは何か?
A、秀秋隊に威嚇発砲をすることです。

Q、秀秋の陣に鉄砲の弾なんか届かないし、音だって聞こえないだろ。意味ないじゃないか?
A、確かに弾も届かないし、音も聞こえません。ただし、鉄砲から上がる硝煙は見えます。煙はのろし等、昔から
遠くの者に対し、サインや合図として使われてきました。山の上に陣取った秀秋からも確認出来たはずです。

Q、煙見たぐらいで、寝返るかよ? 
A、家康から秀秋に何度も使者を送っているので、秀秋がこれが家康からの寝返りの合図だと理解していたのでは。
おそらく、これが最後通達で「これでも動かなければこのまま攻め上がる」とでも脅したものと思われます。

Q、大体、戦闘が始まってるんだから鉄砲だってあっちこっちで撃ってたし、煙の見分けなんかついたのか?
A、先方の井伊隊を別にすれば、家康本陣は戦闘を開始していません。敵との距離が離れ鉄砲を撃っても意味の無い
場所で発砲した分けです、秀秋にもそれが誰へのものなのか、十分理解出来たはずです。

Q、なら、秀秋が鉄砲で寝返ったてのは合ってるのか?
A、これ以外に、兵数、地形、陣形、戦術、戦況、全てに優勢な西軍を寝返る切っ掛けがありません。
0577人間七七四年2007/04/01(日) 16:14:10ID:fP1rFGZQ
単純に迷ってたところ徳川と黒田の軍監に説得されただけじゃないの?
西軍はその機会がなかったんだし、東は説得しほうだい
0578人間七七四年2007/04/01(日) 17:17:44ID:K/yJW8NL
西軍の軍監もいなかったっけ?
0579人間七七四年2007/04/01(日) 17:34:32ID:vKvti1a3
想像はしてたが、俺が何気なく聞きたかった事とは全く別の方向で凄い事になってる・・・。
0580人間七七四年2007/04/01(日) 17:44:27ID:fP1rFGZQ
西方の軍監はいなかったはず
0581人間七七四年2007/04/01(日) 17:49:50ID:zslAmVJp
寝返るも何も、はじめから東軍側→成り行きで西軍についてしまう→関が原で東軍に戻る
とういうだけの話。
0582人間七七四年2007/04/01(日) 18:36:38ID:9SfQLv+O
>>574
東側から川に沿って西進すれば交戦してる場所を避けて、
問題無い距離まで到達できると思うよ。
また不自然な行動程秀秋の注意を引けるし、徳川の分隊が
移動してるのを物見も発見するだろうから威嚇射撃を見せ付けるには
そっちの方が良いんじゃないの?
まさか松尾山に接近する徳川家の部隊を無視するってのはないだろうし。
0583人間七七四年2007/04/01(日) 19:34:53ID:tRTmfZDP
不自然な行動程、他の舞台の注意もひくんだって‥‥‥。
まして東軍の総大将たる徳川の鉄砲隊がそんな怪しい動きで長距離移動してりゃ、狙われるのがオチ。
山中のゲリラ戦やってるんじゃないんだから。

それがなにかの合図で、それにより確実に小早川隊が動くという確証があるならともかく、効果のほどの怪しい威嚇射撃を
わざわざ戦場で貴重な火力を遠くにやってまでするのは戦術上リスクが多すぎる。
機動力を活かした騎馬隊ならまだしも、徒歩なら移動しているだけで戦況が変わるというのに。

最初から射撃があったという、結論を先にもってきて無理矢理後付で理屈をつけるより、なかったんじゃないかと考えた方がよほど
自然じゃないかね。
0584人間七七四年2007/04/01(日) 20:31:26ID:bs87hsCQ
南京虐殺はあったかどうかという話を思い出した。

否定派の論法は
具体的状況を想定して、「だから無理だった」と言うこと。

しかしお前は見てきたのかと。
しょせん想定に過ぎない具体的状況をもとに断定するのは無理がある。

実際にその時代を過ごした人たちがそう言ってる。
それを否定したければ同じ時代の人でその見解を否定している人を見つけてくること。
そうしないと議論のレベルがかみあわない。
0585人間七七四年2007/04/01(日) 21:07:59ID:EZwGfQFd
ID:tRTmfZDP
コイツ馬鹿丸出しだな
0586人間七七四年2007/04/01(日) 21:21:21ID:tRTmfZDP
>実際にその時代を過ごした人たちがそう言ってる。

それって誰のこと?
威嚇射撃説の出典を知ってるならどうぞ。
0587人間七七四年2007/04/01(日) 21:32:37ID:akcNsTGW
実証論的なやり方が水掛け論になるなら
今度は文献的に検証してみようか>関ヶ原における家康の松尾山への威嚇射撃
一般的な関ヶ原の通説といっても良い小早川隊への威嚇射撃だが、
誰かこの話の初出を知ってる人居る?
出来れば関ヶ原に居た人間による一次資料が望ましいが、そうでなくても構わない
慶長年中ト斎記なんかには無かった記事だと思うが
0588人間七七四年2007/04/01(日) 21:35:23ID:Dn3+gjvM
>>583
狙われるっても松尾山付近の西軍の前線は藤堂・京極の部隊と交戦中だし、
それらを突破しない限りは攻撃を仕掛けることも出来ないんだから
他の部隊の注意を引いたって別段問題と思うけど、また長距離って程長距離でもないし。

効果は実際に秀秋が裏切ってるから何とも言えないけど、
最後通告を態度で示す恫喝って考えれば威嚇射撃も意味が無い訳では無いと思うよ、
戦術上のリスクも秀秋が切れて襲い掛かってくるのならともかく、距離も離れてないし
前線に藤堂等、付近に徳川3万の軍勢が控えてる状況では孤立の可能性も低いので
高くない、むしろ低いんじゃないかな。

俺には無かったとする方が「無かった」という結論を先に持ってきて論を展開してるように見えるから
あったと主張してる訳でして・・・なので無かったとするのが自然とは思えないんだよ。
0589人間七七四年2007/04/01(日) 22:54:49ID:vUgmFEDd
なんかえらく話が逸れてきているが、要は、
「家康にとっての希望であった野戦を関ヶ原で実現しながら、
小早川の裏切りに頼らなければならないほど苦戦した家康に、
野戦の才能はない」と言いたいんだろ?

関ヶ原の勝利は巧みな戦術で勝利したのではなく、
政治工作がモノを言って得られた勝利だから、
そういう意見が出てくるのも納得できるが、
その政治工作で野戦の失敗を補っているのだから、その点の評価はあっていいと思うがね
まあこれを「合戦上手」というのが妥当なのか分からないが

有能な部下を巧みに動かすなど、
兵の駆け引きを知っていたのは確かだろうし、決して下手くそとは思わないが、
「天才武将」と言えるほどの合戦上手とは異なると思う

関ヶ原や大阪の陣の場合、
自身の強大な権力を背景にした政治力で戦争に勝利する、
そんな感じだものな
0590人間七七四年2007/04/01(日) 23:12:03ID:vKvti1a3
本来政治と戦争は切り離して評価など出来ない。
関ヶ原はとりわけ規模が大きく、それでいて入り組んだ部分があったから
色々と資料が残っていて、そういう観点から考査がしやすいだけに過ぎない。
0591人間七七四年2007/04/01(日) 23:16:44ID:vUgmFEDd
>>590
家康は戦争には強いよ
武田との戦争さえ危機的状況に追い込まれてなお最後は勝利を収めるし、
秀吉との戦争でも簡単に講和することなく、その後もなかなか服従しないし、
関ヶ原・大阪の陣なども説明するまでもない
合戦指揮能力だけじゃなく政治力があるからこういう結果がもたらされているわけで

ただ純粋に合戦時の兵の駆け引きについて言えば、
「天才」と言えるレベルなのか疑問、ということだろ

個人的には信玄とかと変わらないと思うのだが
信玄もそんなむちゃくちゃ合戦指揮が上手い、というわけじゃないからね
0592人間七七四年2007/04/01(日) 23:27:34ID:bs87hsCQ
うん。家康は合戦強いほう。それも相当強い方。

でも達人クラスかというとちょっと。ってことですな。
0593人間七七四年2007/04/01(日) 23:59:01ID:lYqs2FSi
>実際にその時代を過ごした人たちがそう言ってる。
>それを否定したければ同じ時代の人でその見解を否定している人を見つけてくること。
>そうしないと議論のレベルがかみあわない。
低いレベルに合わせるべきだ!という斬新な発想のID:bs87hsCQに乾杯
0594人間七七四年2007/04/02(月) 00:03:15ID:sWepw8bi
>>593
しかし熱いね君
0595人間七七四年2007/04/02(月) 00:20:04ID:NQ8Bfx9A
家康は寝技の達人の方がしっくりくる

稀に戦術でひっくり返すやつがいるが、野戦の達人とはそういうやつにこそ相応しい

まぁ評価は順当勝ちした指導者>>>>>戦術でひっくり返した達人だが
0596人間七七四年2007/04/02(月) 00:21:15ID:0XqPFTpQ
本人登場
0597人間七七四年2007/04/02(月) 00:24:45ID:sWepw8bi
>>595
上手いな
0598人間七七四年2007/04/02(月) 00:40:15ID:WlWkQtfm
野戦とは遭遇戦を言うのだろう?
真正面から打ち破ったのでは勝っても被害が大きい
関が原で小早川に裏切らせて横槍を入れさせて勝つ
これほど野戦上手はいまい、どうだ
0599人間七七四年2007/04/02(月) 00:59:04ID:sWepw8bi
>>595
>稀に戦術でひっくり返すやつがいるが
氏康の河越夜戦とかの事か?
0600人間七七四年2007/04/02(月) 01:22:49ID:eYuVF/ku
>>584
話違うもの持って来るな

南京は、無かったって言ってるのは少数だ
あれは
「あんな多数の虐殺は物理的に無理」
って話だ
秀吉がすごい火力を使って朝鮮の書物を全て灰にした
とかと同レベルの話だ

民間人が見た戦争による被害者がどれだけ誇大して伝えられるかなんて
第二次世界大戦に限った事じゃねえよ
情報網発達した今の戦争だって正確な情報なんて出てこないのが戦場
0601人間七七四年2007/04/02(月) 02:41:09ID:YdQ0xnTE
こんな例えは何だが、
第二次大戦で勝利したアメリカは確かに強かったし、
当時の指導者ルーズベルトは有能な大統領だったが、
しかし戦争の指揮そのものが天才的にうまかったのかというとまた別の話で

家康も同じようなものじゃないの?
0602人間七七四年2007/04/02(月) 03:12:38ID:GFc3noWU
ハンニバルの例はすごいな

敵地で補給が絶たれているにもかかわらず、手勢の10倍の動員力を持つローマに10年居座って攻撃を続けるハンニバル
しかも手勢の半分は言葉も通じないガリアとヌミディアの傭兵部隊だった
ローマは毎年のように討伐軍を繰り出すがすべて敗北し、毎年のように重臣が死んでいく、お世辞にもローマの戦術がよかったとはいえない
食料調達をほぼ100%略奪に頼るハンニバルをまったく妨害できなかった
が、ローマはハンニバルにいる方面では篭城策を取り、ハンニバルのいない方面の城を奪うという戦略で見事逆襲
ハンニバルがローマでグダグダやっている間に本国を脅かして、ハンニバルを撤退に追い込む
ハンニバルはローマの制海圏を突っ切る羽目に陥って手勢を1万にまで減らしてしまい、ザマの敗退を招いた

日本で言えば、いろいろあって徳川が織田と敵対した神君イエヤスは五千の兵で織田を攻撃した
自国民が不足していたため兵の半分は中国人と朝鮮人
あえなく補給線は絶たれ、食料は略奪に頼らなければならなくなった
しかし、そこは神君イエヤス
毎年のように派遣される柴田・羽柴・滝川・明智等をすべて撃退し、安土に迫る
安土を攻めあぐねるも周辺地域を徹底的に略奪して、ほぼ100%自給自足で10年間攻撃を続ける
しかし、その10年で遠江が落とされ三河も占領寸前に追い込まれる
神君イエヤスといえどこれには撤退するしかなかった
0603人間七七四年2007/04/02(月) 03:20:20ID:vybUi3hg
戦国時代の日本はもう常に弾と火薬を消費する時代だったから、
飛び道具が投槍だったハンニバルの時代とはぜんぜん状況が違うと思う…
あとハンニバルは自占領地では略奪してないよ。
0604人間七七四年2007/04/02(月) 09:18:19ID:Y5jimeng
そもそも、当初松尾山に先に陣取っていた西軍の将兵を追い出して
強引に築陣したんだから、秀秋を西軍と見るのはおかしい。

あきらかに東軍よりで、西軍の優勢を見て迷ってたに過ぎない。
東軍の軍艦やら稲葉にそそのかされて西軍攻撃を開始しただけ。
0605人間七七四年2007/04/02(月) 13:04:25ID:yle/kMsM
まあそんなところだろう
0606退屈@親父2007/04/02(月) 15:09:46ID:+7f6TVp6






age



0607人間七七四年2007/04/02(月) 19:12:25ID:TuB/h/os
威嚇射撃は今まで普通に言われていたから特に疑ったことなかったけど、
なかったという説は誰が主張してるの?
ここを見るまで不覚にも聞いたことがなかったよ。
0608人間七七四年2007/04/02(月) 19:26:40ID:EYO5GcFo
名前は忘れたが歴史読本の関ヶ原本でも検証されて否定的な論者は居た
0609人間七七四年2007/04/02(月) 20:44:01ID:h0h+9con
家康の活躍を徳川史観とやらの捏造にしてしまいたがっている人はどこにでもいるってことだろ
このスレもそういう意図で立てられたようだし
0610人間七七四年2007/04/02(月) 21:26:13ID:BE728ZtB
家康が野戦の達人だったから天下を取れたというのではなく
政治外交能力の高さ故に天下を取れたっていう流れになってるだけだろ?
もちろん家康が戦争に弱いなんて言うつもりは無いよ
ただ、戦国大名の活躍の場ってのは戦場だけじゃないし
戦場において家康以上の輝きを示した武将はいるってだけの話
0611人間七七四年2007/04/02(月) 21:46:29ID:WlWkQtfm
だから軍事力がなけりゃ政治も外交もないぞ
今の日本をみろよ
0612人間七七四年2007/04/02(月) 21:54:15ID:yACFwM6P
>>611
日本は、隣りの家の住人が銃持ち歩いてるのに
扉に鍵もかけずに、仲良くしましょ。でやってきたから仕方ない

戦場において、家康より輝いた武将は確かに存在するし
家康がトップだというつもりは、毛頭ないんだが
人によって達人の基準が違うからなんとも
少なくとも、水準以上の戦術能力があったのは間違いない
まあ>609の言い分もわかるよ。
このスレ、最初の方は家康のやりかたはよわいものいじめだ
とか電波がぶんぶん流れてたし
0613人間七七四年2007/04/02(月) 21:54:19ID:EYO5GcFo
今の日本と家康の野戦能力に何の関係が有るんだか
0614人間七七四年2007/04/02(月) 22:01:24ID:WlWkQtfm
家康の政治力に対する反論だろうが
政治力は軍事力に比例してる、つうことだ
軍事力のない政治力なんてないんだよ
外交も同じ、家康には軍事力があったから政治力も外交力もあった
その軍事力はどうやって獲得したんだと言いたい
0615人間七七四年2007/04/02(月) 22:06:21ID:EYO5GcFo
だれも家康の軍事的才能が水準未満とは言ってないしな
豊臣政権で最大の石高の持ち主だったが、単純な野戦指揮能力では
もっと上が他に居ると指摘されてるだけだろう
0616人間七七四年2007/04/02(月) 22:10:18ID:BE728ZtB
>>614
君の言う軍事力・政治力は大名家としてのものだろ?
ここで問題になっているのは家康個人の指揮官としての能力のことだと思うんだが
0617人間七七四年2007/04/02(月) 22:18:44ID:UFfJmTX3
家康の戦術能力は決戦型の戦いでは
なく運動戦型の戦いなんじゃないかって思う。

苦戦・敗北した戦いって決戦型ばかりだし。

たとえば、関が原なんかも関が原合戦に持っていくまで、
濃尾を中心とした運動戦といってよいけど、それが非常にうまい。

でも決戦の形式になった関が原合戦はどうしてというほど
指揮に疑問がある。

つまり、戦域レベルの作戦能力は高いが、戦術レベルの指揮能力は低いのではと。
個人的意見を言えば、徳川家の戦術レベル強さは家康ではなく武将が肩代わりしたのではと。
0618人間七七四年2007/04/02(月) 22:19:21ID:WlWkQtfm
だから人質の時代に軍事力なんてあるのか?
信長の犬の時代だって、力がなければ同盟なんてしてくれないぞ?
信長が指揮能力もない男と同盟するか?
0619人間七七四年2007/04/02(月) 22:23:00ID:WlWkQtfm
三河は、ある意味、特殊なのかも知れない
学問とか礼儀とか躾とか、んなものは一文の価値もない
戦に強いこと、これが男の価値の全てだ
んな作戦指揮能力のない領主など、直ぐに殺してしまうわな
0620人間七七四年2007/04/02(月) 22:26:25ID:BE728ZtB
>>618
織田信長がいなかったら誰が天下取っていた?part5
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174052463/317
●桶狭間直前の今川家臣の知行高一覧(>>216補完)
●国衆(計42.4万石)
松平10万
朝比奈A2.5万
三浦A1万
井伊A2.5万
朝比奈B2.6万
由比2.3万
小笠原2.4万
松井2.3万
由比B1.8万
飯尾2.6万
安部1.5万
富永1.3万
葛山1.5万
三浦B1.6万
園部1.8万
井伊C1.5万
井伊D1.2万
宮城1万
石橋屋形1万
「今川家家臣分限帳 天正三年正月」より
とのことなんで松平家は十分大きい家ですね
0621人間七七四年2007/04/02(月) 22:27:23ID:yACFwM6P
ぶっちゃけ、戦場の指揮なんて、部下にまかせればいい能力
政戦両略の能力が高いのは勿論、当時の信長の状況等から
家康と同盟したんでしょ
勿論、家康の部隊指揮能力も、優秀なものだったのは疑いないわけだし
0622人間七七四年2007/04/02(月) 22:30:02ID:yACFwM6P
ああ、上の方の愛知だか静岡県民さんか
レスするだけ無駄だったな
0623人間七七四年2007/04/02(月) 22:31:05ID:BE728ZtB
みたいだね
文体が似てる
0624人間七七四年2007/04/02(月) 22:33:28ID:EYO5GcFo
文体っつうか主張してる内容も全く一緒だな
0625人間七七四年2007/04/02(月) 22:39:00ID:WlWkQtfm
今ね、中日新聞で「新三河物語」を連載してるんだけど(宮城谷)
三河一向一揆で、なぜに家康が宗教に勝って部下の信を得たのかつうことだが
家康の人質時代、三河の現世に希望はなかった、ゆえに来世で救われたいと
宗教に走ったのだが、家康が戻ってみると、現世にも希望が見えてきた
だから家康についたんだとの解釈だ、面白い
つまり家康の存在そのものに希望があったんだな、それほどの才だ
これが西洋だとカノッサの屈辱じゃないが、宗教にひれ伏してしまうのだ
0626人間七七四年2007/04/02(月) 22:53:32ID:SzLuSGua
>>614
戦場での戦果を生かせる奴と無駄にする奴がいる。
家康は前者のタイプで、戦果を最大限政治に生かせた人だと思う。

で、最終的に戦国最高の政治力を発揮することができた。
けど、戦場での戦果に限って言えば、戦国最強、達人というには物足りないという話。
0627人間七七四年2007/04/02(月) 22:56:27ID:yACFwM6P
>>626
達人じゃないならなんで天下とれたんだ?
達人なら天下とれるはずだろ?
なんてレスがつくと予想してみとく
0628人間七七四年2007/04/02(月) 22:59:03ID:WlWkQtfm
>>626
例えば島津の釣り伏せなんかは、伏兵を潜ませておいて誘いこむ
この一手なんだが、それで達人なのか? 天下分け目では通用しないぞ?
0629人間七七四年2007/04/02(月) 22:59:30ID:SzLuSGua
>>626
それは全く俺のレスを読めてないというか、
そんなレスする人はちょっと頭が(ry
0630人間七七四年2007/04/02(月) 23:03:03ID:SzLuSGua
>>628
釣り野伏せもできない人にそんなこと言う資格はないな。
0631人間七七四年2007/04/02(月) 23:05:41ID:WlWkQtfm
>>630
地理的な条件が違うだろう?
矢作川の川原で待ち伏せるのか? 平野だぞ? w
0632人間七七四年2007/04/02(月) 23:05:49ID:SzLuSGua
てゆーかさ、関ヶ原で家康って何かしたの?
何もしてねーだろ。
関ヶ原クラスの大戦だと、重要ならのは戦場での指揮能力ではなく
各武将を自分のために戦わせる政治力。
0633人間七七四年2007/04/02(月) 23:06:24ID:SzLuSGua
>>631
そもそも的外れなレスしてることに気づけよ。
0634人間七七四年2007/04/02(月) 23:07:01ID:0XqPFTpQ
上泉信綱にしろ、宮本武蔵にしろ、剣の達人になればなるほど実際にチャンバラすることは少なくなっていくわけで。

達人の定義もひとそれぞれだろうが、究めてしまった者は、なんつ〜か闘わずして勝つみたいなイメージがあるな。
その分、周囲からみれば物足りないだろうが。
0635人間七七四年2007/04/02(月) 23:22:31ID:WlWkQtfm
>>632
敵を大垣城から関が原へ誘い出し、一日で決着をつけた
こいつは凄いことだぜ?
0636人間七七四年2007/04/02(月) 23:27:22ID:yACFwM6P
>>634
上だと、政宗も達人と呼べないという人もいたし
達人と呼ぶラインが人によって、かなり上下するから難しいかもな
0637人間七七四年2007/04/02(月) 23:49:05ID:U/Pe5JCU
>>632
確かに関ヶ原何かの場合その点が大きく左右したわな

家康が西軍蜂起後の東西から挟撃される恐れがある危機的状況下で、
東軍の団結を維持させながら、西軍の切り崩しに成功し、
勝利への布石を打つ事に成功したのに対し、
三成は総大将に毛利輝元を担ぎ出す事に成功するも、
毛利家の最高顧問的地位の吉川広家はじめ、
筆頭家老の福原らが西軍加担を嫌がり東軍に内応してて、
西軍の統率が根本から崩れてしまい、
戦術・戦略的には最後まで抵抗を示すも、
結局西軍の多くは傍観・そして寝返り、あの惨敗につながってしまった。

もっとも三成と家康とでは地位に格差がありすぎて、
自分の軍団を団結させたり、相手を寝返らせるには、
家康が有利な環境だったのは否めないんだがね
0638人間七七四年2007/04/03(火) 00:01:57ID:9d68Vwfp
家康が有利な環境じゃなくて
まんまと釣り出された三成がアホなだけだよ
三成と直江の関係を知っていていろは姫との縁談をし
愚弄してるんだよ
0639人間七七四年2007/04/03(火) 00:34:37ID:yt/auqM2
>>635
一応言っておくけどな。
逆に西軍に一日で負ける可能性もあったんだ。
勝負はみずもの。特にあんなコントロール効かない大戦なんて。

そして西軍も短期の決着を狙っていたはず。

短期間で勝負をつけたい両軍の思惑が合致して決戦となった。
別に家康だけの手腕ってわけじゃないよ。
0640人間七七四年2007/04/03(火) 00:47:08ID:SVY9OLmk
西軍で赤信号だったのは、吉川と小早川と鍋島の3将。
関が原にこのうち2将がいたのは不運だったと思う。
0641人間七七四年2007/04/03(火) 00:58:07ID:9d68Vwfp
小早川は手の内だったんだよ
だから福島らの裏切りを最後まで心配していた
自分がそうだから相手もそうじゃないかと…
勝算がなくして相手の懐へ飛び込むかよ
0642人間七七四年2007/04/03(火) 02:46:03ID:SmHh7vjm
東軍を完全把握してたなら
味方が崩れそうになったときや押した時にすかさず本体の徳川から遊軍が出る筈だし
最初から東軍だった小早川がギリギリまで様子見しない
家康が所詮東軍の盟主に過ぎなかったからこそ、戦闘指揮権は参軍した諸将に委ねられ
西軍が意外や健闘したからこそ小早川は出撃を躊躇った
0643人間七七四年2007/04/03(火) 06:53:00ID:82Qtjx2Z
まぁ実際、このスレの人間が期待してる合戦能力なんて言う胡散臭いもんが通用するのは
数千〜1万未満ぐらいだろうね、上杉謙信も似たようなこといってた気がするが。

3万5万と兵が増えれば増えるほど、単純に兵を動かす事そのものが難しくなっていくので、
細かい動きなど出来るはずもなくなっていく。
0644人間七七四年2007/04/03(火) 08:13:01ID:SmHh7vjm
つ 秀吉・秀長
0645人間七七四年2007/04/03(火) 08:20:21ID:82/Hny9I
戦国時代の指揮統制システムはお粗末だから、大軍の運用は容易じゃないよ
家臣が軍役に応じたことを示す着到状(出席確認書程度の意味しかない)ぐらいしかなくて、大まかな指示は口頭で行っていたようだ
信長あたりから万単位の軍勢を幾つも動かすようになるが、基本的に個人の能力に頼ったもの
秀吉が陣立書(行軍順や配置も明記している書状)を整備してようやくまともな作戦指令書が出るようになった
0646退屈@親父2007/04/03(火) 12:05:08ID:V4Wqev64






age








0647人間七七四年2007/04/03(火) 16:27:41ID:Ky03rv0+
日本史でも最大級の野戦で勝利した家康が、野戦の達人で確定。
そもそも相対的な基準なのだから、戦国最大野戦の関ヶ原の極大勝利という結果を出した事は評価と直結するだろう。
内容も完璧じゃね?
0648人間七七四年2007/04/03(火) 16:31:22ID:7eGsnt5c
レベル低い書き込みはするなよ
0649人間七七四年2007/04/03(火) 16:34:02ID:OkeL+e9b
大将ってのは、気配りができて配下の武将に恨まれないように、まとめるのが仕事じゃないか?

作戦は軍師が考えて指揮は武将が取ると
だから野戦が得意な人間が多く配下にいたか、そういう作戦が徳川家で主流だったんじゃね
0650人間七七四年2007/04/03(火) 21:40:23ID:9d68Vwfp
本多の指揮で榊原とか大久保とかが動くのか?
それとも大久保の命令で本多や榊原が動くのか?
ばか言ってんじゃねえよ、ぼけ
0651人間七七四年2007/04/03(火) 22:50:17ID:SmHh7vjm
>>647
日本史で最大級って
10万単位の動員同士の戦いって南北朝期にはざらにあったんだが
0652人間七七四年2007/04/03(火) 23:02:28ID:yt/auqM2
>>651
あれ、本当かなあ?
情勢から言って各2,3万が妥当だと思うんだけど。
まあスレ違いなので。とりあえず10万ってことで。
0653人間七七四年2007/04/04(水) 06:24:57ID:VxbQxBB4
関ヶ原が日本史で最大級の野戦というのは事実だろ。
近代の海外戦を別にすれば。
0654人間七七四年2007/04/04(水) 14:06:52ID:dEQiTK72
>>653
そういう基本的な認識からズレている奴がいるから怖い。
0655人間七七四年2007/04/04(水) 14:18:58ID:3Gk2cwjx
やはり日本戦史上は重要だと思うよ
過去の日本でもそれだけの兵数を揃えた戦いはあったといわれるが、水増しされていないという証拠は無い
関ヶ原合戦は太閤検地後で、正確な動員可能数が把握された後の合戦
つまり「本当に20万級の兵力がぶつかったと保証できる初の合戦」
0656人間七七四年2007/04/04(水) 15:14:33ID:W2MhxHir
関ヶ原なんて野戦と呼べる代物か?
権謀術策をつくした下地づくりばっかりで言わば政治力合戦だろ。
周りは自分より年下ばっかを相手にあわやというところまで奮戦されて
慌てふためいて一か八かの裏切り催促。
これが野戦の達人て片腹痛いわ。
0657人間七七四年2007/04/04(水) 15:41:32ID:NCCF8nP7
戦争は過程よりも結果が全てだからな。
負けた結果すら計算に入れる様な家康の思慮深謀は現代の人間にすら計れないほど
>>656
別に当事者でも無いのに、負け犬の遠吠え見たいな事言ってる奴大いスレ
0658人間七七四年2007/04/04(水) 16:32:56ID:dCygOxbH
>>657
日本語でおk
0659人間七七四年2007/04/04(水) 16:44:38ID:Ar4s0LOU
数だけは立派だけど
西軍で戦ったのって宇喜多、石田、大谷(とその支隊)だけだかからなぁ
実際は4万対10万さな
0660人間七七四年2007/04/04(水) 16:48:59ID:W2MhxHir
>>656
野戦というテーマに基づいて論じているのに
>>戦争は過程よりも結果が全てだからな。
なんてズレたこと言われると
秀吉も野戦の達人ということになるが。
0661人間七七四年2007/04/04(水) 17:02:11ID:HPYLtC5N
>>659
小西小西!!

それに東軍も池田輝政や山内一豊らの南宮山を睨んでた1万5千も戦ってないな。
0662人間七七四年2007/04/04(水) 17:05:43ID:QOxZoSj0
>>656
>慌てふためいて一か八かの裏切り催促。
これは何のことをさしているんだ?もっと勉強したほうがいいんじゃね?
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