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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年2007/02/22(木) 14:14:40ID:DFbOxH4O
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。

それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。
0830人間七七四年2011/07/22(金) 13:50:22.46ID:9PiLNETg
>>826
天正4年11月に本願寺が元春に岩屋城を確保しろと要求してるし
手取川の戦いや松永久秀謀反といった事件が相次いでいる天正五年を経て
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入って三木城別所への補給を任される。
6/26に九鬼水軍の大船からの大筒により雑賀水軍が撃破され(宣教師も驚く大船)
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川がり、その上流には三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
陸路では7/3に毛利の大軍が秀吉が見捨てた山中鹿介の上月城を落としてる。
10月には荒木も義昭や本願寺に組して織田から叛旗。
摂津国有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城が
一斉に織田から離反し丹波国や播磨国戦線に重大な支障が生じ織田の戦線は山城国まで大幅後退。
同時に御着城の小寺政職など播磨国人達まで一斉離反し秀吉や光秀も荒木説得へ向かうが説得ならず。
11/4追い詰められた信長は朝廷を動かし本願寺との和睦を結ぶ。
和睦を無視した毛利水軍の行動により11/6第二次木津川口の戦い勃発。
九鬼の大船からの大筒により毛利敗戦と織田軍の大反抗作戦開始のターニングポイント。
天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
これによる船舶による大量物資輸送路が各地で途切れ
天正8年1/17別所・7/2荒木・8/2本願寺と相次いで織田に屈服することになる。
>>825
天正五年閏7月に織田化した三好配下の讃岐国人の長尾・羽床が毛利に服属した三好遠江
(三好氏に破れ毛利領の島に逃げていた讃岐香川氏の讃岐復帰が関わっている)
の讃岐元吉城を攻めてる。しかし隆景が撃退したのを義昭が29日書状で褒めているね。
0831人間七七四年2011/07/22(金) 14:55:12.36ID:42kW20pu
天正8年4月7日の輝元宛の義昭書状で
すでに織田と本願寺が和睦するって話が登場してるから
実際には荒木村重が岩屋城を落とすように依頼して間もなくの天正7年10月に有岡城が落ちたのを手始めに
年内には尼崎城も落ち、花隈城へと次々と荒木村重が逃げ回ってる姿を見て本願寺も絶望してたんだろうね。

謙信や丹波の赤井直正の寿命があと1年あれば信長は死んでたな。
0832人間七七四年2011/07/23(土) 22:44:23.26ID:JyZWgOr2
>>822
>天正8年4/7義昭→輝元書状において
>摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
>宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
>毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。
>岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
>出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
>淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。

さすがにこの解釈はないわー
ふつう岩屋表警護っていったら岩屋城周辺の警護ってことで明石海峡付近のことだよ
こういう恣意的な解釈してたらそりゃ誰からも信用されないはずですわ
史料の読み方が全く真摯的でない
0833人間七七四年2011/07/23(土) 23:31:08.29ID:nN3LquzL
中国地方での戦いの書状でも
毛利は〜表に出陣する予定とか書いてるし
〜表と言う表現にはその地を支配してると言う意味では使ってないだろ。
〜表と書いてて、その地を支配していたとする書状のソース提示してみろよ。
0834人間七七四年2011/07/24(日) 01:01:55.06ID:Xd8Y+4g3
>>832
アホか。わざわざ恣意的な解釈するくらいなら
最初からここに該当文章を書かないわ。
どうせ無知だからそんな文章もお前は存在自体知らなかっただろうしな。
もし反論するなら、それ以前に毛利が岩屋城を奪取済みとするソースを出してくださいね。
0835人間七七四年2011/07/27(水) 16:30:19.47ID:+9HmjCP2
3行でまとめろ
0836人間七七四年2011/07/27(水) 16:53:07.61ID:ti07AVoX
>>835
質問を黙殺しソースを一切出さないどころか他人の出したソースを盗用し
その内容を歪曲解釈して反対意見を吐く常套手段を使ってくる
毛利厨が相変わらず気持ち悪い。
0837人間七七四年2011/08/10(水) 18:22:30.24ID:iuiiTAk2
〜表って、現代で言う〜方面って意味だと思ってた。
こんな感じ。

>おも‐て【表】
>[接尾]方角・場所などを示す名詞に付く。
>1 その方角に向かっていること、その側に面していることを表す。「南―」
>2 その方向の土地・地方を表す。「江戸―」「国―」

これに所有の概念が関わるなら、防衛戦に出陣するときは別の表現をしてたということだろうか。
0838人間七七四年2011/08/10(水) 19:46:10.96ID:sFpC2rI3
>>837
岩屋城をすでに毛利が奪取してたとするソースを出せばよいだけの話だろ。
0839人間七七四年2011/08/11(木) 09:36:10.02ID:FDJT/oGt
〜方面、〜戦線って意味だから
別にその地を所有していたと言う意味を内包して無いな。
0840人間七七四年2011/08/11(木) 15:11:28.68ID:zK4EmHe8
島津が肥後表と書いたり、大友が豊後表と書いた時も
所有してる地を守ると言う解釈にはならない。
どちらかと言うと敵がその地に進出してるので〜へ出張ると言う意味。
0841人間七七四年2011/08/11(木) 15:13:46.98ID:zK4EmHe8
訂正
×豊後表
○豊前表
0842人間七七四年2011/08/12(金) 16:00:54.23ID:TAHmYrFP
>>837
広義の意味では〜方面。
狭義の意味では〜城の周囲、〜の周辺。
例:江戸表諸門番所御法令書(江戸城周囲の各門番所の法令書)

岩屋表警護と書いてあるなら岩屋城の警護と読むのが普通。
岩屋表は岩屋城を含まないってのは歪曲にもほどがある。
0843人間七七四年2011/08/12(金) 17:01:06.79ID:TAHmYrFP
>>838
つか村重の書状だけでは岩屋城が織田方についたとは断定できない。
児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるものでこれが村重のところにも
伝わって勘違いしてる可能性もある。
事実、毛利側はほとんど混乱してないし、織田側も淡路島や本州湾岸線沿いへの攻勢が見受けられない。
織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである。
尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったりしてるところをみても
とても大阪湾を完全制圧できていたとは思えない。
木津川口で活躍した大船は何やってたんだか・・・
0844人間七七四年2011/08/14(日) 18:55:42.07ID:p7pjEErP
>>842
>>838
下記のヤフー知恵袋からパクってきてバカじゃないのか?
質問「大坂表とか江戸表の「表」ってなんですか?ただの「大坂」とか「江戸」とどう違う」
回答「「江戸表」は狭義には江戸城あるいは江戸幕府を指したものと推測されます。
江戸表諸門番所御法令書 内容説明 江戸城各門の警備人数、交替および各門通行者の格式等を記す。

城門の話なんてしてないだろ?用途がまるで違う話を持ち出して何がやりたいんだ?
江戸表諸門番所御法令書って北海道大学所有の日本北辺関係旧記目録だからぜんぜん時代も違うんだが?


>>児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるもので
上記が起きた日付とソースを要求。毛利家文書もしくは小早川文書の何番の記述かね?

>>これが村重のところにも伝わって勘違いしてる可能性もある。
妄想かよ・・・まぁいい。誤報の日付とソースを出してくれ。

>>織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川があり、その上流には美嚢川経由で三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
三木城が落城したと言うことは高砂が織田側になってると言うこと。
そもそも叛乱したのが内陸であって丹波や摂津戦線にも影響を与えているのだから内陸鎮圧が優先されるのは当たり前
海側と言えば秀吉が押さえている姫路城と淡路島の中間に当るのが高砂。
毛利が淡路を奪われたから高砂の維持も不可能になり三木城も落城したと考えるのが自然。
さらに宇喜多が毛利を裏切ったら海運と補給を心配することなく備前を越えて備中へ侵攻してるのが秀吉。
当然に海側も押さえていると思うが?

>>尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったり
日付と誰のことだかソースを要求。
それと尼崎から本願寺なんて別に海路を使う必要性はまるで皆無なんだが
地理とか理解してないんじゃないかね?
0845人間七七四年2011/08/14(日) 20:56:35.03ID:/PgKs6h1
>>838
いやそんな噛み付き方されても……
ただ表の解釈の仕方が気になっただけで。
個人的には>>840みたいな解釈でいいのかなと思っているが。
0846人間七七四年2011/08/15(月) 08:46:53.51ID:p9qSTrsV
良識的に考えて岩屋城が織田の支配になっていなければ制海権は毛利なので高砂は落ちず、
従って播磨の別所氏の三木城も落ちず、摂津の荒木も落ちないし本願寺も織田に降伏的和睦をしない。
よって荒木に隣接する丹波の赤井氏・波多野氏の戦線を明智と細川は攻略できず苦戦を続けているはず。
岩屋城を毛利が維持してることで明石海峡の制海権を保持し
従って船舶による兵糧の大量補給を毛利が可能であるのに本願寺も荒木も別所も織田に破れると言うのは理解し難い。
0847人間七七四年2011/08/15(月) 10:22:28.49ID:yjsBa3lZ
>>845
由良・足利が籠城した際に
北条も足利表へ出陣したが
足利は北条の領地じゃないしな。
〜表というのは予定戦場と言う感覚で使われてるよな。
自領の防衛戦で〜表を守るという表現は無い。
0848人間七七四年2011/08/15(月) 15:57:08.78ID:JE/4VbHw
自領が予定戦場の場合は?
0849人間七七四年2011/08/15(月) 16:02:01.74ID:JE/4VbHw
途中で送ってしまった。
表を自領に適用しないとすると、自領が予定戦場の場合はどう表現したんだろうか?
たとえば、備中高松城の救援に行ったときのような。
0850人間七七四年2011/08/15(月) 21:16:10.67ID:ckvZnbdM
吉川元春が今田経高に宛てたので「此表之儀〜」て書いてるのあるよ
高松城に後巻きしたときので
0851人間七七四年2011/08/16(火) 05:20:09.59ID:lA/giBkB
御加勢可被成
御出張之御催御支度可被仰付
被張合、御防可被成御覚悟
普請堅固申付
備前之儀
とかじゃないかな。

地名が入らない場合は其表や此表と書く場合もあるね。
例えば義昭側近の頼英→元春宛 天正3年5月13日では
其表→元春のいる場所のことを指していて「そっちの方では」って表現。
此表とは「こっちの方では」紀州三ヶ寺で騒擾があったと言ってる。
信長が「義昭は熊野あたりに流れている」と言っており
実際に義昭は20人ほど連れて紀州の興国寺の居候となっている。
0852人間七七四年2011/08/16(火) 10:22:48.75ID:aZlCHDd0
天正12年9月11日大友義統から横大路伊賀守宛なんかも
道雪に同心し敵中を凌ぎ
黒木表に至り着陣以来在々所々軍労。
殊に分取り高名由。忠義比類無候
黒木氏の猫尾城を落として滅亡させた際にこんな風に書いてるね。
黒木氏の方とか黒木氏との戦線って意味かな。

>>850
ん?天正10年6月2日の今田宛て元春書状のこと???
それだと内容が全然わからないので書状内容の文章を書き込んで欲しい。
0853人間七七四年2011/08/16(火) 16:22:45.50ID:DA/GBJhb
>>846
残念ですが天正7年5月末に明要寺砦と淡河城が落ちるまで
神戸花隈城で陸揚げされた兵糧が堂々と三木城に搬入されてます。
さらに9月9日に岩屋城の目と鼻の先の魚住城で毛利水軍によって大規模な兵糧の陸揚げがされてます。
(ちなみにこのときの三木城兵糧搬入作戦は陸路で邪魔され失敗。)
いずれも岩屋城が無事でなければありえない出来事です。
織田側に岩屋城を奪取したという史料がないのであたりまえですがね。
これらのことも考慮しないで良識的とは笑止千万。
あと高砂城は天正6年の4月初めに真っ先に落城して破却されたからね。

>>849
〜表に自領、他領の区別なんてないですから。
そんな論文あったら見せてもらいたいくらいですよ。
0854人間七七四年2011/08/16(火) 19:14:49.57ID:lA/giBkB
>>853
なに堂々と捏造軍記講談の陰徳太平記の
播州丹生山夜討併淡河合戦之事や播州大村合戦を史実のように
持ち出してんだよ・・・
0855人間七七四年2011/08/17(水) 07:11:55.30ID:ACzFGzA/
>>853
subとの議論は不毛だからやめとけって
自分に都合が悪い史料は反証もなしに全て捏造で済ませるのだから
そのくせ自論は妄想全開という完全キチ
0856人間七七四年2011/08/17(水) 09:07:19.06ID:1Yt09h4a
えっ?いつから軍記が一次史料扱いされるような脳内メルヘンお花畑になったの?
0857人間七七四年2011/08/17(水) 13:18:11.08ID:0VNfLQaD
>>827で指摘されてんのに懲りないね。

毛利の軍記内容を史実だと主張するのに
信長公記の第二次木津川口の戦い記述は
絶対に認めないとか矛盾しまくりじゃねーの?
明らかに毛利の軍記内容の方が極端に
信憑性が劣悪なんだけど。
戦闘の推移とかもうデタラメレベルじゃん。
0858人間七七四年2011/08/18(木) 06:07:33.60ID:iI2sK1nr
毛利の軍記なんて信用したら
元就・隆元・元春・隆景は常勝無敗の天才になっちゃうしなw
淡河合戦にしたって毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのに
なぜか淡河の地を手放して撤退する謎www
鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で羽柴秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝ったとか捏造だらけw
とにかく毛利側が史料では一切証明できない、
他家史料にも全く出てこない戦で勝った話を挿入する気持ち悪さが毛利軍記の特徴。
0859人間七七四年2011/08/18(木) 09:52:13.98ID:NbwgiJ+h
軍記やwikiと一次史料の見分けがついてないから平気でレスするんだろうね。
0860人間七七四年2011/08/18(木) 10:49:44.16ID:teQVVnBm
自演にしか見えない監物。
0861人間七七四年2011/08/19(金) 09:39:04.08ID:0R8q54gQ
Google先生に聞いてパクってきただけなんだろ。
だから陰徳太平記に書かれている内容だったなんて夢にも思ってない無知が毛利厨。
0862人間七七四年2011/08/20(土) 00:00:51.55ID:y33TsyCV
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w

残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
0863人間七七四年2011/08/27(土) 10:45:26.62ID:xPzsdayL
>>862
陰徳太平記がソースとか論外だと俺も思うが、
その杉元宣事件のソースは何なんだろう。萩市史?
0864人間七七四年2011/10/11(火) 12:57:12.14ID:HrRDQDqK
436:人間七七四年 04/14(木) 09:42 P5CoEOOS [sage]
元就が生きてれば元春と隆景の戦略外交の対立を表面化させないで
指揮命令系統を元就に一本化できるし元就がいる限りは大友織田同盟があっても背後の安芸本国に不安はなく
元春も出雲に戻らず京へ行けるだろう。
大友が耳川で敗北してもその後に龍造寺と島津が肥後で対立し始め、
織田が島津と大友の和睦を斡旋してるし
筑後では道雪が龍造寺を柳川城へ追い込み圧倒してる。
441:人間七七四年 04/27(水) 10:32 15+20429 [sage]
>>436
それは同意。
実際、織田→大友→周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
これに困った元春は8月に義昭に頼んで京を奪回するために島津は大友を牽制し、毛利が東上する援軍を出すように使者を出してもらってる。
この天正6年正月は輝元が栗屋元種を摂津に派遣し、高野山金剛峯寺も出兵し、
義昭の先鋒として阿波・淡路の三好軍を率いて六角義堯も堺へ上陸し大和多武峰の衆徒も動員してる。
さらに淡路の岩屋城に水軍を率いて児玉就英が入り、三木の別所支援を開始と毛利方が圧倒的に有利。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる情報が入る。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
三木城攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
信長は荒木を説得する時間を稼ぐために11月に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えるほど危機的状況に追い込まれていた。
すぐに義昭が元春に大出兵を勧めたが隆景との対立からかダラダラして時間を浪費しているうちに
信長は荒木配下の高山右近と中川清秀を降伏させて摂津を奪回して荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
元就が安芸にいて息子達に全指令を出してればうまくいっていた話だろう。
あと6/26に九鬼水軍が大筒で雑賀衆の船を撃破しているんだがこれ鉄鋼船の実戦試験だったっぽい。
毛利はこれの研究を怠って11/6に鉄鋼船の前に大敗し海路での本願寺支援ルートが途絶えてしまう。
天正7年に輝元は謙信に代わって武田勝頼に家康を攻撃して織田兵力を引き付けてくれるに要求するも
その毛利は1/16の出陣寸前に正月早々にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して田原宗亀が援助に来援してきたために出兵中止。
武田軍は遠江の国安へ出撃してきたので信長は摂津から安土へ急いで戻ったので、
本願寺や荒木や義昭が播磨へ侵攻するチャンスと毛利へ言ってきたが、大友の動きが気になり、動かないうちに淡路岩屋も織田に取られてしまった。
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。すると美作の草荊景継や南条元続も毛利を見切り
光秀や幽斎により丹波丹後の制圧にほぼメドがつき天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
すると3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に
秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
天正6年中まで元就が生きてたら余裕で上洛できてたよ。
0865人間七七四年2011/10/19(水) 09:33:29.97ID:0xb46DuS
陰徳太平記は
正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、
正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、
朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、
武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので、
鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し
始皇帝死後の趙高のようだと書いたり
真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないから
そんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、
長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
0866人間七七四年2011/10/26(水) 13:25:43.68ID:+ViNphed
正則の悪評の元ネタの
大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を
毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
0867人間七七四年2011/10/26(水) 18:44:05.54ID:xsMFpwuL
悪口太平記とか毛利はリアル2ちゃんねらーだなw
0868人間七七四年2011/11/04(金) 09:43:26.26ID:ULnQVOGu
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた
代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね。
0869人間七七四年2011/11/26(土) 02:09:32.92ID:QzWi+jj8
ほしゅ
0870人間七七四年2011/11/26(土) 02:41:20.37ID:9H7omMNS
>>865
黒田家の公式記録にあたる『黒田家譜』でも、吉川広家とは親交が
あったと書かれてるので、仲良かったのは確か
もっとも、広家は、長政よりも孝高の方がもともと交流は長いし深い
ちなみに、黒田家から見た吉川広家は「義理堅くて律儀」という評価
0871人間七七四年2011/11/26(土) 03:28:17.65ID:BPMbae4M
>>870
豊臣政権における毛利の取り次ぎをやってたのが如水だから
親交あるのは当たり前だろ。
だが広家は輝元すら
「いい歳して分別もない馬鹿」と嫌ってたくらいの除け者で
毛利家中ですら元康、安国寺、秀元らが
ことごとく広家を嫌ってた。
黒田とは対豊臣、対徳川が延長線にあるから
損得勘定ありの政治的な付き合いで義理堅いのと
本質的な部分で仲が良いかは別物だろ。
それが関ヶ原において露骨に現れたと言うこと。
0872人間七七四年2011/11/26(土) 14:12:17.58ID:RucQ6cii
あのな、先入観や推測で語るのではなく、個人的な交友についても
具体的な話がいろいろ記載されてるので、実際に読んでみたら?
他にも広家と黒田家の間の書簡は、長い期間のやりとりが
多く現存してるわけだし

全般的に、黒田家譜では両川(具体的には隆景と広家)の評価は高く
逆に毛利宗家の輝元がどうしようもない馬鹿だったという評価なわけ
まあ、黒田家が東軍なんだから当然といえば当然だが
0873人間七七四年2011/11/26(土) 14:38:38.22ID:9pAhxekh

黒田家譜は後世の編纂物ですので史実ではありません。
0874人間七七四年2011/11/27(日) 12:41:26.08ID:2tx+n3+P
おっ黒田家譜厨がここにも登場してるwww
0875人間七七四年2011/11/28(月) 22:06:48.87ID:oKFRni+n
>>873、874
歴史学における「蓋然性」と「史実」について、大学で学んでから
言ってねw
0876人間七七四年2011/11/28(月) 22:33:05.98ID:yx0za9oC
黒田家譜は一次史料じゃないのも
知らなかったのか黒田厨って…
関ヶ原スレとかで聞かれもしないのに、
黒田視点で軍記並みの戦闘詳述をしたりと
とにかくウザい黒田厨。
0877人間七七四年2011/11/28(月) 23:29:04.56ID:oKFRni+n
>>876
??
残ってる吉川-黒田間の書簡って、それこそあなたの言う
一次史料なんですが
0878人間七七四年2011/11/28(月) 23:40:07.43ID:oKFRni+n
「史実」の蓋然性を推測するのに、ある状況について書かれた史料を
他家の記録と比較する手続きなんて、当然でしょうに
そもそも、一次史料であっても、史料批判を経ていないと「史実」じゃ
ないって理解できる?


それとも、もしかして馬鹿ですか?
0879人間七七四年2011/11/28(月) 23:40:37.93ID:xL/Q/+tb
>>877
>>871
0880人間七七四年2011/11/28(月) 23:44:47.15ID:xL/Q/+tb
>>878
君の言ってることは可能性があるかも知れないが蓋然性は低いから却下
単に黒田厨のオナニーだから。
0881人間七七四年2011/11/28(月) 23:46:56.54ID:oKFRni+n
>>879
だーかーら、書簡はちゃんと残ってるんだから、具体的な内容を読んでから
言おうよ?

一次史料派なんだったら、当然、すでに読んでる、あるいは
これから読みますよね?
0882人間七七四年2011/11/28(月) 23:49:20.83ID:oKFRni+n
史料にも目を通さず「蓋然性が低い」と断定して
却下するのは、単なる毛利厨のオナニーじゃないとでも?
0883人間七七四年2011/11/29(火) 00:10:38.87ID:DXpGFYSh
そいつ噛みつけるなら何にでも噛み付いて喜ぶキチガイ
相手にするだけ無駄
0884人間七七四年2011/11/29(火) 00:21:21.86ID:14cV4inG
>>881
一次史料については>>871

黒田家譜も真偽不詳の逸話多く却下。
0885人間七七四年2011/11/29(火) 01:10:56.79ID:aPqkpHz8
えっ!?
0886人間七七四年2011/11/29(火) 10:45:35.78ID:VjRFIZLC
>>884
371は単に取次だったという周知の事実だけで
史料の内容について何も書いてないじゃん

どこの家の家記や家譜も、その家の利害にそって書かれるの
都合のよい観点、都合のよい逸話。そんなの当たり前なの
だから、別の家の史料や現存する一次史料と比較・参照して、
あれこれ考えるの
それを「真偽不明の逸話が多いから、全部うそなんだ!却下!」
なんて考えるのは、輝元のような愚か者だけなの
0887人間七七四年2011/11/29(火) 10:50:34.98ID:VjRFIZLC
多分知らないと思うから言っておくけど
現在の歴史研究でも普通に黒田家譜は論文に引用される典拠ですよ
同時代の一次史料でなくても、一定の信憑性がある史料って位置づけなわけ
0888人間七七四年2011/11/29(火) 12:00:19.73ID:BypaRwfc
黒田家譜なんて
何でもかんでも
黒田家の功績!
みたいに書いてあって
ウソばっかじゃんよw
0889人間七七四年2011/12/01(木) 15:22:00.95ID:geMZdhtj
厳島の戦いに感状がまったくない。
前年の陶との明石での戦いで
元就は感状を51通出していて
厳島の年の4月には矢野城攻略の感状として
12通も出してる。
やはり来島水軍300隻が戦ってただけで
毛利は傍観してただけで何もやってない。
0890人間七七四年2011/12/03(土) 17:31:52.02ID:b35W38/T
300隻って相当な数すな。
来島単体でそんなに出せるの?
0891人間七七四年2011/12/03(土) 18:20:42.55ID:yuutvrPt
>>889
能島や因島は?
0892人間七七四年2011/12/22(木) 23:23:13.87ID:m8mJSVth
永禄四年(1561)
毛利VS大友戦争で門司城攻防戦に関連して海戦が起こっている。

この三つのサイトで見ると
http://kelog2009.seesaa.net/article/113764158.html
http://www.kuroyaryusaku.com/history-table/2011/10/1561_1.html
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=75752
9月8日に起こった海戦が蓑島海戦で
11月2日に起こった海戦が今井・元長海戦
というこになる。

他方このサイトだと
http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/shodaibu-hosoku
11月2日が蓑島海戦ということになっている。
ここは両海戦を混同していると見て良いのか?
地図で確認してみると豊前の蓑島も今井・元長も近接しているので混同しやすいのかもしれない。
しかし、このサイトのほうがが正しい可能性もある。

このあたりの事情に詳しい人、解説よろしくお願いします。
0893人間七七四年2011/12/23(金) 04:08:32.56ID:3SFI1sF/
>>892
ソース皆無。感状ゼロ
毛利のいつもの作り話。
0894人間七七四年2011/12/23(金) 11:07:07.31ID:UcO0hyOd
アンチ毛利は嘘しかつけないからなぁ…
否定しながら一度も一次史料は出せたことがない
0895人間七七四年2011/12/23(金) 13:47:10.08ID:OGtsd4Nu
>>894
それは毛利厨のことだろw
0896人間七七四年2011/12/23(金) 18:41:06.71ID:tdkg2/f9
たばこ1箱700円に値上? 
でも個人輸入すれば大丈夫。日本語の輸入代行も多数。 
「タバコ 輸入代行」とかで検索するとあるある、、、 
送料込みで1箱90円とかの激安サイトもある。" 
0897人間七七四年2011/12/23(金) 20:58:00.06ID:0+plca0e
>>894
毛利厨が一次史料を出してるレスを挙げてみて下さい。
0898人間七七四年2011/12/25(日) 16:07:20.26ID:RgzgQfMc

天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えている。
能島村上水軍って簡単に買収されるのが笑えるw
0899人間七七四年2011/12/25(日) 17:00:25.70ID:vKYLSKkz
一次史料厨うぜえwwwww
一次史料w都合のいい言葉だなwww
0900人間七七四年2011/12/25(日) 18:45:16.27ID:RgzgQfMc
>>899
毛利謹製妄想軍記講談の世界では毛利は百戦百勝の常勝の軍だもんなw
勝ったのに、なぜか領地を手放して後退したり意味不明www
0901人間七七四年2011/12/27(火) 10:11:32.46ID:cNhEIrvT
>>898
当時の宗麟は織田と同盟してたからね。
毛利を大破し、前年には道雪を立花城督に配置、
当時の大友は絶頂期だったから能島水軍が大友配下になってたんだろうね。
だから安心して門司海峡を渡海させて
下関市側の赤間関に田原が上陸出来たんだろう。
宗麟が信長に上洛したいって伝えてたけど、
上洛しなかったのかな?
記録が無いからハッキリしない。
0902人間七七四年2011/12/27(火) 19:25:23.84ID:mhunsbe2
当時は織田と毛利は表面上では笑顔だったけど水面下では
織田は備中三村・播磨浦上&別所&小寺&赤松・摂津荒木・尼子残党を傘下に加え
義昭&毛利は備前宇喜多を利用して代理戦争してて、
播磨〜但馬ラインで暗黙の帰属抗争してたし。
これはもう信玄が西上を開始してから冷戦状態が開始され
この時の毛利は織田の背後を襲う火事場泥棒で、
浦上や山名ら織田傘下を攻めても織田本軍と敵対する決意は無かった。
信玄の死去が判明してからはいったん毛利が低姿勢を取って中断したが
天正3年に入ると再度、冷戦激化していた。
そして信長が丹波の赤鬼に敗れたり、
石山本願寺に大敗したのを知った毛利が
天正4年に冷戦状態からハッキリした挙兵をする。
そして木津川口の戦いで毛利は勝利し、
上杉が手取川で勝利したりと織田は危機に陥る。
しかし謙信や丹波の赤鬼が天寿をまっとうしてしまうなど
毛利は運が悪かっただけでなく、
上杉戦線から逃げてきた秀吉が播磨戦線の担当者になってしまった。
0903人間七七四年2012/02/23(木) 19:34:09.59ID:ZKktk+I8
俺は毛利贔屓だけど、高松城攻めの頃までには毛利家臣団もかなりボロボロだったみたいね

>>901
むしろ浦上・村上両氏を大友氏が支援しに行ったような文面だから、大友氏に服属してたとは言い難いんでは
因島と来島が毛利についたらそそくさと帰参してる
ただ毛利から離反した原因は、浦上氏の挙兵だけでなく北九州争奪戦で大友氏が勝利したのがやはり大きかっただろう
あと秀吉の中国征伐時には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りだったみたい
どちらも許されてる当たり、武吉は立ち回りがうめーなぁ
0904人間七七四年2012/07/29(日) 07:22:22.21ID:n+J2+2oy
>>903
能島(武吉)は小早川に反抗を鎮圧されて以来一貫して毛利側。
0905人間七七四年2012/09/17(月) 22:10:18.59ID:LDzO/HCs
輝元って冷酷かつ残虐だよな。
関ヶ原の戦いの後に家康が小西行長の妻子は赦免して罪に問わなかったのに、
毛利を頼った行長の12歳の嫡子を
輝元は斬首しちゃうんだよなあ。
輝元って元就に似て薄情過ぎてな。
0906人間七七四年2012/12/16(日) 14:04:37.00ID:nV4Jpm5p
人がいるのか分からないけど…

この時期に戸次道雪が宗麟に宛てた書状を読んでみたいんだけど、
翻刻してまとめたものがあれば教えてもらいたい
自分でも調べてみたんだがどうにもわからない

wikiに書いてある
>休戦の際は宗麟に対して7か条に及ぶ断固反対の立場貫いている
ってのが気になって
0907人間七七四年2013/01/16(水) 18:29:25.17ID:BG8GDb+z
おれも聞いたことがない。作り話か、後世の史料だろう。立花家譜とか
0908人間七七四年2013/01/16(水) 19:10:13.49ID:BP5edZnB
mixiで調べている人が日記に書いていたような
0909人間七七四年2013/02/27(水) 22:02:02.85ID:Oywi/Jha
宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」(『政治経済史学』102号・103号、 1974年発行)
0910人間七七四年2013/03/06(水) 10:40:26.45ID:JE9QnDKk
hai
0911人間七七四年2013/03/14(木) 21:39:53.56ID:Fjh2/GD9
でも大友宗麟って陶晴賢が謀反おこした時、弟を晴賢のところに送ったりせずに、
むしろ陶晴賢と一戦すべきだったと思う。義隆を滅ぼしたばかりの晴賢なら、
足元がおぼつかないから、戦えば勝てる可能性が十分にあっただろう。そうすれば
北九州からゆくゆくは山陰・山陽にまで大友家の勢力は拡大したはず。……って
書いてて思ったんだけど、やっぱ陶の側でも大友の動きが気になったから、義長を
欲しいとかいってきたんかな?人質的な意味あいもこめてではあるが。
0912人間七七四年2013/03/14(木) 23:08:16.89ID:aP3ttkT3
そもそも制海権を持たない大友は中国地方にはまったく興味がない。
0913人間七七四年2013/03/15(金) 00:01:17.73ID:ZKsXqXnL
>>911
二階崩れから家督を継いで1年後だぞw>陶の謀叛

まだまだ家中のごたつきの余韻はあったし、
肥後じゃ菊池家を継いだ叔父が離反してたしで
とても大内旧領に手を出せる状態じゃなかったろうに。
0914人間七七四年2013/04/07(日) 11:58:05.77ID:LGR4+siQ
博多と府内ウマーだよ
でも府内で貿易するならやっぱ関門海峡と周辺の制海権はほしい
0915人間七七四年2013/04/07(日) 12:38:50.10ID:Z32qzm5t
九州撤退の際に道雪の追撃で殿の吉川元春は敗走してるし九州の毛利領土は微々たる石高しかない門司城以外無くなり輝元の代で失ってるんだし結果的に毛利の敗北だろ
0916人間七七四年2013/05/19(日) 12:44:49.08ID:ApGBaV8o
門司城の帰属は毛利じゃない。
一次史料からは何度も争奪されているのがわかり
正直、門司城の帰属は完全に謎。
ただ島津家久が京へ行く際に門司城を通過してる時や
大友側の領地宛がいなどから
大友領だった可能性が高い。
大友・大内・尼子・豊臣が滅亡していて
擁護するものがいない江戸期に作られた毛利川の記述は捏造ばかりで信用できない。
0917人間七七四年2013/06/04(火) 21:53:42.37ID:8degl2OD
田原親家が1586年に門司城に移されて門司勘解由允って
名乗ったって話があったと思うけど、出典が分からないんだよな
0918人間七七四年2013/08/16(金) NY:AN:NY.ANID:lBc0JS+X
反大友をキチンと一次史料の裏づけを提示してやるなら
ちゃんと相手してくれるんじゃないかな?
根拠を書かずに>>937みたいなことを書いたらただの反大友の厨房キチガイでしょ。
ちなみに毛利厨が誤まった歪曲捏造知識を手に入れてるだろうことは想像がつく。
江戸時代に毛利は捏造歪曲毛利マンセー史を編纂してる。
大友や大内や尼子や宇喜多や竜造寺や浦上や赤松が滅亡してるから
他家史料との比較もできず、やりたい放題捏造できたから。
そしてその捏造軍記を手本に偽感状が生産され先祖の名誉ある武功が事実のように語られた。
それでまぁ、宗麟のこともデタラメを書いて、毛利の自己正当化が図られてる。
たとえば陰徳太平記での宗麟像は、
歳若い美女を領国中から求め、酒池肉林に溺れた生活をしていて
それを憂えた道雪が居所を集めて宗麟の気を引いてから諫言したが、すぐ元の堕落した生活に戻ったとか
家臣の妻が九州一に美女だと聞いて、その家臣を殺して妻を略奪したとか
まったく一次史料にない話をデッチ挙げている。
そのエピソードを盗用して高橋記では一万田の妻を奪った遺恨が実はあったなどと捏造し自己正当化してる。
宗麟がダメ人間とするエピはすべて大友滅亡後の江戸時代に作られた軍記ネタ
そもそも宣教師は宗麟は体質は元来、虚弱だが優秀な人物と評価しているし、
妻がそもそもヤバイ奈多夫人なので、略奪妻とかありえない。

豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
0919人間七七四年2013/08/16(金) NY:AN:NY.ANID:lBc0JS+X
22:人間七七四年 08/14(日) 15:00 p7pjEErP [sage]
>>11>>19
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。

好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
38:人間七七四年 11/18(金) 20:44 umlTHGZA [sage]
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
42:人間七七四年 08/23(木) 10:51 4cgiEJma [sage]
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
0920人間七七四年2013/08/16(金) NY:AN:NY.ANID:lBc0JS+X
陰徳太平記は正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね

陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。

若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。
0921人間七七四年2013/08/16(金) NY:AN:NY.ANID:lBc0JS+X
直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。
さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
光成氏「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
毛利は偽書状祭りと言われてます反論お願いします。
特に下記では捏造武将隆景&元春と馬鹿にされてます。
小早川隆景 VS 直江兼続
贈位が行われた明治・大正にかけては長州閥の政治権力が強大であった為、
一部で不公平も見られる。例えば長州藩の祖である毛利元就に正一位、三兄弟に正三位が授与された。
これは正親町天皇即位式の功が理由とされる。
一方でその元主君大内義隆は後奈良天皇の即位式だけでなく日常的に朝廷や公卿への貢献が抜きん出ていたが
明治政府からの贈位を見送られた。この差は「毛利元就の献金は勤王だが、大内義隆の献金は
猟官運動目的であり勤王によるものではない」という見方による。
長州閥が毛利元就の下剋上を正当化する為には大内義隆の評判が悪いほうが都合が良い事情もある

山室氏も鴨川氏も元就が一次史料レベルで歴史の捏造してるのを指摘してるしな。
自分の過去の所業を改竄するとか歴史の冒涜までして正当化。
まじキモ大名毛利。
0922人間七七四年2013/09/01(日) 09:14:58.40ID:tR1cMrg2
ソーリンは実は天正元年に義統に家督を譲っていて、
だけれどもソーリンも書状を発給していたから、
義統の見習い期間であったとして両判時代を天正5年までやっていたと福川一徳氏が書いている。
耳川の戦いの時のソーリンは隠居領の経営をする為に日向に向かっただけの話で、
耳川の戦いを主導したのは義統だと木村忠夫氏が書いている。
ソーリンは島津と毛利の捏造史観を盲信した糞コーエーの宣伝によって不当に貶められている。
0923人間七七四年2013/09/01(日) 11:05:06.56ID:USNsKLH/
あぁ大友スレが深夜のうちに完走してたん?
0924人間七七四年2013/09/22(日) 20:07:46.53ID:AnC5gjXE
老後の趣味で中世城郭模型を製作しています。
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
何れみなさんにお見せできる機会があると思います。
http://mirai660.net/castle/
0925人間七七四年2013/11/12(火) 22:36:33.57ID:2s1NOnDl
あげ
0926 忍法帖【Lv=8,xxxP】(1+0:8) 2013/12/14(土) 10:51:49.85ID:KvbDqLgq
毛利と大友って北九州でも戦ってたのか
0927人間七七四年2013/12/14(土) 19:34:28.01ID:nE/cmxGf
最初毛利が押せ押せだったけど大友の策略で大内残党が蜂起しタイミング良く尼子残党も現れ結局撤退するも道雪の猛追撃で殿の吉川元春は壊滅させられてる
ちなみに小早川隆景も敗走してる
0928人間七七四年2013/12/14(土) 22:27:33.15ID:ZdXaY6ne
そのあたり毛利が大内の日明貿易利権をうまく継承できたら違ってたんですかなぁ?
大内のサドンデスのせいで北部九州はカオスになっちゃったな。
0929人間七七四年2013/12/15(日) 20:35:45.27ID:tWpsR3LC
>>927
でも門司城は毛利方のままだった
0930人間七七四年2013/12/16(月) 03:45:45.92ID:OwMS0icq
門司は言っちゃ悪いがそれほど持ってても意味ないし輝元の代で失って最終的に九州から完全撤退しとる
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。