>>821
相変わらずネット検索で調べただけの無知ぶりを晒してるね。
別に毛利から岩屋城を奪ったわけでもなんでもないわけだがw

織田に属して淡路水軍を指揮していた安宅清康が毛利に内応するのではないかと
疑われたために信長が淡路に秀吉と池田元助を派遣して天正9年11月に捕縛しただけ。

もっと言うと木津川口の敗戦が元で毛利が一瞬で劣勢に転じ、
備前の宇喜多と美作の草苅と伯耆の南条が背き、丹波・丹後が光秀に平定され
岩屋城が失われ明石海峡の戦線が破綻した為に補給が断たれた
荒木村重の有岡城が落城しただけでなく
ついに天正8年1/17に三木城も落城し別所が自刃し
秀吉による播磨平定がなり、秀長の但馬遠征が準備されている頃の
天正8年4/7義昭→輝元書状において

摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。

岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。
反対意見の義昭はまだ上洛を諦めてないようだが、本願寺と別所まで脱落し、
宇喜多・秀吉を相手に備中まで戦線を後退させて戦うことになる毛利としては
岩屋表の監視に衆を配置するのは無駄と考えたんだろうな。