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【蝙蝠】 長宗我部家総合 【四国】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 17:03:28ID:DAj+o4iE
信親のスレしかなかったので。
0202人間七七四年2007/11/03(土) 17:54:56ID:YI+D0r8C
>>201
元親は内政を
A.傀儡として利用し、使い道が無くなった所で難癖付けて追放した。
B.保護したがのちに敵対活動をしてきたためそれを理由に追放した。

AもBも言い方は全然違うが過程と結末は同じw
0203人間七七四年2007/11/04(日) 03:59:42ID:WkBYT9yG
>>201
追放してから、信長と不仲になり始めた。
0204人間七七四年2007/11/04(日) 04:32:44ID:fpD70y5F
信長は撃退できた
0205人間七七四年2007/11/04(日) 18:25:49ID:sQzJpvOh
最初微妙に勝って怒りを買い、後でフルボッコにされそうだな
0206人間七七四年2007/11/19(月) 16:20:24ID:7azeyh38
信長は信親の烏帽子親を受けたぐらいだから
結構関係は良好だったのじゃない?
0207人間七七四年2007/11/19(月) 21:03:31ID:a940b+hA
>>206
初めは良好だった。
が、信長の晩年は敵対関係。
0208人間七七四年2007/11/20(火) 13:25:58ID:hUo8CT5l
>>207
そうなんだ、ありがとうございます
ところで敵対の直接的原因はなんだったんですか?
0209人間七七四年2007/11/21(水) 00:55:14ID:3TMx4w/v
四国は切り取り次第→やっぱやーめた
0210人間七七四年2007/11/21(水) 01:06:50ID:mCdvCirD
それはおおざっぱすぎだがw
まあ、四国政策の転換が原因だわな
0211人間七七四年2007/11/21(水) 01:22:32ID:+GSWcD1L
>>208
三好氏及び三好領の取り扱いと思われ。
初めは長曽我部にとっても織田にとっても三好は敵だったが、
足利義昭に味方した三人衆や、三人衆から離脱した義継も謀反の理由で1573年に滅亡。
1575年以降三好康長は信長に属した。
三人衆・義継亡き後の三好党の長老であった康長が織田氏に服属したことで、
三好氏は当然織田氏との結びつきを強めることとなる。
となると三好氏を敵とする長曽我部にとって面白いはずもなく……という展開。

山陽方面での織田―浦上ラインと浦上―三好ラインの絡みもあるかな。
0212人間七七四年2007/11/21(水) 16:19:24ID:ynMHCPsh
なるほどなるほど
ちょっと調べてみましたが、三好長治(天正五、1577年自害)の死も関係ありそうですね
残った十河存保は信長に属したようですし
0213人間七七四年2007/11/25(日) 23:51:34ID:24AyS5Fj
>>203
一条内政は、織田政権(足利義昭の頃からか?)から公認された土佐守護だったからね。
追放すれば、当然宣戦布告したも同然。
0214人間七七四年2007/11/26(月) 02:16:16ID:3kmuCmGN
>>213
対外的な認識では、一条の被官長宗我部だったらしいしな
0215人間七七四年2007/11/26(月) 02:28:40ID:a2d1qhGO
>>214
竜造寺の所の鍋島みたいなものか
0216人間七七四年2007/11/26(月) 04:22:22ID:3kmuCmGN
>>215
なんかの資料に「土佐には一条の家人に、長宗我部とかいう
珍しい名字の奴がいる」みたいな記述があったという話をどっかで
よんだ気がする
0217人間七七四年2007/11/26(月) 14:50:48ID:QbQHqfNn
これは受け売りなので深く突っ込まないように


長宗我部元親は一条兼定を追放して幡多郡などを接収したとあるが、朝倉慶景氏の論文「天正時代初期の土佐一条家」によると、
この追放劇も京一条家の一条内基と交渉し、土佐一条家重臣の承認を得て行っている
この中で、元親は中村城代と認められた(城主ではなく、あくまで城代)が、権限がかなり限られており、
有岡真静寺の寺領没収を行おうとした際、同寺の本山である妙顕寺が元親正室実家の石谷氏・その縁戚の稲葉氏らに働きかけ、
撤回の圧力をかけてるのが所蔵文書にあるらしい
元親はその勧告を受け入れ、同じく中村城代の桑名蔵人に命じて寺領を返還してるらしい

これは幡多郡などの一条家所領はあくまで一条家のものであり、長宗我部氏に仕置きの権限がないという認識が、
中央にあったのを示してるものということ

兼追放後に内政が跡を継いで御所体制を成立させる、国内統制はこれで良かったのだが、
国外、とくに朝廷や織田氏などの中央へは逆に悪影響を及ぼす

信長公記にもあるが「土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守 惟任日向守執奏にて・・・」と、一条家陪臣という認識が広まったのである
しかしこの体制も波川玄蕃の謀反により、内政を伊予へ放逐(逃亡?)してしまう事により崩壊
これでは国内統制にも支障をきたし、中央を牛耳る政権へ口実を与えてしまう懸念がある為(信長の四国征伐も、
これが要因の一つだと考えられてる)、子の政親(この名前は定かではない)を久礼田土居に入れ御所体制を復活させる

『多聞院日記』
「土佐大将ハ長曾我部ト云人也 チヤウスカメト云ト思ヒシ面白キ名字也 土佐ノ一条殿ノ内一段武者也ト云々」 (天正13年6月21日条)

『四国御発向並北国御動座事』
「抑四国守護長曽我部宮内少輔元親 根本一條家大納言家侍 而無知其名者 近年元親長成 才知強勇・・・」

そして『お湯殿の上日記』にある
「とさの一てう殿しょ大夫しゆ四い せっつのかみ申 なかの御かと なかはしゝて申さるゝ ちよつきよあり・・・」(天正14年12月22日条)
と諸大夫成の勅許を得ている

これは戸次川合戦直後である事から、一条家陪臣という扱いから敗戦の責任は問わず、御所体制の継続を秀吉が認めた
(秀吉が継続させた?)と考えられてるらしい
これは朝廷権威を利用したい秀吉の意向と、朝廷との、京一条家との妥協の結果という考え
いくら仙石秀久の失態とはいえ、同じ立場の十河氏に比べ処罰がなさ過ぎるのがおかしいとの事

これと付随すると自分が思ってるのが、九州征伐中に秀吉から出された大隈一国を与えるという書状
元親は辞退しているが、これは元親を一条家から独立させる為ではなかったのだろうか?
そう考えると面白いかな
0218人間七七四年2007/11/26(月) 19:10:26ID:idmdDhqm
>>217
元親に大隅一国ってのは、土佐とは別にくれるってことかな?
0219人間七七四年2007/11/26(月) 19:44:42ID:a2d1qhGO
>>218
そんなわけない。土佐から大隈に移し変えだろ。
0220人間七七四年2007/11/26(月) 19:56:57ID:3kmuCmGN
>>219
大友宗麟の日向、長宗我部に大隅だっけ?
0221人間七七四年2007/11/26(月) 19:57:11ID:ez5oZD9g
それだと一条家どうすんの、て話じゃね?
独立のために大隅くれるんだとしたらさ。
0222人間七七四年2007/12/15(土) 17:05:50ID:PFIifTvU
そこまで秀吉が気を使うかな?
0223人間七七四年2008/01/12(土) 15:38:32ID:/FF6k8+C
戸次川の段階では内政も兼定も没してるね。
0224人間七七四年2008/01/31(木) 15:22:10ID:uQm8kwIw
どの道もう伸びようはなかったのだろうね。
0225人間七七四年2008/02/07(木) 03:17:30ID:r7Zr2xXG
土佐一条家に忠義だった加久見氏ら幡多郡の豪族たちも
もう長宗我部氏に滅ぼされてるか、家臣団に組み入れられてるからなぁ。
0226人間七七四年2008/02/23(土) 13:34:59ID:Cq5D9G/0
加久見といえば房家の母(教房の正妻)の実家だね、結びつきは深かったんでしょうね
0227人間七七四年2008/02/24(日) 04:01:28ID:BnwSJIvq
加久見氏ら幡多郡西南部の豪族はほとんど一条家のシンパだったみたいよ。
0228人間七七四年2008/02/29(金) 19:15:51ID:fDFilX5T
内記黒って何て読んだらいいんでしょう…ないきぐろ?
0229人間七七四年2008/03/02(日) 01:22:15ID:LuYZp2Ac
だいき
0230人間七七四年2008/03/02(日) 07:08:27ID:zemyLZWN
超スケベ元痴漢わろた
0231人間七七四年2008/03/03(月) 15:48:44ID:qQ5At3RH
高知にいる友達はマジで超スケベって呼んでたらしいorz
0232人間七七四年2008/03/07(金) 08:45:37ID:TeM248Zy

平井上総「関ヶ原合戦と土佐長宗我部氏の改易」(『日本歴史』718号、2008年)
0233人間七七四年2008/03/08(土) 12:27:58ID:FJpwmE8Q
長宗我部家滅亡の理由は、
もちろん、後半生の元親の変貌が大きいけど、
もともとの元親の性格もあったきがする。

よく比較される伊達政宗ほど粘っこくなかった。性格が。

一部の小説(『見知らぬ海』とかね)とかには、
「猛将」
タイプの人にかかれているけど、
どう考えても、本来は内政家であって、奉行タイプ。
差しだしではあるけど、秀吉以前に検地をしたり、
それをもとに一領具足の制度をつくったりしているし。
のちに「百箇条」の細かさをみても、そうだよね。
あと、
元親自身が兵を率いた戦さでは、彼は一応、不敗だけど、
べつに戦さが特別、上手かったとは思わない。
下手ではないけど、むしろ戦いをする準備にたけていた気がする。

元親が秀政権下で一番仲良かったのが、五奉行のうちでも地味な、
増田っていうのも、泣かせる。
かなり気があったらしく、烏帽子親になってもらっているしな。
0234人間七七四年2008/03/08(土) 13:34:51ID:5YkPWQKJ
>>233
盛親の烏帽子親が、増田長盛でおk?
0235人間七七四年2008/03/08(土) 14:51:53ID:Wk2lRMSm
>>233秀政政権下の秀政って誰?堀秀政は既に亡くなってる。秀吉だよね?
0236人間七七四年2008/03/08(土) 14:56:12ID:a/qYwIwX
>233 が秀政権下と間違っているのを >235 が更に秀政政権下と読み違えてる件。

皮肉を言う時はもうちょっと落ち着いて画面を見ようよ。
0237人間七七四年2008/03/08(土) 16:26:55ID:Wk2lRMSm
236へ 読み間違いスマソ。長男が戦死してから元親は狂った。次男を自害に追い込み、四男を後継ぎに決め… ま、四国統一してからすぐに四国討伐軍が来たから話にならんよな。親の国親が1560年以降も生き続けてたらどうなってたか…
0238人間七七四年2008/03/08(土) 21:23:54ID:ln6LN9RR
>>235 237

脳味噌無いなら、コメントしなきゃいいのに・・・痛すぎる
0239人間七七四年2008/03/08(土) 22:22:53ID:Wk2lRMSm
↑お前よりは脳味噌有るぞ。ちーとは元親関連語れやオツムがいたいぜW
0240人間七七四年2008/03/14(金) 18:27:09ID:WRAlHR/M
長宗我部は増田長盛ラインだったのか
石田三成や増田通してた大名は大体悲惨なことになってるな
津軽なんかはうまくやったなという印象だが
0241人間七七四年2008/03/15(土) 01:48:58ID:xmQlrnva
>>237
元親は四国を統一していないよ。寸前まではいったけど。
0242人間七七四年2008/03/20(木) 02:38:18ID:GS4yPj56
なんか春になったからか、239みたいなガキが増えたな板全体に・・・
元親の話だけどさ。
外向的な感覚と先読みの才能はたしかに鋭い。辺境の小土豪としては、
ちょっと例がない。

そもそも、元親が斉藤=石谷氏ラインでの嫁取りをしたのは、
当時の足利幕府将軍の義輝との外交ラインを作ろう賭したからだと思っている。
もともと土佐には、応仁の乱のゴタゴタで細川に従って、逃げてきた石谷氏があった。
(土佐神社いったいを領有)
土佐物語などでは、
「美濃の斉藤は武勇が・・・うんぬん」
という話があるが、
そうではなくて、この土佐の石谷氏の親戚が、幕府の要職にあったことに目をつけて、
最初から外交目的で石谷氏を妻とした。
このとき、司馬遼太郎の小説なんかでは、美濃に元親の使者がいっているが、
実際には、石谷氏は美濃には在住せず、京都にあり、足利義輝のそばにいた。
『土佐国編年記紀事略』は戦国土佐を語る上では一級資料とされるが、
ここには、
「(元親の妻の父、石谷)兵部大輔は光源院義輝公の長男」
と書かれている。
義輝の年齢からして、これは明らかに錯誤であるが、それほど将軍と親密だったのだろう。

元親は石谷氏の娘を妻にしたのは永禄三年。
同年、石谷兵部大輔は、義輝の御小袖御番衆になっている。
御番衆は江戸幕府でいう直参旗本にあたるが、権力はそれより上で、
幕府直轄軍の指揮をとることが可能な役職だ。要職である。

ところが、この二年後の、永禄五年、義輝は三好によって殺される。
元親はせっかく作った中央とのパイプを失ってしまう。
ただ、幸いにも石谷兵部とその子の頼辰(斉藤利三の異母兄)は、
この戦さを逃げ延びた。

山科言継の日記に拠れば、義輝の死の翌年の永禄九年(1566)の八月。
石谷頼辰があらわれ、
「土佐国の長宗我部」
を言継に紹介している。
これはおさらく元親本人で、ひそかに上洛していたものと思える。
義輝が死亡したため、新たな中央とのパイプを作りたかったのだろう。
永禄九年(1566)といえば、本山との戦いが膠着しつつも、一段落むかえたところで、
対安芸戦を意識したところである。
まだ土佐の三分の一も押さえてない状態であるが、
元親の目ははやくも中央をみていたこととなる。

ちなみにこのとき、石谷兵部の同僚の細川藤孝は、
ひそかに義輝の弟で、のちの義昭をかついで、北陸へ逃走している。
若狭武田、朝倉とたより、ここで明智光秀と細川藤孝が意気投合したという。
もっとも、明智光秀の家柄は、もともと幕府とつながりがあり、
細川藤孝とも面識があった。
さらにいうと、石谷氏、斉藤氏、明智氏はともに美濃土岐氏であり、
何代にもわたって、複雑に婚姻を重ねて、半ば同族となってた。
0243人間七七四年2008/03/20(木) 07:20:28ID:c+2daQdB
>元親は石谷氏の娘を妻にしたのは永禄三年。
のソースは何?

上げてる編年記紀事略には永禄六年に「頃年」という
記載があるだけなのでそれ以外だと思うけど。
02442422008/03/20(木) 09:25:32ID:GS4yPj56
すんません数字の錯誤があった。
元親の婚姻は永禄六年の「頃年」が正解。
義輝横死が永禄八年、西暦の末年をあたまのなかで移植してしまいました。
もうしわけない。恥じてます。

ちなみに1575年までの元親の外交履歴をまとめると(西暦で)

1563 足利義輝側近の石谷大輔の娘を娶る
1565 義輝横死
1566 上洛し、石谷大輔の息子頼辰のつてをもって山科言継らに接近。
     のちに京都一条氏が土佐へ下向するつてをつくる。
1567 細川藤孝、越前にて明智光秀と出会う。光秀、義昭に仕える
     (光秀のそれ以前の履歴は不明)
1568 信長、義昭を補佐して上洛。
1568 元親 本山氏を降ろし、家臣団に組み入れ、土佐中央部の平定成る
1569 元親 安芸国虎を破り、土佐の三分の二を手中にする。
  同年 土佐一条兼定、姻戚で同盟関係の津野氏とともに伊予に攻め入る
      伊予西園寺と河野は連合、毛利がこれを助けて、両軍激突。
      (鳥坂峠の戦い)
      一条兼定敗走す。
1570  元親、弟の吉良親貞に一条領の城を奪わせ、以後、一条と交戦状態になる
1571  元親の動きと呼応したのかは不明だが、西園寺氏が河野と結び、
      土佐侵入をはかる。
      一条兼定は大友宗鱗に助けを乞い、大友軍、大挙して伊予へ押し寄せ、
      西園寺氏の黒瀬城落城。一条家は大友氏の力を背景に、
      土佐と伊予での勢力拡大をはかる。  

1572  元親の謀略により、一条家重臣、津野定勝が家督を弟の勝興に譲る。
      直後、勝興は元親に降伏。元親の三男を養子に迎える。
      正確な時は不明ながら、一条家老臣、土井宗珊が、兼定に斬られる。
      一条家内部で当主に対する不信感が強まり、元親がこれを利用する。

1573  この年、元親、兼定の子に自分の娘を娶らせる。
      京都の権大納言従二位一条内基、基親に求めに応じて土佐下向。
      兼定の子は、この歳、元服し、内基の一時をもらって内政と名乗る。
      ただし、中村には居城せず、長宗我部領の大津に館を与えられ、
      元親の監視下に入る。
       
      と同時に、兼定は内基を通じて、朝廷より権中納言に昇進。
      しかし、その直後に出家し、自得宗性と名のる。
      (おそらくは元親、一条内基による強制)       

1574年 兼定は元親の監視をくぐり、土佐脱出。
      豊後大友氏を頼る。
      (一説には、元親からの圧迫をうれえて京都一条家が進めともいう) 
      結果として、元親の幡多郡支配成る
1575年 兼定 大友家および伊予土豪の援助をえて、土佐復帰を狙うも、
      元親の前に大敗(渡川、四万十川の戦い)  
      元親、明智光秀を介して信長に使者をだす。
      また、宇喜多、毛利にも使者をだして、誼を通じる

     

0245人間七七四年2008/03/20(木) 18:19:10ID:UzXsvd00
意味ない年表を書き込まれても
0246人間七七四年2008/03/20(木) 19:49:29ID:c+2daQdB
話のネタを振るわけでもなければ目新しい事を書いてるわけでもなし、
他人がネタにも肥やしにもできない長レスは一行煽りと変わらないよね。
0247人間七七四年2008/03/20(木) 22:43:10ID:QbrRIAqy
まあまあ、元親について彼なりの勉強の成果を発表したかったんだろうし、
いいんじゃないかい?
0248人間七七四年2008/03/21(金) 02:49:37ID:roJD346k
まあ、元親の婚姻が、都とのパイプを重視したということでしょう。
蜷川・斎藤・石谷の三氏は婚姻関係があって、密接な間柄だったみたいだし。

あと、意外だったのが、元親正室が天正11年の七月に亡くなってたらしいことだな。
元親を扱った小説とかだと、大体の場合信親戦死の前後で描かれていることが多かったしね。
0249人間七七四年2008/03/21(金) 10:55:43ID:+2z8rNMR
まぁ小説なんかソースにならんからな
0250人間七七四年2008/04/10(木) 15:22:39ID:K0EOtMvy
石谷大輔って何者?
0251泉 こなた2008/04/13(日) 09:48:05ID:WoMdbLql
黒崎恵に頼むべし
0252人間七七四年2008/04/17(木) 23:42:31ID:iqUQZA9l
石谷兵部大輔光政 号空然。
足利義輝のご相伴衆を務め、「山科言継卿記」に義輝側近として記述アリ。
一説には義輝の庶子といわれるが、そうなると元親の妻の年齢がおかしくなる。
石谷氏には娘ばかりで男子がなく、同族の土岐一族の斉藤氏の子を養子とする。
斉藤氏と明智氏、石谷氏は美濃土岐家として複雑に婚姻を重ね、
互いの家に男子がない場合には養子を入れるなど、同族として行動していた。
ちなみに斉藤利三の妻は斉藤道三の娘。
信長とは妻を通じて義兄弟となる。
また、道三の死後、その娘のひとりを稲葉一鉄が保護し、嫡子の貞通に娶らせた。
利三が稲葉一鉄および貞通と親しかったのはこのため。

光政の娘で、元親の妻となった女子の名は不明。
法名は水心。
墓所は不明。
しかしながら、近年まで、
南国市岡豊城付近に「お水さま」とよばれる塚があり、
土地のもののあいだでは、
「えらい女性の墓」
だと伝えられていた。

ちなみに小説を史実だと信じて、wikiに元親の妻の名を「菜々」
などと堂々と書き込んだ、恥知らずの大馬鹿ものがあるが、どうにかしてほしい。
0253人間七七四年2008/04/18(金) 00:06:59ID:PtcH2X7S
そのだれかさんの論考を丸写しした長レス、どうにかならんのか。

専門書やら論文を読み始めたばっかりで嬉しいのは分かるが、
ネタ元が丸分かりでいい加減にしてほしいのだが。
0254人間七七四年2008/04/18(金) 14:29:10ID:t7xjgHS+
んだな。少しは自分の言葉で書く練習をしてみては?
0255人間七七四年2008/04/18(金) 23:44:59ID:YyoPREIu
でもまあその論考や専門書すら読まん連中よりはだいぶマシだろう。
(もちろん適度な自重は大切だけど)

まあ、この程度ならスレが活性化するしいいんでないか?
0256人間七七四年2008/04/19(土) 00:03:10ID:OGPMCYUB
てか『「お水さま」とよばれる塚が〜』と書いておいて法名水心とか
やっちゃう時点でもうその恥知らずの大馬鹿者と五十歩百歩だろw
0257人間七七四年2008/05/02(金) 23:20:24ID:ltb1+M5H
祝一位:「大河ドラマで主役をやってほしい知られざる戦国武将は?」
ttp://www.nhk.or.jp/nettyu/2008/sengokubusyo/0501/index.html
0258人間七七四年2008/05/19(月) 15:01:51ID:uTIO6RaA
確かに元親は面白いな、盛親まで広げるともっと
0259人間七七四年2008/05/20(火) 17:04:59ID:idunzVZ4
ちょうそかべじゃ変換されない件
ちょうそがべなら長宗我部に変換できる。
0260人間七七四年2008/05/21(水) 00:36:43ID:tYxkY220
そうだけど・・・知らなかったの?
0261人間七七四年2008/05/21(水) 13:02:24ID:PE8EnorZ
知らなかったよ。
四国の人間でもないし、興味持ち始めたばっかりだから。でもやめた。
0262人間七七四年2008/05/22(木) 16:11:04ID:4wHpL5wI
なんかここ感じ悪いな
0263人間七七四年2008/05/22(木) 17:45:25ID:r+Oa0tAz
んだな。だから俺もあんまり見ないようになった・・・。
0264人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/02(月) 17:18:21ID:cMBhUCCi
人気のないのかね
0265人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/02(月) 19:11:37ID:QF3dcrB1
そういうお前らも252の間違いには突っ込んでやらないんだな・・・
大馬鹿者に苦言を呈するはずが晒し者の252哀れ
0266人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/02(月) 23:54:30ID:1gZ5/uWn
もし元親で大河するならライバルは十河存保になるのか
0267人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/03(火) 00:37:13ID:AD+Vsi5U
十河ごときが?ちゃんちゃら可笑しいぜよwww
0268人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/03(火) 00:47:24ID:qosN2Zuu
いやそこは仙石で
0269人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/03(火) 01:23:00ID:yZwHr0C+
十河はさんざん敵対したが戸川の戦いの回で初めて共に戦い戦死するという渋い役。
0270人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/03(火) 01:26:50ID:AD+Vsi5U
>>269
ならば賛成するぜよ。
仙石の馬鹿は誰が演じる?
0271人間七七四年2008/06/09(月) 06:14:02ID:i9PB7/qY
【吉田東洋】
幕末の土佐藩士。山内容堂の元で参政となる。文武ともに非常にすぐれた傑物だが
元来気が短く人を馬鹿にする癖があり反感を買った。門閥家老を放逐し甥の後藤象二郎たちを登用、下横目岩崎弥太郎をつかう
幼少時に不遜な中間を斬り元服後も己をからかった容堂の客旗本松下嘉兵衛(秀吉の主君の子孫
いろいろあって江戸期に改易くらい旗本になった。山内家とは縁戚に当たる)を
酒宴の席でふるぼっこにする。松下は泣き叫び容堂も止めるが聞き入れず執拗にぼこぼこにし
結局容堂自身が席を立ち東洋をはがいじめにして止めるまで攻撃の手を緩めなかった
このような人物だったが一応やりすぎた後は悔い反省していたようでもある
文久2年本能寺の変の講義をした帰り路、基地外テロリスト武市の手下兼狂信者那須、大石らの兇刃に斃れる享年47
その首は大石の締めていた臭く黄ばんだ古ふんどしにくるまれ持ち去られた
ところでこの男、藩の重職にありながら長曾我部旧臣吉田大備後重俊の子孫である
つまり土佐では蔑視されてきた長曾我部侍なのである
よってテロリスト武市も最初は吉田なら腹を割って話あえば最後は分かり合えるとおもっていたという
0272人間七七四年2008/06/13(金) 17:13:01ID:X6BbrmOw
一条兼定の大河化希望
0273人間七七四年2008/06/20(金) 20:20:38ID:d5/BU/LN
上木鉢
0274人間七七四年2008/06/22(日) 17:34:08ID:gLJg+Jnm
福留政親についてなのですが・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%95%99%E6%94%BF%E8%A6%AA
wikiでは「大阪の陣では、長宗我部盛親の陣に参陣」とあり

http://www.geocities.jp/masaru_mania_top/KtosaH.html#han
こちらのサイトでは、「長宗我部改易後は徳川家に仕えて、大阪の陣では井伊隊に所属」とあります。

どちらが、本当なのでしょうか?
盛親に付いたか、徳川に付いたかで、彼の人生は大きく変わると思うのですが・・・
また、彼の大阪の陣後、の記録は何も残っていないのでしょうか?
0275人間七七四年2008/06/22(日) 19:00:50ID:x4ZwFsWX
>>274
Wikiが誤り。
つか、個人サイトとWikiの記述が違っていたら、まずWikiが間違ってると思ったほうがよい。
典拠史料名が書いてある場合は別だが。

「福留覚書」によると井伊隊に属して冬の陣に参加した。
和平後に政親が大坂城に戦死した家臣の引き取りに入ったとき、盛親と出会う。
政親が事情を話すと、盛親は戦死した家臣の旗指物を持ってきて政親に渡す。
そして政親の父祖が長宗我部家に尽くしてくれたことを話し、政親は感動した。
但し「福留覚書」は直接見たことがないので、又聞きだ。
0276人間七七四年2008/06/22(日) 20:42:42ID:gLJg+Jnm
>>275
御親切にありがとうございました。
0277人間七七四年2008/06/29(日) 01:14:23ID:3zzUCTwH
いくつか「yahoo知恵袋」にて質問しているものと重複するのですが
こちらでもわかりましたら御知恵を拝借したいです。

1・一条兼定は最後、大友氏の庇護下に入ったまま豊後で死亡したのか?
御家再興の戦いで敗北した後、伊予に隠棲した(後、長宗我部の刺客に襲われ重傷、もしくは死去)のか?
どちらが正しいのでしょうか?(もしくは信憑性が高いのでしょうか)
本来、一条氏のスレで聞くべきなのでしょうが、一応長宗我部も絡む話なので・・・

2・http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1217440967
窪川城は、1571年頃に一条→長宗我部に鞍替えしてから、使われていたのでしょうか?
その後の史書などに誰々が城主になったとか、合戦の拠点になったって記録はありますか?

3・http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1417442269
浦戸城(1591年築城)の前に、浦戸湾近くに城や砦はなかったのか?(土佐水軍・池氏の海賊砦とか)

4・「戦国史」というゲームのあるシナリオをプレイしていたところ、土佐に「広岡城」というのがあったんですが
ネットで検索しても土佐国の情報でヒットする物がありませんでした。これは実在する城ですか?
それとも別名がある?

質問厨ですが、よろしくお願いします。
0278人間七七四年2008/06/29(日) 03:22:28ID:XZC0jOp8
>>277
1.豊後追放後、大友宗麟の庇護下で洗礼を受けドン・パウロとなった一条兼定は、宗麟の援助を得て伊予
  に渡り、法華津氏・御荘氏・津島氏ら伊予の豪族と共に宿毛に侵入しました。幡多地域の諸将にも兼定に
  加担する者が現われ、宿毛地域の回復には成功しました。なおも故地の中村を奪還せんとする兼定は
  中村の栗本城に入るも、渡川の合戦で長宗我部軍に敗れます。
  ひとまず伊予の法華津氏の城に逃げた兼定は、宇和島の沖の戸島に20余名の家臣と共に隠棲します。
  元親は兼定の元家臣の入江左近を買収して戸島に仕向け、兼定を討たせようとします。これにより兼定は
  重傷を負いますが、晩年はキリシタンとしての信仰生活を送り、天正13年に同地で没したようです。
  天真院殿と号された墓が今も戸島には残っています。

2.窪川城は当地付近を領有していた仁井田五人衆の一人、窪川氏の居城で、初め津野氏、のち一条氏に
  仕えた後、長宗我部氏の支配下に入っています。別名を茂串山城ともいいます。
  合戦の拠点となった伝承は今のところありません。
  城主の窪川氏は文禄の役に出陣して戦死、跡継なく断絶。長宗我部元親は当地を同じ仁井田五人衆の
  志和氏に負託しました。その後、志和氏は元親に攻められ滅亡し、当城は元親の家臣・八木正久のもと
  一領具足20人と共に守りました。長宗我部氏滅亡後は土佐藩の家老・山内一吉(林氏)が当地に赴任、
  当城の向かい側に窪川土居を築いて統治し、当城は廃されたようです。
  史料としては「南路志」所収の「仁井田郷談」が詳しいものの一つです。

3.浦戸城はもともと南北朝期に交戦の記録が見られますので、鎌倉期〜室町初期に当地の土豪が
  築いていたというのが一般的な見方のようですね。
  その後の天文年間に本山梅慶が利用、永禄3年に長宗我部国親が攻め落とし元親に引き継がれます。
  縄張りからみて、海上からの敵の上陸を阻もうとする山城式で、豊臣氏に降伏後に初めて水軍を務めた
  長宗我部氏が水陸両用の作戦に適した城として築き直したのが大きな特徴の城です。
  浦戸湾口近くには、長浜城や横浜城、それに池城などの城もありましたが、いずれも内陸部の山城です。

4.高知で「ひろおか」と言えば一般的には吾川郡の「弘岡」を指す事が多いですね。
  しかもゲームにも登場するような城で「ひろおか」にあるとすれば、土佐七雄(土佐七守護)の一人だった
  吉良氏の「吉良城」ではないでしょうか。もっとも「弘岡城」という別称はあまり用いられませんが・・・。
  吉良氏は対峙していた本山氏によって滅ぼされ、その後、長宗我部氏により当城も落とされ、長宗我部
  元親の弟・親貞が入城して名跡を継いで吉良親貞と名乗りました。親貞の子・親実は元親の跡継問題で
  自刃させられ、当城も廃されたということです。

些か簡略ながら、以上のような事情です。
0279人間七七四年2008/06/29(日) 08:27:25ID:3zzUCTwH
>>278
迅速・詳細な回答ありがとうございました。
非常にわかりやすく、参考になりました。
どう御礼を言っていいのやら。
本当にありがとうございました。感謝感激です。
0280人間七七四年2008/06/29(日) 08:42:57ID:UMMzBDoo
>>277
一年前の俺を見てるようだ
0281人間七七四年2008/06/29(日) 16:11:18ID:YlIe7J9v
>>279
いえいえ、どういたしましてw
また何かございましたら、ご遠慮なくw
0282人間七七四年2008/06/29(日) 16:30:43ID:NpPF2yEm
成りすまし乙
02832782008/06/30(月) 00:14:08ID:UiVHftm5
またまたお戯れをおっしゃりますね。
>>281も私ですがw
02842782008/06/30(月) 00:41:11ID:UiVHftm5
>>279
ご質問1.について、あと少し言及いたしますね。
渡川の合戦は天正3年でしたね。一条兼定に大友宗麟の援助があることを懸念した
長宗我部元親が刺客を送ったのは天正10年です。刺客の入江左近は兼定の元の
小姓で、夜半に兼定の熟睡中を襲います。一命を取り留めたものの兼定は片腕を
失ったとの事です。その3年後、兼定は熱病にて没し、享年42歳と伝えます。
念の為、補遺まで。
0285人間七七四年2008/06/30(月) 07:32:11ID:tiLggtmb
そんなこと誰でも知ってるからググカスでおk
0286人間七七四年2008/06/30(月) 09:26:10ID:SdXiki6S
一条兼定って海に流された時はマジで流されたの?
大ともに流れついたのは偶然で奴の天運がなかったら
そのまま漂流死してたというの?
0287人間七七四年2008/06/30(月) 09:28:32ID:tiLggtmb
スレ違い
0288人間七七四年2008/07/01(火) 00:10:33ID:/96Kcluk
>そんなこと誰でも知ってるからググカスでおk

誰でもは知らないだろうけど、下調べできることもあるからね。
一応、長宗我部家に関わる事項も含まれているからおおめに見てあげようよ。
0289人間七七四年2008/07/01(火) 21:15:14ID:IDgAdFn4
質問者が何度も教えろ教えろと騒いだ場合とかはともかく
スレ違いだとか、ググレカスと思うならスルーすればいいのになあ
何で回答できない奴に限って文句ばっか言うんだろう
0290人間七七四年2008/07/01(火) 22:04:26ID:hrsWzA2D
だから>>262-263みたいに言われるんだろう
0291人間七七四年2008/07/02(水) 00:54:56ID:rOWcK1Dr
それさえなければ良スレなのにね・・・・。
0292人間七七四年2008/07/04(金) 02:58:13ID:l1l7yOCH
最初から知っている人はいない。
誰しも学習したから知ったわけだしね。
目くじら立てずに教えてあげたらいいじゃないのよ。
0293人間七七四年2008/07/04(金) 22:55:38ID:Kp4L5rzP
自分は努力して(図書館行くとか本買うとかご当地を訪問するとか)知識を得たのに、
それと同等の知識をネットでホイホイと得ようとするからムカツク!
ってことだろう。

ネットで知識を得た人間は同じくネットで情報を得ようとする人間に対し寛容であるが、
出費や労苦を伴う行動で知識を得た人間はそういった人間に寛容になれないってこと。

古城研究家や合戦研究家で城址・戦場跡を実際に歩いて研究に活かす人が、
直接城址・戦場跡に赴かずに卓上でのみ研究する人を嫌うのと似てるな。
前者が後者を特に嫌うのは、前者が実地に赴いて思考した自分の結果(本や論文)を
後者が自分の知識に取り入れる、所謂「他人の褌で相撲を取る」ってのがある。

2ch的にはどーでもいーんじゃね? って感じだがw
0294人間七七四年2008/07/05(土) 13:54:02ID:iLjgWzOV
城址や戦場跡は実際に行かんとわからんこと多いよなぁ
いくら改変が進んでいても現地で初めて発見することや納得することがある
0295人間七七四年2008/07/08(火) 12:29:55ID:COCtWxkf
>>293
それを仕事にして商売している人が
そういう想いを感じるのは損得勘定もあるし理解できるのだが
世の中には遠くの遺構までわざわざ出向いたり
資料を実際に垣間見る余裕もない人もいるんだから
わかる人が教えてあげてもいいような気するけどな。
どうしても自分から教えたくないならスルーしてればいいだけで
「(他者からでも)知られる事が気に食わない」って人は何なんだろ。
0296人間七七四年2008/07/08(火) 14:21:04ID:iF2xuY9a
こっちは自分で模索して苦労してしったことを楽に結果だけ知ろうって根性が気に食わん
料理作って食おうと思ったらそこにやってきた奴に食われたように気分
自分で努力しろ
勉強ってのは努力を鍛え苦労に耐えるようになるのが本文
知識や学力はなくても生きていけるがその訓練のためにみな勉強をさせられるわけだし
0297焼肉+ ◆JUU/.JUU/. 2008/07/08(火) 19:22:07ID:Go9tK2kV
なんのスレなんだここは。
長宗我部と打つのがそんなに面倒くさいのかな?
本筋に戻れよみんな。
0298人間七七四年2008/07/09(水) 17:09:28ID:fGANvmLU
長曽我部さんとアントニオ猪木はどっちが強い?
0299人間七七四年2008/07/10(木) 02:25:43ID:fpZMJAQm
>>296
ちょろっと検索すれば出てくるような事と
現地人だったり現場の人間じゃないとわからない事では
まったく別だと思うが。
みんながみんなあちこちの遺構や博物館に行けるわけじゃないだろ。
0300人間七七四年2008/07/23(水) 20:07:27ID:AUZ/S/KD
福留儀重の父・福留飛騨守親政ついて
0301人間七七四年2008/07/27(日) 21:44:37ID:3zXfrOMJ
親政は荒切りしたのが思ってたより歳いってからで驚いた
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