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寡兵で大軍を破った戦い

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0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/23(土) 02:13:32ID:E8ad61KX
桶狭間合戦や厳島合戦のような
劣勢を跳ね返し、大軍を破った戦いを語りましょう。
0153人間七七四年2007/02/16(金) 23:38:31ID:GWaK9O+P
>>122
今川が到着すると大高包囲の将2人は玉砕、
撤退した残り2人も、着陣した信長の目の前で突撃して散った。
こういうことは、戦国では異例中の異例。
なぜそうなったのか、詳しくはwebサイト藤井戦国史を参照。目から鱗だよ。
勝利か、しからずんば死か、という状況を演出し
その結果織田軍は韓信の背水の陣と同じ、狂戦士集団と化してしまった。
一方の今川は、その直前まで完勝ペースであり、
大高救援の戦略目的を達成してしまっていた。
常識なら織田方は和議か退却かという、終わってる状況だった。
油断はなかっただろうけど、慢心はあっただろう。
こうなると大軍でも案外もろい。
今山、関ヶ原、大坂にも共通している。探せばもっとでてくるだろう。
0154人間七七四年2007/02/16(金) 23:47:19ID:BxO60sSh
>>147
突撃時の信長の手勢はもっと少ないと思うけどね。
まず桶狭間の前に、信長は鳴海城を築城包囲しているがその軍勢の中身は尾張の
大身である佐久間一族、それに織田一族と信長馬廻衆から編成されている。
さらに信長公記によれば、信長と別れて行動していたやはり尾張の有力豪族である
佐々氏・千秋氏の部隊がある。
さらにこれは推測になるが、大きな動員兵力を持っていただろう柴田・林が参加して
いない(清洲に残されたか、別方面に当てられたか?)。
こういった点を考えると、桶狭間時点での織田家の動員兵力はそれなりに高かった
だろうが、信長が手元で動かせた兵力は通説並の二、三千くらいには落ちるのでは
なかろうか?
0155にゃんこ2007/02/17(土) 00:06:46ID:YIcdocaU
153>

二人を見殺しにした理由?
そんなもん、単に信長本陣への戦力の集中だろ。

背水の陣なんて真に受けてはいかんと思う。そんなのが本当に成功するなら、
相手の退路を断つ包囲作戦なんか誰もしないよ。
そして、みんな、自軍の退路を断つ。
渡った橋を落とすのは、気合い入れの儀式に過ぎないと思うね。勝因は別にある
と思う。
ちなみに、三河物語に「鉄砲をたくさん撃つ」と書かれた武田軍が、長篠で敗れた
のは、織田・徳川に包囲されたからだ。
0156にゃんこ2007/02/17(土) 00:11:13ID:YIcdocaU
154>

にゃるほど。痛い所をつかれた。
しかし、そうなると、織田方の勝因を、説明しにくくなるよね。
0157にゃんこ2007/02/17(土) 00:14:35ID:YIcdocaU
154>

反論を思いついた。当時の国人の領地は、江戸時代の旗本レベルだろう。と、すると
この時期の柴田や林の私兵は数百人に過ぎない。柴田や林以外の無名の国人や地侍が信長主力
に入れられていたら、もっと多い人数を想像できる。
0158人間七七四年2007/02/17(土) 00:42:45ID:daKIuifF
なんて資料からの考察?
0159人間七七四年2007/02/17(土) 03:58:28ID:rM4mdBwf
>>155
背水の陣と包囲殲滅戦を同一視するとはw
0160にゃんこ2007/02/17(土) 07:47:05ID:YIcdocaU
159>

みんな「自軍の退路を断つ」

とも書いたよ。あいまいだが、区別はしてある。

159>

国人とか地侍の件は、教科書的基礎だよね。どの高校受験参考書にも書いてある。
そこから、考えられるね。あくまで、可能性に過ぎないが。



0161人間七七四年2007/02/17(土) 12:57:28ID:ohA7sNuI
>>157
千秋氏は、知多半島で推定五万石の領地をもっていたとされています。
また林氏は稲生合戦で記録では千五百〜七百の兵を動かしてます。

無名の国人や地侍という存在は、普通は信長とか佐久間とか林などの
大身の豪族の寄子となってその軍勢の構成要員となります。
上で挙げた林氏の動員兵力千五百には、無名の国人衆が含まれている
数字なのです。
0162人間七七四年2007/02/17(土) 13:01:36ID:lS9zlgCm
織田軍二千、というのは熱田神宮まで少数の供回りと駆けて来た信長にわざわざ追いついてきた兵力
戦意・機動性とも高い虎の子の精鋭部隊ってことでは?
参集方法の性質上、非戦闘員として軍隊につきものの人夫や軍役夫も少なかったと思われる
つまり、真水の二千対本陣機能のための戦闘に向かない連中も混じった今川本陣五千
意表をついて敵中を突破し、天候にも助けられた織田軍が一方的主導権を握ってもさほど不思議ではないと思うが
0163人間七七四年2007/02/17(土) 14:57:10ID:cBxfM6np
お前らウザイから、もう自分で見てこいよ
0164人間七七四年2007/02/17(土) 19:23:02ID:TopOkgvX
>>163
実は見てきたんだけど多分言っても誰も信じてくれないから黙ってる
0165人間七七四年2007/02/17(土) 19:38:08ID:dhFdnVC8
>>155
戦力を集中したかったら、合流させるんじゃないですか?普通。
突撃して壊滅し疲弊した敗残兵が加わったところで何の足しになるでしょう。
千秋と佐々はそうせざるをえない立場だったことを無視しています。
これは計算とか作戦とかの範疇には入りません。だからこそ、効果的なのです。

>そして、みんな、自軍の退路を断つ。
そういう反論があるだろうと予想していました。
カメ割り柴田、毎回割っていて説得力があると思いますか?
それではただの狂人で、だれも相手にしません。
ヒトラーの死守命令、最初は効果がありました。あとは知ってのとおり。
類例がいくらでもあるのに、背水の陣が事実か問うて意味がありますか?

0166人間七七四年2007/02/17(土) 23:28:43ID:5GWFRunc
要するに、通説の桶狭間の戦いを否定してる連中は、単に「寡兵で大群を打ち
破った信長」の評価を落としたいのと、「寡兵に敗れた義元」という凡将のレ
ッテルを覆したいだけのような気がする、そう思う最大の理由教えてやろうか?

今川軍と同等の兵力を備えた織田軍がどうして、背 水 の 陣 なのですか?
正面から戦って勝つ戦は普通大将の指揮の旨さによるものじゃないの?
はっきりいうが、今川義元なんて自身は軍略に長けた武将じゃないのご存知?
3州併合も雪斎が主に指揮しての領土拡大だったってのご存知?
0167人間七七四年2007/02/17(土) 23:34:37ID:5GWFRunc
なら逆に、織田軍が寡兵で正面から今川軍に打ち勝ったとすれば、更に
義元の凡将ぶりが伺えるよ、そりゃそうだ武将じゃないもんね義元は。
みずから陣頭指揮なんて出来るわけないんだから。
そういったことも知らずに、ひたすら「織田軍は背水の陣で狂気して正
面から突破していった戦略性のない戦」と解釈してるんだか。

結局公家大名と武将との違いってことですよ、雪斎の存在が全ての今川
家なんですよ。
0168人間七七四年2007/02/17(土) 23:51:44ID:tAFgh9Ch
なんで極論から極論に走るんだ?

二万五千〜四万という数字が誇張であるかもしれない、とは俺も思う。
だからといって、信長が桶狭間で非凡な業績をあげた事は否定できない。
するつもりもない。

もちろん、「”天才”」信長がすべての状況を見通し操っていたとも思ってないが。
偶然の要素もかなり絡んでいるし。

神話ではない実際の姿を知りたいと思ってるだけだが。
0169人間七七四年2007/02/18(日) 00:21:03ID:z55wqnIj
極論から極論に走る奴はバ(ry
0170人間七七四年2007/02/18(日) 00:26:59ID:bVr8grlL
極論に逃げるのは論理破綻した証拠。
だいたい同等の兵力なぞ論拠も資料もないものを持ち出だされてもね。
そのうえ背水の陣が比喩と理解できずに拘泥。
あげくに義元の無能を力説しだす始末。
はじめから武将の能力なんて論点にすらなってないんだよ。
そんな曖昧な主観だけで何かがわかると本気で思ってるのか?

0171人間七七四年2007/02/18(日) 00:34:17ID:LqQHX422
二万五千〜四万が誇張かもしれないって言うけどそれを裏付ける資料はあるの?
0172人間七七四年2007/02/18(日) 00:34:59ID:IWJ93Wdy
>>171
石高

とにかく、4万だけは絶対にありえない 25000は結構妥当な数字だったりする 石高だけで考えたら20000〜22000
0173人間七七四年2007/02/18(日) 00:35:27ID:Ns+JJk0c
>>171
太閤検地の石高
0174人間七七四年2007/02/18(日) 00:37:33ID:LqQHX422
まぁ4万は確かにあり得ないだろうが2万5千ならあり得るんじゃないか?
0175人間七七四年2007/02/18(日) 00:49:06ID:vaIFt3UK
石高≒人口だそうだ。

そうすると駿河、遠江、三河で70万人の人口。

そのうち兵役についている人口が5パーセントとすると

3万5000の兵がいる計算になる。

充分ありえるんじゃないの?>2万5000
0176人間七七四年2007/02/18(日) 00:52:50ID:HADoshBs
>>170ばーーーーーか、なら織田軍が狂気しただの背水の陣で真正面
から義元本陣へ突破だの、今川軍と同等の兵力だっただの屁理屈ばか
り言ってるお前らはどうなんだ?織田軍は美濃にも兵力を分散しなけ
ればならないから、今川軍全軍と同等の兵力なんて考えられないんだ
よ。それに北伊勢も義元は抑えてたというしね、信長は完全に尾張の
奥に押し込まれた感じだな、これでどうやって10000以上兵力を
揃えることが出来るんだ?ちなみに3国同盟で今川軍は背後に心配な
く遠慮なく兵力を揃えれたわけだしね。

それから俺の言ってることが極論とか言ってるが間違ったことなんか
一つも言ってないよ、お前らが痛いところつかれて反論出来ないの見
え見えなんだよターーーコ
まさか、義元自身が陣頭指揮に関して未熟なこと知らなかったとか言
うわけじゃあるまい?
0177朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 2007/02/18(日) 00:55:21ID:+Eoi27Vz
朝倉宗滴1万2000 vs 加越能一向衆30万
0178人間七七四年2007/02/18(日) 00:56:43ID:Ns+JJk0c
太閤検地と慶長検地で石高が大きく変動した所もあるし、
実高と表高に大きく差がある場合もあるので
桶狭間時にはもっと動員できたかもしれないね。

武田徳川の今川領侵攻、徳川対武田、小牧・長久手などで
で元今川領は太閤検地時には荒れ果てていた可能性もあるし。

2.5人役はあくまで目安で、実際はもっと動員できたようだし。
0179人間七七四年2007/02/18(日) 01:00:56ID:JPSi4gAG
>>177
ウソウソ
0180人間七七四年2007/02/18(日) 01:01:21ID:Cg8OydVg
>>178
徳川の動員力から今川のそれを類推する事は出来るだろうね
0181人間七七四年2007/02/18(日) 01:02:00ID:HADoshBs
「同等の兵力だなんて根拠になる資料の無いものをどうのこうの」
お前らの方から、織田軍の勝因の一つにそう挙げてたんじゃなかったの?

「背水の陣が比喩と理解できずどうのこうの」
史実にある背後からの奇襲による勝利という説を覆したいが為に、お前ら
の方が勝手に真正面から背水の陣で突破という妄想でそう答えてただろば
ーーか

「義元の無能を持ち出す始末」
おいおい戦闘において大将の作戦采配は一番重要だろうが 笑)
義元が周囲の警戒を楽観視していれば、配下の武将もそう動く。
仮にびっしり警戒していても、その先どうすれば良いか、公家
大名の武将じゃない義元にはそれが出来ない、砦間の連絡の取り
方や、膠着した状態での冷静な指揮などね。
0182人間七七四年2007/02/18(日) 01:06:45ID:HADoshBs
ついでに言わせて貰うと、今川軍の動員兵力が40000とか言ってる
人、現在では誰もいないよ、大概の作家や大学教授なんかは25000
ぐらいだと言ってるね、まあ現代人の解釈なんか当てになるかどうかわ
からないが。
それか、もしかしたら3州の兵数と尾張の占領した一部地域からの兵と
北伊勢の兵もまとめて一緒くたにしての40000だったりしない?
北伊勢の兵が動いたのかどうかは知らないが。
0183朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 2007/02/18(日) 01:12:24ID:+Eoi27Vz
>>179
これをウソと言ったら、合戦の動員数として史料に表れる数字はすべてウソといえるかも。
参謀本部が2.5人役といってるのも地域や状況によっては6瑞l役になってる緒鼾があるし、
軍役がそもそも守られてたのか着到状が真実かは、類推する以外に確かめようがありませんぜ。
0184人間七七四年2007/02/18(日) 01:15:39ID:Cg8OydVg
兵数については、
状況から推測するしかないからね。
0185人間七七四年2007/02/18(日) 01:33:40ID:2Q28WCWj
状況から推測するなら今川方が大量動員したこと自体が織田方に充分な兵力を揃えられたことを
実証していると言えるな。
織田に2000や5000程度の決戦兵力しか準備できないなら三河遠江からの部分動員で充分。
1年以上費やして総動員をかける必要はない。
0186人間七七四年2007/02/18(日) 01:34:38ID:LqQHX422
>>183
一向宗が仮に30万いたとしても女子供や老人みたいなのも大勢いたんじゃないか?
30万はともかく宗教勢力は石高じゃ測れない動員できそうだし
0187人間七七四年2007/02/18(日) 01:54:28ID:HADoshBs
>>185 もう支離滅裂で笑えるよ君www

3州と尾張半分を押さえてる今川より、何で尾張半分の織田が同等の
兵力を揃えられるの?それから今川の動員数は上洛する為のものなん
でしょう?



それから今川厨は早く>>166>>167>>176>>181に答えてみろよ、都合
の悪いことにはだんまり決め込むんだなあ
0188人間七七四年2007/02/18(日) 02:05:16ID:2Q28WCWj
通説桶狭間厨こそ信長を貶めてる気がするが。
こいつらはつまり信長は必要もないのに不確定情報に基づいて
寡兵で突っ込むんだ馬鹿だったと主張してるわけだが。
0189人間七七四年2007/02/18(日) 02:07:54ID:Cg8OydVg
>>188
どんな優秀な指揮官でも、ときには誤謬を犯すと思うが。

信長ファンだが、「なんでもお見通し」みたいな半神扱いには呆れる。
0190人間七七四年2007/02/18(日) 02:17:49ID:HADoshBs
>>188お前相当アホなんだね、一回自分で頭かち割って脳みそ
どうなってるか確認してみたら?
寡兵であれば機動力がそもそも違うだろ、おまけに織田軍は兵
農分離してる最中の兵なわけだし(時期的に始めたばかりだが)
のうのうと休息してれば奇襲受けて当たり前

>>189そういう風に認識してる信長ファンはいません、しかし
信長も情報によって、義元というのが武将では無いことぐらい
認識していたのは確かだろ、実際三河や遠江平定も雪斎が指揮
してたのは知ってただろうし。
0191人間七七四年2007/02/18(日) 02:26:46ID:2Q28WCWj
>>190お前相当アホなんだね、一回自分で頭かち割って脳みそ
どうなってるか確認してみたら?
まともな戦国史料読んだこと無いだろ。
寡兵だと見つかったら終わりだろうが。織田が兵力分離の最中だぁ?
どこにそんな史料がある。そもそも兵農分離ってのは領土拡大して兵力に余裕ができた後に可能なんだよ。
兵が足りないから鎌倉型の百%兵農分離型から農兵動員型に変わったんだろうが。
周辺国に拮抗した動員力しかない段階で兵農分離なんぞやってたら本物の馬鹿だなw
お前の中の信長はお前並の馬鹿なようだw
0192人間七七四年2007/02/18(日) 02:30:33ID:LqQHX422
でも織田が寡兵じゃなかったとする史料が無い以上

多対多の戦いってのは妄想の域を出ないんじゃね?ってか想像だけじゃどうしようもない
0193人間七七四年2007/02/18(日) 02:33:34ID:Cg8OydVg
>>192
ま、そんなとこでしょう。

信長公記の記述より兵力差は小さかったと思う
ひょっとすると5000対25000より小さかったかもしれない。

だとしても、同等ということはなさそう。
というより、同等とする史料がない。
0194人間七七四年2007/02/18(日) 07:57:33ID:whqL/6fT
大高・鳴海包囲にどれだけの兵を配置していたのだろう。
1つの砦に4百と仮定すると、5つの砦で2千。8つの砦という説も有るし。
信長が2千率いて清須出陣たとして、美濃・伊勢・清須等の守備もいただろうし。
0195名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/18(日) 08:48:27ID:Lhn7bzYE
完勝した!!って油断しまくってたところに突撃してきたから総崩れになった、補給路が間延びしすぎた、それだけ
0196にゃんこ2007/02/18(日) 11:58:13ID:KXivOE7A
読んでない人のために、何度も繰り返すが

美濃・伊勢方面に対しては、警戒兵力だけで良い。なぜなら、三河方面から近いから。
小国の内線作戦は兵力が集中させやすい。(せめて、内線の意味を知ってから反論してくれ。)
理論的には、分散させるよりは集中して、各個撃破を狙った方が良い。

しかし、大国だと、各方面間の距離が遠いから、各個撃破が難しい。主力の移動時間中に
かなりの被害が出てしまう。東方面の敵を倒してから、西方面の敵と会戦する
ことすら難しい。
だから、同盟を組まねば、各方面ごとに戦力を配備する必要ができる。
0197人間七七四年2007/02/18(日) 12:01:54ID:1Z2Kc5SP
もう飽きたよ。桶狭間の話
0198にゃんこ2007/02/18(日) 12:07:58ID:KXivOE7A
165>

その手のパフォーマンスを勝因の主にする考え自体がおかしいと思う。
勝因の主は、政治的なものや数学的なものだ。

例えば、スポーツの試合で、「監督による「気合い入れ」で勝てた」と言って
いるようなものだ。真の勝因は、普段の練習や選手の素質なんだが。
0199にゃんこ2007/02/18(日) 12:29:54ID:KXivOE7A
兵農分離については、

1,農民兵を徴兵しないから、遠征の兵数が少なくなる説と
2,限界まで搾取するためだから、遠征の兵数が多くなるという説がある。

私は2だと思うな。1が真実だとすると、
豊臣秀吉がイイ人過ぎる。

なお、「遠征の」という但し書きをつけたのは、防衛戦と遠征では惣村の協力
に大きな違いがあるから。
0200人間七七四年2007/02/18(日) 15:06:11ID:HADoshBs
とりあえず、尾張半分の領土で今川全軍と同等に近い兵力がどう揃うのか
説明出来ないと話にならないね。

>>198 まあ戦上手では無い武将同士が指揮した戦闘であれば、大概は兵数
や兵の強力さなどが勝敗を決したりするんだろうな
0201人間七七四年2007/02/18(日) 15:16:10ID:TfyXBZ2h
尾張の半分?尾張はほとんど制覇してますが?
それと、同等に近い軍は集まらないけれども、
本気で集めたら1万は超えるのは当然と言ったら当然で、すべての戦いで全軍を出す人間なんてほとんどいないからな。
0202人間七七四年2007/02/18(日) 15:23:18ID:Cg8OydVg
総兵力が一万人ほど
(知多半島や岩倉を支配してない事を思えば、
もう少し少ないかもしれない)
戦場にもっていく兵力が五千人

べつに奇異ではないね
0203人間七七四年2007/02/18(日) 15:54:06ID:HADoshBs
>>201つまり桶狭間に動員した人数とは関係ないってことだね、周囲へ
の備えもあったし。
それから尾張統一してたんならどうして清洲みたいな奥にまで押し込ま
れる状態におちいったの?そんな基本的なこと知らないで今まで散々喚
いてたわけ?
織田軍の兵力は結局、その半分の領土から動員したものなんだよ、尾張
を統一したのは戦後だ。
0204人間七七四年2007/02/18(日) 16:05:08ID:vl7DLho6
猪木対木村、浜口、寺西ももちろん入るだろうな…あ、勝てなかったんだっけ
0205人間七七四年2007/02/18(日) 16:10:40ID:CHP0wYcr
こんなスレもありますよ

桶狭間の合戦の真実について
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149962872/
0206にゃんこ2007/02/18(日) 16:44:09ID:KXivOE7A
この戦争に動因された総兵力と、決戦場の桶狭間山周辺の兵力を区別してない人は
にゃんこの文を誤読しているよ。

総兵力は、今川の方が大きいのは事実だろうが、桶狭間山周辺では大差がなかった

とすれば、織田方の勝因を、小説的なネタに頼らず、合理的に説明できる。
0207人間七七四年2007/02/18(日) 16:47:03ID:w7eguL7F
大差がなかった、というのは所詮予測だろう
信長公記の記述の最後の義元守った三百騎だって攻撃を受けた後の話
本来の本陣兵力がどれくらいいたか、という記述は無い
0208にゃんこ2007/02/18(日) 16:57:36ID:KXivOE7A
25000だとか、2000だとかという数字の根拠も今一つなんだよ。

1560年ごろなら、検地はまだまだユルユルで、千単位や万単位の動員数など
数えようが無い。小隊や中隊といった単位に編成してなくて、各地の親分たちが
私兵を率いて従軍するんだが、その人数の申告も、どの程度アテになるか?
そういう申告がアテにならないから、大名権力の伸長とともに検地がキツくなり、
やがて、実測による丈量検地が為されるんだから。1560年にに正確な兵数が
出せるくらいなら、太閤検地なんかいらないって。
0209にゃんこ2007/02/18(日) 17:05:12ID:KXivOE7A
そもそも、兵農分離ちゅうのは、兵士人口の正確な把握、といった意味が大きい。
前の防衛戦には参加したが、今回の遠征には参加しない半兵士や、
たまに戦う1/4兵士なんかを、兵士か農民かはっきりさせたわけだ。

207>予測というより、割り出しと言った方が正確だな。結果から割り出して
    いるんだから。
0210人間七七四年2007/02/18(日) 17:05:38ID:w7eguL7F
>>208
だからといって、史料に残ってる数字まで一概に検地前と否定したら何にもならない
その上で主観的予測一辺倒ではお話にならないよ
少なくとも説得力が無い
0211人間七七四年2007/02/18(日) 17:08:38ID:ftYuDewr
限りなく不毛な議論だな
みんなで分からない分からない主張して一体なにがしたいんだよw
0212にゃんこ2007/02/18(日) 17:13:22ID:KXivOE7A
説得力を感じるかどうかは、検地の意義の理解度によると思うね。

主観的予測?誰がそんなことした?16世紀末の石高からの割り出しから、
補給や農民への抑えの人数を割り引いたものが、主観的予測かい?


0213にゃんこ2007/02/18(日) 17:15:29ID:KXivOE7A
史料に、人数の数え方が書いてあったかい?

0214人間七七四年2007/02/18(日) 17:20:26ID:FEFO8Nj/
誰も私に賛同してくれないのは、検地の意義を理解できない馬鹿ばかりだからですってか?
普通にウザス。
ってかそこまで拘るなら専用スレ行けよage厨。
0215にゃんこ2007/02/18(日) 17:28:22ID:KXivOE7A
君のコーエー史観の方が、三戦版向きだな。

公家や指揮についての理解が、三戦版向きだよ。
0216にゃんこ2007/02/18(日) 18:10:38ID:KXivOE7A
「寡兵で大軍を敗った戦い」一般なんだが、

総兵力では「寡兵」側が下回っていたとしても、戦力の集中によって、決勝点では、
戦力(兵数×・・・)が上回っているものだ。それをやってのけるから名将なん
だよな。

コーエー史観のように、信長能力95、義元能力48なんてものじゃない。


0217人間七七四年2007/02/18(日) 18:14:14ID:AXktzvJz
沖田畷の龍造寺
謙信の関東出兵
厳島の陶
耳川の大友

これらは実際はどのくらいの兵力だったと思いますか
0218人間七七四年2007/02/18(日) 18:21:00ID:IWJ93Wdy
>>217
陶の25000は妥当なとこだと思うけど・・
謙信の関東出兵は関東中の大名が集まり北条家からも離反が続出したらしいから10万でも別におかしくはない とまでは言わないが5万〜8万は確実
0219人間七七四年2007/02/18(日) 18:22:11ID:HADoshBs
結局今川が戦に負けたのは事実、鈍足な動きばかり見せたのは事実
機動力に勝る織田軍=寡兵であったのは事実、1万数千もの兵で気
づかれずに今川本陣まで行けるわけがないんだからね。
元の総兵力が同等であろうが迅速な動きで本陣奇襲出来た織田軍が
凄かったということ。

え??実際は両軍共同等の兵力(桶狭間の時点)で真正面からぶつ
かって今川軍は負けたって?そんなのが言い訳なるかよ、それでも
信長の戦上手なことが伺えるからね。
0220人間七七四年2007/02/18(日) 18:31:52ID:hPmbGfXP
桶狭間に住んでいます
旧家には桶狭間に関する伝承が結構残っている
0221にゃんこ2007/02/18(日) 18:38:49ID:KXivOE7A
機動力?

ちなみに、秀吉軍は大返しで瓦解した。だから、山崎では摂津など地元勢力を主力
として戦った。大返しの本質は機動ではなく、政治宣伝だったんだな。
機動力を上げようとしたら、ローマのように規律と訓練を普段から叩き込まねば
ならない。
0222にゃんこ2007/02/18(日) 18:58:57ID:KXivOE7A
関ヶ原では毛利達、賤ヶ岳では前田がサボタージュしたけども、配下への統制力
が弱くて、サボられたり、裏切られたりするのが戦国の習い。
また、両陣営に誼をを通じ、どちらが勝っても一族全滅は避けられるように
工夫するものだ。イデオロギーではなく、土地利権の奪い合いなんだから。

陶自身と配下の総兵力の25000は過大だな。そんな大領主だったっけ?
陶側に相当なサボタージュがあったとしか考えられんと思う。
まだ、トップに立って日が浅いのも、大きいしな。
もし、通説通りなら、毛利側による武士階級虐殺だよな。革命戦争だ。
もちろん、そんなのではなく、サボタージュやあっさり降伏が多かったと思う。

0223人間七七四年2007/02/18(日) 19:03:36ID:yDDcgjja
>にゃんこ氏

ID:HADoshBsは支離滅裂で有名な糞コテですので
あまり反応しないほうが・・・
0224にゃんこ2007/02/18(日) 19:06:50ID:KXivOE7A
223>

サンクス。厨対厨 の口喧嘩してるね。彼は。「言い訳になるかよ。」だもんな。
0225人間七七四年2007/02/18(日) 19:10:17ID:HADoshBs
>>221  ほらほらまた話をそらすアホぶりwww
高松〜姫路〜京の距離と、清洲〜桶狭間の距離を一緒にするなターーコ
お前って普段リアルで相当単細胞相手に議論みたいなことしてるわけ?
そんな相手ならお前の考えも納得させたりするよなあ。
0226人間七七四年2007/02/18(日) 19:13:04ID:MRfeidxy
>にゃんこ

9時間も2chするなよw
0227人間七七四年2007/02/18(日) 19:13:35ID:vaIFt3UK
>>226
ワロタ
0228人間七七四年2007/02/18(日) 19:19:12ID:HADoshBs
周防 長門 安芸半分 石見半分 九州2ヶ国 これだけ領土があれば
25000ぐらい集まるだろ、それ以下だったとしても、毛利方も尼子
へのけん制などもあったから、結局寡兵しか集まらなかったと考えれる
わけで、寡兵毛利軍VS大軍陶は妥当だろ。
0229人間七七四年2007/02/18(日) 19:23:42ID:HADoshBs
>>224 「言い訳になるかよ」っていう俺のレスだが、「寡兵で横あるいは
背後から大軍を奇襲しての織田軍の勝利説」を捻じ曲げたい今川厨に対して
教えてやったんだけどね。
奇襲を無様に受けても、真正面から戦って下手な采配で負けても負けは負け。
桶狭間で負けたのは事実なんだから文句を言う資格は無しってことだ。
0230人間七七四年2007/02/18(日) 19:25:33ID:AXktzvJz
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
太閤検地での石高
筑前 325,695
豊前 140,000
長門 130,660
安芸 167,820
石見 111,770

豊前なんかは太閤検地と寛永期で全然違ったりするが・・・
0231にゃんこ2007/02/18(日) 20:33:49ID:KXivOE7A
226>

実は恥ずかしながら、ドラクエ8と、ハゲタカと、おりんと、天の覇王と、どろろ
と読んだり練金したりしながら、今日一日を過ごした。

さて本論
230氏の史料からは22000人。ただし、これから、他方面への備えや
体制の違いや掌握の度合い等々を割り引くと・・・・
20000人は確実に割るな。

225>
飛び出した大将を配下が追いかけるものは機動とは言わない。
0232人間七七四年2007/02/18(日) 20:37:55ID:AXktzvJz
訂正

筑前 325,695
豊前 140,000
長門 130,660
周防 167,820
安芸 194,150
石見 111,770

数字は太閤検地
0233人間七七四年2007/02/18(日) 20:52:21ID:AXktzvJz
2.5人役で計算
この数字は比較的低い数字らしく、もっと動員できると思う。

筑前 8140
豊前 3500
長門 3260
周防 4200
安芸 4850
石見 2800
0234にゃんこ2007/02/18(日) 21:05:41ID:KXivOE7A
2.5人役を小さいとするのは、丈量検地をしていないで、過大な兵力を宣伝
していた頃の数字を基準にしたものだろ?
それに、2.5人は遠征兵力だ。惣の協力の得やすい防衛戦の兵力がもっと
大きかったのは当然だ。
0235人間七七四年2007/02/18(日) 21:21:00ID:zWSDP1wf
なんかスレが伸びていると思ったら
「義元は武将じゃない」厨と「寡兵じゃ大軍を敗れません」厨の争いかw

それより、有名どころの戦国大名って1回くらい『寡兵で大軍を破る』戦いを
していると思うのだが、武田だけは思いつかん。なんで?
0236人間七七四年2007/02/18(日) 21:23:06ID:Cg8OydVg
>>235
じつは寡聞にして上杉謙信についても知らない。
彼が寡兵で大敵を破った例を知りたい。
0237人間七七四年2007/02/18(日) 21:26:19ID:XiYovMHA
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。

唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万 
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。

手取川の戦い  ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
0238人間七七四年2007/02/18(日) 21:31:42ID:vaIFt3UK
>>237
沢山城救援戦って北条軍の兵士は意味がわからなかったんだろうね?
でもマジで勇敢だよな。
0239人間七七四年2007/02/18(日) 21:38:32ID:Cg8OydVg
>>237
すまんが、講談ベースの話を聞きたいわけじゃない。
0240人間七七四年2007/02/18(日) 22:27:19ID:AXktzvJz
大内(陶)は筑前をどの程度まで掌握してたのだろう。
立花山城から西は大友領だったみたいだが。
0241人間七七四年2007/02/18(日) 23:17:42ID:HADoshBs
>>231 「飛び出した大将を配下が追いかけるのは機動とは言えない」

はい、精一杯の屁理屈ね、お前の屁理屈が、敵に悟られずに敵陣まで
たどり着くこととどう関係があるのかな?
0242人間七七四年2007/02/18(日) 23:21:27ID:HADoshBs
>>235元々寡兵で戦うような状況じゃなかったからだろ武田は
信玄初陣の時から甲斐一国領有してたし。
それに情報によって敵より多量に兵集めるのも軍略の一つ
0243人間七七四年2007/02/18(日) 23:36:47ID:zWSDP1wf
>>242
それもそうか

ん?そうすると島津はどう捉えればいいのだ?
0244にゃんこ2007/02/18(日) 23:38:46ID:KXivOE7A
241>敵に悟られずに敵陣までたどり着くこととどう関係があるのかな?

何じゃそりゃ?

そんな事できるはずが無いよ。昼間なんだから。まして、桶狭間山から丸見え
だよ。
経済力と各個撃破を狙う内線側の定石からいって、隠密作戦(笑)でなくても
勝てるんだよ。要は、決勝点への戦力の集中だ。
原書でなくて通読解説書でいいから、クラウゼヴィッツかジョミニでも読め。

偉そうに、戦史を語りたいなら、せめて内線や決勝点の意味ぐらい調べろよ。
0245人間七七四年2007/02/18(日) 23:43:58ID:AXktzvJz
>>243
薩摩はまずしい痩せた土地で、火山灰などの問題もあり、作物はほとんど育たなかった。
(それを解消するために後世薩摩芋というものができたわけだし)
そのため兵糧等の問題で、寡兵で出撃する必要があったらしい。

現在での鹿児島でも酪農のほうが盛ん。
0246人間七七四年2007/02/18(日) 23:51:50ID:zWSDP1wf
>寡兵で出撃する必要があったらしい

芋侍はつらいなー
0247人間七七四年2007/02/18(日) 23:57:38ID:LqQHX422
桶狭間で戦力差が無かったってする説が正しいとするなら信長公記の信憑性を全否定する事になるぞ
0248人間七七四年2007/02/19(月) 00:04:36ID:sxlyh/y6
>>244 あらあら、やはり机上の理論というかごく一般に知られてるような
兵法でしか物を測ることしか出来ないんだろお前 笑)
400年前のことなんだから、「織田軍と今川軍の兵力が同等」ってお前が
言ってることも有り得ないってちゃんと理解してるの?当時の地形、突発の
出来事とか頭に入れないんだね

敵に悟られる=その敵は周囲に気を配る(間者などを放って)ってことだろ?
実戦指揮に乏しい義元がそこまで気を配ったのかってこととか考えないの?
昼間(夜間という説も強い)でも大雨であれば十分に敵に気づかれない要因
にもなるよねえ、それに清洲城出発時には1000以下っていうから狭道を
移動するのに分けもないと思うが。
0249人間七七四年2007/02/19(月) 00:10:33ID:sxlyh/y6
にゃんこさんにもう一つ聞くが、じゃあそこまで今川軍と同等の兵力
が織田軍に動員出来たのなら、どうして桶狭間決戦まで尾張の奥にお
しとどめられるような状況になったわけ?桶狭間(田楽狭間)なんて
もろ尾張領内だろ?攻められて城砦なども落とされてる状況の織田軍
にそこから更に20000も再動員なんて出来るのかよ。
0250人間七七四年2007/02/19(月) 00:27:38ID:qNRqMDCi
今川義元が実戦指揮に乏しいって何を根拠に言ってるの?

雪斎が凄いのは事実だが、全部の指揮を執ってた訳じゃないぞ。
0251人間七七四年2007/02/19(月) 01:16:20ID:sxlyh/y6
根拠が知りたいのであればまず自分で調べましょう、事実義元は戦は
家臣にまかせっきりの大名なのですよ、外交や政治は違うだろうが。
0252人間七七四年2007/02/19(月) 01:18:39ID:qNRqMDCi
自分で調べましょうじゃなくて、お前が言ってる事なんだから根拠を言えと言ってるんだよ。
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