寡兵で大軍を破った戦い
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2006/12/23(土) 02:13:32ID:E8ad61KX劣勢を跳ね返し、大軍を破った戦いを語りましょう。
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2006/12/23(土) 02:16:24ID:G1ugRUn10003名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 02:16:51ID:uodMaej/0004名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 02:21:11ID:ZEXwJ1qL元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3000 対 ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
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2006/12/23(土) 02:22:48ID:qOVIGH+bてかさ、こんな戦について回るのが
誇張してるって話だよね
実際どうなの?えろい人
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2006/12/23(土) 02:22:52ID:WJT83RGR0007名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 02:33:44ID:U7+WmlRHhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%96%84%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6
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2006/12/23(土) 03:13:55ID:HfeVvgqG島津は伊東を数百でぼっこぼこにしたりしてるし信憑性あるよ。
九州ではわりと敵兵より少ない数で勝ってる。
龍造寺とか悲惨だし大友も大敗北。
朝鮮での話は誇張かも?
真田昌之
見事な籠城戦術
真田幸村
夏の陣は士気の違い、と大軍とはいえ兵を分散させて指揮系統の乱れをしょうじさせた徳川のミス。
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2006/12/23(土) 10:43:15ID:neVx9ikr0010名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 11:02:13ID:9n/vX1H1島津はどこからこんな兵が沸いてきたんだよwww ってのが多すぎる
どっちにしろ豊臣相手にはロクな目に遭ってないし島津の評価は低いぞ もし畿内にいたら浅井ぐらいのレベルだったかもしれん
日本三大夜戦の3人は凄いぞ
毛利は>>4
北条は小田原城で10万の上杉軍を追い返したし
織田は稲生で700VS1700 天王寺で3000VS15000 となかなか凄い戦いをしている
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2006/12/23(土) 20:36:29ID:9cj4YL070012名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 00:34:06ID:u9Qy6pMg直江 20000
最上 1000
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2006/12/24(日) 00:37:30ID:bMo8iMd50014名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 00:40:10ID:Yun/e9Ho面白いからそのままにしよう。
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2006/12/24(日) 00:49:45ID:CMwf+sS0生まれたかを語るスレにしよう。
0016名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 00:52:41ID:PMmkD/8S反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最
上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
政宗はこの時、若干19歳だった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、
両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
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2006/12/24(日) 02:02:14ID:IE2OLfPi話し変えすぎだろw
窪田の伊達軍は600人じゃなくて600騎
対峙するまでには留守政景や粟野国顕などの増員があって1000余騎になっている
6月11日連合軍北上
16日政宗、福原に着陣
6月23日芦名四天と伊達成実らの戦いで連合軍と伊達軍の双方に50余騎の死者がでる
7月4日には総勢で戦闘に及ぶ
6時間に及ぶ戦いで伊達軍80余騎、連合軍50余騎の死者がでて双方陣に引く
その後は積極的に動く事なく対峙し
18日に岩城の仲介により和議を結び双方兵を引いた
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2006/12/24(日) 02:39:06ID:Yun/e9Ho0019名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 04:54:20ID:bMo8iMd5鬼庭さんは凄いんだぞ〜
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2006/12/24(日) 09:12:42ID:gHe+qcoy0021名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 09:28:51ID:bMo8iMd5↓↓↓↓↓↓
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2006/12/24(日) 09:55:47ID:fcpJl8cZ0023名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/02(火) 13:18:37ID:nzN/nlEZ青山合戦 ○黒田300 VS ●赤松政秀1000
土器山合戦 ○黒田300 VS ●赤松政秀3000
英賀村の戦い ○黒田500 VS ●浦宗勝5000
阿閉城篭城戦 ○黒田500 VS ●宇喜多軍8000
三木城攻め ○黒田隊500 VS ●別所勢700
○黒田隊500 VS ●別所勢1000
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2007/01/05(金) 15:51:14ID:g/m/cFNi竜造寺の今山
毛利の有田 郡山攻囲戦 厳島
宗滴の加賀一向一揆戦
秀吉の鎌刃城救援
信長の稲生 天王寺
村上の上田原 砥石
武田信虎の 対福島戦
伊勢長島の第一次第二次防衛戦
北条の河越
里見の三船山
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2007/01/07(日) 12:58:54ID:TkTPw8Yr○関 盛信 13騎 VS ●神戸正武 500人
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2007/01/14(日) 09:40:15ID:AwjFbci3その13人って五虎将軍みたいな奴らだったのかな
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2007/01/26(金) 15:07:46ID:QiT8cC6fでなきゃリアル戦国無双もいいとこだなwww
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2007/01/27(土) 11:52:11ID:RyascpqY織田信長軍1600対斎藤軍6000
結果は織田軍の勝利。斎藤軍は大将長井甲斐守以下多数を討ち取られる
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2007/01/29(月) 22:24:32ID:RdCVfmUf島津家久の方が義弘よりも合戦が上手いなんていう奴がいるが
この木崎原合戦を調べてみなよ。
九州の桶狭間と言われるこの合戦に奇跡的勝利をしなければ島津家は伊東家と相良家の連合軍に滅ぼされていただろう。
島津義弘は300未満の兵しかいないのに伊東軍3000と相良軍の挟撃を受けて大勝利を挙げている。
それも家久の勝利のような一撃での勝利というわけではなく、機動力を生かした数度の戦闘で伊東軍を壊走させているんだからすごい。
一撃ならば「まぐれ」もあり得るけれど、数度に渡る戦闘で勝利しているのだから本物の強さだよ。
0030名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/29(月) 23:17:55ID:Bo2b5CV65分の1ぐらいに差し引いて見て丁度いい
0031名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/29(月) 23:30:50ID:D5cjV5bo応仁の乱
川中島
朝鮮出兵
関ヶ原
有名どころだとこれくらいかな、関ヶ原以外は泥沼化ばかりだが
寡兵で大軍を破る逸話よりも互角の状態から勝利した逸話の方が少ない気がする
0032名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 00:29:00ID:AgeQnLSs後が無い場合を除き自軍不利と見たら普通は余計な損害を嫌って撤収し、
後日のより良い条件での再戦を期すか外交的打開を試みる。
主力が消耗してたら、外交もままならないからな。
そういうわけで決戦が生起した場合はまず片方、または双方が情勢誤認を
起こしてる可能性が高い。
互角の状態ならまずどちらかが追いつめられてるということは無いし、不毛な
消耗戦に陥る確率が高いから双方が敵を互角以上と認識したらまず決戦自体が生起しない。
つまり「互角の状態から勝利した逸話が少ない」というより互角の状態で合戦になること
自体が珍しい。双方が敵を過小評価した場合のみ発生する戦闘だから。
0033名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 01:08:37ID:rTmJSnSO不意の遭遇戦もあるぞ?
0034名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 18:30:25ID:4W8q/dkn文頭
0035名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 19:29:40ID:h1uz+t7Uそれじゃ伊東はわずか600の兵で敵地に侵入して城を落そうとしていたのかよ?w
伊東は猛者だなw
0036名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 19:56:45ID:ywyNmfOs島津の兵は実際もう少し多かったと言いたいのだと思うよ。
官渡の戦いなんかでも曹操軍の兵力には疑問があるしね。
それと同じだよ。
伊東が少ないわけではない。
0037名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 20:07:12ID:kO3hlaT5島津2.5倍、敵0.75倍程度の兵力と考えるのが妥当かも
0038にゃんこ
2007/01/30(火) 20:26:11ID:ydTERo1s宣伝効果第一で適当な数字を挙げておこう。
2,戸籍をちゃんと作り、また訓練によって整列もできる。これで、人数を正確に
計算して、数学的に合理的な作戦を実行できる。
戦国時代は、ほとんど1だが、より先進的な統治を行っている大名は、2に近づける。
つまり、「後進的な統治で多めに人数を挙げている大名が、比較的先進的な統治を
行なっている比較的正確な人数を把握している大名に敗れた。」という側面が大きいと思うぞ。
0039名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 20:42:41ID:h1uz+t7U自軍の兵数を少なく記述することが島津家に利益になるわけではないのでそれはない。
まさか2ちゃんねるの価値観で少ない兵で勝ったぞ、すごいだろ!って自慢するわけがない。
むしろ動員力があるんだぞと誇示した方が大名家としては得だし、敵国に対する脅しにもなる。
泗川合戦で敵兵20万としていたのも、明軍が20万と号して島津軍をビビらそうとしたのが原因。
島津のほうでは20万いるかどうか数えられないので、明軍の言葉通りに20万の敵と合戦と記述したに過ぎないので
島津が大げさに伝えたわけではない。
ここを勘違いしている奴が多すぎ。
0040名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:03:35ID:Z4N4ctV7○宇梶1人vs●どっかの暴走族800
敵軍先鋒に殴り込み4〜5人瞬殺。あまりの強さに周りが逃げだし先鋒隊が崩壊→集団心理で全軍壊走
殴り込む宇梶はバケモンですな。
0041名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:05:51ID:sDQCfiIf悪いけど損得とか関係なくこういうの記す作者の多くは自分の殿は凄かったみたいなこと書くから
0042名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:06:01ID:T0jBzO0H石田三成他20000vs成田泰季300+女子供爺婆(城主氏長は主力を率い小田原出張中)
三成一世一代の自爆ギャグとして名高いが、実は相手が凄かった。
水攻め失敗も偶然ではなく、近隣人夫を抱き込み要所が手抜きな強度偽装堤防。
凄いのはその後。援軍として浅野長政、真田親子セットが派遣され、たちまち大激戦
さすが真田で城門が破られそうになるが、ここに現れたのが城主氏長の娘、甲斐姫。
鎧兜に身を包み兵を率いて真田の精兵相手に世紀の大乱暴、三宅高繁以下多数の首を挙げ
なんとこれを撃退。
以後も度重なる攻撃を凌ぎ、氏長から小田原開城の知らせを受けるまでとうとう守り切った。
ちなみに祖母は由良成繁の妻で輝子姫という有名人、継母は太田三楽の娘という
ただの女子供ではない恐るべき女系。
甲斐姫はその後も更に武勇伝を重ねてるからwikiでも見てくれ。嘘臭いくらいの凄い女だ。
0043名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:06:56ID:1jN41SlI0044名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:25:11ID:4W8q/dknなんで戸籍が出てくんだかわかんないんだけど
満州国には戸籍がなかったから満州国軍は自軍の兵数を数えられなかったとでも?
0045名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:46:55ID:p2M4axRR自分の殿を持ち上げる記述が多いのは史学的に当然だけど
自軍の兵数を、実数より少なく記録して残すケースは聞いた事ないな
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2007/01/30(火) 21:52:14ID:ywyNmfOsその「まさか」がそこら中であるということを知らんとは。
それに少ない兵で勝ったぞというのが2ちゃんねるの価値観だと言っている時点でお馬鹿さんだろ。
2ちゃんねる依存症だな。
0047名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:54:56ID:ywyNmfOs三国志
0048名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:59:18ID:h1uz+t7Uそこらじゅうにあるとは?
例えば?
0049名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 22:05:43ID:RhpH6KEJ原文で見ないと分からん
元々誇張して書くのは常識だけど
更にいい加減に訳して書く連中が多いから余計と胡散臭い話しになるんだよ
0050名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 22:13:43ID:ywyNmfOs官渡の戦い。
0051名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 22:15:52ID:U+M8M7wE三河物語
0052名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/31(水) 15:20:08ID:YK5sLHbl劣勢に見せかけて敵を油断させ、総攻撃で陣が乱れたところを
援軍と伏兵で逆転する。
実際には伊東を助けにきた相良を追っ払った部隊もいたし、
伊集院もかけつけてきた。
これは周到に準備された作戦で、義弘の手勢だけ見るのは意味が無い。
ま、当時のみなら現代まで寡兵を信じ込ませるんだから大したもんだといえる。
0053名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/31(水) 18:06:15ID:1Yj7S0Ul最強神話でっち上げた武田や上杉は優秀だ
0054名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/31(水) 20:33:53ID:SJsEzKQHもう一つ、不利とわかっていても政治的戦略的要求から決戦を強いられるということはある。
戦国ではないが、日露戦争なんて海も陸もそんな感じ。
0055にゃんこ
2007/01/31(水) 23:01:51ID:wtDAMvKM騎馬民族は、5や10単位で「隊」を作るから、戸籍無しでも人数は数えられる
だろう。だが、日本の戦国時代では、5や10の単位で「隊」を組む習慣は無かった
から、正確な兵数は把握しようが無い。戸籍(この場合は正確な検地帳)
戦国時代の戦争は、兵士という駒の数による兵棋演習のような数学的な戦闘は無く、
「親分」の顔で戦う、極めて政治的な(多数派工作とか)戦争がほとんどだろう。
0056にゃんこ
2007/01/31(水) 23:05:36ID:wtDAMvKM陣形等の数学合理的な戦術がものを言う。
2,荒れた中学校での騎馬戦
やる気の無い馬やら、みんながビビッて避けて通る無敵馬が発生する。
近代戦やシミュレーションゲームは1と近いが、封建時代の戦争は2に近いと
思う。親分の顔で戦う。
0057名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/31(水) 23:23:53ID:B3g8c+Ydなんで戸籍が出てくんだか更にわかんないんだけど
なんで満州国の話で騎馬民族が出てくんだかわかんないんだけど
0058にゃんこ
2007/02/01(木) 20:19:20ID:hyhvAfNr実際に、戦国時代は、差し出し検地の記録から、農民兵を惣などから徴兵したんだよ。
現代の日本には、徴兵制は無いけれど、7歳で徴学校制?はあるよね。あれが
戸籍無しでできるかい?生徒数を正確に数えられるかい?
これで、解らないという人には、説明しようが無いな。
ああ、満州国軍って、あれか。近代なら、整列させられるから、人数を数えられる
よね。ただ、その人数が戦時の実質人数だったがどうかは知らないが。
ちなみに、整列が、近代の指標の一つなんてのは、社会学の基礎だと思う。
0059名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/01(木) 20:21:22ID:8ux+xfGy相良軍を追い払ったのは義弘の300の兵から分散させた数十人の兵がが立てた無数の旗幟、
相良は島津軍が情報とは違って大軍だと思い込み逃げ帰った。
0060名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/01(木) 23:21:09ID:iFhlwmM8その話は知ってた。でも信用するわけにはいかない。
斥候もださず、小競り合いもせず撤退などする間抜けがいる?
主戦場でもないところに何時来るかわからない相良を
待ってる大軍なんてあるはずがない。
仮にあったとしても、対陣して引き付けておくくらいできる。
相良は内訌と外征でいつもきたえられてきた戦国大名で
しかも島津相手にずっと渡り合ってきた。そんな軟弱じゃないよ。
軍記ものにはよく無数の旗とか松明のこけおどしがでてくるけど、
嘘っぽ。
0061名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/01(木) 23:38:25ID:IoyqouFZ0062名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/01(木) 23:51:14ID:DARg57BC>あのさ、戸籍無しで、どのように徴兵するのさ?
史実で満州国に戸籍法がねーから糞みてーな極論に対する反論しただけだろ
逆ギレするくらいならとんでも論展開すんなカス
点呼なんて徴兵した後での話だろ
論点ずらすな池沼
0063名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/02(金) 00:03:11ID:H5t9s+mk相良にしたら、伊東に援軍を送るだけのつもりで戦意が元々低かったんだろ。
島津は寡兵だし、戦闘に参加しなくても楽勝だし
軍勢さえ出しておけば伊東との同盟への義理も果たせる。
その程度の認識で出兵してみたら、情報とは大違いで大軍が陣を張っている。
これで一気にやる気が失せたとも考えられるだろ?
0064名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/02(金) 00:33:53ID:KqykAhIg大軍で寡兵を破った話でもしようぜ
0065名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/02(金) 10:09:20ID:FTIoVzuO2万の六角勢を、若き浅井長政が1万の兵で破る
これにより六角氏に服属状態だった浅井氏が戦国大名として自立することになる
奇しくも長政の運命を翻弄する信長が桶狭間で奇跡的勝利を掴み取ったのと同年(発生年には異説あり)
0066名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/02(金) 20:32:18ID:3DGwFPu9戦意は低かったかもしれない。俺もそう思った。
でも敵陣も確認しないとう理由にはならない。
戦うなとうい指示があった可能性もあるけど
前後の相良の動きみても、義に篤い義陽の性格から考えても無いわ。
0067名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/02(金) 22:29:29ID:vhck0qwF信玄と謙信の勝ち戦はほとんどそれ
0068名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/02(金) 23:26:52ID:H5t9s+mk斥候は出したと思うよ。
斥候の役割は敵の位置と兵力の確認
そもそもオレとアンタのイメージがまるっきり違うな
オレのイメージ
まず相良軍は島津軍の旗など視認できない距離において島津軍は思いもよらぬ多勢という斥候からの情報を得る。
これ以上前進して島津軍と対峙するとなると戦闘は覚悟しなければいけない。
同盟の義理立ての軍勢だとするとなるべく犠牲は出すなという命令は当然受けている。
まして斥候の情報では敵勢は相良軍の軍勢よりも優勢らしい。
犠牲を出さすに退却するならば早い方がいい。
↓
互いの軍勢が視認する以前に退却
アンタのイメージ
斥候を出す前に互いの軍勢が視認できるほどの距離で遭遇
相良軍は敵勢が事前の情報よりも多勢
戦う前には敵の戦力を正確に把握するために敵陣深く斥候を出すはず。
そうなれば敵はわずかの兵力で旗だけ多いのに気づくはず。
でも斥候の役目から言えば、敵の詳細な戦力把握なんて元々しない
兵数と位置を知るだけで十分。
それが確認できるくらいの距離までしか近づかない。
斥候に生還率が極端に低くなるほどの距離まで敵陣へ近づけてまで、敵情報を求めるからには、何が何でも勝ちを求めているような時だろう。
伊東軍の作戦に付き合うことが優勢と思われる敵と戦うほどに重要とは思えない。
0069名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 01:22:30ID:OpGg+wVYというか、世の勝ち戦はほとんどそれ
寡兵で勝つほうが異常だよ
0070名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 02:26:52ID:oUg1G2d2物見の遠くから旗がいっぱい見えた報告だけでいきなり全軍撤退なんてあるはずないかと。
それじゃ侵攻してきてるのか、堅固な陣地を構えているのか、何もわからない。
軍議もできないし、帰ってなんて報告する?
距離をとって陣地構築、斥候で敵陣と人数の把握、威力偵察、
このくらいはしないとその後の対応まったくできないよ?
そもそも突破されて当たり前の状態で相良の失策を信じて
伊東の迎撃作戦をやっちゃっていいのか義弘は。無謀すぎる。
そこまで追い込まれていないというか
国力でまさる島津が準備をしていない時点でもう不自然なのに。
0071名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/04(日) 13:41:39ID:5FEfpvyk戦意が低かったら十分あり得るだろう?
リスク回避のために退却。
相良にとっては、もともと出兵したという事実だけが重要だったのだから
虚旗だけで騙したという話が伝わっているのだから、絶対にあり得ないというなら別の説を立てるのも仕方が無いだろうが
なんとなく違うのではないかという見解だけで別の説を立ててもそれは、伝わっている話よりも根拠がない説に過ぎないわけだから
自分の言っている説が絶対みたいな言い方は少しおかしいと思うよ。
0072名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/04(日) 14:00:58ID:p44Q1t280073名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/04(日) 14:01:53ID:U0HKwnoa菊池と名和がいるから
あんまり兵を損失させたくなかったんじゃねーの?
0074名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/04(日) 17:28:05ID:x0I2MhT3トリックで無血で撃退。島津マンセー。相良ワロス。ホントにいいのこれで?
軍記ものはよく考えたら整合性がとれない、矛盾が多い、
というのはよくある。それはおもしろおかしくフィクションを織り交ぜてるから。
科学としてと史学など存在しない時代では少ない事実のみの記述では
誰も読んでくれない。当然島津マンセーだから俺らには別の視点が必要。
矛盾を説明しようと理由を色々考えたりするのは意味ないことだよ。
飾りを取り除けば、相良は援軍をだしたが島津に牽制された。これで十分。
0075名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/04(日) 17:39:02ID:x0I2MhT3菊池はすでにないが、名和とは接していた。その名和は島津と組んでいた。
相良は伊東、肝属らと連携して島津に対抗した。背後に大友の存在がある。
度々島津領に出兵し、各地に「クマ陣」と呼ばれる遺跡が残る。
0076名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 18:17:07ID:6WPSxryUhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164131064/
0077名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 19:35:15ID:SbEqHt9Z一番ワロス
0078名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 01:39:54ID:S0jXtqB6いや実際そんなもんだと思うよ。
双眼鏡がある時代なら、もう少し詳細がわかるだろうが戦国時代の物見なんて
おおよその兵力を遠くから眺めてその地域に軍勢を展開するか回避するかを決定するくらいだったと思うな。
もしも戦国時代の斥候が敵の兵力の詳細を調べているならば、長篠の合戦で武田軍は野戦築城していた織田軍に突撃なんかしていないだろうよ。
0079名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 02:32:13ID:rGAJUzJS楠木正成×幕府軍 500人 対 20万人 wiki (太平記では300人対30万となっている)
篭城で一ヶ月間防いだが、最後は城から逃げ落ち千早城に篭城した。
千早城の戦い
楠木正成×幕府軍 1000人 対 100万人
篭城及びゲリラ戦を展開、日本中で反幕府軍が決起し楠木軍の粘り勝ち。鎌倉幕府は滅びた。
湊川の戦い
楠木正成×足利尊氏 700人 対 50万人
6時間で楠木軍は全滅。
0080名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 02:56:11ID:rGAJUzJS劉秀(後の光武帝)×王莽軍(新の皇帝)
3000人 対 100万人(戦闘兵42万、輜重兵58万人)
まさに中国の桶狭間である。劉秀は精鋭3000騎を選りすぐり
敵軍の本拠地に突っ込み総大将が戦死、司令部が消滅した所で
逃げ惑う100人の兵を主力軍数万で殲滅した。
王莽は戦力のほとんどを失い、新は実質上滅亡した。
0081名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 04:47:50ID:UV7l+KYH籠城から後詰め無しからの逆転、だから珍しくないか?
0082名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 05:10:11ID:H9Wp37kRなんでそう思うわけ?>遠くから眺めるだけの戦国斥候
そんなの聞いたことないんだけど。
大名たちが乱波とか草とか呼ばれる情報収集の組織をわざわざ
飼ってたのは遠くから眺めさせるためなのか?
それから長篠の引用はもうちょっと調べてからにして。ひどすぎ
兵力差はわかっていたことだし、今どき突撃信じてるひといないよ?
0083名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 05:47:42ID:8wW3qkpx情報伝達手段がそれほど発達していない時代だからね。
場合によっては情報収集時間や伝達時間がかかり過ぎるような手段
は用いてられないだろ。
こちらからとある領土を攻めるような場合は入念な情報収集も可能だろうが
攻め込まれたような場合は敵の進軍速度によってはロクに情報もあるまい。
それこそ戦闘フェイズに入る前の歴ゲー状態(何もしなくても相手の情報丸見え
のようなヌルい作品除く)で、攻めてきたってこととおよその兵力ぐらいしか分からん。
実際は戦闘に入ってからの情報収集は厳しいだろうし。
(ゲームではだいたい戦闘になれば分かるが。。)
0084名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 06:56:13ID:EZU9O3++伏見城の件とか・・・
こんな連中だから、兵数に関しても随分、意図的捏造をしてるフシがある。
0085にゃんこ
2007/02/11(日) 08:44:46ID:TOkD5wwWという基準を前もって見せてもらって、それを覚え込まねば、目視による
概数の判断はできないよね。
仮に、現代、○○市の青年全員が、広場に集まったとするね。それを目視で
概数を計ることができないよね。
結局、戸籍(検地帳の類)が無いと、兵数の正確な把握は無理だな。
騎馬民族や、近代の傭兵なら、無理矢理、整列させてから、人数を数える
ことは可能だが。
0086名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 09:40:53ID:OWc/bQwBお前が馬鹿だからってみんなが馬鹿とは限らない
0087にゃんこ
2007/02/11(日) 10:34:29ID:TOkD5wwWむしろ、近代以前は、捏造が普通じゃないかな。(近代も少なくないが)
正確な人数を把握した人が、そもそもいないのが、封建時代というもん
なんだろ。数える方法や機会に乏しいよな。
0088にゃんこ
2007/02/11(日) 10:54:38ID:TOkD5wwWこの農民兵は、小隊や中隊に編成されることは無く、各小ボスごとに率いられて
おり、整列することも無いし、また、各小ボスも人数をなかなか正確に申告しない。
(領地の経済力や兵数を秘密にできるのが前近代の私有地のミソ。=不輸・不入の権に類似)
だから、小ボス(地侍クラス)も中ボス(国人クラス)も、それを集計する
大名も、それぞれが、それぞれの政治的目的を持って、数字を発表する。
多く見せて、多数派工作に成功している印象を与えたり、
勝った後は、逆に少数精鋭を宣伝することもある。
この時代の数字は、思惑だらけ数字だらけなので、
我々も、そのつもりで受け止めなければなるまい。
0089にゃんこ
2007/02/11(日) 11:02:34ID:TOkD5wwWなってきて、数字の信憑性が上がるだろう。
「寡兵で大軍を敗った」伝説が、後になるほど少ないのは、そのせいではないかな。
0090名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 11:27:19ID:OWc/bQwB0091名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 12:56:08ID:rGAJUzJS宇梶ってタケシ軍団に入って
態度が生意気だという事で、そのまんま東にヤキをいれられ
散々殴られたんだよな。
彼は弟子生活が長すぎてTVの前ではいつもオドオドしてるよね。
0092名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 13:44:14ID:S0jXtqB6ん?なんかずいぶんと感情的に感じるレスだけど何か気に障ったのか?
忍者なんて、それほど活躍できたのかねえ?
陰の存在だから、それこそ誇張されているイメージで現代人は語っているのではないだろうか?
戦場の情報収集は物見の兵の仕事で忍者は平時の戦略的な情報収集が仕事だったのじゃないかな?
長篠合戦が野戦築城している織田軍への突撃戦ではないなら、何だというの?
酷すぎと言うならば、きちんと説明して欲しいですね。
0093名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 13:52:07ID:5TJtOjI70094名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 16:14:22ID:mmPLOlaSあんまりイメージだけでくるから、ついイラッとした。すまん。
図書館の郷土資料コーナーで市町村史や教委の報告書読んでみれば
君のイメージも変わるよ。
忍者というと胡散臭いだろうが、従軍しているのがときおり資料から垣間見られる。
戦場ではいかに相手より正確な情報を早く多く集めるかが勝負の分かれ目になる。
危険かつ重要な任務でそれは今も昔も変わりはない。
長篠の戦いは、というか連吾川の戦闘は、織田別働隊が城を救援して
長篠城を落すのが不可能となった時点で武田は撤退するしか選択肢がなく、
織田はそれができないように柵から出て戦った。
何度も柵へ押し返したが離脱できず、やがて兵力差から疲労して壊走した。
何日も近くで対陣してるからどっちが多いか調べなくてもわかっている。
多勢が陣地へ篭るところへ突撃するなどは基地外沙汰というほかない。
バンザイ突撃は帝国陸軍オリジナル。いや極小規模なら戦国でもあるんだけど。
そういう場合は全滅同様の損害をだす。武田の損害はそこまで酷くはない。
軍記ものはすべからく、筆者のスケベ心からうまれた軽薄なお為ごかしが
ちりばめられている。君もスケベ心をすてれば、奇跡を追ったりはしなくなり、
そんな記事に惑わされなくなるよ。そしたらいまより歴史がおもしろくなる。
0095名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 18:32:28ID:S0jXtqB6>忍者というと胡散臭いだろうが、従軍しているのがときおり資料から垣間見られる。
戦場ではいかに相手より正確な情報を早く多く集めるかが勝負の分かれ目になる。
危険かつ重要な任務でそれは今も昔も変わりはない。
それは分かるんだけどさあ、実際に戦場でそんなに使われていなかったと思うんだよ。
例えば、第4次川中島合戦。
これも講談、軍記物に由来しているんだけど、武田信玄が夜中にこっそり抜け出した上杉軍の動きを把握していなかったじゃない。
忍者なる者が戦場で情報収集に役目を担っていたなら、敵軍の情報を逐一収集して報告しているだろうからこんな事はあり得ないでしょ?
軍記物だから真実ではないと言っても、そのような軍記物があるということは実際の戦争もそれほど遠くないわけでしょう?
もしも忍者が戦場においてそれほど詳細に敵軍偵察しているとなると
川中島に限らずに数ある戦で敵の裏をかくような奇襲戦法はほとんど不可能になってしまうと思うんですよね
でも実際には敵の裏をかいた夜襲は数知れずにあるわけでしょう?
忍者や当時の情報収集力を過大評価しているんじゃないですかねえ?
0096名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 19:26:13ID:PBaLo8cS別働隊の機動を現地で再現をこころみたところ、無理らしい。
あれは霧の影響で遭遇戦になったと見ていいだろう。
奇襲となると、敵領内で大きく機動しないといけない。
戦時なら当然支城は警戒してるし道は封鎖されている。
突然の裏切りでもしないとまず不可能。光秀のようにね。
奇襲といわれてるのはほとんどが強襲だね。
夜襲も奇襲じゃなくて強襲。不寝番がいるから奇襲にならない。
とくに油断でもしてない限り、やれることは全部やってるよ。
自分の命と、一族の運命がかかってる。
0097名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 19:54:47ID:BtbsglRz0098名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 20:55:42ID:S0jXtqB6川中島合戦が濃霧の中の遭遇戦だとしても、
それはそれで戦場での忍者の情報収集能力に疑問符がつきますね。
0099名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 21:11:59ID:h1K5Vy22遭遇戦説も決戦説も誤り
北に少しずつ移動しながら何日もかけて戦ったのが第四次川中島の真相
両軍ともに城主クラスの有力者の戦死が続出してるから激戦であったことは確かだが、通説みたいなとんでもない死傷率だったかは疑問
本当にそのレベルなら武田も上杉も領国が崩壊している
0100毒癌竜正宗
2007/02/11(日) 22:53:38ID:WeRVERAy0101名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 23:10:09ID:kUKld2jZどういう書状か具体的な文言が見たいんだが。
史料名と転載されてる書籍名を教えてくれ。
0102名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/12(月) 00:33:56ID:c0RGsE4m見事な各個撃破だが
三村軍が混乱ばっかりしてるのがきにかかる
0103名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/12(月) 00:54:12ID:iuU2+6YA別に戦って追い返したわけじゃないだろ連合軍が勝手にいなくなっただけ
とあえて釣られてみる
0104名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/12(月) 02:07:11ID:hgXwk/3x崩れていれば終わりだった。
0105メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/12(月) 02:45:37ID:BL9QF+5K揃えてるって聞いたことあるが、300の寡兵でも全員持って戦っ
てたんならそりゃ脅威だろ、ただでさえ天下無双の島津兵が鉄砲だ
ろ?同じく天下無双の武田兵に馬みたいなもんだ
長篠の戦闘も、数千挺の鉄砲の数を侮った勝頼が騎馬軍団で粉砕で
きると考えたから突撃しただけだろ?重臣達はやめるように留まら
せたというし
0106人間七七四年
2007/02/12(月) 10:09:19ID:kHU0hoJh>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
随分安売りだな
0109人間七七四年
2007/02/12(月) 14:54:41ID:LFEyH/3z『戦国大名と信濃の合戦』笹本正治著
第三節・自筆書状が伝える信玄と川中島合戦
これを読めば知りたいこと全部わかるはず
0111メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/13(火) 21:23:27ID:AtdpU7T+出来ないんだろうねえ
0112人間七七四年
2007/02/13(火) 21:36:27ID:GxT4lH/Xプラプラ|
∩___∩ |
|ノ _, ,_ヽ ((|
`/ ● ●| (=)
| (_●_) ミ J ))
彡、 |∪| ノ
/⌒ ヽノ ヽ/⌒つ
ヽ/ ヽ/
ノ |、ノ
|
ぷちっ|
∩___∩ 从|
|ノ ヽ |
`/ ● ●| (=)し
| (_●_) ミ/`ノ
彡、 |∪| ノ /
/ ヽノ / ノノ
`/ /
/ /
ムシャ |
ムシャ プラプラ|
∩___∩ |
|ノ ヽ ((|
`/ ● ●| J ))
| (_●_) ミ ・
彡、 |∪}=)ノ ∴
`/ ヽ/^ヽ ヽ 。
| ヽ \ |
| ヽ__ノ
0113人間七七四年
2007/02/14(水) 18:20:32ID:JsyDvPR70114人間七七四年
2007/02/14(水) 19:04:44ID:1JM66MhPどうも当時の忍者の能力を過大評価しているっぽい。
当時の戦では直前まで敵の動きに気づかなかった例なんていっぱいあるだろ?
桶狭間合戦なんてどうなの?
どう考えても今川軍は織田軍の動きを察知してなかったよね?
0115人間七七四年
2007/02/14(水) 19:16:44ID:3nFbPPHJ0116人間七七四年
2007/02/15(木) 01:29:02ID:kQKwa2O3だから奇襲じゃなくて強襲。
砦までは織田支配域だから今川の偵察は困難。
しかも織田が一気に行軍してきたのならなおさらだ。
今川は織田の砦から近くの前線に本陣をおいて留まっていたのが命とりになった。
偵察とその情報にもとずく機動の重要性がわかるだろ。
行き当たりばったりの出たとこ勝負な合戦がいっぱいあるって?
聞こうか。
0117人間七七四年
2007/02/15(木) 07:27:43ID:7C6399la>砦までは織田支配域だから今川の偵察は困難。
だから、ここを問題にしているわけですよ。
他家の支配域だから偵察困難という理由で偵察不可能という認識でOKなら
木崎原での相良が島津軍の軍容詳細の偵察しなかったという事も十分考えられるでしょう?
0118人間七七四年
2007/02/15(木) 14:23:06ID:kQKwa2O3まず意味がわからん。
陣はったとこは国境地帯の峠。なんか不可能にする要素あるか?
そもそも峠なんていくつもあるんだよ。
義弘は占でもして絶対ここから来る、しかも偵察はしない。
という御託宣でもあったんだろうね。
0119人間七七四年
2007/02/15(木) 19:48:07ID:7C6399la信長が軍勢整えて出撃した砦だって、もろ国境地帯じゃん。
今川は国境地帯の砦に入った信長本隊の動きを察知してなかったんだろ?
それとも砦に入った時点で察知していたの?
もしも察知していたなら迎撃態勢を取る時間は充分あるよね?
それなのに今川本隊よりも兵数で劣っている信長にやられるわけ?
しかも山の頂上に布陣していた今川軍は地形的にも有利だったんだよ?
迎撃態勢を取る時間があって、兵数で勝っていて、地形的にも有利だったのに今川は負ける理由は何?
お得意の「強襲」が理由ですかね?
いったい全体「強襲」とはどんな必殺技だよw?
ゲームじゃないんだからさ、強襲なんて必殺技で誤魔化さないでよねw?
0120人間七七四年
2007/02/15(木) 22:39:28ID:kQKwa2O3ありえないと思うなんて、お前らしい愚かな発想だなw
だが、桶狭間も島津の的中突破も真田の突撃で
家康本陣が崩れたのも全部事実だ。
で、なぜ成功するのか、考えることすらできないんだろ?
できるわけないわな。阿呆なレスばっかりだ。
ルールの単純なゲームでもやってなさいってこった。
答えを教えてやってもいいが、お前の態度も気にいらんw
0121人間七七四年
2007/02/15(木) 23:09:32ID:kQKwa2O3ま、120でヒントだしてんだから
あとは考えてみろよ
0122にゃんこ
2007/02/15(木) 23:18:49ID:r5ysS7VK1,兵数の差が、織田方の政治的理由により、誇張されている。
尾張半国でも今川方の半分くらいの経済力はある。また織田方は、西や南と
東側の国境間が短く、兵力の分散の必要性も低い。
だから、実際の桶狭間での兵数の差はそんなに大きく無い。
2,損害を無視した突撃は、自動小銃でも阻止し難い。まして、愛国心も訓練も
無い当時の軍は、損害を無視した無茶な突撃には弱い。
ただし、これはかなり君臣の絆が強く無いとできない。関ヶ原の島津は、
「島津正規軍」ではなく、義弘党とでも言うべき集団だった。
私は1が桶狭間の実像だと思うが。
0123人間七七四年
2007/02/15(木) 23:22:10ID:fufWNE4K0124人間七七四年
2007/02/15(木) 23:27:13ID:7C6399laなんだ?
こじつけでも回答できないようだなw
無様だねwww
0125人間七七四年
2007/02/15(木) 23:30:34ID:C+/qgVPa今川は尾張の一部を持っていた
尾張抜きの今川で75万石程度、尾張の一部を加えると80〜90万石になる
そして今川が凄かったのは金山と港の両方を持っていたこと 今川の経済力は凄まじく100万石に近い兵力を動員できたと考えられる
三国同盟により国は空っぽにできるし、22000〜25000の軍勢は動かせたと考えることができる
そして織田だが尾張57万石全てを持っていたわけじゃない、地盤は微妙で一部は今川の物になっていた
桶狭間までは今川の怒涛の進撃があったから大分領土も取られた となれば限界の12500〜14000からだいぶ落ちて10000程度になったと考えられる
そして信長は無茶苦茶な早さで移動したから急遽集まった連中ばかり、旗本とか戦闘部隊が中心でその他もろもろ合わせても2000〜5000程度
5000VS25000というのはかなり正しいと思う
0126人間七七四年
2007/02/15(木) 23:30:47ID:7C6399laゲームの必殺技=お前お得意の強襲じゃん。
オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
織田軍攻撃の直前まで今川が気づかずに攻撃を受けた。
これなら迎撃態勢が取れずに織田軍にやすやすと崩される理由になる。
お前の説だと気づかないなんて事はあり得ないのだろ?
やっぱりゲームの必殺技の強襲で一挙に壊滅ですかあ?w
0127にゃんこ
2007/02/15(木) 23:47:27ID:r5ysS7VK「日本人は丘陵地や山麓から、戦国時代になって、平野部に降りてきた。」
関東平野の開発は江戸以降だから、尾張こそ、当時の最先端産業地域
だった。つまり、学者の言う「剰余」が非常に多い地域だったと考えられる。
さらに、「寺内」なんてのも多い所。今川方に取られた所は、平野部中央
ではないから、経済的打撃は多くないと思う。
さらに、戦国時代は、遠征の場合、一揆等に備えて全軍を派遣することなど
できないし、まして、補給の問題もある。
一方、防衛側が、農民兵を動員しやすいのは、後の対豊臣の北条や徳川
でもあったよね。
今川の遠征兵力は20000を割り、その何割かが、桶狭間山にいた。
そこへ、10000から5000程度の兵が襲ったとしたのが、
現実的にあり得る戦いだと思うよ。
0128人間七七四年
2007/02/16(金) 00:14:19ID:I1LRVAFe0129人間七七四年
2007/02/16(金) 01:20:40ID:8Yrhpebk義元がいたのは桶狭間じゃなく田楽狭間じゃなかった?
俺の記憶ちがい?
0130メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/16(金) 01:32:55ID:Yr8Cyibc共真性の単細胞なの?必死なのは分かるけど基本的なことが抜けてるよ。
織田軍の兵力は 美 濃 にも裂かないといけないんだよ!!そもそも尾張
半国でどうやって20000も集められるんだよ。
俺の考えでは(多くの作家なんかも言ってるが)、清洲出た時には2000
人程度で、桶狭間に到着した時には5000人まで膨れ上がったと見ている
そして今川軍も、全軍若干感覚をあけて布陣しておいて、義元本陣の兵力は
10000人以下だったみたいだから、奇襲するのに悪くない兵力差ではあ
るね。
0131大恩教寺 ◆ozOtJW9BFA
2007/02/16(金) 01:50:20ID:8Yrhpebk今川本陣にいたのは僅か
200人程度だったと説明されている本もあります。
まだ研究者の間でもバラツキがあるのでしょうね〜
ところで桶狭間と田楽狭間って、義元の本陣があったのは
どちらなのでしょうか?
博学な方はお教えくださいm(__)m
0132人間七七四年
2007/02/16(金) 06:27:48ID:A78W09ENはい、0点
>オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
恥ずかしげもなく、何言い放っちゃってるの?
そこまで無知ならおとなしくROMってろや、タコスケが
0133人間七七四年
2007/02/16(金) 07:55:58ID:y/RcknXx0135人間七七四年
2007/02/16(金) 11:48:44ID:EidaDHtHだからそれ以下ということは無いだろう
義元以外にも重臣がかなり討死しているが、当然彼らの手勢も居たはず
一般には五千、ただし織田軍の予想外の出現や天候のせいでバラバラになっていたと言われてるね
小説の世界だと信長の差し金で送られた酒肴に酔ってたとかなるがw
0136人間七七四年
2007/02/16(金) 14:17:30ID:8Yrhpebkその可能性は十分ある。
特に織田の梁田広正は田楽狭間あたりに影響力をもっていた
梁田が田楽狭間の民と共謀して義元を油断させたということなら
信長が梁田を使って義元を油断させたともいえなくもない。
あくまで推測だけど
0137人間七七四年
2007/02/16(金) 14:23:18ID:8Yrhpebk広正→×
政綱→〇
0138人間七七四年
2007/02/16(金) 15:17:23ID:I1LRVAFe安価がない時はすぐ上のレスに決まってんだろ
0139人間七七四年
2007/02/16(金) 17:39:23ID:A78W09EN梁田が計らなくも大高陥落の阻止が確定した時点で
今川は目的を達したことになり、祝勝ムードだったみる。
0140人間七七四年
2007/02/16(金) 19:03:40ID:QiuzAu1t今川が織田軍の動きを察知していて、何で負けるんだ?
賢い人の考えはわからないよねえ?
というか、お前は自分の考えを書いてないじゃん。
もしかして強襲ボタン連打したから勝ったのかな?w
お前はこれから強襲厨と名乗れ。
お前にお似合いの名前だろ?w
0141人間七七四年
2007/02/16(金) 20:37:51ID:nFGKRYFZ関東の勢力図が一変したのは事実だし、小競り合いではない何らかの決戦はあっただろう。
もっともこのスレに相応しい寡兵VS大軍とは限らないが。
0142メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/16(金) 22:24:39ID:Yr8Cyibc桶狭間病院の近くにそんなとこないか?
0143あぼーん
NGNG0144にゃんこ
2007/02/16(金) 22:28:52ID:F0wNvsWzちゃんと読めよ。どこに織田方20000人なんて書いてある?
「大差ない」を20000と解釈したのなら、読み間違いだよ。
私は、そもそも今川の25000説など支持してないよ。
それに、私のどこが今川厨なのか?ちゃんと
127も読んでね。戦線間の距離が短い場合、兵力を分散する必要の無い
理由も書いてあるから。
0145にゃんこ
2007/02/16(金) 22:32:43ID:F0wNvsWz122に書いたように、戦線間の距離が短い場合、主力を分散させなくても良い。
何故なら、内線側の移動時間が短いから。ただし、指揮官の高い力量が必要
だがね。
0146にゃんこ
2007/02/16(金) 22:37:58ID:F0wNvsWz旧説・・・・・田楽狭間
新説・・・・桶狭間山・・・信長公記による。
桶狭間山が正しいんだろうね。一級資料によるし。しかし、初期の信長公記の
兵数は怪しい。信長の若い頃は、厳しい検地を行って、正確な動員を行える
時代ではなかったから。
0147にゃんこ
2007/02/16(金) 22:57:05ID:F0wNvsWz今川・織田国境方面への動員総兵力
今川・・・石高(?)から推定できる兵力から、遠征による補給負担や対一揆防衛軍を
さし引いて15000くらいか?
織田・・・尾張の半分と、防衛戦による農民兵の動員のしやすさや、内線ゆえの集中の
しやすさから、8000人くらいか?
桶狭間山での決戦時の兵力
今川・・・・分散したため、本陣は5000人ほどか?
織田・・・・比較的集中しやすいため、6000人ほどか?
これなら、織田が勝っておかしくないな。
0148にゃんこ
2007/02/16(金) 23:04:58ID:F0wNvsWzもっと動員できる。補給の負担が軽く、惣の協力も得やすいからだ。
しかし、厳しい検地のできなかった頃は、もっと動員兵力は少なかったと
見るべきだ。なぜなら、太閤検地の目的が「剰余」を残さないためのものだから。
今川の検地は差し出し検地であって、限界まで収奪・徴兵するためのものでは
ない。まして、遠征であるから、25000人という人数はあまりにも過大
だ。これは、何らかの政治的数字と見るべきだろう。
0149人間七七四年
2007/02/16(金) 23:05:56ID:5yOwkRmr0150メガトン ◆xfEWihaR6w
2007/02/16(金) 23:08:37ID:Yr8Cyibcの大勝利だね、結局義元の前線は信長軍に気づかなかったのは
事実だし
0151にゃんこ
2007/02/16(金) 23:12:04ID:F0wNvsWzただ、この説の弱点は、「今川義元油断し過ぎ」
前線に近い所で、「本能寺状態」なわけだ。
そんなに油断するかな?
0153人間七七四年
2007/02/16(金) 23:38:31ID:GWaK9O+P今川が到着すると大高包囲の将2人は玉砕、
撤退した残り2人も、着陣した信長の目の前で突撃して散った。
こういうことは、戦国では異例中の異例。
なぜそうなったのか、詳しくはwebサイト藤井戦国史を参照。目から鱗だよ。
勝利か、しからずんば死か、という状況を演出し
その結果織田軍は韓信の背水の陣と同じ、狂戦士集団と化してしまった。
一方の今川は、その直前まで完勝ペースであり、
大高救援の戦略目的を達成してしまっていた。
常識なら織田方は和議か退却かという、終わってる状況だった。
油断はなかっただろうけど、慢心はあっただろう。
こうなると大軍でも案外もろい。
今山、関ヶ原、大坂にも共通している。探せばもっとでてくるだろう。
0154人間七七四年
2007/02/16(金) 23:47:19ID:BxO60sSh突撃時の信長の手勢はもっと少ないと思うけどね。
まず桶狭間の前に、信長は鳴海城を築城包囲しているがその軍勢の中身は尾張の
大身である佐久間一族、それに織田一族と信長馬廻衆から編成されている。
さらに信長公記によれば、信長と別れて行動していたやはり尾張の有力豪族である
佐々氏・千秋氏の部隊がある。
さらにこれは推測になるが、大きな動員兵力を持っていただろう柴田・林が参加して
いない(清洲に残されたか、別方面に当てられたか?)。
こういった点を考えると、桶狭間時点での織田家の動員兵力はそれなりに高かった
だろうが、信長が手元で動かせた兵力は通説並の二、三千くらいには落ちるのでは
なかろうか?
0155にゃんこ
2007/02/17(土) 00:06:46ID:YIcdocaU二人を見殺しにした理由?
そんなもん、単に信長本陣への戦力の集中だろ。
背水の陣なんて真に受けてはいかんと思う。そんなのが本当に成功するなら、
相手の退路を断つ包囲作戦なんか誰もしないよ。
そして、みんな、自軍の退路を断つ。
渡った橋を落とすのは、気合い入れの儀式に過ぎないと思うね。勝因は別にある
と思う。
ちなみに、三河物語に「鉄砲をたくさん撃つ」と書かれた武田軍が、長篠で敗れた
のは、織田・徳川に包囲されたからだ。
0156にゃんこ
2007/02/17(土) 00:11:13ID:YIcdocaUにゃるほど。痛い所をつかれた。
しかし、そうなると、織田方の勝因を、説明しにくくなるよね。
0157にゃんこ
2007/02/17(土) 00:14:35ID:YIcdocaU反論を思いついた。当時の国人の領地は、江戸時代の旗本レベルだろう。と、すると
この時期の柴田や林の私兵は数百人に過ぎない。柴田や林以外の無名の国人や地侍が信長主力
に入れられていたら、もっと多い人数を想像できる。
0158人間七七四年
2007/02/17(土) 00:42:45ID:daKIuifF0160にゃんこ
2007/02/17(土) 07:47:05ID:YIcdocaUみんな「自軍の退路を断つ」
とも書いたよ。あいまいだが、区別はしてある。
159>
国人とか地侍の件は、教科書的基礎だよね。どの高校受験参考書にも書いてある。
そこから、考えられるね。あくまで、可能性に過ぎないが。
0161人間七七四年
2007/02/17(土) 12:57:28ID:ohA7sNuI千秋氏は、知多半島で推定五万石の領地をもっていたとされています。
また林氏は稲生合戦で記録では千五百〜七百の兵を動かしてます。
無名の国人や地侍という存在は、普通は信長とか佐久間とか林などの
大身の豪族の寄子となってその軍勢の構成要員となります。
上で挙げた林氏の動員兵力千五百には、無名の国人衆が含まれている
数字なのです。
0162人間七七四年
2007/02/17(土) 13:01:36ID:lS9zlgCm戦意・機動性とも高い虎の子の精鋭部隊ってことでは?
参集方法の性質上、非戦闘員として軍隊につきものの人夫や軍役夫も少なかったと思われる
つまり、真水の二千対本陣機能のための戦闘に向かない連中も混じった今川本陣五千
意表をついて敵中を突破し、天候にも助けられた織田軍が一方的主導権を握ってもさほど不思議ではないと思うが
0163人間七七四年
2007/02/17(土) 14:57:10ID:cBxfM6np0165人間七七四年
2007/02/17(土) 19:38:08ID:dhFdnVC8戦力を集中したかったら、合流させるんじゃないですか?普通。
突撃して壊滅し疲弊した敗残兵が加わったところで何の足しになるでしょう。
千秋と佐々はそうせざるをえない立場だったことを無視しています。
これは計算とか作戦とかの範疇には入りません。だからこそ、効果的なのです。
>そして、みんな、自軍の退路を断つ。
そういう反論があるだろうと予想していました。
カメ割り柴田、毎回割っていて説得力があると思いますか?
それではただの狂人で、だれも相手にしません。
ヒトラーの死守命令、最初は効果がありました。あとは知ってのとおり。
類例がいくらでもあるのに、背水の陣が事実か問うて意味がありますか?
0166人間七七四年
2007/02/17(土) 23:28:43ID:5GWFRunc破った信長」の評価を落としたいのと、「寡兵に敗れた義元」という凡将のレ
ッテルを覆したいだけのような気がする、そう思う最大の理由教えてやろうか?
今川軍と同等の兵力を備えた織田軍がどうして、背 水 の 陣 なのですか?
正面から戦って勝つ戦は普通大将の指揮の旨さによるものじゃないの?
はっきりいうが、今川義元なんて自身は軍略に長けた武将じゃないのご存知?
3州併合も雪斎が主に指揮しての領土拡大だったってのご存知?
0167人間七七四年
2007/02/17(土) 23:34:37ID:5GWFRunc義元の凡将ぶりが伺えるよ、そりゃそうだ武将じゃないもんね義元は。
みずから陣頭指揮なんて出来るわけないんだから。
そういったことも知らずに、ひたすら「織田軍は背水の陣で狂気して正
面から突破していった戦略性のない戦」と解釈してるんだか。
結局公家大名と武将との違いってことですよ、雪斎の存在が全ての今川
家なんですよ。
0168人間七七四年
2007/02/17(土) 23:51:44ID:tAFgh9Ch二万五千〜四万という数字が誇張であるかもしれない、とは俺も思う。
だからといって、信長が桶狭間で非凡な業績をあげた事は否定できない。
するつもりもない。
もちろん、「”天才”」信長がすべての状況を見通し操っていたとも思ってないが。
偶然の要素もかなり絡んでいるし。
神話ではない実際の姿を知りたいと思ってるだけだが。
0169人間七七四年
2007/02/18(日) 00:21:03ID:z55wqnIj0170人間七七四年
2007/02/18(日) 00:26:59ID:bVr8grlLだいたい同等の兵力なぞ論拠も資料もないものを持ち出だされてもね。
そのうえ背水の陣が比喩と理解できずに拘泥。
あげくに義元の無能を力説しだす始末。
はじめから武将の能力なんて論点にすらなってないんだよ。
そんな曖昧な主観だけで何かがわかると本気で思ってるのか?
0171人間七七四年
2007/02/18(日) 00:34:17ID:LqQHX4220172人間七七四年
2007/02/18(日) 00:34:59ID:IWJ93Wdy石高
とにかく、4万だけは絶対にありえない 25000は結構妥当な数字だったりする 石高だけで考えたら20000〜22000
0173人間七七四年
2007/02/18(日) 00:35:27ID:Ns+JJk0c太閤検地の石高
0174人間七七四年
2007/02/18(日) 00:37:33ID:LqQHX4220175人間七七四年
2007/02/18(日) 00:49:06ID:vaIFt3UKそうすると駿河、遠江、三河で70万人の人口。
そのうち兵役についている人口が5パーセントとすると
3万5000の兵がいる計算になる。
充分ありえるんじゃないの?>2万5000
0176人間七七四年
2007/02/18(日) 00:52:50ID:HADoshBsから義元本陣へ突破だの、今川軍と同等の兵力だっただの屁理屈ばか
り言ってるお前らはどうなんだ?織田軍は美濃にも兵力を分散しなけ
ればならないから、今川軍全軍と同等の兵力なんて考えられないんだ
よ。それに北伊勢も義元は抑えてたというしね、信長は完全に尾張の
奥に押し込まれた感じだな、これでどうやって10000以上兵力を
揃えることが出来るんだ?ちなみに3国同盟で今川軍は背後に心配な
く遠慮なく兵力を揃えれたわけだしね。
それから俺の言ってることが極論とか言ってるが間違ったことなんか
一つも言ってないよ、お前らが痛いところつかれて反論出来ないの見
え見えなんだよターーーコ
まさか、義元自身が陣頭指揮に関して未熟なこと知らなかったとか言
うわけじゃあるまい?
0177朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA
2007/02/18(日) 00:55:21ID:+Eoi27Vz0178人間七七四年
2007/02/18(日) 00:56:43ID:Ns+JJk0c実高と表高に大きく差がある場合もあるので
桶狭間時にはもっと動員できたかもしれないね。
武田徳川の今川領侵攻、徳川対武田、小牧・長久手などで
で元今川領は太閤検地時には荒れ果てていた可能性もあるし。
2.5人役はあくまで目安で、実際はもっと動員できたようだし。
0179人間七七四年
2007/02/18(日) 01:00:56ID:JPSi4gAGウソウソ
0181人間七七四年
2007/02/18(日) 01:02:00ID:HADoshBsお前らの方から、織田軍の勝因の一つにそう挙げてたんじゃなかったの?
「背水の陣が比喩と理解できずどうのこうの」
史実にある背後からの奇襲による勝利という説を覆したいが為に、お前ら
の方が勝手に真正面から背水の陣で突破という妄想でそう答えてただろば
ーーか
「義元の無能を持ち出す始末」
おいおい戦闘において大将の作戦采配は一番重要だろうが 笑)
義元が周囲の警戒を楽観視していれば、配下の武将もそう動く。
仮にびっしり警戒していても、その先どうすれば良いか、公家
大名の武将じゃない義元にはそれが出来ない、砦間の連絡の取り
方や、膠着した状態での冷静な指揮などね。
0182人間七七四年
2007/02/18(日) 01:06:45ID:HADoshBs人、現在では誰もいないよ、大概の作家や大学教授なんかは25000
ぐらいだと言ってるね、まあ現代人の解釈なんか当てになるかどうかわ
からないが。
それか、もしかしたら3州の兵数と尾張の占領した一部地域からの兵と
北伊勢の兵もまとめて一緒くたにしての40000だったりしない?
北伊勢の兵が動いたのかどうかは知らないが。
0183朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA
2007/02/18(日) 01:12:24ID:+Eoi27Vzこれをウソと言ったら、合戦の動員数として史料に表れる数字はすべてウソといえるかも。
参謀本部が2.5人役といってるのも地域や状況によっては6瑞l役になってる緒鼾があるし、
軍役がそもそも守られてたのか着到状が真実かは、類推する以外に確かめようがありませんぜ。
0184人間七七四年
2007/02/18(日) 01:15:39ID:Cg8OydVg状況から推測するしかないからね。
0185人間七七四年
2007/02/18(日) 01:33:40ID:2Q28WCWj実証していると言えるな。
織田に2000や5000程度の決戦兵力しか準備できないなら三河遠江からの部分動員で充分。
1年以上費やして総動員をかける必要はない。
0186人間七七四年
2007/02/18(日) 01:34:38ID:LqQHX422一向宗が仮に30万いたとしても女子供や老人みたいなのも大勢いたんじゃないか?
30万はともかく宗教勢力は石高じゃ測れない動員できそうだし
0187人間七七四年
2007/02/18(日) 01:54:28ID:HADoshBs3州と尾張半分を押さえてる今川より、何で尾張半分の織田が同等の
兵力を揃えられるの?それから今川の動員数は上洛する為のものなん
でしょう?
それから今川厨は早く>>166>>167>>176や>>181に答えてみろよ、都合
の悪いことにはだんまり決め込むんだなあ
0188人間七七四年
2007/02/18(日) 02:05:16ID:2Q28WCWjこいつらはつまり信長は必要もないのに不確定情報に基づいて
寡兵で突っ込むんだ馬鹿だったと主張してるわけだが。
0189人間七七四年
2007/02/18(日) 02:07:54ID:Cg8OydVgどんな優秀な指揮官でも、ときには誤謬を犯すと思うが。
信長ファンだが、「なんでもお見通し」みたいな半神扱いには呆れる。
0190人間七七四年
2007/02/18(日) 02:17:49ID:HADoshBsどうなってるか確認してみたら?
寡兵であれば機動力がそもそも違うだろ、おまけに織田軍は兵
農分離してる最中の兵なわけだし(時期的に始めたばかりだが)
のうのうと休息してれば奇襲受けて当たり前
>>189そういう風に認識してる信長ファンはいません、しかし
信長も情報によって、義元というのが武将では無いことぐらい
認識していたのは確かだろ、実際三河や遠江平定も雪斎が指揮
してたのは知ってただろうし。
0191人間七七四年
2007/02/18(日) 02:26:46ID:2Q28WCWjどうなってるか確認してみたら?
まともな戦国史料読んだこと無いだろ。
寡兵だと見つかったら終わりだろうが。織田が兵力分離の最中だぁ?
どこにそんな史料がある。そもそも兵農分離ってのは領土拡大して兵力に余裕ができた後に可能なんだよ。
兵が足りないから鎌倉型の百%兵農分離型から農兵動員型に変わったんだろうが。
周辺国に拮抗した動員力しかない段階で兵農分離なんぞやってたら本物の馬鹿だなw
お前の中の信長はお前並の馬鹿なようだw
0192人間七七四年
2007/02/18(日) 02:30:33ID:LqQHX422多対多の戦いってのは妄想の域を出ないんじゃね?ってか想像だけじゃどうしようもない
0193人間七七四年
2007/02/18(日) 02:33:34ID:Cg8OydVgま、そんなとこでしょう。
信長公記の記述より兵力差は小さかったと思う
ひょっとすると5000対25000より小さかったかもしれない。
だとしても、同等ということはなさそう。
というより、同等とする史料がない。
0194人間七七四年
2007/02/18(日) 07:57:33ID:whqL/6fT1つの砦に4百と仮定すると、5つの砦で2千。8つの砦という説も有るし。
信長が2千率いて清須出陣たとして、美濃・伊勢・清須等の守備もいただろうし。
0195名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/18(日) 08:48:27ID:Lhn7bzYE0196にゃんこ
2007/02/18(日) 11:58:13ID:KXivOE7A美濃・伊勢方面に対しては、警戒兵力だけで良い。なぜなら、三河方面から近いから。
小国の内線作戦は兵力が集中させやすい。(せめて、内線の意味を知ってから反論してくれ。)
理論的には、分散させるよりは集中して、各個撃破を狙った方が良い。
しかし、大国だと、各方面間の距離が遠いから、各個撃破が難しい。主力の移動時間中に
かなりの被害が出てしまう。東方面の敵を倒してから、西方面の敵と会戦する
ことすら難しい。
だから、同盟を組まねば、各方面ごとに戦力を配備する必要ができる。
0197人間七七四年
2007/02/18(日) 12:01:54ID:1Z2Kc5SP0198にゃんこ
2007/02/18(日) 12:07:58ID:KXivOE7Aその手のパフォーマンスを勝因の主にする考え自体がおかしいと思う。
勝因の主は、政治的なものや数学的なものだ。
例えば、スポーツの試合で、「監督による「気合い入れ」で勝てた」と言って
いるようなものだ。真の勝因は、普段の練習や選手の素質なんだが。
0199にゃんこ
2007/02/18(日) 12:29:54ID:KXivOE7A1,農民兵を徴兵しないから、遠征の兵数が少なくなる説と
2,限界まで搾取するためだから、遠征の兵数が多くなるという説がある。
私は2だと思うな。1が真実だとすると、
豊臣秀吉がイイ人過ぎる。
なお、「遠征の」という但し書きをつけたのは、防衛戦と遠征では惣村の協力
に大きな違いがあるから。
0200人間七七四年
2007/02/18(日) 15:06:11ID:HADoshBs説明出来ないと話にならないね。
>>198 まあ戦上手では無い武将同士が指揮した戦闘であれば、大概は兵数
や兵の強力さなどが勝敗を決したりするんだろうな
0201人間七七四年
2007/02/18(日) 15:16:10ID:TfyXBZ2hそれと、同等に近い軍は集まらないけれども、
本気で集めたら1万は超えるのは当然と言ったら当然で、すべての戦いで全軍を出す人間なんてほとんどいないからな。
0202人間七七四年
2007/02/18(日) 15:23:18ID:Cg8OydVg(知多半島や岩倉を支配してない事を思えば、
もう少し少ないかもしれない)
戦場にもっていく兵力が五千人
べつに奇異ではないね
0203人間七七四年
2007/02/18(日) 15:54:06ID:HADoshBsの備えもあったし。
それから尾張統一してたんならどうして清洲みたいな奥にまで押し込ま
れる状態におちいったの?そんな基本的なこと知らないで今まで散々喚
いてたわけ?
織田軍の兵力は結局、その半分の領土から動員したものなんだよ、尾張
を統一したのは戦後だ。
0204人間七七四年
2007/02/18(日) 16:05:08ID:vl7DLho60205人間七七四年
2007/02/18(日) 16:10:40ID:CHP0wYcr桶狭間の合戦の真実について
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149962872/
0206にゃんこ
2007/02/18(日) 16:44:09ID:KXivOE7Aにゃんこの文を誤読しているよ。
総兵力は、今川の方が大きいのは事実だろうが、桶狭間山周辺では大差がなかった
とすれば、織田方の勝因を、小説的なネタに頼らず、合理的に説明できる。
0207人間七七四年
2007/02/18(日) 16:47:03ID:w7eguL7F信長公記の記述の最後の義元守った三百騎だって攻撃を受けた後の話
本来の本陣兵力がどれくらいいたか、という記述は無い
0208にゃんこ
2007/02/18(日) 16:57:36ID:KXivOE7A1560年ごろなら、検地はまだまだユルユルで、千単位や万単位の動員数など
数えようが無い。小隊や中隊といった単位に編成してなくて、各地の親分たちが
私兵を率いて従軍するんだが、その人数の申告も、どの程度アテになるか?
そういう申告がアテにならないから、大名権力の伸長とともに検地がキツくなり、
やがて、実測による丈量検地が為されるんだから。1560年にに正確な兵数が
出せるくらいなら、太閤検地なんかいらないって。
0209にゃんこ
2007/02/18(日) 17:05:12ID:KXivOE7A前の防衛戦には参加したが、今回の遠征には参加しない半兵士や、
たまに戦う1/4兵士なんかを、兵士か農民かはっきりさせたわけだ。
207>予測というより、割り出しと言った方が正確だな。結果から割り出して
いるんだから。
0210人間七七四年
2007/02/18(日) 17:05:38ID:w7eguL7Fだからといって、史料に残ってる数字まで一概に検地前と否定したら何にもならない
その上で主観的予測一辺倒ではお話にならないよ
少なくとも説得力が無い
0211人間七七四年
2007/02/18(日) 17:08:38ID:ftYuDewrみんなで分からない分からない主張して一体なにがしたいんだよw
0212にゃんこ
2007/02/18(日) 17:13:22ID:KXivOE7A主観的予測?誰がそんなことした?16世紀末の石高からの割り出しから、
補給や農民への抑えの人数を割り引いたものが、主観的予測かい?
0213にゃんこ
2007/02/18(日) 17:15:29ID:KXivOE7A0214人間七七四年
2007/02/18(日) 17:20:26ID:FEFO8Nj/普通にウザス。
ってかそこまで拘るなら専用スレ行けよage厨。
0215にゃんこ
2007/02/18(日) 17:28:22ID:KXivOE7A公家や指揮についての理解が、三戦版向きだよ。
0216にゃんこ
2007/02/18(日) 18:10:38ID:KXivOE7A総兵力では「寡兵」側が下回っていたとしても、戦力の集中によって、決勝点では、
戦力(兵数×・・・)が上回っているものだ。それをやってのけるから名将なん
だよな。
コーエー史観のように、信長能力95、義元能力48なんてものじゃない。
0217人間七七四年
2007/02/18(日) 18:14:14ID:AXktzvJz謙信の関東出兵
厳島の陶
耳川の大友
これらは実際はどのくらいの兵力だったと思いますか
0218人間七七四年
2007/02/18(日) 18:21:00ID:IWJ93Wdy陶の25000は妥当なとこだと思うけど・・
謙信の関東出兵は関東中の大名が集まり北条家からも離反が続出したらしいから10万でも別におかしくはない とまでは言わないが5万〜8万は確実
0219人間七七四年
2007/02/18(日) 18:22:11ID:HADoshBs機動力に勝る織田軍=寡兵であったのは事実、1万数千もの兵で気
づかれずに今川本陣まで行けるわけがないんだからね。
元の総兵力が同等であろうが迅速な動きで本陣奇襲出来た織田軍が
凄かったということ。
え??実際は両軍共同等の兵力(桶狭間の時点)で真正面からぶつ
かって今川軍は負けたって?そんなのが言い訳なるかよ、それでも
信長の戦上手なことが伺えるからね。
0220人間七七四年
2007/02/18(日) 18:31:52ID:hPmbGfXP旧家には桶狭間に関する伝承が結構残っている
0221にゃんこ
2007/02/18(日) 18:38:49ID:KXivOE7Aちなみに、秀吉軍は大返しで瓦解した。だから、山崎では摂津など地元勢力を主力
として戦った。大返しの本質は機動ではなく、政治宣伝だったんだな。
機動力を上げようとしたら、ローマのように規律と訓練を普段から叩き込まねば
ならない。
0222にゃんこ
2007/02/18(日) 18:58:57ID:KXivOE7Aが弱くて、サボられたり、裏切られたりするのが戦国の習い。
また、両陣営に誼をを通じ、どちらが勝っても一族全滅は避けられるように
工夫するものだ。イデオロギーではなく、土地利権の奪い合いなんだから。
陶自身と配下の総兵力の25000は過大だな。そんな大領主だったっけ?
陶側に相当なサボタージュがあったとしか考えられんと思う。
まだ、トップに立って日が浅いのも、大きいしな。
もし、通説通りなら、毛利側による武士階級虐殺だよな。革命戦争だ。
もちろん、そんなのではなく、サボタージュやあっさり降伏が多かったと思う。
0223人間七七四年
2007/02/18(日) 19:03:36ID:yDDcgjjaID:HADoshBsは支離滅裂で有名な糞コテですので
あまり反応しないほうが・・・
0224にゃんこ
2007/02/18(日) 19:06:50ID:KXivOE7Aサンクス。厨対厨 の口喧嘩してるね。彼は。「言い訳になるかよ。」だもんな。
0225人間七七四年
2007/02/18(日) 19:10:17ID:HADoshBs高松〜姫路〜京の距離と、清洲〜桶狭間の距離を一緒にするなターーコ
お前って普段リアルで相当単細胞相手に議論みたいなことしてるわけ?
そんな相手ならお前の考えも納得させたりするよなあ。
0226人間七七四年
2007/02/18(日) 19:13:04ID:MRfeidxy9時間も2chするなよw
0227人間七七四年
2007/02/18(日) 19:13:35ID:vaIFt3UKワロタ
0228人間七七四年
2007/02/18(日) 19:19:12ID:HADoshBs25000ぐらい集まるだろ、それ以下だったとしても、毛利方も尼子
へのけん制などもあったから、結局寡兵しか集まらなかったと考えれる
わけで、寡兵毛利軍VS大軍陶は妥当だろ。
0229人間七七四年
2007/02/18(日) 19:23:42ID:HADoshBs背後から大軍を奇襲しての織田軍の勝利説」を捻じ曲げたい今川厨に対して
教えてやったんだけどね。
奇襲を無様に受けても、真正面から戦って下手な采配で負けても負けは負け。
桶狭間で負けたのは事実なんだから文句を言う資格は無しってことだ。
0230人間七七四年
2007/02/18(日) 19:25:33ID:AXktzvJz太閤検地での石高
筑前 325,695
豊前 140,000
長門 130,660
安芸 167,820
石見 111,770
豊前なんかは太閤検地と寛永期で全然違ったりするが・・・
0231にゃんこ
2007/02/18(日) 20:33:49ID:KXivOE7A実は恥ずかしながら、ドラクエ8と、ハゲタカと、おりんと、天の覇王と、どろろ
と読んだり練金したりしながら、今日一日を過ごした。
さて本論
230氏の史料からは22000人。ただし、これから、他方面への備えや
体制の違いや掌握の度合い等々を割り引くと・・・・
20000人は確実に割るな。
225>
飛び出した大将を配下が追いかけるものは機動とは言わない。
0232人間七七四年
2007/02/18(日) 20:37:55ID:AXktzvJz筑前 325,695
豊前 140,000
長門 130,660
周防 167,820
安芸 194,150
石見 111,770
数字は太閤検地
0233人間七七四年
2007/02/18(日) 20:52:21ID:AXktzvJzこの数字は比較的低い数字らしく、もっと動員できると思う。
筑前 8140
豊前 3500
長門 3260
周防 4200
安芸 4850
石見 2800
0234にゃんこ
2007/02/18(日) 21:05:41ID:KXivOE7Aしていた頃の数字を基準にしたものだろ?
それに、2.5人は遠征兵力だ。惣の協力の得やすい防衛戦の兵力がもっと
大きかったのは当然だ。
0235人間七七四年
2007/02/18(日) 21:21:00ID:zWSDP1wf「義元は武将じゃない」厨と「寡兵じゃ大軍を敗れません」厨の争いかw
それより、有名どころの戦国大名って1回くらい『寡兵で大軍を破る』戦いを
していると思うのだが、武田だけは思いつかん。なんで?
0237人間七七四年
2007/02/18(日) 21:26:19ID:XiYovMHA無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
0238人間七七四年
2007/02/18(日) 21:31:42ID:vaIFt3UK沢山城救援戦って北条軍の兵士は意味がわからなかったんだろうね?
でもマジで勇敢だよな。
0240人間七七四年
2007/02/18(日) 22:27:19ID:AXktzvJz立花山城から西は大友領だったみたいだが。
0241人間七七四年
2007/02/18(日) 23:17:42ID:HADoshBsはい、精一杯の屁理屈ね、お前の屁理屈が、敵に悟られずに敵陣まで
たどり着くこととどう関係があるのかな?
0242人間七七四年
2007/02/18(日) 23:21:27ID:HADoshBs信玄初陣の時から甲斐一国領有してたし。
それに情報によって敵より多量に兵集めるのも軍略の一つ
0244にゃんこ
2007/02/18(日) 23:38:46ID:KXivOE7A何じゃそりゃ?
そんな事できるはずが無いよ。昼間なんだから。まして、桶狭間山から丸見え
だよ。
経済力と各個撃破を狙う内線側の定石からいって、隠密作戦(笑)でなくても
勝てるんだよ。要は、決勝点への戦力の集中だ。
原書でなくて通読解説書でいいから、クラウゼヴィッツかジョミニでも読め。
偉そうに、戦史を語りたいなら、せめて内線や決勝点の意味ぐらい調べろよ。
0245人間七七四年
2007/02/18(日) 23:43:58ID:AXktzvJz薩摩はまずしい痩せた土地で、火山灰などの問題もあり、作物はほとんど育たなかった。
(それを解消するために後世薩摩芋というものができたわけだし)
そのため兵糧等の問題で、寡兵で出撃する必要があったらしい。
現在での鹿児島でも酪農のほうが盛ん。
0246人間七七四年
2007/02/18(日) 23:51:50ID:zWSDP1wf芋侍はつらいなー
0247人間七七四年
2007/02/18(日) 23:57:38ID:LqQHX4220248人間七七四年
2007/02/19(月) 00:04:36ID:sxlyh/y6兵法でしか物を測ることしか出来ないんだろお前 笑)
400年前のことなんだから、「織田軍と今川軍の兵力が同等」ってお前が
言ってることも有り得ないってちゃんと理解してるの?当時の地形、突発の
出来事とか頭に入れないんだね
敵に悟られる=その敵は周囲に気を配る(間者などを放って)ってことだろ?
実戦指揮に乏しい義元がそこまで気を配ったのかってこととか考えないの?
昼間(夜間という説も強い)でも大雨であれば十分に敵に気づかれない要因
にもなるよねえ、それに清洲城出発時には1000以下っていうから狭道を
移動するのに分けもないと思うが。
0249人間七七四年
2007/02/19(月) 00:10:33ID:sxlyh/y6が織田軍に動員出来たのなら、どうして桶狭間決戦まで尾張の奥にお
しとどめられるような状況になったわけ?桶狭間(田楽狭間)なんて
もろ尾張領内だろ?攻められて城砦なども落とされてる状況の織田軍
にそこから更に20000も再動員なんて出来るのかよ。
0250人間七七四年
2007/02/19(月) 00:27:38ID:qNRqMDCi雪斎が凄いのは事実だが、全部の指揮を執ってた訳じゃないぞ。
0251人間七七四年
2007/02/19(月) 01:16:20ID:sxlyh/y6家臣にまかせっきりの大名なのですよ、外交や政治は違うだろうが。
0252人間七七四年
2007/02/19(月) 01:18:39ID:qNRqMDCi0253人間七七四年
2007/02/19(月) 02:20:10ID:X5/ehyhZたろうね。
0254人間七七四年
2007/02/19(月) 02:57:10ID:k4ww2M3y【ふつうの人間が抱く疑問】
信長厨はなんでこうも「天才、天才」と得意げに語るんだろう?
別にあんたらが天才なわけでもなく、何をした訳でもないんだろうに。
【臨床医学的な解答】
心理学的に云う「ヴァーチャル・アイデンティティ」(仮想世界に自分を仮託する)
つまり、自分がゲームの中の主人公に置き換えられてしまい、その主人公が危機に晒される
(批判される)と、自分の存立そのものが侵されたという危機感に陥る。
したがって、仮託した主人公(信長)のライバルや仮想敵を攻撃することで、
危機を回避する心理構造。歴史解説書やPCゲームで信長厨になった人間は、大抵の場合
これに該当する。現実世界では惨めな自分が、信長となって天下を統一するという
仮想世界に生きるのが、彼らの唯一の癒し。病人だから大目にみるように。
【理論的補足】
なぜ信長厨に特有の症状かというと、単純な最強英雄願望がその底辺にある。
秀吉(信長の部下)や家康(同盟者)では、その英雄願望は充たされず、
ましてや他の戦国大名は、信長に仮託した自分の攻撃対象にすぎないから。
ついでに付記すれば、信長が天下統一の途上で斃れたことも影響している。
信長が生きていれば、この閉塞感のある世界も変わっていただろう・・・・、と
0255人間七七四年
2007/02/19(月) 02:59:35ID:xjtDUzj+0256人間七七四年
2007/02/19(月) 04:12:01ID:DfBoaWdj>その手のパフォーマンスを勝因の主にする考え自体がおかしいと思う。
>勝因の主は、政治的なものや数学的なものだ。
たしかに多くの場合はそうだ。
しかし数理だけでは今川があそこまで惨敗することを説明できない。
計算だけで成り立つシミュレートではあのような結果には何度やってもならない。
人間とマシンでは根本的に違うから当然だ。
監督の気合うんぬんはまったくナンセンスだ。
状況とタイミングでいつも結果は違う。
普段の練習と素質を否定してるんじゃなくて、それだけじゃないということ。
0257人間七七四年
2007/02/19(月) 13:29:41ID:JnqxRDB5これを額面通りに受け止めるのは違うだろ
全ての手を尽くす事は何をするにしても前提条件
その上での気合い入れだし、運であると
0258人間七七四年
2007/02/19(月) 17:13:52ID:3y+iDhMj0259人間七七四年
2007/02/19(月) 18:37:46ID:TENj7gbjいいこというなあ
命をやりとりする戦場なら、なおさらそうだろう
0260人間七七四年
2007/02/19(月) 19:08:49ID:SunJtUzj戦争ならなおさら重要要素でしょう。
0261人間七七四年
2007/02/19(月) 21:27:50ID:sxlyh/y6何も残っちゃいないんだよwww
0262人間七七四年
2007/02/19(月) 21:47:46ID:qNRqMDCi0263人間七七四年
2007/02/19(月) 21:57:00ID:IvKzS5Z6織田軍の動きには細心の注意を払っていて当然だ。
偵察も多数放っているはずだよな。
いかに楽勝ムードで気が緩んでるにしてもそういう体制を取っていなかったはずがない。
目の前に現れるまで二千の兵が動いている織田の動きが全く分からなかったなど有り得ない話だろ。
0265人間七七四年
2007/02/19(月) 22:34:55ID:IvKzS5Z6しかも雨が降り出したのは戦い直前だろう。
そもそも善照寺砦に織田軍が集結した時点で斥候からの情報が
入ってて当然じゃないのか?
0266人間七七四年
2007/02/19(月) 22:41:10ID:IvKzS5Z6「行伝寺過去帳」
「二十日
仏身院 上杉五郎(朝定)殿
善銀 難波田殿
蓮順 天文十五、四
上田小三郎
(欄外)
河越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙午四月」
0267人間七七四年
2007/02/19(月) 23:18:23ID:gEf7UeT80268人間七七四年
2007/02/20(火) 01:25:38ID:eRV26dWw河越で北条氏康・綱成が関東連合軍を破ったって事自体に疑問の余地は無い、
じゃなかったら短期間に死んだ連中、追い出された連中の立場が無い。
0269人間七七四年
2007/02/20(火) 18:58:03ID:vfyL0ibJ0270人間七七四年
2007/02/20(火) 20:09:33ID:5ifExbdj0271人間七七四年
2007/02/20(火) 20:26:54ID:51p0Bf7p0272人間七七四年
2007/02/20(火) 22:40:28ID:EZqxkUVz0273人間七七四年
2007/02/21(水) 00:21:22ID:xYYVdUTw籠城戦は例外だな。
一定期間持ちこたえるうちに攻城側の政治的事情で解囲された例を挙げて行ったらキリがない。
0275人間七七四年
2007/02/21(水) 02:38:01ID:QKaFvJLeまてよ、上田の場合1次2次共最終的に撤退したのは外部要因だな。
これをどう扱えばいいかな?
0276人間七七四年
2007/02/21(水) 19:36:31ID:eXrUhlNB0277人間七七四年
2007/02/22(木) 01:11:54ID:cTkkX8CQゲームじゃあるまいし、篭城だからとかは所詮条件の一つに過ぎん。
0278人間七七四年
2007/02/22(木) 12:22:03ID:pjOh8o1l政治的変動、あるいは敵の経済的疲弊を待ち、目的を達成する。
戦理にのっとったまともな武将のまともな勝ち方だ。
ただ、このスレはまともじゃない方法で勝った希有な戦例を探すスレじゃないのか?
0279人間七七四年
2007/02/22(木) 16:17:28ID:s38pT0oT河越夜戦の真相を探る
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172125964/
0280人間七七四年
2007/02/24(土) 06:01:09ID:YCbnjW660281人間七七四年
2007/02/25(日) 16:36:58ID:jyNxIQzX小笠原を壊滅させた塩尻峠の戦いは寡兵だったと思う。
しかも率いたのは騎兵のみだったとか。だから兵数が
少なかったんだろうが。
0282人間七七四年
2007/03/11(日) 10:14:05ID:rDN0M3Ox新日正規軍 vs. 平成維新軍
0283人間七七四年
2007/03/13(火) 20:20:07ID:H6IFKeayそれ以前の戦いについては、秀吉期の人数からの推定、後代に書かれた編纂物からの引用というのがほとんどだと思います。
また、1万石高あたり250人を動員できたとして算定した、参謀本部の「大日本戦史」の影響も強く残ってます。
しかし、石高というのも仮の数字にとどまり、実際の生産力は誰も把握できなかったわけで、また戦場に近いところでは万石あたり500人とかの人数が動員されることもあったわけです。
また、一定の領地に軍役が免除されることも多く、結局のところ兵力なんてよくわからないんですよ。
0284にゃんこ
2007/03/13(火) 22:06:59ID:3U9LDAnaそうなんだよな。秀吉の頃からやっと、まともに数字を取り扱うようになり始めた。
でも、脱税や軍役のごまかしのためのインチキ検地が地方では横行したらしい。
まあ、個人の私有地に国家の手がズカズカ入って来るのは、近代社会だからね。
0285人間七七四年
2007/04/16(月) 22:06:17ID:79kKjJbs0286人間七七四年
2007/05/14(月) 09:14:31ID:t4NQd8je0287人間七七四年
2007/05/14(月) 09:16:15ID:ng939ZbB続きは三戦板でやりましょう。
http://ex21.2ch.net/warhis/
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167304387/554
0289人間七七四年
2007/05/17(木) 00:27:34ID:HsGKrMNX南九州の桶狭間なんて初めて聞いたぞ・・・・
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/045/045_070505.htm
0290人間七七四年
2007/05/17(木) 08:30:33ID:C+leBE7Z0291人間七七四年
2007/05/17(木) 09:00:40ID:GbKEgptM碧蹄館の戦いの前哨戦、 般丹の戦い、 蔚山城救援戦 まさき天下無双の軍才
0292人間七七四年
2007/05/17(木) 12:36:24ID:HDgVJZQ+ただのバンザイアタック
0293人間七七四年
2007/05/18(金) 00:47:16ID:QfDBDSFC1週間(だっけ?)も食い止めたのは立派。
ペルシャの別働隊に後方に回り込まれなければ更に持っただろうし。
しかし
破って無いじゃん。
0294人間七七四年
2007/05/20(日) 18:17:48ID:LK2m+5zu柴田 勝家vs長島一向宗
織田vs石王山砦
etsこんなもんか
0295人間七七四年
2007/05/20(日) 18:22:09ID:LK2m+5zu0296人間七七四年
2007/05/20(日) 20:51:39ID:kRRXD3Pd0299人間七七四年
2007/05/22(火) 03:06:30ID:brWHXuox近くの白髪三千丈の国を思い浮かべてしまう漏れはw
0300人間七七四年
2007/05/22(火) 17:32:15ID:habLOl8W初日は氏邦勢を崩しただけだからな。
初日はおそらく北条本隊とは交戦してないと思われるので、
氏邦勢だけと考えるのならば、滝川勢>氏邦勢だろうな
0302人間七七四年
2007/05/23(水) 03:13:18ID:eukiLhOG神流川の戦い
初日 滝川>北条:滝川の勝利
二日目 北条>滝川:北条の勝利
どう見ても順当勝ちです
0303人間七七四年
2007/05/25(金) 04:02:25ID:PW4uneavこの合戦、大規模な割に北条方の損害が恐ろしく少ない。
逆に滝川方の損害は川を渡らなければ帰れないという状況もあったため、
2千人以上の犠牲者を出したらしい。
背水の陣で敵領土で地形的有利もなしで後ろ盾もなくて更に兵力でも負けてると
このぐらいさっぱり負けられるという珍しいぐらいの大敗北。
このいくさほどスレタイの正確に真逆をついてるいくさもないのでそういう意味では貴重。
0304人間七七四年
2007/05/25(金) 05:04:41ID:cqvcyNiP北条は内戦防御に特化している家だから、
籠城・攻城・野戦ととにかく損害が出にくい手堅い戦い方をするけど、決して戦巧者とは言えない。
なのにこの大敗北。
これが織田軍団の軍団長か・・・
0305人間七七四年
2007/05/25(金) 18:12:55ID:P1wWe03y僅か数百の手勢で今川の旗本5千を奇襲、見事総大将の今川の首を挙げ日本の歴史を変貌させた。
0306人間七七四年
2007/05/25(金) 20:02:21ID:6rmhqpK7寡兵300程度で城内の1000を鮮やかに打ち破った戦い。
相手が大軍ではないにしろ、一番複雑な城攻めでしかも初陣で
これだけのことをやってのける信玄は神である。
0307人間七七四年
2007/05/25(金) 20:13:00ID:s/rM6FXO0310人間七七四年
2007/05/27(日) 16:14:34ID:2SkI/S2k侵入した敵を地元の利を生かして少数で奇襲・撃退とか別にめずらしくないよね。
でも敵大名を討ち取れるまでいった幸運が大きかった。
信長も想像していなかったろうな。
0311人間七七四年
2007/05/28(月) 02:25:18ID:sXybe7Sx厳島とか沖田畷とか、桶狭間以外にも寡兵で敵の大名を討ち取った戦いは有る。
桶狭間が珍しいのは、敵の主力に損害らしい損害を与えずに終結している点だ。
戦国時代の合戦は首取り合戦て事を象徴するような戦いだな。
0312人間七七四年
2007/06/01(金) 05:48:53ID:JWdGKbRu皆まぐれで勝ってるのがあると思う
毛利は除くけど
桶狭間まぐれって言った人へ
0313人間七七四年
2007/06/02(土) 15:23:16ID:pgrIq5Ryなんらかの運も絡んでるよ、大なり小なり。
0314人間七七四年
2007/06/02(土) 21:45:19ID:OB3AboMk運がまったく絡まない戦なんて有り得ないし
大事なのは、状況の変化を自分の有利となるように活かす事が出来る能力なんだと思う。
0315人間七七四年
2007/06/02(土) 22:54:48ID:Hx/cYEliスパルタの兵士最強
0316人間七七四年
2007/06/02(土) 23:03:07ID:/bUac4JE0317人間七七四年
2007/06/02(土) 23:09:44ID:Hx/cYEliあ、ばれちゃったw
0318人間七七四年
2007/06/02(土) 23:10:09ID:cyxyxIp9影響を受け易い性質だな、武田に騎馬軍団がいたと未だに信じてそう
0319人間七七四年
2007/06/02(土) 23:18:46ID:Hx/cYEliなんか「300」に嘘があるような言い方だな。
嘘があるの?
0320人間七七四年
2007/06/02(土) 23:40:44ID:dZ6eCIdLペルシア軍の231万7610人ってのもでかすぎるし細かすぎる。眉唾物では。
ソースはwikiだけどね。自分も影響を受けてwikiでチェックしてみたw
0322人間七七四年
2007/06/03(日) 00:23:08ID:KPHQ5F2/そもそもそんな昔に200万の大軍を養える兵站が確保できるものか。
せいぜい数万ってのが実数じゃね?
0323人間七七四年
2007/06/03(日) 00:37:21ID:YhDMUbk0原作は漫画だし
エジプトvsヒッタイトだって兵員数誇張され記録されているし
所詮、スパルタがペルシャと戦ってたときは日本には読み書きさえ出来る人間い
なかったんだから
0324人間七七四年
2007/06/03(日) 01:48:51ID:0FuQhd5d成人男子を根こそぎ動員レベルだぜ
0325人間七七四年
2007/06/03(日) 07:40:48ID:9p36JWCCもっとも勝った戦いとはいえないだろうが。
ぶっちゃけあの時代の数には突っ込むだけ無粋。
確認するまでもなくありえないものがいくらでもあるし。
0326人間七七四年
2007/06/03(日) 11:41:23ID:QD7vfG8o予告映像がカッコ良すぎ
0327人間七七四年
2007/06/03(日) 13:08:45ID:LCEXDKBH0328仙台藩百姓
2007/06/03(日) 13:21:50ID:6o69H3jBこの数字みるとあちらの方も当時は
数かぞえるの出来なかったんじゃないかお思うお(≧ω≦)プッ
0329仙台藩百姓
2007/06/03(日) 13:35:56ID:6o69H3jB薩摩の人は数かぞえるの出来ないから(≧ω≦)プピッ
日本語も話せないし(≧ω≦。)ブプーッ
0330人間七七四年
2007/06/03(日) 13:46:44ID:SF052bfE0332人間七七四年
2007/06/07(木) 19:02:20ID:6g3+Cd6F0333人間七七四年
2007/06/07(木) 19:24:30ID:lBmrKNN4ギリシャ側が5200程。
レオニダスのスパルタ軍が300人組み込まれていたので『300』!
0334人間七七四年
2007/06/07(木) 20:35:22ID:p9CNglSsむしろ全殺しされてますやん
0335人間七七四年
2007/06/07(木) 23:50:51ID:Pg+xKdUL0336人間七七四年
2007/06/08(金) 01:29:53ID:HpOs8BRAシチュエーションはほぼ同じ
簡単に言うと時間稼ぎのための玉砕戦術
それが功を奏したという点でも共通している
0337人間七七四年
2007/06/08(金) 02:18:24ID:ZTlWMZcP0338人間七七四年
2007/06/08(金) 05:57:30ID:UEdfGOAG破 っ て な い じ ゃ ん
日本語読めないのか・空気読めないのか・人工無能の類なのか
はっきりさせたまえ
0339人間七七四年
2007/06/08(金) 06:03:28ID:jiIjBe6eやっぱ小勢力で大軍を破る天才と言えば
戦において史上最高の天才軍師黒田官兵衛だろうな
秀吉が惚れて自分の右腕にしたくらいだ
【歴史的難儀】本能寺の変の真犯人判明2【解決】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174220839/
0340人間七七四年
2007/06/08(金) 16:51:55ID:k2GLjjZm厳島合戦
0341人間七七四年
2007/06/08(金) 17:07:24ID:prEC0SdG0342人間七七四年
2007/06/09(土) 01:35:06ID:EwoXKrwH謙信の武勇伝まだですか?
0343人間七七四年
2007/06/09(土) 08:25:20ID:hPv2VUwM「太平記」で足利尊氏の軍勢50万とか書いてるのと同じレベルだよな…。
加賀に逃げられたのは10万未満とか20万も死んだり捕まったりしたんかいw
人口や兵站を考えてもアリエナス。
0344人間七七四年
2007/06/09(土) 10:45:24ID:JQWiJ72L職探せ
0345人間七七四年
2007/06/09(土) 19:03:52ID:x3jcEFRB0346人間七七四年
2007/06/10(日) 14:04:51ID:ev93O7qK0348人間七七四年
2007/06/14(木) 05:44:37ID:RWOPICxE・・・3P?
0349人間七七四年
2007/08/05(日) 21:30:36ID:aTVRh6O90350宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/06(月) 01:30:32ID:O+SFZHhX0351人間七七四年
2007/08/10(金) 20:46:18ID:3sRDj2r6あれ何で勝てたの?
謀略も奇策も使わず何故か勝ってしまったという印象がある。
0352宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/10(金) 21:31:51ID:G9xMBZHd金光須々木中島の内応。
三村勢2万は寄せ集めの国人衆であり、利有らざれば引く烏合の衆。
0353人間七七四年
2007/08/10(金) 22:04:50ID:11PLwd/5大阪の冬の陣。大阪城の弱点を見抜き、真田丸を自らの手で築城。
かつての大老であり右大臣秀頼公の後見人でもあった加賀100万石前田家が攻めてくるも、真田丸からの容赦ない鉄砲攻撃で正義の鉄槌を下す。
天下の諸侯を集結させても真田には勝てないと悟った家康は大坂城攻めを止めてしまった。
0354人間七七四年
2007/08/10(金) 22:11:53ID:11PLwd/5豊臣家が大逆転するには徳川家康の首を掻き取り、諸大名を寝返らせるしかなかった。
真田信繁は家康本陣目掛けて、強烈な騎馬突進を三度もぶつけた。家康本陣を守る選び抜かれた精鋭旗本達をも叩き潰し潰走させるものであった。
三方が原以来、旗印が踏み潰され逃げ場を失った家康が切腹をも覚悟したほどであった。真田信繁が日本一兵になったときである。
0355人間七七四年
2007/08/10(金) 23:03:23ID:oItOAJ8T信玄以上の戦の名人かも
0356人間七七四年
2007/08/10(金) 23:45:30ID:Ozq3pSK5まあ扇谷上杉が攻勢に出て救われたが。
0358人間七七四年
2007/08/11(土) 09:13:59ID:Pj+chapZ実際毛利すごいよな
つぅか毛利真田のコンビ強すぎww
もしあの突撃の時に後藤木村がのこってたら家康の首に届いただろうに
0359人間七七四年
2007/08/11(土) 10:57:52ID:xEOUPDXe織田信長が馬廻を中心にわずか3000で数万の本願寺・雑賀衆の重囲下の明智光秀
らが篭る天王寺砦へ突破救出、信長は雑賀衆の鉄砲で負傷しながらも本願寺勢を
撃退
0360人間七七四年
2007/08/11(土) 12:12:13ID:icu4edUQ遅巧よりも拙速を選んだわけだが、この時期の信長にしては軽率と言えなくもないような
0361人間七七四年
2007/08/11(土) 12:48:10ID:uhppdWYA0362人間七七四年
2007/08/11(土) 14:39:26ID:6PLqvp9Q天王寺の戦いとか刀根坂の戦いとか、
少数でもやるときにはやる決断力も十分もってるんだよなあ。
0363人間七七四年
2007/08/11(土) 15:39:23ID:7VyzCA/x一揆勢3万(武器を持たぬ民衆を含む)
vs
織田方:羽柴・明智・池田以外の全兵力。
信長率いる有力武将(丹羽・柴田・佐久間)の総動員7万
九鬼・滝川の水軍6百艘の大船団(大船も動員)。織田信忠は別働隊
信長の戦法は兵糧攻め。この大兵力で四方を3ヶ月取り囲んだ。
助命を条件に開城させるが、信長はそれを反故にして鉄砲で一斉掃射をする。
激怒した一揆勢は、「槍も持たぬ7百の集団」が白兵戦。
織田軍を撃退した。
判明している最低兵力、織田勢7万+6百艘の大船団を
抜き身の刀しか持たない700人の農民が撃退し
多くの織田一門衆を討ち取ったほど。
補足
この戦いは信長の大敗だが、最終的には島全体を柵で包囲して
残された2万の農民を焼き殺すことで鎮圧している。
そのことから、一揆勢で兵として機能していたのは1万にも満たなかったようだ
一揆勢にしろ信長にしろ、追い詰められた人間は恐ろしいですわ・・・
0364人間七七四年
2007/08/11(土) 16:49:46ID:xEOUPDXe元亀二年の出陣では信長方の兵力はせいぜい2万
参陣した有力武将は柴田勝家(所領:近江国蒲生郡)佐久間信盛(近江国栗太・
野洲郡)、美濃三人衆(柴田指揮下)
天正元年の出陣での有力武将は富田長繁(越前国南条郡)、林新次郎(家老秀貞
の養子)で兵力は先年より少なかっただろう
元亀二年の出陣では信忠も参陣するが、まだ家督を譲られておらず、せいぜい自
らの馬廻・小姓衆のみ、九鬼嘉隆、滝川一益、信雄、信孝も動員されるが、7万
もの兵力は所領から考えてもまず無理
600隻の船舶も誇張されているだろう
さほど広い河川ではないところでは大量の船舶を投入すると身動きすら出来なく
なり、味方の誤射の危険も多くなる
0365人間七七四年
2007/08/11(土) 17:28:39ID:akiW4sBF信虎はどう考えても武田以上の兵力を動員できたとは思えない諏訪に攻め込んで敗北し、
逆に諏訪衆に甲斐に攻めこまれて一部を占領されたこともあるよ。
0366人間七七四年
2007/08/11(土) 17:40:28ID:jKoMztlT永禄8年7月、檜原衆20人が篭る防塁に伊達軍800人が急襲
檜原衆が善戦し食い止める中
穴沢新右衛門が6、70人を連れ伊達の側面を突き
崩れた伊達軍を追撃し70余人討って撃退
葦名檜原衆140人+(援軍100人) VS 伊達軍1000人
永禄9年1月24日、押し寄せた伊達軍を檜原衆40人が弓で応戦
更に檜原衆100人、黒川城の援軍佐瀬玄蕃100人余りが打って出て
猛攻に崩れる伊達軍を追撃し530人を討って大勝
0367人間七七四年
2007/08/11(土) 18:23:01ID:6nDnm3aR葦名少なすぎだろw
0368人間七七四年
2007/08/11(土) 18:57:08ID:fWF7xZ4n0369人間七七四年
2007/08/11(土) 20:00:17ID:qADA7rRLまるでアラモ砦の戦いだなw
0370人間七七四年
2007/08/11(土) 21:27:28ID:+B4yKcokだから何?
信虎が寡兵で大軍を破ったことがあるのは事実だろ。
あと第一次川中島の合戦は、謙信が見事だな。
越後軍は5千、武田軍は2万弱なのに優勢勝ちだった。
0372人間七七四年
2007/08/11(土) 21:41:55ID:w+5IpmHZ小山軍議にて、豊臣恩顧の武将達が家康へと寝返っていく中、真田親子は颯爽と上田へ帰っていった。
その後、中仙道を突き進んでくる徳川本隊をのらくらりと引き付け、様々な罠で持って壊滅寸前へと追い詰めた。
猛将榊原康政は真田ゲリラ攻撃に屈し、謀略なら日の本一と自負する本多正信も真田昌幸の前では赤子の手をひねられる有様であった。
手も足も出ない徳川軍は、真田家を倒せず捨て置くことになる。
0373人間七七四年
2007/08/11(土) 22:07:13ID:cW4bktHP第一次上田城も篭城戦に近いものがあるし微妙。
0374人間七七四年
2007/08/12(日) 09:37:51ID:i4N19V4hまあ小さな城なら鎧袖一触落されてしまうこともあるから、
2日でもよく守ったと言えるのかもしれないが、
正直そこまで賞賛するほどのものとは思えない。
秀忠軍は全然壊滅寸前なんてことにはなっていないし。
0376人間七七四年
2007/08/12(日) 11:33:42ID:fi+M1d+J徳川厨ホイホイ
0377人間七七四年
2007/08/12(日) 11:40:09ID:i4N19V4h0378人間七七四年
2007/08/12(日) 12:41:33ID:LBSXY+GK0379Y ◆nzdGjBH722
2007/08/12(日) 13:14:04ID:zLnmV2MC真田厨必死w
0380人間七七四年
2007/08/12(日) 13:52:05ID:Dvq2mEKT0381人間七七四年
2007/08/12(日) 14:36:30ID:/tR4rGkq北条の小田原籠城と同じか、それ以下。
0382人間七七四年
2007/08/12(日) 17:23:40ID:i4N19V4hそもそもかなりの弱小勢力なんだから大友だの北条だのと比べたら、
あまりにも可哀想だろうよ。
弱小なりにはよく頑張ったと思うよ。
0383人間七七四年
2007/08/12(日) 18:21:45ID:Dvq2mEKT0384人間七七四年
2007/08/12(日) 22:17:41ID:FUoq6+O4小田原篭城は武田に関しては大した事でもないが、
謙信の方のはまだ小田原城も小さい頃だし普通に氏康の勝ちだと思われ。
攻めてないとかゲームじゃあるまいし、負けた方の言い訳に過ぎない。
0385宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/13(月) 01:01:08ID:NWb7JfED0386人間七七四年
2007/08/13(月) 13:21:54ID:gQRSKcwr最後は形だけとはいえ竜造寺が大友に降伏するという形で和睦しているし。
0387宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/13(月) 20:07:50ID:NWb7JfED0388人間七七四年
2007/08/13(月) 21:05:08ID:qg7eYKGt徳川家康・前田玄以・三法師VS明智光秀軍13000
天魔織田信長を討った明智光秀は京都や堺に在った徳川家康や織田家臣をも討ち滅ぼそうと同時にたくらむ。
しかし、大軍でももって取り逃してしまったことは敗戦をも意味する。
0389Y ◆nzdGjBH722
2007/08/13(月) 21:07:51ID:haXdctme0390人間七七四年
2007/08/13(月) 22:38:38ID:qg7eYKGt○島津義弘1000 対 ●東軍80000+立花宗茂4000
島津義弘と徳川家康率いる8万の大軍が戦闘した関ヶ原の戦い。
鬼島津として勇名ならした義弘達は福島隊を突破、追撃してきた井伊直政と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大坂城に残された妻を取り戻し、航路でもって薩摩へ向かう。航海途中、立花軍に襲われそうになるが、
「太閤殿下の惣無事令でもって過去のことは水に流したのじゃ。今は互いに毛利殿に味方し傷ついた身ではないか。争ってる場合ではない」と義弘の説得でもって宗茂を戦意喪失させた。
薩摩に無事帰還。家康は島津を恐れ、立花は島津に加担すると言い出し関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
0391仙台藩百姓
2007/08/14(火) 01:17:29ID:Ca4l2zi90392人間七七四年
2007/08/14(火) 02:00:14ID:g1FTBFJh0393人間七七四年
2007/08/14(火) 02:15:36ID:JwjxCgQG0394人間七七四年
2007/08/14(火) 11:38:48ID:MegvQA4K信玄に殺されそうになってびびって脱糞したが、
糞を体になすりつけて冷静さを取り戻したのは有名な話。
0395人間七七四年
2007/08/14(火) 16:52:54ID:9eyOmt9d騎馬隊が存在しないことと、徳川厨は別の話だろ。
騎馬武者がいても騎馬隊は存在しないんだよ。
基本的に馬は戦地までの移動に使って、
降りて戦ったんだよな。
0396こんな名無しでは、どうしようもないよ。
2007/08/14(火) 22:12:41ID:uOJwUte8大河ドラマのように全体の流れはともかく、詳細の部分に至ってはどこまでが事実かなんて
誰もわかりはしない。
もちろん残された資料や発掘調査などから精度は高くはなっているものの、それでもやはり
想像の域を出ないことには間違いないだろう。
例えばテレビ・ラジオ・ネットなど、情報収集の手段は今までにないほど充実した現代でさえ
我々は自身が生きている現在の世の中で起きている出来事をどれだけ正確に把握できてるだろうか?
それを考えると、信憑性の高い資料が皆無に近い歴史は想像の産物と言っても過言ではないだろう。
それゆえ、誰がどのような見解をしてもまた許されるともいえる。
0397人間七七四年
2007/08/14(火) 22:30:08ID:wEK24Xq3典型的な詭弁だが。
特に最後の3行の間それぞれの論理の飛躍が幾らなんでもいただけない。
釣りだとしても長文使っているのだからもう少しどうにかして欲しい。
100点満点中2点。
0399人間七七四年
2007/08/15(水) 20:44:39ID:yNOUztv0卓越した武術と剣術でもって大軍を破る光圀公。
切り札印籠の威力は、ん千人を従える大大名をも倒す。
0400人間七七四年
2007/08/16(木) 02:21:13ID:3P4c30E20401Y ◆nzdGjBH722
2007/08/16(木) 02:28:46ID:ElGeGKgC実際連合とはいえ八千VS三万じゃ勝つ方が無理だろ、こんなん信長元就あたりの一流武将でも勝てるかどうか・・・
まあ信長は5倍勝ちの天王寺があるからわからんが。
0402人間七七四年
2007/08/16(木) 03:44:06ID:kf2UdYJo0403Y ◆nzdGjBH722
2007/08/16(木) 03:59:12ID:ElGeGKgCそれと攻城戦だからなぁ・・・攻城戦ならさらに上に志村とかがいるし。
野戦で4倍近くの敵に勝つのとは違うだろ。
年代からして他方面に兵進める為の戦略的撤退だったと思う。
0404宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/16(木) 04:03:53ID:5CVQnu3h0406人間七七四年
2007/08/16(木) 12:24:16ID:SqkGzOipつ島津家久vs龍造寺隆信
龍造寺さん四天王と本人討ち取ってるし。
0407人間七七四年
2007/08/16(木) 12:53:29ID:ump60LZ/詰めを誤って集団逃走したことだな。翌年に戦略目標だった
二本松城を開城させたことも大きい。
0408人間七七四年
2007/08/16(木) 13:10:42ID:s7A9ozJm整然とした撤収だろ
ビビって追撃出来ない伊達のヘタレぶりが目立つな
0409人間七七四年
2007/08/16(木) 13:32:10ID:Tb/o7cKkましてや壊滅寸前の8千と優勢な3万だ
0410人間七七四年
2007/08/16(木) 14:20:23ID:kf2UdYJoだいたい3万と言っても一ヶ所に固まっているのではなく
広範囲に布陣していたのだから一度に相手するわけじゃあるまいし
まして人取橋の場合、会津側は統一された一つの軍ではなく
各々の判断で動いているから
他の決戦に比べれば遥かにやりやすいはずなのだが
0411人間七七四年
2007/08/16(木) 14:57:05ID:kf2UdYJo義継死後は元服前の国王丸が残され
やむなく新城が城代として伊達に当たったが
千程度で二本松に篭り政宗の1万3千を防ぎ
人取橋の後、再び押し寄せた片倉を打って出て蹴散らし
その後、政宗自ら総攻撃を仕掛けたがまたも落ちず
結局人取橋から8ヶ月経っても孤立無援ながら落ちなかった
政宗も諦めて包囲のみを続けていたが
相馬義胤が説得してようやく退去させる事に成功した
0413Y ◆nzdGjBH722
2007/08/17(金) 03:31:43ID:zGXe3TP9多功ヶ原や古沢については知らない、知識不足でスマン
>>406
その戦いは大体島津・有馬軍500〜8000、龍造寺軍18000〜60000と言われてるけど、
実質5000VS60000は当時の島津、龍造寺の国力差からしてありえないだろ。
大体8000VS32000くらいだろうが、確かに島津家久の手腕が光る戦いではあるね。
0414Y ◆nzdGjBH722
2007/08/17(金) 03:36:16ID:zGXe3TP90415Y ◆nzdGjBH722
2007/08/17(金) 03:55:45ID:zGXe3TP9死傷者は連合軍の方が多かったらしいが、兵力差は如何ともし難かったって感じじゃないだろうか。
>>408
追撃したところで包囲殲滅されるだろうし、そもそも政宗は撤退したこと知らなかったわな。
明け方になっても攻めてこないからようやく気がついてた。
0416人間七七四年
2007/08/17(金) 10:07:58ID:0bwkC7js信長は3000の兵で天王寺砦救出後、数〜十倍の敵に反撃し、信長は負傷しながら
も見事に撃退したが
0417Y ◆nzdGjBH722
2007/08/18(土) 00:48:24ID:SIhODbIKアレは見事と言うしかない。謀略計略といった下準備なしで一気に攻撃かけて勝ってるからな。
他にも長篠や朝倉追撃など目を見張るものばかりだ。
0418人間七七四年
2007/08/19(日) 02:54:01ID:CNkXuUdf0419人間七七四年
2007/08/19(日) 04:52:10ID:purNZzkd0420Y ◆nzdGjBH722
2007/08/19(日) 11:25:53ID:Uy7qeCQG0421人間七七四年
2007/08/19(日) 13:06:48ID:y0A9MMVk大殿御自ら僅かの兵で負傷しながらも討ち死に覚悟の自分を救出してくれたんだ
から
やはり光秀謀反は怨恨説ではないだろう
0422人間七七四年
2007/08/19(日) 13:56:17ID:XvdojGTC国力じゃなくて、状況見ろ
しかも4兄弟で家久一人しか行ってない
0423人間七七四年
2007/08/19(日) 20:41:24ID:uJLKK7B2予想に反して大勝しちゃったってとこか
有馬もまさか援軍が数千なんて期待外れだったろう
武士は義をもって第一とするなんて逸話も怪しいところだ
0424人間七七四年
2007/08/19(日) 21:13:00ID:wRSYUMkn予想に反してってのは、違うかもな。
島津的には5,6000いれば合戦できるのはわかってるから、
いい合戦場とかあったりチャンスあれば勝てるぐらいには思ってただろうよ。
まぁ、追い返せればいいからな。
0425人間七七四年
2007/08/19(日) 21:39:38ID:purNZzkdやっぱ一方的な虐殺かね。それとも領民一同でもって良い戦いを演じたのか
0428仙台藩百姓
2007/08/19(日) 22:44:09ID:NRHBzjBv秀吉の九州征伐と言う前例があるじゃないかお( ^ω^)
しかも秀吉の時はまだ東国押さえてなかった
島津も九州の過半に支配力を持っていた
そして関ヶ原以後だと状況は以前より悪い
当然結果など知れているお
0429人間七七四年
2007/08/19(日) 23:55:51ID:Pm0Cbr4f非常に不本意ながら禿同。くそっアホ百姓に同意する日が来るとはorz
付け加えると、関が原後の島津は軍費は無く、家中は義弘派義久派家久派の3派分裂中、
九州東軍の黒田・加藤に攻め込まれる寸前で、
家康が中央の政局安定を優先していなかったら取り潰されていたんじゃないか?
0430人間七七四年
2007/08/20(月) 01:28:49ID:MnAnUgREしかし、秀吉の時は、制圧していた大分あたりで四国勢は追い払ったが、
立花の抵抗で福岡を制圧できず士気さがって寄せ集め軍と忠誠低い家臣らで当ったからなぁ。
関ヶ原後は、追い詰められて士気がすごかったんじゃね?寄せ集めでない国許精兵だしなぁ。
義弘帰ってきたし、1000以上の兵の敵討ちにもなるし。
まぁ、あまりやりたくない相手だわ、島津に追い討ちかけて死んだ奴は数知れずだから。
0431人間七七四年
2007/08/20(月) 03:28:41ID:+uKC11qmまさか関ヶ原のあと島津討伐軍が編成され、戦わずに撤退したの知らねーの?
0432Y ◆nzdGjBH722
2007/08/20(月) 09:18:09ID:GGuL/nSo状況的にみてもそんなもんだ。
龍造寺が国を空にしてまで根こそぎ動員でもしない限り60000なんてありえないだろ。
0433人間七七四年
2007/08/20(月) 10:14:59ID:KYNmG0Ax0434人間七七四年
2007/08/20(月) 10:55:37ID:+uKC11qmこれ知らない奴多いだろ。
0435人間七七四年
2007/08/20(月) 15:59:35ID:MnAnUgRE334 :宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c [↑] :2007/08/19(日) 03:46:31 ID:Hl49qHLO
沖田畷にて討ち死にの面々、これは…
龍造寺隆信
龍造寺康房
成松信勝
百武賢兼
円城寺信胤
江里口信常
木下昌直?
勝屋勝一軒
小川信俊
安富純治
納富能登守(家輔、賢嘉)
徳島信忠
徳島信盛
安住家能
安住秀能
秀島家周
枝吉種次
宇礼志野通治
執行種兼
執行種直
執行種国
執行信直
蒲原信俊
少弐資宗
関新左衛門
中牟田七郎兵衛
中牟田新兵衛
0437人間七七四年
2007/08/20(月) 20:58:50ID:RMCCVnXX家久暴れすぎw
0439人間七七四年
2007/08/20(月) 21:11:46ID:CwGiR0pj敗北を喫した事を喧伝するだけに思える。
宇喜多さんも言ってるが、誇張したのはむしろ、島津や有馬方だったと思う。
0440439
2007/08/20(月) 21:50:51ID:CwGiR0pj0441人間七七四年
2007/08/21(火) 23:18:42ID:P3fKD07x>>龍造寺方が兵数を誇張しても、自軍が圧倒的に優勢で有りながら
>>敗北を喫した事を喧伝するだけに思える。
一見無意味な敗北側自ら大将を愚か者とする宣伝。
だけど当主が死んだと言う事を考えて裏を返せば、その後竜造寺を治めた人間にとっては
そんな情勢下でありながらそれを治めることが出来た人物を称える宣伝にも成りえる。
竜造寺側も誇張する理由はあるように思える。
まぁ竜造寺というか・・・。
0442人間七七四年
2007/08/21(火) 23:53:34ID:Vq+AaVY4歴史群像の島津戦記には竜造寺方の記録から島津の武将っぽい人たち、
宣教師とか9つの書物の名が載ってる。
なんで島津はこんなにいっぱい記録が残ってて手取り川は上杉側の
記録しか残ってないんだろ?
0443人間七七四年
2007/08/22(水) 00:20:27ID:MasFiLkS個人的にはどっちにしろ状勢の変化に乏しい合戦は余り興味ない。
手取川なんぞあろうがなかろうがどっちが勝ってようが、その後の状勢の変化が無さ過ぎてどうでも良すぎ。
0444人間七七四年
2007/08/22(水) 08:03:57ID:S/+hpPY8島津はめっちゃ残す大名だよな
0445人間七七四年
2007/08/23(木) 00:16:44ID:ZO+tdYPX上杉の小田原攻めとか川越野戦とか。
畿内を中心とした法華経と一向宗の大乱でも30万は大げさにせよ、
大軍勢が動いたのは確か。
領地や大名の動員力だけから数が少なかったとは断定出来ないよ。
九州では勢力の変動が激しくて九州の多くの国人衆があっちに行ったり、
こっちに行ったり一斉に動いたからね。
0446人間七七四年
2007/08/23(木) 02:10:32ID:e6mLrO85台湾沖航空戦の大誤認、343空の幻の戦果などなど。
手取り川も似たようなもんだろ。
0447Y ◆nzdGjBH722
2007/08/23(木) 03:58:22ID:jgfXAoZVイフものだが、中一のときに異・戦国志読んでたときにズラズラとこの武将が
出てたのに驚いた記憶がある。
兵数が詳しくわからんでも、討ち取られた武将格から見てかなり重要な戦いだったみたいだな。
ところで龍造寺康房って鍋島直茂の弟だっけ?
0448人間七七四年
2007/08/23(木) 07:53:08ID:p06zTW0Y武田、本願寺、幕府、今川、毛利、浅井朝倉その他
0449人間七七四年
2007/08/23(木) 23:27:02ID:60oW6rsC0450Y ◆nzdGjBH722
2007/08/24(金) 00:37:02ID:KCdtCU/r0451Y ◆VqSh5C7CR6
2007/10/15(月) 23:35:42ID:coHlGrU3age
0452人間七七四年
2007/10/16(火) 04:41:08ID:T3rlLfiCどれほどの物ですかね?
源義経ですら宇治川や壇ノ浦では相手より多くの兵を動員して勝ちましたが
0453人間七七四年
2007/10/16(火) 06:31:43ID:YjkEf0Ko講談否定とか誰もが知ってる事をさも偉そうに書き込まないでください><
お前は歴ゲ板あたりでオナニーレスしてんのがお似合いだよw
0454人間七七四年
2007/10/16(火) 07:43:59ID:h+XyusST合戦については戦術ポカほとんど無いし川中島とか
寡兵で戦果残してるんだから評価されていいんじゃない?
肥の能力は過大だけど
0455人間七七四年
2007/10/16(火) 12:25:55ID:5+ae/c0D「有田合戦」「厳島合戦」でググれ
つか「寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を殺した戦い」を二度もやらかしたのって
元就くらいじゃね?
信長と並んで戦国時代を代表する軍神。
0456人間七七四年
2007/10/16(火) 17:03:47ID:WnQ1vcab0457人間七七四年
2007/10/16(火) 18:30:02ID:NWMaklly0458人間七七四年
2007/10/16(火) 18:56:17ID:YiiwewrQ「寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を殺した戦い」
信長は寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を自分の手でぶち殺した戦い があるぞ
700−1700 稲尾の戦い
0459人間七七四年
2007/10/16(火) 18:57:49ID:YZhtOCTc0460人間七七四年
2007/10/16(火) 22:13:08ID:BhcAtLTW0461人間七七四年
2007/10/17(水) 10:42:07ID:kD8x7sQ2総大将は織田信勝で林某ではないな
>寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を殺した戦い
今山の戦い
桶狭間のような強襲ではなく完璧な奇襲での勝利で寡兵が大軍を破った模範的な例
>>455
寡兵では強くても大軍を率いると普通レベルなのが毛利家
大友との北九州争奪で叩き出されて逃げ帰ったのを忘れたのかい
有力な一族を離反させ混乱させる謀略の冴えは見事としかいいようがないけど
0462人間七七四年
2007/10/17(水) 11:52:38ID:6pOnfTIh北九州争奪は毛利の連戦連勝じゃん
本国で尼子残党の反乱が起こった為
獲得した領土の大半を大友に返還して帰還しなければならなかっただけ
戦略的にも毛利のが領土増やしてるし戦術的には圧勝だぞ
0463人間七七四年
2007/10/17(水) 16:57:10ID:QdsGiQgfhttp://www.suzuken.mmcgi.com/sengoku/ikusa/moji.htm
http://jyosyo1192.hp.infoseek.co.jp/sengokusi/RETUDEN/Betsuki-Akitsura.html
0464人間七七四年
2007/10/17(水) 19:23:59ID:UzFFZi0F戦術的な勝利は家臣が求められるものじゃねーのか
0466人間七七四年
2007/10/18(木) 02:30:20ID:QE5vVBg3元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3000 対 ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
これ本当?胡散臭い
0467人間七七四年
2007/10/18(木) 02:33:36ID:5tZXHYIG0468人間七七四年
2007/10/18(木) 05:49:41ID:UG8VegCKあと「多々良浜の戦いにおける立花道雪の活躍」なんて立花の史料にしか記述がないぞ。
毛利軍が尼子残党の武装蜂起に対応する為に撤退したのを良い事に
「毛利軍が逃げたのは俺様が追っ払ったから!」と仰々しく宣伝しただけ。
事実、門司から兵を引いた後の吉川小早川両軍は瞬く間に内乱の鎮圧に成功している。
0469人間七七四年
2007/10/18(木) 07:17:31ID:iFWOXMtM0470人間七七四年
2007/10/18(木) 13:51:12ID:KW2NhLNv特に500-16000
0471人間七七四年
2007/10/18(木) 22:46:11ID:ENxfF5RG志村伊豆が上杉の大軍勢を凌ぎ切ったあれ。
0472人間七七四年
2007/10/19(金) 01:13:49ID:/+GCVizR0474人間七七四年
2007/10/20(土) 12:06:29ID:pz6n8+Wl0475Y ◆VqSh5C7CR6
2007/10/20(土) 23:37:02ID:KESV9DDc徳川家康も小牧みたいな中小軍団の采配は凄いんだが、十万単位の大軍は統率に乱れがあるしな。
あと今山の戦いにも言えることだが、鍋は九州武将にしては実績あるよな?
0476人間七七四年
2007/10/21(日) 00:44:44ID:+WyKZb4b0477人間七七四年
2007/10/22(月) 02:46:42ID:0XCo79I40478人間七七四年
2007/11/21(水) 05:14:26ID:woGHuA5u0479人間七七四年
2007/11/22(木) 22:25:28ID:GQIzlMf+0480人間七七四年
2007/11/23(金) 00:54:21ID:KbyoQs3G0481人間七七四年
2007/11/23(金) 01:54:51ID:flApdZBW0482人間七七四年
2007/11/23(金) 10:29:21ID:ihBw2Y8k0483人間七七四年
2008/03/01(土) 13:03:28ID:L+mmKZOZ0484人間七七四年
2008/04/14(月) 21:30:39ID:TRoq7yk+半年近く経過して保守ってどんだけwww
0485人間七七四年
2008/06/27(金) 00:22:20ID:7uDfejfqんじゃ、俺が早めの保守してやるおw
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