家康は本当に野戦の達人?
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0001人間七七四年
2007/03/11(日) 00:04:50ID:jgwWrmey本当にそれほどの戦上手なのでしょうか?
0443383
2007/03/31(土) 02:17:15ID:UVRZWrWg>家康の寡兵で大軍破ったもう一つの例として吉田城の攻防
前にも書いたが有名どころしか挙げてないので入れてない。
また自身が良く知らないと言うのもある。
>長野業正は兵力で劣っているけど武田や北条に負けているとされている
自分が調べた限りではそういう内容のものは見つけられなかった。
>また武田に勝ったと言うのも・・・野戦かって気がするけど?
>あと鈴木重秀は謎過ぎるので入れるのは変
これらは不適切だったと思うので外すよ。
重秀は織田軍と野戦で戦って引き分けたこともあるみたいだが、篭城戦の面の方が強いし。
業正も同様。
0444人間七七四年
2007/03/31(土) 02:24:43ID:j86id7tMまず、関が原と大坂の陣なわけだが。
双方とも勝ったが、極めて不味い状況に陥ったのは確か。
小牧・長久手から関が原まで10年以上も、合戦を家康は経験
していない。その間の戦術理論の発達に家康が追いついていなかった
のではと考える。
最近のトレンドだと、野戦築城が発達したっぽいけど。
その手の経験を学び損ねて関が原以降、戦機を感じることができなくなった
ではないかと思う。
0446人間七七四年
2007/03/31(土) 02:38:10ID:H4VngCHj吉田城というか東三河の争奪戦の一つだが
一宮の後詰とかでぐぐれば見つかるかもしれないが
史料によってまちまちだが
だいたい
松平勢2000〜3000が今川勢8000〜2万が包囲する一宮かどこかの包囲を突破して
中の兵と合流し、今川勢を撤退させるという話し
その結果今川は東三河を喪失することに
氏真が兵を率いたとも武田信虎が兵を率いてたとも言われている
他に武田信虎が駿河で不穏な動きをしたため今川は兵を退いたとも
長野業正は確か
志賀城救援で武田に敗れたという話しのほか
河越夜戦後、戦場に出ない憲政に代わって北条氏と戦って負けたという話し
0447人間七七四年
2007/03/31(土) 02:41:56ID:323m4ooz外堀を埋めると約束させたうえに内堀まで埋めるという
手段に出ることで城の防御力を著しく低下させたのは
家康の政治家という面の能力かと愚考
家康は相手に付け込むの本当に上手いよね
小牧といい大坂の陣といいね
0448383
2007/03/31(土) 02:54:23ID:UVRZWrWg>一宮の後詰
ググッてみたところ数件でてきた。
が、複数の資料が言ってる事がまちまちの部分が多い気がする。
氏真が傍観とか信虎が謀反を起こしそうだから引き返したとか言ってるのもあるし。
それと後詰軍が包囲を破ったみたいだけど、包囲軍のうちのどれくらいの数と
戦ったのかわからない。
これではちょっと評価し辛いな。
>志賀城救援
「志賀城 業正」でググッたが自分が調べた限り上杉憲政の援軍としか出てこないんだが・・・。
0449人間七七四年
2007/03/31(土) 03:09:23ID:H4VngCHjまあ分かるのは家康が大軍を破ったってことぐらいだな
>包囲軍のうちのどれくらいの数と戦ったのかわからない
これはほとんどの場合分からないだろ
むしろわかる方が怪しい
でもこれで評価しづらいなら長野業正 鈴木重秀 吉川元春 立花宗茂
の評価はもっと難しいと思う
0450383
2007/03/31(土) 03:30:38ID:UVRZWrWg立花宗茂は朝鮮の役などで十分評価できないか?
まあ元春は良くわからん部分も多いが、一応山陰方面軍で活躍してるし無敗。
九州の大友戦でも下手撃ったわけじゃないし。
一宮の後詰の話は包囲軍の数があまりにも乖離しすぎててどの数字で評価していいか困る。
仮に徳川三千、今川一万として包囲を破って城に入った。で、今川は何らかの理由
で引いた。
破ったこと自体は評価できるが、城に入ってしまえば篭城戦になるし、今川は
なぜ徳川を攻めなかったのかわからない。
元春を達人とする評価は異論ありかもしれないが、俺の家康評は下手糞や並ではないけど
達人と文句なしで言えるレベルとはいえないから変わらない。
0451人間七七四年
2007/03/31(土) 04:17:45ID:+J048fXa二人の親父より評価高くていいぐらい
朝鮮役だけじゃなくて、肥後の一揆の時の進退の巧みさも評価出来る
ただまぁ、万単位の将ではない
万単位の兵を率いなければならなかった家康と純粋には比べられない
けど、そういう運用は秀吉、秀長の方が家康より優れてた
0452人間七七四年
2007/03/31(土) 05:13:50ID:vuf4KVVX同意
同単位なら朝鮮派遣軍のが強いと思う
0453人間七七四年
2007/03/31(土) 09:13:26ID:3ZRnNP0V野戦築城に対する攻撃は、敗北もしくは出血を強いられた勝利となっています。
嚆矢といわれる長篠の合戦は周知のとおり、小牧の対陣は双方手を出せず、
関ヶ原は裏切りで(これの異論は今回は置いといてください)、大阪夏の陣に
おける天王寺合戦は東軍の大苦戦。
これは家康がいない他の戦でも同様の結果になります。
つまり、野戦築城の構築はことそれに攻めかかる将の戦術能力を無効化する
事ができるという事になるのでしょう。
おそらくそれを圧倒する手段はただ一つ、それを飽和する戦力を叩き込む。
そういう意味では安土・桃山時代以降の戦は戦術など勝敗に左右されない
時代に達していたのでしょう。
0454人間七七四年
2007/03/31(土) 09:37:39ID:DP5v8hy2論旨がつかみにくいけど、大阪夏の陣は、
”それを飽和する戦力を叩き込む”戦だったゆえに苦労したのでは??
移動力が徒歩に頼る場合(第一次世界大戦まで)、
局地的に不必要な人数を集めて失敗した例は多いよ。
0455人間七七四年
2007/03/31(土) 09:45:06ID:VmOgNBCx確かに個人の戦略が戦を左右する時代から、
総合的な権力政治力がものをいう時代に変わってきてるな。
家康は個人の戦略はそこそこ、総合的な権力は他を圧倒しているから
やっぱり達人だわw
0456人間七七四年
2007/03/31(土) 09:56:20ID:j86id7tMであるなら、余計な評価低くなる。
なぜなら、関が原の合戦は必然的な決戦ではなくて、
家康が主導して作り上げた決戦。
つまり、自ら不味い設定で戦った事になる。
最低限の物見出すこと位すりゃ敵の野戦築城の仕上がりが理解できるし、
そもそも各将の調整の取った様子も無い。
合戦初期は霧が出ているんだから、厄介な接敵が比較的楽にだったわけだし。
家康が陣場野に出た理由って東軍が押されて、陣地から西軍が
出撃して東軍がかき乱されたからじゃなかったっけ?
この状態で野戦築城も糞もないと思うんだけど。
ここでも一つ評価が下がる。
家康、予備隊投入下手糞。
大垣城から敵兵力を引き剥がすという事に成功したわけだし。
そもそも、強いて戦を強要せずとも良い状態だったわけだが。
家康の為に弁護すると、関が原は政治が足かせになった戦かもね。
黒田長政にちょっと下がりなされって命令だしても、
空気読めよって素で返されそうだ。
0457人間七七四年
2007/03/31(土) 09:57:25ID:3ZRnNP0Vあれは攻撃一波の破砕に乗じて突撃していった結果として生じたものですから
防戦に専念していたら三倍の兵力は常識的かと
家康も大阪方は今回も篭城を主として考えていたのか、戦間期にも大鉄砲を大量
生産させています。
0458人間七七四年
2007/03/31(土) 10:14:34ID:3ZRnNP0V家康としては関ヶ原において陣場野に前進したのは状況を見定めようとした為でしょう。
霧が晴れたといっても合戦後、土砂降りになったというから視界は依然悪いでしょうし、
後、西軍の反撃は東軍の攻勢を破砕した後とも考えられます。
そして、西軍も反撃に失敗してそこの小早川が裏切りをという流れではないのでしょうか
ちなみにあそこで小早川が動かず、千十手になった場合、双方は兵を引き(東軍は菩提寺
山城、西軍は佐和山城か?)再び、対峙になるかと。
その点では家康にとっては大敗をしない限り、西軍を後退させることができるという事ですから
家康は統率が取れていない西軍に大敗することはないと判断し前進したのでしょう。
0459人間七七四年
2007/03/31(土) 10:21:25ID:73hXRIm1後世で事情を知ってるから書ける事が混ざりすぎてない?
その時の家康の視点からみてやらないと、減点はいくらでもできちゃうだろ
0460人間七七四年
2007/03/31(土) 10:43:12ID:DP5v8hy2さすがに篭城は考えてないと思うけど。「堀を埋める」という政略的成功を収めた後で、
家康も「兵糧は3日分でいい」とかいってたというし伊達政宗も鉄砲騎馬隊を披露してるし
夏の陣の攻め手は野戦前提の用意してたのでは?
本筋から外れるけど17,18世紀に野戦では戦術で2,3倍の敵を追い散らした例はあるよ。
(ナルヴァの戦い、ロスバッハの戦いetc..)
戦場に多量の兵士を送り込むのは必勝法だけど、その質の確保ができるのは、
国民軍が成立してからじゃないかなぁ…それまで戦術を無視できるほどの大軍、
というのは現実的考えだとは思えないとおもうなぁ…
0463人間七七四年
2007/03/31(土) 15:03:31ID:3ZRnNP0V正確には篭城というより、小牧の陣みたいな対峙戦を警戒していたのではないかと
家康としては短期間で終わる野戦が望む所でしょうが、対峙戦も警戒していたかと
兵の質に関しては戦国期日本は侍・足軽がどの程度の存在であったかから始めない
といけないでしょう。
欧州基準の封建兵ではないし、傭兵とも言い切れない、徴集兵では断じてない。
これらの存在がどの程度の組織力を有すかはそう簡単には結論は出ないかと
0464人間七七四年
2007/03/31(土) 19:24:22ID:iwdmAPdO野戦の達人かと言われると言葉のイメージからすると難しい。
野戦の達人と言えば、馬上戦況を見ながら自在に兵隊の出し入れをするイメージかな。
姉川の戦いではこのイメージに合ってる。
0465人間七七四年
2007/03/31(土) 19:34:35ID:weE/wF3O家康が師と崇めた信玄は野戦能力はどう思う?
0466人間七七四年
2007/03/31(土) 20:11:50ID:s9USCrTBそもそも横槍入れたのが榊原康政だったり本多忠勝だったり果ては信長から援軍に寄越された稲葉一鉄だったり書によりバラバラ
信玄も言われているほど野戦能力ないよね。上田原合戦では五千で二千の村上勢に大敗しているし、川中島合戦でも劣勢の上杉勢に大打撃喰らってる
三方ヶ原合戦は二倍以上の兵力で押し潰しただけ(いわゆるおびき出し作戦説は、江戸期初期以前のものは信玄贔屓の軍鑑すら取っていない)
0467人間七七四年
2007/03/31(土) 21:43:15ID:nMZqVN4Oあれだけの負け戦なのに、家康側の重臣に死者がいない
本多や榊原、酒井・大久保に一人くらい死者がいても良い筈なのに、いる?
家康が馬上、大便を漏らすくらいの負け戦に、有名どころの討ち死にがいない
少し腑に落ちない、いや大いに疑問がある、これは家康の宣伝ではないのか?
織田殿の三千くらいの応援では信玄は討てません、つう泣きじゃないのか?
0468人間七七四年
2007/03/31(土) 21:45:57ID:nMZqVN4Oふざけんな! って言いたい、食ってる暇があったら逃げろと・・・
0469人間七七四年
2007/03/31(土) 22:00:58ID:nMZqVN4Oふつう一揆と言えば住民が領主に謀反することなんだが
三河一向一揆の場合、寺に課せられた税に対して寺が怒り
それに吉良や家臣が加担して一揆になった
疑問とは、寺に課税して一揆の元をつくったのが
他ならぬ家康ではないかと思えるのだが…狙いは三河再統一だ
0470人間七七四年
2007/03/31(土) 22:15:39ID:nMZqVN4O家康の松平は主流ではなく傍流だ、だから親戚筋の松平には不満な連中がいたし
当然、吉良は復権を狙っている、その不満分子を誘い出して再統一しなければ
先々の禍根となる、よって一向一揆なのだが、その実、シャッフルして
内閣改造したんだと考えたい、関が原の前に裏切り者が出ないようにしたみたいに…
0471人間七七四年
2007/03/31(土) 22:19:23ID:nMZqVN4Oあれがあったから長篠の戦には信長自ら出陣しなければならなくなり
それが武田を滅ぼした要因なんだと思う
つまり家康の負け戦っぷりが宣伝効果満点だったと・・・
0472人間七七四年
2007/03/31(土) 22:23:34ID:weE/wF3O武田が快勝するも家康らを仕留め損ね、大きな戦果がなかったのは同意だが
0473人間七七四年
2007/03/31(土) 22:37:11ID:nMZqVN4O家康側の重臣が討ち死にしてないんだぞ? おかしいと思わないのか?
川中島にしても長篠の戦にしても、重臣たちの死屍累々だぞ?
家康が討ち死に寸前な戦いで、それを庇って重臣の二人や三人
討ち死にするのが当り前じゃないのか?
0474人間七七四年
2007/03/31(土) 22:59:48ID:3ZRnNP0Vttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m215.html
これを見ると国人領主級が3人ほど死んでるな
0476人間七七四年
2007/03/31(土) 23:16:09ID:nW1M6RjS本多忠真、鳥居忠広、鳥居信元、成瀬正義、
松平康純、米津政信、中根正照、夏目正吉
忠勝の叔父とか鳥居一門とか二俣城城代の中根とか死んでるな。
0477人間七七四年
2007/03/31(土) 23:18:41ID:BdtLKJwv関ヶ原で家康が苦戦したことは同意だが一つ質問
>なぜなら、関が原の合戦は必然的な決戦ではなくて、
>家康が主導して作り上げた決戦。
これはどういう意味かな?
1:家康は天下取りの為一大決戦を望んで色々と策謀してきた
2:赤坂まででてきた家康は三成と野戦で決着をつけようと関ヶ原におびき出した
1なら同意だが、もし2の場合だと、
関ヶ原での合戦は家康が誘ったのではないとする意見も強く、
いまだあの関ヶ原の決戦がどのようにして起こったかをはっきりと示す史料はなく、
断言は出来ないと思うのだけど、どういう意味で書かれたのだろう?
0478人間七七四年
2007/03/31(土) 23:28:47ID:PKpUhUfN三成以上に、家康にとってより必要だったと。
三成は極端な話、家康が死ぬのを待てるなら待ちたかったわけで。
0479人間七七四年
2007/03/31(土) 23:41:50ID:nMZqVN4O千人も死んで、これなら大っぴらに信長の御出馬を願えるな
でも与力の信長家臣に犠牲者が少ないのは、さすが三河人だな
0480人間七七四年
2007/03/31(土) 23:49:30ID:+J048fXa0481人間七七四年
2007/03/31(土) 23:51:35ID:nMZqVN4O馬上ウンコとか、お粥とか小豆餅の食い逃げとか、エピ盛り沢山だろ?
家康自ら負け戦を吹聴してるんだから・・・
0482人間七七四年
2007/03/31(土) 23:57:54ID:Ka1jeT0w関ヶ原 大阪 長篠 桶狭間
7割載る
姉川 山崎 賤ヶ岳 延暦寺
4〜5割載る
小牧長久手 本願寺
2割載る
高松 小田原 刀根坂
1割載る
川中島
三方ヶ原はこの次くらいだな
0484人間七七四年
2007/04/01(日) 00:06:43ID:2tQGrZPNでも一向一揆を調べて逝くうちに考え方が変わった
石橋を叩いて渡らない、なんてイメージは家康ではないぞ
一向一揆の元、寺に課税するなんてのは、今も昔もない
それをした家康は喧嘩を売ったんだ、従わない家臣を炙りだしたんだよ
三方が原でも負け戦を敢えてしたんだよ、落合ドラゴンズが負け試合を創るようにな
家康は並じゃないどころか、天才だったんだよ、だから天下を取れた、間違いない
0486人間七七四年
2007/04/01(日) 00:10:45ID:2tQGrZPN千人も死んで重臣が死んでない? んなばかなだよな
0487人間七七四年
2007/04/01(日) 00:14:10ID:BJfRPzYE家康が仕向けたってのは煎元増夫あたりの説だったな
それ鵜呑みにして興奮してるのか?
一向一揆もどういう経緯で起こったかよくわからんし、仮にこれが家康主導だったとして、
そこからなぜ三方ヶ原はわざと負けた、だから天才だに至るのかがわからん
お前とりあえず黙ってろ
0488人間七七四年
2007/04/01(日) 00:15:32ID:2tQGrZPN三成に口実を与えている、挙兵を促しているんだ
さらに福島らの裏切りを最後まで用心しているし
三河一向一揆の経験が生きているよな
兎に角、家康は受身のようにみえて実は攻めているんだな、これが
0489人間七七四年
2007/04/01(日) 00:19:00ID:2tQGrZPN最後に、もっと珍説を披露しようかな
桶狭間、実は家康が信長を手引きしたんだと考えていると言ったら
またバカにするだろうなぁ…
大高城攻めをしていた家康なら、その前を信長を通せば
桶狭間に出ることができるんだがな、、珍説だよな
逝ってよしって? もう逝くよ、怒るなよな w
0491人間七七四年
2007/04/01(日) 01:50:48ID:kb9d4fRD>断言は出来ないと思うのだけど、どういう意味で書かれたのだろう?
家康が決戦を決意したって意味合い程度。
状況からみて、双方の思惑の流れから関が原がおこったのであり。
どっちがどっちを誘ったのも判断しにくい。
でも、最終的には家康が関が原に出ることを決意したからこそ
決戦が生起したわけで。
攻勢に出た東軍イニシアティブもあった。
論理的帰結で”家康が主導して作り上げた決戦 ”となる。
・・・いやさ、あんたの言いたい事も分かるよ。
関が原合戦の舞台図描いたやつがわからんちんっつー事でしょ。
でも、それって意味あるの?
0492人間七七四年
2007/04/01(日) 02:00:47ID:BJfRPzYE誤読だったら申し分けないのだけど、
>>456を読んで感じたのは、
「家康は自らこの決戦を画策しながら、
肝心のところで失敗しているから野戦は下手だ」と読めたのね
要は関ヶ原での決戦を望んだ首謀者でありながら本番でダメじゃないか、と
だから家康は戦下手だぜ、と
「家康が主導して作り上げた決戦」
とあったからそのように理解していたのだけどね
けど、その意味で行けば、
関ヶ原に主導的に誘い込んだのはいずれだったのかわからないのだから、
「関ヶ原に誘いながら合戦に苦しむ家康は野戦下手」
という批判はありえないと思ったわけよ
0493人間七七四年
2007/04/01(日) 02:05:55ID:BJfRPzYE>論理的帰結で”家康が主導して作り上げた決戦 ”となる。
けどそれは「家康が主導的に画策して関ヶ原決戦に成った」って意味じゃないじゃん
「家康が主導的に作り上げた」のではなく、
「家康と三成の双方が関ヶ原で決戦に臨むことを決意した」というのが正しいんじゃない?
0494人間七七四年
2007/04/01(日) 02:11:47ID:BJfRPzYEなにも>>456の見解全てを否定したいわけではないのであしからず
「家康が関ヶ原に三成をおびき出しながら、
合戦に苦しんだのは野戦下手」というのに疑問があっただけだから
「家康は関ヶ原で勝つべくして勝った」などというつもりはない
あんなの戦術としては負けていながら、
政治力で戦争に勝利したようなものだからね
0495人間七七四年
2007/04/01(日) 02:31:29ID:kb9d4fRDだんだん言葉遊びじみてきたな・・・。
あっさり、言っちまう。
西軍にすでにイニシアティブなんてものはなかったんだよ。
関が原にあの日いかなきゃ、後方遮断されておしまい。
詰んでいた。以上。
0496人間七七四年
2007/04/01(日) 02:45:10ID:fP1rFGZQで戦上手ならあそこではどんな手が打てたと思う?
0497仙台藩百姓
2007/04/01(日) 02:55:07ID:d7PdRpAF秀秋の気分一つで戦況を左右されるようじゃ
0498人間七七四年
2007/04/01(日) 03:33:38ID:R6zFpEIb別に言葉遊びをするつもりはないよ
疑問だったのは、
「関ヶ原での野戦はすべて家康の思惑通り」
ということだけでこの点をはっきりさせたかっただけだから
0499人間七七四年
2007/04/01(日) 03:47:51ID:tRTmfZDP0500人間七七四年
2007/04/01(日) 03:54:30ID:R6zFpEIbそれなら異論なし
自分がいうのは、あの関ヶ原での合戦は、
「関ヶ原の地で合戦をするべく家康が仕組んで、
家康の思惑通りに運んだ結果、起こったものである」
というような狭義の意味でだから
0501人間七七四年
2007/04/01(日) 07:37:20ID:IJxyWYlfだが結局は西軍に包囲される絶対不利の布陣を取られ、
毛利の傍観と、愚鈍の小早川秀秋の気まぐれ頼みの勝利だろ。
関が原での家康はただそれだけを気にかけていた。
野戦の才などこれっぽっちも示していない。
たまたま秀秋が臆病風を吹かせて西軍を攻めてくれたから勝てたものの、
朝鮮での戦場の時のような躁な精神状態だったならキレて家康に攻めかかり、東軍は負けていた。
0502人間七七四年
2007/04/01(日) 08:05:25ID:vKvti1a30503人間七七四年
2007/04/01(日) 08:13:57ID:IJxyWYlf秀秋は戦闘が開始した後も日和見を続け、どっちを攻めればいいのか逡巡していた。
つまり東軍か西軍のどっちに転んでもおかしくは無かったわけだ。
お前レベルが低すぎる。
0504人間七七四年
2007/04/01(日) 08:29:16ID:akcNsTGW軍に家康の配下を目付として従軍させたりと明らかに東軍派だったけど、
関ヶ原本戦で意外と東軍の旗色が悪かったから去就に迷ってたのは事実だよな
家康はもう少しで戦前に緻密に積み重ねた調略をフイにするところだった
0505人間七七四年
2007/04/01(日) 08:36:03ID:tRTmfZDP鉄砲を撃ってけしかけた説は真偽が怪しいし。
0506人間七七四年
2007/04/01(日) 09:01:31ID:IJxyWYlf話を混同している。
秀秋が戦の形勢を傍観し攻撃目標を決めかねていたのが優柔不断であり、
家康からの西軍攻撃を催促する砲撃に怯えたのが臆病だ。
>鉄砲を撃ってけしかけた説は真偽が怪しい
なら秀秋は何を契機に西軍攻撃を決意し実行したのか。
つまらん茶化しはシラける。
0507人間七七四年
2007/04/01(日) 09:09:19ID:tRTmfZDP家康の陣と小早川の陣の、位置と距離を調べてみ。
だから根拠は何かと>>502も書いたのだろう。
自分も聞きたいな。
0508人間七七四年
2007/04/01(日) 09:26:07ID:IJxyWYlf砲撃の射程距離など問題ではない。
家康が秀秋を砲撃した「行為」こそが秀秋を西軍攻撃に踏み切らせた引き金になったと言っている。
攻撃してきた相手に憤慨もせずに、それに腰を抜かして怯え裏切りを敢行した愚行は、まさに「臆病風」そのものだろう。
君の言う所の
>鉄砲を撃ってけしかけた説は真偽が怪しい
の根拠は何か。明確に示してみろ。
それさえ出来ずに反論するな。
0509人間七七四年
2007/04/01(日) 09:32:54ID:tRTmfZDP関ヶ原の陣形図みてみ。探そうと思えばそう難しくないから。
その上で書き込むように。
0510人間七七四年
2007/04/01(日) 09:51:07ID:akcNsTGWだから怪しい与太話だと言われてる
関ヶ原の戦いで家康が何もせずに爪を噛んで小早川の裏切りを待ってるだけだった、
というのが江戸時代如何にも都合が悪かったから考え出された逸話だと思われ
0511人間七七四年
2007/04/01(日) 09:55:11ID:IJxyWYlfだから、砲撃の射程距離など関係ないって言ってんだろ。
どうでもいい事に話をすり替えて、己の論拠の無さを誤魔化そうとすんな。
君の薄っぺらさにはウンザリだ。
0512人間七七四年
2007/04/01(日) 10:00:52ID:IJxyWYlf東西両軍どちらが優勢なのか戦局を注視していた秀秋が、
自軍が布陣している松尾山に砲撃された事に気付かないわけねーだろ。
「怪しい与太話」はそっちの主張だろうに。
0513人間七七四年
2007/04/01(日) 10:18:57ID:akcNsTGW「敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を響かし、地を動かし、
黒煙立ち、日中も暗夜と成り、敵も味方も入り合い、錣をかたむけ、
干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う。切っ先より火炎をふらし、
日本国二つに分てここを詮度とおびただしく戦い、数ケ度の働きこの節なり」
多少文学的な誇張は混じってるだろうが、東西十万を超える大軍が鉄砲を撃ちあい、
怒声を挙げその硝煙の為に関ヶ原が暗くなってしまうほどの大激戦だったわけよ
そんな状況で比高300メートルにも達するかという松尾山の山頂に陣取ってた秀秋が、
数キロ離れた桃配山に居た家康の本陣からの威嚇射撃に気付くのは不可能だと言われてるわけ
よしんば家康の陣から鉄砲が撃ちかけられてるのが見えてもまさか自分の陣に撃ってるとは思わないだろう
普通に盆地中央で戦ってる東軍の援護射撃をしてると思うだけ
0514人間七七四年
2007/04/01(日) 10:28:35ID:K/yJW8NL普通に鉄砲隊が押し出して行って松尾山の麓から撃ったんじゃないの?
普通敵の玉が届く距離にお互い陣張らないだろ…
0515人間七七四年
2007/04/01(日) 10:37:41ID:IJxyWYlf関が原での戦闘中、家康は自軍を鼓舞するため、
本陣を桃配山から前進させたことを知らんのか。
小早川が陣取る松尾山に裏切りの催促の砲撃をしたのはその後だ。
実際に関が原古戦場を訪れた人の感想はこうだ。
「私の当初のイメージでは、この関が原の古戦場は広大な土地での各陣ゆとりを持った戦いという感がありましたが、
実際現場に行くと、私のイメージとはかなり違い、各武将の陣地はひしめき合っていました」
つまり机上の布陣図と実際の距離感は全然違うということだ。
家康がこちらに砲撃してきたことくらい、
朝鮮の地でそれなりに戦の場数を踏んできた秀秋が気付かないわけがないだろ。
しかも布陣している所は見晴らしの良い高地だ。
戯れ言もいい加減にしてもらいたいもんだ。
これは
0516人間七七四年
2007/04/01(日) 10:38:36ID:vKvti1a3鉄砲で威嚇だの講談話は嫌いじゃないが、今は俺はそんなこた聞いて無い。
これで理解できないなら土台、俺の聞きたい所もわかろうはずも無いんで気にせんでいいわ。
0517人間七七四年
2007/04/01(日) 10:50:39ID:IJxyWYlf何の意味もない的外れな妄言。
有効な反論ができないため、どうでもいい事を持ち出し、
議論の本質を不明確にしようとする姑息な作為。
0518人間七七四年
2007/04/01(日) 11:22:23ID:tRTmfZDPとりあえず、図を見てない議論は話にならない。
だからコメントしようがないわ。
0519人間七七四年
2007/04/01(日) 11:26:19ID:Sp7O0926小早川を弁護すると、別に砲撃に怯えたわけじゃなく
単に家康の催促に応じて裏切りを決意しただけだろ
0520人間七七四年
2007/04/01(日) 11:27:35ID:IJxyWYlf関が原での東西両軍の配置くらい頭に入ってるつーの。
そもそも、こんな事本筋からすれば枝葉末節なことだろ。
自身の知恵足らずを隠蔽しようとする姑息な詭弁か。
0521人間七七四年
2007/04/01(日) 11:35:37ID:IJxyWYlf松尾山への砲撃=家康からの裏切りの催促
両者をわざわざ切り離して考える事自体愚劣
0522人間七七四年
2007/04/01(日) 11:39:38ID:tRTmfZDPなら再度みてみ。
自分のレスのおかしいところに気づくまで。
まずはそれからだね。
0523人間七七四年
2007/04/01(日) 11:44:30ID:Sp7O0926だからそう言ってるんだってw
0524人間七七四年
2007/04/01(日) 11:44:40ID:IJxyWYlfどこよ?指摘してみろ。ま、できないだろうけど。
俺の主張に不自然不合理な点などない。
0525人間七七四年
2007/04/01(日) 11:46:20ID:tRTmfZDPまだみてないだろうどうせ。
巨大なヒントを提示しているんだけどねこっちは。
0526人間七七四年
2007/04/01(日) 12:00:24ID:IJxyWYlfだから、そんな事どうでもいいって言ってんだろ!
見たからどうだって言うんだ?
何の意味もねーだろ。
>巨大なヒントを提示
何だ?そりゃ。
そんなもんねーよ。
戯れ言ほざいて論点を不明瞭にしようとする姑息。
恥を知れ!
だから
>レスのおかしいところ
が、どこなのか示せよ。
そんな箇所は存在しねーから無理なんだよ。
つまり、お前の主張は初めから破綻してんだ。
0527人間七七四年
2007/04/01(日) 12:05:06ID:tRTmfZDP別にこっちはまじめに話しているからキミがどういう態度だろうと対応は変えないけどさ。
陣形図みて、本当に何も思わないのか?
意味がないと決めつけて、まだ見ていないのなら見てみよう。
見た上で、それでもわからないというなら話を進めるがね。
0528仙台藩百姓
2007/04/01(日) 12:16:29ID:d7PdRpAFオモシロスw
0529人間七七四年
2007/04/01(日) 12:17:21ID:IJxyWYlf勿体付けないで陣形図にどんな意味があるのか、さっさと明示しろや。
どーせ意味なんてねーから、しょーもない引き伸ばし工作カマしてんだろ。
ミエミエだっつーの。
0530人間七七四年
2007/04/01(日) 12:19:46ID:tRTmfZDP0531人間七七四年
2007/04/01(日) 12:26:16ID:IJxyWYlfおい、爆笑させるな。
>陣形図みて、本当に何も思わないのか?
お前は何を思ったのか記せよ。
この俺を低次元な議論に引き込むな。
0532人間七七四年
2007/04/01(日) 12:28:44ID:tRTmfZDP陣形図を見たけどなにもわからなかったのか
どっちなんだと聞いているんだ。
0533人間七七四年
2007/04/01(日) 12:38:48ID:IJxyWYlf陣形図を見たけどなにもわからなかったのか
アホらしい。
俺が陣形図を見たかどうかなど、どーでもいいだろ。その点は既に述べた。どこ見てんだ?
論点は、お前の言うところの「陣形図が示唆する巨大なヒント」が何なのか、
ただ、それだけ。
とっとと言え。
ま、そんなもんはねーから、毎度の姑息な詭弁を繰り返すだけなんだろ−けど。
次に書き込むなら、
「陣形図が示唆する巨大なヒント」
とやらを明示しろ。
もしできないなら、
お前は口先だけのインチキペテン野郎ってことだ。
0534人間七七四年
2007/04/01(日) 12:38:52ID:akcNsTGWその時松尾山の麓では大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げてたろ
そんなとこまで鉄砲隊が前に出て松尾山の山頂目掛けて届かない鉄砲の弾を撃ったというのは不自然
大谷隊にとってはいいカモだし藤堂隊にとっても邪魔なだけでしょ
>>515
家康が戦況不利を悟って途中で陣馬野まで本陣を前進させたのは事実、
だがそれによって三成隊とは肉薄するくらい近くなったが
松尾山の小早川の陣とは桃配山に居た時と大して距離は変わってない
以前として数キロの距離は開いてる
0535人間七七四年
2007/04/01(日) 12:43:35ID:IJxyWYlf>松尾山の小早川の陣とは桃配山に居た時と大して距離は変わってない
大いなる事実誤認。距離が近づいたのは明白。
実際に関が原古戦場を訪れた人の感想はこうだ。
「私の当初のイメージでは、この関が原の古戦場は広大な土地での各陣ゆとりを持った戦いという感がありましたが、
実際現場に行くと、私のイメージとはかなり違い、各武将の陣地はひしめき合っていました」
つまり机上の布陣図と実際の距離感は全然違うということだ。
0536人間七七四年
2007/04/01(日) 12:44:41ID:tRTmfZDPなんだ答えると何か都合の悪いことでもあるのかい?
それじゃこちらも答えようがないな。そっちが答えないのだから仕方がない。
0537人間七七四年
2007/04/01(日) 12:46:10ID:tRTmfZDPその古戦場を訪れた人とやらは誰だ?
ちなみに当時と現代で、地形が変わっているのは当然わかった上で語っているよな。
0538人間七七四年
2007/04/01(日) 12:48:43ID:akcNsTGWいや、多少近くなったのは事実だが、
陣場野の家康本陣と山頂の小早川の陣とは
少なく見積もっても依然として2-3キロは離れてるでしょ
じゃあ君はどのくらいの距離だったと見積もってるわけ?
0539人間七七四年
2007/04/01(日) 12:58:52ID:IJxyWYlf根拠のない嘘を垂れ流す小泉純一郎も真っ青のインチキペテン師
陣形図くらい何度も見てるぞ。
どうだ、満足したか。
「陣形図が示唆する巨大なヒント」とやらを明示してみろ。
もう逃げ場はねーぞ。
0540人間七七四年
2007/04/01(日) 13:03:00ID:tRTmfZDPなるほど、つまり「陣形図は何度も見たけれどなにひとつわからなかった」ということだな。
それを確認できたなら、次へ進もうか。
0541人間七七四年
2007/04/01(日) 13:12:00ID:IJxyWYlfどこの誰かなんて知らんよ。
古戦場を訪れた人の感想を引用しただけ。
>当時と現代で、地形が変わっている
とは笑わせる。
変わったのは風景であって地形じゃねーだろ。
頭大丈夫か?
>>538
>どのくらいの距離
さあな。
小早川秀秋が肉眼で家康の本陣がどこなのかを認識できる距離なんだから、
それで充分だろ。
インチキ野郎の姑息なすり替え論法によって、
散々話が枝葉末節な方へと外れたが、
論点を単純化すれば、
小早川秀秋の寝返りのよる西軍への攻撃の誘因は、
家康の裏切りを催促する砲撃だって事。
この歴史認識に異議があるなら論拠を示せ。
それさえできずに反論する資格なし。
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