伊勢の名門―北畠―
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2006/12/22(金) 00:48:07ID:iRcYGxpm0002名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 00:49:09ID:/+45/QiB0003名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 00:50:04ID:P+aFwbp3しっくり来るし、華があると思うけど、戦国じゃないから仕方ないか。
でも、北畠具教って、公家なのに大名で、しかも剣豪とは、
とても興味深い人物だと思う。
0004前田 ◆MAEDAxMYTY
2006/12/22(金) 00:51:54ID:x35YwOK80005名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 03:33:40ID:2FRqhNgr0006名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 04:27:25ID:84AP6I+30007名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 10:18:20ID:O9vvauZ0本拠の南勢と大和南朝に行き来し易い中間地点に作ったんだって。
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2006/12/22(金) 14:48:04ID:m10Cbalw同門がことごとく非業の死を遂げている件
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2006/12/23(土) 15:30:59ID:by/oQe6J将軍様と国司様ぐらいだろ
むしろ幽斎とか氏真みたいに天寿をまっとうしてるイメージ
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2006/12/23(土) 21:49:00ID:L5up/JlW0011名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 15:26:38ID:cH0e1f4Y0012名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/01(月) 15:22:51ID:oqEXeCu+0013鳥屋尾 晴清
2007/01/01(月) 21:00:57ID:wwUZ8GDV0014名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/02(火) 07:35:01ID:YkRUf3Dp後南朝の滅亡じゃね?
あれで、幕府に反抗する理由が消滅した。
それに北畠は国司として統治していただけで、守護にはなっていないから
盟友に近い関係だったと言えるかもしれない。
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2007/01/02(火) 08:49:50ID:9IVR8y2Q0016名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/14(日) 17:35:32ID:PtZ9B0/g満栄?
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2007/01/24(水) 20:22:39ID:u5oaf22n0018名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 22:12:43ID:LElESHFa0019名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/27(土) 12:33:36ID:LgBvCf4J0020名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 09:10:17ID:cDHhVC9f0021名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 19:09:50ID:cjpK3C3s0022名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 22:24:18ID:IQSwGMMw日本中から人の集まる伊勢神宮と町・港を領内に持ち、あっさりと家を明け渡すいさぎよさを持ち。
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2007/02/07(水) 23:37:26ID:11eR7zvvなにその駿河のボンボン
0024人間七七四年
2007/02/17(土) 19:26:48ID:apm1EAbd0025名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/17(土) 21:56:47ID:tz9k1+kvまた、諸国修行の旅で具教の元を訪れた上泉信綱からも剣を学んだ。
具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じても親交があり、信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたと言われる。
具教は、塚原卜伝の新当流に、上泉信綱の新陰流の長所を取り入れた「伊勢新刀流」と言う流派を創始したとされる。
この流派は北畠家の子孫である有馬家に伝わっていたが、現存していない。
織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺すという凄腕を見せている
0026奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/17(土) 22:00:28ID:rWNpe7d70027人間七七四年
2007/02/17(土) 23:24:02ID:OT1gwRse「獅子身中の虫」というか権勢の有った同族に悩まされ、国内では一向宗が勢力を伸張、
守護大名から戦国大名になろうとしてなりきれなかった印象
0028人間七七四年
2007/02/18(日) 00:14:03ID:IApDIzVW0029奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/18(日) 00:16:05ID:L7w+D6iy0030朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA
2007/02/18(日) 00:46:47ID:+Eoi27Vz0031人間七七四年
2007/02/20(火) 11:55:43ID:SUBhOmFr0032人間七七四年
2007/02/20(火) 16:36:42ID:EP2XKsOs0033人間七七四年
2007/03/03(土) 22:46:24ID:EEWKnG0tあまり触れられたくない歴史なのかも。
0034人間七七四年
2007/03/05(月) 13:55:30ID:obM8j+AX0035人間七七四年
2007/03/05(月) 21:19:11ID:e3QPVuI9横山高治氏の本に詳しいと思ったが。(忘れちまったってわけさ)
0037人間七七四年
2007/03/05(月) 22:52:18ID:e3QPVuI90038人間七七四年
2007/03/06(火) 00:13:29ID:1G61RGOk自分は陸奥の浪岡北畠、顕則の子孫だそうです。
しかし、浪岡北畠は津軽為信に滅ぼされ、残った者はその後、
顕則含め、それぞれ各諸藩の家臣となり、
どんどん名門から遠ざかり、現在に至るわけなんですが、
当時、その北畠顕則も伊勢新刀流の剣術指南だったらしいんです。
新刀流の創始、伊勢の北畠とはこの流派を通じ、浪岡北畠と
それぞれ交流があったんでしょうか?
その辺、だれか詳しい方居ませんか?
0039人間七七四年
2007/03/06(火) 02:22:02ID:YAMQeF6U地元(伊勢方面)に1軒あったような気がした
0040人間七七四年
2007/03/06(火) 10:15:28ID:1G61RGOk全国では約1000世帯くらいあるはず。
世帯ですから、個人になると×3か、4くらいは居るんじゃないですか?
0041人間七七四年
2007/03/06(火) 12:11:11ID:m6yffJ2y0042人間七七四年
2007/03/06(火) 16:16:04ID:bNnU7YgQttp://www2.asahi.com/koshien/88/chihou/wtokyo/news/TKY200607210133.html
0043人間七七四年
2007/03/06(火) 20:54:35ID:C1tWNa2g茨城にも多いんじゃないかな
0044人間七七四年
2007/03/06(火) 23:06:42ID:UkU9B8lH0045人間七七四年
2007/03/07(水) 00:41:38ID:fonrx9t6地名はそこから来てると思う
銀行は厳密には北畠にはないんだよね。区も違うし
0046人間七七四年
2007/03/07(水) 00:44:02ID:fonrx9t60047人間七七四年
2007/03/07(水) 01:03:48ID:UkowXbjM北畠氏は南伊勢が本拠地で北部や中部はどうだったんだろ
0048人間七七四年
2007/03/07(水) 03:20:30ID:g/eO3kXA0050人間七七四年
2007/03/09(金) 00:52:44ID:NGLAju9A大阪市内なんですね。北畠氏は江戸時代に公家に戻ったということですが、
そのころできたのでしょうか?
0051人間七七四年
2007/03/09(金) 16:53:42ID:2LVcIiHi>延元3年(1338年)、阿倍野合戦で戦死した北畠顕家の墓が当地にあり「大名塚」と呼ばれていた。
江戸時代になると本格的な墓所として整備され、それから当地を北畠と称するようになったという
というのが地名の由来のようなので、整備され呼称されるようになったのは江戸時代のようですね。
顕家のお墓は北畠公園の中にありますよ
0052人間七七四年
2007/03/10(土) 00:15:50ID:awdE4N7g残しているとのことですね。
0054人間七七四年
2007/03/11(日) 11:44:46ID:p1QLnYeT紀伊半島の東半分を押さえてた事になるな。
0058人間七七四年
2007/03/15(木) 03:06:40ID:TFBTLoC+後に南伊勢を引き継いだ蒲生氏郷が早々と転封になったのも、
秀吉が地勢的なアドバンテージに気付いたからでは。
0059人間七七四年
2007/04/04(水) 10:20:55ID:cbg5soKxそれとも顕泰の政治力?南北朝合体を平和裏に行うための条件?
0060人間七七四年
2007/04/26(木) 15:04:45ID:BtzlF0qJ>南朝亡き後も、ずっと続いていたという事実がすごい
教具が傑物なんだと思う
義教に献上品贈ったり、満祐の子教康を自害させて首を幕府に送ったり、
常に親幕府で北畠を盛り立てた
0061人間七七四年
2007/05/16(水) 13:39:22ID:/Won5qyq0062人間七七四年
2007/05/26(土) 21:21:57ID:RwnPoEAz0063人間七七四年
2007/05/27(日) 01:50:06ID:WuaYeakg親は津軽出身。関東在住。
私は数年前関東から大阪へ。
大阪来るまで先祖のこと知らなかった。
最近知った。情けない私。
偶然だがしばらく石津近辺に住んでた。
過去帖も調べた。
0064人間七七四年
2007/05/27(日) 02:16:07ID:0NL/1emW織田信雄がでてくりゃよく知ってるほう
東北政権とか後南朝とかになるとヲタ知識だ
0065人間七七四年
2007/05/28(月) 15:29:18ID:9cQb6w1e0066人間七七四年
2007/06/01(金) 15:04:12ID:rrumbMLp0067人間七七四年
2007/06/22(金) 15:04:34ID:ngok1h9c0068宇喜多直家信者
2007/06/22(金) 16:12:38ID:OVou5Jy+0069人間七七四年
2007/06/22(金) 21:48:19ID:zVufaajG0070人間七七四年
2007/06/23(土) 11:12:07ID:7F5EYwYK0071人間七七四年
2007/07/05(木) 22:22:57ID:cKpgs+qE藤方 分部 長野 木造 雲林院 戸木 とか
大字に残っていて興味が湧いてきたので
ちょっと自分の中で北畠ブームがはじまったところ
007271
2007/07/05(木) 22:28:09ID:cKpgs+qE>安濃の長野家は雲林院、細野、分部、家所、草生などの豪族を配下とし
家所 草生 なんてのも現在の安濃町の大字に残っているよ
いやまあ全国的にこういうのはどこもそうなのかもしれんけど
0073人間七七四年
2007/07/19(木) 22:58:01ID:wxvKy7Gm0075人間七七四年
2007/07/30(月) 21:35:56ID:xwsBKq05青森出身なのだが
0076人間七七四年
2007/07/30(月) 21:38:34ID:ydmduG9g0077人間七七四年
2007/07/30(月) 21:46:05ID:WxJAz5CVhttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kitabata.html
0078人間七七四年
2007/07/30(月) 21:47:26ID:WxJAz5CV青森ならむしろこっちか
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/namio_k.html
0079人間七七四年
2007/07/31(火) 05:04:02ID:TnqJ85Zx0080人間七七四年
2007/07/31(火) 05:13:34ID:EAWl8rVS0083人間七七四年
2007/07/31(火) 17:12:48ID:WtXe0HbF北畠の子孫は今は有馬だけど。
0084人間七七四年
2007/07/31(火) 23:15:08ID:TnqJ85Zxなんでも在日と言われちゃたまらないわ
0085人間七七四年
2007/08/01(水) 00:10:43ID:LUPcgUhm家系図が無い華族の名字なんてB民か在日しか名乗らねーよw
0086人間七七四年
2007/08/01(水) 02:30:11ID:DnaeOFaW0087人間七七四年
2007/08/01(水) 02:37:54ID:DnaeOFaWこのあたりの氏族もいるんじゃないかな
0088人間七七四年
2007/08/03(金) 21:12:21ID:V40DjPMXむろん伊勢にもね
0089人間七七四年
2007/08/28(火) 11:41:06ID:VaWe3IRL0090人間七七四年
2007/08/28(火) 19:39:11ID:bwLu26N/0091人間七七四年
2007/08/28(火) 20:02:11ID:glCg7bPAすごいね。惚れた。
未読の人必読。
0092人間七七四年
2007/08/30(木) 02:38:10ID:0r4G7e3W若い人は知らないか
0093人間七七四年
2007/08/31(金) 10:13:17ID:0gKcqXkI0094人間七七四年
2007/09/06(木) 21:11:07ID:LzXeiGb+「本当は「こっち」が本家なのに錦の御旗をうばわれて「あっち」が本家になった」
と言っていた意味がわからなくてずっと考えていたのだが(祖母は故人)
河原御所の変で当主具運が殺害されて、その後弟顕範一統が本家になったことを言っているのか?
と思いついた。具運殺害時顕村以外にも子がいたのかも知れないし。
自分はその(顕村以外の子、あるいは女子の)子孫なのに傍系扱いになってしまったと。
しかしいずれにしてもさー、浪岡北畠を士族にする話があったらしいが
条件が整わずダメになったらしいじゃんか。
家系の正統性が証明できなかったということで、
顕村以後の北畠は「詐称」に近いんじゃないの?
地元の記録は地元に都合よく作られている可能性大有りだから信用ならないし。
まあ、在日の線はさすがにないとは思うがw
009594
2007/09/08(土) 11:05:48ID:Pa1e3ICf「北畠顕家の子孫」と口にするときはきりっとしたいい表情をしていた。
ばーちゃんの姉妹たちもみんな上品で凛とした人で、
「こんなド田舎にどうしてこんな皇族みたいな人たちが?」と
子供心に不思議だったものだ。
それが事実なのかどうかは別として、血の誇りを支えとして、
血に恥じないように生きようとする姿勢は悪いことではないと思うし、
親がそういう矜持をもって子を教育するのも大事なことだと思うよ。
学問的にはいろいろ言いたいことはあるが、
今現在「北畠」姓をもって生きている浪岡出身の方々を貶める意図はないので、
一言付言いたします。
「伊勢の名門北畠」スレなのにお邪魔してすみませんでした。
このスレ、シーンとしちゃってるので、反省しています。
0096人間七七四年
2007/09/08(土) 15:07:47ID:56u+gNcG元々シーンとしてたから安心汁。
>>91
南北朝あんまり知らないけど、北方謙三の『楠正成』読んだら、東北の管領かなんかになった北畠って人が
出てきたけどそれかな。
足利軍追って北畠軍が東北から一気に機内へ押し寄せる所はすごい。
これ読むまでは新田ってのは偉い奴だと思ってたけど、これ読んでからなんか間抜けなおやじって気がする。
ちょっと興味出てきたので、この辺りの何かいい本あったら誰か教えてプリーズ。
史料や小説ジャンルはこだわらないけど、史料は読み易い初心者向けおながいします。
それにしてもこの辺の争いの中で新田や楠木と比べると北畠顕家って一般に遥かに知名度低いよね。
根拠地が東北だったからなの?
あれだけの活躍して死んだ歳が21って、紛れもない傑物でしょ。
それなのに埋もれすぎ。
0097人間七七四年
2007/09/08(土) 17:21:34ID:xx7oKE4l0100人間七七四年
2007/09/12(水) 18:26:06ID:BgR+krib0101人間七七四年
2007/10/03(水) 14:21:10ID:o9wzxFyu満雅 教具 材親 晴具かな。
0103人間七七四年
2007/10/11(木) 01:21:55ID:HzmBeWdw0104人間七七四年
2007/10/11(木) 17:20:34ID:p0pLAWG4水木北畠っていったい・・・
0105人間七七四年
2007/10/19(金) 18:58:19ID:LXV5MiNi雲出川沿いで南北が街道
モロ交通の要所なんだな
当たり前っちゃあ当たり前なんだけど
ああこんな場所だったんだってあらためて思った保全age
0106人間七七四年
2007/11/05(月) 16:48:43ID:3GaUsVky0107人間七七四年
2007/11/10(土) 21:11:33ID:BqZSOeRj0108人間七七四年
2007/11/15(木) 22:57:14ID:KZyATGat足利一族でも吉良氏くらいしか呼ばれておらず、
北畠一族は支族でさえ伊勢の地元民から○○御所と呼ばれていた
たとえば田丸御所とか笠木御所など多数見られる
0109たられば君
2007/11/16(金) 09:28:31ID:lNCTreVM貴人でないなら高清水斯波氏とかも。
0110人間七七四年
2007/11/20(火) 20:11:55ID:wSP4Sk0g浪岡氏って顕家の弟顕信の子孫っていうのが正しいらしい
国司が神領に横暴をして合戦時に山田三保の兵に横撃されて討ち死にしました。
0112人間七七四年
2007/12/13(木) 10:52:44ID:qBoSC1aY0113人間七七四年
2007/12/13(木) 15:13:17ID:VyXqnBLt捏造ワロスww
0114人間七七四年
2007/12/14(金) 12:32:24ID:QzT4Crqtえ、こんな人本当にいたの?
0116人間七七四年
2007/12/29(土) 02:12:12ID:irLr3LMvだれか詳しい人、教えてくれ
0117人間七七四年
2008/01/06(日) 21:19:11ID:umSSmEgF『禁中御庭者綺譚 乱世疾走』(新潮文庫)
主人公ではないが、あんなに思い入れたっぷりに北畠を描いた戦国小説は始めてみた。
0118人間七七四年
2008/01/09(水) 14:13:30ID:GAcyGrQ3というか、北畠一族がメイン張ってる小説ってこれくらいしか思いつかん。
誰かオススメの本ありませんかね?
0119人間七七四年
2008/01/12(土) 08:16:39ID:SpgJRFtk0120人間七七四年
2008/01/19(土) 21:58:50ID:G2tEf3AJ北畠って名門だよなぁ
0121人間七七四年
2008/02/04(月) 14:30:31ID:PXC5HJwa名門といえば名門だが、太政大臣もいる久我からみるとちと落ちる
0122人間七七四年
2008/02/08(金) 20:44:23ID:UAgdpqkX0123人間七七四年
2008/02/22(金) 15:13:08ID:rhltEv02毛利元就二千貫 三好長慶百貫 朝倉義景百貫に比べるとだいぶ少ない。
でも官位はその前年に正三位 権中納言。
0124人間七七四年
2008/02/25(月) 23:18:34ID:VSSOK8iR0125人間七七四年
2008/02/25(月) 23:32:48ID:+bptbaCc信長お得意の「講和と称して自分の息子と家臣団を送っておいて、騙まし討ちで暗殺」に
引っかかっただけで。
0126伊勢国民
2008/02/29(金) 20:02:35ID:ElLbB6zz織田が攻め落とせ無かった大河内城マムシ谷、今も時々銃弾が見つかるらしい。急峻な崖は今も健在!
一度見に行かれては?
0127人間七七四年
2008/02/29(金) 22:34:48ID:UFNJhRa9金で官位を買うは田舎侍の所業よw。
0128人間七七四年
2008/02/29(金) 23:26:11ID:ElLbB6zz0129人間七七四年
2008/03/19(水) 15:22:55ID:IzFBhXNa0130人間七七四年
2008/03/19(水) 15:24:36ID:IzFBhXNa0132人間七七四年
2008/04/03(木) 15:56:48ID:CqKpUeA40133人間七七四年
2008/04/17(木) 15:34:21ID:gGd03Ms20134人間七七四年
2008/05/01(木) 15:51:12ID:6fk1FnDr満雅ー教具ー政郷ー材親ー晴具だもんな
親房や顕家はどう思うんだろう
0135人間七七四年
2008/05/02(金) 12:27:13ID:XDvb/H9F北畠の支配は大和南東の彼らにまで及んでたのに、名前が出てくるのが秋山直国ぐらいしか……
0136人間七七四年
2008/05/14(水) 01:09:52ID:nBUz4McI0137人間七七四年
2008/05/26(月) 08:40:14ID:w9ga6aHd0138人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:43:43ID:3qv1cdku河内じゃなくって、阿倍野区の北畠は大阪随一の高級住宅街だ
そのお高く留まったお屋敷街であの銀行立てこもりをあえて起こしたことに
犯人、梅川昭美の社会への怨恨感情としては意味があるのだろう
南北朝時代の阿倍野の戦いの舞台であり、北畠顕家の墓とかあるとこの近くだね
近くの阿倍野神社も北畠顕家を祭る神社で、ゆかりのある地なのです。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage425.htm
http://www.city.osaka.jp/abeno/variety/spot.html
若くして死んだ非業の忠臣として人気があったのだろう
0139人間七七四年
2008/06/21(土) 15:13:55ID:alzYqbJ5そうだよね。
父顕泰は幕府から守護に任ぜられ応永の乱で活躍。
子の教具は幕府の忠誠を誓い 赤松教康を匿わなかった。
満雅は完全に南朝側だけどね。
0140人間七七四年
2008/07/08(火) 14:58:52ID:272tmznN0141人間七七四年
2008/07/13(日) 19:45:35ID:gLivFDxR0143土岐一族
2008/07/22(火) 16:50:36ID:zeremvqw伊勢長島城の伊藤氏、願證寺の一向勢、さらには北方諸家、等々。
関氏などは弱小勢力にすぎないのに、いかにも大勢に影響したかの如く
主張されておられる方がおられますが、もっと視野を拡げて議論される
ことを望みます。
だいたい、赤堀氏、濱田氏、稲生氏、星宮氏などの名前が挙がっていない
のは何故なのですか。もっと詳しく調べたのちに発言されるべきです。
0144土岐一族
2008/07/22(火) 17:25:39ID:zeremvqw0145関連スレ
2008/07/22(火) 19:36:13ID:dJ1tSS/fhttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0146人間七七四年
2008/07/24(木) 20:52:11ID:/D2zFFiTもらっていたのでしょうか?
それとも,北畠氏も守護のように,実際は京に屋敷を構えて住んでいたんでし
ょうか?
0147人間七七四年
2008/07/25(金) 07:31:04ID:j6fwMsWe孫の代で起きたのが川原御所の反乱
0148人間七七四年
2008/07/25(金) 10:28:56ID:yOPJX69/浪岡みたいな辺境だと自官でも良いのにねw
0149人間七七四年
2008/07/25(金) 17:53:31ID:T75F28Tp0150人間七七四年
2008/07/25(金) 23:54:21ID:fydJSQvn0151人間七七四年
2008/07/26(土) 01:02:02ID:0JUCs59Cそれとも,江戸期が来る前に実質消滅してたからかな?
北畠は,交代寄合になれる程度の貴種性はあったと思うし,南北朝以降にはもう,征夷大将軍の権威に対抗する存在ではなかったし。
0152人間七七四年
2008/07/26(土) 01:45:04ID:4ZRmVuGL本家である久我家も残ってるし。
0154人間七七四年
2008/08/10(日) 21:36:15ID:GYX0pmlv0155人間七七四年
2008/08/11(月) 19:56:07ID:QSgGVP5k0156人間七七四年
2008/08/11(月) 22:53:21ID:Y7J1aQwN0157人間七七四年
2008/08/13(水) 07:44:43ID:9nr7E4M30159人間七七四年
2008/09/11(木) 14:30:03ID:wfiWtsMD0160人間七七四年
2008/09/20(土) 00:32:22ID:meXVq6sb【三重総合裏掲示板】
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/i.cgi/travel/8192/
0161人間七七四年
2008/09/23(火) 01:49:00ID:Enyk8xGW0162人間七七四年
2008/09/27(土) 03:52:34ID:D68452Mw血脈が残ってれば、旗本程度にはなれただろうに。
0163人間七七四年
2008/10/11(土) 14:05:20ID:NGmbrce90164人間七七四年
2008/10/16(木) 23:42:56ID:9yePsyQs0165人間七七四年
2008/11/01(土) 10:48:21ID:Lh/kK0EJ0166人間七七四年
2008/11/11(火) 22:42:23ID:KCwyBqyJそれとも村上源氏にお返ししたのか
0167人間七七四年
2008/11/22(土) 14:17:13ID:/HuUjrDj0168人間七七四年
2008/12/03(水) 05:55:17ID:vbNB7PVZ1年以上前の話に亀レスだが、浪岡から舘野越に落ち延びる途中、当然大混乱となった。
また、江戸時代に隠棲していた舘野越周辺に津軽藩が色々聞きまわったときに
素性が割れるのではとドタバタがあった。
浪岡城落城後はいつ素性が割れて手入れが入り根絶やしにされるかという恐怖が常に付きまとった。
証拠物である錦の旗を持ってる家は津軽藩に根絶やしにされる危険を蒙るため、
本家が根絶やしにならないように直接本家の手元に持たない方策を取ったとかなんとか。
家系図にしてもそうで、生存戦略のために本家を本家と絶対的に証明できる物は
消失しただけでなく意図的に残していないとか。
親は明言はしなかったが、そうした経緯で明治維新の復姓時に
たまたま旗を持っていたところがこれ幸いと宗家を称していると理解している。
いずれにせようちは明治以降に分家となってるため本家ではありえないが、
どこが本家かなんてもう分からんとさ。そのため「うちの本家筋」とかいう言い方をしてる。
北畠家は、南北朝時代まで公家として和漢の学を持って天皇に仕えた。
その公家の執務に堪える頭脳くらい受け継がれててもいいと思うんだが、
どう見ても名前負けしてる癖に虚しく家柄を誇る奴が多すぎる。
明治維新で復姓し、約270年に渡る滅亡の恐怖からやっと解放されて
世の中に出られたのだから、受け継いだ能力で社会的成功を収めるよう
精進したらいいと思うんだけどねー。
0169人間七七四年
2008/12/15(月) 16:04:35ID:vAyVkits0170人間七七四年
2008/12/26(金) 20:26:22ID:yAp4xitJhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/owabiplus/1228493994/
松阪マーム受水槽事件騒動まとめ
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php
時系列
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php#time
Q&Aテンプレ
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php#temp
0172人間七七四年
2009/01/26(月) 15:58:07ID:CnouMToVあと織田家に遣えた事もあるっていう、江戸時代も武家として存続した庶流ってどこのことでしょうか?
0174人間七七四年
2009/01/27(火) 02:34:15ID:ih0lk0QJ0175人間七七四年
2009/01/28(水) 01:39:56ID:7pEEa5n50176人間七七四年
2009/01/28(水) 16:52:06ID:RVEsGffY北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか
0177人間七七四年
2009/01/28(水) 22:07:28ID:eSVhZIpO木造の子孫は肥後細川に仕えてたり
0178人間七七四年
2009/01/28(水) 22:18:45ID:fl/RaAWk1行目はデムパサイトの受け売りwwwww
0179人間七七四年
2009/02/09(月) 15:56:28ID:4CLTw1eJ0180人間七七四年
2009/02/11(水) 12:35:32ID:hN+yQi4j小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ...
0181168
2009/02/11(水) 17:50:01ID:gNpfDMvdttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm
↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。
スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。
0182181
2009/02/11(水) 21:16:33ID:hN+yQi4jウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。
霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。
このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。
長レススマソ。
0183182
2009/02/11(水) 21:23:47ID:hN+yQi4j浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか?
0184人間七七四年
2009/02/12(木) 20:29:26ID:gGAjd4Z1じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。
> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw
本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。
具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。
長文でスマソ
0185人間七七四年
2009/02/24(火) 15:09:17ID:yX4CIWwg0186人間七七四年
2009/03/01(日) 23:05:26ID:uFNJJWI7田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。
北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌
となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。
0187人間七七四年
2009/03/01(日) 23:41:53ID:f6vWZvE/0188人間七七四年
2009/03/03(火) 15:22:31ID:2M3xVPLsもっとやってくれい
0189人間七七四年
2009/03/03(火) 16:08:12ID:YSr3Ed6Nだから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな
どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない?
0190人間七七四年
2009/03/04(水) 09:37:32ID:xuIcTAybhttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm
0191人間七七四年
2009/03/04(水) 13:08:12ID:PwM8fSXc城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい
0192人間七七四年
2009/03/05(木) 09:51:26ID:q0++1XLUだれこれ?
今川庶流に本田?わからん
0193人間七七四年
2009/03/05(木) 09:54:43ID:eEEOeFolhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0194人間七七四年
2009/03/08(日) 09:39:33ID:CXn3SN0tそういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
0195人間七七四年
2009/03/21(土) 15:22:04ID:YVp+YPnj0197人間七七四年
2009/04/12(日) 19:22:50ID:0BT83a+r兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
0198人間七七四年
2009/04/14(火) 17:33:25ID:jLirlSUBすまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。
0199人間七七四年
2009/04/20(月) 13:15:25ID:aZLLYBul0200人間七七四年
2009/04/20(月) 13:35:01ID:aZLLYBulわかりにくいので小森上野城の位置(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.30.46.734N34.40.35.547&ZM=9
子供の頃遊んだ記憶では遺構などはなかったと思う。
場所は伝承というか「城山って言うけど城あったん?」と祖父に聞いたらソコと教えられた。
地勢的にも北から来る敵を迎え撃つにはいい場所かもと地史を知るようになってから思った。
0201人間七七四年
2009/04/20(月) 14:08:20ID:8Cmnp9zmおおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん?
0202人間七七四年
2009/04/21(火) 01:38:09ID:/YBhY+Tpよく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。
槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。
0203人間七七四年
2009/04/22(水) 13:21:00ID:XwJPM6Bj石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。
で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな?
0204人間七七四年
2009/05/05(火) 17:28:14ID:WivtksbZ0205人間七七四年
2009/05/06(水) 15:16:00ID:HDm3hEZr守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。
北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか?
0206人間七七四年
2009/05/06(水) 21:49:38ID:fs2/7v1I天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな
0207人間七七四年
2009/05/11(月) 00:31:22ID:nd0QtDNZ南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。
応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。
0208人間七七四年
2009/05/25(月) 14:50:14ID:6RAsVGil0209人間七七四年
2009/05/28(木) 07:56:27ID:Mwxp2QvO「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?
伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?
情報お願いします。
0210人間七七四年
2009/05/28(木) 09:32:45ID:ZUdFN/GVほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。
0211人間七七四年
2009/05/29(金) 19:35:21ID:SmpNXIzL>六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。
その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね?
0212人間七七四年
2009/06/01(月) 02:12:30ID:+USGwVNF読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。
0213人間七七四年
2009/06/03(水) 01:33:45ID:f9Gar/FWいや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。
文献名しか書いてないのであれば、情報としては>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。
0214バロン曽志崎
2009/06/03(水) 02:06:48ID:GV0B97Dh本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。
0215人間七七四年
2009/06/13(土) 14:29:45ID:JGd6EvXn0217209
2009/06/16(火) 19:47:01ID:UbTi0Sq+0218人間七七四年
2009/06/29(月) 14:26:37ID:JyPLuHXL0219人間七七四年
2009/07/01(水) 06:14:04ID:4ppHyzpB0220人間七七四年
2009/07/12(日) 14:56:14ID:F/7kUZ/T大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。
0221人間七七四年
2009/07/23(木) 16:08:09ID:EKmActq30222人間七七四年
2009/07/29(水) 05:47:52ID:sfrjALQQ高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw
0223人間七七四年
2009/07/29(水) 21:17:07ID:7M0zlH01日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ?
0224220
2009/07/31(金) 17:11:41ID:VOOgp/AQおお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい>>222さんは奥山さんですか?
原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。
0225人間七七四年
2009/08/12(水) 15:18:34ID:MSMygVqX0226人間七七四年
2009/08/21(金) 14:55:46ID:5yrZEQOI0227人間七七四年
2009/08/21(金) 16:14:43ID:MV8VEBD1おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない
江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家
0228人間七七四年
2009/08/22(土) 19:46:38ID:z6TYs1xwブタみたいな顔の奴
0230人間七七四年
2009/09/02(水) 15:41:07ID:VPS/InyX0231人間七七四年
2009/09/02(水) 22:11:32ID:VDA5H2X+0232人間七七四年
2009/09/12(土) 14:48:29ID:qCu4Admo0233人間七七四年
2009/09/22(火) 17:15:19ID:9zgYd1sp0234人間七七四年
2009/10/02(金) 15:38:42ID:9MeGXcbe0235人間七七四年
2009/10/11(日) 11:40:22ID:8NyG2c310236人間七七四年
2009/10/15(木) 15:29:58ID:AzXLi9Ec当時小柄でメガネの理系男子、名前に顕の字が入ってた。
ウチの祖先は北畠家に従って陸奥まで下ったときいてたんで、殿!なんて言ってふざけた記憶がある。
今までピンときてなかったんだけど、このスレ読んで興味がでてきた。
ちなみにウチは苗字について聞かれたら「館野越の○○」と答えろといわれてたな。
本家にボロイ鎧兜と刀があったけど本物かね。
0237人間七七四年
2009/10/22(木) 21:47:03ID:KoeYMXor0239人間七七四年
2009/10/23(金) 11:40:44ID:X1e9hd/v0240人間七七四年
2009/10/29(木) 01:28:22ID:Eej7Gw2G史実ではどんな人なんですかね?
0242人間七七四年
2009/11/09(月) 16:26:27ID:L4mHAZn70243人間七七四年
2009/11/16(月) 16:03:35ID:PARhunip0244人間七七四年
2009/12/09(水) 13:46:14ID:Oy+qE2wQ0245人間七七四年
2009/12/17(木) 12:58:26ID:jBgUXNEr0246人間七七四年
2009/12/27(日) 01:13:12ID:0FPp7IdX服部半蔵→超有名(住んでないのに)
藤堂高虎→津市のみ有名
蒲生氏郷→松阪のみ有名
九鬼嘉隆→志摩のみ有名
北畠具教→誰一人知らない
0247中院
2009/12/28(月) 19:25:26ID:/S6fsjrH0248人間七七四年
2009/12/28(月) 19:41:48ID:pynQVbJl明治新姓乙
0249人間七七四年
2009/12/29(火) 23:25:44ID:GSDnDKH0室町・戦国時代までは都市に居城構える例は無いよ。
土木技術が未発達で要塞が貧弱なのしかできないから、都市部に城造るのはリスキー。
郊外の防御しやすい山にこもった方が安全だ罠w
0250人間七七四年
2010/01/07(木) 00:27:38ID:wGodgJFs滅亡してないぞ
中院通勝の次男が継いだというか復興させて(江戸時代になってから)、
地下家として幕末まで存続したよ
確か男爵になったはず
その家系図の記述は史実に合致している
0251人間七七四年
2010/02/14(日) 10:47:58ID:fDOudjlp0252人間七七四年
2010/02/18(木) 22:33:29ID:isTHG1p40253月孔雀
2010/02/19(金) 00:35:48ID:cnRvP6TV実質は、南の勝ちかもしれない。男系は、わからんしね。
0254人間七七四年
2010/04/18(日) 07:22:03ID:SD22qkXJ以前と比べて朝廷の権威が著しく下がった
0255人間七七四年
2010/06/11(金) 18:25:12ID:ZePzzd/m0256人間七七四年
2010/06/11(金) 18:29:50ID:ZBTuEA+S0257人間七七四年
2010/06/13(日) 17:53:41ID:p3igICo8北畠って木造家庶流の滝川かよ。
反主流派の木造て時点で論外だな
0258人間七七四年
2010/06/15(火) 20:27:49ID:dRGOx5S3先祖の七光りでは?
北畠顕家といえば日本史に輝く悲劇のヒーロー(ただしイケメンに限る)じゃん
0259人間七七四年
2010/06/20(日) 08:55:55ID:vsxXtTCw詳しい人きてー
【武田】2万5千で上洛【信玄】その64
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1276600624/l50
45 :人間七七四年:2010/06/20(日) 00:51:49 ID:xopliY1Z
信玄秋田。北畠を語れ
0260人間七七四年
2010/09/27(月) 20:43:05ID:XPsf/lMf0262人間七七四年
2010/11/19(金) 23:40:31ID:7c5nNQmK0263人間七七四年
2010/12/03(金) 19:59:18ID:OjqHCVN40264人間七七四年
2010/12/05(日) 18:51:21ID:533qgprH田丸
星合
滝川
藤方
以外に旗本になれた一族ている?
0265人間七七四年
2010/12/05(日) 19:07:27ID:533qgprH田丸
星合
滝川
藤方
以外に生き残って旗本などになれた一族ている?
0266人間七七四年
2011/04/07(木) 21:19:52.39ID:dwsIqdhk0268人間七七四年
2011/04/29(金) 00:26:48.25ID:S+l7X/Wp0269人間七七四年
2011/05/11(水) 03:03:48.71ID:8QtAfriA0270人間七七四年
2011/06/06(月) 03:51:43.45ID:2vnKmAsa0271人間七七四年
2011/06/06(月) 03:53:06.45ID:2vnKmAsa0272人間七七四年
2011/07/20(水) 19:53:57.26ID:tnaTvlOP0273人間七七四年
2011/08/14(日) 03:04:09.18ID:M5RDWn+B0274人間七七四年
2011/10/24(月) 17:50:39.34ID:b/P8JToh0275人間七七四年
2011/10/24(月) 17:53:45.41ID:HVaK2yjG0276人間七七四年
2011/10/26(水) 01:08:42.46ID:pnpZMyo1親房や顕家の子孫という意味だといわくつきの子孫ぐらいしかいない
0277人間七七四年
2011/10/26(水) 12:01:23.90ID:l8KVImoK0278人間七七四年
2011/10/26(水) 19:04:53.51ID:YGNOz8N6木造長政の子孫が清正→細川家って感じで残ってるっぽい。
地元が津で仕事上ゼンリンの地図とか良く見るんだが木造城周辺に木造って家は無いな。
ちなみに同級生に細野(ホソヤ)、分部(ワケベ)、家城、川北、奥山って苗字は結構いた。
0279人間七七四年
2011/10/29(土) 10:27:45.59ID:l+VVgSuv0280人間七七四年
2011/11/21(月) 02:29:13.01ID:GtvTFvH9具政次男の子孫が500石の旗本
具政入る前に親子喧嘩起こして廃嫡された本来の血筋の子孫がご存じ木造流滝川家
0281人間七七四年
2011/11/30(水) 20:18:17.79ID:d6WWGRD/やっと近江浅井からの挟撃の軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は西美濃の調略に成功し
10年近くかけてやっと永禄10年に美濃を奪うことができたくらい信長は戦の下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
0282人間七七四年
2011/11/30(水) 20:19:45.30ID:d6WWGRD/たった織田軍が1万だけなのは年代記抄節にキッチリ書いてあるし
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように(小石暢太郎文書)
兵力不足から朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
0283人間七七四年
2011/11/30(水) 20:20:07.63ID:d6WWGRD/佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7 六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4 柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。
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