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【商魂】戦国時代における商人たち【経営】

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0001人間七七四年2007/03/09(金) 21:14:41ID:9ThxcHoz
今井宗久、呂宋助左衛門、茶屋四郎次郎など戦国期に活躍した豪商達。
また斉藤道三や小西行長のように商人から大名になりあがった人物。
戦国時代の「商法」「経営学」「交易のルート」など、商行為についての話題をここでしたいと思います。
また、合わせて「商人・資産家とされる戦国時代の人物のお金にまつわるエピソード」について語ってみませんか。
0042人間七七四年2008/04/24(木) 15:23:49ID:AC4t7AaM
この時代武士から商人になったのも多いな。
0043人間七七四年2008/04/24(木) 16:22:01ID:4IaNQrlk
>>41
小西行長は、若い頃堺の小西家から備前福岡の魚屋(とどや)に養子に入り魚屋弥九朗とよばれていた。
魚屋は宇喜多家の出入商人でその縁で織田家(秀吉)との交渉の副使を任され、宇喜多家に仕えるようになった。
高松城水攻め時は船奉行を務め後に秀吉が宇喜多家に行長を請い秀吉の家臣になった。
0044人間七七四年2008/07/22(火) 02:04:24ID:8wtz8bSa
トルネコ
0045人間七七四年2008/09/27(土) 22:17:36ID:kbHjCSHa
茶屋四郎次郎
0046人間七七四年2008/09/28(日) 10:47:04ID:2PCb0JDX
戦国期に東国で活動していた商人

武蔵:次原氏、長谷部氏、野中氏、山口氏
下総:福田氏、新井氏
安房:岩崎氏
駿河:友野氏、松木氏
甲斐:松木氏、坂田氏、田辺氏、田草川氏
下野:庭林氏
会津:梁田氏
0047人間七七四年2008/09/29(月) 01:56:02ID:PJpZcXvt
友野氏あたりは駿甲の国境を越えて商売をしていたようだね。
連雀商人も広域で活動していたので、今川義元などの大名は
その統制を行っているよね
0048人間七七四年2008/09/29(月) 02:30:33ID:N4IOjbb5
流通業者の確保による物資の安定供給は戦国大名にとっての生命線の一つだからねえ。
0049人間七七四年2008/10/04(土) 01:08:13ID:WH76WNMm
>>48
商品流通を押さえるさらなるメリットが「税収」と「価格操作による利ザヤ」ですね。
0050人間七七四年2008/10/04(土) 01:12:33ID:KMMByJPC
物資の調達のほうが大きい
0051人間七七四年2008/10/04(土) 01:14:57ID:WH76WNMm
>>50
その調達「資金」をどうやって確保するかですね、肝心なことは。
0052人間七七四年2008/10/04(土) 01:41:08ID:NtnQKeCx
この時代は関所がやたらめったらあるし船も橋も通行料がかかるし輸送費用が洒落にならない。
その上、盗賊が頻繁に出没し命の危険すらある。


0053人間七七四年2008/10/04(土) 04:52:24ID:YCLGJmQ8
>>52
それは前近代の世界の共通項。
それでも、様々な物が千里の道を越えて取引されていたわけですよ。
0054人間七七四年2008/10/04(土) 09:20:01ID:G359Osug
いつくらいから、米相場なんかの相場が始まったのかな?
0055人間七七四年2008/10/04(土) 10:48:25ID:KMMByJPC
>>54
江戸時代です。

> 1730年に江戸幕府が、大阪堂島米相場会所に対し米の先物取引を許可したのが、日本での
> 商品先物取引の始まりである。これ以前にも、1568年に開設されたロンドン(イギリス)の取引所や
> 1531年に開設されたアントワープ(ベルギー)の取引所があったが、近代的な商品先物取引の嚆矢は
> 上記の堂島米会所といわれている。当時は現物の米の代わりとして契約数の書付けを交換し、
> 現在でも先物取引の契約数を「枚」と呼ぶなどその名残が残っている。
>
> 堂島米会所は、米を取引対象としていたので、当然、商品市場であるが、当時の日本で、米は貨幣的な
> 役割を果たしていたこと、金本位制と銀本位制が混在していたことから、米を仲立ちとして金と銀の
> 交換レートが実質的に決定されるという役割も持っていた。このことから、商品としての米よりも貨幣としての
> 米の側面が高く、実質的には商品市場というよりも為替市場として機能していたと分析する研究者もいる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%93%81%E5%85%88%E7%89%A9%E5%8F%96%E5%BC%95
0056人間七七四年2008/10/04(土) 20:50:02ID:G359Osug
>>55
おおっ。丁寧な説明ありがとうございます。
日本の大商人は大抵相場でその身代を作ったイメージだったので、いつ頃相場が始まったか知れて勉強になりました。

戦国時代は投資は投げ銀くらいだったってことなんですかね?
0057人間七七四年2008/10/05(日) 03:49:53ID:ByVI+pDC
>>52
統治者にとっては旨味が多いですね。
街道や橋梁、港湾などを支配下に置けば、それだけで租税収入が得られますから。
0058人間七七四年2008/10/06(月) 19:03:03ID:YNxqUHCg
収入は得られるだろうけど、実際はどうだったんだろうね?
毎年の台風による河川の増水や高波のよる被害、地震等々を考えると、維持や修理の費用がかなりの部分を占めていたんじゃないのかなと。
0059人間七七四年2008/10/08(水) 05:02:53ID:/p88S2Je
>>58
維持・管理コストや普請の労働力をどこで確保するかですよね。
0060人間七七四年2008/10/08(水) 05:56:06ID:/6fe4BVu
それらは軍事的にも防諜統制にも重要だから、
利潤の多寡に関わらず、厳重な管理が求められただろうね。
0061人間七七四年2008/10/08(水) 09:38:28ID:W2CT4zmt
夫役という租税があってだな。
領民をタダ働きさせてたからそんなに維持管理費は掛からんよ。
0062人間七七四年2008/10/09(木) 14:40:00ID:ZrJKyjBL
役人常設しないわけない
0063人間七七四年2008/10/10(金) 00:28:07ID:N2FPWHKC
商人によっては大名クラスの動員力が出来るって本当?
0064人間七七四年2008/10/10(金) 10:11:25ID:MrdiCSaE
基本的には無理
0065人間七七四年2008/10/10(金) 12:08:43ID:Gr+/n/0H
国人領主兼商人ならある程度は
0066人間七七四年2008/10/11(土) 17:53:13ID:/3CFF7TL
>>61
そういう要素もあるけど、一般の単純労働者の賃金なんて当時は元々大した事無かったんじゃないかと。
(全体から見れば。)
それよりも、職人工人などの専門的な技術者(集団)を抜きに建築建設は難しいし、そっちの方の費用はタダってわけには。

普請関係の談合は江戸時代かららしいけど、袖の下なんかはこの時代もあったわけだよねw
0067人間七七四年2008/10/12(日) 07:52:17ID:H7w8cSBq
>>66

職人工人は城下町に住まわせ、組織化する事で大名の支配下に組み込んでいったみたいだよ。

建築士にあたる頭脳は大名個人が持ってる事が多く、縄張りが出来ると浪人でも万石級のオファーがあった。
これは安土桃山以降になるから戦国時代かというとちょっと違うけど。

土木建築の技術は戦国大名にとってとても重要で、その有無が政治的評価になってたりするんだね。
でも治水の本格的な工事は安土桃山以降が目立ち、戦国時代にその例は少ない。
やっぱり軍備重視だと大規模な干拓や治水は出来ないからね。

名主の自主的な開発に任せるしかなかったのかな。
0068人間七七四年2008/10/14(火) 19:08:23ID:4sgu2AoM
信玄堤は有名だけど、他はどうなんでしょうかね。
確かに、道頓堀とかの○○堀は現代でも残っているけど、安土桃山〜江戸以降のものが大半ですね。
0069人間七七四年2008/10/14(火) 20:23:55ID:KQ32uPK3
>>68
休泊堤
0070人間七七四年2008/10/15(水) 00:27:03ID:RuVhJhZU
>>67
信玄の治水事業なども一代でやり遂げたわけではないしねぇ。
0071人間七七四年2008/10/15(水) 18:42:39ID:5Q5tJwbL
河川に関しては、中世以来様々な勢力(寺社や豪族)の諸権利が入り混じっていていたから、中小の勢力じゃ調整が難しかったんじゃないのかな?
(河川航行にも関所はあったし、田畑への利用、漁業権的な縄張りとかの色々な取り決め。)

学生の頃、中世史やってた奴に色々聞いたんだが、酒の席だったんでうろ覚え。スマヌ
0072人間七七四年2009/01/02(金) 22:45:41ID:hmrtlV5P
age
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