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歴代足利将軍を語る

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0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 00:08:21ID:JdQpkMkB
室町幕府10代将軍義材(のち義稙)から15代将軍義昭までの
戦国期の足利幕府歴代将軍を語ってください。

【一覧】
代      苗字・名   生没年      在職期間      父          母            正室     享年
10代    足利義材  1466〜1523   1490〜1493   足利義視     日野重政娘                   57
11代    足利義澄  1480〜1511   1494〜1508    足利政知     藤原隆光娘       日野永俊娘     31
10代(再) 足利義稙  義材から改名  1508〜1521    足利義視     日野重政娘                   57         
12代    足利義晴  1511〜1550   1521〜1546    足利義澄     日野永俊娘       近衛尚通娘     25
13代    足利義輝  1536〜1565   1546〜1565    足利義晴     近衛尚通娘       近衛稙家娘     29
14代    足利義栄  1538〜1568   1568       足利義維     大内義隆娘                   30
15代    足利義昭  1537〜1597   1568〜1573   足利義晴     近衛尚通娘                  60
0036人間七七四年2007/04/28(土) 18:38:08ID:RnEzAvoA
>>35
「よしき」だったかな?
でも違う名前もあったようなぁ、なかったようなぁ
0037人間七七四年2007/05/02(水) 11:29:20ID:jD1KL1e0
よしき でしょ
0038202007/05/28(月) 02:03:29ID:o0prb+OD
すみません
>>20のアドレスから下記に変更しましたのでお暇でしたら見てみてください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~asikagamotinori/index.html
続きも今後更新していきますので・・・

宣伝すまなかった
0039人間七七四年2007/05/30(水) 08:51:22ID:kkO219Fp
田舎者が勢い余って立てた
0040人間七七四年2007/06/22(金) 01:03:26ID:hzSKH+Wy
質問なんだけど義勝と義政
ってなんで間開いてんん?
0041人間七七四年2007/07/27(金) 11:40:25ID:vm8SaqDb
あいてないんじゃない?
0042名無しさん@そうだ選挙に行こう2007/07/29(日) 05:23:07ID:5eBCqSSs
 
0043名無しさん@そうだ選挙に行こう2007/07/29(日) 06:32:44ID:rsiESkH6
何故9代義尚は無視?
0044名無しさん@そうだ選挙に行こう2007/07/29(日) 07:48:18ID:5wGb8afZ
足利将軍は16代15人と数えるべきだと思うが、なんで天皇の重祚のような代数とは違うの?
0045名無しさん@そうだ選挙に行こう2007/07/29(日) 11:13:04ID:cUsgyw1k
それは戦国最大のタブーだぜ
0046人間七七四年2007/08/09(木) 18:57:30ID:ljLfscb4
>>44
俺もそれ思った。
0047人間七七四年2007/09/03(月) 16:20:42ID:Yh7YMghe
義持の件じゃなく、義材の件だよね
0048人間七七四年2007/10/09(火) 16:31:30ID:Y/ucyu9l
>>1 を改めてみたら、義材からのスレであることを知った。
そして>>1 の享年とはいったい何?か小一時間考え込んだ。
0049人間七七四年2007/10/26(金) 14:39:40ID:p+jiZ52/
義晴がおかしいだけじゃないかな…
0050人間七七四年2007/11/07(水) 18:59:19ID:CvvBq5eg
足利義晴義輝父子になると急に近衛家と
婚姻を結ぶようになったのはなぜだろうか
0051人間七七四年2007/11/08(木) 15:40:52ID:hgoSOXMG
義満以降の正室は、義持、義教(継室は正親町三条氏)、義政、義尚、義澄と殆どが日野氏なんだね

であれば、冨子を出した日野氏を嫌ったと言ってみる
0052人間七七四年2007/11/09(金) 22:48:40ID:qlErdUit
>>51
日野氏なんていない。藤原氏の日野家だと思う。
日野家の本家は江戸時代は滅亡したんだろうか?
分家は今でも天皇家の次くらいに栄えているけど。
0053人間七七四年2007/11/09(金) 22:58:28ID:NdC3M5Gq
たしか義教に子ができたと聞いて日野家に将軍の世継ぎができたと祝いにくる人々に脅威と不快感を持った義教が義父を騙し討ちして日野家の発言力を封じたんじゃなかったっけ?
義教の代で日野家は少しばかり衰微したけど義教が暗殺されて復活したはず。
0054人間七七四年2007/11/09(金) 23:17:07ID:hhZv1co7
>>38
有難う。これ面白いね〜。足利時代は色んな面白い事件がたくさんあるのに今一
メジャーにならないのが悲しいな。こういうので応仁〜明応の政変にいたる流れも見ていたいな。
0055人間七七四年2007/11/10(土) 09:25:49ID:T4c/zmLg
足利は鎌倉期には北条を除いて特別大きな武士団ではなかったのでしょ?
頼朝や北条がせっせとあぼんしてくれたらのおかげでもあるし、宇都宮や
千葉、小山結城の方が大きかったような気がするのでつが・・・
0056人間七七四年2007/11/10(土) 09:31:14ID:AaEXgCtL
頼朝の血が絶えた後でも鎌倉幕府では足利は源氏の名門中の名門だからいちもく置かれていたんだよ。尊氏の妻は北条家からもらってるくらいだし。
そのかわりに北条では同じ源氏の新田と足利を政策として仲悪くさせて監視させてたけどね。
新田は頼朝挙兵には従わなかったから冷遇されてた。
0057人間七七四年2007/11/10(土) 13:11:40ID:J8AzQN8o
足利は源平の頃から関東における大きな勢力だった。
0058人間七七四年2007/11/10(土) 22:27:13ID:BqZSOeRj
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%87%8E%E8%BE%BA%E6%98%8C%E5%B9%B8
0059人間七七四年2007/12/01(土) 16:59:23ID:AjrA7A5g
>>57
鎌倉期に新田と大きく差がひらいたよね。
0060人間七七四年2007/12/06(木) 04:36:26ID:Wrn8Dro5
鎌倉末期の足利氏の所領って異様に巨大だよな。
0061人間七七四年2007/12/07(金) 15:40:43ID:t95kD4jp
幕府の支配体制としては徳川幕府が一番しっかりしてるけど
将軍個人の権力は足利将軍が一番強かった
ある程度の自分の決断で好きなことができ
国王のようなものだった
0062たられば君2007/12/07(金) 16:18:10ID:ka99Kktv
男系継承の概念が希薄な鎌倉時代にあって足利氏は
北条一門と見なされてたのではないかな。
0063人間七七四年2007/12/07(金) 18:53:13ID:PnvMDZnM
>>62
源氏の御門葉に足利は入っている。新田は入ってないけど
0064人間七七四年2007/12/07(金) 19:21:12ID:t95kD4jp
男系継承の概念は強かっただろうよ
鎌倉期の足利氏の当主はほとんど母親が正室の北条氏出身だし
0065人間七七四年2007/12/08(土) 01:35:54ID:NxvNisFt
足利氏は御門葉になってるから鎌倉初期からの名門だな
まさに中世の王者だ
0066奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 2007/12/08(土) 16:38:39ID:FgyVa+HD
┌源義親─為義─義朝
│                ┠─頼朝┌頼家
│熱田大宮司┬──女    ┠┘
│      季範│      ┌政子┌重時───長時──義宗───久時─┬守時
│          │  北条│    │                                  └登子
│          │  時政┼義時┴泰時┬時氏┬時頼┬宗政─師時─時茂┐  ┃
│      ┌─┘      │    ┌──┘┌─┘    └時宗┬貞時─高時│  ┃
│      └─範忠─女└─女└─女  └女      ┌──÷─────┘  ┃
│                ┃    ┃ ┃ ┃      └─女└─女         ┃
└源義国┬足利    ┠┐  ┠┐  ┠┐  ┠┐        ┠┐  ┠─高義    ┃
        │義康━━┛└義兼└義氏└泰氏└頼氏┌家時└貞時    ┏┯━┛
        │                                ┠┘        ┠┬高氏├義詮
        └新田                    上杉┌─女          ┃│    │
          義重                    重房┴頼重─────女└直義└基氏


準一門で扱われても全く不思議ではないこの血の濃さ。
0067奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 2007/12/08(土) 16:40:15ID:FgyVa+HD
┌源義親─為義─義朝
│                ┠─頼朝┌頼家
│熱田大宮司┬──女    ┠┘
│      季範│      ┌政子┌重時───長時──義宗───久時─┬守時
│          │  北条│    │                                  └登子
│          │  時政┼義時┴泰時┬時氏┬時頼┬宗政─師時─時茂┐  ┃
│      ┌─┘      │    ┌──┘┌─┘    └時宗┬貞時─高時│  ┃
│      └─範忠─女└─女└─女  └女      ┌──÷─────┘  ┃
│                ┃    ┃    ┃    ┃      └─女└─女          ┃
└源義国┬足利    ┠┐  ┠┐  ┠┐  ┠┐        ┠┐  ┠─高義    ┃
        │義康━━┛└義兼└義氏└泰氏└頼氏┌家時└貞時    ┏┯━┛
        │                                ┠┘        ┠┬高氏├義詮
        └新田                    上杉┌─女          ┃│    │
          義重                    重房┴頼重─────女└直義└基氏

ズレた&sage忘れた・・・orz
0068人間七七四年2007/12/09(日) 01:18:49ID:4siAAfvy
単なるお飾りの鎌倉時代の将軍、官僚体制がしっかりしていて、多くは子をなすくらい
しか仕事がなかった江戸時代の将軍に比べると、自ら軍を率いて気に入らない守護
大名を討伐することが多く、いかにも武家の大将という感じだな。
0069人間七七四年2007/12/10(月) 14:25:49ID:mSCWZJAK
ただ江戸期の旗本的な直轄兵がいないから、守護同士の争いに巻き込まれがちに
0070人間七七四年2007/12/10(月) 14:36:11ID:BOmyVJiW
足利将軍家の滅亡が
中世の終わりって感じがする
0071たられば君2007/12/10(月) 14:45:04ID:4hPC+ePi
旧地頭勢力を大番で呼び寄せていたから直轄兵がいなかったわけではないんだけれど
お家のゴタゴタで瓦解してしまい、基盤の弱さは否めないよね。
戦国時代に入るまでも将軍が陣頭に立つ「幕府」ではあったけれど
統一政権で統治する「政府」だったのは甘く見ても義満から義教までだしなあと。
0072人間七七四年2007/12/10(月) 20:53:16ID:7LgrIR4k
>>71
義政の途中までは入れといてやろうぜ。
0073人間七七四年2007/12/11(火) 00:30:08ID:u1PQ8a3E
日本における中世という時代は
足利で始まり足利で終わるという感がする
0074人間七七四年2007/12/11(火) 00:34:03ID:DMF9BnS+
むしろ鎌倉時代の方が近世的だな。
0075人間七七四年2007/12/11(火) 20:12:28ID:te7Q3PBs
権力 足利>徳川>北条
権威 徳川>>足利≧北条
人材 徳川>足利>北条
体制 (足利)>徳川>北条≧足利
0076人間七七四年2007/12/11(火) 20:17:31ID:DMF9BnS+
>>75
これは何についての比較だ?
体制で言うなら徳川幕藩体制は日本史上でも尤も強大な体制と読んでいいのだが…。
007711111111111112007/12/11(火) 21:39:35ID:L2HlGLxC
 実際に足利幕府って何の仕事してたの?

 表面で見る限り守護同士の戦を仲裁しているだけしかしているように
 思えんw
0078人間七七四年2007/12/11(火) 22:30:37ID:y1kuE5LK
各国から少ない上納金割当てをしてその金で将軍が遊んでただけ。ただ文化の発展に寄与してる。
0079人間七七四年2007/12/11(火) 22:31:16ID:u1PQ8a3E
文化面の功績が大きい

今の生活様式の根本を成立したのが室町時代
0080人間七七四年2007/12/12(水) 18:30:12ID:cIXvm35B
中世にはロマンを感じる
0081人間七七四年2007/12/12(水) 21:50:53ID:cr9C7Id4
京都の先進文化に鎌倉以来の武家文化が大融合して、日本人と言うものがほぼ完成したのが室町だな。
0082人間七七四年2007/12/12(水) 22:54:39ID:Gp52b7yg
>>76
天皇に最も近づいたのも、凋落ぶりが歴代幕府中もっとも酷かったのも足利幕府
0083人間七七四年2007/12/12(水) 23:31:13ID:cr9C7Id4
室町幕府は適当な政権で、法律も鎌倉幕府の御成敗式目をそのまま使っていた。
なのでモノによっては法律と現実の食い違いがひどく大きくて、法曹関係者はほとんど恣意的に解釈して運用せざるをえなかったそうな。
戦国大名が発生し、分国法を作ってようやく法律と社会の実態との差が埋まった。
0084人間七七四年2007/12/13(木) 00:42:42ID:He0G/1cm
義政時代の義政に仕える上級の女房は、武家からも、公家からも、寺社や幕府の官僚からも
満遍なく出されていた。室町幕府の将軍家が、公武寺社官僚の全ての上に立つ位置を獲得して
いた証拠が、この女房の出自の中にあると考える。
0085人間七七四年2007/12/13(木) 21:46:46ID:4zugpInd
ユルい法律こそが室町幕府を作ったともいえると思うが
だって南朝やら直冬やら懐良やら、敵対勢力がいるんだから
常に柔軟性のある政治で大名を懐柔してかないと
0086人間七七四年2007/12/18(火) 22:30:17ID:9mwTlmqS
>>63
新田の庶家の山名は入ってるよ
頼朝からすれば佐竹や新田本家は恐い存在だから入れるわけないよ
0087人間七七四年2007/12/27(木) 20:07:30ID:5RnFvoZt
財団法人室町文庫理事長足利義寧
0088人間七七四年2008/01/16(水) 16:39:58ID:tPJvcOJW
名門だから得宗と密着できたのか 得宗と密着したから名門なのか?
0089人間七七四年2008/02/05(火) 16:10:44ID:e1pDVLib
義兼は早い段階から頼朝に従っているし、熱田大宮司からみで親族だったし
0090人間七七四年2008/02/25(月) 16:06:00ID:pyPTTLo/
初代義康は早死にだったんだ 義兼の時に新田義重と差がついた。
0091人間七七四年2008/03/11(火) 15:03:02ID:iOUfsjAw
泰氏が謀反を企んだ説の真偽はどうなんだろうか?
0092人間七七四年2008/03/29(土) 15:13:52ID:RLZJEJS+
頼氏も謀反企んだん?
0093人間七七四年2008/04/15(火) 17:21:19ID:UsxABxeb
頼氏の謀反はないな 泰氏は急に入道したから憶測を呼んだ。
0094人間七七四年2008/05/06(火) 16:17:56ID:cbm9n9OT
北条家は足利を厚遇してるね。
(後北条と古河公方の話じゃないよ)
0095人間七七四年2008/05/18(日) 14:03:47ID:eFItZhzT
この一門はちょっと暇があるとすぐ内輪で揉め出す習性がある
幕府創設以来ずっとそう
結局それで天下を失ったようなものだ
0096人間七七四年2008/05/19(月) 15:09:27ID:uTIO6RaA
直義や直冬はもちろんだけど、鎌倉府を造ったのが間違い、となるような対立の歴史だね
しかも管領や関東管領、守護たちも揃って仲が悪いと来た
0097人間七七四年2008/05/30(金) 09:22:30ID:1txycJ/1
>>51
松永久秀や三好三人衆が推した足利氏
の将軍って日野の馬鹿まんこ系統しかいないんだよな
日野家と松永三好は将軍職を独占したいがため
日野氏と婚姻関係を結んだ足利家の男児のみ
将軍にさせたかったってのが本音だろう
日野家は足利の癌だよ
0098人間七七四年2008/05/30(金) 09:26:11ID:1txycJ/1
>>51
なんとかして日野家は足利家の権力を掌握したかったんだろう
そのために義輝を松永や三好に暗殺させたりしたんじゃないか
0099人間七七四年2008/06/15(日) 06:46:08ID:FwiV5XiI
>>98
日野も義輝の頃は、食うのに精一杯の時期だと思うけどね
0100人間七七四年2008/06/17(火) 15:05:39ID:n+2pPeWW
日野家の影響力は明応政変の前後までじゃないかな
0101人間七七四年2008/06/18(水) 21:11:46ID:vPBNNe9/
日野家の権力は足利将軍家と表裏一体だわな。

そういえば日野家に限らず足利幕府の機構には、公家がかなり入り込んでるね。
0102人間七七四年2008/06/18(水) 21:22:02ID:vPBNNe9/
関係ないが関ヶ原の戦いは、室町時代中期までずーっと続いてた足利将軍家と関東公方家の戦いの、
最終決着みたいな趣を感じないこともない。
0103人間七七四年2008/06/18(水) 21:44:48ID:jYk3tIns
なぜ?
三成=京都将軍、家康=関東公方 ?
0104人間七七四年2008/06/18(水) 22:01:32ID:vPBNNe9/
>>103
まあそんな感じ。近畿〜西国勢力と東国勢力との最終決戦。
0105人間七七四年2008/06/18(水) 22:47:12ID:IQy2odCs
まあ東の名家、大内(京志向)の旧領を継いだ毛利を総大将として
関東管領(親幕府)の流れを汲む上杉をも敵にまわした
北条(反管領、反上杉)の旧領を得、武田(反上杉)の旧臣を召抱えた徳川と
考えればそう思えなくもないけどさすがに無理があるような。
世代を重ねすぎているからねえ、そう単純でもない。

まあ東西勢力が拮抗した場合、関ヶ原しか主戦場はないからなあ。
武力による最終決着をつける場所としては適当だけど
どちらかといえば単なる東国組対中央組の対決と見ても良いのでは?
0106人間七七四年2008/06/19(木) 12:21:58ID:bU5FsYH4
中央政権と地方新勢力の戦いという意味では似てなくもないが、
まぁ歴史上ではよくある構図ではある。
0107人間七七四年2008/07/05(土) 15:50:48ID:KZqnvjoK
幕府と対抗した鎌倉府は結城合戦であぼんだからなあ。
成氏以降は地方勢力。
0108人間七七四年2008/07/25(金) 15:12:33ID:nDMs4IFK
京都だって似たようなもんだよ 少し時代は下ってからだけど。
0109人間七七四年2008/08/14(木) 14:57:44ID:DX+XhH8p
鎌倉府を置いたのが失敗だな
0110人間七七四年2008/08/15(金) 21:38:43ID:KVBHsnmJ
>>109
しかし、特に室町初期は、鎌倉府おかなきゃ関東の混乱を収集出来なかった訳で。
まあ、仮に尊氏の血筋でなく、家来筋を鎮台のような立場で置いたとしても、東国の
独立志向は変わらなかったんじゃないかね?
最終的に関東が落ち着くのは、徳川幕府の成立からと言っていいんじゃないかね?
0111人間七七四年2008/09/05(金) 15:08:26ID:fybb8Her
少し言い古されてるかもしれないがやはり鎌倉(関東)に幕府を置くべきだったのかな
0112人間七七四年2008/09/05(金) 15:47:29ID:pkMeJIpz
>>111
でも尊氏の時点では、戦乱の中心は東海以西だったわけで。
ともかく朝廷を監視しないと戦乱の収拾のつけようが無かった以上、京に幕府を置くのは
しょうがない事だったと思うよ。
0113人間七七四年2008/09/24(水) 15:08:18ID:mdmLsuUA
京にいざるを得なかったんだろうな。
0114人間七七四年2008/09/24(水) 16:10:10ID:WMcx9BM6
あの時代は貨幣経済の発展で、京を中心とした畿内地域が、経済力において
他の地域を圧倒しすぎたため、鎌倉幕府のような形ではもはや制御できなくなっていた、って話もあるな。
0115人間七七四年2008/10/04(土) 11:58:42ID:eYxAMvon
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081004-OYT1T00350.htm
足利将軍の2木像、左手首部分が盗まれる…京都・等持院

室町幕府の足利将軍家の菩提(ぼだい)寺、臨済宗等持(とうじ)院(京都市北区)内の霊光殿に安置されている
足利尊氏(初代将軍)、義晴(12代)の両木像から左手首部分が盗まれていたことがわかった。
京都府警北署は、窃盗事件として捜査している。

同署などによると、手首部分は取り外しが可能だという。
いずれも江戸時代初期の作だが、文化財指定は受けていなかった。
霊光殿には、一部を除く歴代の足利将軍像と徳川家康像の計14体の木像が安置され、
午前8時〜午後5時に拝観できるが、柵やケースはなく、監視員や防犯カメラなども設置していなかった。

等持院は1341年に尊氏が創建。
川勝承哲副住職は「悪質ないたずらだろうが、許されることではない」と話している。

(2008年10月4日11時42分 読売新聞)
0116人間七七四年2008/10/04(土) 12:00:15ID:KMMByJPC
尊王派か?
0117人間七七四年2008/10/04(土) 16:08:28ID:ZZd0ko/A
断罪状とともに晒されるんだろうか・・・
おもえばあれから幕末は結構動きだしたもの・・・
また維新がくるのか?
それもいいかもしれんね
0118人間七七四年2008/10/06(月) 18:49:28ID:+v8DrV/j
義晴が朝廷に対して何かやったという記憶がないのだが
0119人間七七四年2008/10/07(火) 14:24:46ID:rakfahQi
超初心者なんですが、
歴代足利将軍についてのお勧めの本を教えてください
0120人間七七四年2008/10/07(火) 16:32:05ID:caQyWuTM
>>119
http://www.shogakukan.co.jp/nrekishi/
これの7〜8巻あたりを読めばいいかと。
0121人間七七四年2008/10/24(金) 15:04:01ID:wANDW/R8
義持はどう?
0122人間七七四年2008/11/05(水) 01:55:39ID:QXyZDRro
日本が誇る名家の現当主

・明仁(125代天皇)
・九条道成(藤原氏嫡流)
・足利義弘(清和源氏嫡流・武家棟梁)
0123人間七七四年2008/11/05(水) 15:01:53ID:ODERcfc0
足利さんだけ胡散臭く感じるのはなぜ?
0124人間七七四年2008/11/05(水) 16:22:55ID:w/TEVTBv
足利将軍は、何で通字が「義」なんだ?初代は高氏なのに。
その後高をつける将軍も氏をつける将軍もいないし。(義輝の息子に義高ってのはいるけど)
なんか理由があるのかね?
0125人間七七四年2008/11/06(木) 01:28:51ID:38NooDLm
北条高時の「高」の時を継がせてどうするんだよ
「義」は源義家から続く由緒正しい源氏の正統の通字なのに
0126人間七七四年2008/11/06(木) 01:30:47ID:XD3awMaP
じゃあ「氏」は?
足利氏の通字の一つなのに。
0127人間七七四年2008/11/06(木) 01:37:05ID:38NooDLm
鎌倉公方の通字にしたんでしょ?>氏
0128人間七七四年2008/11/06(木) 01:41:44ID:XD3awMaP
なんで本家の方は、使わなくなったんだろね?
0129人間七七四年2008/11/07(金) 00:22:27ID:QjkffWuA
>>128
頼義-義家-為義-義朝の流れを意識して、源氏の嫡流ということを
示したかったんじゃないか?
0130人間七七四年2008/11/07(金) 00:30:05ID:bOfIu6TA
足利の本拠地が関東にあるから
鎌倉公方の通字に足利家の氏を使うのも自然だよね
0131人間七七四年2008/11/07(金) 00:31:37ID:MdlAUSIF
京は源氏として、関東は足利氏として、って事か。
0132人間七七四年2008/11/07(金) 01:45:58ID:6Y+Y7lMe
通字として当主に「氏」が見られるのは鎌倉時代からだね
多少ずれるけど新田氏も似たような感じだなぁ、氏になったり義になったり
経緯は時代背景をみると状況を考えたのか
鎌倉公方でも永享の乱に出てくる足利持氏の子供は義久って名乗るのを見ると
尊氏以降だと足利主流が義、傍流(鎌倉)が氏って感じなのかも
0133人間七七四年2008/11/08(土) 04:30:02ID:qOkrVdaC
義尚が長生きしてたらどうなってたかな
やっぱり明応の政変的なことは起こったんだろうか
0134人間七七四年2008/11/08(土) 12:37:07ID:w+XFgYBi
山城で細川政元が後ろ盾になってる一揆と、おもいっきり戦ったりしてるからねえ>義尚
どっちが勝つにせよ、いずれ対決は避け得なかったかと。
0135人間七七四年2008/11/10(月) 19:16:13ID:6txt+stK
>>132
鎌倉公方・古河公方は将軍の片諱+氏だな。
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