トップページsengoku
115コメント33KB

   歩 け よ 真 田 真 幸

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 18:43:52ID:t3U9lDJK
九度山から歩いて大阪城に入ったら
大坂の陣は大坂方が勝っていた

根性が足りん
0103人間七七四年2008/07/18(金) 22:18:57ID:w1YobhRo
>>101
> 島津、長曾我部、鍋島も元々東軍につくはずが、いつの間にか西軍になってるだけ。

これは大谷刑部の政治力によって、わけのわからないうちに
西軍に組み込まれたと考えるべき。

というわけで、もともと家康が絶対有利だったのを、なんだかんだいって
対抗できるぐらいに仕立て上げた手腕は大したもの。

ただ、長期戦になると、せっかく上田で足止めしていた秀忠軍が
合流しちゃうから、昌幸の功績は薄くなっちゃうけどね。
0104人間七七四年2008/07/19(土) 10:53:28ID:/yJohISS
昌幸は先が読める代表的な軍師みたいに言われてるけど、
大谷は負けると分かってて義理で付き合った。
直江兼続は、上杉家の家風から卑屈になれなかった。
黒田如水はさすがに、織田、羽柴、徳川とうまく流れを読んでる。
小早川隆景は、生きてたら家訓から無茶な挙兵をして輝元みたいなアホなことはさせてないはず。
藤堂高虎は、何度も主君を代えてるので次代の権力者が誰なのか見極める能力がある。

昌幸は武田二代に仕えて、信玄時代に発展して勝頼がぶち壊したというトップの力量で家が栄えるか滅びるかを体験したはずなのに
どちらが勝つか分からないから、東西両建てではこの程度かと思ってしまう。
しかも家康ほどの実力者相手に、2度も面子を潰す事をやってるので、政略的にどうかと思う。

昌幸と伊達政宗の2人は、実力を認めながらも身の程知らずな印象がある。
0105人間七七四年2008/07/19(土) 11:21:02ID:hGGeRfOD
実は最上義光は奥羽慶長合戦で上田合戦並の戦果を残してるんだよな。
部将討ち取ったり別働隊追い返したりしてるから真田以上かも。
一概に比較はできんが。
0106人間七七四年2008/08/11(月) 23:35:14ID:sDZLiaUs
>>102
伊達は一時的に東軍裏切って上杉についてたんじゃないか
直江が「政宗は信用できるのだろうか。本人も同陣させるか家臣を人質にとって
備えておいたほうがいいでしょう(意訳)」って手紙に書き残してるし
0107人間七七四年2008/08/12(火) 01:41:30ID:4UjUttBO
どっちつかずの態度で勝ち馬に乗ろうとし、裏で一揆を起こしたりするのが
伊達政宗の得意技だからねぇ。でも、稚拙なので後で全部見破られて
お目玉食らって苦しい言い訳しまくるんだけど。
0108人間七七四年2008/12/17(水) 12:43:39ID:I/2k8V4y
あげ
0109人間七七四年2008/12/17(水) 20:24:55ID:VtIIxkVX
このスレ初めて見たんだけど、さなださねゆきって誰?

百歩譲って昌幸だとしても大坂の陣の前に死んでるし。
0110人間七七四年2008/12/17(水) 20:39:14ID:ta9ZZj4S
>>109
あの真田とは無関係
今川家臣です
0111人間七七四年2008/12/17(水) 21:00:34ID:VtIIxkVX
>>110
なるほど。その今川家臣の真田も九度山に蟄居させられたんですね。
0112人間七七四年2008/12/17(水) 22:43:38ID:ta9ZZj4S
>>111
そうです
今川家再興のために氏真公を大将に関ヶ原へ東軍方として参戦を画策したのですが、
中東遠で今川旧臣や縁故ある百姓を募っていたところを山内一豊に捕らえられ、
讒言を信じた家康により幽閉されたのです。
本当は佐田真幸といったのですが、幽閉中に意気投合した真田昌幸から「さなだもさだも似たようなもの」と真田の名字を貰ったそうです。
0113人間七七四年2008/12/17(水) 23:02:48ID:Hx1J0lq/
そして、大阪から迎えは駕籠でないと大阪入城しないと言い、結局大阪入城を果たさず76歳の天命を九度山で終えた。
0114人間七七四年2008/12/18(木) 17:21:13ID:u2ftjrtc
眞田
0115人間七七四年2008/12/19(金) 05:01:37ID:ci9mUMuM
8
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています