戦国ちょっといい話
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0001人間七七四年
2007/02/23(金) 22:33:24ID:OA17Uaqt0021人間七七四年
2007/03/01(木) 16:30:59ID:FQhm2BnZ0022人間七七四年
2007/03/01(木) 20:58:53ID:PS1CVjIN関ヶ原へとつながるわけだし
0023人間七七四年
2007/03/01(木) 23:15:06ID:0w4iNBRZ0024人間七七四年
2007/03/02(金) 06:45:06ID:GEh3EBk4まぁ戦国博士のおまえが言うなら間違ってないか
0025人間七七四年
2007/03/03(土) 09:10:12ID:c5VcC6v/0026人間七七四年
2007/03/03(土) 13:02:10ID:P7Zs6lZZそこに大谷の鼻水が… 〓 続く 〓
0027人間七七四年
2007/03/03(土) 13:09:33ID:P7Zs6lZZ「すまぬが湯をくれぬか、喉が渇いた」
「石田、これを飲め」
「おお大谷、かたじけない」
0028人間七七四年
2007/03/04(日) 10:55:23ID:jVKZdNQI0029人間七七四年
2007/03/04(日) 12:07:22ID:dUJDTyK/0030人間七七四年
2007/03/04(日) 12:48:07ID:tqBGfX9Yグレート小鹿がなにか?
0031人間七七四年
2007/03/04(日) 13:20:54ID:VT1/aFd8ちょwwwwww
0032人間七七四年
2007/03/04(日) 20:08:46ID:D7MrSMDk体が不自由そうで、普通恵んでくれる人を求めて移動するはずなのにいつも同じ場所にいたので気になった信長は近所の者に事情を聞く
するとその男は先祖の罪(源義経の母を殺した)でそこから動けない物乞いだという
ある日、そこに立ち寄った信長は近隣の人々を集めて反物を与え、その物乞いの暮らしが立つようにしてやってくれと頼んだ
天下を左右する大名が、乞食一人にわざわざ情けをかける姿に人々はありがたいことだと言い合った
魔王と呼ばれる信長の意外な一面を現すエピソード
0033人間七七四年
2007/03/04(日) 23:01:54ID:r5gHPvox藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、
五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今、ここに主君の首を埋めたが、
主君の面容を敵に見せるは恥辱となるので埋めたのだが、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」
と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。
このことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に見せると「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。
もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と聞くと高刑は
「私は知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので
このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ。」と言ったので家康は
「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って褒美を高刑に与えたという。
0034人間七七四年
2007/03/04(日) 23:46:52ID:xewO2Meq晩年は老いに勝てず、1人で起き上がり飯も喰えぬ有様だったという。
そこへ家臣の1人が「殿、戦で御座る!!」と告げると
城外で一斉に兵たちのトキの声が聴こえてきた
すると、今まで寝込んで起き上がれずにいた義弘の目がクワッと見開き
1人で起き上がり飯をたらふく喰らったという。
勿論、戦というのは、義弘を奮い立たせようとした家臣たちの嘘だった訳だが
老いても戦と聴くだけで奮い立った義弘の凄まじさが垣間見える逸話だね
0035人間七七四年
2007/03/04(日) 23:56:14ID:A0ndiNtvそれ見て政宗がドン引き
0036人間七七四年
2007/03/05(月) 00:06:30ID:mVrxP8Ch0038人間七七四年
2007/03/05(月) 09:34:52ID:Cm9vwNwe0039人間七七四年
2007/03/05(月) 19:19:55ID:YoQFh5Tn江守さんと中尾が収録中に大喧嘩で 若手有能ディレクターがパニクるようなもん
(昔ながらの人は またかw と思うだけ)
0040人間七七四年
2007/03/05(月) 19:26:41ID:daS9Iu1D何だ面白い喧嘩かよw
0041人間七七四年
2007/03/05(月) 23:38:18ID:ekD+ugRz0042人間七七四年
2007/03/05(月) 23:58:58ID:4RBUXT6r輝宗「政宗!わしに構うなー!撃てえぇぇー!!!」
カッコよすぎだと思う
0043人間七七四年
2007/03/21(水) 03:59:50ID:aN0Yi7WS前に何かの小説で秀吉が飲んだって読んだ気がしました。
0045人間七七四年
2007/04/19(木) 00:30:55ID:tB+DVSdj0046人間七七四年
2007/05/22(火) 17:09:28ID:cdSjjlts0047人間七七四年
2007/06/24(日) 19:57:52ID:VuJsiU9T実際は
輝宗「うわー、俺拉致られた」
政宗「ヒヒ…撃てぇっ!」
輝宗「ちょっ…ぐわぁー!!」
だったけどな。
0049宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/06(月) 02:30:52ID:O+SFZHhX家臣戸川秀安の息子孫六を助けたこと。
0050人間七七四年
2007/08/07(火) 15:20:55ID:Oa7Kwbjr黒門の戦いとか、唐入りで小西救援とか、関が原後の島津と合流とか
0051人間七七四年
2007/08/19(日) 07:32:34ID:zqsfKVqu0052人間七七四年
2007/10/06(土) 12:33:47ID:mnWlNcj/0053人間七七四年
2007/10/10(水) 15:28:25ID:oGz26LwK0054人間七七四年
2007/10/11(木) 16:26:21ID:HzmBeWdw0055人間七七四年
2007/10/11(木) 16:53:18ID:oxcwdwVP今に見てろ。今日一つも首を挙げられなくとも、次は十も首を取れるぞ」
そうして慰められた奴が見事武将を討ち取り刀を授けられましたとさ
…別にいい話じゃねぇな
0056人間七七四年
2007/10/11(木) 17:09:32ID:HzmBeWdwきっとみんなそうやっていいあっていきてたんだろうね。
0057人間七七四年
2007/10/14(日) 04:28:11ID:unPCZziN0058人間七七四年
2007/10/16(火) 22:53:45ID:AbgAATqf特に自害の時、兄の義久が放った追手がなかなか自分を殺してくれないので
自分で腹を切ろうとしたんだけど病気で刀が握れなかったから
そこらへんの石で頭をぶってみたけどやっぱり死ねなくて、しかもむちゃくちゃ痛かった。
その時に
「女性は子供を産むとき、死ぬような痛みを味わう。自分の死後はその痛みを少しでも和らげてやりたいものだ」
と言ったという。
0059人間七七四年
2007/11/02(金) 22:55:40ID:iTfQMC59/:::::::ヽ____/::::::::ヽ、
/ ::. _ .::::::::::::: _::::ヽ_
/ / °ヽ_ヽv /:/ °ヽ::::::ヽ
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0060人間七七四年
2007/11/02(金) 23:02:16ID:Ypc2+khU信長の横にいた家臣がその無礼を怒り殺してやる!といきり立つと信長はそれを止め「何の不安もない民のくらし…わしはあのような平和な国を作りたいのだ」と言ったと言う。
それを寝たフリをして聞いていた農民の顔は猿顔だった。
0061人間七七四年
2007/11/02(金) 23:24:03ID:+syzwGFg0062人間七七四年
2007/11/02(金) 23:33:21ID:KtETW5PHその家臣が酒持って海に飛び込んで
「船より泳いで参った!」
っていう奴か
0063人間七七四年
2007/11/02(金) 23:49:39ID:Ypc2+khU伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。
謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。
義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。「なんだその刀は見た事あるな?」
すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」
それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。
0065人間七七四年
2007/11/04(日) 01:33:49ID:luPKBsQo0066人間七七四年
2007/11/04(日) 03:36:49ID:RhVo/1S4一国の大将が扱い易さを優先って・・・。
大将が刀持って戦う時点で負け戦な訳で・・・。
0067人間七七四年
2007/11/04(日) 05:00:54ID:ZvUB45gzたしなみとして大名が剣術をやるのはおかしいこととは思わんが
むしろ自ら切りかかって北条勢を七人だか討ち取った義重のほうが実際は・・・
関ヶ原の時も義重が口出ししたせいでどっちつかずな態度になってしまったしな
0068人間七七四年
2007/11/04(日) 05:30:53ID:fpD70y5Fそれやる人の違いで受け取られ方も違うんじゃない?
家康とかなら常に対処を怠らない例とかにされそう
0069人間七七四年
2007/11/04(日) 06:50:59ID:eBU6j+Zb0070人間七七四年
2007/11/04(日) 21:27:50ID:fWaDnDwh0071人間七七四年
2007/11/05(月) 01:20:58ID:Nbjn+SO40072人間七七四年
2007/11/05(月) 17:46:22ID:JDHDPfjo計画を随時見直す器量があるって話だろ。
高度経済成長期の高速道路計画を当初の計画通り引きたがっている奴に見習わせたいね。
0074人間七七四年
2007/11/29(木) 23:18:41ID:PiLPkE9l0076人間七七四年
2007/12/05(水) 07:36:52ID:aUdSVvTA伏見城に秀吉の安否を気遣い駆けつけた話。
又、その時のねねの放った言葉
『でかしたぞ 虎之助』
0077人間七七四年
2007/12/07(金) 08:25:01ID:rXtkUlcR0078人間七七四年
2007/12/07(金) 20:15:24ID:QgR+6BKz捜しに来た話は泣けた
0079人間七七四年
2007/12/07(金) 21:04:36ID:MxNDvGJG0080人間七七四年
2007/12/14(金) 08:17:54ID:dZDUB2DK0081人間七七四年
2007/12/14(金) 21:19:54ID:iPdqIKGe0082人間七七四年
2007/12/14(金) 21:28:52ID:+u5ssGaf0083人間七七四年
2007/12/15(土) 00:40:15ID:23irqrVa子供の時に歴史漫画読んで感動した
0084人間七七四年
2007/12/16(日) 01:17:46ID:ZgFpHUs70085人間七七四年
2007/12/16(日) 11:48:57ID:XHoSdCcR0086人間七七四年
2007/12/16(日) 17:08:09ID:jUyV9Epl敗色が濃くなった三好方の武将加賀須野与一高房は、追手の土佐勢から逃れるため、中富川に架かる橋の下に身を隠していたが、激戦つづきで風邪をひいていたので、
どうしようもなく咳き込んでしまった。橋上の土佐勢はすぐさま高房を捕えて首を刎ねたのであった。高房は死に臨んで「拙者は咳を止められず敵の刃にかかるが、
死後は咳で苦しむ人々を助けてやるのだ」と遺言したという。いまも咳止大明神はその地に祀られ、「せきどめさん」として親しまれている。
0087人間七七四年
2007/12/16(日) 17:38:05ID:y8htaFRT0088人間七七四年
2007/12/16(日) 19:03:55ID:jUyV9Epl0089人間七七四年
2007/12/16(日) 23:36:36ID:jW4n4EPS鬼武蔵と言われた猛将だが戸次川の戦いのさい敵将長曽我部信親を討ちとるが長曽我部の家臣谷忠澄が遺体の返還を願い出ると涙を流しその遺体を返還した
更に岡豊城まで僧を同行させた。
0090人間七七四年
2007/12/17(月) 02:45:39ID:NV4bBqEi0091人間七七四年
2007/12/17(月) 16:07:41ID:GuWE6vdG阿波へ侵攻したものの、新開道善が拠る富岡
(牛岐)城を攻めあぐんでいた。知勇兼備の
新開道善を降すには謀略しかない、と考えた元親は、
丈六寺において和談を開きたいと持ちかけた。
これに応じた新開道善は「四国平定のあかつきには
阿波のうち勝浦郡を与え、富岡城を安堵する」という
土佐側の条件を容れて両軍の和睦が成立した。
新開主従は土佐側のもてなしを受けてすっかり油断。
気持ちよく酔って城へ戻ろうとしたところを、
床下に隠れていた元親の刺客が主従を襲った。
謀られた、と新開道善たちは覚り、
数にまさる敵兵相手に勇戦したが、
たちまち全員斬り殺されてしまった。
この時、縁の板に血痕が飛び散り、
あとで拭っても拭っても落ちない。
そこで、縁からはずして、天井板にしたのだ、という。
新開忠之(道善)墓碑には「天正九年十月十六日」のことと刻まれている。
◆寺内を貫くように走る県道(堤防道路)の道沿いに
新開道善の廟所がある。現在では「禁酒の神さん」として親しまれ、
御神酒徳利を供えて願かけをする人もいるそうである。
0092人間七七四年
2007/12/23(日) 00:48:27ID:H4vgtw/D仇敵最上義光と争い西軍についたことにより改易され石見国津和野に流された。
配流先津和野の領主は宇喜多家の一族である坂崎直盛である。
後に坂崎直盛は大阪の陣で戦功をたてるものの、その件(俗に言う千姫一件)に
よって自害、改易となった。
坂崎直盛の十三回忌、彼の墓を立てた者こそ、誰あろう小野寺義道であった。
江戸幕府により取り潰しにあった者の墓を建てる者などなかなかいる者ではない。
配流時代に遇してくれた坂崎直盛の恩に報いるためのことであった。
後に、小野寺一族は津和野の新領主亀井氏の臣下となり厚く遇されたという。
0093人間七七四年
2007/12/24(月) 13:17:39ID:+XnDSDjrに勧められるも小さな岩屋城で700かそこらで島津の大軍相手に奮戦し
時間を稼いで全員玉砕。息子宗茂も島津軍を長期戦に巻き込み、豊臣軍の
九州上陸で撤退する島津軍への猛攻に繋げた話は泣ける。父招運の自己
犠牲が息子宗茂の運を招いた。
宗茂は関が原には西軍で参戦し(後方の為に無傷)撤退の際にボロボロの
島津軍と一緒になり「この機会に父上招運様の仇を討ちましょう。」と進言
する家臣の意見を退け、島津軍を警護して無事に九州まで送り届ける。その
後、東軍側から攻められた宗茂を救援する為に島津が援軍を送った話も良い
話では。
0094人間七七四年
2007/12/24(月) 13:43:21ID:04yOinvc0095人間七七四年
2007/12/24(月) 14:25:22ID:5763bfxN0096sage
2007/12/24(月) 16:08:33ID:viy/F7Oi0097人間七七四年
2007/12/24(月) 16:10:06ID:viy/F7Oi0099人間七七四年
2007/12/24(月) 18:37:43ID:mDspgypy最も、毒殺した後ろめたさから、ともとれるけどね。
0101人間七七四年
2008/01/04(金) 00:24:23ID:nSXe2Dkn初代木下延俊(ねねの甥)は遺言で日出藩3万石の内、1万石を嫡男俊治の弟
延由に分け与えるように江戸家老長澤市之丞に告げるが長澤は「かしこまり
ました。5千石を延由様に分けます。」と答え「違う1万石じゃ。」と主君
から言われるも「5千石確かに承りました。」と応えるのみで、遺言として
5千石を延由に分封した。
日出藩では延由は島津に助け出された秀頼が一子「国松丸」を延俊が自分の
子として匿っていた。との言い伝えが有り、その真偽は定かでは無いが長澤
市之丞は主君延俊の死後22年を経て徳川幕府から正式に延由の分封を認め
られるのを見届けると「切腹」して自ら命を絶っている。
日出藩3万石の内1万石までの分封で幕府から見咎められるのを恐れ、遺言を
変えて5千石にし、朱印を幕府から頂く事で自らの役割を果たし主君の命に背
いて5千石減らしたお詫びに切腹したのではなかろうか?
ちなみに幕府へ「延由」を延俊の弟「延次」として申告している。
0104人間七七四年
2008/01/21(月) 10:27:27ID:phXkk6ot0105人間七七四年
2008/01/21(月) 16:25:15ID:HJZ6a2SQ0106人間七七四年
2008/01/21(月) 20:08:34ID:D4r7+gMv『殿〜!今宵は栗酢益で御座いマス。』
『うむ!ならば休戦じゃ!足袋を用意せい!』
全米が鳴いたわ…。
0107人間七七四年
2008/01/21(月) 20:36:51ID:CaFm7dar停戦中に初めて日本でクリスマスパーティが開かれたのは有名な話
0109人間七七四年
2008/01/21(月) 22:06:54ID:ckQxaEiA0110人間七七四年
2008/01/22(火) 00:02:17ID:6wQKnb20大関に昇進したとき師匠の三根山は
「大受は良くしゃべったかい?そうか、そうか、なんのやましいこともないんだからね」とポロリ
0111人間七七四年
2008/01/22(火) 00:12:33ID:6wQKnb20千代の富士連勝中・・
アナ「この連勝はどこまで続くんでしょうね・・。
大鳴門親方(故人)「止めるっていっても、ガチンコの大乃国しかいないんだからね・・。」
おかげでその後二度と解説に呼ばれなかったらしい。
麗しき師弟愛
板井
大鳴戸親方は、「すまなかった・・・俺の力がないばかりに」と謝ってくれた。
私は、入門以来親方の事を増悪した事もあったがこの一言を聞いて許してあげる事にした。
0112人間七七四年
2008/01/24(木) 21:49:53ID:8FNmf2rqただ、色々説はあって、久秀の相手は三人衆だったり義継だったり
後、一時期信長と争った際にもクリスマス休戦があったとか(これは日付的に無理があるが)
初めてっていうのは大内氏領内っていう異説もあり
0113人間七七四年
2008/02/05(火) 23:33:03ID:k5mX57XW0114人間七七四年
2008/02/06(水) 00:24:00ID:nSI9whPX「姉か妹はいないか?」
0115人間七七四年
2008/02/07(木) 18:32:25ID:VLBPkDDt他にも死んだ平手の事をなじった家来を強く叱責する話もありますね
平手政秀の息子(孫?)を家康へ援軍として送り討ち死にさせてしまった信長の無念が聞こえてくるようです
0116人間七七四年
2008/02/07(木) 22:34:34ID:xDk3rSLG紀州の雑賀衆は元親に味方して、二千余の兵を援軍として送ったが、海が荒れて遅刻。
ついたときは、戦いが終わり、三好方の勝瑞城も落ちていた。
雑賀衆は遅参を恥ずかしがり、
「これから讃岐の三好方の城を攻めにいく」
といったが、元親は、
「志はうけとった。海をこえてはるばる来てくれたというだけで、十分にありがたいし、嬉しい」
といい、新たに阿波から紀伊にかけての海上の警備をたのんで雑賀衆を帰した。
そのさい、米二百石と馬、鞍、太刀、脇差しなどを、援軍のお礼として雑賀衆に与えた。
(南海治乱記)
0117人間七七四年
2008/02/08(金) 11:23:23ID:XFDlxjNE0118人間七七四年
2008/02/08(金) 14:03:57ID:ynMgaej+その雑賀が、本能寺前には織田方に付いてたのは皮肉だな。
0119人間七七四年
2008/02/08(金) 14:18:16ID:OmMwztJ8の話はネタではなく本当にあった話だ。
正確には「止めるといっても、一人しかいないんだから・・・」
アナ「・・・」
0120人間七七四年
2008/02/09(土) 18:48:15ID:br4oOdDzかねてより宗茂と新興があった東軍の大名のなかには彼の武名を惜しんで、
召し抱えたいというものも多かったが、宗茂はそのいずれも丁重に断った。
彼は、
「我が身惜しさに、太閤との誓いを裏切り、親しき友を討つようなものたちの仲間入りはできない」
といった。
そして、
「わしは天に誓って、わが生き方を恥じておらぬ。天運あれば、きっとふたたび立花の名を興す時がこよう」
と家来たちには言った。
しかし、その機会はなかなか訪れなかった。
宗茂は肥後を追われ、京都、江戸と転々と住まいをかえて、流浪した。
江戸の高田、宝祥寺の一隅を借り住まいとしていたころのことである。
宗茂が国もとを出たときの路銀はとうに消え失せ、主従は日々の米にこと欠いていた。
由布雪下、十時摂津ら、宗茂の家来たちは槍、甲冑も売り払って金銀を得たが、それでもなお食えない。
彼等は、宗茂に隠れ、傭われ人足や托鉢僧、ひどいものは乞食に身をやつして銭をかせぎ、なんとか日々を暮らしていた。
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