武田勝頼は愚将ではない
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0001名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/18(木) 18:47:11ID:ZzPDNPzP0524人間七七四年
2007/02/22(木) 21:07:36ID:lHPCp8+Xどうせ退却しても信長との国力の差は開くばかり、織田に対抗するためには二、三度は
織田に対して大勝利を納めなければ活路は見いだせない。
0525人間七七四年
2007/02/22(木) 21:19:44ID:lmqoU34+織田と戦う前、上杉と同盟を結んで、
織田徳川連合軍vs武田上杉連合軍の決戦という
選択肢はなかったんですか?
0526人間七七四年
2007/02/22(木) 21:33:00ID:0/jsYNQf0527人間七七四年
2007/02/22(木) 21:41:06ID:zLB1XW7Y財政が厳しい中、大金かけて遠征してきた手前、槍を交えず引き返すに引き返せなかったのかねぇ・・・・・
0528人間七七四年
2007/02/22(木) 23:31:03ID:D2sBAY0o1577年以降の情勢がまさにそれ
結果:上野〜武蔵〜駿河〜遠江〜三河〜岐阜という長大な戦線の出来上がり
0530人間七七四年
2007/02/23(金) 10:27:31ID:Ebpsz36S甲越一和が成立しただけでも不思議なくらいなのに、共同戦線っていうのは無理があるんじゃ?
0531人間七七四年
2007/02/23(金) 11:35:48ID:CQ4FH/xk0532人間七七四年
2007/02/23(金) 15:14:21ID:typzG9zt0533人間七七四年
2007/02/23(金) 15:56:55ID:U0MrELzchttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153309732/
0534人間七七四年
2007/02/23(金) 16:09:46ID:zu/+O9a+0535人間七七四年
2007/02/23(金) 17:53:51ID:6C7/ckIn0536人間七七四年
2007/02/23(金) 18:10:03ID:1v689iTq謙信vs信玄 引き分け→謙信=信玄
信玄vs家康 信玄勝ち→信玄>家康
信長家康vs勝頼 勝頼ボロ負け→信長家康>勝頼
謙信vs信長 謙信勝ち→謙信>信長
よって、謙信=信玄>信長・家康>勝頼
これ常識。
0537人間七七四年
2007/02/23(金) 18:33:58ID:eXpXAYD9三方ヶ原で家康が信玄に引っ張り出されたというのは俗説。
それを除けば数に勝る武田方が勝利するのは自然の成り行き。
> 信長家康vs勝頼 勝頼ボロ負け→信長家康>勝頼
鳶ノ巣山本陣から有海原に出て行ってしまったのは判断ミス。
ただ、一旦前進してしまって、後ろを突かれたら後は仕方が無かったと思う。
> 謙信vs信長 謙信勝ち→謙信>信長
手取川に関してはその記録が僅かしかないので
それらの記録から想像するしか方法はないけど、
恐らくは柴田軍かその一部と上杉軍との小規模な合戦だと思われる。
少なくとも信長自身は加わっていない。
0538人間七七四年
2007/02/23(金) 20:09:29ID:preEaMjX>組織的な撤退が出来なかったから
は?
そうできないような展開にしたんじゃないか。
野戦築城や鉄砲で織田・徳川が優位に戦を進め、
武田勢につけいる隙間を与えず、思うような展開ができなかったから、
撤退戦がうまくいかなかった。
つーか、そもそも長篠城が落ちず、鳶の巣砦が落ち、
織田、徳川の太平に挟まれる形になって撤退線が難しかったから突撃したんだけどな。
あんたの書き方ではまるで偶発的出来事みたいな言い方だ。
0539人間七七四年
2007/02/23(金) 20:17:49ID:eXpXAYD9俺は>>522じゃないけど、
長篠の問題は織田陣への突撃じゃなくて、
それ以前の進軍にあるわけでしょ?
進軍した隙に背後の長篠城攻囲部隊を酒井隊に殲滅され、
尚且つ後ろを取られた。
何で本陣を出ちゃったのかな、という事が問題で。
0541人間七七四年
2007/02/23(金) 20:38:18ID:yU7mnu68ゲームなどで勝頼より謙信のほうが数値が上だったりすると頭にくる
0542人間七七四年
2007/02/23(金) 20:52:35ID:G7kb9dB6手取川っすか?w
0543人間七七四年
2007/02/23(金) 21:18:31ID:D5MLqmjf無知な奴。その知識レベルだと信玄のせいで武田が〜〜とかってタイプだろ
0544人間七七四年
2007/02/23(金) 21:34:19ID:fIB6pK6N0545人間七七四年
2007/02/23(金) 21:50:47ID:preEaMjX関東で大量に拉致してきた奴隷を
自ら差配して売りさばいたという逸話もあるしな。
でも、それは信玄も同じ、
ある城を落として城の生存者全員を
男は金掘り妊婦に女は遊女にして売り払ったとか。
0546人間七七四年
2007/02/23(金) 22:33:15ID:ELrtrReAと一瞬だけ思った
0548人間七七四年
2007/02/23(金) 23:58:27ID:/NEbhN80相手にすんな
スルーしれ
ここんとここのスレに張り付いてる基地外だよ、そいつ
なんでもかんでも武田家が滅んだのを謙信のせいにしてるんだわ
0549人間七七四年
2007/02/24(土) 01:15:12ID:02I6hmyP0550人間七七四年
2007/02/24(土) 03:11:17ID:hYSOBzdSオレが>>522だけど何で怒ってるの?
>>520「鉄砲三段撃ち+馬防柵+堀に突撃して甚大な被害を受けた」
>>522「そうじゃなくて総崩れの状態での撤退戦で甚大な被害を受けたのですが」
>>538「はぁ?」(以下意味不明)
何で>>539が親切に解説してくれてるのに無視してるの?
0551人間七七四年
2007/02/24(土) 10:26:54ID:4dWuwpYeまず当時の状況を知るのは両軍のみ。地形や軍の配置はおろか鉄砲や騎馬の数・使い方すらよく分かってない。状況が分からないのに勝頼の状況判断を考察することなど不可能。
また勝頼は歴戦の将であり相当の経験に基づいた采配をとったことは間違いない。机上の空論を振り回すしかない我々がそれを評価することは不可能。
議論したければすればいいが水かけ論になるか錯綜するのがおち。答えは出るわけがない。無意味。
0552人間七七四年
2007/02/24(土) 11:49:09ID:4qmqS2tY0554人間七七四年
2007/02/24(土) 15:03:30ID:UHnRrid2結果だけを知っているからこそなんとも言える。しかし、大きな流れを
一人で変える事なんてできなかっただろう。
武田が滅びたのはただの必然でしかなく、どうにもできなかった。
0555人間七七四年
2007/02/24(土) 15:19:39ID:KU7YhAIO勝頼は愚将扱いにはならなかったと思うね。3段うち、突撃、撤退して最後は裏切り。
よく描かれてるやつじゃなく、長篠設楽が原描いた作品がみたいなぁ。
0556人間七七四年
2007/02/24(土) 15:49:03ID:4dWuwpYeいや、例えば長篠なら鉄砲の数とか軍の配置、当時の地形、鉄砲や騎馬の使い方、兵制、外交情勢、そういった具体的なことならおおいに語る価値あるよ。
状況判断とかは具体的な状況を理解した上で初めて語れるものだろ。それに基本的な情報が共有されてないと議論も成り立たないし。
だけど今のところ鉄砲の数や騎馬の使用についてすら話が紛糾する始末。そんな状態で能力を考えようなんて無茶な話。合戦の展開などの具体的な状況を巡って話が延々とループするだけ。
戦国板には有意義なスレもあるがこういう無意味ならスレも多い。まあ議論が成り立たないという意味で無意味なだけで、人によっては面白いだろうしその意味では有意義だろうけど。
0557仙台藩百姓
2007/02/24(土) 15:50:12ID:O190mUon0558人間七七四年
2007/02/24(土) 15:57:05ID:VmOyNEhpそれこそ、信長の策略に引っ掛かった馬鹿丸出しの猪武者として描かれそう。
織田陣攻撃が勝頼の一存では無く、武田家の総意って事になるなら
それこそ馬鹿丸出しの猪武者軍団として描かれそう。
0559人間七七四年
2007/02/24(土) 16:34:21ID:VmOyNEhp信長公記に「千挺ばかり」というのを「三千挺」と加筆訂正されている物がある事から
鉄砲の数がはっきりしていない事になっているけど、
健勲神社本等の古い物ではしっかりと千挺ばかりとなっている。
江戸時代、より有名になった小瀬甫庵の「信長記」で三千挺とされた事から
「信長公記」の方も三千挺に加筆訂正され、
それ以降の写本では完全に三千挺にされたようだね。
まぁ、とは言え流石に千挺では少なすぎる。
牛一も正確に鉄砲の数を把握出来てはいなかったと思うけどね。
0561人間七七四年
2007/02/24(土) 18:35:38ID:tnYq5dMzだいたい実力は同じかな、格は圧倒的に秀忠が上だが
0562人間七七四年
2007/02/24(土) 20:29:43ID:DVjNh3KH千丁無いし三千丁っていうのはその特別動員の部隊じゃ?
通常の軍役で動員した鉄砲隊なら、いちいち信長直臣から臨時の奉行出して統制する必要は無い
あと普通に動員した連中や徳川の鉄砲もあっただろうし
0563人間七七四年
2007/02/24(土) 21:17:10ID:HSigtYq5ご自身の渾身の調査で、柵に突撃した武田軍は、織田方の武将のニセの内通により攻撃を仕向けられたものであり、
決して、勝頼が血迷って各隊を突撃させたのではないとあった。
おそらく、信長がバテレンから、欧州での砦における、攻め方が全滅した
コルドバの戦い?の内容を詳しく聞いており、真っ向勝負では士気において尾張軍は全く勝ち目はないが、
だまして完全防備の要塞に突っ込ませれば皆殺しにできるということで、用意周到に計画したとの事。
この戦には、家康も参戦していたので、後に幕府方の資料には真相は決して書かれなかったと。
もちろん甲陽軍艦も幕府公認の兵学書。
0564人間七七四年
2007/02/24(土) 21:23:59ID:KWi8h0UQ>真っ向勝負では士気において尾張軍は全く勝ち目はないが、
は笑う所?呆れる所?それとも突っ込む所?
0565人間七七四年
2007/02/24(土) 21:46:19ID:A/HVDmLm0566人間七七四年
2007/02/24(土) 21:49:12ID:L/eyl6nO突っ込むところ。「真っ向勝負では」でなく、「農繁期以外」だから。
0567人間七七四年
2007/02/24(土) 22:09:12ID:DKXgyC8e武田軍の編成
騎馬隊 10000
歩兵部隊 3000
A織田・徳川連合軍
鉄砲隊 3000
歩兵部隊 25000
B両軍の死傷率
武田軍:90l
織田・徳川連合軍:5l
お前ら、このくらいなら納得するんだろw
0568人間七七四年
2007/02/24(土) 22:10:37ID:z59W17xh0569人間七七四年
2007/02/24(土) 22:12:50ID:Vq6XXnAMわ〜わ〜できないよ
0570人間七七四年
2007/02/24(土) 22:58:47ID:UHnRrid2これが1万頭にもなると1日に400tもの糞尿が出る事になる。
それに人間の糞尿も加えると・・・・・((;゚Д゚)ガクガクブルブル
う〜ん、武田の陣はさぞかし香ばしい香りがしていたのであろう。
0571人間七七四年
2007/02/25(日) 00:56:14ID:yIPBhcgv松平ナントカというあまり知られてない武将が一人死んだだけなのに対して
武田は大半の武将、豪傑が死んでしまったというデータがある以上。
「織田徳川も総統な損害を出した」とか「実は接戦だった」とかいう
見解は総統に相当に無理があるよ。
0572人間七七四年
2007/02/25(日) 01:55:29ID:KoUgi18J0573人間七七四年
2007/02/25(日) 02:00:05ID:SsEnbb6a実際少なくとも1000頭はいただろうから
40tは糞尿がでてることになるわな。
40tでも充分香ばしいと思うんだ。
0574人間七七四年
2007/02/25(日) 08:44:18ID:a1pEso4l0575人間七七四年
2007/02/25(日) 08:48:47ID:H0zjxnd70576人間七七四年
2007/02/25(日) 09:58:50ID:ABWWBxrLまあ騎馬隊なんて言葉、ちゃんと定義されて無いだろうが
0577人間七七四年
2007/02/25(日) 11:38:13ID:wi7AM3+e織田だって騎乗に対して従者が付くだろ
0578人間七七四年
2007/02/25(日) 12:04:16ID:NvNeVXH6まず、武田は内応者の裏切りを確認してから攻め込むようにしてきたこと。内応は常に騙しの可能性があるので当然のこと。確認がとれてないのに期待して突撃したとすればそれこそほんものの馬鹿。
それと内応は格下の側が生き残りを図ってするものなので、武田より格上の織田から内応者が出ることは通常ありえない。内応の話があっても余計に疑ってかかるのが当然。もし信じたならそれこそまごうことなき馬鹿。
しかし多数の合戦を経験してきた勝頼及び家臣団がそんなに馬鹿なわけがない。
まあここまでは推測に過ぎない。が、何より内応に関する資料的根拠が一つもない。内応の有無は各勢力の威信にも関わる最重要の話なので、内応の話があったとすれば何らかの資料に残っている可能性が極めて高い。
ということで内応説は説得力に欠ける。
0579人間七七四年
2007/02/25(日) 16:13:45ID:3ePraGSu家臣の団結も、信玄時代と変わらなかったと思われる。
勝頼は譜代や親戚衆からすれば、余所者。とても主君と仰ぐことはできなかった。
あと義信には娘がいた筈だが、もし息子がいたら、嫡孫として家督相続したほうが、
勝頼が相続したよりも、良かっただろう
0580人間七七四年
2007/02/25(日) 17:53:31ID:lVaWxiuTスカトロマニアのお前にはたまらんだろうな
それとは別に、自らの死後の政権の構想を持たなかった信玄入道氏ね
0581人間七七四年
2007/02/25(日) 18:53:22ID:LVHPQUrg0582人間七七四年
2007/02/26(月) 00:01:12ID:8TGIR26Z環境問題もほっとくと未来の人類が滅びることになるのかも。
0583名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/26(月) 00:57:16ID:iXbe19yaどーせその頃には俺死んでるし。
って感じだったんだろうか信玄も(´・ω・`)
0584人間七七四年
2007/02/26(月) 01:21:52ID:NoON4Njg0585人間七七四年
2007/02/26(月) 15:31:15ID:LEwVwKsn言い訳したり、人にかばってもらえなきゃ何もできないただの死人。
こんな奴を擁護する必要はない。
地獄で永久に苦しみやがれ
0587人間七七四年
2007/02/26(月) 18:07:24ID:rU3Yyrhp「武田家を滅ぼした張本人」は武田勝頼ではなく織田信長です
珍説を唱えたいのであればソースをお願いします
0588人間七七四年
2007/02/26(月) 18:44:41ID:fQBAGlAf並みの屁理屈だな。
>>586
石高的にはそれほど格差があるわけでないし、
南の今川、東の北条と同盟が維持されるから時間はかかるだろうがまとめるんじゃないか。
徳川が伸張してきて武田に対してどう対応するかによっても変わるが。
0589人間七七四年
2007/02/26(月) 19:12:11ID:aMi1FMhVいいえ、織田信長の方面軍の1つを指揮していた織田信忠が滅ぼしました
武田家滅亡の原因は
90% 武田信玄
5% 武田の重臣
3% 武田勝頼
2% 織田信長
こんな感じだな
0590人間七七四年
2007/02/26(月) 19:39:03ID:xTpUESaD石高はともかく港の存在による経済力の差は大き過ぎだと思うよ。向こうは日本海最大の港所持だしね。
それに一向宗と完全に和睦してるし、どのみち武田は詰んでいたと思われる。
0591人間七七四年
2007/02/26(月) 19:40:42ID:HSbVVe160592人間七七四年
2007/02/27(火) 08:33:35ID:uqPMuJAwカツヨリを擁護する場合、武田家は国人の集まりだから勝手な事は出来なかったって言うけど
信玄もそうだったんじゃね?
0593人間七七四年
2007/02/27(火) 11:20:05ID:1h5ZBD9M陣代説は軍鑑の創作といわれているが、実際のところ信玄が生きているように見せかけた書状出したり独自の印を使えず信玄のそれをそのまま使ったりと勝頼の立場が弱かったことを示す史料は存在する
何しろ嫡子重臣粛清事件の後釜だからねぇ
0594人間七七四年
2007/02/27(火) 12:01:28ID:YZvYDy7z0595仙台藩百姓
2007/02/27(火) 12:22:21ID:2xW0dYsu0596人間七七四年
2007/02/27(火) 13:42:35ID:mrCaziTZ馬鹿だの無能だの言ってる奴が馬鹿
0597名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/27(火) 14:32:15ID:IuWKnt1C0598人間七七四年
2007/02/27(火) 14:43:18ID:FS3Nei3U断片的な事象から判断出来る事のみ取り上げて
賢いだの有能だの言ってる奴が賢い
0599人間七七四年
2007/02/27(火) 15:25:11ID:nFfh249n信玄の就任は、
元々信虎の専制政治に代わって傀儡を作る事から始まってるから
勝手なことをできなかったのは事実だが
あの頃はまだ群雄割拠で、比較的容易に大きな領土拡張ができていたから
政治力を取り戻す事はできたと思われる。
勝頼の時代は、もう回りは大大名ばかりだったから、
少しの領土を伸張するにも負担が大変だった。
0600人間七七四年
2007/02/27(火) 16:03:55ID:0Kpnu9tJさらに12才と幼かったのに信玄の妾にされて、14の時に勝頼生んでいるんだよね?
で、勝頼は諏訪を継ぐためにと定められていたわけなんだけど、これって母親もそのように教育していたんじゃない?
家族を皆殺しにされながら信玄に惚れるとかありえないし。
勝頼も「武田シラネ。ママンのために諏訪の跡継ぎとしてがんばゆ!!」とかって考えが基本だったんじゃない?
だから武田は滅びた。
つか、どうでもいい事書いてるが気にするな。
0601人間七七四年
2007/02/27(火) 18:00:09ID:0AJQGYF40602人間七七四年
2007/02/27(火) 18:59:30ID:mCsfPIgz現在のような名声はない
0605人間七七四年
2007/02/27(火) 22:13:54ID:MZthBM/6まああまり関係ないが。
0606人間七七四年
2007/02/27(火) 23:05:51ID:Ln7LWiq50607人間七七四年
2007/02/28(水) 17:44:38ID:eV38F4Pn0608人間七七四年
2007/02/28(水) 18:39:23ID:9bOz8fAS当時、家族を殺されてあーだこーだなんて、あんまり意識ないだろ。
普通に親父が切腹させられても、子は普通に使えたりするし、主の命令で子供切腹させたりした時代だもの。
現代の思想で考えたら、それこそ人質に送られたり、政略結婚させられた実家への恨みはないのかって話になる。
0611人間七七四年
2007/02/28(水) 19:39:12ID:9bOz8fASん?長慶も、同族を討ったりしてるし・・・
>>610
やっぱり、秀吉は農民出身だったから、そこら辺の心構えというか育った環境が違うんでしょ。
0615人間七七四年
2007/03/01(木) 03:45:43ID:GxhGcj5Z逆、あんな時代だったからこそ、個人よりも家が重視される時代であって、
当然嫡男などの概念は非常に重要だった。
だからこそかえって個人よりも家名の方が重くなるので、
そのためであれば政略結婚や人質などは当然という考えにもなる。
そしてそれがあるから家名の奪い合いになると中途半端な血縁関係がかえって
敵対関係を深める結果になることも多い。
0618人間七七四年
2007/03/01(木) 09:56:53ID:mKElZJin四国の大半を諦めさせられた挙げ句、長男まで失った連鎖的なものだった気がする。
三次はもうそれこそ内紛に過ぎるしなぁ。
0619名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/03/01(木) 09:57:59ID:TqcboNvj規範意識としては、建前としては、人質も政略結婚も正しいし名誉あること。
しかし建前として美しくても人間には情があるので悲しいこともある。
戦中日本で戦死は名誉でもやっぱり親は悲しいし本人も辛かったろう。
政略結婚や人質の裏には悲しみがつきまとうこともある。
0620人間七七四年
2007/03/01(木) 11:18:16ID:4SYvauZn0621人間七七四年
2007/03/01(木) 18:14:28ID:vd40VviQ戦国時代の武家の家庭での「親子」という関係が
現代の一般社会の家庭での「親子」という関係とは違うから
それはなんとも言えないのではないか
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