島津家の大河ドラマ化を希望する!
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0814人間七七四年
2010/10/18(月) 23:03:08ID:mUwloqtKなぜなら昔から今に至るまで際立って貧困でなんら評価されるものがないためである。
ゆえに薩摩は自立できず、シナからの略奪だけが生活方法であった。
大型船を持つ者達は年間の大半をシナの海岸地帯での略奪行為で過ごし戦死し
小船しかない者は略奪へ行く過程でしばしば遭難した。
このように薩摩の者は絶望的飢餓の輪廻の中で、おびただしい仏僧や陰陽師を崇め、
その僧侶たちは国内の上下の階層の者たちを迷信の数々で洗脳し
思いのままに操り、戦争で勝つのは僧侶達が行う
儀式における永遠に続けられる犠牲のおかげだとして
国主は彼等から捧げられる膨大な犠牲に囲まれ生活していた。
秀吉の遠征の話も彼らは「わざわざ日本の果てにくるなんてウソだ。
それに来たところで武術に優れた薩摩100人で1000人討つのは容易だ」とした。
臼杵の海上の城には兵がまるでいなかった。敵は早くも200の兵が臼杵にやってきた。
やむなく柴田リイノが息子と家臣数名で敵を粉砕し後退させた。
しかし島津軍は密かに民家に隠れて裏に回り、背後から矢を放ち槍で突き親子を卑怯な手段で殺し、
槍先に首を突き刺して城の前で 民衆に向かい主将の首を取った降伏せよと喚いた。
敵の隠れ家になっていると知り宗麟は民家を焼き尽くした。
薩摩軍が通過したところを焼き討ち、打ち壊し蹂躙して歩いたので
その後は満足なものは何一つないありさまであった。少しでも抵抗するものは即殺され、
何より痛ましく暗澹たるのは 薩摩軍がはなはだ恐ろしい数の婦人・少年・少女たちを拉致して歩く姿が
目撃されたからである。薩摩軍は異常な嗜虐性で残虐行為をしていたのを最大の悲嘆に思われた。
薩摩軍が野津に到着するや名声をもって薩摩でも知られた柴田シモンに降伏を迫った。
拒否するや、その地の農夫に尋問しシモンが隠した家族が深い山の奥にいると知った。
シモンは息子や孫や婦女子がすべて薩摩に捕縛されたと知ると、彼らの屈辱を思い降伏した。
すると薩摩軍は非道にもシモンを即座に殺してしまった。
南郡地方では栗ヶ畑という場所に薩摩軍がやってきた。そこの領主は府内で義統に仕えていた。
薩摩軍は彼の妻・息子の嫁・その他すべてを略奪した。領主と共に義統の元にいた家臣達は
妻ら家族が捕虜にされたと聞くや、主君・領主を棄てて全員が薩摩軍に降伏した。
ペトロの息子で23歳のジョアンはその拉致現場に居合わせ自分の母や妻が連行されるのを見て
僧侶が指揮する400の薩摩軍を襲撃できるか苦悩すつつ様子を窺った。
そしてこの指揮官が1人の時を狙って襲撃し、左手で首を押さえ、右手で短刀を胸に突き付け
「お前が私の家族を卑怯不正な行いで拉致したのを見て気が狂いそうだ。さぁ彼らを解放しろ。
拒否するならお前を殺して自分も死ぬであろう」「せっかく手に入れた獲物を諦めることはできない」
若者は指揮官をさらに脅したので、指揮官は部下を呼び家族を解放した。
このジョアンの叔父にパウロという者がいた。彼は非常に険しい山の屋敷があり、
そこに避難民が保護を求めて集まってきた。薩摩軍が家の戸口の前に来るや
「のちのち薩摩の軍がそなたの家で乱暴を働かないように、
そなたが薩摩に属してると言う証文を書いて進ぜるので開けて欲しい」
と欺くための大ウソを申し出た。しかしパウロは抜刀して瞬間的に3名を切り戸口を閉めた。
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