信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:53:21ID:UOER+anH永禄8年の本庄謀反に関連した山内某の画策(黒幕は信玄)だろ。
>>78の脈絡の支離滅裂が問題なわけであってwww
謙信が手取川で織田勢を大敗させた時に、葦名盛氏は祝いの書状を贈ってるわけで、
織田との同盟破綻も友好関係にあった葦名の了解のもとに、北陸に出兵できたというのが史実。
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 01:25:15ID:UOER+anH葦名勢の越後菅名荘侵犯は永禄10年だった(信玄の画策)。
本庄の謀反は永禄11年で、葦名盛氏・伊達輝宗らの仲介(使者は後藤勝元)で赦免。
同じ年に、徳川家康が上杉謙信に使者を派遣。こんな流れか。
0092信長ヲタの編集
2006/09/18(月) 02:12:46ID:pdoQ8WBaこうして比較すれば、信長は信玄ほどの軍事指揮能力(軍を率いて戦う能力)は無かったが、信玄には信長ほどの戦略的視点(リスク計算と回避)は無かったことが分かる。
そして、天下取りには何が重要であるかもまた、信玄が一戦国大名で終わったことを考えれば、天下人としての資格があったかどうかは一目瞭然とも言える。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 14:34:55ID:Ko4UO/aO謙信と比べるならともかく、軍事能力なら信長は信玄より上のような
気がするけど。信玄は優秀な民政家だけど、外交、軍事は正直そこま
で(一般的なイメージほどには)すごくない。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 19:02:37ID:YBPKid7J信玄が優秀な民政家?
金山を掘り尽くし信虎以上の重税を課した男のどこが優秀な民政家か!
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 21:30:27ID:VcJCv18L釣れますか?
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/21(木) 22:39:51ID:j/Ul5eaxヒント:信玄堤
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 08:15:46ID:yMEA61Dh0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 14:22:58ID:DYCkthmOむしろ領民しごいて造ったんじゃないのか?
0099長尾景春の乱 ◆x5bxUqaMm.
2006/09/22(金) 14:49:51ID:POllXgID0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 00:30:14ID:7JYxARWw信玄を評するには不適切。優れた政治家ではあったろうけど。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 01:07:56ID:9QNMog+C守護や守護代、或いは国人のように地縁があるわけでもなく、
道三の様にそれらを乗っ取ったわけでもなく、完全なアウェー。
支配の正統性を主張するには、領民の支持だけが頼り。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 01:48:06ID:7FaEVRtmボコボコにして甲斐に追い返した
長 野 最 強 !
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 17:26:10ID:AVPDN2PF0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 19:07:32ID:p3kKMBAC【偉大なる信玄の弟達】
武田信繁・・・信玄の采配ミスで討ち死に。
武田信友・・・織田信長によって処刑される。
武田信廉・・・戦わずして城を捨てて逃げるが織田信長に捕まり処刑される。
一条信龍・・・上野で徳川軍に大敗。捕らえられて親子共々処刑される。
武田信実・・・長篠の戦いで松平伊忠に討ち取られる。
松尾信是・・・目立った功績もなく病死
【高貴なる息子達】
武田義信・・・嫡男。謀反が発覚。東光寺に幽閉され殺害される
海野信親・・・二男。生まれつきの盲目で僧となる。勝頼と供に自害
武田信之・・・三男。生まれつきの病弱で十歳の若さで病死
武田勝頼・・・四男。長篠の戦いで優秀な重臣達を皆殺しにさせ、十倍もの軍を擁しまがら鳥居峠で
寡兵の木曾義昌に大敗。織田の本格的進行からたった二ヶ月で武田家を滅亡へ追いやる
仁科盛信・・・五男。名城高遠城を信忠に1日で陥落され自害
葛山信貞・・・六男。織田信長によって善光寺で処刑される
武田信清・・・七男。武田家滅亡後、景勝側室甲斐御前を頼って落ちのび上杉家の家臣となる
【誠実なる一門衆】
木曽義昌・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を破り武田家を滅亡へと追いやる
穴山信君・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を見捨て降伏。
勝沼信元・・・従兄弟。謀反の疑いで処刑
【優秀なる武田一族】
武田信勝・・・武田勝頼の嫡男。天目山で討ち取られる。
一条信就・・・一条信龍の嫡男。上野で徳川軍に大敗。親父と供に処刑
武田信俊・・・武田信実の子。滅亡後も生き残り1600石の旗本となる
武田信堯・・・武田信友の子。信長によって処刑
望月信頼・・・武田信繁の長男。目立った功績もなく地味に死亡
武田信豊・・・武田信繁の二男。部下の下曾根覚雲斎に裏切られ死亡
望月信永・・・武田信繁の三男。長篠で無残に討ち死に
武田信道・・・海野信親の子。滅亡時に出家。命だけは助かる
信長>>>>>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>武田一族w
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/24(日) 08:21:47ID:NCObpvRx0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/25(月) 22:34:30ID:BbGjWd30信玄厨か
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 00:57:44ID:KCHLzbdc信長や秀吉それと年を取ってからの家康には明らかに負ける
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 01:22:50ID:GIaahdRi信長を止められるギリギリのタイミングで決起。戦略的大局観を感じさせる。
足をひっぱった上杉や北条はアフォ。
周辺のアホどもを敵に回しても押し捲り、駿河・遠江を征服。家康を脱糞させる。
戦術においても超優秀。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 01:26:10ID:Sida16Iv不快になる
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 14:10:44ID:4FoEcHEP0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 14:18:37ID:MiWVd3dnどうかな
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 14:51:30ID:OB8x0tf+0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 20:44:02ID:Oiqv7/qC0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:17:58ID:SGYqQsVy俺は
秀吉>元就≧家康>>長慶>>元親≧政宗>氏康≧信玄>謙信
元就≧家康は悩んだが秀吉死後の時代に元就が生きていて(年齢はつっこまないでくれ)家康いなければ
家康と同じことができたんじゃないかと思うから
まぁ、こんな仮定は無意味っちゃあ無意味だけどなw
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:24:45ID:dfQeZkZJ特に元親は。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:32:24ID:jg6X96sp特に慶長後期から元和期の政宗は野心も見え隠れした上、
西洋人の目から見ても家康に次ぐ、大実力者だった。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:56:46ID:wiLv4ldh元就は良くも悪くも家康よりエグい事しそうだがな
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:01:10ID:dfQeZkZJそりゃその時には上の中では家康と政宗しかいないしな。
政宗が実力者なのはわかるが、面子を見ようぜ。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:03:13ID:SGYqQsVy0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:43:36ID:dfQeZkZJ0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 08:53:23ID:sxWINaTX0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 14:06:15ID:zYhOVBKjワラタ
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 16:42:10ID:XFlm69s5最終的に土佐10万石程度の大名
最大時でも四国の大部分で80万石ほど
そりゃ土佐の1/3から四国の大半を制したのは凄いが
日の出の勢いの織田豊臣に逆らった時勢の読めなさは拙過ぎる。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 16:57:24ID:SGYqQsVyあの場合は仕方ないんじゃないか?
多年苦労して切り取った領土を返還しろという要求をあっさり受け入れるのは無理じゃないか?
元親が信長に対抗したときは毛利と連合できたし
秀吉に対抗したときは家康・雑賀と同盟してたから島津・北条に比べればまだましと言えると思う
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:07:23ID:LtXgsVq0まあ、敵対しか方針が無いだろうさ
だって、領地の為に、信長にも対抗しようとしていたんだから
でも結局、秀長にやられたね……
せめて秀吉だったら、仕方がないともいえるけれど
弟のほうじゃ、大名として見劣りがする
決して、弟が弱小というわけじゃないけどね
0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:40:36ID:zYhOVBKj0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:17:00ID:SGYqQsVyあぁ、そう考えると秀長にやられたのはマイナスだなぁ
四国征伐軍は十一万と号する大軍で対する長宗我部勢は二〜三万
負けても仕方ないといえばそれまでだけどね
ただ信玄、謙信の面々が元親と同じ状況で秀長の豊臣勢を撃退できたかというと無理だと思うんだよね
俺は信玄、謙信を引き合いに出してるけど彼らが無能とはいうつもりないし
やっぱり名将といわれるに値する人物だと思うが三好といい長宗我部といい知名度低い武将は損だよな
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:15:58ID:dfQeZkZJ負けるのが早すぎた、四国征伐に関しては本来秀吉も出向くはずだったのに、
病欠してるあいだに秀長に捻られてしまった。
元親は名将だとは思うが知名度が低いだけじゃなくて、その程度の大名と言うのが現実。
三好長慶と一緒に並べるなんていくらなんでも過大評価が過ぎる。
島津・北条に比べて半分にも満たない領土で張り合おうと言うのがそもそも間違い。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:37:26ID:JhNXxdAM秀吉に対抗した時はまだわからんでもないが、信長に対抗した時の判断は明らかに
マイナス評価の対象だと思う。
「長年苦労して得た領土を〜」という感情は当然のもの。そして信長の要求が理不尽
だということも事実。しかし「拒否してそれでどうするのか?」という点を考えると
大名として仕方ないでは済まされない。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:43:24ID:zOwc6ytOどう見ても下だろ
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:50:20ID:R/HrZqjX0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 22:40:42ID:oQZoWFZz天下人の家康に勝ったから信玄最強!!!!!!!!!
少年時代の孫悟空を後一歩のとこまで追い詰めたヤムチャ様最強!!!!!!!!!!!!
どこか似ているな
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 06:29:12ID:wXT3iJ4d歴史的な業績など考えるとさすがに長慶が上じゃないか?
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 10:47:34ID:Ndg9KSza0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 12:56:51ID:n/QLvmE2江戸幕府の基礎となったほどの制度を作った氏康が上
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:07:23ID:vwMP9EHi政治面は互角だろ。
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:30:43ID:QaLb/aXV0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 15:43:38ID:ZOpO7JAe上杉謙信は自国の領土は拡大しなかったが、おそらく晩年は信長を打つには関東平定してからと思っただろう
彼は大儀を重んじる
関東管領の大儀から北条氏を打つのが先だ
謙信健在であれば本願寺も朝倉も従っただろう
ただ、謙信は野戦の名手で城攻めは不明だ
10万の大軍でも迎え撃つ奇策を放つ
ただ、織田信長もアイディアマンだった
織田信長は桶狭間で偶然勝利したが、あとは自軍が数が勝る戦い以外はさっさと引き上げる
武士の信念のようなものは無かった
何しろ勝てばいい、勝てそうもなければ朝廷をつかってでも一時的に和睦する
武田信玄は信長に姻戚関係をもたれ、煽てられて遅れを取った
3年喪に服せと遺言したと伝えられるが、これが武田氏滅びの要因ではないか
その間に浅井朝倉が滅ぼされては勢力の均衡は崩れ去った
勝頼が立ち上がったときはすでに武田120万石、織田250万石の差でさらに京、堺の都市を押さえていた
徳川家康は憧れの武田信玄に多くを学んでいる
一番運が良かったのは家康ではないだろうか?
秀吉政権のときにナンバー2になるほどになったが
そもそも三河遠州など60万石どまりの大名だ
上杉、毛利などよりずっと格下も格下
秀吉は気前がよすぎた
だから秀頼の時代は大阪城と黄金だけ
もし、秀吉が朝鮮出兵をしていなかったら、徳川幕府はなかっただろう
秀吉の家臣団が家康にはつかなかっただろう
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:21:15ID:QaLb/aXV0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:34:32ID:yMUGyGdg家臣や一門の掌握術や合戦じゃ氏康の圧勝だな
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:41:53ID:Y84I06K3あとは自軍が数が勝る戦い以外はさっさと引き上げる
これは信長の長所だろ
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 17:39:29ID:wXT3iJ4d長慶は合戦も相当上手いよ?
確かに君のいうとおり家臣の掌握は甘かったかもしれんがそれも最晩年の話
一門の掌握は甘かったっけ?
0143名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 17:46:37ID:LCrAbw4E晩年に有能な身内がボロボロ死んで
(´・ω・)カワイソス
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 18:20:37ID:Ndg9KSza地盤がしっかりしてた氏綱から引き継いだ氏康より
親父が死んで、
淡路守護の部下だったのに讃岐阿波を切り取って京まで押さえた長慶の方が凄い
0145名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 22:18:39ID:QASIHumu0146名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 04:49:50ID:i07NiDFs氏綱公は名君だが猛将で、北条5代の中でもっとも敵を増やした大名といっても過言じゃない。
必然だったからとは言え、早雲以来の敵に加えて今川やら里見やら公方やら
関東中から敵視され収拾がつかないまま死んでしまった。
同じく父が死んだ時に、長慶は敵に許されて配下に入って後に中から崩したが、
氏康は逆にチャンスとばかりに関東中の敵が攻め寄せてきていきなり撃退しなければいけなくなった。
それを河越夜戦で蹴散らしてしまう事で一気に名前が知れるようになった。
もともとタイプが違うと思われ、長慶は合戦も凄いとは思うが、そっちはやはり
氏康の方が知名度的にも上では無いか?河越合戦、国府台合戦、小田原篭城戦×2
に匹敵する大合戦自体無いだろう。策謀では凄いと思うけど。
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 05:12:02ID:c6eYrqUE芥川山城攻囲、丹波攻め播磨攻め
1558年の足利六角細川連合との合戦
河内攻めから久米田の戦いから飯盛篭城と繋がっていく畠山との抗争
北条の戦いも古河公方や関東管領を巻き込んだ関東の政治において
影響力の大きい戦いだが
三好の戦いも管領公方を巻き込んで畿内一帯に大きな影響を与えた戦いばかりで
合戦の規模でも決して劣るとは思えない
両者の差は後世への知名度じゃないか?
0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:32:48ID:XxI8rwes0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:40:10ID:i07NiDFsこの両者の主要合戦は動員兵力数で大きな差があるよ。
割と有名な江口合戦とかでさえ動員兵力数は3000程度同士の合戦だったはず。
一方で関東では太田道灌などがいち早く気の荒い坂東武者を従えて足軽部隊を編成していたりした分、
兵力の動員数は多く、河越夜戦のような数字は眉唾にしても、
どれも万以上での単位の合戦を可能にしている。2〜3000程度のぶつかり合いなら
謙信・信玄・里見・佐竹・今川相手にそれこそ数え切れないほどぶつかり合ってるよ。
信長の勢力が介入してくるまでは、京付近は経済力はあっても、
動員力では広大な土地を持つ地方大名には敵わない。
それがそのまま合戦の規模に繋がってる。
経済力が兵数の動員力に直結するには長慶の時代ではまだまだ経済観念が未熟すぎるよ
だけど、もちろん政権中央を操作した能力は半端では無いし、
それは氏康とはあまりに異質な世界で発揮した実力と言える。
だからタイプが違うと言う事。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:55:46ID:IDrvvKeQ経済力があれば傭兵や装備整えられるし、さらに堺を使って補強したのは信長と一緒
経済観念が未熟とは言えないな
つか、0近くから100万石以上の大大名になる方が難易度高いだろ
0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 07:55:58ID:KoOUTp7H江口合戦の兵力は六角や細川の軍を合わせれば2万近くあったはず。
その軍が戦場に到着する前に長慶が手を打ったから3000程の合戦で終わったわけで。
あと確かに長慶方は3000程度だったがまだこの時は丁度主家に謀反した時期なので仕方ないだろう。
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 11:06:22ID:i07NiDFs経済観念が未熟と言うのは時代の話をしてるんであって、
長慶の能力の話をしてるんでは無いので勘違いをしないように。
いくら傭兵を雇うといっても、兵站の概念が弱いこの時期では、
単純に土地から出てきて戦う兵の動員力にはまだまだ敵わない、
それを越えられるほど世間の経済観念は育っていない。
難易度の話もした覚えは無い。ただいわゆる合戦の能力で言うならってだけの事。
全体的な優劣の話などしていないし、これだけでは比べようが無い。
それと細川晴元の配下だったんだから0から〜云々は無意味。
それなら元就や秀吉は信長よりも上に来るけど、それで良いのか?と言う話。
その辺の基準はわからんので比べようが無い。
>>151
仕方ないだろうとかそういう話をしてるんじゃなくて、
そういう合戦がメインだから大規模合戦をメインで行ってる氏康の方が
合戦だけなら上だろう?と言う話。ぶつかっていない細川や六角など敵を合わせても
2万に届くかと言う合戦をしていた長慶と、
国府台合戦だけでも2万以上同士の合戦、小田原篭城戦に至っては3万〜5万の兵力と
総力戦で死闘を演じてる氏康とは規模が違うと言うのはもうわかるはず。
だからタイプが違うといってるの。全体的な優劣の話などまだしていない。
0153名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 16:22:58ID:81eIqCK7江口合戦で六角とは対決してる。
江口三宅城に到着する前に先に六角の先鋒を足止めしているということ。
それで兵糧を断って士気の落ちた三宅城を総攻撃ってわけ。
ちなみに細川晴元も三宅城に篭城しており弟の一存が討ち取りを方策していたが、
長慶がそれを認めなかっただけで一戦交えず晴元は丹波に退却。
だから実際の江口合戦は3000同士ではなく、
三好長慶軍約3000対三好政長・細川晴元・六角義賢連合軍約20000
ほどの戦いってこと。
あと六角軍とは先鋒と戦っただけなので実際の軍勢はもっと多かった。
だから畿内の合戦が規模が千単位がメインというのはそちらの思い込み。
まあ関東よりは多少は劣るだろうがそちらが思うほどの差はないだろう。
0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:00:58ID:XxI8rwes0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:14:11ID:2XhysEdb結果って何だよ?
0156名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 22:23:14ID:XxI8rwes0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:29:45ID:eu0BhQAS160万石近くまでいった大大名
信玄よりも氏康こそ謙信がいなければと妄想したくなる。
長慶は0からスタートと言うべきか、それとも阿波の一部からか
最終的には山城大和摂津河内和泉阿波讃岐淡路丹波の205万石に加え
伊予の一部に東播磨も
正に大大名
最もその支配体制は微妙な上寺社領も多いし、国人は半独立状態だが。
0158名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:47:15ID:XRp6H/h5【プロレス】元格闘家・前田日明、所蔵の信長ゆかりの名刀三本、信長記念館(愛知)に寄付!(中日新聞)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/river/1157730651/l50
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:03:29ID:0C5ih7/F結果で言うなら、
親の残した敵を一掃し安定させた上で広大な領土を残し、
結束された一族を氏政に遺し、氏政が更に領土を拡げる事ができたのと、
部下が暗躍する中で自分も惑わされて弟までその手にかけてしまって、
気がつけば一族バラバラ、失意のままにこの世を去って、
結局そのまま三好家ごと急速に衰えてしまったのは
大きく結果に違いがあると思う。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:17:21ID:6++0XvU/0161名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:28:40ID:lf+sPCTg0162名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:17:58ID:0C5ih7/Fで終了。
0163名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:19:04ID:pWSSjaQh0164名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 11:59:16ID:6++0XvU/0165名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:24:28ID:ahhMGlG9むしろ逆な印象になった。
イメージでは石高で判断して三好が凄いと思ってたけど。
どんな支配体制を築いたかってのも大事だな。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:07:49ID:6++0XvU/特に上洛したあたりとか
0167名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:29:06ID:0C5ih7/F大規模合戦能力
氏康>長慶
領土拡張及び被官からの出世能力
氏康<長慶
支配体系
氏康>長慶
朝廷など中央への影響力
氏康<長慶
ただそもそも後北条家は初代早雲の時代から
朝廷やら上洛やらから決別した家なだけに、最後の部分は
氏康の評価をする意味があるのかどうか謎だけど。
0168名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:28:13ID:RwgXurZdこれは不公平だろ
中央への影響力は謙信のことを考えると氏康にもありそうだが
0169名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:55:32ID:6++0XvU/氏綱が朝廷に大量の献金してるしそんなに中央は軽視してないだろ
氏康とスレタイの信玄はどっちが凄いんだ?
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:01:02ID:pmfEyQAiこれを比べるのはどうかと思うぞ。
氏康は誰かの家臣であったことはないんだから、そもそも比べようがない。
宇喜多直家や毛利元就などと比べるのならばともかく。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:35:31ID:ahhMGlG9あえて優劣つけるとどうだろう?
俺は能力とは別で氏康が上手な印象がある。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 18:06:19ID:0C5ih7/F実際、家康が最強でもそれは一つの答えでは?
んな事言ったら氏康も長慶も恵まれた部分はあるわけでキリが無い。
もっともそれでも秀吉の方が上だと思うけど。
0173名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 19:55:58ID:6vTe8v55合戦規模での優劣など無理やり長慶と差をつけたいだけにしか思えない
0174名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 20:52:14ID:jSm/vD+A>支配体系
これは親からの制度も多少絡んでくると思う
それでも氏康>長慶と思うが。
0175名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 22:01:58ID:PoCULh4l大和、丹波以外の所領は一族で固め、国人の制御は幕府と和睦し解決
結果論を重視しすぎでは?
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:04:55ID:iK2IuXwe嫡男病死に弟病死戦死と気力も尽きるだろ。
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 02:22:58ID:zoYhcXtiそれは都合がよすぎる。
信長のように万全の体制を強いていながら、予想外の人物の裏切りで命を落としたのならともかく、
結果と言っても死後だけじゃなくて、存命中に、じわじわと
ボロボロになっていった以上、単なる結果論とは言えない。
京付近に生まれる運も実力なら、一族が死んでいく運も実力。
結果にこだわるのは石高にこだわるのと意味として同じ。
>>176
運が悪いだけじゃなくて、松永久秀の影がちらついてるのも多くあるだろう。
そもそも精神を病んでしまった最大の原因は、安宅冬康を自分で殺してしまった事が原因。
騙されますた、じゃ済まされんよ。
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 03:05:47ID:52pve3zc何か勘違いしてるようだが
確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
それだけではあれほど勢力は衰えていない
衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
これは幕府保守派である長慶の死が原因
一族の死が直接的な衰退要因ではない以上結果論とも言える
つまり便乗させすぎ
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 05:20:53ID:edEOfQ3y冬康を殺した頃にはもうボロボロじゃなかった?
長慶が終わったのは嫡男の死以後だと思うよ
0180名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:02:00ID:zoYhcXti支配体制の下降は認めるというなら
それでいいよ、十分それでも氏康より下と言える。
しかし、それはそれとして
将軍殺さなければ三好家は生き残ったに違いないとでも言いたげだけど、本当にそうか?
>>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
具体的に敵になったのはどこ?
>>179
一応精神を病んだとされるのは、冬康を殺した直後。
もっとも嫡男の死で参ったかもしれんけど、それだけで終わるような人物ならその程度とも言える。
長宗我部元親もそうだったが、四国の風土か?
0181名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:50:08ID:X1lKOFN7>支配体制の下降は認めるというなら
だからこれが結果論での出来事
結果論で認めたければどうぞ氏康のが上と胸張ってください
>具体的に敵になったのはどこ?
信長
義昭も暗殺に成功していればそれで済んだんだがね
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:18:03ID:zoYhcXti>>確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
自分で言ってるじゃん、コレで十分よって事。
まぁそれはどうでもいいや、それよりも興味深いのは
つまり義輝を殺さなければ信長は攻めてこなかったと言う事?
この辺の細かい位置関係はあまり詳しくないので、もちっと細かく聴いて見たい。
0183名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:38:09ID:l8jVFAxxあとは分かるでしょう
0184名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:47:46ID:zoYhcXtiそもそも義輝が生きてれば信長が来なかったと言う事について聞いて見たい、
どっちみち信長は京を目指して来たと思うんだが、そうではないなんか理由があるのかな?と思って。
0185名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:38:37ID:Q+wlFlXI0186名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 11:03:28ID:l8jVFAxx信長は上洛を目指してただろうが
仮に三人衆と久秀が義輝を暗殺せずに恭順の意思を伝えておけば
信長の上洛は大義名分がないのでスムーズにはいかない
要するに時間稼ぎってこと
そろそろ終わりにしない?
0187名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 20:42:42ID:bdfkCMK1>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
>これは幕府保守派である長慶の死が原因
増えたか?
暗殺後信長の上洛までやっていたのは内輪もめぐらいじゃ
>>186
精々数年なんじゃ
信長は先に北畠を攻めるかもしれないがその後は攻める所無いから六角攻めて上洛となるんじゃ
大して変わらないでしょ
信長の方が優勢と見れば将軍も朝廷もあっさり信長に乗りかえるんじゃ
0188名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:30:21ID:Or4e93Ql丹波は反三好勢力の多い地域だったので将軍暗殺により国人たちの反骨を余計に高め
久秀の弟である長頼は国人の襲撃により戦死
これにより丹波は完全に勢力から消えるということになる
三人衆は上之芝の合戦で久秀を破っており
信長の上洛が遅れれば久秀も三人衆に潰された可能性も考えられ
その数年で体制の立て直しは可能と思われる
もしこの仮定で信長に負けても石高はほぼ互角なので三人衆の器量の問題ということ
勘違いしてほしくないので言うけど
将軍を殺さなければあそこまで衰退しなかったとは言ったが
将軍を殺さなければ三好家は滅亡しないとは言ってないので
それを思考にいれていただきたい
0189名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:48:07ID:zZUc8KoI■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています