>>327
山内氏が輝元に対し、人質を出し渋ったり、検地に協力的じゃないけえ
輝元は「殿下の御下知」と秀吉の権威を借りる始末で、九州出兵にも
出動が遅れ、秀吉から「家臣の言いなりになるけえ、「諸事手遅」じゃと
叱られたけんのう。国衆の城下集住も進まんかったけえ動員に遅れる。
安芸、備後の国衆は、毛利氏に同格意識が強かったけえ、統制力が
弱い。じゃけえ、輝元を権威付けする為、業いったんじゃ。
後藤陽一氏は、「信長、秀吉らがあまりにも強固な封建制をつくったから、
徳川幕府が続いて近代化が遅れることになってしまった。歴史に『もし』は
許されないが、毛利氏のように旧豪族の家臣らの主体性を尊重した
緩やかな方法を採った大名が天下統一していれば、日本の近代化は
もっと早くできただろう」と云われる。
ほいじゃが、西日本の合議制尊重で、天下は難しい。隷属縦社会の東日本型
じゃないと、兵力の動員が常時可能じゃないし、合議尊重型は、共通利害が
ないと組織が解体、解散する方向に進む。毛利も輝元の時代にその芽は
出とる。権威権力の強要は、国衆からしたら偉っそにすなじゃ。
隆景さんが亡くなってからは、毛利中枢部もガタがきたけんのう。
例の石見の益田氏は、慶長四年、領地の配置替えのうわさが立った時、
自分はかねてから妻子を広島へ置いとるゆえ、配置替えになっても益田
付近をと、輝元に訴えるぐらいじゃけえ、温順な方じゃ。
石見人はぶい(純朴)なところがあるけえのう。