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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう

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0001人間七七四年2007/02/22(木) 14:14:40ID:DFbOxH4O
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。

それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。
0283人間七七四年2008/09/13(土) 13:31:07ID:aNdXGSdv
戦費と時間を無駄にしたのは両者とも同様だけど
毛利は九州に侵入して最終的に撤退した、門司の帰属はよくわからないが、
大友は一応毛利を退けたけど、
秋月には旧領復帰され、後に北九州で35万石と称されるもとを築かれる、
竜造寺は毛利大友が争ってる隙に勢力伸ばしてしまうし、
大友が滅ぼしたり追放したりした立花高橋は大友が筑前支配のために配した家臣だし、
宗像の所領を半分没収したとはいえ損したのはやっぱり大友な気がする
0284人間七七四年2008/09/13(土) 18:37:21ID:tr0aMWWS
大友は外交戦略で毛利を追っ払うことは出来た。
しかし龍造寺・島津といった包囲網を敷くことの出来ない相手には敵わず、滅亡寸前まで追い込まれる。
いくら戦略が優れていたって戦争が弱いって致命的欠点なんじゃね。
0285人間七七四年2008/09/13(土) 18:43:00ID:sxsK28HS
は?
0286白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/13(土) 23:16:37ID:2wzlSQDc
>>281-282
東日本の親方子方の譜代、被官、名子の主従制縦社会と西日本の
各家族、村落が対等な合議制的一揆の形を採る社会は違う。
列島東西の風土、民族の違いの上に考察せにゃあいけんわい。
毛利氏の勢力が強うなっても、形式上の傘連判方式も国人間の対等の
立場での契約じゃったけんのう。 
東日本は農奴制と共に、奴隷売買も盛んじゃったじゃないか。
上杉謙信の関東侵攻における奴隷市場なんかそうじゃろう。
西日本においては、九州は盛んじゃったよ。戦前まで唐行きさん、娘子軍の
産地じゃけえのう。同じ地方の娘を騙して、海外へ売り飛ばし売春婦に
させる。
>>283
大友氏が毛利氏を戦闘で退けたこたあないど。
0287人間七七四年2008/09/14(日) 00:26:34ID:O6B+wGC4
君は知らないようだけど福島国人一揆も対等な傘連判だったわけだがw
傘連判が毛利の専売特許ではないのだよ。
関東諸将が集まっての謙信の小田城奴隷市場は唯一1回だけだった。
その例外中の例外を持ち出すのかね?
しかも食事代負担程度の激安だったし、それに困った小田氏がすぐ降伏してきたら、小田までちゃんと返却してやったし。
関東諸将のいない謙信北陸遠征でももちろん奴隷売買はやっていない。
そもそも龍造寺は大友に勝ったと言えるのかね?
大友が毛利の主兵を引きつけている間に背後を尼子や大内残党に襲わせる軍略と、
朝廷を利用した政略で軍事的にも政治的なも毛利は大友に圧倒されたじゃないか。
最後は背中に火がついた毛利の方が和睦に熱心だったんだぜ。
0288人間七七四年2008/09/14(日) 00:44:38ID:67kSL3Bo
>>287
>尼子や大内残党に襲わせる軍略
尼子は信長の援助受けてたけど、大友が関与していたというソースは?

>朝廷を利用した政略で軍事的にも政治的なも毛利は大友に圧倒されたじゃないか。
>最後は背中に火がついた毛利の方が和睦に熱心だったんだぜ。
この辺りも詳細よろしく。
0289人間七七四年2008/09/14(日) 09:37:37ID:DqwZTEfI
1559年
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が石見出兵中の隙をつき大友、豊前門司城を攻撃
門司救援に向かった毛利水軍の冷泉院元豊、赤川元徳らは柳浦で大友水軍に迎撃され敗死。
9月、毛利隆元が三千を率いて救援に向かい大友義鎮の軍勢を豊前門司城にて破る。

1561年
6月、大友軍が豊前に進撃開始。大友、毛利の全面対決が始まる。
8月、大友の吉弘鑑理、鎮信、鎮理親子勢一万五千は小倉表に着陣。
9月2日、戸次鑑連(立花道雪)、田原親賢、臼杵鑑速らは、和布刈神社近くの城下まで進出し城を攻めた。
また大友義鎮がキリスト教に友好的であっため、インドのゴアから来航したナウ型ポルトガル船が門司城に援護砲撃を行う
9月18日、門司城救援に水軍五百隻、一万の小早川隆景軍が赤間関に着陣。
八千の毛利隆元率いる本隊は防府、大専坊に本陣をおく。
堀立壱岐守、杉彦三郎ら毛利勢八百が関門海峡を突っ切り、門司城に入城
毛利の児玉就方、河内水軍を率い豊筑沿岸を襲撃
大友軍、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃
10月、小早川隆景、門司城に入城
石見の福屋隆兼が毛利と大友の争いの隙をつき叛旗。吉川元春がこれにあたる。
10月9日村上武吉、大友軍の後方遮断にでる
同日、大友氏は門司城内の篭城兵の中に田北民部の縁の者、稲田弾正、葛原兵庫助を内応を試みる
しかし前日に発覚し二人は処分され失敗に終わる
10月10日、小早川隆景は前日に処分された二人が生きているように偽装、内応の合図の狼煙をあげ大友軍を誘き寄せる。
大友軍の総攻撃が始まると同時に小早川隆景は城外に出て奮戦。
浦宗勝、児玉就方らは毛利水軍を率いて門司沿岸に上陸、大友軍と激突。
浦宗勝と伊美弾正が一騎討ちを演じ、宗勝の勝利。
大友軍は小早川隆景の罠にはまり苦戦。臼杵鑑速が援護に行くが宍戸隆家に阻まれる。
竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介ら大友軍多数が討死。
毛利軍は海上から松山城(現在の苅田町)を攻撃
背後を毛利に断たれる事を恐れ大友軍は夜に撤退開始
撤退を察知した小早川隆景は水軍を率い、長躯迂回し黒田原・国分寺原で待ち伏せ。撤退中の大友軍に打撃与える。
松山城、香春岳城を毛利に奪われ豊前一帯は毛利領に

11月、毛利隆元、小早川隆景は門司から福屋攻めにあたっている吉川元春を支援に向かう

1562年
この年、元就は出雲洗合に本陣を移し半永久的な陣城を築き職人や商人を呼び城下町を建設
尼子義久の守る月山富田城の長期包囲作戦を開始する

1563年
1月、大友宗麟は松山城奪回に向かうが毛利軍はこれを撃退
3月、将軍、足利義輝の命で毛利と大友は和睦。
門司城は毛利領、松山城は大友に還付する事で合意。

8月、毛利隆元、急逝し幸鶴丸(毛利輝元)が毛利家当主となる

1564年
7月25日、毛利元就、元春、隆景と大友宗麟が講和の誓紙を交換

1565年
2月、幸鶴丸が元服し将軍、足利義輝から一字をもらい毛利輝元と改名。

1566年
この年は長年に渡って包囲され続けていた月山富田城がついに開城。尼子義久は降伏する。

1567年
3月、伊予の河野道直の救援要請を受け吉川元春、小早川隆景ら毛利軍、二万五千は伊予に上陸
湯月城に入る
4月、毛利と大友の講和破綻。(毛利は大友から破った、とし大友は北九州の諸将の反抗を毛利の差し金だとした為)
毛利軍の先鋒石見国衆、豊前に侵入。(毛利の九州遠征開始)
24日、筑前立花城主、立花鑑載、毛利に通じる。
0290人間七七四年2008/09/14(日) 09:38:59ID:DqwZTEfI
立花の叛旗に秋月種実、宗像氏貞ら国人衆多数も呼応。
大友宗麟は元就のやり口に激怒し三万の大軍を立花城に向かわせる。

5月、元春、隆景の両川は各所で宇都宮、四国連合軍を撃破し大洲城を包囲。
宇都宮豊綱は一条康定、長曽我部元親に援軍要請し篭城したが降伏。
豊綱は備後の三原に送られ幽閉される。
救援にきた一条、長曽我部の土佐勢も迎撃され敗退。
宇和の西園寺公広も降伏し伊予平定は完了する。
6月、吉川元春、小早川隆景は一旦軍勢を休めた後、九州へ発向。
7月、大友軍、筑前立花城を攻撃。
毛利の援軍が来るまで持ちこたえられず立花鑑載は自刃。毛利の将、清水左近は長門へ逃れる。
9月、吉川元春、小早川隆景は豊前三岳城を攻略。長野弘勝、自刃。
10月、立花城攻略に備え、筑前馬見城、笠木城を修築

1569年
4月、松山城も攻略した元春、隆景は四万余の軍を催し三岳城を発す
帆柱・若松・芦屋を経て立花城へ向かう一方、水軍を名島に配す
毛利元就、吉田郡山を発し輝元と合流。
本営を長門の長府に設置し九州遠征の諸将を督励する
5月1日毛利軍、立花親続の守る立花城に総攻撃を開始。
宗麟、立花城救援に二万を派遣。
毛利軍と大友軍ついに激突する。
一進一退を繰り返していたが5月18日の戦いにおいて宍戸隆家、熊谷信直、山内隆通ら奮戦し戸次鑑連、五条鎮定らを撃破し大友軍の首級を数百上げる。これにより大友軍、後退。
閏5月3日(この年は閏の為、5月が二回ある)、立花城陥落。城兵全員を助命し退去を命じる。
桂元重が立花城の守備に入る。
6月、京都に潜伏中の山中幸盛(鹿之介)、立原久綱らが尼子勝久を擁立。ひそかに織田信長の援助を得る。
7月、尼子勝久、山中幸盛らが但馬より出雲に侵入。
尼子家再興の激に尼子勢六千になる
元就、月山富田城主、天野隆重の求めに応じ糧食を搬入し鉄砲隊を城内に入れる。
尼子勢、月山富田城を攻撃。
城主、天野隆重はわずか三百の城兵を励まし奮戦し尼子勢を撃退。
尼子勢、月山富田城をあきらめて周辺の諸城を攻略する方針に変更
8月、尼子勢は神辺城を攻略。守城、杉原景盛遁逃。
樽崎豊景、村上亮康ら毛利軍はすぐに神辺城を奪還し井上晧玄を殺害。
8月、高瀬城の米原綱寛、尼子勝久に投降。
10月11日、大友宗麟は大内輝弘を援助しひそかに周防、秋穂浦に上陸させる。
大内軍、山口奉行・井上就貞と藤井淡路守を撃破
10月12日、大内軍、山口乱入。高嶺城を攻撃。
10月15日、毛利軍は九州撤退を決意。
乃美宗勝、坂元祐、桂元重を守りに残し夜、立花城を撤退。
10月18日、毛利軍、長府の本陣に到着。
10月20日、吉川元春は福原貞俊、熊谷信道ら兵一万を率い山口に向かう。(小早川隆景は長府に残留)
10月21日、立花城守備隊も撤退。大友軍立花城奪回する。

大内軍は残党を糾合し五千を越す兵力になっていたが吉川元春が一万の兵で進軍中の報を聞くとたちまち戦意を失い逃亡者が続出。
10月25日、吉川元春、大内輝弘を浮野峠で破る。
大内輝弘、山口を脱出するが富海(防府市)の茶臼山に追い込まれ自刃。
10月28日、元就、輝元、隆景は長府の本陣を撤収し毛利の九州遠征は終了する。

1570年
1月、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら両川を率いて出雲遠征に出発。
    ・
    ・
    ・
0291人間七七四年2008/09/14(日) 23:54:26ID:DqwZTEfI
※備考

1559年
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が石見銀山を奪取すべく尼子方の本城の守る山吹城を包囲していたがその隙をついて大友は門司奪取をはかった。
毛利隆元は一足先に救援に向かい、隆元を助ける為に毛利軍も山吹城の包囲を解き後詰めに向かったが結果的に隆元軍だけで大友を追い返す。
隆元はその後も度々、大友戦で活躍しているので指揮能力はそれなりにあったと思われる。

1561年の門司城攻防戦
大友宗麟は当初門司城は簡単に取れると考えていた。
当時、大尼子が健在で毛利はとても多くの兵を門司に割けないと考えていたからだ。
ところが毛利隆元、小早川隆景の一万八千(諸説あり)の援軍を聞いて驚いたらしい(毛利元就、吉川元春は対尼子)
本州と九州の玄関口、門司がいかに重要だったか窺い知れる。
陸戦では当初五分五分だった。
しかし水軍力の差が大きく完全な制海権をとっていた毛利の陸、海の効果的な連携プレーに大友軍の作戦は後手後手に回ってしまった。
なかなか上手くいかない大友軍は一度戦力を立て直し総攻撃をかけ門司城本丸間近まで迫ったが結局失敗に終った。(かなり落城寸前で危なかったようだ。もし落城していたら守っていた小早川隆景も無事では済まなかっただろう)
毛利隆元に松山城を海からつかれ大友軍は撤退するが小早川隆景の待ち伏せに大友軍は相当危なかったようだ(大将自信刀を奮わなければならないほど危機的状況だった)
最後は救援に駆け付けた佐田が率いる宇佐郡衆の奮戦でようやく大友軍は撤退成功する。
結果的に門司を取るはずが逆に松山城など奪取されて完全な作戦失敗に終った。
毛利軍の水軍の効果的な運用に舌をまいた宗麟はこの敗戦を教訓に水軍に力を入れだした、と言われる。

和睦を結んでいた大友と毛利が再度戦うきっかけになったのは毛利の四国遠征の時だと個人的には思われる
というのも一条を後押しして河野を苦しめたからである
そして両川が四国遠征中に破談も意図的に感じる
もちろん毛利も人の事は言えず九州の国人達にチョッカイを出していたのだがw
ところが宗麟の計算違いは国人衆達の多くが毛利方についた事ではないだろうか?
両川が不在でもこれではとても門司城攻略どころではない。
将軍、足利義昭もかなり慌て松永久秀や織田信長を使って和睦を薦めたが結局失敗に終わる。義昭にしてみたら大友と争わず、毛利にさっさと四国を平らげて自分を助けて欲しかったらしい

☆九州遠征以降
その後も北九州の国人達は度々、大友に反抗している。
高橋など国人衆の反抗は宗麟の自業自得な面も多少なりともあるのだが…
秋月も毛利輝元の支援により秋月城奪還に成功し大友を苦しめる事となる

大友も負けじと尼子、山名、織田などと結んだり村上武吉など寝返らせて毛利包囲網を築き上げる

お互い足の引っ張りあいですなw


大友の外交の妙は287に任せます
私も初耳の尼子援助の件についても



うろ覚えで多少年代が前後したり間違ってる部分もあるかも知れない。
その点は面倒ですが個人個人で修正して下されm(._.)m
0292白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/15(月) 00:27:31ID:tge8rmyA
>>287
福島国人の一揆が対等なら、福島は縦社会じゃのうて西日本のような横
社会になったはずじゃが実際そうなっとらん。
http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1602.htm
http://www.seikei2.juntak.net/2006/1115/handout_1115-2.pdf
上のブログは福島、会津若松の街の風景じゃが、下の方に、「東日本は
有力な家を中心にそこに隷属する人たちで構成された社会だ。これに対し
西日本は、ほぼ同じ力を持った人々が連携することで形つくられた社会を
特徴としている。」会津若松では「東日本型の有力な家が点在する形で
残されている」こと。
下の成蹊大学んは、大林太良氏の『東と西 海と山』の引用文であるが、
8/13の「社会組織の諸特徴と長島の分類」630〜680及び右の73
図からも福島は北日本型(本家分家、非血縁序列あり世襲的の東北日本型)
に属する。西日本でも11/13の九州の東シナ海文化圏は、民俗的にも
韓国に近い。ここには出とらんが、九州は横社会の西日本社会の上に、
儒教の影響等、縦型が重層しとるけんのう。
国人一揆でも基盤となる社会が広島の西日本と福島の東日本じゃあ違う。
さっきフジTV系のサキヨミで中国当局対市民ブロガーの特集で中国では
憲法で言論の自由を保証しながら、民主主義国と全体主義国じゃあ
実状が違うよう(まあ民主主義国同士でも共産主義国同士でも国に
よって違うが)、西日本と東日本の社会組織、民族の違いを無視し、
同一社会幻想をしとるんじゃないか?
0293人間七七四年2008/09/15(月) 02:30:24ID:EwE05BwS
>>292
戦国時代と君があげたリンク先の幕藩体制を経ての幕末以降ではまるで違うだろ。

http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/34
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/35
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/36
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/37
0294人間七七四年2008/09/15(月) 09:07:06ID:LmSGwyXo
つか、毛利にとっては尼子と挟み撃ちにされさえしなければ、それで良かった。
主力に損害を出すことなく目的を達成できており、大友に付いた能島は空気読めてない。
0295人間七七四年2008/09/15(月) 12:24:06ID:WVyJ+xBe
能島に関しては大友が提示した豊後水道の帆別銭徴収権欲しさに寝返った説と
独立を維持する為に毛利の北九州進出を阻みたかった説がある。
後者が目的だとすると能島も目的を果たしたことになる。
0296人間七七四年2008/09/15(月) 12:42:04ID:UkghsdpD
>>292
そもそも福島県の地理を理解してないな。
会津・中通り・浜通りでまったく風土も気候も習風も違うのに画一的に考えてるね。
>>288
尼子再興軍を織田が支援するようになったのはずっと後なのを知らないヤツ多すぎ。尼子は大友→山名→山名滅亡寸前で織田と支援先を変えまくってる。
0297人間七七四年2008/09/15(月) 18:09:26ID:uqqr60fX
私は289ですが…

>>296
>尼子再興軍を織田が支援するようになったのはずっと後なのを知らないヤツ多すぎ。尼子は大友→山名→山名滅亡寸前で織田と支援先を変えまくってる。


尼子勝久擁立から上月城で尼子残党滅亡まで信長の援助は受けているから信長は最初と言ってもいいのでは?
尼子再興軍、第一回の蜂起は厳密に言うと
京で信長から援助。→但馬→隠岐島に渡って隠岐為清の援助で尼子再興の激を飛ばし→出雲へ

つまり織田信長→壱岐為清の順となる

頑張ったが九州から戻った両川に破れて京へ(蜂起の期間は約二年。その間に受けたのかな?)

1573年末頃
山名豊国を利用して(援助してもらい)再び蜂起(今度は因幡)
両川が来襲した途端、山名豊国は毛利に内応
尼子残党破れてまた京へ

後はご存知の通り秀吉の元へ行く


大友の事は知らん
いつ頃か教えて下され



丹波衆から支援を受けていたなんて話も聞いた事があるな
0298白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/15(月) 22:45:55ID:tge8rmyA
>>293
戦国時代と幕藩体制を経ての幕末以降?宮本常一氏の指摘される、
東の党と西の一揆との違いじゃ。
「東日本では本家を中心にして大体その周辺に子方(血縁・非血縁を含め)
が集まって住んで小さい集落をなしているものが多い。東日本に見られた
中世武士の党的結合は、こうした集落がそのまま武力化したもののようで
ある。これに対して、西日本では、末子相続や隠居分家にともなって
財産もほぼ同じように分けられることが多いために、相似た勢力のものが
集まって住む場合は、お互いの結合をつよめるたまには合議が尊重せられる
ことになる。こういう結合様式を一揆とよび、肥前地方に中世初頭以来
根をはって大きな勢力をもった松浦一揆はその典型的なものであろう。
その寄合の席や署名の順序はすべてクジ引きによってきめている」
東国武士団の西国移住や、逆に北畠氏等西から東へ移住した者のおって
東国の主従制と西国の合議制は、相互影響しとるが、建前で先祖以来の
慣習を持ち込んでも、その土着地域の慣習が優勢になる。
ほいで、あんたが挙げた「兵力や戦果捏造しすぎだろう。」は、
書いとる者自体(あんたか?)捏造じゃないか。元就死去時の石高?
秀吉の検地以前に石高たあ何なら?九州ハッタリ文書の多々良浜の戦い
なんか、南北朝期の多々良浜の戦いに似せて造った創作じゃろう。
>>296
福島の相馬ライン、二本松ライン、一番内陸の会津の、どこが違うんか?
地主と小作人の住居が、芸備地方並みに同等な地域でもあるんか?
0299人間七七四年2008/09/16(火) 05:57:43ID:95p1CVOf
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1197266689/454
福島の傘連判について書いてあるな。
いくら否定しようとしても平等な一揆契約があった事実は消せないだろう
0300白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/16(火) 23:49:47ID:Y7ZaQLIv
>>299
秀吉の検地以前の石高制たあ何なら?福島各地域の地主と小作人の住居は
どうなら?わりゃあ、わしの質問にゃあ答えんのう。
また、>>293の繰り返しか。福島の傘連判状は形式上、西日本の合議制を
まねただけじゃろう。>>292で云うたよう、その風土地域の基盤となる
社会組織から考察せにゃあ、実例とならんど。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mt_isika.html
奥羽石川氏の場合、●奥羽の戦乱「応永十一年(1404)稲村公方
足利満貞と篠川公方足利満直とに忠誠を誓った傘連判状が交わされた」
と出とるが、西日本の合議制を採り入れながら、忠誠を誓う親方子方
主従制の東日本型の基盤の強さが見られる。風土地域による基盤を
無視して、一揆契約云う書かれてあった建前と実際を混同しても
意味はないど。あんたの論じゃあ、中共は西側民主主義国と同様言論の
自由を認めておるけえ、両者の社会は同一じゃった云う空虚な論理と
同じになるわい。
0301人間七七四年2008/09/17(水) 00:25:38ID:hjLbYUUa
>>297
横からなんだけど
信長が京都に入ったのが1568年10月。
1568年に尼子はすでに隠岐に潜伏して機会をうかがい
1569年に出雲に進出してる。
信長はというと1569年1月には三好の反撃を受け、畿内や伊勢で戦ったりと
忙しいんだけど。
この時系列で信長は尼子にどんな支援をしたの?
信長が上洛前に美濃にいた時点で西国の尼子の為に支援をしたって事?
教えて欲しい。
0302人間七七四年2008/09/17(水) 02:32:27ID:u4xeoEXo
美作三浦氏は大友宗麟から鹿介経由で塩硝を援助してもらい(1569年?11月19日の書状)、
宗麟に使者を派遣して高田硯を贈っている(1570年)。

1569年2月(6月?)高田城落城、三浦貞盛自刃。香川光景と牛尾・安達等元尼子家臣が入り、城兵五百程度。
7月尼子勝久旗挙げにより尼子旧臣の多い城内は動揺。
8月10日九州から香川春継百八十騎が帰国入城。
宇喜多加勢三千騎、三浦勢千余人が布陣。城内の尼子旧臣の一部が内応するが露見。
10月5日三浦勢が高田城下で合戦、玉串討死。後方の宇喜多勢は参戦せずそのまま引き揚げ。
1570年10月尼子加勢により高田城奪還。
三浦貞広は出雲尼子氏の元で育った。三浦勢の主将は三浦重臣の牧尚春と美作中部の国人(田口氏一門、本来は
三浦家臣ではない)玉串昭則の二人で両人ともかつては尼子に従軍し各地の合戦に参加した経歴の持ち主で
千の軍勢も三浦単独と言うより周辺の尼子残党をかき集めた感じか。
その後も周辺大名が毛利や織田に飲み込まれて次々滅んで行く中、六年間抗戦し続け降伏後も貞広の命は助かった。
北九州〜毛利包囲網においてはある意味利益の大きかった人物のひとりかも。
0303人間七七四年2008/09/17(水) 02:51:15ID:LNVT17jm
>>297はゆとりだから許してやって下さい
0304人間七七四年2008/09/17(水) 10:39:03ID:LkQiRXbY
京都で尼子勝久擁立の時(立原だったか山中だったか?)がたしかに信長の援助にこぎつけてるハズだけど詳しい人は教えて下され
0305人間七七四年2008/09/17(水) 20:03:55ID:JAroiz94
宗麟は義輝に火薬の書だかを献上し
それを義輝が謙信に与えたりと
外交を重視してるよね
0306人間七七四年2008/09/18(木) 10:03:50ID:OplkBAX2
義輝が謙信に与えたのは、宗麟の功績とは関係ない

宗麟の拡大策は伊達稙宗のそれと似ているような気がする
0307人間七七四年2008/09/19(金) 21:12:36ID:mcQEyxec
>>304
それは天正の頃では?
0308人間七七四年2008/09/20(土) 00:58:13ID:lduFbOrc
>>300
福島の傘連判状は形式上、西日本の合議制を
まねただけじゃろう←どうやってマネるんだ。伝播経路は?

1410年の一揆契約では
そもそも公方の事においては五郡談合の儀を以って沙汰せられ〜
と記されていたように
各郡の代表者が談合して公方の事を処理すると言っているように
一揆メンバーは公方に対しても自立した存在であった。

しかも篠川も稲村御所も設立間もないもので実権の無い飾りであり
白川結城氏の後ろ盾がなければ無力な存在である。
当初は伊達も御所を助ける予定だったが関東管領が「郡を献上しろ」と言われ離反している。
名目的に御所を利用して、伊達・白川・結城・葦名ら大国に一揆メンバーが対抗する道具や手段にしていたに過ぎない。
0309白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/26(金) 01:27:32ID:vqo6CnYd
>>308
西日本において摂津源氏と河内源氏はどちが本家なら?
西日本は横社会で、関東へ行くと本家・分家と宗族制の強い社会になる。
>>300でも東日本の縦社会の「忠誠」云う隷属性よ。
ほいで、>>298の後半の文の答えは無しか?早う答えんかい。
0310人間七七四年2008/09/26(金) 05:40:41ID:jNnYSejy
>>309
>>308で完全に論破されてるのに、それには反論できずに
戦国期とまったく関係ない話に必死にすり替えるなよ。
0311白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/26(金) 23:47:06ID:vqo6CnYd
>>310
結局、>>298の秀吉の検地以前の石高制や福島県下における各地域の
地主と小作人の住居についての質問に答えとらんじゃないか。
答えられん云うこたあ、完全におどれが論破されとることになるんど。
>>308も、>>300のよう公方に忠誠を誓った縦社会における小勢力の対等勢力
豪族間の連帯じゃ。 
戦国期を考察するにゃあ、前後の時代や地域的差異も考慮せにゃあ
始まらんよ。関係ない話云うんはわれの都合に過ぎん。
0312人間七七四年2008/09/27(土) 00:31:19ID:sDR2AuCZ
>>311
>>300に出てるリンク先は講談話や伝承、本庄などのなんちゃって記録なども引用してるサイトじゃねーかw
そんなの持ち出して素人か?

一揆契約は公方に忠誠など誓ってないわ。
公方からの指示や交渉事もすべてみんなで相談して返事を出すってことだ。
0313白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/27(土) 01:32:11ID:UW6MWcZS
>>312
引用を持ち出して不都合でもあるんか?歴史学を考察するんに素人も
玄人もないど。戦国時代を考察するにゃあ、日本古文書から、明の史料を
読めること、更にポルトガル語の原文を読めて、オランダ語
(低地ドイツ語)英語の原文を読んでこそ判ったつもりになるんか?
仮に全部こなせる人間がおっても、ようは、事例をどう解釈するかの
問題じゃろうが。文献史学だけ、かじったけえ解釈できるわけもない。
文化人類学、考古学等、様々な見解から全体的に判断するんが学問じゃ。
伝承にインチキが多いとして、政治権力に関連する公式文書なら事実を
隠蔽するインチキが更に多かろうに。 
研究室で専門分野の勉学に励む机上の空論の馬鹿学者が専門知識で
能書きを云うても、全体的視野に欠ける連中は、ゼロに100掛けても
結果はゼロじゃ。専門家崇拝も東日本的思考者じゃ云うことを現しとる。
学問でも他者との喧嘩でも、戦場でも、視野が狭うなったら負けるど。 
ほいで、一揆側が忠誠を誓わんかった根拠たあ何なら?一揆契約側の
武士団の主従組織形態国人領主と国人衆は、東日本的同族縦社会か
西日本的横型合議制か?
0314人間七七四年2008/09/29(月) 05:28:28ID:SWVlWPeu
>>313
そもそも>>299のリンク先の一揆の参加メンバーに石川氏は入ってないのに、関係ない石川氏を引用して何を喚いてるんだか理解不能…
0315人間七七四年2008/09/29(月) 12:51:05ID:no5StSiD
白馬青牛←こいつくだらない能書きタレてる低脳だからスルーしろって。
0316白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/09/29(月) 23:36:55ID:YDoutQ2+
>>314
馬鹿たれじゃのう。>>300で東日本の縦社会の基盤部分を指摘したんで。
じゃけえ、東日本的社会において、合議制傘連判状が文書による
建前か、東日本でも福島に横社会が文化習俗において痕跡があるか
どうかの問題じゃ。じゃけえ、何度も云うが、福島の社会組織に
もたらされた伝統たあ何なら。
>>315
われが自分個人の見解で、一人でスルーするんならええが、他者に
ねんだくるもんじゃあるまい。わしにかばち垂れるんなら>>314氏に
間接的に云わんで、わしに直接云わんかい。ほんま軟弱者は、姑息な
まねをさらすのう。
0317人間七七四年2008/09/30(火) 00:48:52ID:KeCRuebA
毛利輝元の家臣団も西国は横社会ゆえ主家に忠誠の気持ちはまったくなかったってこと?
赤穂浪士の大石内蔵助らも主家に忠誠心なかったの?
意味わからんのだけど…
0318人間七七四年2008/09/30(火) 06:40:11ID:G0acYVcm
>>316
毛利厨て馬鹿ばっかりw
0319人間七七四年2008/09/30(火) 09:16:59ID:0/lhG7WZ
>>318
古参にそういう煽りは無意味だよ

まあ統一検地の前に石高で比較することや
身分制度が曖昧な時期に小作だ足軽だと線引きするのは無意味だよね
一揆契約とか物騒で景気のいい言葉だけれど、
実体は庄屋さん連合だったり惣や講、檀家さん氏子連の延長という
地縁に依ったものが基本だったりして、規模によりけり。
士農工商を下敷きに考えると戦国時代は測れないよね
0320人間七七四年2008/09/30(火) 09:19:26ID:lvprvlus
朝日ソーラーじゃけんのぉ〜w
0321たられば君2008/09/30(火) 09:36:41ID:0/lhG7WZ
菅原文太は宮城県出身
0322人間七七四年2008/09/30(火) 10:30:30ID:lvprvlus
つまり広島には誇れるものが何もないとw
0323白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/01(水) 00:20:41ID:ikTQaLkr
>>317
赤穂浪士で、討ち入りしたんは46〜47名に過ぎんよ。それ以前の常陸
真壁系義士も多いけえ、東日本的縦社会の影響を無視すなや。
西日本でも、男色関係なら忠誠より愛情の強弱の問題じゃろう。
>>322
広島は、横社会の指揮官のこまかい指示を待たず行動できる独立心の強い
強兵を産んだ地域じゃけえのう。他地域の弱兵と違う自負は持っとるよ。
0324奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/01(水) 00:46:44ID:zhu8upgf
なあ、お国自慢は他でやってくれんか。
0325人間七七四年2008/10/01(水) 01:00:23ID:4HH0z818
>>317
>>323
西国東国云々以前に、近世大名で、しかも江戸期に成立した赤穂藩浅野氏と、
国衆一揆の盟主から成長した毛利氏と同列に論じるのには無理があると思う。
家中形成に至る経緯がまるで違う。

家臣同士(例としては子息の吉川氏と石見益田氏)に相互盟約させ、
その上位権力として「馳走」させる立場にいたのが毛利氏なわけだし。

0326白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/01(水) 01:51:50ID:ikTQaLkr
>>324
あんたのエリア美濃・尾張は美女を産出するにしても、食は不味い、
秀吉のような馬鹿権力者を産出するぐらいのことじゃ。お国自慢も
出来んのじゃろう。
>>325
マルクス史観の時代を縦に見る発展段階説か。そもそも西日本と東日本を
同一社会と観る認識がこの板の馬鹿たれに多いのう。>>292でも
云うたよう、東西日本は、相互影響があるにしても別社会じゃ。
赤穂浅野氏の例を挙げたんは、>>317氏ど。
子息の吉川氏が家臣?上下関係のみで脳内妄想する東日本人らしい解釈
じゃのう。
0327人間七七四年2008/10/01(水) 02:29:58ID:4HH0z818
発展段階説とか東西の社会体制の差異とかそういう問題じゃないの。

浅野氏のような、秀吉政権によって取り立てられた(所領を与えられた)大名(赤穂
藩の場合は浅野長政の隠居料を相続して成立)と、在地の国人領主の盟主から
戦国大名として成長した毛利氏とは、大名権力を形成するに至った経緯がまるで
異なるわけ。
吉川氏は当主の一族であり、家臣とするにはやや語弊があったかも知れないが、
益田氏は吉川氏と相互盟約を結び、その過程のなかで毛利氏を上位権力と
して認め、最終的に輝元をさして「屋形様」と呼ぶ関係になっていったことを留意
しておく必要があるということ。

あと余計なお世話かもしれないが、この方言は読みにくくてかなわないので、
せめて標準語でお願いしたい。


別に東西の差異については、網野善彦なども言及しているし、それについては
とくに言及したつもりはないが。
0328人間七七四年2008/10/01(水) 05:43:16ID:mxnLrRjs
牛みたいに広島最強という結論ありきで考えてるやつには何を論じても無駄
0329人間七七四年2008/10/01(水) 07:06:53ID:hSOW49Bi
>>327
この基地外の牛は東西の違いを戦国や幕末や明治にまで言及してるんで
浅野と毛利は成立過程が違うなんて言い訳はできない。
だいたい何でもかんでも東西の違いを振りかざして事実を歪曲する。
そのくせ矛盾すると、その言い訳が男色愛情とか、せいぜい浅野家臣真壁血統たった47人程度とかむちゃくちゃ恣意的かつ自己中な事を言いやがるw
0330人間七七四年2008/10/01(水) 11:12:23ID:/1GCc7/+
牛は広島マンセーしたいならお国自慢板に行けばいいと思うよ
0331人間七七四年2008/10/01(水) 14:04:15ID:7X5jMzlu
こんなキチガイはお国自慢板でもお断りします
0332人間七七四年2008/10/01(水) 20:35:27ID:L3uFQOoK
牛は相変わらず恥を晒し続けてるな
0333人間七七四年2008/10/01(水) 20:46:41ID:tR4ELyRt
東西論ならあれが有名

西の城は瓦や近代装備が結構多いが東の城は土嚢が殆んどとか
0334人間七七四年2008/10/01(水) 21:07:33ID:hSOW49Bi
>>333
具体的に書いてくれ
0335奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/01(水) 22:59:12ID:sCinEhFY
オレの言いたいことは>>330が言ってくれたから去る。
0336白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/01(水) 23:52:39ID:ikTQaLkr
>>327
山内氏が輝元に対し、人質を出し渋ったり、検地に協力的じゃないけえ
輝元は「殿下の御下知」と秀吉の権威を借りる始末で、九州出兵にも
出動が遅れ、秀吉から「家臣の言いなりになるけえ、「諸事手遅」じゃと
叱られたけんのう。国衆の城下集住も進まんかったけえ動員に遅れる。
安芸、備後の国衆は、毛利氏に同格意識が強かったけえ、統制力が
弱い。じゃけえ、輝元を権威付けする為、業いったんじゃ。
後藤陽一氏は、「信長、秀吉らがあまりにも強固な封建制をつくったから、
徳川幕府が続いて近代化が遅れることになってしまった。歴史に『もし』は
許されないが、毛利氏のように旧豪族の家臣らの主体性を尊重した
緩やかな方法を採った大名が天下統一していれば、日本の近代化は
もっと早くできただろう」と云われる。
ほいじゃが、西日本の合議制尊重で、天下は難しい。隷属縦社会の東日本型
じゃないと、兵力の動員が常時可能じゃないし、合議尊重型は、共通利害が
ないと組織が解体、解散する方向に進む。毛利も輝元の時代にその芽は
出とる。権威権力の強要は、国衆からしたら偉っそにすなじゃ。
隆景さんが亡くなってからは、毛利中枢部もガタがきたけんのう。
例の石見の益田氏は、慶長四年、領地の配置替えのうわさが立った時、
自分はかねてから妻子を広島へ置いとるゆえ、配置替えになっても益田
付近をと、輝元に訴えるぐらいじゃけえ、温順な方じゃ。
石見人はぶい(純朴)なところがあるけえのう。
0337白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/02(木) 00:06:29ID:euzHxKv0
>>329
抽象的に事実を歪曲しとるん云うて、言い訳に終始しよるんは、
おどれら糞外道合唱団じゃ。>>330-335どこの板でゆうても、
わしの勝手じゃ。
0338奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/02(木) 00:09:40ID:7Yz5KpCT
そうか。自分で無駄な叫びと認めたんだな。んじゃそれでいい。
0339人間七七四年2008/10/02(木) 00:27:33ID:kcfU3O7H
牛さんがいろんな資料を調べたりして博識なのは十分分かった
でも>>328の人が指摘してるように結論ありきなんだよね
都合のいい資料だけを摘んで最初から決まった結論に近付けてるだけで
そんなに郷里が素晴らしさを伝えたいと思うなら別のやり方があると思うけど
0340人間七七四年2008/10/02(木) 00:28:54ID:kcfU3O7H
>>339
郷里が×
郷里の○
0341人間七七四年2008/10/02(木) 01:35:18ID:9cdF/edF
糞牛が地元大好きなのはわかった
だからお国自慢にいくか、自分の日記帳に書くか、その糞汚い方言をやめて標準語を憶えるかしろ
互いに意志疎通を心がけてる中で一人わけわからん言葉で喚いてる奴がいたら滑稽だろう?
0342白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/02(木) 01:37:10ID:euzHxKv0
>>338
わしゃあ、わしがどう云おうとわしの勝手じゃ云うただけで、「無駄な
叫び」を云うんじゃ、ゆうた覚えはないど。勝手に捏造すな。
>>339
ほいじゃあ、あんたが、わしにとって都合の悪い資料を提示すりゃあ
ええじゃないか。結論は事例から考察したもんじゃし、過程がないと
結論が出るわけあるまい。わしの言で郷里を誇る部分だけ、摘んどるんは
あんたど。
0343人間七七四年2008/10/02(木) 01:57:40ID:dnzfr9fM
>ほいじゃあ、あんたが、わしにとって都合の悪い資料を提示すりゃあええじゃないか。
>結論は事例から考察したもんじゃし、過程がないと結論が出るわけあるまい。

全くもってその通り、なのでレスとか読みたいので口語と文語を分けてくれないか?
本気で読めない

つか>>336の後藤氏のは極論では?
毛利の体制が合議制なだけで、西日本だからとかは違うような希ガス
国人一揆の域を出なかったと言うだけでね

つか封建制は地方分権的な体制で、どちらかと言えば毛利みたいな国人一揆に当てはまるのでは?
信長や秀吉が行ったのは中央集権体制で、これは封建制度とは間逆と思うが

この辺りは詳しくなく誰だっけかの論文の受け売りだから、正しい認識かどーかは定かではないのでお手柔らかにw
0344人間七七四年2008/10/02(木) 12:17:57ID:Pmj745Gg
ここは荒らしに構いまくってみんな染まってるスレだな
0345人間七七四年2008/10/02(木) 16:15:59ID:gLdhVXX9
そもそも下記文章を牛が、
いや公方に一揆の者達は忠誠を誓ったと主張して歪曲してるのが原因。
しかも関係ない石川氏を紹介するサイトを持ち出す。

1410年2月奥州海道五郡の岩城・白土・好島・諸根・相馬・北口・松口・富口・楢葉・標葉らの傘連判状の一揆契約では
「右条の者は大小の事について堅く相互に見継がれ申すべく候、公方(関東公方)の事においては五郡談合の儀を以って沙汰せられ、私の所務相論は是非に任せてその沙汰あるべく候」
と記されていたように
各郡の代表者が談合して話合いして、公方の事を処理していくと言っているように
惣村のように一揆メンバーは公方に対しても自立した存在であり、個々が勝手に公方と主従関係を結ぶことを禁止してるような文面だ。

これを牛はどう読んでるのか不明だが、稲村・篠川御所に忠誠を誓った主従関係を証明するものだと基地害論を展開してるわけだ。
0346人間七七四年2008/10/02(木) 19:38:41ID:Pmj745Gg
それも北九州攻防に何ら関係ないし
0347白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/02(木) 23:35:35ID:euzHxKv0
>>343
封建制を、軍事農奴制の面で見るか、地方分散の領主の土地所有として
見るか云うことじゃ。封建制は領主による主従、農奴(自由民はおっても)
の強固な縦関係と云う意味で、後藤氏は、強固な封建制とされる。
合議制は、横関係ゆえ強固な封建制から離れた存在じゃ。
>>345
石川氏の事例からも東日本隷属縦社会の濃厚さが見てとれるが。
ほいで、奥州海道五郡の傘連判状を構成した国人衆は、国人衆の分家や
小豪族に対しても対等に近い関係じゃったんか?しかも現在の福島に
おいての合議制の影響たあ何なら?現代に及んでないなら、合議制も
疑わしい云うことよのう。わしの質問にゃあ全然答えんで、妄想を
繰り返す基地害論はどっちかいのう。
0348人間七七四年2008/10/03(金) 00:10:18ID:fy1VjjZh
>>347
君はスレタイも読めないの?
0349人間七七四年2008/10/03(金) 01:29:55ID:4FD8N4En
臼杵鑑速>小早川、吉川
0350人間七七四年2008/10/03(金) 01:32:58ID:4FD8N4En
訂正:
臼杵・戸次>>小早川・吉川
0351奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/03(金) 01:40:06ID:5BKmQlIg
間に立花・高橋が入ると逆転してしまう不思議な不等式だな。
0352人間七七四年2008/10/03(金) 08:12:26ID:pr+WKac6
>>347
まだここで続けるなら、せめて中国・九州の比較とか、
毛利・大友の分国支配の比較とかにしてくれ。
0353ばにら ◆Love.O3z8w 2008/10/03(金) 22:06:09ID:IrpoW+vW
難しそうな言葉並べて「俺カコイイ」したいだけで
大した中身じゃナイ事もスレ違いなのも把握した♪
0354人間七七四年2008/10/04(土) 00:52:09ID:vvDiJKYV
白馬青牛って基地害だろ?
まず結果がありきで
文意を無視しまくりだろ
0355奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/04(土) 00:58:39ID:ViQgGqI0
いや、自論を展開するスレッドを間違えてるだけだ。
0356人間七七四年2008/10/05(日) 09:27:45ID:xhEgYiUa
このスレの最初の方を見れば分かるが、牛は大友方の資料は根拠が無いと言いつつ、毛利方の資料は盲目的に信用してる奴だからね
0357人間七七四年2008/10/05(日) 21:17:04ID:CP+o3l2I
でも多々良浜の捏造は酷いよな
0358人間七七四年2008/10/05(日) 21:45:20ID:mHksUOYa
>>357

>>多々良浜の捏造

詳しく。

0359人間七七四年2008/10/05(日) 23:26:09ID:CP+o3l2I
自分で調べろ

時期、期間や後の軍の動きをみるにありえんだろが
0360人間七七四年2008/10/05(日) 23:53:21ID:Joj86gKf
>>356
だったら史料批判すればいいんじゃないの?
0361白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/06(月) 22:46:05ID:JGI10TUh
>>352-356
九州のホラ吹き文書なんか。九州は、近代においても、南京事件における
虐殺も隠蔽、第二次長沙作戦で中国国府軍に敗北したことも隠蔽よ。
>>292の下の79図のように東シナ海文化圏の東シナ人じゃけえ、
儒教朱子学の影響の強いせいか、我々大和民族と異なるけんのう。
まあ、九州人の文書は白髪三千丈、隠蔽とホラ吹きが混じっとると考察した
方がええじゃろうのう。
>>358
多々良浜の戦闘なんぞ、南北朝期の多々良浜の戦闘を手本にしたホラ吹き
類型物語に過ぎん。多々良浜で立花文書が如き戦闘があった根拠すら
乏しい。
03623582008/10/06(月) 23:24:53ID:SOGSlv78
>>361

教えてくれて、ありがとう!

多々良浜の毛利家の活躍を鵜呑みにしていたよ。
0363奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/06(月) 23:26:52ID:Zy8aiRQk
ホラというからには史料批判や比較がこのあと展開されるんだろうな。
0364白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/07(火) 00:26:58ID:1aiNYDgg
>>363
史料批判云う用語も、ランケ流実証史学の用語じゃろうに。
史料批判する側は個人の見解で、共産主義者の云う神の視点による
考察じゃの科学的じゃの客観性なんか無いのに、あたかも実存する
が如く捏造する。
ほいじゃあ聞くが、陰徳太平記における類型説話は元ネタたあ
何なら?物語構成は如何に作成されたんか?
0365人間七七四年2008/10/07(火) 05:38:06ID:zRgegnV2
ということは文化圏の違いって一点だけで毛利側の資料は信憑性があって大友側のは無いって判断してんの?
0366人間七七四年2008/10/07(火) 20:56:48ID:HyPMNp7A
>>361
広島弁はやめてくれ!
広島県人として見てて恥ずかしいから・・・。
0367奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/07(火) 22:47:18ID:+FitOz5Q
後世から歴史を振り返る場合。
神の視座に立つなり説話に拠るなり特定のイデオロギーに拠るなりの立脚点がある。
客観性には差があるだろうが、所詮は他人事だし。

>>364
どの部分がホラなんかおせーて。オレは無学だからわかりやすく頼む。
0368白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/08(水) 01:47:23ID:ynY2iChm
>>362
嘘吐き多々良浜の毛利家の活躍云うて何なら?>>365
文化圏だけじゃのうて、>>361で云うたよう、郷土戦記でも、
地域によって隠蔽を好む地域があるけんのう。
>>366
わりゃあねんだくるなや。広島県人として広島弁を恥じる馬鹿は、
郷土制を馬鹿にして喜ぶ癖でもあるんかのう。
>>367
神の視座たあ、大衆を洗脳する形態で、大衆云う非理性的存在と比べ
自分達は理性的神の視座を持っとると妄想する連中に愚弄しただけじゃ。
後世から歴史を振り返る場合、特定のイデオロギーなりの立脚点云うて
何なら?後世じゃのうても、戦前大本営発表の放送は第一次史料で
真実を述べたことになるんか?大本営発表じゃあ米軍に
勝ち続けた日本軍がなんで無条件降伏したんか?
当時の九州の文書のどの部分がホラじゃないと確認出来るんか?
文書の正当性は、考察する側の個人的推論に過ぎん。
確認出来ん以上複合的な根拠から信憑性を求める以外ない。
九州の文書、島津氏の泗川の戦いを額面通り受け止めることも出来まい。
無学以前にあんたが、九州側の根拠の妥当性を提示すりゃあええじゃ
ないか。複合的根拠から。
0369人間七七四年2008/10/08(水) 06:03:29ID:rKL65RnL
毎回、質問に質問で返して解答をしない自分の世界の住人バカ牛の相手をするのは時間の無駄。
0370人間七七四年2008/10/08(水) 11:21:35ID:Auxgkubj
つーか、完全にスレ違いの質問返しはやめてもらいたいもんだ W
0371人間七七四年2008/10/09(木) 09:29:08ID:sbM+Kf/m
YOUたち、まだ白馬青牛の相手なんてしてんの?
さっさとNGにしちゃいなYO
0372人間七七四年2008/10/09(木) 18:44:54ID:QVvv5/I1
知識はあっても知能がない
議論がしたいのではなく自分の意見を垂れ流したいだけ
あおうしはそんな人間の見本
0373人間七七四年2008/10/09(木) 19:29:51ID:WyAe66T7
もう十分だろ

つかageないでくれる?
0374人間七七四年2008/10/09(木) 22:56:57ID:ZrJKyjBL
虐殺されて慌て九州から逃げだしてやんのwwwwwwざまあwww
0375人間七七四年2008/10/09(木) 23:56:13ID:WyAe66T7
ageんな
0376奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/10(金) 23:36:16ID:T1Id8sfo
杉氏と立花鑑載・高橋鑑種は気になる。詳しく知らないだけに。
0377白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA 2008/10/11(土) 00:42:49ID:PqgyMQcV
>>374
誰が九州の弱兵に虐殺されたんか?ハッタリ、ホラ吹き、虚言癖は
九州人の特質じゃが、田舎者は、九州島に引っ込んどれ。
0378人間七七四年2008/10/11(土) 03:26:47ID:ztXafk6J
馬鹿牛?
0379誘導2008/10/12(日) 16:08:51ID:cMc8x9+e
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1202371477/
0380人間七七四年2008/10/12(日) 22:44:43ID:EXpxDs3j
>>374
毛利厨の広島人だが反論出来ない
0381人間七七四年2008/10/13(月) 01:45:38ID:eJyp4VQY
たんなる戦略的撤退だろ
0382人間七七四年2008/10/20(月) 19:29:53ID:8jxymBuI
戦国地図帳って本をコンビニで立ち読みしたけど
16世紀末の地図で豊前は毛利領になっていた
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