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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう

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0001人間七七四年2007/02/22(木) 14:14:40ID:DFbOxH4O
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。

それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。
0002人間七七四年2007/02/22(木) 14:22:18ID:s38pT0oT
立花道雪が吉川元春、小早川隆景の率いる毛利軍相手に勝利したのって、多々良浜の戦いだっけ?
勝ったとはいえ両川を撤退させるほどのものではなくて
大内の山口乱入まで膠着してたようだが。

他に道雪が毛利の両川と直接対決した戦いってあるのかな?
それともちょくちょく戦ってる?
0003人間七七四年2007/02/22(木) 15:04:44ID:X3Yk6Cxa
( ´゚ω゚` )
0004人間七七四年2007/02/22(木) 15:38:50ID:jSwprS5l
大友家臣団は毛利の調略で離反しまくりですね。
国人をなびかせる為に各家とも婚姻など相当苦労したようです。
0005人間七七四年2007/02/22(木) 15:45:37ID:ecRUS6e9
しかし、宗麟はあっさりと弟を見捨てたね。
まあ、九州での地盤を固める方が大事だったんだろうな。
0006人間七七四年2007/02/22(木) 15:50:04ID:BBvlhdB9
せっかく並以上の息子が3人も居たんだからうまく使えばよかったのにね!
備前や四国や九州遠征にいちいち元春、隆景コンビで行くので他が手薄になっちゃう。
0007人間七七四年2007/02/22(木) 17:20:34ID:D2sBAY0o
それは裏を返せば、毛利家は人材不足だったと言うことかい?
0008人間七七四年2007/02/22(木) 17:39:47ID:Pt2CB0H1
毛利家は人材不足だったよ
領土の広さの割に石高が低くてしかも元就の失策で多方面作戦していた
0009人間七七四年2007/02/22(木) 17:42:25ID:DFbOxH4O
毛利は九州からさっさと撤退して東へと目を向けるべきだったね。
九州に構ってる間、大内や尼子の旧臣に反乱起こされてるし
結局元就死後撤退してるし、無駄でしかなかった。
いくら博多の経済力は魅力とはいえ。

結局元就は室町幕府的な発想から抜け出すことができなかったんだな。
0010人間七七四年2007/02/22(木) 17:47:48ID:K+Bk7TU0
成りあがった毛利家の体質はガチガチの豪族連合だからな。
彼らの利害やら利権でがんじがらめになっているわけで・・。
0011人間七七四年2007/02/22(木) 17:54:40ID:wwaQ87NB
この争奪戦
戦略的には大友の勝ちって事でよろしいですか?
0012人間七七四年2007/02/22(木) 21:28:19ID:gSmHlwUx
中国の痩せた土地を考えれば博多に目がくらんでも仕方ない♪
0013人間七七四年2007/02/23(金) 00:12:49ID:VfjGe/cB
出雲に鹿之介が侵入すると、すかさず山口に大内輝弘を攻め込ませて、九州から毛利勢を撤退させた大友宗麟の智略も評価されて良いと思う。
対大友戦は毛利の負けでしょう。
0014白馬青牛2007/02/23(金) 00:38:25ID:1thryCDx
>>2
ほうよのう。多々良浜の合戦云うんはあったんか?じゃ。
立花文書の創作じゃないんか。立花城は陥落し、
大友勢は負けとるんじゃに。
>>13
大内輝広さんが反乱されたゆえ、九州から撤退せにゃあいけんかった。
まあ、大友軍がガチンコじゃあ毛利軍に勝てんけえのう。
0015人間七七四年2007/02/23(金) 06:23:20ID:rs6EMRTq
銀山だけで我慢しておけばよかったのに
0016人間七七四年2007/02/23(金) 12:25:49ID:vhydxx9M
大友は大内滅亡に乗じて本州に攻めあがれなかったのかな?
毛利はいまだ尼子抱えてたのに
逆に門司を押さえられちゃったんだっけ
毛利も隆元存命してたら撤退はなかったかもなー
0017人間七七四年2007/02/23(金) 14:01:09ID:VfjGe/cB
元就が死ぬ数年前から毛利は結構厄介な状況になってるな。

九州では大友と敵対

周防においては大内輝弘が大内残党率いて蜂起、山口を奪い。

出雲伯耆などでは、山中などの尼子再興軍が一時は月山冨田城を囲むほどの勢い。
また美作も高田城が包囲される。

山陽だと備前の浦上宇喜多が毛利と敵対し、備中の毛利領を攻撃し、備後でもそれに
呼応するものが出てくる始末。
また四国の阿波三好も浦上に協力して備前へ進出。

更に村上武吉が大友に寝返るという状況。

それに対し元就は九州を放棄して大友と講和、領内の一揆反乱を鎮圧、義昭信長に要請して
浦上宇喜多や三好を背後から牽制させようとする。(このときの信長は応えられる状況にない)
そして尼子再興軍をなんとか出雲から追い出す。

ここで元就はタイムオーバー
浦上宇喜多を降服させ尼子軍を駆逐して備前因幡まで制圧するのは輝元。
まあこのあと三村浦上の離反でまた大変になるんだが。
0018人間七七四年2007/02/24(土) 00:09:06ID:pFO2awy6
>>16
そもそも大友宗麟が弟の大内義長に援軍を送らなかったのは
毛利が九州の大内領を大友方に渡す約束をしていたからみた
いだね。
で、信じきってたら門司城を攻め取られちゃったてのが発端。
0019人間七七四年2007/02/24(土) 21:39:08ID:ktmq51DH
勇戦・多々良浜の戦い
1569年、立花城を陥落させて意気上がる毛利軍は4万の兵で多々良川を渡河して対岸の大友軍3万5千の陣地に対して攻撃を開始した。
毛利軍は多々良川を渡河して大友軍陣地に波状攻撃を仕掛けた。瞬く間に戦線は拡大していったが、兵力で勝る毛利軍が優勢だった。

このとき、道雪は毛利軍・小早川隆景隊左翼備えの兵力の幅の無さを見て取り、鉄砲隊800をもって一斉射撃をして前線に穴を作った。
その穴に立花隊5千を突っ込ませて毛利軍陣地を突破すると、さらに背面展開を始めて毛利軍の長蛇の陣を包囲攻撃して後方に後退させた。
さしもの毛利軍も後方の簡略陣地では勢いに乗る大友軍の総攻撃を支えきれずに撤退していき、立花城は戦後に大友軍に明け渡された。

この一戦以降、道雪は九州から中国地方にまでその武名を轟かせた。
0020白馬青牛2007/02/25(日) 00:14:59ID:G/SFq6gn
>>19
1569年(永禄12年)4月下旬に元就さんは諸将を集め、5月1日から
立花城を攻撃し、5月3日立花城が陥落し籠城兵の命を助けたんじゃ
ないか。攻城戦をしとるんじゃに多々良浜で野戦した云う根拠は何処に
あるんか?立花城が毛利軍に陥されてとるんに、撤退する訳もない。
撤退したんは大内輝広さんが反乱された為じゃ。ほんま九州の人間は
儒教朱子学の影響か、白髪三千丈のホラ吹きでハッタリ虚勢を張るんが
好きじゃのう。
0021人間七七四年2007/02/25(日) 00:17:31ID:mKAbv5mg
時々でいいので、大内さんと一時は互角に渡り合っていた少弐氏も思い出してあげてください・・
0022人間七七四年2007/02/25(日) 13:43:40ID:Qzfk8lSp
>大内輝広

大内輝弘な。
それを山口に送り届けた(鉄砲玉?)のは、大友家の水軍、若林鎮興。
検案したのは、豊後の三老、吉岡長増。
0023人間七七四年2007/02/25(日) 13:59:24ID:SnYca5Et
遠藤周作の小説で読んだ
0024人間七七四年2007/02/26(月) 14:16:17ID:pwt9WtiV
それぞれのスレのスレ立て日時に注意

【西国】 毛利 vs 大友 【大攻防戦】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1172070942/
               ↓
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/

【関東】川越夜戦【分け目の決戦】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1172072178/
              ↓
河越夜戦の真相を探る
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172125964/
0025人間七七四年2007/02/26(月) 14:21:02ID:jVuO2f4K
最初の九州への出兵は北九州沿岸を押さえることで、本州の旧大内領への大友の介入を阻止するのと
瀬戸内水軍を日本海側へ廻し、対尼子戦に投入するのが目的
見事成功し、月山冨田城への海上封鎖・兵糧の輸送も可能になり長期的な包囲が可能になった

二度目は博多の経済力目的
0026人間七七四年2007/02/26(月) 15:48:32ID:UQ4IA1Hb
多々良浜の合戦って、毛利両川VS大友(道雪参戦?)と聞くと華々しいけど、両軍入れ乱れてというより、小手先の合戦を何度か繰り返しただけでしょ?
0027人間七七四年2007/02/27(火) 14:00:13ID:de1Aq1YS
博多を占領したとしても維持が難しいよな

大友との争いはどちらかが滅ぶまで続きそう
0028人間七七四年2007/02/27(火) 18:44:09ID:kO+qwpiT
>>26
多々良浜の戦いは69年5月から11月までで大小18回くらいやりあっ
たらしいね。中でも一番有名な>>19のは5月18日の戦いのことらしい。

あと有名なのは、毛利が九州から撤退する際に陣所に火を灯したまま、
夜陰に紛れて逃れようとしたところを、大友軍が見破って追撃をかけて
吉弘鎮理(高橋紹運)を擁する吉弘鎮信隊が大戦果を挙げたっていう
のかな。
0029名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/28(水) 16:31:46ID:7j5rW3du
>>28
何その変な話。資料は何?
陰徳太平記だと1569年の立花山城の撤退戦は
元春隆景本隊は夜陰と悪天候に乗じて無傷で撤退し
道雪は地団太ふんで悔しがるわけだが。

実際、九州から撤退した元春らは間髪おかずに山口を制圧してる。
これはとても追撃戦で大損害を受けた部隊の動きじゃない。
そもそも追撃戦があったとすれば立花山城に残った殿部隊の
浦宗勝隊はどうしていたのかという話になる。

普通に考えて、ない。

>>19
それを読むと合戦に負けたから撤退したように見えるが
実際は毛利軍撤退の直接の理由は大内・尼子の動き。
0030人間七七四年2007/03/11(日) 00:36:18ID:8gfIiuQO
大内は貿易でものすごく銭を稼いだというが毛利は貿易をしてたのか?
0031人間七七四年2007/03/11(日) 00:39:51ID:Qw/8q5f+
陰徳太平記は、完全に毛利より。
毛利に都合の悪い話なんて、書けるわけないじゃん。
それこそ信用できない。
0032人間七七四年2007/03/12(月) 02:59:07ID:787IimKz
>>31
九州治乱記・立花家文書も似たようなレベルなんじゃ
0033292007/03/12(月) 14:20:36ID:uq0lRfDD
>>31,32
そういうことw
0034人間七七四年2007/03/13(火) 00:07:46ID:brEaETt+
大友って合戦面だと一部奮闘するものがいるものの
毛利にも竜造寺にも島津にも負けてるけど
ソウリンは軍略に関してはダメだったのかな
0035人間七七四年2007/03/13(火) 00:09:58ID:xstIcexX
宗麟が直接指揮した戦ってどれだけあった?
0036人間七七四年2007/03/13(火) 00:19:30ID:Ou28If4b
ほとんどない
0037人間七七四年2007/03/13(火) 02:08:44ID:7u8K+Pz2
大友義鑑の代から、前線指揮を戦上手な重臣に任せていた。
当主が出てくるのは、軍勢の規模が大きくなりすぎた場合など。
0038人間七七四年2007/03/13(火) 02:38:04ID:7u8K+Pz2
軍事力と守護の権威などで圧力をかける。→ 官位斡旋・偏諱を受ける。
      ↓                  ↓ 
冷や飯組・非主流派がなびく。       御芳志を要求される。
      ↓                  ↓  
抵抗できない状態・分裂状態。          応じる。  
      ↓                  ↓
大友の一族から養子を押し付けられる。   気がついたら家臣の一人。
   ↓         ↓
受け入れる。      断わる。
   ↓         ↓
乗っ取り完了。    大友の軍勢が攻めてくる。
            ↓       ↓
          大友の勝ち   負け・膠着
            ↓       ↓
       大友家の属領になる。 将軍家に手を回して和睦。
0039人間七七四年2007/03/13(火) 22:45:01ID:J3fefyCR
>>38
佐伯家はよく生き残ったなあと思う。
何回か滅びかけたけど

緒方洪庵の祖先だったりするし
0040人間七七四年2007/03/14(水) 00:07:45ID:oTGxp8Zd
佐伯氏は偏諱も受けなかったしね。
もっともその他の豊後大神氏は、取り込まれてしまったよ。
戸次、臼杵(いったん改易、その後大友一族が養子に入って再興)、
植田、賀来、雄城、小原、阿南、由布・・・・。



0041人間七七四年2007/03/14(水) 00:12:41ID:oTGxp8Zd
毛利は、東に専念した方が良かったと思うんだが、これって
今だから分かることかな。
0042人間七七四年2007/03/14(水) 00:13:30ID:ZHggeRxm
それだけ筑前博多が魅力的だったんだろうな
0043人間七七四年2007/03/14(水) 19:10:53ID:BESJ11Wr
毛利のスタンスは基本的に中国の攻略で、
余裕があれば九州・四国にも手を伸ばしたって感じ。
基本的には東を向いていたと言っていい。

そもそも事の経緯で言えば
1558年
大友の筑前進攻に対し、単独では対抗できなかった高橋鑑種ら諸豪族が
大内の後釜として毛利に援軍を要請したところから大友と毛利が対立した。
1563年
しかし元就は尼子に力を割きたかったので高橋らを見捨てて大友と講和する。
高橋らは憤懣やる方ないが仕方なく大友に事実上従属することになった。
1568年
毛利が尼子を滅亡させると、ここぞと高橋・立花らが決起し毛利に援軍を要請。
吉川小早川と大友が立花山城をめぐって対峙する。
が、尼子大内再興軍の反乱により毛利は九州から撤退。

という流れで、毛利の九州遠征は毛利単独の意思だけでなく
筑前・豊前の反大友諸勢力の要請によるところが大きい。
例えば1558年以来元就はさっさと九州から撤退したかったが
九州の反大友諸勢力が単独では大友に対抗できないので
元就に対し強硬に九州駐留を求め続け、これが撤退を遅らせる一因となった。

>>1のように九州攻防戦の主役を大友と毛利に据えるよりも
大友と反大友の攻防と考えた方が実態に近い。そこに毛利が加わったと。
0044人間七七四年2007/03/17(土) 01:12:03ID:DbCYp/+s
>>43
事実はそうだろうけど、それを言ったら川中島の戦いを武田vs.北信濃豪族と言ってるようなもんだろ。
毛利の戦略の決定権はあくまで元就にあったんだから、九州攻防戦で毛利を脇役扱いするのはどうかと思うけど。
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