信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 11:16:54ID:jwYmO3vn何気に秀長はかなり戦上手だと思うよ。
但馬攻めも四国攻めも九州攻めも圧勝して完全に相手の戦意を挫いた。
九州では義弘の伏兵を見破って裏をかいたんだよな。
大軍が小兵や要害に手こずったり大敗するのはよくある話。
実際、九州攻めも秀吉側はけっこう苦戦してるし前年の義統は大敗。
大軍であっても無難に勝ちを重ねるのはとても難しいこと。
>>212
万が一にも勝てる可能性があれば戦うのが戦国大名。
弱小勢力はそうやって勢力を拡大していく。
島津も北条も勝ち目の薄い戦いで勝って大きくなった。最後に負けたがw
毛利のように折れる手もあるが、あそこで戦ったからといってマイナスにはならない。
ピンチはチャンスってよく言うでしょ。
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:06:53ID:rNRgrYWaそして外交がヘタというのが、大名としてダメだといっているのでがって、軍事
がどうこうではない。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 22:09:20ID:m9YioEGFぐらいしとけば四国の半分は長宗我部領だったろうしねえ。
そうすれば九州攻めで先鋒に出されて嫡男討ち死にも多分なかっただろう
に(基本的に先鋒は譜代+新占領地軍)。
0216名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 22:58:47ID:YyZyHq8d老衰って病なわけ?
0217名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 01:03:35ID:prVrAEiRなんていうか自分を客観視することが下手な大名だと思うよ。
プライドをかけて戦うのはいいし、勝ち目の薄い戦いも良い、
それだけで外交力の無さとは言わない。
ただその戦いまでに行っておく外交と言うものが存在するわけで、
その点で北条家なんかは出来得る限りの対抗策は外交面でも行ってるわけで、
それでも勝てなかった時勢の流れはどうしようもないが、
それでもプライドにかけて戦うと言うのならわかる。
だが元親はその前に出来る事があったと思うんだよ、
信長の時点でもそうだし、明智、柴田、徳川と再三チャンスもあったし、
羽柴に対しても外交上の関係を作るチャンスはあった。
しかしどちらも中途半端、そうしてるうちに結局後ろ盾も無く真っ向勝負する羽目になった、
これが頂けない。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 16:24:00ID:1ROV4T/8信玄は確かに名将だ、お家第一の戦国大名としては。
ちっとも不敗じゃないけどな。あと、外交もいまいちだし、戦略もあれだし、小さな城も落とせないし、
織田と戦う大きすぎる決断をしときながら病に倒れるてるし。
いや、こう書くとひどい大名のようだが、まあそれでも名将ではあるよ、普通の戦国大名として。
で、信長は普通じゃない。
悪いけど、信長と信玄なんて比べるまでもなく信長のがすさまじいよ。
名将と英雄は違う。英雄、という言い方はすかないけど。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 19:00:56ID:Xehlu2xb0220名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 09:34:52ID:Mr6i6l3I彼には何か持って生まれたものが違うよ。
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 10:41:24ID:QjEqpdZK俺も信玄は、名将の中の名将だとおもう。
名立たる甲斐の武将達から高い忠誠を集め、家臣団の結束も固い。
どんなに織田家の所領が大きくなっても、信玄だけは侮れる相手ではない。
実際に信長も信玄を終生侮ることはなかった、と言われているし。
史実的にも軽挙は一切していない。やはり信玄強き男よ。
でも、信長がすごすぎた。例えば浅井長政の謀叛で、九死に一生を得た金ケ崎の撤退戦で、
あろう事か京に逃げ帰って、本拠地に戻らず、そのまま態勢を立て直して、すぐさま取って返す男でっせ。
信玄は信長の話を聞くたび、内心に、焦りを感じていたのではないかなー。
無論、家臣が動揺するので、普段は平静を装っていたけど、心中穏やかだったとは
到底、思えないのである。
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 11:07:23ID:SMU9MjK6ホントに名将なら武田滅亡の原因を全て作って死ぬことなんてありません
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 11:25:32ID:+1ncjQ+7なにがどうあっても他人の下にはつけない名将ってのもアリだろ。
一大名、一武家としてはどうかと思うが。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 12:18:55ID:SMU9MjK6いや、そういうことじゃなくて 勿論信長を敵に回すというバカなことをしたのも滅亡の原因だが
武田義信殺したのに関しては一切擁護できないだろう あれはあまりにもバカすぎる
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:31:31ID:RZnd+kNE当時の他大名の中にもそれなりに例はある(隣の徳川とか)。
対立して修復不可となったら、最終手段としてはアリと思う。
信玄には他にも息子もちゃんといたし。
その後の権限委譲がスムーズに言ってないのが問題。
あ、信玄の外交の評価は別問題ね。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:18:48ID:rgffYqiGそれに家康の息子の秀忠みたいな頭のいい優秀な子がいないわけだし信玄の息子には
まぁその可能性があった義信を殺して頭の悪い勝頼を溺愛してたんだよな
嫡男を溺愛しないでアンポンタンを溺愛したから不満を抱いて謀反したんじゃねーの?
やっぱ信玄は糞
0227名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:20:39ID:rgffYqiG何自分の都合よく同盟破棄しまくってんだよ
氏康にも見放された信玄糞
0228名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 19:07:58ID:zh9WPnYK0229名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 21:10:33ID:SCv3Hc3dそりゃ勝頼が有能であってもその才能もちょっくら程度じゃ無理なもんは無理
信玄は秦の始皇帝と同じ
実力と業績は天地程の差はあるが
0230名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 22:23:36ID:6WGQ2Bev信玄が優秀であることをアピールする際に、彼の死後武田が瓦解した理由付けとして
凡将であるというレッテル付けをさせられた。
もちろん信長クラスの名将であったとはお世辞にも言えないが
0231名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 22:30:23ID:4gzRLGjC次元が違う。
信長がいなかったら、日本も特定アジアのような国に成ってただろう… あぁ恐ろしや
0232名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 00:20:53ID:NLgnI8M6勝頼は十分アフォだろ
0233名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 18:43:09ID:pScNy4aP信玄よりかはマシ
0234名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 23:06:23ID:tQ2bJ3i20235名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 01:52:28ID:Hp32BwVZ今川攻めだって、海と金山がほしかったわけで、仕方なしに、北条とのどうめいを切ったわけで。
あと、兵農分離ってのができてなかったのが痛いかと・・
跡継ぎに関しては正式には勝頼ではなく、勝頼の子供の信勝が世継ぎとして指名されてたような・・
0236名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 15:09:26ID:pL09aeqX兵農分離神話もいい加減にして欲しいものだ。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 17:48:55ID:tzyB7LGp長い間作られてこなかった。
0238名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 02:26:27ID:jFcDSng3だが日本の歴史は天皇家や独立権を持った地方勢力の記録などがある分、
かなりしっかりしてる方ではある。
0239名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 18:11:06ID:6WPSxryU信長と比べる自体おごましい
0240名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 19:33:31ID:JQfqT7m/0241名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 20:42:50ID:l2/QFl8T才幹面では実際の所やはりイメージ先行
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2007/02/06(火) 21:10:33ID:JQfqT7m/今川氏からの積極的な動きの結果でもあるという説が有力だぞ。
他になんかある?
0243名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:46:13ID:9SB5+JbE兵農分離ができたかどうかって、大切な論点だと思いませんか?
一大傭兵部隊を組織したことによる、濃尾平定後の進軍スピードっていうのが
重要なテーマかなと。
最もあくまで傭兵は傭兵、半兵半農の軍に比べると部隊への帰属意識の弱さから
敵前逃亡もへっちゃらさとでも言うべき弱さを事あるごとに露呈しちゃってるんだけ
れども、(この辺はフリーターと正社員の愛社精神の違いに通じるかも)
そんなとこで兵農分離をあきらめない信長の優秀さが、大鉄砲部隊や鉄鋼船
等々技術革新に繋がり、(フリーター比率が高くてもでも店舗を拡大し続けれる
ファミレスみたいな)当時の日本では誰も成し得なかった一大革命が出来たのだと
考えられませんかね?
徹底した合理主義=信長
信長のシステムを最大限に使いこなした=秀吉
大量の甲州金によって反織田の守旧派による信長包囲網を築いた=信玄
という図式にしてしまうと、やっぱり革命児信長に軍配が上がるのかなと。
0244名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:48:41ID:8oUY350v徳川との約束破って目の敵にされるわ、
北条を軽く見て、一時駿河放棄+全面戦争はどう考えても自ら招いた失策じゃないか?
もし北条を味方に留めるつもりならば、その努力が全く見られないし、
敵に回す気ならばそれでいいが、北条の侵攻に当然備えていなければならないのにその様子も見られない。
ちょっとこれは甘いだろ。
0245名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:53:20ID:WBfOyyF5>一大傭兵部隊を組織したことによる、濃尾平定後の進軍スピードっていうのが
>重要なテーマかなと。>>243
「兵農分離」「傭兵部隊」とは、何を原資料にしてるのか、教えてくれ。
出典史料の段、条も教えてくれると嬉しい。
0246名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:58:45ID:MAEP1se22chの戦国時代板だと思う
0247名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:05:18ID:nSdxb7+x家臣は土地にへばりついて農業をするわけにはいかなくなった。
結果として兵農分離になったの。
信長が合理的に判断して兵農分離をしたわけじゃないのよ。
それは跡付けの理屈。
結果オーライで、信長を含め皆が兵農分離の重要性を後で知ったわけ。
0248名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:19:21ID:WBfOyyF5「信長公記」にある清洲弓衆の屋形焼き(安土強制移住)でおK?
信玄時代の甲斐における「恩給衆」(専業武士、ちなみに年貢免除の軍役衆が半農兵)と同意なのか?
「甲州史料」「妙法寺記」「甲陽軍鑑」ほか。
>結果として兵農分離になったの
そのとおりだと思うが。
いずれにしても、9SB5+JbE(>>243)は出典を答えられんのかな??
0249名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:24:36ID:JQfqT7m/信玄の駿河侵攻前から北条は今川とくんで塩止めをやっている。
これを味方につけようとすれば今川方に気取られて防衛体制を整えられて
駿河侵攻がうまくいかなくなる可能性もある。
駿河をとって北条を防ぐという方針ならそれほど途中までは悪くない。
薩垂峠でも両軍はいい戦いをしている。直接の撤退の契機は上杉氏の動きだからな。
まさかあれほど対立していた上杉と北条が同盟して自分に向かってくるとは予想外だったろう。
まあ、これは北条方の外交手腕を誉めるべきか。
家康に関しては、家康だって掛川城の開城条件に駿河から信玄を追い出して
氏真を復帰させることを挙げているから、向こうももともと一時的なものと
思ってたんじゃないか?結局徳川は武田包囲網のときには大した動きはできなかった
しな。それほどの失着じゃないだろう。
0250名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:25:23ID:G/iuLiTK誰が最初に言い出したんだか。
0251名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:36:39ID:WBfOyyF5>まあ、これは北条方の外交手腕を誉めるべきか。
だが、その上杉北条同盟がほとんど機能しなかった謎は、どうなんだろう?
上州上杉領の割譲とか、氏政を謙信の配下として同陣させる要求があったとか、諸説あるが。
平山優氏が『武田信玄』(吉川弘文館)の中で丸山和洋氏の論文を紹介して、
「越相一和」と前後して、謙信と信玄の間で「甲越和与」が結ばれていたと主張しているね。
信玄が信長(足利義昭)を通じて画策したという説だ。
この説が正しいとすれば、信玄のほうは準備万端だったということになるが。
0252名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:00:43ID:JQfqT7m/甲越和与は第一次駿河攻めから帰還してからの話だったと思う。
信玄は第一次駿河攻めから帰還した後に、甲越和与の他に越中一向一揆や芦名を
けしかけて謙信の動きを封じている。その後で北条攻めにとりかかっている。
越相同盟は発足こそしたものの、いざ北条が攻められて両者の全面的な協力が必要になると
お互いの利害の食い違いで話にならなかった。
(上杉は北条に上野・武蔵・下野の返還をもとめており、これは北条には受け入れられないもの。)
結果として信玄の侵攻にこの同盟は機能せず、越相同盟は破綻した。
0253名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:11:18ID:WBfOyyF5>甲越和与の他に越中一向一揆や芦名をけしかけて謙信の動きを封じている
かなり矛盾した内容だね。謙信と和を結びながら後背(越中・葦名)から謀略を仕掛けた(これは史実)と?
それ(和議と謀略)を本当にやったのなら、信玄は震源というか権謀術数の名将だが。
後段は通説どおり、史料的な裏づけもあるので同意。
0254名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:55:35ID:JQfqT7m/信玄が駿河を攻めたのは1568年の12月の事だったから第一次駿河攻めのあとと
いうのは早計だったか。ただ、それらの影響は帰還後の甲越和与の後も残り、
謙信の足を絡め取ったことと思う。特に越中一向一揆はその後何年も謙信を悩ませる。
0255名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 00:13:29ID:wwKfPTeh越後に乱入するように越中一向一揆の勝興寺に仲介を依頼してたりする。
結局権謀術数の名将って言う感じだな。
0256名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 00:50:02ID:TQp1XX+qこれは史実ではない。というか、もっと複雑なんだな。
椎名一族は為景いらいの越中郡守護職、椎名小四郎が長尾氏(藤景)の養子に。
よって、謙信(長尾景虎)が神保(武田方)と対立した椎名を支援(永禄二年)、
その後、信玄が椎名を篭絡して越中から越後を伺う。神保一族の反武田派が謙信を頼り、ふたたび越中の争乱。
最終的には小四郎を椎名の名代にした謙信が越中を平定。越中は複雑怪奇だな。
0257名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 10:09:54ID:p4wBYUQ00258名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 12:10:42ID:wwKfPTeh負けている。
0259名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/08(木) 22:47:39ID:46+KBBWyしかもこれは好意的な見方 そもそも無かったという説もあるし大した戦でもなかったという説が強いからな
0260名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/12(月) 00:39:11ID:kw6QxEM9天下平定を視野に入れた信長と比べるのは無理がある。
0261人間七七四年
2007/02/13(火) 07:41:30ID:VaFWLXYu天下統一を目指した武将が目指さなかった武将より優秀というのは無理がある。
0262人間七七四年
2007/02/20(火) 02:38:15ID:4i9KDpaL違うよ。天下統一を目指す以前のレベルの信玄は論外だということ。
略奪で生計を立てるやり方ではね。
0263人間七七四年
2007/02/20(火) 06:39:46ID:QV/ETtT1お前は いつの時代の人間だ?
弱肉強食の時代ではそれが優劣の分かれ目だが
0264人間七七四年
2007/02/20(火) 23:22:33ID:BRMBQxuw0265人間七七四年
2007/02/21(水) 03:08:13ID:U8QIianl信長はそれを超越してたってことだよ。
信玄はいつになっても略奪しか能がないから、あんだけ信長と差が開いたんだよ。
信玄の勝率97%なんて信長の前には何の意味もなさない。
0266人間七七四年
2007/02/21(水) 03:39:35ID:vtut36JR飢饉や水害にも悩まされ、整備も整ってない貧しい山国で
信玄がどれだけ内政に力を注いだのか少しでいいから考慮してくださいよ。
0267人間七七四年
2007/02/21(水) 03:55:08ID:SfhGYpIM0268人間七七四年
2007/02/21(水) 03:58:37ID:XXupo6NN逆を言えば、そこが信玄の最高の名将っぷりでもあるんでね?
自分より強い奴より、弱い奴と戦い続けるのが鉄則であり、最高のシナリオ。
それを一生続けられたっていうのは、ぶっちゃけ凄いと思われ。
0269人間七七四年
2007/02/21(水) 14:14:59ID:SfhGYpIM一生それで拡大しつづければ凄かっただろうが、結局は甲斐信濃+今川弱体後の駿河で手詰まりで、
周辺の有力勢力相手には全くと言っていい程拡大出来なかったところが、所詮は信玄の限界だったとも言えるんじゃない?
0270人間七七四年
2007/02/21(水) 14:48:10ID:vtut36JR駿河制圧後は徳川や織田の領土をわずかな期間の間に
結構とっているじゃないか。
全くといっていいほど、とかいうのは違うだろう。
0271人間七七四年
2007/02/21(水) 17:07:32ID:YQ8hA7x1上野にはかなり手を伸ばしてるんだが。
0272人間七七四年
2007/02/21(水) 18:00:17ID:vtut36JR0273人間七七四年
2007/02/21(水) 18:27:57ID:YQ8hA7x1特に三河はそれなりに取ってるし、上野は面積的に半分に迫るほどまで侵攻してる。
0274人間七七四年
2007/03/31(土) 12:28:27ID:a8SMGOUS0275人間七七四年
2007/05/06(日) 15:24:03ID:56TbfRlE0276人間七七四年
2007/05/11(金) 11:11:57ID:PpSlZjVCその優秀さを持っても、人生の中でそのハンデを覆しきれなかったわけだし
どこまで支配欲があったか自体は置いておいても、当時の地理的な問題は大きいというか、
ほぼ野心や動機のほとんどに直結してると思うが
もし○○じゃなく、○○に生まれていたら なんてのは、信玄だけじゃなくても
面白い人物は人それぞれで幾らでもでてくるだろうけど、こればっかりはしょうがないな
0277人間七七四年
2007/06/21(木) 23:44:17ID:/n2sq2yM0278人間七七四年
2007/06/22(金) 11:30:27ID:QyoKnMH6人格的には信長よりも優れていたんじゃない?
0279人間七七四年
2007/06/22(金) 12:48:44ID:mhWGAdSUそ れ は な い
0280ソユーズ
2007/06/22(金) 21:42:55ID:vu8aicm60281人間七七四年
2007/06/23(土) 00:40:48ID:ycT6zewR信玄と信長でわざわざ 人 格 で比較するってなんかの罰ゲームですかw
0282人間七七四年
2007/06/23(土) 03:58:25ID:OyxIyPH90283人間七七四年
2007/06/23(土) 05:12:56ID:prpW+pcyないよりはあった方がマシぐらいだろ
0284人間七七四年
2007/06/24(日) 00:59:12ID:NXt1RP3I0286Y ◆nzdGjBH722
2007/06/27(水) 00:22:05ID:ukntER8O実際はそこまでひどくなかったんじゃない?
0287人間七七四年
2007/06/27(水) 19:42:54ID:vRW1RgmAと民衆に嘆かれてるから、どっちもどっち。
ただ、信玄の方が年貢の率は弄らずに夥しい数の税を課すなど、更に巧妙に搾り取ってる。
0288人間七七四年
2007/06/27(水) 19:56:36ID:Q4Wz/XAXなっていくんだけどな。「これ以後にもないくらい分捕りができた」とか
喜ばれてもいるしな。
0289人間七七四年
2007/06/27(水) 22:11:58ID:UmGl0P0Z初期兵力二桁という状態で叔父などの競争相手討ち取る
『武田氏研究35号』だと信虎の成年が1498年となるから10歳ほどで恐ろしいほどの手腕
信虎が家督を継いだ段階では甲斐西部は諏訪の縁戚の今井氏とかが
甲斐西部南部は今川の影響下にあり、今井大井氏などを支援
小山田家も信虎には従わず
信虎が支配しているのは甲斐国中の極一部、
それを今川伊勢諏訪などの影響を排除しながら1532年に豪族の最後の反乱を鎮圧して統一
その後今川との同盟を実現し(反対した奉行衆の逃亡と前島一族の族滅なども招いたが)
その後佐久小県へ進出
内政面では各金山の接収開発、治水、甲斐一国にたいする棟別銭の賦課
躑躅ヶ先への移転、甲斐の国人から人質を集め城下に集住させる
職人を集め城下町の建設
伝馬制度を整え、印判の使用、奉行衆などの制度
不当な諸役賦課の禁止、武田家の印判のない命令書の無効
家臣登用も小幡多田原横田など甲斐に地縁が無くても優秀な人材は重用
また春日なども信虎が登用したとも
外交的には小山田穴山と姻戚となりとりこみ
奉行衆の反対などを押しきって今川との同盟を実現、信濃進出への道を開く
諏訪家に介入し金指氏を旧領に戻して諏訪家を弱体化
普通に優秀だと思う
通説で信玄の成果とされている甲斐の国内政策も信虎がその基礎を築いているし
>>288
そのような記述は信虎時代もあるし、1550年代後半になるとまた不満が増えているから
基本的には信虎時代と一緒で、
>信濃攻略がうまくいくようになると文句もなくなっていく
というのは間違いだと思う
0290人間七七四年
2007/06/27(水) 22:45:43ID:Q4Wz/XAX受けてさらに謙信との川中島も膠着してて分捕りで補う事もできない状態。
不満が出てきてしまうのは仕方が無い事では?
0291人間七七四年
2007/06/27(水) 23:02:23ID:UmGl0P0Zだから信虎時代に書かれた不満も
信玄治世初期の不満も57年からの不満も
基本的には自然災害とある程度重なるから
>信濃攻略がうまくいくようになると文句もなくなっていく
というのは間違いだって言っているのだが
0292人間七七四年
2007/06/27(水) 23:09:33ID:Q4Wz/XAX負担のみが増大していく→不満が出てくる→信濃攻略がうまくいく
→戦利品が手に入る→文句が少なくなる
なんか問題あるのかな。あおりではなく。
0293人間七七四年
2007/06/27(水) 23:15:59ID:UmGl0P0Z信玄時代だと1541年1548年1557年1567年前後は本当に大災害大飢饉だったのに対し
(若干年数はずれているかもしれないが)
それ以外の時期は普通に災害が書かれている程度で
1567年のは『妙法寺記』じゃないが
0294人間七七四年
2007/06/27(水) 23:31:50ID:Q4Wz/XAXそこまでして行っている戦争がうまくいかなくて戦利品もなければ
そりゃ不満がたまるだろ。
0295人間七七四年
2007/06/27(水) 23:38:49ID:UmGl0P0Z0296人間七七四年
2007/06/27(水) 23:46:21ID:Q4Wz/XAX不満にはなるんじゃないか。
0297人間七七四年
2007/06/27(水) 23:58:42ID:UmGl0P0Z信濃攻略が上手くいって不満が無くなったわけでもない
まあ信玄時代のほうが信虎時代より税は重かったようではあるが
0298人間七七四年
2007/06/28(木) 00:05:33ID:7FhnXFdF戦利品も手に入れば不満の声は少なくなるだろ。
災害が酷くて戦利品の実入りで補えなければ不満もでる。
信虎時代は最後に信濃の一部に領土を得たけど、その前は何回か
他国の勢力と戦ったり、他国に出兵した事もあったけど
基本的に領土はあんまり増えず参加してる甲斐の農民からすればあんまり
実入りがなかっただろうから、そこらへんも不満を持たれる理由だったんだろ。
0299人間七七四年
2007/06/28(木) 00:09:28ID:eX/rdGIk具体的に信虎時代の何年の記述?
信虎時代でも災害が酷かったり、今川北条に攻められたりしたときは別として
不満は無かったと思うが
0300人間七七四年
2007/06/28(木) 00:21:28ID:7FhnXFdF追放しました。民衆が皆満足した事限りありません。」っていうの。
信虎の悪行っていうのは後世脚色されたものではなくて、不満を蓄積させた
ことだろ。
さらに塩山向岳庵小年代記の「晴信様は万民の憂いを救おうとして信虎を追放し
これにより人民は快楽の笑いをふくんだ」
王代記の「晴信様が当主になった事で一国は安全になった。」
などの記述から相当不満が蓄積されていたことはうかがえると思うが。
0301人間七七四年
2007/06/28(木) 00:52:02ID:eX/rdGIkそれで相当不満が蓄積されていたことはうかがえると思うのであれば信玄も同様に
不満が蓄積されていたと言うことになる。
あなたが自分の主張を通したいのであれば災害と無関係な不満を挙げないとあまり意味が無い。
あと信虎初期の甲斐国内の内乱や今川伊勢氏などの軍による不満も信玄とは状況が
異なるのであまり意味が無い。
0302人間七七四年
2007/06/28(木) 03:58:36ID:7FhnXFdFにもいいことだった」という事。うまくいかなければ不満が現われるし
酷い災害とかあった時少々の戦利品では埋め合わせがつかない時は不満の声も
上がる。でも信玄はいろいろあったが信濃を着実に侵略し戦利品を獲得して
いた事は兵士達や庶民に支持されていた。信虎は諏訪やら北条やら今川やらと
争い何回か他国に出兵してもいるが領土が伸ばせたわけでもなく、戦利品も
信玄程に得られていたわけでもなく負担は蓄積した。信虎の追放が災害からの
影響という事もあるだろうが、それをいったら信玄にも弘治から永禄にかけての
大災害があった。でも信玄は追放されず権力を握り続けられたのは
その勝利による戦利品などの利益が民衆に支持されていたからで、
甲斐の民衆にとっては信玄のほうが信虎よりも良かったのだろう、という事。
0303人間七七四年
2007/06/28(木) 22:12:33ID:xGgRF5x1>でも信玄はいろいろあったが信濃を着実に侵略し戦利品を獲得して
>いた事は兵士達や庶民に支持されていた。
信虎時代も信玄時代も支持はあったり不満あったりしているし信虎も信濃に侵略している
両者の不満支持に何らかの決定的な違いがあるというのであれば是非提示して欲しい
>信虎は諏訪やら北条やら今川やらと
>争い何回か他国に出兵してもいるが領土が伸ばせたわけでもなく、戦利品も
>信玄程に得られていたわけでもなく負担は蓄積した。
そんな不満何処に書かれているの?今川北条らに攻められた時の不満や追いかえした時の支持
今川と同盟結んだ時の民衆の支持は書かれているけど
蓄積していた言うからには大災害のあった1541年以前から特別な不満があったということになるので
あと信虎はそもそも甲斐の極一部から始まったので、信玄以上に領土を伸ばしているし戦利品も得ているといえる
信虎と信玄で比較するのであれば本来は信虎の本領と信玄の本領、
若しくは信虎が征服した地域と信玄が征服した地域で行う方が正しいかもしれない
>それをいったら信玄にも弘治から永禄にかけての
>大災害があった。でも信玄は追放されず権力を握り続けられたのは
信玄が隙を見せなかったことに対し、信虎は少数の供で国を留守にするということをしている
仮に追放しようと思っても無理
>その勝利による戦利品などの利益が民衆に支持されていたからで、
だから最初から言っているようにそれは信虎の時も一緒
それにこの災害の時期は民衆には支持されていない
>甲斐の民衆にとっては信玄のほうが信虎よりも良かったのだろう、という事。
以上のことから実際はともかくあなたのそれは根拠の無い妄想にしかなっていない
信虎と信玄が違うということを証明したいのであれば
自然災害とは別に不満が溜まっていたという証拠を提示しなければ証明できない
まあ研究者にも証明出来ていないことだから(だからこそ未だに信虎追放の原因がはっきりしていない)
不可能だとは思うけど
0304人間七七四年
2007/06/30(土) 05:38:37ID:OZMtt+xp食うか食われるかの世界
完全な弱肉強食社会 うんざりする位遺恨だらけの権力闘争
もう日本人戦争しないほうがいいのでは
0305人間七七四年
2007/07/04(水) 15:00:16ID:rwCblCUx0306人間七七四年
2007/08/30(木) 23:06:49ID:WG0HlAqH0307人間七七四年
2007/09/05(水) 23:57:40ID:G7k3I2OJ運をものに出来るというのは、常人では無理どころか幸運が通り過ぎたことに気付かない事だって有るぜ。
それをきっちり物に出来るのならば、十分傑物。
0308人間七七四年
2007/09/10(月) 22:36:11ID:rzyZotOD逆に血縁者に殺されるアフォってパターンが過小評価されていると思うのだが
0309人間七七四年
2007/09/25(火) 06:06:35ID:7omKgHfU0310人間七七四年
2007/09/25(火) 11:01:50ID:/XRyvfZX殺された血縁者にしても、信長のように家臣に殺されるよりマシと思われ。
0311人間七七四年
2007/09/25(火) 12:09:35ID:pYipuKi3有利か不利か議論したら信玄がどんだけ不利な条件かわかるでしょ
信長厨はいつも
これについて避けるのよね
0312人間七七四年
2007/09/25(火) 13:42:32ID:oVx4GoVj0313人間七七四年
2007/09/25(火) 13:54:04ID:5xqhSjpsそら甲斐の方が有利じゃないの?
敵少ないし
そもそも信玄が尾張にいたら
普通に今川に踏みつぶされてるだろ。
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