毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
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0043人間七七四年
2007/03/14(水) 19:10:53ID:BESJ11Wr余裕があれば九州・四国にも手を伸ばしたって感じ。
基本的には東を向いていたと言っていい。
そもそも事の経緯で言えば
1558年
大友の筑前進攻に対し、単独では対抗できなかった高橋鑑種ら諸豪族が
大内の後釜として毛利に援軍を要請したところから大友と毛利が対立した。
1563年
しかし元就は尼子に力を割きたかったので高橋らを見捨てて大友と講和する。
高橋らは憤懣やる方ないが仕方なく大友に事実上従属することになった。
1568年
毛利が尼子を滅亡させると、ここぞと高橋・立花らが決起し毛利に援軍を要請。
吉川小早川と大友が立花山城をめぐって対峙する。
が、尼子大内再興軍の反乱により毛利は九州から撤退。
という流れで、毛利の九州遠征は毛利単独の意思だけでなく
筑前・豊前の反大友諸勢力の要請によるところが大きい。
例えば1558年以来元就はさっさと九州から撤退したかったが
九州の反大友諸勢力が単独では大友に対抗できないので
元就に対し強硬に九州駐留を求め続け、これが撤退を遅らせる一因となった。
>>1のように九州攻防戦の主役を大友と毛利に据えるよりも
大友と反大友の攻防と考えた方が実態に近い。そこに毛利が加わったと。
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