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【本能寺の変】明智日向守光秀【山崎の戦い】

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0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/28(木) 19:58:46ID:EjRn4TJ6
明智光秀総合スレ
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。

通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------wikipedia---------

0510人間七七四年2009/08/27(木) 11:42:26ID:fh/z/qs1
>>508
家康領が属国化するだけじゃね?
家康の家臣の松平家忠執筆の「家忠日記」なる史料があるが、この日記では主君家康を「家康」と呼び捨て
にしているのに対して、主君でもない信長を「上様」と記述している。
0511人間七七四年2009/08/27(木) 12:30:46ID:18y5Gpto
>>510
それどこの「家忠日記」だ?
家忠日記には家康のことは普通に「家康様」って書いてあるぞ?

君はどんな家忠日記を呼んだんだ?
0512人間七七四年2009/08/27(木) 12:57:09ID:fh/z/qs1
>>511
増補続史料大成(臨川書店)の翻刻版やで。
手元にある天正10年4月〜6月分によると、
信長の記述は7箇所あり、6箇所は「上様」で1箇所が「信長様」とある。
対して家康の記述は9箇所あり、すべてが「家康」とある。

君はどんな家忠日記を呼んだんだ?
0513人間七七四年2009/08/27(木) 15:42:18ID:kh14Epvh
信長にしろ信長様にしろ家康にしろ家康様にしろなんか違和感あるなぁ。
いみなだからだろうけど。
0514人間七七四年2009/08/27(木) 17:51:03ID:dSCA1h+K
書面では諱の呼び捨ては一般的だよな。
様づけは見たことがない。
0515人間七七四年2009/08/27(木) 22:14:58ID:PkjgSr5d
>>512

盛本昌広の「松平家忠日記」にも、

>主君家康を「家康」と呼び捨て
>にしているのに対して、主君でもない信長を「上様」と記述している。

なんて指摘は無いな。どうもID:fh/z/qs1はヘンテコな解釈をしているようだ。
0516人間七七四年2009/08/27(木) 23:06:18ID:fh/z/qs1
釣りか?
お前は翻刻版と現代語訳の違いを理解しているのか?
05175082009/08/27(木) 23:30:41ID:FtTwuBer
やっぱり信長は家康を暗殺したかったのかもしれないね。

連立政権もダメ、臣下にもならない同盟者では、天下統一を間近にしたら「目の上のたんこぶ」。
0518人間七七四年2009/08/27(木) 23:39:29ID:8lDpwHeZ
>>517
でも三遠駿の徳川家を潰すくらいなら関東の北条家を先に潰すんじゃないのかな?
それからでも遅くは無いような気がする


0519人間七七四年2009/08/28(金) 08:55:46ID:/oHLJ1Nl
遅い早いの問題じゃない
0520人間七七四年2009/08/29(土) 09:56:08ID:mr+TY6c6
>>516
だから君が翻刻版をヘンテコな解釈をして読んでるって話でしょ。
0521人間七七四年2009/08/29(土) 12:13:16ID:ChDyOWDQ
>>510-511
何をもめているのかよく分からんが、信長の家康宛の書状の書札礼が、長篠以降同盟者のそれから薄礼化して
いるって事実で十分じゃね。

ま〜、民主・社民「連立政権」が誕生した場合の両党の関係みたいなもんだ。よけい分かりにくいか。
0522人間七七四年2009/08/29(土) 13:18:24ID:MWHBjipA
まあ分りやすく言えば現在の日米同盟みたいな物だろ
0523人間七七四年2009/08/29(土) 19:14:54ID:UMfo2kgq
でも織田と徳川が戦って徳川が負けた後
出来た同盟って訳じゃないけどな。
05245232009/08/29(土) 19:16:51ID:UMfo2kgq
あっと桶狭間を忘れていた。
0525人間七七四年2009/08/29(土) 22:46:33ID:5QHHVMi2
信長が死んだのは家康のせい
初めての同盟の相手がそれを裏切らないどころか信長のために何度も尽くす人物だったせいで
それが基準になってしまった
実際は家康みたい奴がそんなに居る訳も無く、浅井・荒木・松永と何度も裏切られ
でも何で裏切られるのかイマイチピンと来ず、最後は明智に裏切られて死亡
…てな事を考えたことがある
0526人間七七四年2009/08/29(土) 23:04:55ID:VAwaWZcq
>浅井・荒木・松永と何度も裏切られ

それってたぶん、織田の家臣になるかさもなくば合戦かというふうだったと思う。
信長は身内でも自分に従わない人間を次々粛清してたはずだ。
本能寺の変が無ければ、織田・徳川の連立政権になったかどうかだが、
連立政権がNGとすれば徳川は織田の家臣になれということになる。
0527名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 16:50:51ID:dMK4pD6E
通報しました
0528名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 17:32:23ID:lyx4gL6Q
>>526
馬鹿だなあお前
秀頼が家康の臣下になったように、いずれ家康も信長に
同盟破棄して臣下の礼を取らされるよ
0529人間七七四年2009/08/30(日) 21:45:02ID:86pd2RDd
>>528
秀頼は家康の家臣になってないよ。

信長と家康については、そうかも知れないと思う。
0530人間七七四年2009/08/30(日) 22:49:44ID:oguXGupe
>>529
例の二条城対面は、家康のいる場所に秀頼が出向いて挨拶したんだから、
どう取り繕おうがアレは臣従。少なくとも世間的にはそう考える。

つーか、もし豊臣家がアレを臣従と受け取らなかったとしたら、世間知らずにもほどがある。
0531人間七七四年2009/08/31(月) 09:10:18ID:duJIzDkK
薩長同盟はどうだっけ。

前田利家の仲介で、家康も秀頼も利家の部屋なり屋敷なりに
出向くとかしたらどうだったんだろう?

つーか利家まだ生きてる?
05325312009/08/31(月) 09:19:48ID:duJIzDkK
補足

利家はあくまでも秀頼の忠実な臣下という姿勢を崩さない。
0533人間七七四年2009/08/31(月) 12:10:10ID:duJIzDkK
利家は場所提供ってことだよな。
信長も最初の頃京に泊まる時は光秀の屋敷を使用していたらしい。
0534書き忘れた2009/08/31(月) 12:12:37ID:duJIzDkK
>>533

補足2
0535人間七七四年2009/09/01(火) 11:18:23ID:8Xg9RpBK
>>531-534
まとめて書けぃ〜!
0536人間七七四年2009/09/01(火) 11:52:44ID:Rb3Rt2Kn
しかも意味のないIFを展開しているだけだし。
0537人間七七四年2009/09/03(木) 10:21:20ID:fvIitaVg
IFの胆→要は前田利家が生きてたらって話ね。
0538人間七七四年2009/09/03(木) 12:52:22ID:4MOMpRcG
スレ違い
0539人間七七四年2009/09/10(木) 14:40:02ID:5haZ/8Jm
スレ住人ではなく、旅のお人の独り言。

天下人になるためには、
軍事的な才、行政・統治能力、カリスマ性、先見性、決断力、+もちろん運や野心などなど・・・
ほんとにいろいろなモノが必要だったと思うが、

結局、その多くを相応のレベルで兼備していた武将の一人が光秀だったと思う。もちろん秀吉や家康もそうだけど。
信玄もその一人とは思うが、逆に柴田勝家や滝川一益、さらに上杉、北条、伊達には、
天下人になるための大事な要素の中に「致命的な欠け」があったと思う。

光秀は結果的に山崎で敗れ去るので、「足らないモノ」があったのは現実だけど、
最初から資格のない人間ではなかったと感じる。

だから、「謀反人」の代名詞扱いされるけど光秀は嫌いになれないんですよね。
むしろもっとも魅力的な武将の一人w 
ま、信長もそんな魅惑の武将の一人なんだけどね。
以上、戯れ言でございました。ごめん。
0540人間七七四年2009/09/23(水) 16:34:52ID:ftVJOsnZ
質問です。
旧六角家臣で進藤賢盛って人がいるんですが
現在、ネット上でよく見られる記述だと
「六角家の衰退後は佐久間信盛に仕え、本能寺の変後は織田信雄、後に秀吉に仕えた」とあります。

で、最近ちょっと明智関連の本を読んでいたところ、彼の名前が出てきまして
彼自身は佐久間信盛に仕えて、近江志賀郡を安堵されているが、配下の侍は地元志賀に残って
坂本城主の明智軍の下に配属された、と書かれてありました。
つまり進藤家の代表である賢盛は佐久間家臣となっているが、その勢力は光秀軍に組み込まれた、と。

で、「本能寺の変後に織田信雄に仕える」とあるので
佐久間追放後〜本能寺の変当時の彼の動向がわからないのですが
当時の立地的に変直後に信雄に属したとは考えにくいのですが
変直後は彼はどこに属していたのでしょうか?
変直後の明智軍の勢力の中に彼の名前は見えたりしますでしょうか?
それとも中立を保つなどして光秀勢の中に彼の名前はなかったのでしょうか?
詳しい方がいましたら教えて下さい。
0541人間七七四年2009/09/25(金) 01:14:54ID:8akKrHl0
徳川家って天正十年の時点で家臣化、もしくはそれに極めて近い状態だったんじゃないかなと思ってんだけど違うかね・・・

家忠日記の件もだけど、確か北条系の史料に武田征伐後、家康は駿河を今川氏真にあげようとするんだけど、信長にダメだし食らって結局、氏真に駿河をあげられなかったって

話をみたことがあるんだが、自領の人事にいちいち文句つけられてるんだから、もうすでに徳川は独立国と呼べないのでは・・・
0542人間七七四年2009/09/25(金) 01:17:48ID:T44Pu3VK
独立国ではないが被官ではない。
0543人間七七四年2009/09/25(金) 01:42:10ID:8akKrHl0
>>542
やはりそうですか、そうなると、信長が家康暗殺を画策する必要なくないですか?
現時点で徳川家は信長の言う通りになってるんですから・・・
あの時点で信長が徳川家を潰す事は織田分国に未編入の北条とか大友とか伊達みたいな
親織田派の地方大名に対する政治的信用を失うことになりえませんか?

自分工房なんでレベル低い質問して申し訳ないです・・・
0544人間七七四年2009/09/26(土) 09:41:41ID:gKTVgodM
>>541
駿河に関しては駿河を領有する以前の話だ。
信長は実際に氏真による駿河回収を後押ししていた時期があった(失敗したが)
んで、対駿河工作は家康がすることになった。

そういう経緯があったので、信長に対して「駿河は氏真に」と言うのは、信長の面子を立てるためと
家康の駿河領有の正当性の言質を取るために必要な発言。
0545人間七七四年2009/10/19(月) 14:23:38ID:6hcG5nA1
濃姫スレがすっかり光秀スレと化しているんだけど
これに反論できる奴はいる?
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1227227491/801-n
0546人間七七四年2009/10/21(水) 16:07:42ID:2/iPz7C3
魏延「ここにいるぞー!」
0547人間七七四年2009/10/21(水) 17:13:44ID:O2+GWH4d
なんつーか、放浪した箇所が逸話だとえらいことになるな。
毛利にも行った逸話があるんだっけ。
0548人間七七四年2009/10/21(水) 17:41:02ID:Rygz8uHd
松永みたいな古狐だったと想像すると67歳説もしっくり来る
0549人間七七四年2009/10/21(水) 23:47:56ID:9tsJouh/
>>545
妄想にすぎん。
0550人間七七四年2009/10/23(金) 02:06:03ID:uXI/5g0i
>>545
光秀が美濃明智とは全く無関係という説かな?
でも光秀の家臣に美濃に縁深い「妻木氏」とかいるし、ちょっと無理ないか?
0551人間七七四年2009/10/23(金) 06:26:12ID:TvrsTLhW
美濃明智と関係ないなら
そんなに簡単に斎藤家に仕官できるのか?
足軽ならともかく、ある程度の身分になるにはそれなりのコネが必要では?
0552人間七七四年2009/10/23(金) 08:27:36ID:SpYdOryN
>>550
秀吉の家臣にも美濃出身がいるが…

>>551
光秀は齋藤家に仕えてない
史料から確実に分るのは細川藤孝
足軽から出世した奴など何人かいる
0553人間七七四年2009/10/23(金) 10:04:47ID:mg4xBUAw
妻木氏の家臣は光秀が妻木氏の嫁を貰ったから。
むしろ、これが光秀が美濃出身であることを説明してると思うけど。
0554人間七七四年2009/10/23(金) 10:38:30ID:mg4xBUAw
ところで、細川藤孝に仕えた史料って何?明智軍記?
だとしたら、いきなり士分として仕えているので足軽のはずないけど。
0555人間七七四年2009/10/23(金) 10:41:18ID:mg4xBUAw
ごめん。どうやら軍記ではないね。勘違い。どこで見たかなぁ。
言行録?
0556人間七七四年2009/10/23(金) 11:31:32ID:ZwA/lKH2
>>555
「多聞院日記」天正10年6月17日条。同書は1次史料だから、細川仕官はガチ。
むしろ、2次史料にしか現れない朝倉仕官が俗説。
0557人間七七四年2009/10/23(金) 12:10:04ID:mg4xBUAw
ああ、そうだ。思い出した。まあ、朝倉仕官はなぁ。
多門院日記の記述なら信じてもいいだろうね。
ただし、天正年間に書かれた伝聞記事なので詳細まで正確かはわからないけれど。
ちなみに足軽足軽言ってる人がいるけど足軽衆というのは足軽大将さす場合があるよ。
公記でも足軽大将か、士分の武士の用法が多い。
事跡が伝わっていないのに信長滞在の折には自邸を宿泊所に宛てるほどの高官になってるし、
出自はそれなりの身分があったとは思う。
0558人間七七四年2009/10/23(金) 12:11:59ID:ZwA/lKH2
フロイス「日本史」56章にも「彼(光秀)は、公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していた」との記述あり。


0559人間七七四年2009/10/23(金) 12:27:54ID:SpYdOryN
光秀自身の軍役書に
「自分は信長様に石ころのような身分から取り立ててもらった」と書いてあるし
フロイスの書物にも
「光秀はいやしい歩卒であった」
「彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、将軍の邸の一貴人兵部太輔(細川藤孝の事)と称する人に奉仕していたのである」
と書いてあるから非常に身分の低い出身で間違いない
美濃出身ってのは確信できないが、どうも出世するにつれて幕閣だから美濃の滅んだ名家
明智の名前を継ぐように賜った可能性が高い
0560人間七七四年2009/10/23(金) 12:43:33ID:mg4xBUAw
高い低いは相対的であるし、それらが書かれたのが光秀が出世した後のことであるから
その当時と比べて低いという解釈であろう。通説どおり一時零落していたのであれば
それらの記述と矛盾しない。
美濃妻木城の妻木氏の妻を娶っていたことからも、その出自は美濃に由来するだろう。
そして、城主の同名衆と婚姻して家格としてつりあいの取れる程度の出自で、
婚姻を通じて互いにメリットのある家であると考えるのが自然である。
妻木と明智は共に東濃にある似たような規模の家である。
城主といえるほどの家ではないと思うが、美濃明智傍流であると推理してよいだろう。
そもそも明智は名家といえるほどの家かは微妙。名乗らせるならもっと適当な家があるだろうし。
0561人間七七四年2009/10/23(金) 14:00:33ID:ZwA/lKH2
2次史料の記述で信用性には欠けるが、>>559>>560双方の意見に矛盾しない「豊鑑」の以下の記述が
参考になるかも。
「明智日向守光秀は美濃国土岐郡明智といふ里に生まれ、昔は土岐の一門とかやいひし。
貧しくなりはて、下部の一人をも持たず、越前国などさすらひ歩き、(以下略)」
0562人間七七四年2009/10/23(金) 14:29:25ID:hSLwCQsc
二次史料なら他にこんなのもある

「御門重兵衛(十兵衛ではない)という人物が、信長のもとに現れ、
 器量良く、諸事に見識があったので評判が立った。信長は早速召しだし、
 明智重兵衛と名乗らせ、侍役を命じ・・云々」
土岐元頼の息子
若狭国小浜の刀鍛冶・藤原冬広の次男
石津郡多羅城主・進止信周の次男
素性知れず

なんてのが伝わってるから要するにどこの誰かさっぱり分らんって事
0563人間七七四年2009/10/23(金) 14:47:42ID:mg4xBUAw
まあ、土岐元頼は年代が合わない。
進止信周説を唱えている史料では、明智光綱の養子となっているため、
当時の家制度としては出身は明智となる。
信長に出会った頃には既に明智ではないかと思うので御門説はイマイチ。
0564人間七七四年2009/10/23(金) 21:17:15ID:SpYdOryN
> 妻木と明智は共に東濃にある似たような規模の家である。

アホじゃないのかお前
妻木氏は土岐嫡流家に従い、応仁の乱以後土岐氏没落後は斎藤氏に従った没落家
分ったか?

0565人間七七四年2009/10/24(土) 03:38:09ID:xQEMTOJj
>>564
アホだなぁ。土岐に従っても妻木城主で領地安堵されてるし没落していないだろ。
お前の中で美濃明智家がどんな大大名かしらんがね。
0566人間七七四年2009/10/24(土) 04:27:16ID:xQEMTOJj
つい罵倒レスだったので反射的にレスしてしまったのでなお説明を加えると。
>土岐嫡流家に従い、応仁の乱以後土岐氏没落後は斎藤氏に従った
これは土岐没落後も生き残った大部分の国人にあてはまる。
土岐氏没落後にも土岐氏に従ったというなら没落と言えるが、そうではない。
斉藤氏は一時土岐氏にしたがった国人にも当然ながら領土の安堵をしている。
妻木氏も同じく土岐没落後江戸時代初期に至るまで妻木氏は妻木郷を一貫して治めている。
土岐氏との争いの最中に没落したとは初耳だ。ソースが必要だろう。
道三の時代には明智氏と妻木氏は共に東濃の小勢力と考えて良いと思うが。
0567人間七七四年2009/10/24(土) 10:20:24ID:ZweaTTBQ
土岐明智氏(定政系)は天文21年に、頼芸側に味方して道三に攻められて一族討死して没落している。
そして、土岐明智氏の所領には妻木郷も含まれていたから、妻木氏も没落したんじゃなかろうか。
一方、「土岐文書」によれば土岐明智氏は文亀年間に既に明智庄を失っているから、別途可児郡明智庄
を相伝した別の家系があり、それが光秀の先祖じゃないかって論者もいるな。
その先祖っていうのが、明応年間に土岐明智頼定と所領争いをした明智玄宣で、光秀は玄宣系明智氏
だと推論する論者もいる。
いずれにせよ、(俗説では義竜時代に没落した)光秀の家系が道三時代に没落したかどうかは証明しようがない。
0568人間七七四年2009/10/24(土) 11:26:17ID:xQEMTOJj
とはいえ妻木氏は遠山氏と共に元亀年間に活動が見えるし没落したという確証はないね。
少なくとも織田家が美濃を治めてる時点で妻木郷を治めてる。
妻木氏は一時頼芸側にいたが、最終的に斉藤に従って所領を安堵されたという通説に逆らう必要も根拠も感じられない。
本能寺の変の折は遠山氏と共に森と戦って妻木城を落とされている。
この時に領地を削られたというのならわからなくもないが。
やはり、現時点で道三の時点で妻木氏が没落していたというのは無理があると思うけど。
妻木氏に限ってはね。
0569人間七七四年2009/10/24(土) 12:07:08ID:c5LbUXY0
こんなスレもあるので、一応貼り。

美濃の小勢力を語る〜稲葉・氏家・安藤・不破 他
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1214108829/
0570人間七七四年2009/10/25(日) 23:09:15ID:RKjxfevT
質問です。
妻木貞徳という人物について調べています。
『織田信長家臣人名辞典』という本では
1544〜1618。諱は貞行とも。
光秀の妻の従兄弟。
子に頼忠。
と、あります。

この人は妻木広忠・範賢・範武・範之らの妻木一族と関係ありますか?
もしくは上記の誰かの別名でしょうか?
まったく関係ない分家か何かの別人でしょうか?
0571人間七七四年2009/10/26(月) 08:55:56ID:fb2U7FN5
妻木貞徳の父は藤右衛門広忠で、貞徳の子が頼忠(寛政重修諸家譜)。
光秀の妻の父は勘解由左衛門範煕で、範煕の子が範賢・範武・範之(美濃国諸旧記)。

上記の史料に、広忠の家系は範煕の「嫡家」で、頼忠が光秀の叔姪、広忠が光秀の叔父とされているので、
広忠と範煕は兄弟になると思われます。

妻木頼安――広忠――貞徳―頼忠
      |―範煕――女(明智光秀室)

0572人間七七四年2009/10/26(月) 09:10:38ID:VD8mc7jV
「美濃国諸旧記」の史料価値はどの程度のもんか
これは「濃陽諸士伝記」を元に書かれたんでしょ?
内容も「濃陽諸士伝記」に酷似しているし
0573人間七七四年2009/10/26(月) 09:16:45ID:fb2U7FN5
>「美濃国諸旧記」の史料価値はどの程度のもんか
所詮は2次史料です。
1次史料から証明できる事実は、光秀の近親者に「ツマキ」なる人物が存在したことだけです(「兼見卿記」「多聞院日記」)
0574人間七七四年2009/10/26(月) 11:56:36ID:VD8mc7jV
>>573
それだけ分っててなんでそのツマキが光秀の妹であり、信長の妾である事実を隠すんだ?
>>571の事は出鱈目ってあるのに気付けよ
0575奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/10/27(火) 04:26:14ID:rqYd9ywh
いや、半分くらいは乗っても面白いんじゃない?
0576人間七七四年2009/10/27(火) 14:34:34ID:Uucmbfzs

■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■

1 :氷上の名無しさん@実況厳禁:2009/08/29(土) 17:48:08 ID:Du7ELlvd0

めちゃくちゃ胡散臭いんだけど
だいたい何百年も前の人間の子孫だってどうやって証明するんだよ
家系図もいくらでも捏造できるし、織田という苗字だっていくらでもいるし
その苗字も後で名乗ったものかもしれないしな
天皇家や徳川家なら時代が近い分まだ信用できるけどな
織田家なんてちゃんと存続してるかどうかも怪しいってのに

あと親戚中『信〜』って名前をつけるとか
いやらしいにもほどがあるw
本人達もことあるごとに『織田の子孫』って自慢するし
どんだけ面の皮が厚いんだか
俺には詐欺師にしか見えない
皇族の名をかたる詐欺師によく似てるわ

http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/

0577人間七七四年2009/10/27(火) 14:37:04ID:Uucmbfzs

■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■

1 :氷上の名無しさん@実況厳禁:2009/08/29(土) 17:48:08 ID:Du7ELlvd0

めちゃくちゃ胡散臭いんだけど
だいたい何百年も前の人間の子孫だってどうやって証明するんだよ
家系図もいくらでも捏造できるし、織田という苗字だっていくらでもいるし
その苗字も後で名乗ったものかもしれないしな
天皇家や徳川家なら時代が近い分まだ信用できるけどな
織田家なんてちゃんと存続してるかどうかも怪しいってのに

あと親戚中『信〜』って名前をつけるとか
いやらしいにもほどがあるw
本人達もことあるごとに『織田の子孫』って自慢するし
どんだけ面の皮が厚いんだか
俺には詐欺師にしか見えない
皇族の名をかたる詐欺師によく似てるわ

http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/

0578人間七七四年2009/10/27(火) 19:53:56ID:NYbZwPC0
要するに一級史料から信長に仕えるまでの事は

・光秀は美濃出身を確認できない
・光秀の妻は妻木氏ではない
・美濃に親類がいる

後は全部、明智って事だけで明智庄出身
史料にツマキが見えるから光秀の妻は妻木氏と勝手に決め付けてるだけだよね
0579人間七七四年2009/10/27(火) 20:14:39ID:m1xxhEkh
>光秀の妻は妻木氏ではない
違うけど。一次資料で確認されてる。しつこいなぁ。
0580人間七七四年2009/10/27(火) 20:15:36ID:iz942A5F
明智というが、死亡時の姓は惟任(これとう)だ。惟任が信長のよって与えられた姓であるのは確かだが、明智が生まれながらの姓であるという保障はどこにもない。
0581人間七七四年2009/10/27(火) 20:36:52ID:lwFR4c1R
>一次資料で確認されてる
「兼見卿記」では「ツマキ」と「光秀女房」は書き分けられている。
「多聞院日記」では「ツマキ」は光秀の妹と記載されている。
一次資料で確認されたのなら、史料名を出せよ。
0582人間七七四年2009/10/27(火) 20:37:43ID:m1xxhEkh
最初は面白かったが、同じ事の繰り返しで話が面白くなくなってきた。
>>580なんて何が言いたいのかわからん。
史料を否定するだけなら猿でもできる。

ところで、惟任姉妻木ってどう解釈すればいいと思う?兼見卿記だったと思うが。
0583人間七七四年2009/10/27(火) 20:52:41ID:NYbZwPC0
>>582
まずはここをよく読め!!
http://dangodazo.blog83.fc2.com/?no=104

それからまたおいで
0584人間七七四年2009/10/27(火) 21:15:00ID:m1xxhEkh
>>581
光秀には妻木氏の妹がいるという一次資料があるのを知ってて光秀が
明智氏と縁もゆかりも無いと主張するのは本末転倒だと思うけどなー。
むしろ、自分で証明してるじゃん。妻木氏は自称明智庶流だよ。
兼見さんが、他の誰に正月の挨拶した妻木氏をもっとも普通に解釈すれば妻木氏は光秀の妻になると思うが。
進物の半分を贈るほどだ。
仮に明智家臣の妻木氏であったとしても、そこまで重要視された背景を考えれば否定するほどの材料も見当たらない。
一次資料で確認というのは誤解を生む表現だった。これは謝ろう。

>>583
それ読んでた。というか、知ってた。島津関係も好きだし、わりとこの界隈じゃ有名だし。
それでもできれば空気を読んで欲しかった。
0585人間七七四年2009/11/01(日) 08:39:58ID:/1nW9mZu
明智 光慶(あけち みつよし)
明智光秀の長男。十兵衛。
光秀に従い各地を転戦。本能寺の変の前に行われた愛宕百韻では結句を詠む。
亀山城を守備するが高山重友、中川清秀の攻撃をうけ死亡した。

明智 定頼(あけち さだより)
明智光秀の次男。十次郎。 筒井順慶の養子となる。
本能寺の変後、秀満とともに安土城に入り近江一帯の掌握に努める。
山崎の敗戦に接し坂本城で殉死した。

明智 光頼(あけち みつより)
明智光秀の三男。乙寿丸。
山崎の合戦後美濃洞戸に戻る。荒深吉衛光頼と名乗り一族郎党を率いる。
関が原の合戦では東軍につくため出陣するが増水した川で水死する。
0586人間七七四年2009/11/06(金) 16:05:34ID:cttLKoTW
岐阜の美山町にある光秀の供養墓は光秀の三男坊の墓だったのか?
0587人間七七四年2009/11/06(金) 23:30:12ID:RE2qDETi
>>585
そこまで書いたのなら長庶子の作之丞光重も入れてやれよ。

確実なのは、光秀には器量良しの12歳ぐらいの息子がいて(日本史)、家督相続者の仮名が「十五郎」(細川宛て書状)で
愛宕百韻の挙句に「光慶」なる名が記されたことぐらい。
0588奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/11/07(土) 02:46:50ID:PC7A+riw
玄琳
0589人間七七四年2009/11/14(土) 12:07:39ID:/4yi6OCM
さあどんどん議論しようではないか
0590人間七七四年2009/11/14(土) 14:22:36ID:zcgcBoOi
もし変が起こらなかったら、十五郎はやがて光秀の仕事をそっくり引き継いで
いたんだろうか?
信長なり信忠の側近とかからスタート?
0591人間七七四年2009/11/14(土) 23:35:12ID:611fanG+
>>585
まてよ、十兵衛は光秀だろう。
>>590にもあるが光秀嫡男は「十五郎」。
0592奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/11/14(土) 23:57:24ID:vd6C8iAl
通称なんだから諱以上にどうでもいいな。
0593人間七七四年2009/11/15(日) 00:09:01ID:ZKNaRG/g
>>585
庶子で「山岸光重」ってのがいるみたいだが。
0594人間七七四年2009/11/15(日) 00:39:42ID:pNdpLFxz
>>593
その山岸光重ってのが>>587の作之丞光重じゃね?
「美濃国諸旧記」に出てくる人物やね。

フロイスの「日本史」にある光秀の子は12歳前後らしいが、光秀がポックリ逝った場合に息子は年齢的に信長の即戦力には
なれんだろうね。
「当代記」だと光秀の没年は67だし、天正年間に光秀が過労で倒れて光秀死亡の噂がたったこともあるから(言継記)、光秀の
過労死は十分ありうる。
そんで、息子が>>590のいう側近スタートなら、明智家の領地は代替わりに伴い側近相応の領土に減封されたかも分からん。

谷口のいう「光秀老齢不安説」てやつはバカにはできん。
0595人間七七四年2009/11/15(日) 11:45:18ID:n55xGzrJ
>>594
息子や家族だけならまだしも、一族も食わしていかなきゃならないからな。
大幅な減封はきついだろう。
0596人間七七四年2009/11/15(日) 16:25:31ID:Gr17/Ut2
光慶って坂本城で明智秀満らといっしょに
死んだんじゃなかったっけ?
0597人間七七四年2009/11/15(日) 19:07:36ID:ZKNaRG/g
>>596
悪名高い明智軍記ではどう記述されてるの?
0598人間七七四年2009/11/15(日) 19:49:45ID:Gr17/Ut2
>>597
明智軍記は知らんが、「川角太閤記」には、
坂本城で秀満が光秀の遺児たちを殺して自らも
自殺したとある。
この「光秀の遺児たち」には光慶(十五郎)も
含まれると思われる。
0599人間七七四年2009/11/24(火) 00:12:47ID:rDEvC0Se
花記念フェスタ公園に行ったら、明智城って汚い看板がいくつかあったな。
どういう感じなんだろう。
0600人間七七四年2009/11/24(火) 00:26:14ID:rDEvC0Se
老齢不安、というのは誰にでもあるだろうから否定はしにくいものだろうね。
問題はそういう時に、細々とでもいいから御家継承を重要視するか、それともこのままでは御家断絶に近いような状況になりそうだからイチかバチかの勝負に出るか、そのあたりの「具体的状況」と
光秀自身の考え方の問題、このあたりはわけてじっくり整理してみないといけないだろうな。
0601人間七七四年2009/11/24(火) 00:32:18ID:rDEvC0Se
連続で悪いが自分としては、光秀からみて信長はそんなに特に超優れた武将ではなくて、サルやタヌキもなんとかする自信があって、それで
このまま一族が減封とか辛い目にあうのだったら、優秀な自分が生きてるうちに勝負に出て天下はともかく、大きな領土獲得しておくか、
その後は後の話、とこういう感じじゃなかったかなとは思ってる。
遺恨とか、野望100%の野心、とかそんなガチガチな理由とは思いにくい。
0602人間七七四年2009/11/24(火) 00:48:27ID:uC5UuRqL
中堅クラスでは森家あたりがあるんだが、国持ちレベルだとやや特殊事情下での原田家の取りつぶしぐらいしか
思いあたらん。
織田家中での国持武将レベルの御家継承は前例がないから、光秀が「老齢そのもの」を不安材料にしたかどうか
は分からんな。
ただ、信長は抜擢に応えられない簗田の指揮権をはく奪した前例があるから、光秀のムスコがヘマをしたら所領
の減封ぐらいはやると思う。
0603奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/11/25(水) 19:20:02ID:7FSoWYUl
この流れだと柴田は何となく改易対象の一番手に見えるな。
0604人間七七四年2009/11/26(木) 16:28:14ID:7FiLlgLs
本能寺前の信長なんて、もはや前線に出ることもなく、戦は配下に丸投げして
遊びまわってる、武将としてはボンクラの類だろ。
0605人間七七四年2009/11/27(金) 00:54:19ID:O8QAhxpG
>>604
前線に出る=大名の役割の全てとでも思っているのかねw
0606人間七七四年2009/11/27(金) 06:06:25ID:RE0oYKdk
本能寺の頃はもう、サルやタヌキぐらいで十分なぐらい圧倒してたからね。
ただ、本人たち、サルと光秀なんかは、信長はたいしたことない、と思ってたかもしれない。

今は結果論で考えすぎなんだよね、1582ぐらいにおいては、早いもの勝ち、でみんな勝負かけてたし、そこで生き残ったものがやっぱりたいしたもの。
とは思う。
0607人間七七四年2009/11/29(日) 15:29:30ID:OirgyiMw
とあるブログ(スピリチュアル系)を偶然読んだのですが、
ここのブログ主さん(霊視能力が凄いらしい)によると

本能寺の変の犯人は羽柴秀吉。
光秀は信長に対して絶対の忠誠心の持ち主。
信長は大事な客人(家康公)を任せられると
光秀に対しては常に信頼していた。
信長公は秀吉のことを ずるいヤツいつでも捻り潰してやる と思っていた。
秀吉の部下(忍者部隊?)が、本能寺に宿泊予定の信長を「ここは危険」と
誘い出し暗殺すると同時に本能寺を焼き討ちにした。
光秀が駈け付けたときには、すでに「日向守謀反」の流言が・・・・・・・。
この時 秀吉は高松には居なくて、京に近い所に居た。

光秀は家康公宛の手紙を斉藤利三の長男に託し、最後の一戦に挑んだ。
家康公は三河に戻ってから速やかに軍勢を整え出陣しようとしたが、
山崎の合戦の結果を知り出陣を取り止めた。

ちなみに、斉藤利三の長男はその後比叡山で仏門に入り修行し、
江戸幕府で天海大僧正として活躍したその人。

との事。

これって 一つの説として有り得る(時系列的に)事ですか。
詳しい方おられましたら解説を御願いしたします。 
0608人間七七四年2009/11/29(日) 17:51:13ID:o9Vxz4Ia
>>607
有り得ないから安心しておくれ。

しかし、少年少女をダマそうとすると、こうやっていろんなトンデモ説をくっつけるのか、と関心はする。
0609人間七七四年2009/11/29(日) 18:53:58ID:ZP9VD1Za
>>607
そのブログURL貼ってくれ
0610人間七七四年2009/11/29(日) 19:06:37ID:ZP9VD1Za
>>608
他にどんな事が書いてあるのかみてみるのも一興
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