寡兵で大軍を破った戦い
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0001名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 02:13:32ID:E8ad61KX劣勢を跳ね返し、大軍を破った戦いを語りましょう。
0124人間七七四年
2007/02/15(木) 23:27:13ID:7C6399laなんだ?
こじつけでも回答できないようだなw
無様だねwww
0125人間七七四年
2007/02/15(木) 23:30:34ID:C+/qgVPa今川は尾張の一部を持っていた
尾張抜きの今川で75万石程度、尾張の一部を加えると80〜90万石になる
そして今川が凄かったのは金山と港の両方を持っていたこと 今川の経済力は凄まじく100万石に近い兵力を動員できたと考えられる
三国同盟により国は空っぽにできるし、22000〜25000の軍勢は動かせたと考えることができる
そして織田だが尾張57万石全てを持っていたわけじゃない、地盤は微妙で一部は今川の物になっていた
桶狭間までは今川の怒涛の進撃があったから大分領土も取られた となれば限界の12500〜14000からだいぶ落ちて10000程度になったと考えられる
そして信長は無茶苦茶な早さで移動したから急遽集まった連中ばかり、旗本とか戦闘部隊が中心でその他もろもろ合わせても2000〜5000程度
5000VS25000というのはかなり正しいと思う
0126人間七七四年
2007/02/15(木) 23:30:47ID:7C6399laゲームの必殺技=お前お得意の強襲じゃん。
オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
織田軍攻撃の直前まで今川が気づかずに攻撃を受けた。
これなら迎撃態勢が取れずに織田軍にやすやすと崩される理由になる。
お前の説だと気づかないなんて事はあり得ないのだろ?
やっぱりゲームの必殺技の強襲で一挙に壊滅ですかあ?w
0127にゃんこ
2007/02/15(木) 23:47:27ID:r5ysS7VK「日本人は丘陵地や山麓から、戦国時代になって、平野部に降りてきた。」
関東平野の開発は江戸以降だから、尾張こそ、当時の最先端産業地域
だった。つまり、学者の言う「剰余」が非常に多い地域だったと考えられる。
さらに、「寺内」なんてのも多い所。今川方に取られた所は、平野部中央
ではないから、経済的打撃は多くないと思う。
さらに、戦国時代は、遠征の場合、一揆等に備えて全軍を派遣することなど
できないし、まして、補給の問題もある。
一方、防衛側が、農民兵を動員しやすいのは、後の対豊臣の北条や徳川
でもあったよね。
今川の遠征兵力は20000を割り、その何割かが、桶狭間山にいた。
そこへ、10000から5000程度の兵が襲ったとしたのが、
現実的にあり得る戦いだと思うよ。
0128人間七七四年
2007/02/16(金) 00:14:19ID:I1LRVAFe0129人間七七四年
2007/02/16(金) 01:20:40ID:8Yrhpebk義元がいたのは桶狭間じゃなく田楽狭間じゃなかった?
俺の記憶ちがい?
0130メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/16(金) 01:32:55ID:Yr8Cyibc共真性の単細胞なの?必死なのは分かるけど基本的なことが抜けてるよ。
織田軍の兵力は 美 濃 にも裂かないといけないんだよ!!そもそも尾張
半国でどうやって20000も集められるんだよ。
俺の考えでは(多くの作家なんかも言ってるが)、清洲出た時には2000
人程度で、桶狭間に到着した時には5000人まで膨れ上がったと見ている
そして今川軍も、全軍若干感覚をあけて布陣しておいて、義元本陣の兵力は
10000人以下だったみたいだから、奇襲するのに悪くない兵力差ではあ
るね。
0131大恩教寺 ◆ozOtJW9BFA
2007/02/16(金) 01:50:20ID:8Yrhpebk今川本陣にいたのは僅か
200人程度だったと説明されている本もあります。
まだ研究者の間でもバラツキがあるのでしょうね〜
ところで桶狭間と田楽狭間って、義元の本陣があったのは
どちらなのでしょうか?
博学な方はお教えくださいm(__)m
0132人間七七四年
2007/02/16(金) 06:27:48ID:A78W09ENはい、0点
>オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
恥ずかしげもなく、何言い放っちゃってるの?
そこまで無知ならおとなしくROMってろや、タコスケが
0133人間七七四年
2007/02/16(金) 07:55:58ID:y/RcknXx0135人間七七四年
2007/02/16(金) 11:48:44ID:EidaDHtHだからそれ以下ということは無いだろう
義元以外にも重臣がかなり討死しているが、当然彼らの手勢も居たはず
一般には五千、ただし織田軍の予想外の出現や天候のせいでバラバラになっていたと言われてるね
小説の世界だと信長の差し金で送られた酒肴に酔ってたとかなるがw
0136人間七七四年
2007/02/16(金) 14:17:30ID:8Yrhpebkその可能性は十分ある。
特に織田の梁田広正は田楽狭間あたりに影響力をもっていた
梁田が田楽狭間の民と共謀して義元を油断させたということなら
信長が梁田を使って義元を油断させたともいえなくもない。
あくまで推測だけど
0137人間七七四年
2007/02/16(金) 14:23:18ID:8Yrhpebk広正→×
政綱→〇
0138人間七七四年
2007/02/16(金) 15:17:23ID:I1LRVAFe安価がない時はすぐ上のレスに決まってんだろ
0139人間七七四年
2007/02/16(金) 17:39:23ID:A78W09EN梁田が計らなくも大高陥落の阻止が確定した時点で
今川は目的を達したことになり、祝勝ムードだったみる。
0140人間七七四年
2007/02/16(金) 19:03:40ID:QiuzAu1t今川が織田軍の動きを察知していて、何で負けるんだ?
賢い人の考えはわからないよねえ?
というか、お前は自分の考えを書いてないじゃん。
もしかして強襲ボタン連打したから勝ったのかな?w
お前はこれから強襲厨と名乗れ。
お前にお似合いの名前だろ?w
0141人間七七四年
2007/02/16(金) 20:37:51ID:nFGKRYFZ関東の勢力図が一変したのは事実だし、小競り合いではない何らかの決戦はあっただろう。
もっともこのスレに相応しい寡兵VS大軍とは限らないが。
0142メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/16(金) 22:24:39ID:Yr8Cyibc桶狭間病院の近くにそんなとこないか?
0143あぼーん
NGNG0144にゃんこ
2007/02/16(金) 22:28:52ID:F0wNvsWzちゃんと読めよ。どこに織田方20000人なんて書いてある?
「大差ない」を20000と解釈したのなら、読み間違いだよ。
私は、そもそも今川の25000説など支持してないよ。
それに、私のどこが今川厨なのか?ちゃんと
127も読んでね。戦線間の距離が短い場合、兵力を分散する必要の無い
理由も書いてあるから。
0145にゃんこ
2007/02/16(金) 22:32:43ID:F0wNvsWz122に書いたように、戦線間の距離が短い場合、主力を分散させなくても良い。
何故なら、内線側の移動時間が短いから。ただし、指揮官の高い力量が必要
だがね。
0146にゃんこ
2007/02/16(金) 22:37:58ID:F0wNvsWz旧説・・・・・田楽狭間
新説・・・・桶狭間山・・・信長公記による。
桶狭間山が正しいんだろうね。一級資料によるし。しかし、初期の信長公記の
兵数は怪しい。信長の若い頃は、厳しい検地を行って、正確な動員を行える
時代ではなかったから。
0147にゃんこ
2007/02/16(金) 22:57:05ID:F0wNvsWz今川・織田国境方面への動員総兵力
今川・・・石高(?)から推定できる兵力から、遠征による補給負担や対一揆防衛軍を
さし引いて15000くらいか?
織田・・・尾張の半分と、防衛戦による農民兵の動員のしやすさや、内線ゆえの集中の
しやすさから、8000人くらいか?
桶狭間山での決戦時の兵力
今川・・・・分散したため、本陣は5000人ほどか?
織田・・・・比較的集中しやすいため、6000人ほどか?
これなら、織田が勝っておかしくないな。
0148にゃんこ
2007/02/16(金) 23:04:58ID:F0wNvsWzもっと動員できる。補給の負担が軽く、惣の協力も得やすいからだ。
しかし、厳しい検地のできなかった頃は、もっと動員兵力は少なかったと
見るべきだ。なぜなら、太閤検地の目的が「剰余」を残さないためのものだから。
今川の検地は差し出し検地であって、限界まで収奪・徴兵するためのものでは
ない。まして、遠征であるから、25000人という人数はあまりにも過大
だ。これは、何らかの政治的数字と見るべきだろう。
0149人間七七四年
2007/02/16(金) 23:05:56ID:5yOwkRmr0150メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/16(金) 23:08:37ID:Yr8Cyibcの大勝利だね、結局義元の前線は信長軍に気づかなかったのは
事実だし
0151にゃんこ
2007/02/16(金) 23:12:04ID:F0wNvsWzただ、この説の弱点は、「今川義元油断し過ぎ」
前線に近い所で、「本能寺状態」なわけだ。
そんなに油断するかな?
0153人間七七四年
2007/02/16(金) 23:38:31ID:GWaK9O+P今川が到着すると大高包囲の将2人は玉砕、
撤退した残り2人も、着陣した信長の目の前で突撃して散った。
こういうことは、戦国では異例中の異例。
なぜそうなったのか、詳しくはwebサイト藤井戦国史を参照。目から鱗だよ。
勝利か、しからずんば死か、という状況を演出し
その結果織田軍は韓信の背水の陣と同じ、狂戦士集団と化してしまった。
一方の今川は、その直前まで完勝ペースであり、
大高救援の戦略目的を達成してしまっていた。
常識なら織田方は和議か退却かという、終わってる状況だった。
油断はなかっただろうけど、慢心はあっただろう。
こうなると大軍でも案外もろい。
今山、関ヶ原、大坂にも共通している。探せばもっとでてくるだろう。
0154人間七七四年
2007/02/16(金) 23:47:19ID:BxO60sSh突撃時の信長の手勢はもっと少ないと思うけどね。
まず桶狭間の前に、信長は鳴海城を築城包囲しているがその軍勢の中身は尾張の
大身である佐久間一族、それに織田一族と信長馬廻衆から編成されている。
さらに信長公記によれば、信長と別れて行動していたやはり尾張の有力豪族である
佐々氏・千秋氏の部隊がある。
さらにこれは推測になるが、大きな動員兵力を持っていただろう柴田・林が参加して
いない(清洲に残されたか、別方面に当てられたか?)。
こういった点を考えると、桶狭間時点での織田家の動員兵力はそれなりに高かった
だろうが、信長が手元で動かせた兵力は通説並の二、三千くらいには落ちるのでは
なかろうか?
0155にゃんこ
2007/02/17(土) 00:06:46ID:YIcdocaU二人を見殺しにした理由?
そんなもん、単に信長本陣への戦力の集中だろ。
背水の陣なんて真に受けてはいかんと思う。そんなのが本当に成功するなら、
相手の退路を断つ包囲作戦なんか誰もしないよ。
そして、みんな、自軍の退路を断つ。
渡った橋を落とすのは、気合い入れの儀式に過ぎないと思うね。勝因は別にある
と思う。
ちなみに、三河物語に「鉄砲をたくさん撃つ」と書かれた武田軍が、長篠で敗れた
のは、織田・徳川に包囲されたからだ。
0156にゃんこ
2007/02/17(土) 00:11:13ID:YIcdocaUにゃるほど。痛い所をつかれた。
しかし、そうなると、織田方の勝因を、説明しにくくなるよね。
0157にゃんこ
2007/02/17(土) 00:14:35ID:YIcdocaU反論を思いついた。当時の国人の領地は、江戸時代の旗本レベルだろう。と、すると
この時期の柴田や林の私兵は数百人に過ぎない。柴田や林以外の無名の国人や地侍が信長主力
に入れられていたら、もっと多い人数を想像できる。
0158人間七七四年
2007/02/17(土) 00:42:45ID:daKIuifF0160にゃんこ
2007/02/17(土) 07:47:05ID:YIcdocaUみんな「自軍の退路を断つ」
とも書いたよ。あいまいだが、区別はしてある。
159>
国人とか地侍の件は、教科書的基礎だよね。どの高校受験参考書にも書いてある。
そこから、考えられるね。あくまで、可能性に過ぎないが。
0161人間七七四年
2007/02/17(土) 12:57:28ID:ohA7sNuI千秋氏は、知多半島で推定五万石の領地をもっていたとされています。
また林氏は稲生合戦で記録では千五百〜七百の兵を動かしてます。
無名の国人や地侍という存在は、普通は信長とか佐久間とか林などの
大身の豪族の寄子となってその軍勢の構成要員となります。
上で挙げた林氏の動員兵力千五百には、無名の国人衆が含まれている
数字なのです。
0162人間七七四年
2007/02/17(土) 13:01:36ID:lS9zlgCm戦意・機動性とも高い虎の子の精鋭部隊ってことでは?
参集方法の性質上、非戦闘員として軍隊につきものの人夫や軍役夫も少なかったと思われる
つまり、真水の二千対本陣機能のための戦闘に向かない連中も混じった今川本陣五千
意表をついて敵中を突破し、天候にも助けられた織田軍が一方的主導権を握ってもさほど不思議ではないと思うが
0163人間七七四年
2007/02/17(土) 14:57:10ID:cBxfM6np0165人間七七四年
2007/02/17(土) 19:38:08ID:dhFdnVC8戦力を集中したかったら、合流させるんじゃないですか?普通。
突撃して壊滅し疲弊した敗残兵が加わったところで何の足しになるでしょう。
千秋と佐々はそうせざるをえない立場だったことを無視しています。
これは計算とか作戦とかの範疇には入りません。だからこそ、効果的なのです。
>そして、みんな、自軍の退路を断つ。
そういう反論があるだろうと予想していました。
カメ割り柴田、毎回割っていて説得力があると思いますか?
それではただの狂人で、だれも相手にしません。
ヒトラーの死守命令、最初は効果がありました。あとは知ってのとおり。
類例がいくらでもあるのに、背水の陣が事実か問うて意味がありますか?
0166人間七七四年
2007/02/17(土) 23:28:43ID:5GWFRunc破った信長」の評価を落としたいのと、「寡兵に敗れた義元」という凡将のレ
ッテルを覆したいだけのような気がする、そう思う最大の理由教えてやろうか?
今川軍と同等の兵力を備えた織田軍がどうして、背 水 の 陣 なのですか?
正面から戦って勝つ戦は普通大将の指揮の旨さによるものじゃないの?
はっきりいうが、今川義元なんて自身は軍略に長けた武将じゃないのご存知?
3州併合も雪斎が主に指揮しての領土拡大だったってのご存知?
0167人間七七四年
2007/02/17(土) 23:34:37ID:5GWFRunc義元の凡将ぶりが伺えるよ、そりゃそうだ武将じゃないもんね義元は。
みずから陣頭指揮なんて出来るわけないんだから。
そういったことも知らずに、ひたすら「織田軍は背水の陣で狂気して正
面から突破していった戦略性のない戦」と解釈してるんだか。
結局公家大名と武将との違いってことですよ、雪斎の存在が全ての今川
家なんですよ。
0168人間七七四年
2007/02/17(土) 23:51:44ID:tAFgh9Ch二万五千〜四万という数字が誇張であるかもしれない、とは俺も思う。
だからといって、信長が桶狭間で非凡な業績をあげた事は否定できない。
するつもりもない。
もちろん、「”天才”」信長がすべての状況を見通し操っていたとも思ってないが。
偶然の要素もかなり絡んでいるし。
神話ではない実際の姿を知りたいと思ってるだけだが。
0169人間七七四年
2007/02/18(日) 00:21:03ID:z55wqnIj0170人間七七四年
2007/02/18(日) 00:26:59ID:bVr8grlLだいたい同等の兵力なぞ論拠も資料もないものを持ち出だされてもね。
そのうえ背水の陣が比喩と理解できずに拘泥。
あげくに義元の無能を力説しだす始末。
はじめから武将の能力なんて論点にすらなってないんだよ。
そんな曖昧な主観だけで何かがわかると本気で思ってるのか?
0171人間七七四年
2007/02/18(日) 00:34:17ID:LqQHX4220172人間七七四年
2007/02/18(日) 00:34:59ID:IWJ93Wdy石高
とにかく、4万だけは絶対にありえない 25000は結構妥当な数字だったりする 石高だけで考えたら20000〜22000
0173人間七七四年
2007/02/18(日) 00:35:27ID:Ns+JJk0c太閤検地の石高
0174人間七七四年
2007/02/18(日) 00:37:33ID:LqQHX4220175人間七七四年
2007/02/18(日) 00:49:06ID:vaIFt3UKそうすると駿河、遠江、三河で70万人の人口。
そのうち兵役についている人口が5パーセントとすると
3万5000の兵がいる計算になる。
充分ありえるんじゃないの?>2万5000
0176人間七七四年
2007/02/18(日) 00:52:50ID:HADoshBsから義元本陣へ突破だの、今川軍と同等の兵力だっただの屁理屈ばか
り言ってるお前らはどうなんだ?織田軍は美濃にも兵力を分散しなけ
ればならないから、今川軍全軍と同等の兵力なんて考えられないんだ
よ。それに北伊勢も義元は抑えてたというしね、信長は完全に尾張の
奥に押し込まれた感じだな、これでどうやって10000以上兵力を
揃えることが出来るんだ?ちなみに3国同盟で今川軍は背後に心配な
く遠慮なく兵力を揃えれたわけだしね。
それから俺の言ってることが極論とか言ってるが間違ったことなんか
一つも言ってないよ、お前らが痛いところつかれて反論出来ないの見
え見えなんだよターーーコ
まさか、義元自身が陣頭指揮に関して未熟なこと知らなかったとか言
うわけじゃあるまい?
0177朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA
2007/02/18(日) 00:55:21ID:+Eoi27Vz0178人間七七四年
2007/02/18(日) 00:56:43ID:Ns+JJk0c実高と表高に大きく差がある場合もあるので
桶狭間時にはもっと動員できたかもしれないね。
武田徳川の今川領侵攻、徳川対武田、小牧・長久手などで
で元今川領は太閤検地時には荒れ果てていた可能性もあるし。
2.5人役はあくまで目安で、実際はもっと動員できたようだし。
0179人間七七四年
2007/02/18(日) 01:00:56ID:JPSi4gAGウソウソ
0181人間七七四年
2007/02/18(日) 01:02:00ID:HADoshBsお前らの方から、織田軍の勝因の一つにそう挙げてたんじゃなかったの?
「背水の陣が比喩と理解できずどうのこうの」
史実にある背後からの奇襲による勝利という説を覆したいが為に、お前ら
の方が勝手に真正面から背水の陣で突破という妄想でそう答えてただろば
ーーか
「義元の無能を持ち出す始末」
おいおい戦闘において大将の作戦采配は一番重要だろうが 笑)
義元が周囲の警戒を楽観視していれば、配下の武将もそう動く。
仮にびっしり警戒していても、その先どうすれば良いか、公家
大名の武将じゃない義元にはそれが出来ない、砦間の連絡の取り
方や、膠着した状態での冷静な指揮などね。
0182人間七七四年
2007/02/18(日) 01:06:45ID:HADoshBs人、現在では誰もいないよ、大概の作家や大学教授なんかは25000
ぐらいだと言ってるね、まあ現代人の解釈なんか当てになるかどうかわ
からないが。
それか、もしかしたら3州の兵数と尾張の占領した一部地域からの兵と
北伊勢の兵もまとめて一緒くたにしての40000だったりしない?
北伊勢の兵が動いたのかどうかは知らないが。
0183朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA
2007/02/18(日) 01:12:24ID:+Eoi27Vzこれをウソと言ったら、合戦の動員数として史料に表れる数字はすべてウソといえるかも。
参謀本部が2.5人役といってるのも地域や状況によっては6瑞l役になってる緒鼾があるし、
軍役がそもそも守られてたのか着到状が真実かは、類推する以外に確かめようがありませんぜ。
0184人間七七四年
2007/02/18(日) 01:15:39ID:Cg8OydVg状況から推測するしかないからね。
0185人間七七四年
2007/02/18(日) 01:33:40ID:2Q28WCWj実証していると言えるな。
織田に2000や5000程度の決戦兵力しか準備できないなら三河遠江からの部分動員で充分。
1年以上費やして総動員をかける必要はない。
0186人間七七四年
2007/02/18(日) 01:34:38ID:LqQHX422一向宗が仮に30万いたとしても女子供や老人みたいなのも大勢いたんじゃないか?
30万はともかく宗教勢力は石高じゃ測れない動員できそうだし
0187人間七七四年
2007/02/18(日) 01:54:28ID:HADoshBs3州と尾張半分を押さえてる今川より、何で尾張半分の織田が同等の
兵力を揃えられるの?それから今川の動員数は上洛する為のものなん
でしょう?
それから今川厨は早く>>166>>167>>176や>>181に答えてみろよ、都合
の悪いことにはだんまり決め込むんだなあ
0188人間七七四年
2007/02/18(日) 02:05:16ID:2Q28WCWjこいつらはつまり信長は必要もないのに不確定情報に基づいて
寡兵で突っ込むんだ馬鹿だったと主張してるわけだが。
0189人間七七四年
2007/02/18(日) 02:07:54ID:Cg8OydVgどんな優秀な指揮官でも、ときには誤謬を犯すと思うが。
信長ファンだが、「なんでもお見通し」みたいな半神扱いには呆れる。
0190人間七七四年
2007/02/18(日) 02:17:49ID:HADoshBsどうなってるか確認してみたら?
寡兵であれば機動力がそもそも違うだろ、おまけに織田軍は兵
農分離してる最中の兵なわけだし(時期的に始めたばかりだが)
のうのうと休息してれば奇襲受けて当たり前
>>189そういう風に認識してる信長ファンはいません、しかし
信長も情報によって、義元というのが武将では無いことぐらい
認識していたのは確かだろ、実際三河や遠江平定も雪斎が指揮
してたのは知ってただろうし。
0191人間七七四年
2007/02/18(日) 02:26:46ID:2Q28WCWjどうなってるか確認してみたら?
まともな戦国史料読んだこと無いだろ。
寡兵だと見つかったら終わりだろうが。織田が兵力分離の最中だぁ?
どこにそんな史料がある。そもそも兵農分離ってのは領土拡大して兵力に余裕ができた後に可能なんだよ。
兵が足りないから鎌倉型の百%兵農分離型から農兵動員型に変わったんだろうが。
周辺国に拮抗した動員力しかない段階で兵農分離なんぞやってたら本物の馬鹿だなw
お前の中の信長はお前並の馬鹿なようだw
0192人間七七四年
2007/02/18(日) 02:30:33ID:LqQHX422多対多の戦いってのは妄想の域を出ないんじゃね?ってか想像だけじゃどうしようもない
0193人間七七四年
2007/02/18(日) 02:33:34ID:Cg8OydVgま、そんなとこでしょう。
信長公記の記述より兵力差は小さかったと思う
ひょっとすると5000対25000より小さかったかもしれない。
だとしても、同等ということはなさそう。
というより、同等とする史料がない。
0194人間七七四年
2007/02/18(日) 07:57:33ID:whqL/6fT1つの砦に4百と仮定すると、5つの砦で2千。8つの砦という説も有るし。
信長が2千率いて清須出陣たとして、美濃・伊勢・清須等の守備もいただろうし。
0195名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/18(日) 08:48:27ID:Lhn7bzYE0196にゃんこ
2007/02/18(日) 11:58:13ID:KXivOE7A美濃・伊勢方面に対しては、警戒兵力だけで良い。なぜなら、三河方面から近いから。
小国の内線作戦は兵力が集中させやすい。(せめて、内線の意味を知ってから反論してくれ。)
理論的には、分散させるよりは集中して、各個撃破を狙った方が良い。
しかし、大国だと、各方面間の距離が遠いから、各個撃破が難しい。主力の移動時間中に
かなりの被害が出てしまう。東方面の敵を倒してから、西方面の敵と会戦する
ことすら難しい。
だから、同盟を組まねば、各方面ごとに戦力を配備する必要ができる。
0197人間七七四年
2007/02/18(日) 12:01:54ID:1Z2Kc5SP0198にゃんこ
2007/02/18(日) 12:07:58ID:KXivOE7Aその手のパフォーマンスを勝因の主にする考え自体がおかしいと思う。
勝因の主は、政治的なものや数学的なものだ。
例えば、スポーツの試合で、「監督による「気合い入れ」で勝てた」と言って
いるようなものだ。真の勝因は、普段の練習や選手の素質なんだが。
0199にゃんこ
2007/02/18(日) 12:29:54ID:KXivOE7A1,農民兵を徴兵しないから、遠征の兵数が少なくなる説と
2,限界まで搾取するためだから、遠征の兵数が多くなるという説がある。
私は2だと思うな。1が真実だとすると、
豊臣秀吉がイイ人過ぎる。
なお、「遠征の」という但し書きをつけたのは、防衛戦と遠征では惣村の協力
に大きな違いがあるから。
0200人間七七四年
2007/02/18(日) 15:06:11ID:HADoshBs説明出来ないと話にならないね。
>>198 まあ戦上手では無い武将同士が指揮した戦闘であれば、大概は兵数
や兵の強力さなどが勝敗を決したりするんだろうな
0201人間七七四年
2007/02/18(日) 15:16:10ID:TfyXBZ2hそれと、同等に近い軍は集まらないけれども、
本気で集めたら1万は超えるのは当然と言ったら当然で、すべての戦いで全軍を出す人間なんてほとんどいないからな。
0202人間七七四年
2007/02/18(日) 15:23:18ID:Cg8OydVg(知多半島や岩倉を支配してない事を思えば、
もう少し少ないかもしれない)
戦場にもっていく兵力が五千人
べつに奇異ではないね
0203人間七七四年
2007/02/18(日) 15:54:06ID:HADoshBsの備えもあったし。
それから尾張統一してたんならどうして清洲みたいな奥にまで押し込ま
れる状態におちいったの?そんな基本的なこと知らないで今まで散々喚
いてたわけ?
織田軍の兵力は結局、その半分の領土から動員したものなんだよ、尾張
を統一したのは戦後だ。
0204人間七七四年
2007/02/18(日) 16:05:08ID:vl7DLho60205人間七七四年
2007/02/18(日) 16:10:40ID:CHP0wYcr桶狭間の合戦の真実について
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149962872/
0206にゃんこ
2007/02/18(日) 16:44:09ID:KXivOE7Aにゃんこの文を誤読しているよ。
総兵力は、今川の方が大きいのは事実だろうが、桶狭間山周辺では大差がなかった
とすれば、織田方の勝因を、小説的なネタに頼らず、合理的に説明できる。
0207人間七七四年
2007/02/18(日) 16:47:03ID:w7eguL7F信長公記の記述の最後の義元守った三百騎だって攻撃を受けた後の話
本来の本陣兵力がどれくらいいたか、という記述は無い
0208にゃんこ
2007/02/18(日) 16:57:36ID:KXivOE7A1560年ごろなら、検地はまだまだユルユルで、千単位や万単位の動員数など
数えようが無い。小隊や中隊といった単位に編成してなくて、各地の親分たちが
私兵を率いて従軍するんだが、その人数の申告も、どの程度アテになるか?
そういう申告がアテにならないから、大名権力の伸長とともに検地がキツくなり、
やがて、実測による丈量検地が為されるんだから。1560年にに正確な兵数が
出せるくらいなら、太閤検地なんかいらないって。
0209にゃんこ
2007/02/18(日) 17:05:12ID:KXivOE7A前の防衛戦には参加したが、今回の遠征には参加しない半兵士や、
たまに戦う1/4兵士なんかを、兵士か農民かはっきりさせたわけだ。
207>予測というより、割り出しと言った方が正確だな。結果から割り出して
いるんだから。
0210人間七七四年
2007/02/18(日) 17:05:38ID:w7eguL7Fだからといって、史料に残ってる数字まで一概に検地前と否定したら何にもならない
その上で主観的予測一辺倒ではお話にならないよ
少なくとも説得力が無い
0211人間七七四年
2007/02/18(日) 17:08:38ID:ftYuDewrみんなで分からない分からない主張して一体なにがしたいんだよw
0212にゃんこ
2007/02/18(日) 17:13:22ID:KXivOE7A主観的予測?誰がそんなことした?16世紀末の石高からの割り出しから、
補給や農民への抑えの人数を割り引いたものが、主観的予測かい?
0213にゃんこ
2007/02/18(日) 17:15:29ID:KXivOE7A0214人間七七四年
2007/02/18(日) 17:20:26ID:FEFO8Nj/普通にウザス。
ってかそこまで拘るなら専用スレ行けよage厨。
0215にゃんこ
2007/02/18(日) 17:28:22ID:KXivOE7A公家や指揮についての理解が、三戦版向きだよ。
0216にゃんこ
2007/02/18(日) 18:10:38ID:KXivOE7A総兵力では「寡兵」側が下回っていたとしても、戦力の集中によって、決勝点では、
戦力(兵数×・・・)が上回っているものだ。それをやってのけるから名将なん
だよな。
コーエー史観のように、信長能力95、義元能力48なんてものじゃない。
0217人間七七四年
2007/02/18(日) 18:14:14ID:AXktzvJz謙信の関東出兵
厳島の陶
耳川の大友
これらは実際はどのくらいの兵力だったと思いますか
0218人間七七四年
2007/02/18(日) 18:21:00ID:IWJ93Wdy陶の25000は妥当なとこだと思うけど・・
謙信の関東出兵は関東中の大名が集まり北条家からも離反が続出したらしいから10万でも別におかしくはない とまでは言わないが5万〜8万は確実
0219人間七七四年
2007/02/18(日) 18:22:11ID:HADoshBs機動力に勝る織田軍=寡兵であったのは事実、1万数千もの兵で気
づかれずに今川本陣まで行けるわけがないんだからね。
元の総兵力が同等であろうが迅速な動きで本陣奇襲出来た織田軍が
凄かったということ。
え??実際は両軍共同等の兵力(桶狭間の時点)で真正面からぶつ
かって今川軍は負けたって?そんなのが言い訳なるかよ、それでも
信長の戦上手なことが伺えるからね。
0220人間七七四年
2007/02/18(日) 18:31:52ID:hPmbGfXP旧家には桶狭間に関する伝承が結構残っている
0221にゃんこ
2007/02/18(日) 18:38:49ID:KXivOE7Aちなみに、秀吉軍は大返しで瓦解した。だから、山崎では摂津など地元勢力を主力
として戦った。大返しの本質は機動ではなく、政治宣伝だったんだな。
機動力を上げようとしたら、ローマのように規律と訓練を普段から叩き込まねば
ならない。
0222にゃんこ
2007/02/18(日) 18:58:57ID:KXivOE7Aが弱くて、サボられたり、裏切られたりするのが戦国の習い。
また、両陣営に誼をを通じ、どちらが勝っても一族全滅は避けられるように
工夫するものだ。イデオロギーではなく、土地利権の奪い合いなんだから。
陶自身と配下の総兵力の25000は過大だな。そんな大領主だったっけ?
陶側に相当なサボタージュがあったとしか考えられんと思う。
まだ、トップに立って日が浅いのも、大きいしな。
もし、通説通りなら、毛利側による武士階級虐殺だよな。革命戦争だ。
もちろん、そんなのではなく、サボタージュやあっさり降伏が多かったと思う。
0223人間七七四年
2007/02/18(日) 19:03:36ID:yDDcgjjaID:HADoshBsは支離滅裂で有名な糞コテですので
あまり反応しないほうが・・・
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