信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:24:45ID:dfQeZkZJ特に元親は。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:32:24ID:jg6X96sp特に慶長後期から元和期の政宗は野心も見え隠れした上、
西洋人の目から見ても家康に次ぐ、大実力者だった。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:56:46ID:wiLv4ldh元就は良くも悪くも家康よりエグい事しそうだがな
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:01:10ID:dfQeZkZJそりゃその時には上の中では家康と政宗しかいないしな。
政宗が実力者なのはわかるが、面子を見ようぜ。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:03:13ID:SGYqQsVy0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:43:36ID:dfQeZkZJ0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 08:53:23ID:sxWINaTX0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 14:06:15ID:zYhOVBKjワラタ
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 16:42:10ID:XFlm69s5最終的に土佐10万石程度の大名
最大時でも四国の大部分で80万石ほど
そりゃ土佐の1/3から四国の大半を制したのは凄いが
日の出の勢いの織田豊臣に逆らった時勢の読めなさは拙過ぎる。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 16:57:24ID:SGYqQsVyあの場合は仕方ないんじゃないか?
多年苦労して切り取った領土を返還しろという要求をあっさり受け入れるのは無理じゃないか?
元親が信長に対抗したときは毛利と連合できたし
秀吉に対抗したときは家康・雑賀と同盟してたから島津・北条に比べればまだましと言えると思う
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:07:23ID:LtXgsVq0まあ、敵対しか方針が無いだろうさ
だって、領地の為に、信長にも対抗しようとしていたんだから
でも結局、秀長にやられたね……
せめて秀吉だったら、仕方がないともいえるけれど
弟のほうじゃ、大名として見劣りがする
決して、弟が弱小というわけじゃないけどね
0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:40:36ID:zYhOVBKj0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:17:00ID:SGYqQsVyあぁ、そう考えると秀長にやられたのはマイナスだなぁ
四国征伐軍は十一万と号する大軍で対する長宗我部勢は二〜三万
負けても仕方ないといえばそれまでだけどね
ただ信玄、謙信の面々が元親と同じ状況で秀長の豊臣勢を撃退できたかというと無理だと思うんだよね
俺は信玄、謙信を引き合いに出してるけど彼らが無能とはいうつもりないし
やっぱり名将といわれるに値する人物だと思うが三好といい長宗我部といい知名度低い武将は損だよな
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:15:58ID:dfQeZkZJ負けるのが早すぎた、四国征伐に関しては本来秀吉も出向くはずだったのに、
病欠してるあいだに秀長に捻られてしまった。
元親は名将だとは思うが知名度が低いだけじゃなくて、その程度の大名と言うのが現実。
三好長慶と一緒に並べるなんていくらなんでも過大評価が過ぎる。
島津・北条に比べて半分にも満たない領土で張り合おうと言うのがそもそも間違い。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:37:26ID:JhNXxdAM秀吉に対抗した時はまだわからんでもないが、信長に対抗した時の判断は明らかに
マイナス評価の対象だと思う。
「長年苦労して得た領土を〜」という感情は当然のもの。そして信長の要求が理不尽
だということも事実。しかし「拒否してそれでどうするのか?」という点を考えると
大名として仕方ないでは済まされない。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:43:24ID:zOwc6ytOどう見ても下だろ
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:50:20ID:R/HrZqjX0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 22:40:42ID:oQZoWFZz天下人の家康に勝ったから信玄最強!!!!!!!!!
少年時代の孫悟空を後一歩のとこまで追い詰めたヤムチャ様最強!!!!!!!!!!!!
どこか似ているな
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 06:29:12ID:wXT3iJ4d歴史的な業績など考えるとさすがに長慶が上じゃないか?
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 10:47:34ID:Ndg9KSza0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 12:56:51ID:n/QLvmE2江戸幕府の基礎となったほどの制度を作った氏康が上
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:07:23ID:vwMP9EHi政治面は互角だろ。
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:30:43ID:QaLb/aXV0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 15:43:38ID:ZOpO7JAe上杉謙信は自国の領土は拡大しなかったが、おそらく晩年は信長を打つには関東平定してからと思っただろう
彼は大儀を重んじる
関東管領の大儀から北条氏を打つのが先だ
謙信健在であれば本願寺も朝倉も従っただろう
ただ、謙信は野戦の名手で城攻めは不明だ
10万の大軍でも迎え撃つ奇策を放つ
ただ、織田信長もアイディアマンだった
織田信長は桶狭間で偶然勝利したが、あとは自軍が数が勝る戦い以外はさっさと引き上げる
武士の信念のようなものは無かった
何しろ勝てばいい、勝てそうもなければ朝廷をつかってでも一時的に和睦する
武田信玄は信長に姻戚関係をもたれ、煽てられて遅れを取った
3年喪に服せと遺言したと伝えられるが、これが武田氏滅びの要因ではないか
その間に浅井朝倉が滅ぼされては勢力の均衡は崩れ去った
勝頼が立ち上がったときはすでに武田120万石、織田250万石の差でさらに京、堺の都市を押さえていた
徳川家康は憧れの武田信玄に多くを学んでいる
一番運が良かったのは家康ではないだろうか?
秀吉政権のときにナンバー2になるほどになったが
そもそも三河遠州など60万石どまりの大名だ
上杉、毛利などよりずっと格下も格下
秀吉は気前がよすぎた
だから秀頼の時代は大阪城と黄金だけ
もし、秀吉が朝鮮出兵をしていなかったら、徳川幕府はなかっただろう
秀吉の家臣団が家康にはつかなかっただろう
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:21:15ID:QaLb/aXV0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:34:32ID:yMUGyGdg家臣や一門の掌握術や合戦じゃ氏康の圧勝だな
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:41:53ID:Y84I06K3あとは自軍が数が勝る戦い以外はさっさと引き上げる
これは信長の長所だろ
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 17:39:29ID:wXT3iJ4d長慶は合戦も相当上手いよ?
確かに君のいうとおり家臣の掌握は甘かったかもしれんがそれも最晩年の話
一門の掌握は甘かったっけ?
0143名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 17:46:37ID:LCrAbw4E晩年に有能な身内がボロボロ死んで
(´・ω・)カワイソス
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 18:20:37ID:Ndg9KSza地盤がしっかりしてた氏綱から引き継いだ氏康より
親父が死んで、
淡路守護の部下だったのに讃岐阿波を切り取って京まで押さえた長慶の方が凄い
0145名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 22:18:39ID:QASIHumu0146名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 04:49:50ID:i07NiDFs氏綱公は名君だが猛将で、北条5代の中でもっとも敵を増やした大名といっても過言じゃない。
必然だったからとは言え、早雲以来の敵に加えて今川やら里見やら公方やら
関東中から敵視され収拾がつかないまま死んでしまった。
同じく父が死んだ時に、長慶は敵に許されて配下に入って後に中から崩したが、
氏康は逆にチャンスとばかりに関東中の敵が攻め寄せてきていきなり撃退しなければいけなくなった。
それを河越夜戦で蹴散らしてしまう事で一気に名前が知れるようになった。
もともとタイプが違うと思われ、長慶は合戦も凄いとは思うが、そっちはやはり
氏康の方が知名度的にも上では無いか?河越合戦、国府台合戦、小田原篭城戦×2
に匹敵する大合戦自体無いだろう。策謀では凄いと思うけど。
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 05:12:02ID:c6eYrqUE芥川山城攻囲、丹波攻め播磨攻め
1558年の足利六角細川連合との合戦
河内攻めから久米田の戦いから飯盛篭城と繋がっていく畠山との抗争
北条の戦いも古河公方や関東管領を巻き込んだ関東の政治において
影響力の大きい戦いだが
三好の戦いも管領公方を巻き込んで畿内一帯に大きな影響を与えた戦いばかりで
合戦の規模でも決して劣るとは思えない
両者の差は後世への知名度じゃないか?
0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:32:48ID:XxI8rwes0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:40:10ID:i07NiDFsこの両者の主要合戦は動員兵力数で大きな差があるよ。
割と有名な江口合戦とかでさえ動員兵力数は3000程度同士の合戦だったはず。
一方で関東では太田道灌などがいち早く気の荒い坂東武者を従えて足軽部隊を編成していたりした分、
兵力の動員数は多く、河越夜戦のような数字は眉唾にしても、
どれも万以上での単位の合戦を可能にしている。2〜3000程度のぶつかり合いなら
謙信・信玄・里見・佐竹・今川相手にそれこそ数え切れないほどぶつかり合ってるよ。
信長の勢力が介入してくるまでは、京付近は経済力はあっても、
動員力では広大な土地を持つ地方大名には敵わない。
それがそのまま合戦の規模に繋がってる。
経済力が兵数の動員力に直結するには長慶の時代ではまだまだ経済観念が未熟すぎるよ
だけど、もちろん政権中央を操作した能力は半端では無いし、
それは氏康とはあまりに異質な世界で発揮した実力と言える。
だからタイプが違うと言う事。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:55:46ID:IDrvvKeQ経済力があれば傭兵や装備整えられるし、さらに堺を使って補強したのは信長と一緒
経済観念が未熟とは言えないな
つか、0近くから100万石以上の大大名になる方が難易度高いだろ
0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 07:55:58ID:KoOUTp7H江口合戦の兵力は六角や細川の軍を合わせれば2万近くあったはず。
その軍が戦場に到着する前に長慶が手を打ったから3000程の合戦で終わったわけで。
あと確かに長慶方は3000程度だったがまだこの時は丁度主家に謀反した時期なので仕方ないだろう。
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 11:06:22ID:i07NiDFs経済観念が未熟と言うのは時代の話をしてるんであって、
長慶の能力の話をしてるんでは無いので勘違いをしないように。
いくら傭兵を雇うといっても、兵站の概念が弱いこの時期では、
単純に土地から出てきて戦う兵の動員力にはまだまだ敵わない、
それを越えられるほど世間の経済観念は育っていない。
難易度の話もした覚えは無い。ただいわゆる合戦の能力で言うならってだけの事。
全体的な優劣の話などしていないし、これだけでは比べようが無い。
それと細川晴元の配下だったんだから0から〜云々は無意味。
それなら元就や秀吉は信長よりも上に来るけど、それで良いのか?と言う話。
その辺の基準はわからんので比べようが無い。
>>151
仕方ないだろうとかそういう話をしてるんじゃなくて、
そういう合戦がメインだから大規模合戦をメインで行ってる氏康の方が
合戦だけなら上だろう?と言う話。ぶつかっていない細川や六角など敵を合わせても
2万に届くかと言う合戦をしていた長慶と、
国府台合戦だけでも2万以上同士の合戦、小田原篭城戦に至っては3万〜5万の兵力と
総力戦で死闘を演じてる氏康とは規模が違うと言うのはもうわかるはず。
だからタイプが違うといってるの。全体的な優劣の話などまだしていない。
0153名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 16:22:58ID:81eIqCK7江口合戦で六角とは対決してる。
江口三宅城に到着する前に先に六角の先鋒を足止めしているということ。
それで兵糧を断って士気の落ちた三宅城を総攻撃ってわけ。
ちなみに細川晴元も三宅城に篭城しており弟の一存が討ち取りを方策していたが、
長慶がそれを認めなかっただけで一戦交えず晴元は丹波に退却。
だから実際の江口合戦は3000同士ではなく、
三好長慶軍約3000対三好政長・細川晴元・六角義賢連合軍約20000
ほどの戦いってこと。
あと六角軍とは先鋒と戦っただけなので実際の軍勢はもっと多かった。
だから畿内の合戦が規模が千単位がメインというのはそちらの思い込み。
まあ関東よりは多少は劣るだろうがそちらが思うほどの差はないだろう。
0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:00:58ID:XxI8rwes0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:14:11ID:2XhysEdb結果って何だよ?
0156名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 22:23:14ID:XxI8rwes0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:29:45ID:eu0BhQAS160万石近くまでいった大大名
信玄よりも氏康こそ謙信がいなければと妄想したくなる。
長慶は0からスタートと言うべきか、それとも阿波の一部からか
最終的には山城大和摂津河内和泉阿波讃岐淡路丹波の205万石に加え
伊予の一部に東播磨も
正に大大名
最もその支配体制は微妙な上寺社領も多いし、国人は半独立状態だが。
0158名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:47:15ID:XRp6H/h5【プロレス】元格闘家・前田日明、所蔵の信長ゆかりの名刀三本、信長記念館(愛知)に寄付!(中日新聞)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/river/1157730651/l50
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:03:29ID:0C5ih7/F結果で言うなら、
親の残した敵を一掃し安定させた上で広大な領土を残し、
結束された一族を氏政に遺し、氏政が更に領土を拡げる事ができたのと、
部下が暗躍する中で自分も惑わされて弟までその手にかけてしまって、
気がつけば一族バラバラ、失意のままにこの世を去って、
結局そのまま三好家ごと急速に衰えてしまったのは
大きく結果に違いがあると思う。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:17:21ID:6++0XvU/0161名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:28:40ID:lf+sPCTg0162名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:17:58ID:0C5ih7/Fで終了。
0163名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:19:04ID:pWSSjaQh0164名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 11:59:16ID:6++0XvU/0165名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:24:28ID:ahhMGlG9むしろ逆な印象になった。
イメージでは石高で判断して三好が凄いと思ってたけど。
どんな支配体制を築いたかってのも大事だな。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:07:49ID:6++0XvU/特に上洛したあたりとか
0167名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:29:06ID:0C5ih7/F大規模合戦能力
氏康>長慶
領土拡張及び被官からの出世能力
氏康<長慶
支配体系
氏康>長慶
朝廷など中央への影響力
氏康<長慶
ただそもそも後北条家は初代早雲の時代から
朝廷やら上洛やらから決別した家なだけに、最後の部分は
氏康の評価をする意味があるのかどうか謎だけど。
0168名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:28:13ID:RwgXurZdこれは不公平だろ
中央への影響力は謙信のことを考えると氏康にもありそうだが
0169名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:55:32ID:6++0XvU/氏綱が朝廷に大量の献金してるしそんなに中央は軽視してないだろ
氏康とスレタイの信玄はどっちが凄いんだ?
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:01:02ID:pmfEyQAiこれを比べるのはどうかと思うぞ。
氏康は誰かの家臣であったことはないんだから、そもそも比べようがない。
宇喜多直家や毛利元就などと比べるのならばともかく。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:35:31ID:ahhMGlG9あえて優劣つけるとどうだろう?
俺は能力とは別で氏康が上手な印象がある。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 18:06:19ID:0C5ih7/F実際、家康が最強でもそれは一つの答えでは?
んな事言ったら氏康も長慶も恵まれた部分はあるわけでキリが無い。
もっともそれでも秀吉の方が上だと思うけど。
0173名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 19:55:58ID:6vTe8v55合戦規模での優劣など無理やり長慶と差をつけたいだけにしか思えない
0174名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 20:52:14ID:jSm/vD+A>支配体系
これは親からの制度も多少絡んでくると思う
それでも氏康>長慶と思うが。
0175名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 22:01:58ID:PoCULh4l大和、丹波以外の所領は一族で固め、国人の制御は幕府と和睦し解決
結果論を重視しすぎでは?
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:04:55ID:iK2IuXwe嫡男病死に弟病死戦死と気力も尽きるだろ。
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 02:22:58ID:zoYhcXtiそれは都合がよすぎる。
信長のように万全の体制を強いていながら、予想外の人物の裏切りで命を落としたのならともかく、
結果と言っても死後だけじゃなくて、存命中に、じわじわと
ボロボロになっていった以上、単なる結果論とは言えない。
京付近に生まれる運も実力なら、一族が死んでいく運も実力。
結果にこだわるのは石高にこだわるのと意味として同じ。
>>176
運が悪いだけじゃなくて、松永久秀の影がちらついてるのも多くあるだろう。
そもそも精神を病んでしまった最大の原因は、安宅冬康を自分で殺してしまった事が原因。
騙されますた、じゃ済まされんよ。
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 03:05:47ID:52pve3zc何か勘違いしてるようだが
確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
それだけではあれほど勢力は衰えていない
衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
これは幕府保守派である長慶の死が原因
一族の死が直接的な衰退要因ではない以上結果論とも言える
つまり便乗させすぎ
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 05:20:53ID:edEOfQ3y冬康を殺した頃にはもうボロボロじゃなかった?
長慶が終わったのは嫡男の死以後だと思うよ
0180名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:02:00ID:zoYhcXti支配体制の下降は認めるというなら
それでいいよ、十分それでも氏康より下と言える。
しかし、それはそれとして
将軍殺さなければ三好家は生き残ったに違いないとでも言いたげだけど、本当にそうか?
>>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
具体的に敵になったのはどこ?
>>179
一応精神を病んだとされるのは、冬康を殺した直後。
もっとも嫡男の死で参ったかもしれんけど、それだけで終わるような人物ならその程度とも言える。
長宗我部元親もそうだったが、四国の風土か?
0181名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:50:08ID:X1lKOFN7>支配体制の下降は認めるというなら
だからこれが結果論での出来事
結果論で認めたければどうぞ氏康のが上と胸張ってください
>具体的に敵になったのはどこ?
信長
義昭も暗殺に成功していればそれで済んだんだがね
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:18:03ID:zoYhcXti>>確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
自分で言ってるじゃん、コレで十分よって事。
まぁそれはどうでもいいや、それよりも興味深いのは
つまり義輝を殺さなければ信長は攻めてこなかったと言う事?
この辺の細かい位置関係はあまり詳しくないので、もちっと細かく聴いて見たい。
0183名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:38:09ID:l8jVFAxxあとは分かるでしょう
0184名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:47:46ID:zoYhcXtiそもそも義輝が生きてれば信長が来なかったと言う事について聞いて見たい、
どっちみち信長は京を目指して来たと思うんだが、そうではないなんか理由があるのかな?と思って。
0185名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:38:37ID:Q+wlFlXI0186名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 11:03:28ID:l8jVFAxx信長は上洛を目指してただろうが
仮に三人衆と久秀が義輝を暗殺せずに恭順の意思を伝えておけば
信長の上洛は大義名分がないのでスムーズにはいかない
要するに時間稼ぎってこと
そろそろ終わりにしない?
0187名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 20:42:42ID:bdfkCMK1>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
>これは幕府保守派である長慶の死が原因
増えたか?
暗殺後信長の上洛までやっていたのは内輪もめぐらいじゃ
>>186
精々数年なんじゃ
信長は先に北畠を攻めるかもしれないがその後は攻める所無いから六角攻めて上洛となるんじゃ
大して変わらないでしょ
信長の方が優勢と見れば将軍も朝廷もあっさり信長に乗りかえるんじゃ
0188名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:30:21ID:Or4e93Ql丹波は反三好勢力の多い地域だったので将軍暗殺により国人たちの反骨を余計に高め
久秀の弟である長頼は国人の襲撃により戦死
これにより丹波は完全に勢力から消えるということになる
三人衆は上之芝の合戦で久秀を破っており
信長の上洛が遅れれば久秀も三人衆に潰された可能性も考えられ
その数年で体制の立て直しは可能と思われる
もしこの仮定で信長に負けても石高はほぼ互角なので三人衆の器量の問題ということ
勘違いしてほしくないので言うけど
将軍を殺さなければあそこまで衰退しなかったとは言ったが
将軍を殺さなければ三好家は滅亡しないとは言ってないので
それを思考にいれていただきたい
0189名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:48:07ID:zZUc8KoI0190名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:53:31ID:dRp7qgRgつーかそれ以前に義輝存命の場合、信長の進軍は遅くなるか?
義輝はもともと三好家を苦々しく思ってたわけで、
いくら三人衆が恭順したって、より強大な信長が後ろ盾になってくれようと
進軍してるんなら喜んで迎えて、とりあえず恨み深い三好家を一掃しようと考えそうな気もするんだが。
実際、長慶が死んだら地方大名に積極的にそういう動きを見せたわけで。
0191名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:38:21ID:Xf2XtJsQだまれよ、相模人
0192名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:47:43ID:yBImgM95ただ、信玄の方が保守的だった。孫子の兵法を御旗に掲げ100戦不敗の原理
に殉じた時点で、スピードにおいて信長を凌駕できなかった。
孫子の大原則は、勝てない戦はやるなだからな。
でも、信長に出し抜かれロウガイを煩ってからは、なりふり構わぬ武将になった。
それ以降の信玄の怒涛の進軍は凄まじいの一言だと思う。
ある意味信長の存在のお陰で、今の評価もあるような気がする。
0193名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:52:28ID:dRp7qgRg0194名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:55:49ID:4g7Dz5tCしっかりパパさんな氏康とじゃ、ちょっとね〜
0195名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:10:58ID:Ji1x82hY0196名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:15:42ID:39xDiGgzいい加減スレ違いだから他でやってくれよ
0197名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:38:42ID:Xf2XtJsQ互角じゃねーよ
どう見たって長慶>氏康が大多数じゃねえか
0198名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:40:03ID:dRp7qgRgそれ、俺の個人的意見だからね、あしからず。
0199名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 03:59:14ID:4t7sgAs3謙信ばかりが注目されるけど、信長も以前に上洛して義輝に謁見してるのよね。
三好に対抗するために義輝が信長と結ぶというのはあり得ないIfではないな。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 04:13:43ID:N7QDQ6gT0201名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 04:44:26ID:Xf2XtJsQ( ´,_ゝ`)プッ
0202名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 06:16:32ID:fJieL8hf長年の念願を叶えられたファンからは大喝采を受け
足手纏いがいなくなったことでパフォーマンスのレベルは飛躍的に向上し
新メンバーオーディションに世間から大きな注目が集まり
世界バレーの仕事で露出が増えることで
新規ファンを大量に獲得することは確実と思われる
そしてこの特典
新曲が売れないわけがない
0203名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 07:46:00ID:3cX/TCyL信長と信玄は何処に行ったんだ?
0204名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 07:57:58ID:dRp7qgRg信長だけでなく親父の信秀の代から朝廷・公家・幕府に親交があったようだし、
敵対する三好家に関係する堺公方とつながりのあった主筋の方の織田家を
蹴散らしたのも信秀だし、義輝が助けを求める可能性は大いにあるかな・・と。
そういえば堺と言えば長慶って堺関連以外になんか政治面で有名なのあるのかな。
0205名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:06:25ID:39xDiGgzてか、これ以上やりたいなら新スレたてたら?
邪魔だよ
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:15:34ID:dRp7qgRg0207名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:30:34ID:copyt2lTずっと粘着してる奴が消えないと話題変わらないな。
すぐ話がそれる。
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 00:41:58ID:gIy0lFU9あと、本山氏との戦いが長かったのがいたい。
四国って中央より装備が遅れてたんだろ? それに、四国征伐のときは一度勝ってるはずですが・・
あと、元親についての本が少ないのも原因だろに・・
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 13:48:37ID:LS3kAqxA>あと、本山氏との戦いが長かったのがいたい。
それは仕方が無いだろ、元は本山氏の方が国力は上だったのだから。
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 16:04:08ID:mbIwaC6Dそれって引田の合戦でしょ?
四国征伐のときとは軍勢が違いすぎるし(確か長宗我部方のが多かった気がする)
総大将が長宗我部ファンが色々言ってる仙石秀久だしたいしてプラスにならない
やはり他の地方の覇者と比べると一段も二段も劣るのではないだろうか
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 18:07:21ID:LS3kAqxAそれなりに評価できると思うが
どれも長宗我部氏と同程度の存在
これだけの相手を破っている大名なんてそうはいないと思う。
また秀吉に負けて領土削られたとはいえ
最終的な土佐一国も継いだ段階と比べれば3倍ぐらいにはなっている
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 23:44:16ID:DFgBkcQg大将として大きくマイナスだと思う。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 11:16:54ID:jwYmO3vn何気に秀長はかなり戦上手だと思うよ。
但馬攻めも四国攻めも九州攻めも圧勝して完全に相手の戦意を挫いた。
九州では義弘の伏兵を見破って裏をかいたんだよな。
大軍が小兵や要害に手こずったり大敗するのはよくある話。
実際、九州攻めも秀吉側はけっこう苦戦してるし前年の義統は大敗。
大軍であっても無難に勝ちを重ねるのはとても難しいこと。
>>212
万が一にも勝てる可能性があれば戦うのが戦国大名。
弱小勢力はそうやって勢力を拡大していく。
島津も北条も勝ち目の薄い戦いで勝って大きくなった。最後に負けたがw
毛利のように折れる手もあるが、あそこで戦ったからといってマイナスにはならない。
ピンチはチャンスってよく言うでしょ。
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:06:53ID:rNRgrYWaそして外交がヘタというのが、大名としてダメだといっているのでがって、軍事
がどうこうではない。
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