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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう

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0001人間七七四年2007/02/22(木) 14:14:40ID:DFbOxH4O
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。

それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。
0750人間七七四年2010/06/30(水) 20:40:30ID:qlQM+Pst
>>749
中傷できればそれで満足、な手合い。声ばかりが大きいので始末に終えん。
0751人間七七四年2010/06/30(水) 21:37:02ID:Ti2vLSVH
Subも悪いやつじゃねーとは思う
毛利関連以外では煽りや過剰な貶めや捏造もあまりみられないしね
ただ毛利に関連したスレになると隣国の火病とはまさしくこういうものなのだろうかと
思わせるやつに豹変するんだな
0752人間七七四年2010/06/30(水) 22:18:01ID:IG8YLLJt
陰徳太平記を教科書にしてる毛利厨(笑)
0753人間七七四年2010/06/30(水) 22:21:08ID:lOLCKAgS
>>751
他の大名も叩いてんの
0754人間七七四年2010/06/30(水) 22:26:03ID:A2H6Iwv0
基本戦国時代板住民は嫌いな大名は皆subみたいになるし subはアホ口調としつこすぎるのが問題なだけで
毛利スレで毛利は捏造マンセー大名www→バカジャネーノ→ソース出せ毛利厨→バカジャネーノ→ソース出せない毛利厨www
この無限ループでぐんぐんスレが伸びる
もっとも自分の書き込んだ内容をソース出せないから嘘だと認めたりはするけど
たまに思うがソース出せない毛利にも問題があるんじゃ
0755人間七七四年2010/07/01(木) 01:38:42ID:ecj0up5K
みんなsabに釣られすぎ。
sabは皆が罵倒やレッテル貼りばかりの不毛な争いを誘引し
議論が成立しないようにして戦国板全般を過疎化させるのが目的。
このスレもすでに議論ではなく、他者への罵倒などの目的のレスばかりになってる。

こういう罵倒で誰彼かまわず、
とにかくお前はsabと連呼して
撹乱するのがヤツの得意技。
なんせヤツには戦国の知識が
まったくないから最初から議論なんて回避してる。
議論で挑まれるのがsabが一番いやな戦略。
0756人間七七四年2010/07/01(木) 06:56:44ID:X6xZXkd0
議論も何も単に誰も相手にしてくれないだけだろw
0757人間七七四年2010/07/01(木) 15:53:03ID:SgGQRnMK
結局、議論が成立しないように荒らしてるというより
議論から逃げるための口実に
sabを連呼してるに過ぎないのか?
0758人間七七四年2010/07/05(月) 01:45:22ID:R/m+KfyY

>>741
大友は寺社勢力を屈服させて中央集権化を目指した。
しかし寺社勢力の政治的影響も受ける国人も多く在地支配が甘い毛利はどうか?

毛利の場合は>>721のように、いまだ蒙昧にも怪力乱神を語り
孔子曰く「鬼神を敬してこれを遠ざく」すらできなかった。
そのため、褒賞を与える領地なく軍事動員を行い不履行を繰り返し
タダ働きを強要しそのくせ安堵を濫発。
挙句の果てに、開き直って
吉川や小早川を通して訴えた国人本人に明所を探させると言う逆要求を出す始末。
そして隆元死後にはどんどん財政が悪化し、ついには破産状態の毛利本家を無視して
次第に吉川などは毛利を経ずに安堵を行い自立を志向していくようになり
その結果、関が原における毛利の大崩壊に至るのである。
0759人間七七四年2010/07/05(月) 02:38:56ID:R/m+KfyY
>>741
幼女を獣の目で狙い続け、自宅訪問を繰り返すが
あまりにギンギンの目とビンビンなアソコを露骨に表現していたので
モロバレしており家臣から強力なガードをされていたロリコンマイスター輝元。

幼少の頃に自宅門前で遊んでいたところ、
美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、
その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。
輝元のそうした行動を快く思わない元良は
後の二の丸殿が12歳の時に杉元宣に嫁がせた。
しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、
強奪して側室とした。

杉元宣は隆景によって密かに野上庄沖にある大島の船隠で惨殺し
隆相系杉氏を断絶の刑罰に処した。
0760人間七七四年2010/07/07(水) 00:24:22ID:uCJBUPZS
>>759
隆景鬼畜過ぎてワロタw
0761人間七七四年2010/10/13(水) 01:18:26ID:GSGqSNRg
483:人間七七四年 10/10(日) 13:13 4WlncJiv
秀吉政権は独立国人たちを整理して秀吉が認めた国主に一元管理を任せている。
例えばこの権威を利用して佐竹は国人騙し討ち虐待で常陸支配を確立させたり
奥羽の国人挙兵を鎮圧させて支配を確立させてる。
これは支配の確立によって、朝鮮出兵において後顧の憂いを無くすため。
秀吉政権の失敗は朝鮮出兵を急いでやろうとする余り、各地に巨大支配者を作り出して統治を任せてしまった点にある。
また上杉などに見られる会津転封などで
国人を完全に地盤出身地から切り離し官僚化を促している点も見逃せない。
毛利は国人の意見が強すぎて軍事動員一つ取っても秀吉から遅すぎると激怒されるほど支配基盤が弱かった。
また山陽は小早川家、山陰は吉川家経由での支配でもあるので
上杉や徳川のように直接家臣に命令できなかった。
これは元就の大友侵略の失敗から、褒美として与える土地が確保できず財政が破綻してしまった為に
直接に毛利本家に褒美を請求できず、吉川や小早川から取り次ぐ形にして逃げているからで
しまいには国人自らが支配者のいない欠損地を探してきて、ここが褒美に欲しいと請求せねばならなくなり
のちの織田との戦いで敗北を重ねたのもこのために国人側が褒美がもらえない前提で命を捨ててまでのやる気が無くなっていたから。
0762人間七七四年2010/10/13(水) 14:04:35ID:aHmThT1e
大河ドラマ立花道雪
はやく作れよNHK
0763人間七七四年2010/10/13(水) 19:48:35ID:ya0Yzxrz
陰徳太平記を教科書にしてる毛利厨(笑)

東国太平記を教科書にしてる上杉厨(笑)

0764人間七七四年2010/10/13(水) 21:01:33ID:aHmThT1e
>>763
はっ?そんなヤツいねーよ。
例えば東国太平記を出典にして書いてあるレスを3つほど教えてもらおうか?
まあ無理だろうがなwww
0765人間七七四年2010/10/14(木) 01:41:17ID:8yeqBjK7
>>763
アンチ上杉のキチガイ政宗厨まじキモすぎ。
0766人間七七四年2010/11/20(土) 15:01:29ID:Re4gl6z0
こんな場所まで伊達厨出張キモすぎてワロタw
0767人間七七四年2011/01/18(火) 17:37:17ID:Dgg+Or0k
このスレも上の方でまったり語り合ってた頃は面白いのにな。
変なのが沸いたもんだ。
0768人間七七四年2011/04/02(土) 22:11:00.21ID:ktJg8BdL
大河ドラマ立花太平記
はやく作れよNHK
0769人間七七四年2011/04/27(水) 01:40:28.06ID:NWitYE6m
石垣原、多々良、幕末の奇兵隊、と山口勢は九州で仕事してたんだな
0770人間七七四年2011/04/27(水) 22:01:12.33ID:foV+oeRW
毛利くんにも大友くんにも金で股を開く村上水軍のビッチぶりったら
0771人間七七四年2011/04/28(木) 12:29:53.71ID:9wdQyX8x
隆景のビッチぷりに比べたらまだまだだよ
0772人間七七四年2011/04/28(木) 22:18:26.88ID:iglNi9HD
スレ同時に挙げなくていいよ
0773人間七七四年2011/06/19(日) 00:44:17.78ID:wAExx/Ch
聞書を派遣して直接情報を集めた陰徳太平記はもっと評価されるべき
0774人間七七四年2011/06/24(金) 16:05:37.34ID:kItyo8g5
捏造だらけで糞の役にも立たないし
間違った知識が入るだけで読む価値すらない。
0775人間七七四年2011/06/26(日) 17:11:33.95ID:XZMKwyXq
>>741
ちなみに宇喜多秀家の悪口も書いていて
岩国吉川の歴史捏造学者の香川正矩は陰徳記において
「直家死後に人質として送られた秀家の母が絶世の美女で
秀吉にムチャクチャ寵愛されたから、美作・備前・備中・播磨の一部を引き継げて秀吉の養子になれただけ」などと女好き秀吉の売女になった母のおかげだと根拠なしの中傷してる。
0776人間七七四年2011/06/26(日) 19:57:16.62ID:985muy5S
>>775
宗麟を女好きに捏造しただけでなく
宇喜多の悪口で秀吉に寝取られたとか書くなんて
さすが性悪捏造において東の伊達か西の毛利か!と並び称される歪曲横綱毛利様。
0777人間七七四年2011/06/27(月) 09:06:11.86ID:TUmWfydk
吉川家内で対立する熊谷氏出身の元春の妻まで
黒人みたいに黒くてブサイクと記述するキチガイ力が毛利系史料のワンダフルな点だよ。
さらに中国故事を盗用し無理やりねじ込む逸話製造マシーンが毛利系史料。
0778人間七七四年2011/06/27(月) 10:56:38.07ID:mN1k90tP
正直な話、半分くらいは立花家(道雪)だけで押し返してるよね
0779人間七七四年2011/06/28(火) 05:00:54.73ID:HhwRnb72
毛利なんて田原紹忍でもを宛てておけば
一進一退くらにで維持できたろ。
0780人間七七四年2011/06/28(火) 05:39:00.65ID:Hj27mFpE
田原親賢じゃ無理だろ
0781人間七七四年2011/06/28(火) 12:46:34.87ID:cGFVMJ0c
意外と彼は手堅い用兵をやるし
門司の毛利方の策動を知り国東半島から小倉に急行することもたびたびで
豊前方面の責任者やって負けてないよ。
対島津戦では島津との和睦交渉しつつ
軍議内容は角隈石宗などとどうやってキリスト教を潰せるかの策動をしていた。
そしたら最前線で衝突が起こり気付いてみたら自分が知らないうちに大敗してた。
0782人間七七四年2011/06/29(水) 09:26:34.38ID:pptktEE3
大友は人材はかなり凄いんだよ
ただ大領を持ってて
野心家過ぎる濃いメンバーなだけで。
守護大名だったから大友宗家の直轄地が少ないのがきつかった。
もはやこれ以上の加増は無理レベルだけど戦争やらせるにも
言うこときかせるにも恩賞必要だし。
仕方がないから寺社破壊で荘園没収しか手がなかった。
政治統治システムも面白い。
中央で政治参加する場合は有事以外では軍団統御できない。
最前線で軍団指揮するためには地方へ赴任転出して政治参加できない。
0783人間七七四年2011/06/30(木) 14:29:26.53ID:G0BNfFVG
そんな人材あったくせに島津にボロボロにされた大友
毛利を撃退した道雪も存外大したことないね
0784人間七七四年2011/06/30(木) 20:55:52.86ID:j++DnQyc
えっ?道雪は耳川で島津と戦ってませんよ…
むしろ小早川らから大友攻めするから
島津も兵を出してって頼んでる書状があるから
耳川で伊東復帰を狙った日向戦で島津と大友が戦っている最中にも
毛利は北九州を襲撃している可能性があるわけで、
そうだとしたら道雪に毛利は記録に残らない早さで瞬殺されてるわけなんだが。
0785人間七七四年2011/07/02(土) 14:25:16.71ID:Wx2sJ4+P
>>784
大友軍の一部が大きく西に回る迂回路を使って南下し耳川に着くのが遅れてたり(途中で筑前筑後へ行ける道だった)
田原紹忍が島津との和睦交渉をしようとしたり(おそらく宗麟の意向だろう)
毛利が北九州を攻撃した可能性はあるんだよね。
まあ筑前や筑後の兵力を率いた道雪が軽く毛利軍を粉砕したから問題なかったんだろうけど。
むしろ道雪が毛利軍に苦戦していたら耳川合戦前に大友軍は北九州へ呼び戻されてたかもね。
0786人間七七四年2011/07/11(月) 23:00:30.45ID:a+iSm9do
普通に考えれば毛利>大友
0787人間七七四年2011/07/12(火) 08:03:29.92ID:i/IYVuuN
>>786
にわか素人乙
0788月孔雀2011/07/12(火) 21:32:45.49ID:UYldFE/L
大友滅んでるじゃん
0789人間七七四年2011/07/13(水) 00:00:58.16ID:i+QpW1k5
滅んだ原因は息子のせいでこの毛利との戦争で滅んだ訳ではないんだけどね
0790人間七七四年2011/07/13(水) 01:05:01.23ID:jAP7DA50
大友になんの魅力も感じないのはなぜだろう…
0791人間七七四年2011/07/13(水) 13:07:45.60ID:R33cHvjd
>>790
それはお前が無知すぎて
興味が出てくる以前の問題。
0792人間七七四年2011/07/13(水) 19:46:30.08ID:daImZ+Qx
>>784
襲撃してたら北九州に毛利の旗がたっているはずなので、
襲撃してないんじゃないの?
0793人間七七四年2011/07/13(水) 21:29:17.52ID:s+aznKgg
>>792
お前はリアルタイムに北九州で見てたのか?
0794人間七七四年2011/07/13(水) 23:24:13.11ID:PRK9JoYb
宗麟の伝記はおもしろかったけどなー。
宗麟だけじゃなく三大切支丹大名はどれも波乱に満ちていておもしろかった。
0795人間七七四年2011/07/14(木) 01:03:36.92ID:mDSd/orQ
>>790
むしろ、キリシタンが嫌いとかが原因では?
0796人間七七四年2011/07/15(金) 15:06:15.42ID:P/Yl3HFk
>>794
有馬なんて龍造寺や島津にイジメられまくって可哀想すぐるよな…
0797人間七七四年2011/07/15(金) 21:27:49.80ID:pMq6CN6o
そうそう、みんな貿易で繁栄しても龍造寺、島津に追い詰められるのよね
有馬なんて詐欺師に道連れにされるとか、諸行無常感が半端ない
0798人間七七四年2011/07/16(土) 14:01:21.43ID:bCZgQhtd
>>784
これ道雪のいる北から攻めるのはリスク大きいから南から島津に大友を切り崩してもらおうって
隆景の調略なんじゃないの?
最終的には毛利が一番得してるしさ。
0799人間七七四年2011/07/16(土) 14:16:06.19ID:1mhhLTId
>>798
いやそもそも隆景がどうこう関係なく
日向の土持氏が島津化するのを防ぐ為に大友は出兵するわけだが。
しかも毛利はまったく得してないどころか最悪の結果を招いた。
なぜなら織田が大友と島津の和睦を斡旋した為に
大友は南の国境をまったく心配する必要性が無くなり
織田と大友による毛利挟撃体制が構築されただけだから。
本能寺が無ければ毛利完全滅亡フラグを建てただけに過ぎない。
0800人間七七四年2011/07/16(土) 15:00:24.76ID:bCZgQhtd
>>799
耳川の戦いで敗北したあとは各所で反乱起こされまくりで大友にはそんな余裕ないんですが
実際に滅亡フラグ立っちゃったのは大友の方でしたね
そもそも大友は織田と同盟したと仮定しても口先だけでしょ
中国方面に興味がない
0801人間七七四年2011/07/16(土) 16:19:16.37ID:whnG6D2q
反乱なんて宗麟が隠居を中止してから急速に鎮定されて言ってるわバーカw
しかもその間に国東半島沖で毛利水軍撃破して周防まで追撃してるしw
そもそも毛利厨が無知でまったく前後の話を知らずに語ってるのがモロバレ。
相変わらずの恥さらしっぷりw

あのね、隆景の調略じゃなくてね、上洛したい義昭が主導してんだよアホwww
義昭は他にも島津と竜造寺の和睦も纏めようとしている。
しかし一方で織田からの要望で大友の調略があり
周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が
天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
この状況下で義昭の外交とは関係なく、すでに大友軍は日向を南下してるわけで、
毛利の謀略とか何寝ぼけたこと言ってんだよwww
この頃の隆景や元春は播磨戦線にいて三木表にいる信忠軍にビビってる状況ですw
元春は播磨での織田との決戦を嫌がって但馬へ行きたくて仕方が無く、
義昭が「但馬なんて行かずに隆景と協力して別所や本願寺を救ってくれ!
そうすれば但馬なんてほっといても毛利に帰属する」って説得工作をされてる。
よって毛利軍が筑前豊前に出陣したとしても大規模なものでは無い。
0802人間七七四年2011/07/16(土) 16:59:37.45ID:bCZgQhtd
周防長門が大混乱とかねーよw
それこそ即座に収拾されている
つーかなんで耳川の戦い以前の話してんの?
それになんで毛利が九州に即座に攻め入る話になってんの?
大友が弱体化するまで本気で九州に手を出すはずない
実際大友が瀕死になってから豊臣と共同で九州を一気に制圧してるんだし
偏見と妄想が激しすぎて意味不になってるよw
0803人間七七四年2011/07/16(土) 18:21:27.09ID:whnG6D2q
>>大友が弱体化するまで本気で九州に手を出すはずない
お前アホなの?手を出すはずがないも何も
天正6年11月の耳川の戦いと同時期に毛利は第二次木津川口の戦いで大敗してんだけどwww
オマケに2年後には田原親貫に呼応して国東半島沖に出陣した毛利水軍は
若林鎮興率いる大友水軍にまで大敗www
>>耳川の戦い以前の話してんの
分かりやすく状況説明してんだろ。そもそも隆景の調略とかお前が言うから
その時期の話をしてやってたんだがwお前完全に時系列が理解できてないね。
ついでに言うと天正6年3月に謙信や元春に兄弟揃って贈り物攻勢してた丹波の赤井直正が
死去したために義昭の東西挟撃策が完全に崩壊。
しかも天正7年に輝元は武田勝頼に出兵依頼してて武田軍が
織田を牽制すべく遠江へ出兵することになり信長は安土へ引き返すことになるんだが
毛利出陣寸前1/16にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して
大友軍の田原宗亀(親貫の養父)が援助に来援してきたために出兵中止。
本願寺や荒木から今がチャンスと輝元は言われるが
大友の動きが気になり出兵できずその間に淡路岩屋城も織田に取られてしまい
本願寺どころか荒木まで見捨てることにw
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。
すると美作の草荊景継や南条元続も続々と毛利を見切り
光秀や幽斎により赤井が滅ぼされ丹波丹後の制圧にほぼメドがつき
天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、
南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
毛利にはまったく余裕なんてねーからw
それに豊臣と共同ではなく豊臣に従属しての間違い。
しかも毛利は豊前で秋月・高橋・長野兄弟に苦戦しまくりで
秀吉からお前らじゃとても無理だから進軍ストップして
豊臣秀長らの豊臣軍先鋒が九州に来るまで待ってろと言われたほどの弱軍じゃねぇかw
0804人間七七四年2011/07/16(土) 23:35:44.92ID:NVJ8/obf
第二次木津川口の戦いでも兵糧搬入には成功した証拠あるからむしろ戦略的には勝利だ
だいたい海戦で大敗したら武将が死にまくってるわw
第一次木津川口の戦いがいい例だ
大敗や苦戦はお前の中だけの話誰も信用せんよw
長ったらしい自説年表まで持ち出してご苦労さん
杉重良って九州で高橋鑑種に負けてるし毛利の足すら引っ張れていないのには笑ったよ

九州征伐は豊臣軍のお膳立てするために動いてるからゆるゆる攻めてるのは当たり前
戦でのリスク回避もできて秀吉から友軍として絶大な信用も得ている
ほんと毛利はうまく立ち回ってるよ

しかしそんなに詳しいなら自分で本でも出版すればいいのにw
絶対売れると思うよw
0805人間七七四年2011/07/17(日) 01:16:18.41ID:39kboqp6
>>804
杉重良が高橋鑑種に討たれたなんて話はwikiでしか見たことないが
その一次資料を教えて欲しいんだが。
0806人間七七四年2011/07/17(日) 02:15:14.80ID:39kboqp6
もっと言うと当時の鑑種は大友配下。
秋月から高橋への養子ネタも秋月の自称で鑑種生前に養子を貰っていたかも不明。
さらに1/16に毛利は出陣予定で、杉が挙兵したのはそれを阻止するためであり
杉を毛利が鎮圧したのは3月。
そのため毛利の出陣は無期延期に追い込まれてしまった。
そして毛利が出陣にむけた再軍議を吉川らを安芸吉田に呼んで改めて作戦を立て直すのは8月。
完全に毛利は足を引っ張られているのは明白なわけだが。
この天正7年前半はミッドウェーのようなターニングポイントで
この期間に荒木は完全に弱体化させられてしまい毛利の勝利の芽が完全に失われてしまった。
つうか第二次木津川口の戦いで毛利は完璧に制海権を喪失したのに
毛利の戦略的勝利なんて主張するキチガイ始めて見たわワロタw
0807人間七七四年2011/07/17(日) 10:28:42.13ID:tAsBMOV+
>>806
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

このことはアンチくんも別スレで指摘されて知ってると思うんですがねw

このようにキミの言うことは全然信用できないから必ずソース添付で頼むよ
0808人間七七四年2011/07/17(日) 12:44:04.26ID:Lw7gVm/Z
>>807
そもそも832下間頼廉書状十一月八日って宇喜多宛てじゃん。
「木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」のドコにも兵糧搬入成功なんて書いてない。
敗走した毛利の軍船のごく一部が着岸して逃げてきただけだろ。
その書状の目的は荒木から人質取ったとかそういう内容だし。

833隆景書状でもその内容に対応していて
味方になった荒木一党への進物指示が詳しく書かれている十一月十四日書状だし。

続く834小早川隆景書状でも宇喜多が龍野へ出陣の話が触れられていて
明らかに木津川で毛利が優勢なのを宇喜多にアピってつなぎ留めるのに必死なだけにも見える。
しかも833と同一人物に同日付けで出しているのに隆景は霜月十四日と書いていておかしい。
それもそのはずで、この書状は案文と言われているもので出してない可能性が高い。
毛利にはこの手の案文と言う後世作成の捏造が疑われる文書が多い。
しかも文書中でわざわざ夜前に岡山から下間頼廉書状が届いたと言い訳まで書いてるw
しかし833書状の時点において荒木の話で832に対応した内容の書状を書いているのに。
そして下間頼廉書状には書いてもいない「舟軍で勝利」などと書く始末。
その後も833で書いておけば良いはずの内容が長文で書かれる謎。
しかも信長の動きを含め大和・河内・和泉・摂津・播磨の異常に精密な情勢判断が書かれる。

実際は毛利水軍は大敗したし、兵糧が搬入された事実はありません。

0809人間七七四年2011/07/17(日) 13:29:31.10ID:39kboqp6
まあ第二次木津川口の戦いで毛利勝利なんて書くバカな歴史学者がいたら笑えるな〜。
そんなすごい戦果を上げてるならのちに淡路島が織田に奪われるような状況まで悪化しないよな〜。
0810人間七七四年2011/07/17(日) 16:02:58.64ID:aaWGVy14
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

まあ相手は動けないみたいだったから大規模な直接戦闘を避けて兵糧を搬入したと見るべきだろうね
兵糧の搬入の有無を問わなければ追い返したとも言えるわけだし。
しかし討ち取られた武将もいないのに大敗とはこれ如何に?

>>809
有岡、三木落城、宇喜多反旗で十分悪化
0811人間七七四年2011/07/17(日) 17:08:59.71ID:ydq715gX
またsubか

相変わらず史料の内容は一切知らない書けないで、どこかの雑誌の話の鵜呑み垂れ流しだなw


んで、反証示さないで史料否定www
0812人間七七四年2011/07/17(日) 18:12:03.71ID:Lw7gVm/Z
くだらん。「次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について4」スレで
デタラメ吐いてたネタを盲信して該当部分をコピペしてるだけじゃんw
どこかの雑誌wwwつうかお前は毛利家文書を見たことないのがバレバレだなw
ちゃんと該当書状に案文と記されてるわけだが。
だいたい11月6日の第二次木津川口での織田の勝利が
11月4日の輝元&本願寺への正親町天皇の織田との和睦命令の勅命を毛利が破棄してのものだし
織田側はこの勝利を経て11月9日からの荒木攻略戦開始の発端となった。
それまでの信長は本願寺への北方からの包囲責任者で摂津の旗頭の荒木の叛旗に
必死に考え直せと説得工作しつつ朝廷には本願寺との和睦依頼をしていた。
しかし木津川口の勝利で深刻な状況を脱したので信長は一転して強気に方針転換してる。
毛利が勝っているなら信長はさらなる譲歩をしているはずだ。
それどころか12月に入ると秀吉を播磨へ、光秀を丹波に再派遣し戦線の建て直しに成功してる。
そもそも6月に九鬼が率いる水軍が雑賀党の舟を撃破しておりその水軍は健在のままなんだがw
そして天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入っており
三木城の別所への補給を任されていたはずにも関わらずだ。
毛利水軍が勝っているならそんな依頼をする必要性はない。

0813人間七七四年2011/07/17(日) 19:31:40.83ID:qEGBRp5S
まぁまぁどっちもあんまし熱くなりなさんな
歴史において諸説があるのはしかたない
他人を貶めて自説の正当性を主張するのは見苦しいぞよ
0814人間七七四年2011/07/17(日) 21:55:29.44ID:39kboqp6
毛利厨の捏造は相変わらずヒドいな…
まさか毛利水軍が織田水軍に勝ったから明石海峡の制海権が織田水軍に握られたと主張するとは新鮮すぐる。
0815人間七七四年2011/07/18(月) 07:27:51.03ID:YYZUEpRZ
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた

Subちゃん相変わらずだなあw
0816人間七七四年2011/07/18(月) 10:46:22.44ID:247PXhTP
論破されるとsubを連呼しだしてレッテル貼りを開始するから
本当にコイツは分かりやすいバカっぷりだな。
0817人間七七四年2011/07/18(月) 21:57:43.99ID:NUpMfxUn
subが相手がひとりだと思って論破とか言い出してるw


ま、subのは論破にもなってないけどなw
信用出来ない!と捏造・歪曲の連呼しかしないからなwww
0818人間七七四年2011/07/19(火) 16:40:00.32ID:WUyC8HS8
subは読み下し文や漢文読めないから仕方がない。
だからこいつが書く内容は意図的に解釈を捩曲げてる。

というか、よく古文板に聞きに行って晒されてたしな。
0819人間七七四年2011/07/19(火) 18:08:40.34ID:aBggM2ID
>>817
>>818
はいはい「鈴木・藤本スレ4の落書きを盗用してコピペ」しただけの無知負け犬乙www
荒木謀反摂津失陥で播磨の織田軍の連絡線が絶たれ孤立
対本願寺戦略も根底から崩壊。
完璧に一方的劣勢に転じた信長が一転大攻勢に出ることが可能となったのが第二次木津川口の勝利であり
明白なターニングポイントなのにwww
0820人間七七四年2011/07/20(水) 10:40:20.30ID:DySY15Kb
>>815
淡路島岩屋と対岸の明石の間の幅はわずか4キロしかない海峡だから
岩屋城が織田に奪われたら明石海峡の制海権を
毛利が奪われたと判断するのは当たり前だろう。
また第二次木津川口の織田勝利に応じての
秀吉の姫路再進出は加古川からの三木別所氏支援ルートの封鎖であり
本願寺が毛利に確保を要請し、もっとも懸念していた情勢悪化であるも
明石海峡を封鎖され雑賀水軍と毛利水軍は二度と合流できなくなったため
水軍による組織的軍事行動は見れなくなった。
0821人間七七四年2011/07/20(水) 21:14:34.81ID:n8Gr2DC/
天正9年11月17日 羽柴秀吉、淡路国岩屋城・由良城を攻略

さすがsub、厳島の戦いで毛利は戦っていなかったと主張するだけのことはあるなw
sub史観では第一次木津川口の戦いも毛利は戦っていなかったんだろうなw
0822人間七七四年2011/07/21(木) 02:27:46.72ID:Qz8PsMVg
>>821
相変わらずネット検索で調べただけの無知ぶりを晒してるね。
別に毛利から岩屋城を奪ったわけでもなんでもないわけだがw

織田に属して淡路水軍を指揮していた安宅清康が毛利に内応するのではないかと
疑われたために信長が淡路に秀吉と池田元助を派遣して天正9年11月に捕縛しただけ。

もっと言うと木津川口の敗戦が元で毛利が一瞬で劣勢に転じ、
備前の宇喜多と美作の草苅と伯耆の南条が背き、丹波・丹後が光秀に平定され
岩屋城が失われ明石海峡の戦線が破綻した為に補給が断たれた
荒木村重の有岡城が落城しただけでなく
ついに天正8年1/17に三木城も落城し別所が自刃し
秀吉による播磨平定がなり、秀長の但馬遠征が準備されている頃の
天正8年4/7義昭→輝元書状において

摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。

岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。
反対意見の義昭はまだ上洛を諦めてないようだが、本願寺と別所まで脱落し、
宇喜多・秀吉を相手に備中まで戦線を後退させて戦うことになる毛利としては
岩屋表の監視に衆を配置するのは無駄と考えたんだろうな。
0823人間七七四年2011/07/21(木) 13:08:28.16ID:BGkgbtWo
まあ明石海峡を毛利水軍が自由往来できるなら雑賀水軍と共同して補給活動できてるはずだし
本願寺も荒木も別所も織田に屈することは無かっただろうし。
0824人間七七四年2011/07/21(木) 13:28:18.08ID:BGkgbtWo
それに荒木の挙兵は
明智や細川が但馬方面からの丹波丹後攻略に対して
波多野・赤井を支援する動きだから
荒木勢力の減退は丹波丹後への圧力増大になるわけだし。
そのせいで赤井兄弟と親交ある元春は但馬方面へ行きたがって
織田軍と姫路決戦して別所を救援したい義昭や隆景と対立し戦力分散の愚を犯すことになる。
だから義昭は元春に別所を救えればそっち方面なんてホッといても後から毛利帰属になると説得してる。
もともと第一次木津川の戦い後に義昭と毛利は勢いに乗って
瀬戸内海を東進し本願寺と共同して和泉から侵攻する水軍ルート
宇喜多を先鋒に山陽道を東進し摂津へ侵攻するルート
元春が山陰道を併合して丹波へ進出するルートの
三路同時侵攻を狙っていたのに
第二次木津川口の敗戦はそれを不可能にした。
0825人間七七四年2011/07/21(木) 13:37:55.93ID:BGkgbtWo
>>822
織田化した三好軍を毛利軍が讃岐で討ったりしてるから讃岐領のどこかに毛利の拠点があったと思われる。
0826人間七七四年2011/07/21(木) 23:05:53.68ID:2Z6yucHd
なんだ結局天正9年までに岩屋城を織田方が落としたという史料はないのか
顔洗って出直しておいで

あと岩屋城城主は菅平右衛門だね
で毛利の在番が香川広景と冷泉大輔(『安西軍策』巻五「淡路国岩屋城の事」より)
安宅清康は由良城の城主

つーか常識的に考えたら本願寺が完全包囲されて兵糧補給が途絶えたら
遅くても1年で干殺し状態になってなければおかしいんだよね。
三木や有岡は陸上での補給路を断たれたから苦境に陥ってるわけで
本願寺みたいに海に直面した所だと補給の防ぎようがなかったんだろうね。
0827人間七七四年2011/07/22(金) 00:06:04.25ID:42kW20pu
捏造だらけの軍記安西軍策がソースとかワロタw
今まで安西軍策をソースにした程のアホはいなかったがついに最強バカが現れたかw
でさ、その安西軍策からの流用部分の該当部分は何年何月から何年何月までの期間の城主や在番の話を書いてるのかね?
年も月も書いてないからどの部分への反論なのかすらわからないんだが。

ちなみに天正九年の話を君が持ち出したから
やむなく信長公記をソースに天正九年の内容を書いたわけだが、
君も当然、天正九年の話は信長公記をソースにしてるはずだろ?
そうなると同じ信長公記にはやはり第二次木津川口の戦いは織田の圧勝と書かれてる以上は
毛利敗北を君は認めざる負えないわけなんだがw
0828人間七七四年2011/07/22(金) 00:33:53.84ID:IlkibD+m
この過疎板でレスが伸びてると思うと、大体がどうしようもない厨房か
subやだがみたいなマジキチが喚いてるだけなんだよなあ。
帰って、どうぞ(迫真)
0829人間七七四年2011/07/22(金) 10:38:39.90ID:42kW20pu
>>828
>>816
0830人間七七四年2011/07/22(金) 13:50:22.46ID:9PiLNETg
>>826
天正4年11月に本願寺が元春に岩屋城を確保しろと要求してるし
手取川の戦いや松永久秀謀反といった事件が相次いでいる天正五年を経て
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入って三木城別所への補給を任される。
6/26に九鬼水軍の大船からの大筒により雑賀水軍が撃破され(宣教師も驚く大船)
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川がり、その上流には三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
陸路では7/3に毛利の大軍が秀吉が見捨てた山中鹿介の上月城を落としてる。
10月には荒木も義昭や本願寺に組して織田から叛旗。
摂津国有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城が
一斉に織田から離反し丹波国や播磨国戦線に重大な支障が生じ織田の戦線は山城国まで大幅後退。
同時に御着城の小寺政職など播磨国人達まで一斉離反し秀吉や光秀も荒木説得へ向かうが説得ならず。
11/4追い詰められた信長は朝廷を動かし本願寺との和睦を結ぶ。
和睦を無視した毛利水軍の行動により11/6第二次木津川口の戦い勃発。
九鬼の大船からの大筒により毛利敗戦と織田軍の大反抗作戦開始のターニングポイント。
天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
これによる船舶による大量物資輸送路が各地で途切れ
天正8年1/17別所・7/2荒木・8/2本願寺と相次いで織田に屈服することになる。
>>825
天正五年閏7月に織田化した三好配下の讃岐国人の長尾・羽床が毛利に服属した三好遠江
(三好氏に破れ毛利領の島に逃げていた讃岐香川氏の讃岐復帰が関わっている)
の讃岐元吉城を攻めてる。しかし隆景が撃退したのを義昭が29日書状で褒めているね。
0831人間七七四年2011/07/22(金) 14:55:12.36ID:42kW20pu
天正8年4月7日の輝元宛の義昭書状で
すでに織田と本願寺が和睦するって話が登場してるから
実際には荒木村重が岩屋城を落とすように依頼して間もなくの天正7年10月に有岡城が落ちたのを手始めに
年内には尼崎城も落ち、花隈城へと次々と荒木村重が逃げ回ってる姿を見て本願寺も絶望してたんだろうね。

謙信や丹波の赤井直正の寿命があと1年あれば信長は死んでたな。
0832人間七七四年2011/07/23(土) 22:44:23.26ID:JyZWgOr2
>>822
>天正8年4/7義昭→輝元書状において
>摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
>宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
>毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。
>岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
>出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
>淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。

さすがにこの解釈はないわー
ふつう岩屋表警護っていったら岩屋城周辺の警護ってことで明石海峡付近のことだよ
こういう恣意的な解釈してたらそりゃ誰からも信用されないはずですわ
史料の読み方が全く真摯的でない
0833人間七七四年2011/07/23(土) 23:31:08.29ID:nN3LquzL
中国地方での戦いの書状でも
毛利は〜表に出陣する予定とか書いてるし
〜表と言う表現にはその地を支配してると言う意味では使ってないだろ。
〜表と書いてて、その地を支配していたとする書状のソース提示してみろよ。
0834人間七七四年2011/07/24(日) 01:01:55.06ID:Xd8Y+4g3
>>832
アホか。わざわざ恣意的な解釈するくらいなら
最初からここに該当文章を書かないわ。
どうせ無知だからそんな文章もお前は存在自体知らなかっただろうしな。
もし反論するなら、それ以前に毛利が岩屋城を奪取済みとするソースを出してくださいね。
0835人間七七四年2011/07/27(水) 16:30:19.47ID:+9HmjCP2
3行でまとめろ
0836人間七七四年2011/07/27(水) 16:53:07.61ID:ti07AVoX
>>835
質問を黙殺しソースを一切出さないどころか他人の出したソースを盗用し
その内容を歪曲解釈して反対意見を吐く常套手段を使ってくる
毛利厨が相変わらず気持ち悪い。
0837人間七七四年2011/08/10(水) 18:22:30.24ID:iuiiTAk2
〜表って、現代で言う〜方面って意味だと思ってた。
こんな感じ。

>おも‐て【表】
>[接尾]方角・場所などを示す名詞に付く。
>1 その方角に向かっていること、その側に面していることを表す。「南―」
>2 その方向の土地・地方を表す。「江戸―」「国―」

これに所有の概念が関わるなら、防衛戦に出陣するときは別の表現をしてたということだろうか。
0838人間七七四年2011/08/10(水) 19:46:10.96ID:sFpC2rI3
>>837
岩屋城をすでに毛利が奪取してたとするソースを出せばよいだけの話だろ。
0839人間七七四年2011/08/11(木) 09:36:10.02ID:FDJT/oGt
〜方面、〜戦線って意味だから
別にその地を所有していたと言う意味を内包して無いな。
0840人間七七四年2011/08/11(木) 15:11:28.68ID:zK4EmHe8
島津が肥後表と書いたり、大友が豊後表と書いた時も
所有してる地を守ると言う解釈にはならない。
どちらかと言うと敵がその地に進出してるので〜へ出張ると言う意味。
0841人間七七四年2011/08/11(木) 15:13:46.98ID:zK4EmHe8
訂正
×豊後表
○豊前表
0842人間七七四年2011/08/12(金) 16:00:54.23ID:TAHmYrFP
>>837
広義の意味では〜方面。
狭義の意味では〜城の周囲、〜の周辺。
例:江戸表諸門番所御法令書(江戸城周囲の各門番所の法令書)

岩屋表警護と書いてあるなら岩屋城の警護と読むのが普通。
岩屋表は岩屋城を含まないってのは歪曲にもほどがある。
0843人間七七四年2011/08/12(金) 17:01:06.79ID:TAHmYrFP
>>838
つか村重の書状だけでは岩屋城が織田方についたとは断定できない。
児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるものでこれが村重のところにも
伝わって勘違いしてる可能性もある。
事実、毛利側はほとんど混乱してないし、織田側も淡路島や本州湾岸線沿いへの攻勢が見受けられない。
織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである。
尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったりしてるところをみても
とても大阪湾を完全制圧できていたとは思えない。
木津川口で活躍した大船は何やってたんだか・・・
0844人間七七四年2011/08/14(日) 18:55:42.07ID:p7pjEErP
>>842
>>838
下記のヤフー知恵袋からパクってきてバカじゃないのか?
質問「大坂表とか江戸表の「表」ってなんですか?ただの「大坂」とか「江戸」とどう違う」
回答「「江戸表」は狭義には江戸城あるいは江戸幕府を指したものと推測されます。
江戸表諸門番所御法令書 内容説明 江戸城各門の警備人数、交替および各門通行者の格式等を記す。

城門の話なんてしてないだろ?用途がまるで違う話を持ち出して何がやりたいんだ?
江戸表諸門番所御法令書って北海道大学所有の日本北辺関係旧記目録だからぜんぜん時代も違うんだが?


>>児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるもので
上記が起きた日付とソースを要求。毛利家文書もしくは小早川文書の何番の記述かね?

>>これが村重のところにも伝わって勘違いしてる可能性もある。
妄想かよ・・・まぁいい。誤報の日付とソースを出してくれ。

>>織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川があり、その上流には美嚢川経由で三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
三木城が落城したと言うことは高砂が織田側になってると言うこと。
そもそも叛乱したのが内陸であって丹波や摂津戦線にも影響を与えているのだから内陸鎮圧が優先されるのは当たり前
海側と言えば秀吉が押さえている姫路城と淡路島の中間に当るのが高砂。
毛利が淡路を奪われたから高砂の維持も不可能になり三木城も落城したと考えるのが自然。
さらに宇喜多が毛利を裏切ったら海運と補給を心配することなく備前を越えて備中へ侵攻してるのが秀吉。
当然に海側も押さえていると思うが?

>>尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったり
日付と誰のことだかソースを要求。
それと尼崎から本願寺なんて別に海路を使う必要性はまるで皆無なんだが
地理とか理解してないんじゃないかね?
0845人間七七四年2011/08/14(日) 20:56:35.03ID:/PgKs6h1
>>838
いやそんな噛み付き方されても……
ただ表の解釈の仕方が気になっただけで。
個人的には>>840みたいな解釈でいいのかなと思っているが。
0846人間七七四年2011/08/15(月) 08:46:53.51ID:p9qSTrsV
良識的に考えて岩屋城が織田の支配になっていなければ制海権は毛利なので高砂は落ちず、
従って播磨の別所氏の三木城も落ちず、摂津の荒木も落ちないし本願寺も織田に降伏的和睦をしない。
よって荒木に隣接する丹波の赤井氏・波多野氏の戦線を明智と細川は攻略できず苦戦を続けているはず。
岩屋城を毛利が維持してることで明石海峡の制海権を保持し
従って船舶による兵糧の大量補給を毛利が可能であるのに本願寺も荒木も別所も織田に破れると言うのは理解し難い。
0847人間七七四年2011/08/15(月) 10:22:28.49ID:yjsBa3lZ
>>845
由良・足利が籠城した際に
北条も足利表へ出陣したが
足利は北条の領地じゃないしな。
〜表というのは予定戦場と言う感覚で使われてるよな。
自領の防衛戦で〜表を守るという表現は無い。
0848人間七七四年2011/08/15(月) 15:57:08.78ID:JE/4VbHw
自領が予定戦場の場合は?
0849人間七七四年2011/08/15(月) 16:02:01.74ID:JE/4VbHw
途中で送ってしまった。
表を自領に適用しないとすると、自領が予定戦場の場合はどう表現したんだろうか?
たとえば、備中高松城の救援に行ったときのような。
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