>>356
本願寺の兵は大敗して大損害をだした直後であること
天王寺合戦には不参加だった攝津一職支配の荒木が参陣していること
包囲の構築に一ヶ月はかけていること

天王寺参加の兵だけで包囲を作ったのではないですよ。もともと急なこと
で動員が間に合わなかったので少数で出撃したのであって、合戦に間に
合わなかった兵力が後から合流したと考えるのも不自然ではないでしょう。

ところで、このままではお互い推測をぶつけ合うこのに終始しそうなんで
やめておきませんか?こちらも、天王寺の織田軍の兵力が、砦の兵と合流
してそれなりになったことは否定してませんから。ただその兵が、砦だけ
で七千となるとそりゃ多すぎだろうと思います。
(砦の兵は明智と佐久間信栄。明智の領土は当時近江と山城の一部で、しかも
一部兵力は丹波の押さえに残している。佐久間も当時はまだ近江と尾張の一部
で、信栄が全てを率いていたわけでもない。)

また話を戻せば、少数の信長軍が多数の鉄砲で武装された万の軍勢に突撃して
破ったことは事実で、本願寺軍を過少評価することも信長を過少評価する必要
もない。
少なくとも天王寺合戦をもって、スレタイのように「信長より信玄の方が名将」
とはまったく結論づけられませんから。