▼殺生関白▼羽柴秀次▼
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 20:07:32ID:2kl/Yh2s0320人間七七四年
2007/07/07(土) 04:28:23ID:/quwE60v秀吉は当事既に、豊臣一門の事よりも秀頼の将来の事のみしか考えて無いのだから仕方あるまい。
豊臣権力を秀頼から奪う第一候補は身内なのだから。
0321人間七七四年
2007/07/07(土) 04:41:09ID:bsG2QP2L隆精院がそうだな
つうか姫なんか残しても豊臣家には大して影響しないだろ
影響しないから助命したわけで
0322人間七七四年
2007/07/07(土) 06:09:24ID:Tzz/nJlmこの隆精院ってこの事件のとき何歳だったのかな?
真田信繁と婚姻してたのだから相応の年齢じゃないとおかしいけど
秀次自身が28歳だったんだから、彼女の年齢は・・・
0323人間七七四年
2007/07/07(土) 06:37:20ID:bsG2QP2L彼女の旦那である幸村自身隆精院の父親である秀次より一歳年長なわけで、
親子ほど年の離れた夫婦関係だったことは間違いないよ
0324人間七七四年
2007/07/07(土) 07:26:13ID:uzkCdJNx石高的に大身はいたけど
(羽田4万8千石、桑山3万石、本田2万5千石、箸尾2万石)
筆頭家老は藤堂のはず。
石高でかいのは秀吉直参を譲り受けたのが多いから、新参といえば新参。
0325人間七七四年
2007/07/08(日) 00:07:20ID:joBMHY6P身内の大和豊臣や秀次を潰し
自身も警戒してた黒田や、碌で主家を上回る徳川を残すのが不可解だよな
一門より他人を信頼する、あまり例を見ない男だった
見事に裏目に出たわけだが
0326人間七七四年
2007/07/08(日) 13:03:08ID:nc5J+yJB単に関東と言う場所を甘く見ていたんだと思う。
たとえ禄が大きかろうと中央から離れた関東に追いやっておけば何もできまいと言う自負。
実際に、秀吉は信長配下のころも蹂躙される武田・上杉しか見て無いし、
小田原での合戦も圧勝に終わって東で苦労はして無い。
軽んじても無理は無いといえる。
それでも蒲生を置いたり無理矢理上杉を膨らませて置いたりと、
見張り役はつけてるしちゃんと警戒も怠ってないが、心のどこかに「たかが関東」という
気持ちがあったのは否定できない気がする
0327人間七七四年
2007/07/08(日) 21:55:01ID:Hx1kp2HN幼い秀頼から「豊臣権力」を奪い取る第一候補は、同じ一族だし。
そのほかは決して「豊臣権力」は奪取できないからね。
家康も「豊臣権力」の外に新秩序を打ち立てたわけだし。
0328人間七七四年
2007/07/09(月) 02:09:42ID:7MFjgl2D羽柴家が断絶する危険性が高まることも分からなかったのかな?
不可解なほど負の部分ばかりが増幅されているあの足利義教だって
永享の乱や結城合戦の戦後処理で持氏一族を皆殺しにしようとはしなかった。
持氏の末っ子・永寿王は(側近たちの説得で渋々とはいえ)助命したし
持氏の妻妾や娘たちにいたっては最初から殺す気も無かった。
彼が永寿王を助命したのは室町将軍家断絶時の受け皿を確保するためであったはず。
仮に秀次が本当に叛乱なり秀吉暗殺などを計画していたとしても
秀次の子たちは絶対に殺してはいけなかった。
親族を粛清しまくって源氏宗家の断絶を早めてしまった源頼朝の轍を
秀吉は頼朝を遥かに上回る悪辣なやり方で踏んでしまったわけだ。
0329人間七七四年
2007/07/09(月) 03:14:41ID:wkFueev2まあ頼朝の方は、それなりに成長した子供が何人かいたから、流石に断絶するとは思わなかっただろうけどなw
足利はやっぱり強固な一門意識があるけど、秀吉にはそう言う一門意識ってものを一切感じないな。
そのあたりは所詮地生えの領主ではなく、織田家の軍務官僚の世界でのみのし上がってきた人間だったから、と
見えなくもない。
0330人間七七四年
2007/07/09(月) 20:25:44ID:zENkm0c7まあ年齢的に関が原の時点では何の力にも無らなかったかもしれんが。
0331人間七七四年
2007/07/09(月) 20:51:24ID:DEScSDfk0332人間七七四年
2007/07/09(月) 22:10:40ID:wkFueev2個人の能力じゃなくて、もし秀次事件がなかったら、「豊臣家世継ぎ」としても秀次家には無傷なまま数カ国にまたがる大領と、
豊臣家子飼いの直属軍民官僚群と、秀頼に何があってもその後をしっかりと固められる多くの後継者候補(秀次の子供達)がいた。
秀吉後の政権安定感が違うわな。
0333人間七七四年
2007/07/10(火) 00:14:34ID:2e+HR8ZL0334人間七七四年
2007/07/10(火) 02:25:36ID:/rD1dhYgその時点で本来ならば、秀頼は大御所の息子であって、「秀次の次の後継者候補」の一人に過ぎない。
にもかかわらず無理矢理剥奪して継がせようとしてしまった時点で立つべき名分は地に落ちた訳だ。
そこで今更、家康が力任せに何しようが豊臣家が何か言える義理はなくなってしまった。
だが結局傀儡にされようと後継者争いが起ころうと、秀次が関白のままで残るのであれば、
あくまで豊臣家内の名分が立ったままになってしまう、となれば家康も史実ほど力づくではいけなくなるだろね。
それでも家康の実力を考えれば結局権力は握ってしまうだろうし、秀次は傀儡かもしれんが、
傀儡だとしても残ると言う事は権威が残ると言う事、全然意味が違う。
秀次と家康では実力の桁が違っても子々孫々そうだという保証はどこにも無い。
0335人間七七四年
2007/07/11(水) 00:34:44ID:HlR1g5AKたとえ暗愚でも誰か一人でも生き残ってたら、歴史は変わっていただろうに。
0336人間七七四年
2007/07/11(水) 01:25:59ID:oiJG5YfF0337人間七七四年
2007/07/11(水) 21:42:03ID:VBHgkJet0338人間七七四年
2007/07/11(水) 22:12:34ID:eaqgxFDW0339人間七七四年
2007/07/15(日) 23:00:34ID:JJ29hDnZ名乗らせていたらしいね。近江に3000石の所領を持つ旗本になっている
ということだ。ただ、高台院死後は羽柴姓から木下姓に変更させられているようだが。
どなたか、このあたりの資料をネットにUPしている人はいないだろうか?
日出と足守、立石の各木下家よりも嫡流といえるのは、この近江木下家ではないだろうか。
準大名である立石木下家が秀頼の子孫でなければの話だが。
0340人間七七四年
2007/07/16(月) 00:21:59ID:ZDWh70O6秀吉を追放或いは殺すしかなかったのではないか?
ただこれをしたら内乱状態になってしまう・・・
秀次付きで山内、田中、堀尾などは残ったのに前野や木村が駄目だった
理由は何でしょう?
0341人間七七四年
2007/07/16(月) 03:05:59ID:hZ5ceL6q> 秀次付きで山内、田中、堀尾などは残ったのに前野や木村が駄目だった
> 理由は何でしょう?
生かしておいても(秀頼にとって)害がないと判断されたかどうか。前野や木村は大物だから
変な政治力を発揮される事を恐れたんでしょ。
0342人間七七四年
2007/07/16(月) 03:20:33ID:DSTbIXxg0343人間七七四年
2007/07/16(月) 04:46:13ID:NYc/smhg諸大名から自分に忠誠を誓わせる誓紙をとったりするのは止めた方が良かったな
秀次には秀吉への叛意は無かったと部下だった甫庵は記してるが、こんなことしてたら疑われても仕方ない
如水の勧めどおり自分から外征軍の総大将買ってでるなり、ともかく秀吉に二心の無いことを示さなきゃいけなかった
0344人間七七四年
2007/07/16(月) 05:16:03ID:hZ5ceL6q> とりあえず義父の秀吉が唐入りで忙しい時に朝廷に内緒で献金したり、
> 諸大名から自分に忠誠を誓わせる誓紙をとったりするのは止めた方が良かったな
その辺は本当に秀吉にナイショでやったかどうかなんて怪しいものだ。
秀次の周りは秀吉の目が光りすぎるほどひかっていた訳で。秀吉の意向に反した行為を
そんなホイホイと行えたなんて、先ず信用できない。
秀次荒淫説と一緒で、後付の理屈と考えた方が自然だろう。
0345人間七七四年
2007/07/16(月) 05:28:58ID:NYc/smhg単に秀次が不注意だったとする方が理にかなってるだろう
あと秀次の嗜好殺人というのは怪しいものだが、彼が精力絶倫だったと言うのは間違いない事実
そのことを注意した秀吉の書状が現存してるし、六条河原で処刑された秀次の女房連中は30人以上だった
0346人間七七四年
2007/07/16(月) 08:02:43ID:UypARO3e秀吉が人に注意できるくらい品行方正か?
ホント秀吉って勝手な奴だなあw
0347人間七七四年
2007/07/16(月) 09:56:59ID:Ajc3IZeH一方的な被害者とするのは、秀頼貧弱説と同じく構成の後付けに過ぎない
0348人間七七四年
2007/07/16(月) 12:13:28ID:DSTbIXxgその中で少しでも自分の身を守ろうとしてただけに過ぎない、そういうのは策略とは言わない。
一族の少ない豊臣家にとって、秀次の子が多いことはむしろ歓迎すべきだったのにな。
0349人間七七四年
2007/07/16(月) 16:37:07ID:5XjpreNU気の毒だが浅慮というか・・・。
秀次生きてても豊臣だめになったんじゃない?
0350人間七七四年
2007/07/16(月) 17:07:25ID:e+5Asq3aけどな。経済力が圧倒的に違うんだから負ける事はあり得ないし。
0351人間七七四年
2007/07/16(月) 18:19:19ID:762wVGEGそんなことはおれらが後の歴史を知ってるからいえるわけで。
当時家康は律儀で通ってたし、又左だって安全牌ってわけじゃなかったろ。
もともと堀秀政は加賀の押さえとして越前に配置されてたともいわれてるし。
ようは徳川前田上杉毛利佐竹等は互いに牽制させるつもりだったのでは。
家康はなんかの時に使えるとでも思ってた・・・というか思わされたのかな。
その辺は家康が狸って言われる所以だろ。
信長にだってあれだけ忠実で、幾ら扱き使われても絶対服従してながら
本能寺起きたら河尻、穴山を煽動して殺させて甲信を併呑。
秀吉にだって生きてる間は手が出せないから絶対服従だけど、
死んだら豊家をのっとって、あまつさえ秀吉、秀長の墓を暴く。
・・・なんか書いてて、家康ってキレタいじめられっこみたい・・・
0352人間七七四年
2007/07/16(月) 21:07:43ID:NYc/smhg0353人間七七四年
2007/07/16(月) 21:56:01ID:DSTbIXxg北条みたいに真っ向から敵対してくれるなりするならともかく、
完全に服従してる上に豊臣家にとっても功労者である徳川を無理に押し潰す様な事をしては、
他の外様大名に示しがつかない。
それでも無理矢理押し通そうとすれば徳川に同情的な流れになる事は避けられない、
そして彼らが明日はわが身と恐怖心を抱いてしまったら最後、次々と離反者が相次ぐ。
特に秀吉の恩恵の少ない東国の連中はかなり危ない、味方の中でもあまりやる気は出してくれないだろう。
それでもかろうじて潰せるかもしれないが、多くの離反者に250万石の大大名である家康の連合軍を
力押しで叩き潰すとなったら1年や2年ではすまない。朝鮮出兵も真っ青の大損害になる事は容易に想像できる。
更に更にそこまでやってやっと東国を得ても、そこまで強引にやっておいて豊臣を信用する奴などいなくなるだろう
そんな政権に何の意味があるのか?
0354人間七七四年
2007/07/16(月) 23:12:56ID:O5Ay5sTK0355人間七七四年
2007/07/17(火) 00:01:38ID:jqut3Zke姉が秀吉より先に結婚していたなら秀吉の出身階層も推測できませんか?
0356人間七七四年
2007/07/17(火) 00:30:26ID:GuUR5kHAそこで諦めず、策略をめぐらして徳川を族滅するのが真の天才。
筑前が本来兼ね備えていたはずの天才的頭脳を駆使すれば
徳川を血祭りにあげるなどたやすきことだったといえる。
時代は遡るが、政敵を根こそぎ滅ぼしていった北条得宗家の例を見よ。
畠山、比企、梶原、千葉、三浦、毛利、安達、平頼綱・・・
政敵をすべて死滅させて強固な絶対権力を完成させたのが
足利義満・義教親子をも超える武家政権史上最強の名君・北条貞時公だ。
筑前は貞時公の前例に倣って徳川とその息のかかった勢力を血祭りにあげるべきだった。
討伐する理由がなければ作る、作れなければ徳川亭を奇襲攻撃して家康親子を討ち取る。
そう、あの日本史上空前絶後の壮挙(暴挙?)・平禅門の乱を再現すべきだったのだ。
0359人間七七四年
2007/07/17(火) 02:39:17ID:cDp2j71B250万石って家康に従っていた大名領や与力領含んでだろ。
そんなもん策略でなんとかなる。
大義名分なんぞいくらでも作れるんだよ。離反者が出ないようにな。
それにたかが家康程度に朝鮮出兵ほどの犠牲には間違いなくならない。
なぜなら北条征伐の先例があるから。
0360人間七七四年
2007/07/17(火) 04:17:22ID:/J/jg1Gp家康と同様毛利や伊達など、生き残った外様たちは皆、一度は敵対しながらも
秀吉に従う事で信頼を得て、秀吉はその証として領土と安全を保証してきた。
その中で同じ事をしてきた・・・どころか早くから従っていて服従している家康が結果的になんの落ち度もなく潰される。
だったら多くの外様にとっても自分たちだけは大丈夫なんて保証はどこにもなくなる。
それをいくらでもどうにかできると言われても、具体的に言ってもらえなければわかるわけない。
0361人間七七四年
2007/07/17(火) 08:35:35ID:tYPJoxzs国家安康君臣豊楽なみの粗探しをするか、
無ければ権力の力で捏造すればいい。
徳川が正論唱えても、末期の豊臣と同じで味方する者は少ない。
0362人間七七四年
2007/07/17(火) 10:28:46ID:ppZot70cあの時代、家康って秀吉と匹敵し得る唯一の存在でしょう
本当に天下平定するためには絶対潰しておくべき存在
家康潰されたからもしかしたらうちも、なんて思い上がった身の程知らずはほとんどいないと思う
0363人間七七四年
2007/07/17(火) 12:10:16ID:cDp2j71B5万石くらいを捨扶持に与えれば脱糞したうえ、取り繕うためか焼き味噌と
称して食べて、あまりの苦さに顔をしかめたところを絵師にかかれるよう
な男なら謀反をするような度胸はないだろう。
実力者とはいえ、当時の家康と秀吉にはかなりの力の差があったはず。
0364人間七七四年
2007/07/17(火) 12:57:56ID:r5SJIi6V話 を し て い る 奴 は 、
巣 に 帰 れ
0365人間七七四年
2007/07/17(火) 15:35:57ID:jUqJJr9/信雄のことはぁ?一応へタレでも大大名だぞ。取り潰すような理由でもないだろ。
あとは信包とか。
それに本題の秀次自体イチャモンつけて潰した様なもんだろ。家老の前野と木村も。
ところで若江八人衆って石田三成とかに仕えて関ヶ原で奮戦したのは有名だけど、
それ以前にどんな武功があったの?もともと秀吉あたりの直参だったんだっけ?
0366人間七七四年
2007/07/17(火) 17:11:20ID:PesQlCvp文禄4年(1595年)
◇関白豊臣秀次 朝鮮渡海の儀
1月16日 羽柴秀吉、島津義弘及び吉川広家へ来年の羽柴秀次の
名護屋への動座予定の準備、兵粮の入替、および釜山浦の兵站
基地において兵粮の調達を行うことを命令。また秀吉は朝鮮を
「九州同前」と認識しているので内輪替後に帰朝すべきこと、
在城周辺の耕地開作を指示。詳細は寺沢広高に伝達させること
を通知。──『島津家文書』『吉川家文書』
2月16日 山中長俊、朝鮮在陣中の吉川広家を慰労。来年の
羽柴秀次の動座・渡海について報告。詳細については寺沢広高
が伝達することを通知。──『吉川家文書』
0367人間七七四年
2007/07/17(火) 17:13:56ID:PesQlCvp◇関白秀次に暗雲立ちこめる
3月8日 羽柴秀吉、聚楽第において羽柴秀次と対面。
──『言経卿記』
3月27日 羽柴秀吉、禁裏に参内し先に羽柴秀頼が叙爵した御礼などを奏上。
──『公卿補任』
4月10日 羽柴秀吉、伏見城において聚楽第より下向した羽柴秀次と対面。
──『言経卿記』
4月16日 羽柴秀保(秀次実弟)が大和国郡山城にて、横死する事件が発生。
──『言経卿記』
0368人間七七四年
2007/07/17(火) 17:16:19ID:PesQlCvp◇秀次の命運尽きる
7月3日 羽柴秀次、謀反の嫌疑で、石田三成・増田長盛ら奉行衆
より、詰問を受ける。──『公卿補任』
7月8日 羽柴秀吉、羽柴秀次を召喚し、関白・左大臣の官職を剥奪、
羽柴秀次は出家し、高野山へ追放される。──『公卿補任』
7月10日 前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家ら奉行衆、
吉川広家へ羽柴秀次の高野山放逐を正式通知し、虚説を否定。
──『吉川家文書』
7月15日 羽柴秀次、高野山において、謀反の科により自害。
──『言経卿記』
7月15日 木村重茲、羽柴秀次に連座して京都山崎の大門寺で自刃。
──『日本史人物生没年表』
0369人間七七四年
2007/07/17(火) 17:19:53ID:PesQlCvp◇秀吉の秀頼溺愛に諸将憂う
7月12日 石田三成・増田長盛、全5ヶ条の「霊社上巻起請文」
を提出。諸大名に対し豊臣秀頼への表裏無く、盛り立てること。
諸事については秀吉の「御法度」「御置目」を遵守すること。
豊臣秀頼を疎略にし、「御法度」「御置目」に違反する者は、
例え誰であっても糺明の上成敗すべきこと。秀吉の恩恵を受けた
者共は子々孫々までも豊臣氏への忠誠を尽くすべきことを誓約。
──『大阪城天守閣所蔵木下家文書』
7月20日 羽柴秀吉、諸大名に豊臣秀頼に対する忠誠および
法度・御置目の遵守を誓わせる血判起請文を提出させる。
──『毛利家文書』
8月2日 羽柴秀次妻子妾等、京都三条河原に於いて秀次首級を
前に辞世の和歌を詠む。その後、全て処刑される。
──『特殊文書』『言経卿記』
9月3日 石田三成・増田長盛ら奉行衆、島津忠恒へ
「今度京都之儀」すなわち秀次事件に関して秀吉の
「御朱印」が発給された旨、事件は落着したことを通達。
──『島津家文書』
0370人間七七四年
2007/07/17(火) 18:49:28ID:TposnFwL筑前にとって家康は一応「味方」=家来には違いなかったが
大きな潜在的脅威であるには違いなかっただろ。
だからこそ彼は徳川を関東に「追放」したんじゃないか。
貴重な親族を無実の罪で殲滅して、逆に家康らを誅殺しなかった筑前。
羽柴家を自ら壊滅に追いやった筑前はキチガイと化していたのか。
0371人間七七四年
2007/07/17(火) 19:25:23ID:k7wNnWdEバカ秀吉
0372人間七七四年
2007/07/17(火) 22:59:32ID:/J/jg1Gp信雄は自分の提示した加増に異を唱えた訳で、その時点で全く意味が違う。
もしも秀吉が明らかに減俸をしようとしているのであれば、信雄に対しても同情する流れは出来たろうが、
加増すると言ってるのに、わがまま言ってるようでは世間も他の大名も味方はしてくれない。
むしろ黙って秀吉の恩恵を受けておけば領土的には得をするし、安全であると言う事の示しになる。
これは家康も同じ事、関東行きを蹴ってたら恐らく同じ運命辿っていただろう、
むしろ秀吉はそれを狙ってたかもしれない・・・が家康は素直に受けてしまった、これでは手の出しようがない。
だが秀次の場合、関白ではあっても固有の武力は大して持ってないわけで。
これは秀吉の意のままに出来てしまっても仕方がない、
だがそれですら最上のように後に遺恨を残してしまっているし、
関白と言う職がなんら権威の無いものと言う事を世に示してしまった。
別にこれは家康に限った話じゃない、秀吉は毛利も警戒していたし。
0373人間七七四年
2007/07/20(金) 07:23:34ID:xGEbKdWu0374人間七七四年
2007/07/23(月) 10:53:32ID:gsgZXEtvてっきり現職のまま処刑されたと思ってたよ
0375人間七七四年
2007/07/27(金) 21:30:22ID:CZAUI8Pv0376人間七七四年
2007/08/20(月) 09:18:59ID:nSLmuNLw0377人間七七四年
2007/10/05(金) 17:33:58ID:RnPVhYj50378人間七七四年
2007/10/05(金) 18:33:13ID:A+6ulb4P0379人間七七四年
2007/10/08(月) 07:47:52ID:m+wFFfo2謙信亡きのちに北条打倒に燃えて立ち上がり、秀吉の元で謀を巡らし千里の外で勝利を決する稀代の策謀家。
家康と北条が最も恐れた天才軍師渡瀬繁詮は秀吉の関東政策の頭脳として仕えて
その智略で危機に陥った自分の兄弟たちを救援すべく佐野・宇都宮・佐竹・上杉を動かし北条包囲を形成し北条始まって以来の最大の危機に叩き落とし小牧長久手の戦いに北条が援軍を送れないようにした鬼才の持ち主。
0381人間七七四年
2007/10/08(月) 09:48:57ID:LPXZLYXm謙信亡きのちに北条打倒に燃えて立ち上がり、秀吉の元で謀を巡らし千里の外で勝利を決する稀代の策謀家。
家康と北条が最も恐れた天才軍師渡瀬繁詮は秀吉の関東政策の頭脳として仕えて
その智略で危機に陥った自分の兄弟たちを救援すべく佐野・宇都宮・佐竹・上杉を動かし北条包囲を形成し北条始まって以来の最大の危機に叩き落とし小牧長久手の戦いに北条が援軍を送れないようにした鬼才の持ち主。
0383人間七七四年
2007/10/08(月) 19:34:41ID:yGrVNp4m0385人間七七四年
2007/10/10(水) 21:06:41ID:FseDQgM6渡瀬繁詮は播磨国衆で有馬則頼の女婿。
だから死後、所領は義弟の有馬豊氏のものとなり、繁詮の子孫は有馬家臣となった。
0386人間七七四年
2007/10/15(月) 18:30:40ID:aN+BSLdj0388人間七七四年
2007/10/27(土) 00:37:00ID:9e2IJM3D0390人間七七四年
2007/11/13(火) 21:59:18ID:LBAp8Ozr0391人間七七四年
2007/11/13(火) 22:08:02ID:tGLzJaZL0392人間七七四年
2007/11/22(木) 19:56:58ID:dwKbvERS身内を殺すことで脆弱になり自らの首を絞めてくれるから
後釜狙いの奴らには嬉しいことこの上ないだろうな
0393人間七七四年
2007/11/24(土) 22:13:42ID:o61tCgApいつ寝首をかかれないか、逃れようの無い恐怖心ばかりがめぐってたんだろう
0394人間七七四年
2007/11/25(日) 15:53:52ID:+yJgtVto一概にそうは言えない。
司馬氏の晋の例がある。
0395人間七七四年
2007/11/25(日) 16:05:13ID:FXQtCwVu0396人間七七四年
2007/11/28(水) 00:31:35ID:ofyegJeX0399人間七七四年
2008/02/24(日) 10:30:13ID:4MTkFeCC0400人間七七四年
2008/03/02(日) 00:55:58ID:Wvqg1Mtvこのほうが諸侯や庶民たちの支持を失わずにすむのは間違いないし
(実際に、北条貞時はを平禅門の乱を機に得宗家を全盛期に導いた)
不意をつかれた敵(=秀次一家)を確実に全滅させることもできる。
平頼綱一家は一人残らず討ち取られてその血筋は根絶やしにされた。
0401人間七七四年
2008/04/02(水) 20:20:38ID:jGQp5njD0403人間七七四年
2008/04/02(水) 23:36:51ID:3RmTcOhxあたりはどうなんだろうな
0404人間七七四年
2008/04/28(月) 20:29:48ID:HdKGD7he0405人間七七四年
2008/05/04(日) 10:56:51ID:Z630LwBv0406人間七七四年
2008/05/04(日) 13:09:20ID:ylHADNjW白山林戦は羽柴秀次は桶狭間戦時の今川義元みたいな感じだったのだろう。
ちょっと違うか・・・
0407人間七七四年
2008/05/04(日) 22:29:48ID:u0ieMDfe三成は秀次擁護派だろ
0408人間七七四年
2008/05/05(月) 00:05:39ID:IZk3/W0v0409人間七七四年
2008/05/05(月) 00:14:35ID:V2M/UYOcで「ヒデーやす」だったみたいだねえ。
0411人間七七四年
2008/05/11(日) 11:57:04ID:5i5ThFuT八幡掘もすごいものです。そのことは、蒲生家もいっています。近江八幡には、
おおきな銅像もあります。黒田官ベイも素晴らしいと言っています。
後世で作られた虚像に憤りは隠せません。
0412人間七七四年
2008/08/14(木) 00:34:09ID:0HapvOPp0413人間七七四年
2008/08/21(木) 07:24:02ID:f6hTsHWJ妻妾(有力者の子女が殆ど)皆殺しの現場に立ち会ってる人が、
「実は僕秀次擁護派です」って言っても信用はされん罠。
子女を殺された有力者達や、秀次と仲が良かった有力者や、秀次に金を借り睨まれた有力者は、
みんなアンチ三成派となって家康とつるんでしまった。
結果論だが余りにも豊臣家にとって痛かったわな。
0414人間七七四年
2008/08/21(木) 11:51:54ID:noARoO42小瀬甫奄の太閤記にはそう記されているが、そのネタ本の大田牛一の
大かうさまぐんきのうちじゃ書かれてないとかどっかのスレで見たが
まあ現物をどっちも確認してないのでわからんけど
0415人間七七四年
2008/08/24(日) 10:44:58ID:B9t2JU0x0417人間七七四年
2008/09/04(木) 02:38:37ID:BsIOqD/Oで家康とかもははー関白殿下とか言って頭下げてたの?
0419人間七七四年
2008/09/04(木) 19:11:49ID:vyirOCKO殿上人なんだから話し方にもそれなりのルールが有る
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