毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
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0703人間七七四年
2010/05/29(土) 15:09:24ID:sG8Cw+JPまず基本として>>676を読め。
大内が豊前筑前を支配しており
大友は筑前の立花周辺の飛び地くらいしか直轄地はないし
大内滅亡でやむなく従った諸将といっても統治実績なんてない。
>>秋月は一応大友に従属するという形式にせよ旧領復帰
「一応」ってなんだw完全に土下座状態だ。
>> 高橋鑑種は豊前に移されてそこで大友に従属するにせよ半独立
半独立状態ってなんだw完全に大友隷属下に入ってる。
その状況が壊れたのは耳川の戦いが原因であって毛利は関係ない。
毛利は大敗であり、大友の勝利。
>>宗像は所領の半分を没収
お前wikiしか読んでないだろ。
宗像は毛利と手を切る
蔦ヶ城を明け渡す
宗像の知行地半分を譲り渡す
西郷党の領袖の袖河津隆家の誅殺
大友家臣の臼杵鑑速の娘を当主氏貞の質に迎える
道雪59歳の側室に当主氏貞の妹25歳をいれ化粧代として立花に
西郷庄300町の贈与と西郷党の強制移住。
ものすごい理不尽な要求に宗像は屈してんだよ。
>>大友と毛利の痛み分けであり
はぁ?なに寝言言ってんだ?耳川での大友の敗戦の影響まで毛利の功績になるのか?
>>軍記物で信憑性低い
西国盛衰記
子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ崩壊。
その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。
>>大分福岡などの県史はこれに否定的
へぇ、どう記述して否定の論拠にしてるのか書き出してね。
最近は書籍名を書いて内容を一切書かずに逃げる輩もいるからね。
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