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戦国時代の浪人の暮らし方について

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/22(水) 23:22:37ID:7QemPERd
戦国時代の浪人はどのようにして暮らしてたのだろうか。
結局はニートみたいなもんだったんのかな?
0002名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/22(水) 23:34:35ID:5Dsqrb0s
( ´゚ω゚` )
0003名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/22(水) 23:44:31ID:wtZV6XUC
つーか、ニートのように親のすねをかじる奴は、
浪人とはいわないのでは。。。

ニート=働かないで遊んでいる=うつけ?、かぶき者?、座敷わらし?
浪人=定職を求めてうろつく人=フリーター?、ハローワーカー?
0004名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/22(水) 23:51:45ID:OgFgWV1y
金は大丈夫だったのか気になる。
主君滅亡後に裸一貫で家を失い浪人になるとした場合で考えると。
0005名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/23(木) 01:07:12ID:tlcQQ8jr
特殊な技術を持ってれば転職もできそう
0006名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/23(木) 01:10:00ID:VgG66lfC
長宗我部盛親は改易後京で子供に学問を教えてたというから、
きちんと教養があればそこそこ喰えたんじゃないか
0007名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/23(木) 01:22:05ID:2ixPqi9v
でも、それは東証一部上場の社長が場末の塾講師になるってことで、喰えると暮らすは別物じゃないかな。それに最後にはあんなに旧臣が集まったのは有形無形の援助があったことも充分に考えられ
0008名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/23(木) 02:01:40ID:6KujbB04
佐久間の信盛ちゃんの例とかも見ると、それなりの身分の者が浪人で暮らしていくには
やっぱり援助が必要だったんだと思うね。

郎党も何もいない独り身なら何とでもなるだろうけど
0009名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/18(月) 20:18:40ID:WTBaTt4y
戦国時代になると、全国の戦国大名たちが大量の戦闘要員を必要としており、例え主家が滅びて浪人になっても再仕官する機会は多くあった。
また、後の江戸時代と違って主従関係がルーズで、待遇に不満があれば主君を見限って自ら致仕して浪人になり、実力次第でよりよい待遇を求めて別の大名家に仕官する者たちもいた。
この時代は、浪人になって幾つもの大名家を渡り歩く武士が多く、中には大名にまで出世する者もいた。
藤堂高虎はその生涯に10の主家に仕えている。また、この時代は身分が未分化で武士から商人、農民になることも、その逆も容易だった。
0010名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/18(月) 21:06:50ID:OB/EbWio
明智光秀や真田幸隆、前田利家なんかも浪人生活送ってるな。
生活レベルは人それぞれだが、コネや情報、大義名分目当ての他、
戦があれば純粋に戦闘要員として(引き篭もりたくても)狩り出されるんだし、
就職先と死場にはなんら困らないだろう。
0011名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/18(月) 21:58:13ID:uA/OqNdC
仕官する際に面接みたいなものはあったのですか?
0012名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/18(月) 22:08:36ID:o1PceOsb
時期によるが、戦国期、関ケ原後など結構仕官者を募って面接やらしていた大名家はあるよ。

加藤清正が熊本とかで面接やったりしたのは結構有名じゃね?
0013人間七七四年2007/02/17(土) 19:09:18ID:tz9k1+kv
光秀は長い間浪人してたらしいが
0014人間七七四年2007/02/17(土) 19:17:07ID:apm1EAbd
細川藤孝は寺に忍び込んで、油を失敬してたw

>>13
嫁さんが髪の毛を売ってお金に……の逸話は創作でも泣ける。
0015人間七七四年2007/02/17(土) 19:40:03ID:Q3+jyk6t
>>12
その頃、柳川を没収されて加藤家に居候していた立花宗茂が面接官をした事もあったとかなかったとか。
0016人間七七四年2007/03/03(土) 09:38:55ID:c5Ubg8a3
寺の食客が多い。つまり寺の用心棒。
0017人間七七四年2007/03/03(土) 09:58:05ID:dOiZ/H1E
>>5
戦国時代じゃないが米沢蕃出身のうちの先祖は侍やめて
鍛冶屋に転職したらしい。
0018仙台藩百姓2007/03/03(土) 12:30:39ID:PnfWPuYa
お構いありになると悲惨だお
物乞いでもするしかない
野垂れ死にした話しもあるしね
0019人間七七四年2007/03/03(土) 14:32:29ID:lAGuU3qD
関が原で改易された大名は。。

自力で稼ぐ
チョン宗我部盛親 京都相国寺ちかくで寺子屋経営
真田       紐工場経営

ニート
立花宗茂    家臣がバイト、雲水、物乞い 
毛利勝信・勝永 旧知の山内に預けられ千石与えれ悠々自適
宇喜多秀家   八丈島で妻の実家の前田家から仕送り  
0020仙台藩土百姓2007/03/03(土) 15:44:50ID:PnfWPuYa
その連中は浪人というより罪人だお( ^ω^)
0021人間七七四年2007/03/07(水) 06:47:45ID:tsp9sD7F
感状は履歴書の職歴のようなものだったらしい
0022人間七七四年2007/03/07(水) 16:13:38ID:DqL8M46w
なんか立花宗茂は浪人のようで浪人じゃないようなきがするべ。
家臣が食い扶持探すんだからおもしろいね
0023人間七七四年2007/03/09(金) 09:05:53ID:EYVrwtq/
>>22
殿様に職探しは無理じゃね?
頭を下げる生活とかしたこと無さそうだし。
0024人間七七四年2007/03/09(金) 23:27:47ID:Bj0ea6Wb
伊東家の息子さんは酒造りやってたんだっけ。
0025人間七七四年2007/03/10(土) 13:43:08ID:YF0IORck
旧大名が仕官口探しw
誰が雇うことやら。
せいぜい客将扱いかな?前田家の高山右近みたいに
0026人間七七四年2007/03/10(土) 15:24:16ID:k77wnr0y
牢人
0027人間七七四年2007/03/10(土) 15:42:38ID:DIYd5Dlx
斎藤龍興は雑兵として姉川で朝倉方で戦死したとか。
0028人間七七四年2007/03/10(土) 15:52:31ID:cVhxCG4T
>>27
姉川ではなく刀根坂。事実上越前朝倉家最後の戦いだったりする。

龍興って、信長-義昭上洛後の三好三人衆による本圀寺襲撃にも加わっていたりするんだよなw
0029人間七七四年2007/03/10(土) 16:07:21ID:/S88L11Q
>>28
龍興は、一貫して信長の対抗勢力に加わってるんだよな。
執念というか何というか…美濃失陥後の龍興の足跡を描いたら、かなり面白そう。
大河とかマンガとか小説とかでそういう作品ってないかな。
0030人間七七四年2007/03/10(土) 21:28:26ID:64vtHqQ+
>>29
つセンゴク
0031人間七七四年2007/03/11(日) 11:25:25ID:o6OR0BkK
ニートは住む家とメシがあるが住所不定でその日の晩飯も
ありつけるかどうかわからなかったんだろう
だいたい借家なんてこの時代にあったのかな?
0032人間七七四年2007/03/11(日) 18:20:26ID:SL4LFISx
借家がないなら段ボールに住めばいい
0033人間七七四年2007/03/11(日) 22:01:15ID:Y+btBiws
長宗我部盛親は不遇を耐え忍び
後に1000人を従えて大坂城に入場
藤堂高虎の軍に壊滅的な打撃を与えた

どうも真田ばかり目立つが
この人も凄いと思う

戦国時代がもう少し続いていれば 再起の可能性があった人だ
0034人間七七四年2007/03/19(月) 11:02:30ID:Sr1mbqLu
戦国時代の浪人か・・・

予備校行ってたんじゃね?
0035人間七七四年2007/03/19(月) 13:26:14ID:0mnmfcWF
浪人の食い扶持を得る方法
大きな合戦の際、臨時の兵士として雇われる。
そこそこ金はあるが、防衛力の担い手がいない商家や豪農、寺社等の用心棒として雇われる。
強盗をする。

こんな所か
0036人間七七四年2007/03/19(月) 13:58:58ID:A6hneLrF
戦国時代の浪人ってのは、それなりの身分だった人にしか当てはまらない気がする。
江戸時代と違って専属武士が一杯いてたわけじゃないから
この時代の一匹狼はただの社会不適合者か逃亡者くらいだろう
主+郎党数名ってのが真の浪人で、一人でふらついてるのは単なる歌舞伎者で戦闘でも役に立たん
わ〜わ〜言って大勢が決するまでフラフラしてる賞金稼ぎ 
0037人間七七四年2007/03/19(月) 14:06:39ID:0mnmfcWF
>>36
歴史をもっと学ぼうな
0038人間七七四年2007/03/19(月) 15:06:57ID:NERKEDrQ
佐久間信盛
中野宗時

浪人になった後に飢死
生活は厳しいのだろうな
0039人間七七四年2007/03/19(月) 15:14:03ID:VvCwEltF
>>28
龍興は稲葉山城が落城してから信長に追放されて朝倉を頼って
信長包囲網にも参加してけっこう抵抗した。
>>38
佐久間信盛は高野山で病没では?
0040人間七七四年2007/03/19(月) 21:18:49ID:cT4Oras0
慶長14年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける
太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親
秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁
宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登
黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次
豊臣へ為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永
豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房
秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成
かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達
しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…
その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「殿……」
明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!」
秀吉に実の子、いやそれ以上の愛情を受け育ち、豊臣政権の五大老であった男が再び豊臣の為に戦うため帰った来た…  
0041人間七七四年2007/03/19(月) 22:39:21ID:dMD0iB5h
>>40
宇喜多秀家は座敷牢だからスレ違い。
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