>>352
ある程度周囲の日和見勢力が動いて5千に達するほどの軍勢を構成したなら
まったく情報がないのはおかしいだろう。それだけの動きについての情報を
大田は何も持っていなかったのか?そっちのほうが不自然だ。

自然だ、というがそれならなんでその兵力が到着した事などについての記述が
一つもないんだ?それが不自然だとは思わないわけで?
つーか2700討ち取った、の後ですぐさま付け城10仰せ付けらる、
となってなかったか?
大体後軍が到着したにしては付け城にこめられた面子が
信長についてきた佐久間や松永だし。

後年まとめられたものでも現場で見て1万5千だったならわざわざ間違っていた情報を
書く必要はない。最初から1万5千で書けばいい。

武田の史料って甲陽軍鑑?この板でずたぼろな評価のそれを持ち出してくるとは意外。
三河物語の2万は多すぎだろう。もともと三河物語は癖が強い史料だし。
当代記の1万は長篠城に付いてた数を入れれば実数に近いか?まあ、一万には
達しなかったとは思うけど。どっちにしろその長篠城についてた連中は酒井の奇襲で
壊滅しちゃったけどな。