信長より信玄の方が名将だったわけだが
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:26:43ID:fN9wlsWd上杉、北条、今川などの周辺の大大名とも対等に渡り合った。
後の天下人徳川家康相手に圧倒的勝利を収める。
信長は信玄を恐れ、貢物を送りまくって終始へこへこ。
最後は家臣に裏切られ、惨めな最期を遂げる。
どっちが上かは歴然だよね。
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:29:10ID:G7nGAV3x0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:30:17ID:lAA6jSVg0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:30:39ID:ljyRLyI5信玄は問題あれどたしかに名将かもね
0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:31:56ID:/WBVtjn6コーエー史観に汚染されてますね。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:34:28ID:d7jDtQtU反論できん・・・
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:36:56ID:Og49IKIj0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 04:11:35ID:hmrlbI7Q信長は不敗の将だ。信玄は負けてるじゃん
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 18:35:02ID:krytwL1t信長の凄いところは、逆境にたいする打たれ強さだと思う。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 18:44:28ID:+TCnbAEu0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 23:23:35ID:22uwBhnG釣りスレとして立ててくれているんだね^^
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 06:54:49ID:AOdC6FVh歴史的に重要なことをしたわけじゃない。
施策に関して、他の大名と何ら変わらない
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 10:53:41ID:rVi2TzoL0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 15:16:43ID:elL938S2結果的に次の世代で家名を残すことに失敗している点では同じだろ。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 17:37:56ID:MM9uNHdz教科書も読んだことがないのですか?
それとも歴史の成績が悪いのですか?
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 20:52:48ID:/Uezaswn日本海方面の貿易なら大内家には敵わないだろ
南蛮文化なら大友宗麟には敵わない
能力主義なら武田信玄も同じだ
信長が凄いのは認めるが神格化するのはいかん
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 20:58:07ID:QQicupVS大内家の日本海貿易
大友家の南蛮文化
武田家の能力主義
それら全てを備えたのが私、悪魔将軍だ。
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:55:10ID:M7EwWWMoで、信長はやっぱ「革命時」。
どちらが優れているとはいえないんじゃない?
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:59:18ID:kAIaSfrb0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 22:24:25ID:1DVMi62y甲州金は畿内でも発掘され、広範囲に流通していたことが明らかになっている。
近世(江戸時代)の貨幣システムの基礎でもある。謙信の天正越座小判は北陸一円に流通。
貨幣鋳造が流通統制および市場支配の根幹を成すことは、近代経済学の基礎知識。
武田氏は領内の豊富な金を用いて、品質の純良な円形または長方形の金貨を発行した。
この金貨は、甲州金と称されているが、甲州金の場合、その通用価値が重量を基準として
定められるとともに、額面金額として表面に打刻されているところに特色がある。
写真の金貨の額面は「壱両」である。
このほか甲州金で採用されている額面単位は、
「両」=約15g、
「分」=1/4両、
「朱」=1/4分、
「朱中」=1/2朱、
「糸目」=1/2朱中、
「小糸目」=1/2糸目、
「小糸目中」=1/2小糸目
という4進法・2進法によっている。
この単位のうち、両・分・朱の4進法の単位は、
江戸時代の幣制において金貨の単位として踏襲された。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 21:51:11ID:E+LDzxnq滅亡と。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 23:55:34ID:spidFc+V信玄の場合、小姓も掘り尽くしたけどな。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 00:08:02ID:MUIyS3lY誰がうまいこと言えと!
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 00:08:29ID:Ja8wjwXL織田家に仲介を頼んで徳川・北条と休戦して危地を脱している。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 01:44:31ID:7iIU4GQN同盟者の徳川に壊滅的な被害を与えてあるいは滅亡させてれば、
それで十分に織田を孤立させ大きなダメージを与えたと思うのだが..
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 01:54:41ID:PeuFOPgi0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 14:31:44ID:UgVjztz+いうのが一番有効なんだがな。結局、謙信とも和睦できてないし、信玄の
外交ってのは今ひとつ底が浅い。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:36:41ID:qUQIkY0k秋山信友、秋山光継、朝比奈信直、安倍勝宝、安部宗貞、跡部勝資、安中景繁、甘利信康、
雨宮家次、飯尾助友、依田信守、依田春賢、一条信竜、一条信就、今福昌和、今福丹後守、海野信親、
大熊友秀、大嶋長利、小原忠継、小原 広勝、小原下総守、小幡昌盛、小幡憲重、小山田昌行、小山田信茂、
小山田大学、鎌原之綱、金丸定光、川窪信実、葛山信貞、笠井満秀、小宮山友晴、高坂昌澄、高坂昌元、
五味高重、座光寺貞房、三枝守友、真田信綱、真田昌輝、諏方頼豊、常田春清、武田信堯、
武田信友、武田信綱、武田信勝、武田信実、武田信貞、武田竜宝、武田信豊、長坂光堅、土屋昌恒、土屋昌続、
内藤昌豊、内藤昌秀、名和宗安、馬場信春、馬場少輔、原昌胤、日向是吉、室賀信俊、望月義勝、
望月重氏、望月信永、望月信雅、横田綱松、横田康景、米倉重継、湯本善太夫、湯本九右衛門、祢津是広、
名和宗安、仁科盛信、山県昌景、山県昌満、和田業繁、
織田、徳川軍戦死武将
鳥居強右衛門 松平 伊忠
(´,_ゝ`)プ
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:51:53ID:6pPZJRAF同感。信康と築山殿が連座切腹させられた頃なんか
徳川家中に反信長感情があふれていただろうに。
なんでそれを利用せんかったのやら
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:58:03ID:R7YYjpbC>織田家に仲介を頼んで徳川・北条と休戦して危地を脱している。
信長は甲越和睦の仲介(義昭に要請)に失敗してるぞ。
信玄の相模攻めにより氏康が相甲同盟復活を遺言が史実。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 23:12:25ID:vr96+AaH実際には反信長感情なんてたいしてなかったから。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 00:11:25ID:+i51YWfn0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 00:19:38ID:QZjVb1m/ここのDQNどもは・・・。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 01:48:30ID:Yzxk1S9Qむしろ結果的にだまされてた武田の方がアホかもしれんな。
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 03:37:36ID:rHnzgYEp0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 05:29:07ID:cpa5Lg16確か、信長からの贈り物の漆を「誠実な人物だ、見習え」みたいに若侍達に見せてたよね
信玄テラワロスww
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 08:28:57ID:f3pyLM5Y0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 18:55:32ID:myi3FzZY低い身分からの登用は
男色相手の高坂くらいだが・・・・
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 20:24:38ID:li2BtRxm0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 20:37:15ID:PAT+4TDe例の手紙って信玄いくつの時のやつだ
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 21:01:40ID:fJZwAzNh駿河侵攻→進出した北条に今川の旧臣が味方、状況悪化→休戦して甲斐へ撤退→その間に準備→捲土重来→
駿河全土を席捲→相模と武蔵で北条軍を撃破→氏康の死後に同盟
氏康は武田の再侵攻時以前から重病で会話はおろか意思疎通も不可能だったので、
実質的に氏政が全権を執っていた。
氏康は相越同盟の再検討を指示していたが、武田との再同盟に関しては氏政と重臣たちが討議・決定を行った。
なお、氏康の遺言の条項に北条の基本戦略から外れたものはない。
晩年の氏康の病状から考えて、普段から用意していたものか、これもやはり氏政たちが創作した可能性が疑われている。
ちなみに武蔵方面で北条軍を撃破した武将の一人は武田勝頼。すでに名将の片鱗を示している。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 21:09:51ID:C80PWTZP今更そんな当たり前の事言われても・・・
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 21:23:05ID:rUlLjYJV上洛スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151216688/l50
において信玄は絶対に上洛できないということが確定している
よって信玄>信長 あるいは謙信>信長というのは絶対にありえない
つか村上にも長野にも謙信にも兵が多いに関わらず負け重税かけて戦争ばっかで国疲弊させて周り敵だらけにする男のどこが有能か、無能だろ
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 21:24:52ID:92i/rddP0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 21:40:01ID:C4toyUnGだから当時の評価では毛利元就が英雄だった。
これはマジ。信長の家臣や信玄の家臣などがこぞって元就こそ真の英雄と述べている。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 22:04:50ID:rUlLjYJV毛利はマジ凄いからな 羽柴秀吉と比べても五分と見ていい
信玄が信長に勝てる要素なんてあるか?
戦術でも戦略でも政治でも計略でも人事でも全ての面で負けてると思うが
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 12:34:33ID:S+3Cr5U9領土の大きさ・経済力・後の世への影響力を考えてみ。
どれを取っても信長の方が上。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 21:34:48ID:ndLZciiC0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 21:36:27ID:ndLZciiC0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 21:59:39ID:BoofMHHb織田家にあっけなく滅ぼされた武田家
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 22:29:00ID:crbWuKI9これから本格的に侵攻しようというところで光秀にあっさり殺されたってだけで。
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 22:31:28ID:swUSyezh時が経つほど強大化する織田家、その織田家に従い武田家のみを標的にする徳川家、
徳川家と結び武田家を脅かす北条家、内紛を起こして苦渋の選択を迫る上杉家。
信玄もそれは予測できたから、重病なのに無理して西上作戦を決行したのだろう。
しかし織田家内部からの離反者があまりに少なかったので、作戦はすでに失敗していた。
長篠で信濃の旗頭の真田信綱が戦死しなければ昌幸を手元で使えたのに……。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 22:39:06ID:rpG3eYnU0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 12:45:28ID:w9mRomCm0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 16:23:00ID:DYzq+VMSあれくらいデカくなったら地方大大名ではう駄目だろ。
よほど緊密な連合組むならまだしも。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 18:46:06ID:GXaZSzyF0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 20:08:53ID:jB+oj+stそう思ったら、外交関係改善する努力しろよ>信玄
という、スレさえあるのだが。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 20:54:00ID:ojSt+LaE信長だけwwww
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 21:08:46ID:Gb9MHXIv0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 21:59:49ID:7tSa+g2m0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 22:11:17ID:jB+oj+st家康批評の「脱糞」
これは、断末魔の響きだと思って、暖かい眼で見てください。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 22:50:36ID:ojSt+LaE大内義隆は有力守護大名であって、
有力戦国大名とは言わない。日本史の常識だぞww
>>60
道三は軋轢のあった息子との「合戦」に敗れたわけで、
自分が信頼した家来に殺されるようなバカではない。
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 22:58:24ID:kxr4Oov7例によって優秀すぎる部下はいつか処分されるだろうし やられる前に・・
まぁ織田以外の国では羽柴も明智もこれほど重用されなかっただろうし、もしかしたらこいつらより才能ある奴いたのかもな でも使う奴がバカじゃねぇ
明智が信玄や謙信より劣ってるとか言い出す奴いないよな? まさかとは思うが
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 03:18:45ID:9s0cu97fアインシュタインとシュバイツァーを比較してるようなもんだって
わからない馬鹿。
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 18:53:13ID:qW9soZJTアホ。
自分の息子との関係もきちんと作れなかったのが道三だろが・・・
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 02:21:48ID:uhIdjOIxどっち側にも大人気無い奴が大勢いるから
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 04:51:24ID:Mqe/ELXm家来はだめで息子はいい。
プッ
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 06:05:17ID:Mqe/ELXmついでに言っとくけど大内家は分国法制定されて領国経営していたかられっきとした戦国大名だよだいたい守護大名と戦国大名の定義知らん意気がるじゃないよ低脳武田厨くんw
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/16(土) 06:07:57ID:Mqe/ELXmついでに言っとくけど大内家は分国法制定されて領国経営していたかられっきとした戦国大名だよだいたい守護大名と戦国大名の定義知らん意気がるじゃないよ低脳武田厨くんw→×
ついでに言っとくけど大内家は分国法制定されて領国経営していたかられっきとした戦国大名だよだいたい守護大名と戦国大名の定義知らんくせに意気がるじゃないよ低脳武田厨くんw→○
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 01:04:47ID:ahCG2mJ6信玄>>>>>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>信長
この事実は変えられないけどなw
土下座外交の信長が信玄よりも上とはなwwwww
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 04:50:45ID:UkS8RKS2ちょっと、ヘコヘコしただけでいい気になってくれる信玄は名将ですね^^
俺でも騙せそうですよwwww
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 08:10:31ID:1cQ5UqtS0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 08:58:33ID:8l2l7lbX土下座外交とか言ってる上杉厨や武田厨がわからん
当時の状況考えてみろよ 信長包囲網真っ最中だぞ
そんな状況で新手が来られたら困るだろ しかも2万の軍勢を動かせる
信長は戦略的に当然のことをしたまで、まぁ戦略がド下手の上杉とその厨、晩年ド下手になった信玄とその厨達にはわからないだろうがなー
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 09:36:56ID:UkS8RKS2結局はそれが包囲網を各個潰されるはめになってるのになw
上杉厨と武田厨はやたら信長の外交の話を引き合いに出すけどそれってマイナスだろといいたくなる
その程度の策も読めない(もしくは読んでても信長攻撃に加わらない)彼らはしょせん田舎大名だね
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 09:40:22ID:GhLrK+q20076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 09:45:06ID:UkS8RKS2織田厨ですらない気がするんだが
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 09:56:25ID:GhLrK+q20078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 10:58:52ID:DeGaTWW0信長が信玄に対して行った「土下座外交」の時期は、
信玄が徳川・北条・上杉と敵対していた最も苦しい時期。
互いに最善の選択だった。
上杉の場合は武田・北条・芦名と敵対していたからやはり厳しい状況。
更に飛騨では織田方が優勢で、この進路から織田の侵攻に備えなければならなかった。
実際、謙信の死後は飛騨路から織田家の越中侵攻が始まっている。
上杉と芦名の戦いは上杉への従属意識が低い下越後で展開され、
上杉が防戦側に回っている。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 11:21:30ID:W8ECqQp3言ったろうなってのが目に浮かぶような結果に終わったのは確かだな。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:15:48ID:0Lxw3vvOさすがゴールドマスク。
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 14:05:45ID:zsiy3lQg信玄に怯え岐阜を捨てた信長wwww
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 14:58:02ID:f3S/iwUY覇王信長
0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 15:25:14ID:8l2l7lbX捨ててねーよ
つかあの状況で岐阜に構ってられるかバカ
信玄の特技(というか優れてるところ)は・・ そうか、ホモだけは誰も勝てねーな
戦略のバカさ、大軍で負け続けるところ(村上、長野)もなかなか真似できねーがな
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 20:19:13ID:ahCG2mJ6家臣の討ち取られる馬鹿さ
大軍で浅井、朝倉、本願寺、武田、上杉、毛利に負け続けるところw
そうだね!誰も真似できないだろうね!w
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 20:23:38ID:8l2l7lbXお前のバカさには誰も勝てねーよ
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 20:58:34ID:Cohtvskn>上杉が防戦側に回っている。
こんな史実があるのか???
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 22:26:12ID:oxmR6Jfuこの煽りネタに何人の織田信者がひっかかるかな
暗い部屋で武田厨はつぶやいた
書き込んだ直後からせわしなくリロードを繰り返し
ディスプレイを凝視して薄笑いを浮かべる武田厨
2人、3人・・・ヒヒヒヒヒ
バカがひっかかってるよ
バ〜カバ〜カ
手を叩いて喜ぶ武田厨
「どうしたの○○ちゃん」
至福の時を齢68の母親の声が邪魔する
「何でもねーよ黙ってろ!!!」
他人には決して叩かない大口も家なら安心だ
だがセクハラが原因でリストラされて自宅待機になり、家にひきこもっている自分という現実が
少しだけ脳裏に浮かび武田厨は舌打ちした
「さあ次はどんな煽りネタを書き込むかな」
武田厨の空虚な試みは更に続く・・・
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 22:46:28ID:TgV8IKTb(名目上は信勝を家督にと考えたとも言われるようだが)
秀吉系の英雄だな
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 23:39:46ID:UHn3SZxxある
武田が煽動して葦名が越後にちょっかいだしたり
葦名が下越での反乱にちょっかいだしたり
全面戦争には一度もなってないと思うが。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:53:21ID:UOER+anH永禄8年の本庄謀反に関連した山内某の画策(黒幕は信玄)だろ。
>>78の脈絡の支離滅裂が問題なわけであってwww
謙信が手取川で織田勢を大敗させた時に、葦名盛氏は祝いの書状を贈ってるわけで、
織田との同盟破綻も友好関係にあった葦名の了解のもとに、北陸に出兵できたというのが史実。
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 01:25:15ID:UOER+anH葦名勢の越後菅名荘侵犯は永禄10年だった(信玄の画策)。
本庄の謀反は永禄11年で、葦名盛氏・伊達輝宗らの仲介(使者は後藤勝元)で赦免。
同じ年に、徳川家康が上杉謙信に使者を派遣。こんな流れか。
0092信長ヲタの編集
2006/09/18(月) 02:12:46ID:pdoQ8WBaこうして比較すれば、信長は信玄ほどの軍事指揮能力(軍を率いて戦う能力)は無かったが、信玄には信長ほどの戦略的視点(リスク計算と回避)は無かったことが分かる。
そして、天下取りには何が重要であるかもまた、信玄が一戦国大名で終わったことを考えれば、天下人としての資格があったかどうかは一目瞭然とも言える。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 14:34:55ID:Ko4UO/aO謙信と比べるならともかく、軍事能力なら信長は信玄より上のような
気がするけど。信玄は優秀な民政家だけど、外交、軍事は正直そこま
で(一般的なイメージほどには)すごくない。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 19:02:37ID:YBPKid7J信玄が優秀な民政家?
金山を掘り尽くし信虎以上の重税を課した男のどこが優秀な民政家か!
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 21:30:27ID:VcJCv18L釣れますか?
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/21(木) 22:39:51ID:j/Ul5eaxヒント:信玄堤
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 08:15:46ID:yMEA61Dh0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 14:22:58ID:DYCkthmOむしろ領民しごいて造ったんじゃないのか?
0099長尾景春の乱 ◆x5bxUqaMm.
2006/09/22(金) 14:49:51ID:POllXgID0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 00:30:14ID:7JYxARWw信玄を評するには不適切。優れた政治家ではあったろうけど。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 01:07:56ID:9QNMog+C守護や守護代、或いは国人のように地縁があるわけでもなく、
道三の様にそれらを乗っ取ったわけでもなく、完全なアウェー。
支配の正統性を主張するには、領民の支持だけが頼り。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 01:48:06ID:7FaEVRtmボコボコにして甲斐に追い返した
長 野 最 強 !
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 17:26:10ID:AVPDN2PF0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 19:07:32ID:p3kKMBAC【偉大なる信玄の弟達】
武田信繁・・・信玄の采配ミスで討ち死に。
武田信友・・・織田信長によって処刑される。
武田信廉・・・戦わずして城を捨てて逃げるが織田信長に捕まり処刑される。
一条信龍・・・上野で徳川軍に大敗。捕らえられて親子共々処刑される。
武田信実・・・長篠の戦いで松平伊忠に討ち取られる。
松尾信是・・・目立った功績もなく病死
【高貴なる息子達】
武田義信・・・嫡男。謀反が発覚。東光寺に幽閉され殺害される
海野信親・・・二男。生まれつきの盲目で僧となる。勝頼と供に自害
武田信之・・・三男。生まれつきの病弱で十歳の若さで病死
武田勝頼・・・四男。長篠の戦いで優秀な重臣達を皆殺しにさせ、十倍もの軍を擁しまがら鳥居峠で
寡兵の木曾義昌に大敗。織田の本格的進行からたった二ヶ月で武田家を滅亡へ追いやる
仁科盛信・・・五男。名城高遠城を信忠に1日で陥落され自害
葛山信貞・・・六男。織田信長によって善光寺で処刑される
武田信清・・・七男。武田家滅亡後、景勝側室甲斐御前を頼って落ちのび上杉家の家臣となる
【誠実なる一門衆】
木曽義昌・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を破り武田家を滅亡へと追いやる
穴山信君・・・義理の息子。武田家を裏切り勝頼を見捨て降伏。
勝沼信元・・・従兄弟。謀反の疑いで処刑
【優秀なる武田一族】
武田信勝・・・武田勝頼の嫡男。天目山で討ち取られる。
一条信就・・・一条信龍の嫡男。上野で徳川軍に大敗。親父と供に処刑
武田信俊・・・武田信実の子。滅亡後も生き残り1600石の旗本となる
武田信堯・・・武田信友の子。信長によって処刑
望月信頼・・・武田信繁の長男。目立った功績もなく地味に死亡
武田信豊・・・武田信繁の二男。部下の下曾根覚雲斎に裏切られ死亡
望月信永・・・武田信繁の三男。長篠で無残に討ち死に
武田信道・・・海野信親の子。滅亡時に出家。命だけは助かる
信長>>>>>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>武田一族w
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/24(日) 08:21:47ID:NCObpvRx0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/25(月) 22:34:30ID:BbGjWd30信玄厨か
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 00:57:44ID:KCHLzbdc信長や秀吉それと年を取ってからの家康には明らかに負ける
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 01:22:50ID:GIaahdRi信長を止められるギリギリのタイミングで決起。戦略的大局観を感じさせる。
足をひっぱった上杉や北条はアフォ。
周辺のアホどもを敵に回しても押し捲り、駿河・遠江を征服。家康を脱糞させる。
戦術においても超優秀。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 01:26:10ID:Sida16Iv不快になる
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 14:10:44ID:4FoEcHEP0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 14:18:37ID:MiWVd3dnどうかな
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 14:51:30ID:OB8x0tf+0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 20:44:02ID:Oiqv7/qC0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:17:58ID:SGYqQsVy俺は
秀吉>元就≧家康>>長慶>>元親≧政宗>氏康≧信玄>謙信
元就≧家康は悩んだが秀吉死後の時代に元就が生きていて(年齢はつっこまないでくれ)家康いなければ
家康と同じことができたんじゃないかと思うから
まぁ、こんな仮定は無意味っちゃあ無意味だけどなw
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:24:45ID:dfQeZkZJ特に元親は。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:32:24ID:jg6X96sp特に慶長後期から元和期の政宗は野心も見え隠れした上、
西洋人の目から見ても家康に次ぐ、大実力者だった。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 06:56:46ID:wiLv4ldh元就は良くも悪くも家康よりエグい事しそうだがな
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:01:10ID:dfQeZkZJそりゃその時には上の中では家康と政宗しかいないしな。
政宗が実力者なのはわかるが、面子を見ようぜ。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:03:13ID:SGYqQsVy0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 07:43:36ID:dfQeZkZJ0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 08:53:23ID:sxWINaTX0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 14:06:15ID:zYhOVBKjワラタ
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 16:42:10ID:XFlm69s5最終的に土佐10万石程度の大名
最大時でも四国の大部分で80万石ほど
そりゃ土佐の1/3から四国の大半を制したのは凄いが
日の出の勢いの織田豊臣に逆らった時勢の読めなさは拙過ぎる。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 16:57:24ID:SGYqQsVyあの場合は仕方ないんじゃないか?
多年苦労して切り取った領土を返還しろという要求をあっさり受け入れるのは無理じゃないか?
元親が信長に対抗したときは毛利と連合できたし
秀吉に対抗したときは家康・雑賀と同盟してたから島津・北条に比べればまだましと言えると思う
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:07:23ID:LtXgsVq0まあ、敵対しか方針が無いだろうさ
だって、領地の為に、信長にも対抗しようとしていたんだから
でも結局、秀長にやられたね……
せめて秀吉だったら、仕方がないともいえるけれど
弟のほうじゃ、大名として見劣りがする
決して、弟が弱小というわけじゃないけどね
0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 17:40:36ID:zYhOVBKj0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 18:17:00ID:SGYqQsVyあぁ、そう考えると秀長にやられたのはマイナスだなぁ
四国征伐軍は十一万と号する大軍で対する長宗我部勢は二〜三万
負けても仕方ないといえばそれまでだけどね
ただ信玄、謙信の面々が元親と同じ状況で秀長の豊臣勢を撃退できたかというと無理だと思うんだよね
俺は信玄、謙信を引き合いに出してるけど彼らが無能とはいうつもりないし
やっぱり名将といわれるに値する人物だと思うが三好といい長宗我部といい知名度低い武将は損だよな
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:15:58ID:dfQeZkZJ負けるのが早すぎた、四国征伐に関しては本来秀吉も出向くはずだったのに、
病欠してるあいだに秀長に捻られてしまった。
元親は名将だとは思うが知名度が低いだけじゃなくて、その程度の大名と言うのが現実。
三好長慶と一緒に並べるなんていくらなんでも過大評価が過ぎる。
島津・北条に比べて半分にも満たない領土で張り合おうと言うのがそもそも間違い。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:37:26ID:JhNXxdAM秀吉に対抗した時はまだわからんでもないが、信長に対抗した時の判断は明らかに
マイナス評価の対象だと思う。
「長年苦労して得た領土を〜」という感情は当然のもの。そして信長の要求が理不尽
だということも事実。しかし「拒否してそれでどうするのか?」という点を考えると
大名として仕方ないでは済まされない。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:43:24ID:zOwc6ytOどう見ても下だろ
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:50:20ID:R/HrZqjX0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 22:40:42ID:oQZoWFZz天下人の家康に勝ったから信玄最強!!!!!!!!!
少年時代の孫悟空を後一歩のとこまで追い詰めたヤムチャ様最強!!!!!!!!!!!!
どこか似ているな
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 06:29:12ID:wXT3iJ4d歴史的な業績など考えるとさすがに長慶が上じゃないか?
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 10:47:34ID:Ndg9KSza0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 12:56:51ID:n/QLvmE2江戸幕府の基礎となったほどの制度を作った氏康が上
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:07:23ID:vwMP9EHi政治面は互角だろ。
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 14:30:43ID:QaLb/aXV0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 15:43:38ID:ZOpO7JAe上杉謙信は自国の領土は拡大しなかったが、おそらく晩年は信長を打つには関東平定してからと思っただろう
彼は大儀を重んじる
関東管領の大儀から北条氏を打つのが先だ
謙信健在であれば本願寺も朝倉も従っただろう
ただ、謙信は野戦の名手で城攻めは不明だ
10万の大軍でも迎え撃つ奇策を放つ
ただ、織田信長もアイディアマンだった
織田信長は桶狭間で偶然勝利したが、あとは自軍が数が勝る戦い以外はさっさと引き上げる
武士の信念のようなものは無かった
何しろ勝てばいい、勝てそうもなければ朝廷をつかってでも一時的に和睦する
武田信玄は信長に姻戚関係をもたれ、煽てられて遅れを取った
3年喪に服せと遺言したと伝えられるが、これが武田氏滅びの要因ではないか
その間に浅井朝倉が滅ぼされては勢力の均衡は崩れ去った
勝頼が立ち上がったときはすでに武田120万石、織田250万石の差でさらに京、堺の都市を押さえていた
徳川家康は憧れの武田信玄に多くを学んでいる
一番運が良かったのは家康ではないだろうか?
秀吉政権のときにナンバー2になるほどになったが
そもそも三河遠州など60万石どまりの大名だ
上杉、毛利などよりずっと格下も格下
秀吉は気前がよすぎた
だから秀頼の時代は大阪城と黄金だけ
もし、秀吉が朝鮮出兵をしていなかったら、徳川幕府はなかっただろう
秀吉の家臣団が家康にはつかなかっただろう
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:21:15ID:QaLb/aXV0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:34:32ID:yMUGyGdg家臣や一門の掌握術や合戦じゃ氏康の圧勝だな
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 16:41:53ID:Y84I06K3あとは自軍が数が勝る戦い以外はさっさと引き上げる
これは信長の長所だろ
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 17:39:29ID:wXT3iJ4d長慶は合戦も相当上手いよ?
確かに君のいうとおり家臣の掌握は甘かったかもしれんがそれも最晩年の話
一門の掌握は甘かったっけ?
0143名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 17:46:37ID:LCrAbw4E晩年に有能な身内がボロボロ死んで
(´・ω・)カワイソス
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 18:20:37ID:Ndg9KSza地盤がしっかりしてた氏綱から引き継いだ氏康より
親父が死んで、
淡路守護の部下だったのに讃岐阿波を切り取って京まで押さえた長慶の方が凄い
0145名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/03(火) 22:18:39ID:QASIHumu0146名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 04:49:50ID:i07NiDFs氏綱公は名君だが猛将で、北条5代の中でもっとも敵を増やした大名といっても過言じゃない。
必然だったからとは言え、早雲以来の敵に加えて今川やら里見やら公方やら
関東中から敵視され収拾がつかないまま死んでしまった。
同じく父が死んだ時に、長慶は敵に許されて配下に入って後に中から崩したが、
氏康は逆にチャンスとばかりに関東中の敵が攻め寄せてきていきなり撃退しなければいけなくなった。
それを河越夜戦で蹴散らしてしまう事で一気に名前が知れるようになった。
もともとタイプが違うと思われ、長慶は合戦も凄いとは思うが、そっちはやはり
氏康の方が知名度的にも上では無いか?河越合戦、国府台合戦、小田原篭城戦×2
に匹敵する大合戦自体無いだろう。策謀では凄いと思うけど。
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 05:12:02ID:c6eYrqUE芥川山城攻囲、丹波攻め播磨攻め
1558年の足利六角細川連合との合戦
河内攻めから久米田の戦いから飯盛篭城と繋がっていく畠山との抗争
北条の戦いも古河公方や関東管領を巻き込んだ関東の政治において
影響力の大きい戦いだが
三好の戦いも管領公方を巻き込んで畿内一帯に大きな影響を与えた戦いばかりで
合戦の規模でも決して劣るとは思えない
両者の差は後世への知名度じゃないか?
0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:32:48ID:XxI8rwes0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:40:10ID:i07NiDFsこの両者の主要合戦は動員兵力数で大きな差があるよ。
割と有名な江口合戦とかでさえ動員兵力数は3000程度同士の合戦だったはず。
一方で関東では太田道灌などがいち早く気の荒い坂東武者を従えて足軽部隊を編成していたりした分、
兵力の動員数は多く、河越夜戦のような数字は眉唾にしても、
どれも万以上での単位の合戦を可能にしている。2〜3000程度のぶつかり合いなら
謙信・信玄・里見・佐竹・今川相手にそれこそ数え切れないほどぶつかり合ってるよ。
信長の勢力が介入してくるまでは、京付近は経済力はあっても、
動員力では広大な土地を持つ地方大名には敵わない。
それがそのまま合戦の規模に繋がってる。
経済力が兵数の動員力に直結するには長慶の時代ではまだまだ経済観念が未熟すぎるよ
だけど、もちろん政権中央を操作した能力は半端では無いし、
それは氏康とはあまりに異質な世界で発揮した実力と言える。
だからタイプが違うと言う事。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 06:55:46ID:IDrvvKeQ経済力があれば傭兵や装備整えられるし、さらに堺を使って補強したのは信長と一緒
経済観念が未熟とは言えないな
つか、0近くから100万石以上の大大名になる方が難易度高いだろ
0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 07:55:58ID:KoOUTp7H江口合戦の兵力は六角や細川の軍を合わせれば2万近くあったはず。
その軍が戦場に到着する前に長慶が手を打ったから3000程の合戦で終わったわけで。
あと確かに長慶方は3000程度だったがまだこの時は丁度主家に謀反した時期なので仕方ないだろう。
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 11:06:22ID:i07NiDFs経済観念が未熟と言うのは時代の話をしてるんであって、
長慶の能力の話をしてるんでは無いので勘違いをしないように。
いくら傭兵を雇うといっても、兵站の概念が弱いこの時期では、
単純に土地から出てきて戦う兵の動員力にはまだまだ敵わない、
それを越えられるほど世間の経済観念は育っていない。
難易度の話もした覚えは無い。ただいわゆる合戦の能力で言うならってだけの事。
全体的な優劣の話などしていないし、これだけでは比べようが無い。
それと細川晴元の配下だったんだから0から〜云々は無意味。
それなら元就や秀吉は信長よりも上に来るけど、それで良いのか?と言う話。
その辺の基準はわからんので比べようが無い。
>>151
仕方ないだろうとかそういう話をしてるんじゃなくて、
そういう合戦がメインだから大規模合戦をメインで行ってる氏康の方が
合戦だけなら上だろう?と言う話。ぶつかっていない細川や六角など敵を合わせても
2万に届くかと言う合戦をしていた長慶と、
国府台合戦だけでも2万以上同士の合戦、小田原篭城戦に至っては3万〜5万の兵力と
総力戦で死闘を演じてる氏康とは規模が違うと言うのはもうわかるはず。
だからタイプが違うといってるの。全体的な優劣の話などまだしていない。
0153名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 16:22:58ID:81eIqCK7江口合戦で六角とは対決してる。
江口三宅城に到着する前に先に六角の先鋒を足止めしているということ。
それで兵糧を断って士気の落ちた三宅城を総攻撃ってわけ。
ちなみに細川晴元も三宅城に篭城しており弟の一存が討ち取りを方策していたが、
長慶がそれを認めなかっただけで一戦交えず晴元は丹波に退却。
だから実際の江口合戦は3000同士ではなく、
三好長慶軍約3000対三好政長・細川晴元・六角義賢連合軍約20000
ほどの戦いってこと。
あと六角軍とは先鋒と戦っただけなので実際の軍勢はもっと多かった。
だから畿内の合戦が規模が千単位がメインというのはそちらの思い込み。
まあ関東よりは多少は劣るだろうがそちらが思うほどの差はないだろう。
0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:00:58ID:XxI8rwes0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:14:11ID:2XhysEdb結果って何だよ?
0156名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 22:23:14ID:XxI8rwes0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:29:45ID:eu0BhQAS160万石近くまでいった大大名
信玄よりも氏康こそ謙信がいなければと妄想したくなる。
長慶は0からスタートと言うべきか、それとも阿波の一部からか
最終的には山城大和摂津河内和泉阿波讃岐淡路丹波の205万石に加え
伊予の一部に東播磨も
正に大大名
最もその支配体制は微妙な上寺社領も多いし、国人は半独立状態だが。
0158名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 23:47:15ID:XRp6H/h5【プロレス】元格闘家・前田日明、所蔵の信長ゆかりの名刀三本、信長記念館(愛知)に寄付!(中日新聞)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/river/1157730651/l50
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:03:29ID:0C5ih7/F結果で言うなら、
親の残した敵を一掃し安定させた上で広大な領土を残し、
結束された一族を氏政に遺し、氏政が更に領土を拡げる事ができたのと、
部下が暗躍する中で自分も惑わされて弟までその手にかけてしまって、
気がつけば一族バラバラ、失意のままにこの世を去って、
結局そのまま三好家ごと急速に衰えてしまったのは
大きく結果に違いがあると思う。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:17:21ID:6++0XvU/0161名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:28:40ID:lf+sPCTg0162名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:17:58ID:0C5ih7/Fで終了。
0163名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 02:19:04ID:pWSSjaQh0164名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 11:59:16ID:6++0XvU/0165名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 12:24:28ID:ahhMGlG9むしろ逆な印象になった。
イメージでは石高で判断して三好が凄いと思ってたけど。
どんな支配体制を築いたかってのも大事だな。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:07:49ID:6++0XvU/特に上洛したあたりとか
0167名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 14:29:06ID:0C5ih7/F大規模合戦能力
氏康>長慶
領土拡張及び被官からの出世能力
氏康<長慶
支配体系
氏康>長慶
朝廷など中央への影響力
氏康<長慶
ただそもそも後北条家は初代早雲の時代から
朝廷やら上洛やらから決別した家なだけに、最後の部分は
氏康の評価をする意味があるのかどうか謎だけど。
0168名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:28:13ID:RwgXurZdこれは不公平だろ
中央への影響力は謙信のことを考えると氏康にもありそうだが
0169名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 15:55:32ID:6++0XvU/氏綱が朝廷に大量の献金してるしそんなに中央は軽視してないだろ
氏康とスレタイの信玄はどっちが凄いんだ?
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:01:02ID:pmfEyQAiこれを比べるのはどうかと思うぞ。
氏康は誰かの家臣であったことはないんだから、そもそも比べようがない。
宇喜多直家や毛利元就などと比べるのならばともかく。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:35:31ID:ahhMGlG9あえて優劣つけるとどうだろう?
俺は能力とは別で氏康が上手な印象がある。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 18:06:19ID:0C5ih7/F実際、家康が最強でもそれは一つの答えでは?
んな事言ったら氏康も長慶も恵まれた部分はあるわけでキリが無い。
もっともそれでも秀吉の方が上だと思うけど。
0173名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 19:55:58ID:6vTe8v55合戦規模での優劣など無理やり長慶と差をつけたいだけにしか思えない
0174名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 20:52:14ID:jSm/vD+A>支配体系
これは親からの制度も多少絡んでくると思う
それでも氏康>長慶と思うが。
0175名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 22:01:58ID:PoCULh4l大和、丹波以外の所領は一族で固め、国人の制御は幕府と和睦し解決
結果論を重視しすぎでは?
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 01:04:55ID:iK2IuXwe嫡男病死に弟病死戦死と気力も尽きるだろ。
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 02:22:58ID:zoYhcXtiそれは都合がよすぎる。
信長のように万全の体制を強いていながら、予想外の人物の裏切りで命を落としたのならともかく、
結果と言っても死後だけじゃなくて、存命中に、じわじわと
ボロボロになっていった以上、単なる結果論とは言えない。
京付近に生まれる運も実力なら、一族が死んでいく運も実力。
結果にこだわるのは石高にこだわるのと意味として同じ。
>>176
運が悪いだけじゃなくて、松永久秀の影がちらついてるのも多くあるだろう。
そもそも精神を病んでしまった最大の原因は、安宅冬康を自分で殺してしまった事が原因。
騙されますた、じゃ済まされんよ。
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 03:05:47ID:52pve3zc何か勘違いしてるようだが
確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
それだけではあれほど勢力は衰えていない
衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
これは幕府保守派である長慶の死が原因
一族の死が直接的な衰退要因ではない以上結果論とも言える
つまり便乗させすぎ
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 05:20:53ID:edEOfQ3y冬康を殺した頃にはもうボロボロじゃなかった?
長慶が終わったのは嫡男の死以後だと思うよ
0180名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:02:00ID:zoYhcXti支配体制の下降は認めるというなら
それでいいよ、十分それでも氏康より下と言える。
しかし、それはそれとして
将軍殺さなければ三好家は生き残ったに違いないとでも言いたげだけど、本当にそうか?
>>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
具体的に敵になったのはどこ?
>>179
一応精神を病んだとされるのは、冬康を殺した直後。
もっとも嫡男の死で参ったかもしれんけど、それだけで終わるような人物ならその程度とも言える。
長宗我部元親もそうだったが、四国の風土か?
0181名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 07:50:08ID:X1lKOFN7>支配体制の下降は認めるというなら
だからこれが結果論での出来事
結果論で認めたければどうぞ氏康のが上と胸張ってください
>具体的に敵になったのはどこ?
信長
義昭も暗殺に成功していればそれで済んだんだがね
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:18:03ID:zoYhcXti>>確かに支配体制の下降は嫡子義興と義賢ら弟たちの死によるものだが
自分で言ってるじゃん、コレで十分よって事。
まぁそれはどうでもいいや、それよりも興味深いのは
つまり義輝を殺さなければ信長は攻めてこなかったと言う事?
この辺の細かい位置関係はあまり詳しくないので、もちっと細かく聴いて見たい。
0183名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:38:09ID:l8jVFAxxあとは分かるでしょう
0184名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 09:47:46ID:zoYhcXtiそもそも義輝が生きてれば信長が来なかったと言う事について聞いて見たい、
どっちみち信長は京を目指して来たと思うんだが、そうではないなんか理由があるのかな?と思って。
0185名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 10:38:37ID:Q+wlFlXI0186名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 11:03:28ID:l8jVFAxx信長は上洛を目指してただろうが
仮に三人衆と久秀が義輝を暗殺せずに恭順の意思を伝えておけば
信長の上洛は大義名分がないのでスムーズにはいかない
要するに時間稼ぎってこと
そろそろ終わりにしない?
0187名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 20:42:42ID:bdfkCMK1>衰退の最大のポイントは将軍義輝を殺してしまい元より多い敵を更に増やしてしまったこと
>これは幕府保守派である長慶の死が原因
増えたか?
暗殺後信長の上洛までやっていたのは内輪もめぐらいじゃ
>>186
精々数年なんじゃ
信長は先に北畠を攻めるかもしれないがその後は攻める所無いから六角攻めて上洛となるんじゃ
大して変わらないでしょ
信長の方が優勢と見れば将軍も朝廷もあっさり信長に乗りかえるんじゃ
0188名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:30:21ID:Or4e93Ql丹波は反三好勢力の多い地域だったので将軍暗殺により国人たちの反骨を余計に高め
久秀の弟である長頼は国人の襲撃により戦死
これにより丹波は完全に勢力から消えるということになる
三人衆は上之芝の合戦で久秀を破っており
信長の上洛が遅れれば久秀も三人衆に潰された可能性も考えられ
その数年で体制の立て直しは可能と思われる
もしこの仮定で信長に負けても石高はほぼ互角なので三人衆の器量の問題ということ
勘違いしてほしくないので言うけど
将軍を殺さなければあそこまで衰退しなかったとは言ったが
将軍を殺さなければ三好家は滅亡しないとは言ってないので
それを思考にいれていただきたい
0189名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:48:07ID:zZUc8KoI0190名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:53:31ID:dRp7qgRgつーかそれ以前に義輝存命の場合、信長の進軍は遅くなるか?
義輝はもともと三好家を苦々しく思ってたわけで、
いくら三人衆が恭順したって、より強大な信長が後ろ盾になってくれようと
進軍してるんなら喜んで迎えて、とりあえず恨み深い三好家を一掃しようと考えそうな気もするんだが。
実際、長慶が死んだら地方大名に積極的にそういう動きを見せたわけで。
0191名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:38:21ID:Xf2XtJsQだまれよ、相模人
0192名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:47:43ID:yBImgM95ただ、信玄の方が保守的だった。孫子の兵法を御旗に掲げ100戦不敗の原理
に殉じた時点で、スピードにおいて信長を凌駕できなかった。
孫子の大原則は、勝てない戦はやるなだからな。
でも、信長に出し抜かれロウガイを煩ってからは、なりふり構わぬ武将になった。
それ以降の信玄の怒涛の進軍は凄まじいの一言だと思う。
ある意味信長の存在のお陰で、今の評価もあるような気がする。
0193名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:52:28ID:dRp7qgRg0194名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:55:49ID:4g7Dz5tCしっかりパパさんな氏康とじゃ、ちょっとね〜
0195名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:10:58ID:Ji1x82hY0196名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:15:42ID:39xDiGgzいい加減スレ違いだから他でやってくれよ
0197名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:38:42ID:Xf2XtJsQ互角じゃねーよ
どう見たって長慶>氏康が大多数じゃねえか
0198名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:40:03ID:dRp7qgRgそれ、俺の個人的意見だからね、あしからず。
0199名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 03:59:14ID:4t7sgAs3謙信ばかりが注目されるけど、信長も以前に上洛して義輝に謁見してるのよね。
三好に対抗するために義輝が信長と結ぶというのはあり得ないIfではないな。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 04:13:43ID:N7QDQ6gT0201名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 04:44:26ID:Xf2XtJsQ( ´,_ゝ`)プッ
0202名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 06:16:32ID:fJieL8hf長年の念願を叶えられたファンからは大喝采を受け
足手纏いがいなくなったことでパフォーマンスのレベルは飛躍的に向上し
新メンバーオーディションに世間から大きな注目が集まり
世界バレーの仕事で露出が増えることで
新規ファンを大量に獲得することは確実と思われる
そしてこの特典
新曲が売れないわけがない
0203名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 07:46:00ID:3cX/TCyL信長と信玄は何処に行ったんだ?
0204名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 07:57:58ID:dRp7qgRg信長だけでなく親父の信秀の代から朝廷・公家・幕府に親交があったようだし、
敵対する三好家に関係する堺公方とつながりのあった主筋の方の織田家を
蹴散らしたのも信秀だし、義輝が助けを求める可能性は大いにあるかな・・と。
そういえば堺と言えば長慶って堺関連以外になんか政治面で有名なのあるのかな。
0205名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:06:25ID:39xDiGgzてか、これ以上やりたいなら新スレたてたら?
邪魔だよ
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:15:34ID:dRp7qgRg0207名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 08:30:34ID:copyt2lTずっと粘着してる奴が消えないと話題変わらないな。
すぐ話がそれる。
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 00:41:58ID:gIy0lFU9あと、本山氏との戦いが長かったのがいたい。
四国って中央より装備が遅れてたんだろ? それに、四国征伐のときは一度勝ってるはずですが・・
あと、元親についての本が少ないのも原因だろに・・
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 13:48:37ID:LS3kAqxA>あと、本山氏との戦いが長かったのがいたい。
それは仕方が無いだろ、元は本山氏の方が国力は上だったのだから。
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 16:04:08ID:mbIwaC6Dそれって引田の合戦でしょ?
四国征伐のときとは軍勢が違いすぎるし(確か長宗我部方のが多かった気がする)
総大将が長宗我部ファンが色々言ってる仙石秀久だしたいしてプラスにならない
やはり他の地方の覇者と比べると一段も二段も劣るのではないだろうか
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 18:07:21ID:LS3kAqxAそれなりに評価できると思うが
どれも長宗我部氏と同程度の存在
これだけの相手を破っている大名なんてそうはいないと思う。
また秀吉に負けて領土削られたとはいえ
最終的な土佐一国も継いだ段階と比べれば3倍ぐらいにはなっている
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 23:44:16ID:DFgBkcQg大将として大きくマイナスだと思う。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 11:16:54ID:jwYmO3vn何気に秀長はかなり戦上手だと思うよ。
但馬攻めも四国攻めも九州攻めも圧勝して完全に相手の戦意を挫いた。
九州では義弘の伏兵を見破って裏をかいたんだよな。
大軍が小兵や要害に手こずったり大敗するのはよくある話。
実際、九州攻めも秀吉側はけっこう苦戦してるし前年の義統は大敗。
大軍であっても無難に勝ちを重ねるのはとても難しいこと。
>>212
万が一にも勝てる可能性があれば戦うのが戦国大名。
弱小勢力はそうやって勢力を拡大していく。
島津も北条も勝ち目の薄い戦いで勝って大きくなった。最後に負けたがw
毛利のように折れる手もあるが、あそこで戦ったからといってマイナスにはならない。
ピンチはチャンスってよく言うでしょ。
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:06:53ID:rNRgrYWaそして外交がヘタというのが、大名としてダメだといっているのでがって、軍事
がどうこうではない。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 22:09:20ID:m9YioEGFぐらいしとけば四国の半分は長宗我部領だったろうしねえ。
そうすれば九州攻めで先鋒に出されて嫡男討ち死にも多分なかっただろう
に(基本的に先鋒は譜代+新占領地軍)。
0216名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 22:58:47ID:YyZyHq8d老衰って病なわけ?
0217名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 01:03:35ID:prVrAEiRなんていうか自分を客観視することが下手な大名だと思うよ。
プライドをかけて戦うのはいいし、勝ち目の薄い戦いも良い、
それだけで外交力の無さとは言わない。
ただその戦いまでに行っておく外交と言うものが存在するわけで、
その点で北条家なんかは出来得る限りの対抗策は外交面でも行ってるわけで、
それでも勝てなかった時勢の流れはどうしようもないが、
それでもプライドにかけて戦うと言うのならわかる。
だが元親はその前に出来る事があったと思うんだよ、
信長の時点でもそうだし、明智、柴田、徳川と再三チャンスもあったし、
羽柴に対しても外交上の関係を作るチャンスはあった。
しかしどちらも中途半端、そうしてるうちに結局後ろ盾も無く真っ向勝負する羽目になった、
これが頂けない。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 16:24:00ID:1ROV4T/8信玄は確かに名将だ、お家第一の戦国大名としては。
ちっとも不敗じゃないけどな。あと、外交もいまいちだし、戦略もあれだし、小さな城も落とせないし、
織田と戦う大きすぎる決断をしときながら病に倒れるてるし。
いや、こう書くとひどい大名のようだが、まあそれでも名将ではあるよ、普通の戦国大名として。
で、信長は普通じゃない。
悪いけど、信長と信玄なんて比べるまでもなく信長のがすさまじいよ。
名将と英雄は違う。英雄、という言い方はすかないけど。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 19:00:56ID:Xehlu2xb0220名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 09:34:52ID:Mr6i6l3I彼には何か持って生まれたものが違うよ。
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 10:41:24ID:QjEqpdZK俺も信玄は、名将の中の名将だとおもう。
名立たる甲斐の武将達から高い忠誠を集め、家臣団の結束も固い。
どんなに織田家の所領が大きくなっても、信玄だけは侮れる相手ではない。
実際に信長も信玄を終生侮ることはなかった、と言われているし。
史実的にも軽挙は一切していない。やはり信玄強き男よ。
でも、信長がすごすぎた。例えば浅井長政の謀叛で、九死に一生を得た金ケ崎の撤退戦で、
あろう事か京に逃げ帰って、本拠地に戻らず、そのまま態勢を立て直して、すぐさま取って返す男でっせ。
信玄は信長の話を聞くたび、内心に、焦りを感じていたのではないかなー。
無論、家臣が動揺するので、普段は平静を装っていたけど、心中穏やかだったとは
到底、思えないのである。
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 11:07:23ID:SMU9MjK6ホントに名将なら武田滅亡の原因を全て作って死ぬことなんてありません
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 11:25:32ID:+1ncjQ+7なにがどうあっても他人の下にはつけない名将ってのもアリだろ。
一大名、一武家としてはどうかと思うが。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 12:18:55ID:SMU9MjK6いや、そういうことじゃなくて 勿論信長を敵に回すというバカなことをしたのも滅亡の原因だが
武田義信殺したのに関しては一切擁護できないだろう あれはあまりにもバカすぎる
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:31:31ID:RZnd+kNE当時の他大名の中にもそれなりに例はある(隣の徳川とか)。
対立して修復不可となったら、最終手段としてはアリと思う。
信玄には他にも息子もちゃんといたし。
その後の権限委譲がスムーズに言ってないのが問題。
あ、信玄の外交の評価は別問題ね。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:18:48ID:rgffYqiGそれに家康の息子の秀忠みたいな頭のいい優秀な子がいないわけだし信玄の息子には
まぁその可能性があった義信を殺して頭の悪い勝頼を溺愛してたんだよな
嫡男を溺愛しないでアンポンタンを溺愛したから不満を抱いて謀反したんじゃねーの?
やっぱ信玄は糞
0227名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:20:39ID:rgffYqiG何自分の都合よく同盟破棄しまくってんだよ
氏康にも見放された信玄糞
0228名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 19:07:58ID:zh9WPnYK0229名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 21:10:33ID:SCv3Hc3dそりゃ勝頼が有能であってもその才能もちょっくら程度じゃ無理なもんは無理
信玄は秦の始皇帝と同じ
実力と業績は天地程の差はあるが
0230名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 22:23:36ID:6WGQ2Bev信玄が優秀であることをアピールする際に、彼の死後武田が瓦解した理由付けとして
凡将であるというレッテル付けをさせられた。
もちろん信長クラスの名将であったとはお世辞にも言えないが
0231名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 22:30:23ID:4gzRLGjC次元が違う。
信長がいなかったら、日本も特定アジアのような国に成ってただろう… あぁ恐ろしや
0232名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 00:20:53ID:NLgnI8M6勝頼は十分アフォだろ
0233名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 18:43:09ID:pScNy4aP信玄よりかはマシ
0234名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 23:06:23ID:tQ2bJ3i20235名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 01:52:28ID:Hp32BwVZ今川攻めだって、海と金山がほしかったわけで、仕方なしに、北条とのどうめいを切ったわけで。
あと、兵農分離ってのができてなかったのが痛いかと・・
跡継ぎに関しては正式には勝頼ではなく、勝頼の子供の信勝が世継ぎとして指名されてたような・・
0236名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 15:09:26ID:pL09aeqX兵農分離神話もいい加減にして欲しいものだ。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 17:48:55ID:tzyB7LGp長い間作られてこなかった。
0238名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 02:26:27ID:jFcDSng3だが日本の歴史は天皇家や独立権を持った地方勢力の記録などがある分、
かなりしっかりしてる方ではある。
0239名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 18:11:06ID:6WPSxryU信長と比べる自体おごましい
0240名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 19:33:31ID:JQfqT7m/0241名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 20:42:50ID:l2/QFl8T才幹面では実際の所やはりイメージ先行
0242名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:10:33ID:JQfqT7m/今川氏からの積極的な動きの結果でもあるという説が有力だぞ。
他になんかある?
0243名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:46:13ID:9SB5+JbE兵農分離ができたかどうかって、大切な論点だと思いませんか?
一大傭兵部隊を組織したことによる、濃尾平定後の進軍スピードっていうのが
重要なテーマかなと。
最もあくまで傭兵は傭兵、半兵半農の軍に比べると部隊への帰属意識の弱さから
敵前逃亡もへっちゃらさとでも言うべき弱さを事あるごとに露呈しちゃってるんだけ
れども、(この辺はフリーターと正社員の愛社精神の違いに通じるかも)
そんなとこで兵農分離をあきらめない信長の優秀さが、大鉄砲部隊や鉄鋼船
等々技術革新に繋がり、(フリーター比率が高くてもでも店舗を拡大し続けれる
ファミレスみたいな)当時の日本では誰も成し得なかった一大革命が出来たのだと
考えられませんかね?
徹底した合理主義=信長
信長のシステムを最大限に使いこなした=秀吉
大量の甲州金によって反織田の守旧派による信長包囲網を築いた=信玄
という図式にしてしまうと、やっぱり革命児信長に軍配が上がるのかなと。
0244名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:48:41ID:8oUY350v徳川との約束破って目の敵にされるわ、
北条を軽く見て、一時駿河放棄+全面戦争はどう考えても自ら招いた失策じゃないか?
もし北条を味方に留めるつもりならば、その努力が全く見られないし、
敵に回す気ならばそれでいいが、北条の侵攻に当然備えていなければならないのにその様子も見られない。
ちょっとこれは甘いだろ。
0245名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:53:20ID:WBfOyyF5>一大傭兵部隊を組織したことによる、濃尾平定後の進軍スピードっていうのが
>重要なテーマかなと。>>243
「兵農分離」「傭兵部隊」とは、何を原資料にしてるのか、教えてくれ。
出典史料の段、条も教えてくれると嬉しい。
0246名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 21:58:45ID:MAEP1se22chの戦国時代板だと思う
0247名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:05:18ID:nSdxb7+x家臣は土地にへばりついて農業をするわけにはいかなくなった。
結果として兵農分離になったの。
信長が合理的に判断して兵農分離をしたわけじゃないのよ。
それは跡付けの理屈。
結果オーライで、信長を含め皆が兵農分離の重要性を後で知ったわけ。
0248名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:19:21ID:WBfOyyF5「信長公記」にある清洲弓衆の屋形焼き(安土強制移住)でおK?
信玄時代の甲斐における「恩給衆」(専業武士、ちなみに年貢免除の軍役衆が半農兵)と同意なのか?
「甲州史料」「妙法寺記」「甲陽軍鑑」ほか。
>結果として兵農分離になったの
そのとおりだと思うが。
いずれにしても、9SB5+JbE(>>243)は出典を答えられんのかな??
0249名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:24:36ID:JQfqT7m/信玄の駿河侵攻前から北条は今川とくんで塩止めをやっている。
これを味方につけようとすれば今川方に気取られて防衛体制を整えられて
駿河侵攻がうまくいかなくなる可能性もある。
駿河をとって北条を防ぐという方針ならそれほど途中までは悪くない。
薩垂峠でも両軍はいい戦いをしている。直接の撤退の契機は上杉氏の動きだからな。
まさかあれほど対立していた上杉と北条が同盟して自分に向かってくるとは予想外だったろう。
まあ、これは北条方の外交手腕を誉めるべきか。
家康に関しては、家康だって掛川城の開城条件に駿河から信玄を追い出して
氏真を復帰させることを挙げているから、向こうももともと一時的なものと
思ってたんじゃないか?結局徳川は武田包囲網のときには大した動きはできなかった
しな。それほどの失着じゃないだろう。
0250名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:25:23ID:G/iuLiTK誰が最初に言い出したんだか。
0251名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 22:36:39ID:WBfOyyF5>まあ、これは北条方の外交手腕を誉めるべきか。
だが、その上杉北条同盟がほとんど機能しなかった謎は、どうなんだろう?
上州上杉領の割譲とか、氏政を謙信の配下として同陣させる要求があったとか、諸説あるが。
平山優氏が『武田信玄』(吉川弘文館)の中で丸山和洋氏の論文を紹介して、
「越相一和」と前後して、謙信と信玄の間で「甲越和与」が結ばれていたと主張しているね。
信玄が信長(足利義昭)を通じて画策したという説だ。
この説が正しいとすれば、信玄のほうは準備万端だったということになるが。
0252名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:00:43ID:JQfqT7m/甲越和与は第一次駿河攻めから帰還してからの話だったと思う。
信玄は第一次駿河攻めから帰還した後に、甲越和与の他に越中一向一揆や芦名を
けしかけて謙信の動きを封じている。その後で北条攻めにとりかかっている。
越相同盟は発足こそしたものの、いざ北条が攻められて両者の全面的な協力が必要になると
お互いの利害の食い違いで話にならなかった。
(上杉は北条に上野・武蔵・下野の返還をもとめており、これは北条には受け入れられないもの。)
結果として信玄の侵攻にこの同盟は機能せず、越相同盟は破綻した。
0253名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:11:18ID:WBfOyyF5>甲越和与の他に越中一向一揆や芦名をけしかけて謙信の動きを封じている
かなり矛盾した内容だね。謙信と和を結びながら後背(越中・葦名)から謀略を仕掛けた(これは史実)と?
それ(和議と謀略)を本当にやったのなら、信玄は震源というか権謀術数の名将だが。
後段は通説どおり、史料的な裏づけもあるので同意。
0254名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 23:55:35ID:JQfqT7m/信玄が駿河を攻めたのは1568年の12月の事だったから第一次駿河攻めのあとと
いうのは早計だったか。ただ、それらの影響は帰還後の甲越和与の後も残り、
謙信の足を絡め取ったことと思う。特に越中一向一揆はその後何年も謙信を悩ませる。
0255名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 00:13:29ID:wwKfPTeh越後に乱入するように越中一向一揆の勝興寺に仲介を依頼してたりする。
結局権謀術数の名将って言う感じだな。
0256名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 00:50:02ID:TQp1XX+qこれは史実ではない。というか、もっと複雑なんだな。
椎名一族は為景いらいの越中郡守護職、椎名小四郎が長尾氏(藤景)の養子に。
よって、謙信(長尾景虎)が神保(武田方)と対立した椎名を支援(永禄二年)、
その後、信玄が椎名を篭絡して越中から越後を伺う。神保一族の反武田派が謙信を頼り、ふたたび越中の争乱。
最終的には小四郎を椎名の名代にした謙信が越中を平定。越中は複雑怪奇だな。
0257名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 10:09:54ID:p4wBYUQ00258名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/07(水) 12:10:42ID:wwKfPTeh負けている。
0259名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/08(木) 22:47:39ID:46+KBBWyしかもこれは好意的な見方 そもそも無かったという説もあるし大した戦でもなかったという説が強いからな
0260名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/12(月) 00:39:11ID:kw6QxEM9天下平定を視野に入れた信長と比べるのは無理がある。
0261人間七七四年
2007/02/13(火) 07:41:30ID:VaFWLXYu天下統一を目指した武将が目指さなかった武将より優秀というのは無理がある。
0262人間七七四年
2007/02/20(火) 02:38:15ID:4i9KDpaL違うよ。天下統一を目指す以前のレベルの信玄は論外だということ。
略奪で生計を立てるやり方ではね。
0263人間七七四年
2007/02/20(火) 06:39:46ID:QV/ETtT1お前は いつの時代の人間だ?
弱肉強食の時代ではそれが優劣の分かれ目だが
0264人間七七四年
2007/02/20(火) 23:22:33ID:BRMBQxuw0265人間七七四年
2007/02/21(水) 03:08:13ID:U8QIianl信長はそれを超越してたってことだよ。
信玄はいつになっても略奪しか能がないから、あんだけ信長と差が開いたんだよ。
信玄の勝率97%なんて信長の前には何の意味もなさない。
0266人間七七四年
2007/02/21(水) 03:39:35ID:vtut36JR飢饉や水害にも悩まされ、整備も整ってない貧しい山国で
信玄がどれだけ内政に力を注いだのか少しでいいから考慮してくださいよ。
0267人間七七四年
2007/02/21(水) 03:55:08ID:SfhGYpIM0268人間七七四年
2007/02/21(水) 03:58:37ID:XXupo6NN逆を言えば、そこが信玄の最高の名将っぷりでもあるんでね?
自分より強い奴より、弱い奴と戦い続けるのが鉄則であり、最高のシナリオ。
それを一生続けられたっていうのは、ぶっちゃけ凄いと思われ。
0269人間七七四年
2007/02/21(水) 14:14:59ID:SfhGYpIM一生それで拡大しつづければ凄かっただろうが、結局は甲斐信濃+今川弱体後の駿河で手詰まりで、
周辺の有力勢力相手には全くと言っていい程拡大出来なかったところが、所詮は信玄の限界だったとも言えるんじゃない?
0270人間七七四年
2007/02/21(水) 14:48:10ID:vtut36JR駿河制圧後は徳川や織田の領土をわずかな期間の間に
結構とっているじゃないか。
全くといっていいほど、とかいうのは違うだろう。
0271人間七七四年
2007/02/21(水) 17:07:32ID:YQ8hA7x1上野にはかなり手を伸ばしてるんだが。
0272人間七七四年
2007/02/21(水) 18:00:17ID:vtut36JR0273人間七七四年
2007/02/21(水) 18:27:57ID:YQ8hA7x1特に三河はそれなりに取ってるし、上野は面積的に半分に迫るほどまで侵攻してる。
0274人間七七四年
2007/03/31(土) 12:28:27ID:a8SMGOUS0275人間七七四年
2007/05/06(日) 15:24:03ID:56TbfRlE0276人間七七四年
2007/05/11(金) 11:11:57ID:PpSlZjVCその優秀さを持っても、人生の中でそのハンデを覆しきれなかったわけだし
どこまで支配欲があったか自体は置いておいても、当時の地理的な問題は大きいというか、
ほぼ野心や動機のほとんどに直結してると思うが
もし○○じゃなく、○○に生まれていたら なんてのは、信玄だけじゃなくても
面白い人物は人それぞれで幾らでもでてくるだろうけど、こればっかりはしょうがないな
0277人間七七四年
2007/06/21(木) 23:44:17ID:/n2sq2yM0278人間七七四年
2007/06/22(金) 11:30:27ID:QyoKnMH6人格的には信長よりも優れていたんじゃない?
0279人間七七四年
2007/06/22(金) 12:48:44ID:mhWGAdSUそ れ は な い
0280ソユーズ
2007/06/22(金) 21:42:55ID:vu8aicm60281人間七七四年
2007/06/23(土) 00:40:48ID:ycT6zewR信玄と信長でわざわざ 人 格 で比較するってなんかの罰ゲームですかw
0282人間七七四年
2007/06/23(土) 03:58:25ID:OyxIyPH90283人間七七四年
2007/06/23(土) 05:12:56ID:prpW+pcyないよりはあった方がマシぐらいだろ
0284人間七七四年
2007/06/24(日) 00:59:12ID:NXt1RP3I0286Y ◆nzdGjBH722
2007/06/27(水) 00:22:05ID:ukntER8O実際はそこまでひどくなかったんじゃない?
0287人間七七四年
2007/06/27(水) 19:42:54ID:vRW1RgmAと民衆に嘆かれてるから、どっちもどっち。
ただ、信玄の方が年貢の率は弄らずに夥しい数の税を課すなど、更に巧妙に搾り取ってる。
0288人間七七四年
2007/06/27(水) 19:56:36ID:Q4Wz/XAXなっていくんだけどな。「これ以後にもないくらい分捕りができた」とか
喜ばれてもいるしな。
0289人間七七四年
2007/06/27(水) 22:11:58ID:UmGl0P0Z初期兵力二桁という状態で叔父などの競争相手討ち取る
『武田氏研究35号』だと信虎の成年が1498年となるから10歳ほどで恐ろしいほどの手腕
信虎が家督を継いだ段階では甲斐西部は諏訪の縁戚の今井氏とかが
甲斐西部南部は今川の影響下にあり、今井大井氏などを支援
小山田家も信虎には従わず
信虎が支配しているのは甲斐国中の極一部、
それを今川伊勢諏訪などの影響を排除しながら1532年に豪族の最後の反乱を鎮圧して統一
その後今川との同盟を実現し(反対した奉行衆の逃亡と前島一族の族滅なども招いたが)
その後佐久小県へ進出
内政面では各金山の接収開発、治水、甲斐一国にたいする棟別銭の賦課
躑躅ヶ先への移転、甲斐の国人から人質を集め城下に集住させる
職人を集め城下町の建設
伝馬制度を整え、印判の使用、奉行衆などの制度
不当な諸役賦課の禁止、武田家の印判のない命令書の無効
家臣登用も小幡多田原横田など甲斐に地縁が無くても優秀な人材は重用
また春日なども信虎が登用したとも
外交的には小山田穴山と姻戚となりとりこみ
奉行衆の反対などを押しきって今川との同盟を実現、信濃進出への道を開く
諏訪家に介入し金指氏を旧領に戻して諏訪家を弱体化
普通に優秀だと思う
通説で信玄の成果とされている甲斐の国内政策も信虎がその基礎を築いているし
>>288
そのような記述は信虎時代もあるし、1550年代後半になるとまた不満が増えているから
基本的には信虎時代と一緒で、
>信濃攻略がうまくいくようになると文句もなくなっていく
というのは間違いだと思う
0290人間七七四年
2007/06/27(水) 22:45:43ID:Q4Wz/XAX受けてさらに謙信との川中島も膠着してて分捕りで補う事もできない状態。
不満が出てきてしまうのは仕方が無い事では?
0291人間七七四年
2007/06/27(水) 23:02:23ID:UmGl0P0Zだから信虎時代に書かれた不満も
信玄治世初期の不満も57年からの不満も
基本的には自然災害とある程度重なるから
>信濃攻略がうまくいくようになると文句もなくなっていく
というのは間違いだって言っているのだが
0292人間七七四年
2007/06/27(水) 23:09:33ID:Q4Wz/XAX負担のみが増大していく→不満が出てくる→信濃攻略がうまくいく
→戦利品が手に入る→文句が少なくなる
なんか問題あるのかな。あおりではなく。
0293人間七七四年
2007/06/27(水) 23:15:59ID:UmGl0P0Z信玄時代だと1541年1548年1557年1567年前後は本当に大災害大飢饉だったのに対し
(若干年数はずれているかもしれないが)
それ以外の時期は普通に災害が書かれている程度で
1567年のは『妙法寺記』じゃないが
0294人間七七四年
2007/06/27(水) 23:31:50ID:Q4Wz/XAXそこまでして行っている戦争がうまくいかなくて戦利品もなければ
そりゃ不満がたまるだろ。
0295人間七七四年
2007/06/27(水) 23:38:49ID:UmGl0P0Z0296人間七七四年
2007/06/27(水) 23:46:21ID:Q4Wz/XAX不満にはなるんじゃないか。
0297人間七七四年
2007/06/27(水) 23:58:42ID:UmGl0P0Z信濃攻略が上手くいって不満が無くなったわけでもない
まあ信玄時代のほうが信虎時代より税は重かったようではあるが
0298人間七七四年
2007/06/28(木) 00:05:33ID:7FhnXFdF戦利品も手に入れば不満の声は少なくなるだろ。
災害が酷くて戦利品の実入りで補えなければ不満もでる。
信虎時代は最後に信濃の一部に領土を得たけど、その前は何回か
他国の勢力と戦ったり、他国に出兵した事もあったけど
基本的に領土はあんまり増えず参加してる甲斐の農民からすればあんまり
実入りがなかっただろうから、そこらへんも不満を持たれる理由だったんだろ。
0299人間七七四年
2007/06/28(木) 00:09:28ID:eX/rdGIk具体的に信虎時代の何年の記述?
信虎時代でも災害が酷かったり、今川北条に攻められたりしたときは別として
不満は無かったと思うが
0300人間七七四年
2007/06/28(木) 00:21:28ID:7FhnXFdF追放しました。民衆が皆満足した事限りありません。」っていうの。
信虎の悪行っていうのは後世脚色されたものではなくて、不満を蓄積させた
ことだろ。
さらに塩山向岳庵小年代記の「晴信様は万民の憂いを救おうとして信虎を追放し
これにより人民は快楽の笑いをふくんだ」
王代記の「晴信様が当主になった事で一国は安全になった。」
などの記述から相当不満が蓄積されていたことはうかがえると思うが。
0301人間七七四年
2007/06/28(木) 00:52:02ID:eX/rdGIkそれで相当不満が蓄積されていたことはうかがえると思うのであれば信玄も同様に
不満が蓄積されていたと言うことになる。
あなたが自分の主張を通したいのであれば災害と無関係な不満を挙げないとあまり意味が無い。
あと信虎初期の甲斐国内の内乱や今川伊勢氏などの軍による不満も信玄とは状況が
異なるのであまり意味が無い。
0302人間七七四年
2007/06/28(木) 03:58:36ID:7FhnXFdFにもいいことだった」という事。うまくいかなければ不満が現われるし
酷い災害とかあった時少々の戦利品では埋め合わせがつかない時は不満の声も
上がる。でも信玄はいろいろあったが信濃を着実に侵略し戦利品を獲得して
いた事は兵士達や庶民に支持されていた。信虎は諏訪やら北条やら今川やらと
争い何回か他国に出兵してもいるが領土が伸ばせたわけでもなく、戦利品も
信玄程に得られていたわけでもなく負担は蓄積した。信虎の追放が災害からの
影響という事もあるだろうが、それをいったら信玄にも弘治から永禄にかけての
大災害があった。でも信玄は追放されず権力を握り続けられたのは
その勝利による戦利品などの利益が民衆に支持されていたからで、
甲斐の民衆にとっては信玄のほうが信虎よりも良かったのだろう、という事。
0303人間七七四年
2007/06/28(木) 22:12:33ID:xGgRF5x1>でも信玄はいろいろあったが信濃を着実に侵略し戦利品を獲得して
>いた事は兵士達や庶民に支持されていた。
信虎時代も信玄時代も支持はあったり不満あったりしているし信虎も信濃に侵略している
両者の不満支持に何らかの決定的な違いがあるというのであれば是非提示して欲しい
>信虎は諏訪やら北条やら今川やらと
>争い何回か他国に出兵してもいるが領土が伸ばせたわけでもなく、戦利品も
>信玄程に得られていたわけでもなく負担は蓄積した。
そんな不満何処に書かれているの?今川北条らに攻められた時の不満や追いかえした時の支持
今川と同盟結んだ時の民衆の支持は書かれているけど
蓄積していた言うからには大災害のあった1541年以前から特別な不満があったということになるので
あと信虎はそもそも甲斐の極一部から始まったので、信玄以上に領土を伸ばしているし戦利品も得ているといえる
信虎と信玄で比較するのであれば本来は信虎の本領と信玄の本領、
若しくは信虎が征服した地域と信玄が征服した地域で行う方が正しいかもしれない
>それをいったら信玄にも弘治から永禄にかけての
>大災害があった。でも信玄は追放されず権力を握り続けられたのは
信玄が隙を見せなかったことに対し、信虎は少数の供で国を留守にするということをしている
仮に追放しようと思っても無理
>その勝利による戦利品などの利益が民衆に支持されていたからで、
だから最初から言っているようにそれは信虎の時も一緒
それにこの災害の時期は民衆には支持されていない
>甲斐の民衆にとっては信玄のほうが信虎よりも良かったのだろう、という事。
以上のことから実際はともかくあなたのそれは根拠の無い妄想にしかなっていない
信虎と信玄が違うということを証明したいのであれば
自然災害とは別に不満が溜まっていたという証拠を提示しなければ証明できない
まあ研究者にも証明出来ていないことだから(だからこそ未だに信虎追放の原因がはっきりしていない)
不可能だとは思うけど
0304人間七七四年
2007/06/30(土) 05:38:37ID:OZMtt+xp食うか食われるかの世界
完全な弱肉強食社会 うんざりする位遺恨だらけの権力闘争
もう日本人戦争しないほうがいいのでは
0305人間七七四年
2007/07/04(水) 15:00:16ID:rwCblCUx0306人間七七四年
2007/08/30(木) 23:06:49ID:WG0HlAqH0307人間七七四年
2007/09/05(水) 23:57:40ID:G7k3I2OJ運をものに出来るというのは、常人では無理どころか幸運が通り過ぎたことに気付かない事だって有るぜ。
それをきっちり物に出来るのならば、十分傑物。
0308人間七七四年
2007/09/10(月) 22:36:11ID:rzyZotOD逆に血縁者に殺されるアフォってパターンが過小評価されていると思うのだが
0309人間七七四年
2007/09/25(火) 06:06:35ID:7omKgHfU0310人間七七四年
2007/09/25(火) 11:01:50ID:/XRyvfZX殺された血縁者にしても、信長のように家臣に殺されるよりマシと思われ。
0311人間七七四年
2007/09/25(火) 12:09:35ID:pYipuKi3有利か不利か議論したら信玄がどんだけ不利な条件かわかるでしょ
信長厨はいつも
これについて避けるのよね
0312人間七七四年
2007/09/25(火) 13:42:32ID:oVx4GoVj0313人間七七四年
2007/09/25(火) 13:54:04ID:5xqhSjpsそら甲斐の方が有利じゃないの?
敵少ないし
そもそも信玄が尾張にいたら
普通に今川に踏みつぶされてるだろ。
0314人間七七四年
2007/09/25(火) 18:26:56ID:V/rCbWq5ないないw
0315人間七七四年
2007/09/25(火) 18:33:55ID:V/rCbWq5信長については、運が良かったからな。
後は、尾張は物資が豊富だし、甲斐よりか上洛しやすいし、今川を除く強敵もさほどいない。
ここまで環境の差があるのにこの二人を比べるのはおかしいと思うが。
0316人間七七四年
2007/09/25(火) 18:34:03ID:WcspncPF信玄は一生甲斐、信濃の山から下りてこられなかっただろが。
ひたすら謙信と不毛な戦いに終始。
0317人間七七四年
2007/09/25(火) 18:47:12ID:WcspncPF美濃の斉藤、越前の朝倉
六角、三好いずれも信玄が相手にしてた村上辺りとは
比較にもならない大勢力だぞ。
0318人間七七四年
2007/09/25(火) 19:42:53ID:hE8OPBmI実質強敵といえたのは三好ぐらいじゃね?しかも三好とぶつかるまでには軍を大きくすることは可能だったから、
この4大名は領土のわりに脅威となり得なかったのでは?
0319人間七七四年
2007/09/25(火) 19:47:54ID:TlevBQIRしかも今川と戦いながら
確かに環境の差はありすぎるが、それは信長の方が不利過ぎるということにしかならないと思う
0321人間七七四年
2007/09/25(火) 20:27:24ID:hE8OPBmIあの時の信玄のアテは本願寺。前回の包囲網で醜態をさらした朝倉を当てにするはずないだろ
0322人間七七四年
2007/09/25(火) 20:43:53ID:OXanhFW8本願寺は組織的な行動がとれるような体制ではない
一向宗を信じる地侍や百姓が一揆起こしたのは本願寺の体制とは関係無い
0323人間七七四年
2007/09/25(火) 21:02:50ID:DrZ9scRY0324人間七七四年
2007/09/25(火) 21:06:10ID:hE8OPBmI0325人間七七四年
2007/09/25(火) 23:13:50ID:Zhuv/x3w0326人間七七四年
2007/09/25(火) 23:56:38ID:FFINAEku信長の本隊と正面衝突して重臣を何人も討ち取った朝倉軍は
信玄から見りゃ神みたいなもんだろ
実際に「強い強い朝倉さんが信長の相手をしてくれなきゃ弱い僕ちゃんは困るんですぅ〜」って泣き言ぬかしとるがな
0327人間七七四年
2007/09/26(水) 00:16:03ID:1f9Q7y6V後はド田舎の豪族連中に大苦戦してただけ。
0328人間七七四年
2007/09/26(水) 00:29:07ID:95gZxuN/武田は名門だが国力は
そのド田舎の豪族連中と同レベルなんだよね
スタート時の甲斐は小山田と勢力2分してた
実質、板垣甘利が死んだ上田原の戦いまで
信玄は担がれ主君だったわなw
結論
信玄は不遇杉
0329人間七七四年
2007/09/26(水) 00:46:40ID:1f9Q7y6V十万石以上の村上や長野といった一定以上の勢力を持つ相手には負けまくる信玄。
信玄は甲斐一国の時点で二十万石相当+金山あるのに。
スタート時の不遇っぷりは
毛利元就≧北条早雲≧武田信虎≧尼子経久>(超えられない壁)>織田信長>上杉謙信≧今川義元>武田信玄
甲斐信濃のド田舎に、重臣に担がれて信虎を追い出した信玄以上の国力を持つ相手なんて存在しない。
あれだけ恵まれたスタートを切れたのは信虎のお陰。
0330人間七七四年
2007/09/26(水) 01:05:34ID:95gZxuN/毛利元就≧北条早雲≧武田信虎≧尼子経久
このあたりと信玄とかじゃ立場が違いすぎね
だったら秀吉が一番不遇になるw
大体、信虎おかげで信濃豪族すべてを敵にして
駆逐しなければならなかったわけだが
0332人間七七四年
2007/09/26(水) 03:34:51ID:EV+cU/HN>一向宗を信じる地侍や百姓が一揆起こしたのは本願寺の体制とは関係無い
本願寺から一揆蜂起の指令が出てたんだよ。
仏敵信長と戦わないと破門され地獄に堕ちると脅されてな
0333人間七七四年
2007/09/26(水) 22:20:43ID:qLCrXxLB信長は君主の器だし信玄は将と論じられるべき器
0334人間七七四年
2007/09/26(水) 22:37:20ID:1f9Q7y6V戦術に天と地ほどの差がある
0335人間七七四年
2007/09/26(水) 23:26:10ID:ujjaV7AE0336人間七七四年
2007/09/27(木) 13:39:13ID:SFg6xi8c前線指揮官としての器の差は埋めがたいものがある。
0337人間七七四年
2007/09/27(木) 19:24:09ID:aqRLyBU4そんなものは部下に任せればいい。
0338人間七七四年
2007/09/27(木) 21:37:38ID:XhJCbZhoそこらへんが戦国最大のカリスマと呼ばれる所以だけど
0339人間七七四年
2007/09/27(木) 22:38:18ID:aqRLyBU4信長が連れて来たのは3千でも砦の兵力を無視している。
最初信長は包囲していた1万5千の一角を3千の兵力で突破して
砦の兵力と合流し、その後で兵力を2段に分けて出撃している。
佐久間・明智という大身の武将に加え猪子・大津・江川衆も加えた砦守備軍が
少ないとは思えん。信長+砦守備軍でも本願寺勢のほうが多かったのは事実だろうが
5倍であるはずがない。信長公記自体には大幅な兵力間違いもあるしな。
一万五千もどこまで信用できたものだか。
0340人間七七四年
2007/09/28(金) 02:42:23ID:l+YXaO8l五倍は誇張にしても、劣勢を覆す戦をしているのも事実。
兵力差1/2以下の相手に苦戦したり、負けたりしている奴に比べれば明らかにマシだろ。
まあ、あくまで戦術レベルの話な。
0341人間七七四年
2007/09/28(金) 11:17:37ID:G1eVIeJd0342人間七七四年
2007/09/28(金) 12:15:45ID:VeDc15hb常に配下の顔色を伺いながら家中統制していた信玄など、信長の足元にも及ばない。
0343人間七七四年
2007/09/28(金) 13:43:29ID:MnkQDlKB織田は後詰3000と砦7000だわな
しかも、本願寺の1万五千を砦軍7000で挟みうちにした
で本願寺軍本体は意味不明の撤退で
残された主力の百姓をボコったってのが真相でしょ
本願寺軍の足軽農民はガチの百姓で武器はカマか竹やりで指揮したのが
戦闘経験0の坊主
ってか坊主の戦闘経験なんて織田が初めてでしょw
その素人坊主相手に10年も戦って引き分けってーのが
信長がヘボなのをしめしてるw
0344人間七七四年
2007/09/28(金) 13:45:50ID:fOdsFoyOすごい
ただ、信長の方が志高く、当時の創造力は圧倒的だったかな
0345人間七七四年
2007/09/28(金) 14:05:20ID:X9TfNpeAそれだったら包囲も難しい、織田の後詰が来た時点で兵を引かせるだろ
砦に佐久間明智がいるといっても佐久間は信栄で信盛は外だし
明智は丹波の抑えもあるだろうし。
あと本願寺は大量の鉄砲を備えた武装集団、
ってか江戸時代と違ってこの時代に鎌か竹やりなんかで武装する一揆なんて存在したのだろうか?
0346人間七七四年
2007/09/28(金) 15:21:01ID:5Hs9BT2T村落ですら自衛が基本、いわんや大宗教勢力をや。
まあ武器の数が足りなくて竹槍や鎌を使うことはあるだろうけど、あくまでそれは補助だろう。
0347人間七七四年
2007/09/28(金) 19:12:19ID:MnkQDlKBこの時点だと本願寺は兵は百姓中心でまともな司令官はいなかった
鉄砲を備えた武装集団は雑賀党で本願寺の兵とはまた別物ね
始め、明智は破れて天王寺の砦に逃れたから
合わせて7000近くの兵はいたはず
0348人間七七四年
2007/09/28(金) 21:26:54ID:gJ5Isvgsなにをいっているんだ?天王寺を包囲した本願寺軍は、その前に三津寺で塙・三好軍を
破った、本願寺から直接派遣された「数千丁の鉄砲をもった一万の大軍」。
その後勝ちに乗じて追撃して天王寺を包囲した。
信長は三千の兵を率いて包囲を破って砦軍と合流すると、そのまま打って出てまず包囲
の軍を撃破。そのまま追撃して本願寺城下まで。
そもそも砦の兵が七千ってどこからの数字だ?
0349人間七七四年
2007/09/28(金) 21:46:53ID:6Re6b/wK確かに本願寺の兵は塙・三好を破ったときは一万だったんだけど、
信長が来たときにはなぜか1万5千になってるんだよなあ。
特に増派された様子もないのに。牛一の水増しかな?
そして戦いが終わった後、これまた特に増援が来た様子もないのに
(というか信長と一緒に来た佐久間信盛と松永が付け城の防衛ラインの一角に入ってる)
新たに付け城を築きなおして公記によればいまだ一万以上いるはずの本願寺の封鎖を
しなおして帰っている。
つまり信長の連れてきた3千の一部を加えるだけで封鎖線を再構築できるくらいの兵力は
いたことになる。7千かはわからんがそれなりの兵力はいただろうよ。
0350人間七七四年
2007/09/28(金) 22:21:09ID:TvMVmszQ1万5千になってるんは
単純に本願寺の優勢を見て、中立というか日和見勢力がわらわらと集まってきたってとこか?
あとありえそうなのは太田が5月3日に京都で聞いた話しだと1万余りだったが
7日現地行ったら1万5千ほどだったとか
>つまり信長の連れてきた3千の一部を加えるだけで封鎖線を再構築できるくらいの兵力は
>いたことになる。7千かはわからんがそれなりの兵力はいただろうよ。
包囲に必要な兵力を減らすための付け城だからあまり兵力はいらないんじゃ、
2700も討ち取られて、一部は篭城せずに敗走投降した可能性もあるから
本願寺には1万もいなかったんじゃ?
長篠でも敗戦後勝頼はわずか6騎で、甲斐に辿りつけたのは3000に満たなかったとも言うし
それに兵は後から遅れて集まってきているんだから、
包囲網を再構成した時には十分兵が集まっていただけかも、
包囲が完成して信長が京都に戻るのは、上の戦いから約1ヶ月経った後なんだし。
0351人間七七四年
2007/09/28(金) 22:36:21ID:6Re6b/wK日和見勢が集まったというならそこらへんの描写があるはずだし
それがない以上推測の域を出ない。
信長公記自体がもともと後年に書かれたものである以上
京都で聞いたときは一万だったけど〜、というのは成り立ちにくい。
牛一が誇張したと考えたほうがまだしっくりくる。
新たに作られた付け城は10。こめるにはそれなりの兵数が必要だろう。
長篠では武田の兵力は地形から実際は1万5千どころか7千ほどだったと言われている。
あれだけの大敗で甲斐まで3千戻ってこれたなら十分だろう。
遅れた兵の動きについても記述は無い。戦いが終わってからすぐに付け城の着手に取り掛かってる
所から見て来るまでにある程度の兵力は握っていたと見るのが妥当だろう。
0352人間七七四年
2007/09/28(金) 23:04:07ID:TvMVmszQ現場にいない太田には分からないことだから描写があるはずってのもおかしいと思うけど。
>戦いが終わってからすぐに付け城の着手に取り掛かってる
>所から見て来るまでにある程度の兵力は握っていたと見るのが妥当だろう。
だったら『信長公記』で、わざわざ段落作らず、繋げて書くんじゃないか?
この辺は古文書の書き方に詳しい人間のほうが妥当な判断できると思うけど。
また記述が無いといっても前段で動員している描写があるんだから徐々に集まってきていると
考えるのは自然だと思うが。
>信長公記自体がもともと後年に書かれたものである以上
正確には首巻が後年に書かれたで、それ以外は後年纏められただったと思うが。
>長篠では武田の兵力は地形から実際は1万5千どころか7千ほどだったと言われている。
それは設楽原に展開できる兵力であって、後陣の兵はそれには入らないんじゃ。
史料的には武田の史料でも1万5千となってはいるけど。
細かく書くと武田の兵は三河物語で2万、当代記で1万だが。
0353人間七七四年
2007/09/28(金) 23:32:45ID:6Re6b/wKある程度周囲の日和見勢力が動いて5千に達するほどの軍勢を構成したなら
まったく情報がないのはおかしいだろう。それだけの動きについての情報を
大田は何も持っていなかったのか?そっちのほうが不自然だ。
自然だ、というがそれならなんでその兵力が到着した事などについての記述が
一つもないんだ?それが不自然だとは思わないわけで?
つーか2700討ち取った、の後ですぐさま付け城10仰せ付けらる、
となってなかったか?
大体後軍が到着したにしては付け城にこめられた面子が
信長についてきた佐久間や松永だし。
後年まとめられたものでも現場で見て1万5千だったならわざわざ間違っていた情報を
書く必要はない。最初から1万5千で書けばいい。
武田の史料って甲陽軍鑑?この板でずたぼろな評価のそれを持ち出してくるとは意外。
三河物語の2万は多すぎだろう。もともと三河物語は癖が強い史料だし。
当代記の1万は長篠城に付いてた数を入れれば実数に近いか?まあ、一万には
達しなかったとは思うけど。どっちにしろその長篠城についてた連中は酒井の奇襲で
壊滅しちゃったけどな。
0354人間七七四年
2007/09/29(土) 06:35:24ID:H8w4qm1r信長軍が直卒の三千に砦の兵を加えてそれなりの兵力になったと主張するのならなおさら。
それから、天王寺合戦のあと本願寺戦線に投入されたのは佐久間。この時畿内の再編成が行われ
もと塙の南山城・大和や河内の三好笑岩などがつけられる。ちなみにこの大和や河内の兵は三津
寺で敗れたあと、天王寺合戦には参加していない。
普通に考えれば、信長が敵を本願寺まで押し込めたあと、大和や河内の不参加だった敗残兵を
新たに再編成して佐久間のしたにつけられて包囲砦の兵にあてたとみるのは自然だろう?
0355人間七七四年
2007/09/29(土) 11:40:52ID:s48uBVxD0356人間七七四年
2007/09/29(土) 11:41:57ID:xFu3nSBzあのさ…「それなりの兵力になったと主張するのならなおさら」も何も
信長公記にしっかり信長は砦軍と一つに合したと書いてあるんだけど。
「御一手になり候」って奴だ。そっちのは記述にない推測。
記述にある事と記述にない事を同列に言われても困る。
佐久間は信長につれられて来たよな。そして松永も。
そして新たな防衛線を担った連中で佐久間信盛、信栄、松永久秀、久通という
連中は天王寺参加組。全体として敗残兵が再編成されたのは事実だろうが
それは元々の拠点や領域維持の為にまず配置されねばならないだろう。
信長は新たに10の付け城を作っているんだぞ?戦い終わった後からすぐに。
それにこめる兵力はどうするんだ?ある程度砦+信長が連れてきた兵力で
それなりの数を確保してなきゃできない芸当だろう。
0357人間七七四年
2007/09/29(土) 12:53:16ID:H8w4qm1r本願寺の兵は大敗して大損害をだした直後であること
天王寺合戦には不参加だった攝津一職支配の荒木が参陣していること
包囲の構築に一ヶ月はかけていること
天王寺参加の兵だけで包囲を作ったのではないですよ。もともと急なこと
で動員が間に合わなかったので少数で出撃したのであって、合戦に間に
合わなかった兵力が後から合流したと考えるのも不自然ではないでしょう。
ところで、このままではお互い推測をぶつけ合うこのに終始しそうなんで
やめておきませんか?こちらも、天王寺の織田軍の兵力が、砦の兵と合流
してそれなりになったことは否定してませんから。ただその兵が、砦だけ
で七千となるとそりゃ多すぎだろうと思います。
(砦の兵は明智と佐久間信栄。明智の領土は当時近江と山城の一部で、しかも
一部兵力は丹波の押さえに残している。佐久間も当時はまだ近江と尾張の一部
で、信栄が全てを率いていたわけでもない。)
また話を戻せば、少数の信長軍が多数の鉄砲で武装された万の軍勢に突撃して
破ったことは事実で、本願寺軍を過少評価することも信長を過少評価する必要
もない。
少なくとも天王寺合戦をもって、スレタイのように「信長より信玄の方が名将」
とはまったく結論づけられませんから。
0358人間七七四年
2007/09/29(土) 13:13:10ID:xFu3nSBzまあ、確かにこれ以上やっても不毛かもしれんので中止しとくけど
こちらからも一言。
砦の兵は明智と佐久間だけじゃないよ。猪子と大津(こいつらは信長の命令を
伝えに来た検使だけど、その後も攻防戦に参加していることや他のケースも考えれば
自分の兵は率いてきていただろう。)さらに江川衆も入る。
もともと大身の二人に加え、これだけ加わるならそれなりの数だったはず。
別に信長が本願寺勢を破った事は認めてるけど、それがよくこの板で言われて
いるほどの圧倒的不利を覆したものでない以上
天王寺でもって信長の戦術能力を圧倒的なものとみなす事は出来ないだけだよ。
0359人間七七四年
2007/09/29(土) 13:32:03ID:jVyTpCAR天王寺戦の一月前、
葦原の戦いで明智荒木原田の三万の兵が大阪にいて惨敗
勢いづく本願寺に追われ
織田兵の何割かが天王寺砦に逃げ込み立て籠もる
光秀が信長に援軍を呼ぶ
推測すると3万のうち何割砦に逃げ込んだか
元々砦にどれだけ兵がいたか
まー砦は合わせて7千以上になったんじゃないの?
0360人間七七四年
2007/09/29(土) 14:14:48ID:H8w4qm1rやめようと自分からいいつつ、すいません。
猪子や大津がいたことはしってましたが、両者とも大身でもなくそちらが言う
とおり検吏として派遣された身。私はこの両者が戦闘に参加したのは、検吏を
参加させずにはおれないほど、砦の兵力が不足していたと解釈してました。
また戦術能力に関してはどうすれば圧倒的なのかはひとそれぞれなので。
自分としては、天王寺も含めて少数で多数を撃破したことが何度もある信長の
戦術能力は、十分圧倒的と表現してもいいものがあると思ってます。
以上です。自分はこれまで普通に三千で五倍の〜と考えていたので、そちらの
「天王寺砦の兵力を無視すんな」という指摘はとても勉強になりました。
>>359
天王寺の一月前の葦原の戦い?明智荒木原田(塙)で三万?すいません初耳です。
詳細をお願いします。
私が知っているのは歴史の流れでは
四月十四日 荒木細川塙明智に本願寺攻撃の命令。
四人は三手に分れて本願寺を攻囲。塙が天王寺を占拠。そのまま三津寺の攻撃を
計画。光秀と信栄が後詰として天王寺へ。
五月三日 塙、三津寺攻撃。反撃にあい戦死。塙・三好軍敗走。本願寺軍は天王寺
へ攻撃。(塙三好の軍勢がどうなったかは記録にない。しかし天王寺に逃げ込んで
合流して、篭城戦を戦ったのなら、その記録があってもいいのでは?)
五月五日 信長、京から出陣
七日 信長軍、天王寺へ突撃(天王寺合戦)
0361人間七七四年
2007/09/29(土) 14:35:52ID:u2J1gAEj>自然だ、というがそれならなんでその兵力が到着した事などについての記述が
>一つもないんだ?それが不自然だとは思わないわけで?
将の到着ならともかくイチイチ兵が到着したことを記すなんてそっちのほうが不自然じゃないか?
反論のための反論になってると思う。
他も結論ありきで、結論から理論を組み立ててないか?
0362人間七七四年
2007/09/29(土) 15:50:51ID:MFRL1s4Qでも信長の政治力には勝てなかったんでね?
あと信玄は運が悪いねえ・・・・実に運が悪い
能力値を比較すると、ほとんどすべての数値で信玄のが上なんだけど・・・
「政治力」と「幸運度」では信長のが圧倒的に上って感じかなw
0363人間七七四年
2007/09/29(土) 15:55:22ID:xFu3nSBzいきなり終わってる議論に口出して随分失礼なこというわけだな、あんた。
どう考えてもそれなりの大軍が到着したというならそれは記事にして当然だろう。
第一兵士たちは引率者もなしにばらばらに到着するのか?
主将は信長といってるとするなら副将とかが引率してつれてくるはずだろう。
それならそれは記事になるべきだよな?
なんでこの程度のこと考えないんだ?信長に都合の悪いこといわれれば
結論ありき認定か?反論のための反論か?
そっちのほうがよっぽどいちゃもんの為のいちゃもんになってるだろうが。
0365人間七七四年
2007/09/29(土) 21:10:28ID:16M5FImB0367人間七七四年
2007/09/29(土) 23:44:36ID:UP7aJK2h税制も整えられて、それを基にした軍隊もある
諏訪は諏訪を統一した頼満が死亡して孫が後継いで、更に信虎が金指送り込んで分裂させておいた、
小笠原は小笠原を統一した長棟が死んで、粗暴な長時が後を継ぐ。
佐久は山内上杉の影響下だったが、上杉が関東で大敗した直後に攻めることで楽に制圧、
村上は豪族の集合体だし、長尾も関東行ったり上洛したり、雪が降って信越国境が塞がれてる隙に
攻めれるなど、あったし
長野は死んでくれたし、今川は桶狭間で弱体したし、北条は氏康が死んで最同盟できたし、
他力本願で織田裏切って攻めこんで後、すぐに死んだため、責任回避できたし
って所かアンチに言わせると信玄の運はww
最も諏訪も小笠原長野氏康も十分高齢だったから運ってのはあれだと思うんだが
0368人間七七四年
2007/09/30(日) 02:05:16ID:FP2r4aL+まーこんだけ
都合よく解釈できるもんだなwwww
信長なんて斎藤義龍が死んでなかったら
一生、尾張で終了してたのにw
0370人間七七四年
2007/09/30(日) 03:45:33ID:Q8QTPm9D戦略とか戦術レベルは平凡と言っていいだろな。
0371人間七七四年
2007/09/30(日) 03:57:35ID:kmEDNxhU信安は信賢とお家騒動
桶狭間は信長の情報誤認の偶然の産物
斉藤は義龍が道三と争って混乱の上、義龍が早世
六角は観音寺騒動で弱体
三好は長慶以下多数が相次いで死亡して内輪もめ
本願寺は一揆と守りを固めるばかりだし
信玄謙信は肝心なところで死亡
とこんな所か?
0372島津ヲタ
2007/09/30(日) 08:17:08ID:/CSfbgG5信長→運も実力の内を盾に祭り上げられた劉禅並みの愚将
信玄→自身も有能、家臣も忠義心に厚く有能だったが自身の女好きによって滅びた一種の愚将
ほらこれで解決。
ここから先は内ヶ島氏理について語りましょう。
0373人間七七四年
2007/09/30(日) 11:15:45ID:vn+im7qF0374人間七七四年
2007/09/30(日) 19:50:28ID:gALBxbSq彼のことを思えば、多少の逆境はマシだと思えてくるから不思議。
0375人間七七四年
2007/10/20(土) 02:19:11ID:mznGRha0毛利とか伊達も考察しようよ
0376人間七七四年
2007/10/20(土) 02:39:20ID:1UNWkHkk0377各板より反対の矢を放て
2007/10/20(土) 02:47:09ID:A40u3gxX「10年以上日本に在住している外国人に、地方参政権を与える」
なんていう恐ろしい法案が!
[アクセス方法]
i-mode/EZweb/Yahoo!ケータイ共通
【メニュー】→【TV】→【日テレ】→【バラエティ】→【太田総理】
「マニフェストに投票!」
半島の工作員が賛成に投票しまくるものと思われます。
日本人ならどうするべきかな。
0378人間七七四年
2007/12/27(木) 05:01:07ID:iAfwd6Vj0379人間七七四年
2007/12/27(木) 22:54:05ID:DEUhEnVR当時の坊主が戦闘経験0なわけないだろ
僧兵として武装して税金取ってて学問を修めて諸国の情勢にも通じ、信者は
今で言うなら狂信的カルト集団だぞ?
坊主が丸腰になっておおっぴらに政治に関与しなくなったのは、本願寺が
信長に降伏して以降だ
無知おつ
0380人間七七四年
2008/01/04(金) 21:51:29ID:4A9ry8PG信長vs武田 信 玄 って?平気でこんなのテレビでやるなよな。
0381人間七七四年
2008/01/04(金) 21:54:22ID:sAblEYg9道灌
0382人間七七四年
2008/01/04(金) 21:57:40ID:sAblEYg90383人間七七四年
2008/01/04(金) 22:07:06ID:4A9ry8PGだろ。
0384人間七七四年
2008/01/04(金) 22:08:43ID:sAblEYg90386人間七七四年
2008/01/10(木) 13:52:48ID:2KA9POAG信長を警戒しており、朝倉義景の撤退でその進行を止めたことは、他の勢力と自分のみで
争うのは不安であった証左ともいえる。と、言うより信玄が破った事があるのは自分より
兵数が少ない格下の豪族が主であり、滅ぼした大名は衰退した今川家のみである。
生涯において一度も自分より多くの兵力を持った相手と戦った事がないために、
信長との決戦を行う気があったのかは不明である。更に華々しい勝利がほとんどなく、
格下の村上や長野などに敗北する事もあり、勢力の拡大に多大な時間を掛けていた事から
軍事的才能を疑問視する声もある。
0387人間七七四年
2008/01/10(木) 14:54:57ID:yHg5lj57同格に近い上杉や同格以上の北条とも戦いながら勢力拡大してるんだから
時間がかかるのは当たり前。それでも北信濃や駿河をちゃんと確保してる。
百万石以上に広げた戦国大名なんて戦国時代に何人いるか。
あれで軍事的才能無いとかいったら他の連中なんかどうなることか。
朝倉や伊勢長島と連携すれば信長を戦略的には兵力で上回れる。
さらには信長と決戦しなくてもただ対峙して注意をひきつけておくだけでも
信長包囲網の体制立て直しにつなげられる。
それから長野に負けたなんていうのは同時代資料では確認されてない。
0388人間七七四年
2008/01/10(木) 16:31:20ID:e0CVPiQS信長がいない木下隊のみの留守部隊に攻撃もしかけずだまってみているだけの朝倉に
何を求めているんだ?
0389人間七七四年
2008/01/10(木) 18:53:36ID:pPQPpHEC数…だろ?
0390人間七七四年
2008/01/10(木) 20:36:15ID:DabkZGjoしてたわけだから。 信玄がいつも優勢みたいに言うのは正しくない。
むしろ信長のほうがよほど怪しい。何時も数を頼りに攻めてるようにしか見えんけど。
桶狭間が華々しいから隠蔽されてる。だいたい奇襲受けて死ぬなんてのは指揮官として
無能もええとこ。 軍事学じゃ奇襲受ける指揮官はいかなる理由があっても首だけどな。
それこそ奇襲受けないのなんて基礎中の基礎だから。
こうしてみると、信長の相手は雑魚ばっかりじゃないか? 今川が強大化したのも
雪斎によるとこが大きいしな。武田と違って自力で拡大してる家と戦ったこと皆無だな。
斎藤タツオキ・浅井・朝倉・六角、雑魚ばっかりw
0391人間七七四年
2008/01/11(金) 01:55:25ID:mdWyLqLn信長こそ濃尾平野の富を背景に弱小勢力相手に手当たり次第に敵を作り戦ってるだけで、部隊を無計画に抽出転用しまくりで戦力集中できてない。
斉藤も朝倉も六角も三好そうだが将軍を保護擁立したりと幕府に度々積極的介入してた英主強国時代がとっくに過ぎ去り斜陽疲弊してた時期に信長の活躍がある。
0392人間七七四年
2008/01/12(土) 02:33:48ID:548ox+5V奇襲受けないのが当たり前w
信玄にいってやれw
0393人間七七四年
2008/01/12(土) 08:27:14ID:IuZWsMrx今川・斎藤・北畠・武田と周囲は一大地方政権に囲まれる中で調略や外交を駆使して絶対有利な状況を作りこむ手腕は信長の真骨頂ですが。
武田こそ甲斐一国の富を背景に弱小勢力相手に手当たり次第に敵を作り戦ってるだけで、部隊を無計画に抽出転用しまくりで戦力集中できてない。
今川も長野も北条もそうだが名のある強い武将が死んで度々積極的介入してた英主強国時代がとっくに過ぎ去り斜陽疲弊してた時期に武田の活躍がある。
↑固有名詞変えただけでほとんど当てはまった。
0394人間七七四年
2008/01/12(土) 09:18:28ID:Jz3dM5ZFまあ、周辺状況のキツさは単純比較は出来ないけどな。
強いていえば上杉北条織田に囲まれ勢力拡大が不可能な武田は
西に切り開ける織田に比べて先が見えてたってくらいか。
でも織田も朝倉本願寺武田と強力な相手が周囲にいたわけだし。
0395人間七七四年
2008/01/12(土) 10:40:37ID:G3WmPTbGそれまでは障害以外の何者でもないし、まして下手すれば統一後も障害になりかねん
0396人間七七四年
2008/01/12(土) 10:58:40ID:548ox+5V答えはNOだ。親が基本的な体勢をつくっているし今川と友好な体勢があるだけでも
信虎が甲斐を継いだ体勢に比べれば全然楽。おまけに金山まである。
侵攻先の信濃は豪族割拠の分裂状態でまとまりに欠け侵攻は容易い。
其が延々と信濃攻略に手間取り先に待っていたのは謙信との泥沼の戦いである。
この謙信との戦いで戦費国力年月を無駄に消耗し、信玄も死の間際「謙信と闘うのに意固地になりすぎた」と反省したが後の祭り時間切れ。
もちろん三国同盟がある以上駿河に出ることは出来ないから謙信の勢力範囲か斎藤の範囲に向かうしかない
北条を考えれば上杉を相手にしなければならない。ある意味三国同盟は自分の首を締めた。
駿河甲斐の二国間同盟で十分だった。北条が居なければ上杉と和議する事も容易い。
信玄はプライドが高すぎたのが1つの問題点だ。信長のように柔軟にペコペコする一面があれば月日を無駄にする事もなかったはず。
0397人間七七四年
2008/01/12(土) 13:53:40ID:4n5cNqiLなのにあの苦戦ぶり。
明らかに行き当たりばったり政策。
国力を背景にしてただけ。
信長がすごいとは思えない運がいいだけ。
0398人間七七四年
2008/01/12(土) 14:14:03ID:DyS+EP7hのですが、本城落とせば国内完全心服のノブヤボ理論ですか?
0399人間七七四年
2008/01/12(土) 14:54:00ID:f5nrCPQTそれでも信濃豪族連中は結構連合して武田に向かってきたんだけどなー。
当時の武田だって甲斐は飢饉だの水害だの起きてたし国力的に信濃連合を
圧倒してはいなかったから何気に大変なんだけど。
元々上杉は信玄に追われた信濃豪族連中を戻すことを名分にして向かってきたので
妥協できるのかと言う問題が。もともと上野の上杉氏は信濃のほうにも影響力を
持っていたし、武田も信濃侵攻初期に謙信が継ぐ前の上杉氏と小田井原で戦って追い出してる。
このように謙信が上杉氏の再興を狙うなら信濃も実はターゲットになってしまうので
だからどうせ戦うなら北条と連携して戦うのは悪くない戦略だったんだよ。
実際その結果強敵上杉の侵略を封じ込め信濃も西上野も手に入った。
プライド云々に関してはよくわからん。そこまで気位高い外交してるとも思えないが。
0400人間七七四年
2008/01/12(土) 15:47:50ID:G3WmPTbG信濃が山内上杉の管轄化というのはなんで?
相伝の地は上野に伊豆だけじゃ?
そもそも関東府の影響範囲が上野・甲斐・相模・伊豆・武蔵のそれぞれ西端までが管轄だったんじゃないのか?
0401人間七七四年
2008/01/12(土) 15:57:32ID:4n5cNqiL屁理屈はいらない。
信濃佐久地方が関東管領上杉傘下にいた。
また越後上杉も北信濃に影響力があり信濃半国守護のように見られていた時期もあるし一時期信濃に逃れて反攻しようとしたりしてた。
鎌倉公方はたしかに信濃は管轄外だが影響を及ぼそうとしていた。
0402人間七七四年
2008/01/12(土) 16:03:03ID:G3WmPTbG信濃半国守護なんて職が幕府にあったのか?
越後守護を打倒したのが長尾さんじゃないか?
鎌倉公方が管轄外に影響を及ぼそうとする、というのと、影響力を保持しているってのは同等じゃない
仮にそれで影響力を獲得していたとしよう、上野伊豆を手放したことをすら後悔していた関東公方が、さらに信濃の管轄権まで与えるというのか?
0403人間七七四年
2008/01/12(土) 16:03:34ID:4n5cNqiL一時期は千葉方面も守護に任じられた事もある。
伊豆は堀越公方に譲渡した。越後上杉は相模守護職をもらって扇谷上杉に対抗したりした。
0404人間七七四年
2008/01/12(土) 16:03:59ID:f5nrCPQT信濃全部というわけじゃないよ。
信濃の豪族には上杉氏と縁の深い連中が居るという事。
若き日の真田も武田信虎に放逐された後でこのつながりで上杉を頼った。
武田に敵対した信濃の笠原氏は上杉氏と深いつながりをもっており上杉憲政の家臣
高田憲頼を派遣されている。笠原氏の下に参じた平原氏も上野に血縁を持つ。
そして笠原氏が志賀城においていよいよ追い詰められた時、山内上杉憲政は
大軍を援軍として差し向ける。北条との川越戦の後でつらかったのに無理をして。
これを武田が迎撃して打ち破ったのが小田井原の戦い。
0405人間七七四年
2008/01/12(土) 16:08:46ID:4n5cNqiL信濃が守護小笠原氏の元で統一をみなかった理由のひとつ。
信濃半国守護という職はなかったがそう見なされ一目おかれていた。
0406人間七七四年
2008/01/12(土) 16:12:22ID:f5nrCPQT戦国において管轄権なんかあってなきが如しな気が。
上杉に好意的な信濃豪族を復帰させようとするならそれは武田の領域を侵すことで
あり上杉の信濃における影響力の拡大でもある。
謙信が余裕があるならやらない理由はないし信玄が譲歩する理由もない事柄。
0407人間七七四年
2008/01/12(土) 16:15:11ID:G3WmPTbG具体的に深いつながりというのは?
それに、山内上杉の思惑と、長尾上杉(ヘンだが理解してくれ)の思惑が合致していたというのはまた別の話じゃないか?
長尾上杉は越中に攻めたりしてるが、それも山内上杉の意思だったというのは強引じゃないか
そもそもそんなボランティアで大名が行動起こすわけ無いだろう
武田が拡大して、脅威になりそうだから、北信の連中を使ってけん制したという解釈のほうが現実的だと思うんだが
0409人間七七四年
2008/01/12(土) 16:18:36ID:4n5cNqiL0410人間七七四年
2008/01/12(土) 16:22:02ID:G3WmPTbGなら信濃半国守護は実際に用いられ、またしっかりと定義もなされた言葉だと?
でなければ、独自定義の造語といわれても仕方ない
0411人間七七四年
2008/01/12(土) 16:27:23ID:f5nrCPQTつながりというのは笠原氏は上野後閑氏と、大戸氏は笠原氏の参加の浦野氏とのつながりがある。
上野から援軍として派遣された高田も笠原氏と縁戚にある事が妙法寺記にある。
だから、山之内上杉の意思だの名目だのは侵攻の名目にはなるんだよ。
ボランティアじゃないって。自分に好意的な連中を信濃に送り込めるなら
それは自分の勢力圏の拡大でもある。
この話のもともとの始まりは「北条と連合しなければ武田は争わんでいいじゃん」
という事に答えたもの。謙信は一時期上野一国に武蔵北部までの領域を支配し
諸勢力と結び11万もの兵を動員し関東に大きな勢力をつくった。
これに対して武田が北条と連携しないなら北条が苦しくなり上杉が関東に大きな力をもつ
可能性は高い。そして関東に大きな力を持った謙信が信濃にまで手を伸ばさないかと言うと
かなり危うい気が。力があるなら領土拡大に努めるのは戦国大名の常。
都合のいいことに名分はあるのだから。上杉に好意的な豪族を助けるという。
0412人間七七四年
2008/01/12(土) 16:30:27ID:4n5cNqiLまた長尾為景は越中半国守護として越中東部へ出兵する大義名分がある。
0413人間七七四年
2008/01/12(土) 16:33:46ID:hNv8a5Ouが何も知らないアホだということはわかったw
0414人間七七四年
2008/01/12(土) 16:34:00ID:JZoRkZF4上杉憲政は滋野方として援軍を出している。結局間に合わずに敗北した海野棟綱、真田幸隆が上野に亡命することになった。
また、上田原の戦いでも上野の小林氏が参加して信濃に所領を与えられた書状が残っており、
他にも関東管領の勢力が参加していても不思議ではない。
とはいえ、長尾上杉と武田の戦いにこれが絡んでくるとは思わないけど。
結局真田幸隆は信玄に組して旧領を回復し、滋野一族の信濃の浦野氏も武田についている。
長野業正の死後に信玄が西上野に出陣すると笠原氏と縁戚だった高田氏、小林氏や
滋野一族の上野大戸浦野氏は真っ先に信玄方についてしまった。
結局西上野の旗頭は信濃不介入方針の長野氏になる。
第五回川中島は実はその長野氏業の進言があったことが書状より明らかだが、
これは北信濃と西上野から武田を挟撃し、あわよくば佐久まで打通して越後、西上野へのルートを作るのが目的で、
従来の関東管領の方針とは別に違うし、そもそも武田の上野侵攻への対応策だからね。
0415人間七七四年
2008/01/12(土) 16:37:15ID:hNv8a5Ou0416人間七七四年
2008/01/12(土) 16:45:47ID:hNv8a5Ou画策してたって言ってもID:G3WmPTbGには何の事か理解できんだろw
0417人間七七四年
2008/01/12(土) 16:45:53ID:f5nrCPQTいやいや、要するに長尾上杉は武田と北条が連携してこそ切り崩せたくらいの
力を一時期は持った。武田が北条と連携せずにその長尾上杉の力が確立されてしまえば
長尾上杉が好意的な信濃豪族を助けるという名目で信濃介入してきた事は十分ありえたのでは?
という事。
0418人間七七四年
2008/01/12(土) 16:49:46ID:4n5cNqiL0419人間七七四年
2008/01/12(土) 17:01:55ID:JZoRkZF4うん。だから信玄の西上野介入は長尾上杉vs武田関係によるもので
関東管領vs武田関係はもうたいした意味を持ってはいなかったんじゃないかな。
浦野氏は進んで信玄についており、大戸浦野氏も謙信侵攻以前は
北条と親交があって人質を出すよう言われている。おそらく武田、北条の両属か。
海野棟綱も死んでしまった以上、関東管領が信濃に対して切れるカードはほぼなかっただろう。
0420人間七七四年
2008/01/12(土) 17:23:18ID:G3WmPTbGなるほど、攻める名目ね
関東といっても広いぞ
一体謙信が関東を纏め上げるのがいつになるのやら
仮に北条を謙信が打倒したとしよう、その後反北条という旗印が無くなった関東勢力の動向はかなり不安定だぞ
越相同盟で簡単に盟主を切り替えたように、今度は謙信対関東勢という図式になるとおもうが
そうなれば信濃にかかわってる暇ないし、黙認という形で西方の安全を図るのが上策だろう
0422人間七七四年
2008/01/12(土) 18:01:09ID:4n5cNqiL元々は幕府役職に信濃半国守護という役職はなかったから。
0423人間七七四年
2008/01/12(土) 19:26:00ID:G3WmPTbG>信濃半国守護という職はなかったがそう見なされ
ハッキリとないといっておいてころころ変わる人だな
その補任状は何で確認できるんだろうか?
0424人間七七四年
2008/01/12(土) 22:39:25ID:RNLMHgXj誰もやってない事をやった。野茂も一緒。今は誰でもメジャーいけるけど、野茂の、おかげ。
秀吉も家康も、真似たり、悪いとこ直したりして、政治を行った。
そういう意味じゃ、信長の方が上いってるよね。
0425人間七七四年
2008/01/12(土) 22:44:47ID:27rvGvZk0426人間七七四年
2008/01/12(土) 23:15:40ID:RNLMHgXj楽市楽座は六角か?でも大規模にやったのは、みんな信長。
0427人間七七四年
2008/01/12(土) 23:17:55ID:B04wyyiGというか真逆の事ばかりやった
だから250年の太平を築けた
0428人間七七四年
2008/01/12(土) 23:20:51ID:27rvGvZk0429人間七七四年
2008/01/12(土) 23:29:07ID:4n5cNqiL0430人間七七四年
2008/01/12(土) 23:33:15ID:G3WmPTbG海外での評価はしらないが、マルクスな人からは人気が無いみたいだ
制度派?な人からは高く評価されてるとか
講義で聞いたような覚えがある
0431人間七七四年
2008/01/12(土) 23:47:16ID:B04wyyiG信長と共通してるところはあるだろうな
0432人間七七四年
2008/01/13(日) 00:10:34ID:DnE0OxON0433人間七七四年
2008/01/13(日) 05:11:02ID:oiuu1zMO戦国時代における結果(最良の結果)って天下統一または領土安泰なんじゃないのかな?
一時的に領土を拡大させても最終的に家が滅びてしまえば何の意味もない
お互い優秀な武将である三好長慶と北条氏康を比較して優劣を決するのは無理があると思う
0434人間七七四年
2008/01/13(日) 08:41:16ID:sKqycMxtさんざん反感買いながらもそういうのを無視して、自分のやりかたで強引に拡張
最後はそのツケがまわってきて自滅
0435人間七七四年
2008/01/13(日) 12:58:16ID:RKUfi/ZB信玄も大差ないだろw
0436人間七七四年
2008/01/13(日) 13:27:26ID:Sfz5mOx30437人間七七四年
2008/01/13(日) 13:34:20ID:5rVo/wc0ホリエモンが断トツ一位だったような気が
0438人間七七四年
2008/01/13(日) 14:00:44ID:vmU92Efu0439人間七七四年
2008/01/13(日) 22:59:36ID:RKUfi/ZBさんざん反感買いながらもそういうのを無視して、自分のやりかたで強引に拡張
最後はそのツケがまわってきて自滅
なっ?全然違和感がないだろ?
まぁ謙信入れても違和感皆無だけど
0440人間七七四年
2008/01/13(日) 23:09:43ID:84NghOWU信玄も謙信も自滅してないじゃんw
最盛期の時に病没している
0441人間七七四年
2008/01/14(月) 01:54:54ID:LV0Ewr8s0442人間七七四年
2008/01/14(月) 02:32:11ID:mOGCTfEI企業に成長すれば信長っぽいな
このままライブドアが衰退して、新経営陣の必死の努力にも関わらず倒産したら信玄に近いな
0443人間七七四年
2008/01/14(月) 04:00:58ID:2Kn0bMcP0444人間七七四年
2008/01/14(月) 07:32:20ID:hvHGPknqマンセーしてられるなんて幸せな方ですね。
0445人間七七四年
2008/01/14(月) 10:28:00ID:RFENOKR8信玄なんて自分がばら蒔いた不和の種が勝頼を苦しめたんだがw
0446人間七七四年
2008/01/14(月) 22:05:25ID:2Kn0bMcP織田家臣団みんな揃って裏切ったようなもんだ。
0447人間七七四年
2008/01/14(月) 22:40:17ID:xHrrOSPh0448人間七七四年
2008/01/15(火) 18:47:13ID:23pLvLhX信玄の永遠のライバルは村上義清だろ。
信長に対して引き合いに出すほどの最強大名ってーと強いて言うと元就辺りだろ
0449人間七七四年
2008/01/15(火) 18:56:05ID:iz8PQxIG人は城、人は石垣・・ などの格言は人生の指針にとさえ思っていた。
でも、ここを見ていると、??と思ってしまってね・・
0450人間七七四年
2008/01/15(火) 18:58:33ID:oWUDPaHR0451人間七七四年
2008/01/15(火) 20:50:59ID:efj0U1V+カワイソス(´・ω・`)
なんせその発言自体全く信玄が守ってないもんな…
0453人間七七四年
2008/01/16(水) 01:37:52ID:tp36cYh10454人間七七四年
2008/03/23(日) 00:10:44ID:/tW8CJ1l0455人間七七四年
2008/03/29(土) 12:46:11ID:SEgswXe60456人間七七四年
2008/04/08(火) 01:59:17ID:LRMhfplG0457人間七七四年
2008/04/16(水) 11:19:41ID:8aqLVDLU信濃一国に割拠する小豪族を相手に長年に渡りしょっぱい戦を続けた訳だしな。
尾張統一から今川・斎藤・北畠・六角・三好・浅井・朝倉などの戦国大名を破っていった
織田信長と比較するのは無理があり過ぎる。
というか信玄の器量では、斎藤と今川という二大勢力に挟まれた状態で尾張統一とか不可能だろ。
絶対的有利な立場にありながら信濃統一もできなかったんだし。
0458人間七七四年
2008/04/19(土) 01:32:56ID:hvUn56Ij信濃豪族相手には石高2倍の信濃を10年で制圧しかけた所で
謙信に介入されたわけだし。
信長も大抵の相手は自分より圧倒的に小さい相手だし。
0459人間七七四年
2008/04/23(水) 15:02:47ID:8JlFYb6y信長は斉藤家、一応今川
信玄は
元就は尼子、大内
0460人間七七四年
2008/04/26(土) 16:24:38ID:qjVOcr4z斉藤家のどこが信長より大きいんだよ。
尾張58万石で美濃56万石、しかも斉藤家は若くて経験不足な当主で
クーデター騒ぎまで起きる状況でがたがた。
今川に関しては信長別に滅ぼしてないだろ。攻めてきた義元を討ち取ったけど
今川が滅びるのはその8年後、武田と徳川によってだ。
その時の今川の勢力と織田の勢力を比べても織田のほうが上だしな。
0461人間七七四年
2008/04/26(土) 18:22:56ID:pSRedAKf開戦当時の信長はまだ尾張全部は支配していなかった。
クーデターが起きるのはもっと後。
元服して正式に跡目を継いでいる以上、若いとか経験不足は理由にならん。
そもそも国力を問題にしているのに、なんで人間の能力を持ち出す?
0462人間七七四年
2008/04/26(土) 22:46:12ID:qjVOcr4z何を言っている。
若くて経験不足で内部もまとまってない相手と
経験豊かで内部もまとまっている相手と戦うのは明らかに違うのは当然だろう。
結局それに乗じて滅ぼしたし。
0465人間七七四年
2008/05/03(土) 01:38:11ID:8QW0TW2L>>459の定義にのっとった例でもないのに、列挙して相手を否定すりゃそりゃ屁理屈だろう
定義が気に入らんなら、それを論題に据えればいい
0466人間七七四年
2008/05/03(土) 01:51:38ID:nandsITXつか>>459のはそもそも今川は織田に滅ぼされてないし。
斉藤のあの状態をそんなに大きいとしていいのだろうか。
信長が本格的に美濃侵攻を始める時にはもう尾張の大部分をとっているし。
それ以前はろくに戦ってないし。
0467人間七七四年
2008/05/04(日) 01:25:59ID:dv0SwivI俺もまずはそこ、今川を滅ぼしたわけではないというところを突っ込むべきだと思ってたんだが
斉藤のあの状態がどの状態なのかわからんので何ともいえない
本格的に侵攻する前なら、ろくに戦っていないのは当たり前
本格的な侵攻とは何か、具体的にいつからの侵攻がそれにあたるのか、ろくに戦っていないという評価はどういう戦につけられるものなのか
面倒だけど定義しとかないと、泥沼になる
0468人間七七四年
2008/07/28(月) 08:34:41ID:TuwyS4kA0469人間七七四年
2008/11/11(火) 10:14:10ID:4wxHg02J村上義清は信玄よりはるか老練な武将、これもまた壁。
しかし信長(笑)にはそんな壁は存在せず、同年代の斉藤君相手に散々敗北を
繰り返し、畿内の雑魚相手に一生を送る始末で〜す
0470人間七七四年
2008/11/11(火) 13:44:44ID:lJWcy4my遠征には必ず文庫本を携えている。
戦国武将の本を読み、指導者のあり方を学んでいる。
「織田信長は嫌いだね。部下を大事にした武田信玄には一番学ぶことが多いよ」。
「人は城、人は石垣、人は堀」選手たちを信じて力を発揮させ、
ほんの1年前までは負け犬だった集団をわずか1年で最強の軍団に鍛え上げた。
「渡辺西武王国」の黄金時代が今、幕を開けた。
http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20081110-OHT1T00063.htm
0471人間七七四年
2008/11/11(火) 16:19:03ID:mNXYxylo情けは味方…( ̄○ ̄;)
武田領民唖然…( ̄○ ̄;)
0472人間七七四年
2008/11/11(火) 16:28:00ID:RF+JIdUm信長はそのつど拠点を変えてる
信玄や謙信は頭が古い
0473人間七七四年
2008/11/11(火) 16:43:49ID:GZ9qaALr0474人間七七四年
2008/11/11(火) 19:52:59ID:VgPtVt/s武田や上杉が拠点を変える必要がないし、そもそも権力の地盤が異なるので、
個人の考え方に拠る行動ではないよ。
0475人間七七四年
2008/11/11(火) 20:01:01ID:mNXYxylo関東に野心をもつ上杉はともかく、武田は、三国同盟を活かしたままで信濃に本拠を移して上杉を牽制しながら美濃を狙ったほうが良かったんじゃね?
0476人間七七四年
2008/11/11(火) 20:26:02ID:gqnBQhUh諏訪か松本、どこでもかまわんがな。
逆に拠点を変える必要がないというのはどうなんだろう?
0477人間七七四年
2008/11/11(火) 21:03:58ID:yB9EYe5n0478人間七七四年
2008/11/11(火) 23:00:38ID:G7cM6yat越後一国と上野一国に武蔵北部を加えて百万石近い大勢力となった上杉に
武田が背中を見せる余裕なんかないぞ。
まずは北信濃を確保しつつ北条と協力して上野と武蔵北部を奪還しその力を削減せねば
逆に上杉に食われる。
信玄の第4回川中島から西上野攻略戦終結までの動きはこれに対応したもの。
>>476
簡単な話。
本国甲斐が自然災害とかで大変な状況だから。
自立性の強い国人達もいるし、甲斐を固めねばどうにもならない。
0480人間七七四年
2008/11/11(火) 23:09:14ID:A2m+ujD/大内義興だって、細川高国だって拠点を京に移してるが、信長は京の近くに移したに過ぎないのは、彼らに比べ京の支配権か確立できなかったに過ぎない。
0482人間七七四年
2008/11/12(水) 09:49:58ID:9Kq1FAcjなかったらしいですよ
あと、しんげんより 四郎かつよりが
物凄い武闘派だったらしい
イケイケで信長の野望に散る
でも実際何処までが本当の話しなのか
解らない
何でもありの戦国時代
0483人間七七四年
2008/11/12(水) 11:16:12ID:fH37eHTq甲斐の家臣たちは金を与えて協力させる。
これで少しは動きやすくならないか?
0484人間七七四年
2008/11/12(水) 12:04:44ID:9Kq1FAcjもったいないですよ
あとなんで わざわざ 長篠の戦いで
鉄砲三段構えの所に突進していくんかな?
もったいないですよ
側近もかつよりに意見できんかったんやろね??
上司にタメ口利かしたら首飛ばされる時代やし(T-T)
0485人間七七四年
2008/11/12(水) 18:57:45ID:GzOyGrHB味方に寝首かかれて死んだ
0486人間七七四年
2008/11/12(水) 20:53:20ID:jCyFnHlJ条件の違いってやつでどう考えてもダメ、って事ではないだろ。
>>483
兵農分離っていうのは政策じゃないから。
郷村が軍役を課される状態が続いたから
軍役用の人数を雇ったり固定化したりした現象だから。
だから兵農分離すれば兵力ができるなんていうのは間違いだし
もちろん信長もやってない。
0487人間七七四年
2008/11/12(水) 23:02:02ID:fH37eHTqなるほどそういう事か。
それじゃ言い換えて、信濃に直轄領を増やしたらどうか?
信濃の諸侯の反抗は激しくなるし支配の定着にも時間が
かかるけど、上手くいけば甲斐の家臣達の力によらず
軍を編成できる。
その兵を用いて甲斐の豪族の有力者を何人か粛正すれば
甲斐でも独裁的な権力を獲得できる。
0488人間七七四年
2008/11/12(水) 23:20:15ID:ow6D5VxOぶっちゃっけ一般人向けの史実無視の文庫本だろうな、
この人のいう『織田信長』は小説の『織田信長』であり、
『武田信玄』も小説の『武田信玄』で、現代人にわかりやすいような
善悪がある程度はっきりしてる本読んだだけだと思う。
八甲田山の小説映画見て、それを真に受けて、人物批判をして、ついでに歴史評価をするようなものだ。
0489人間七七四年
2008/11/12(水) 23:39:35ID:ow6D5VxO実際にはそういうことやっているんだけど、
それでもその程度(他の大名と比べて劣っているわけではないが)の力しか持てなかった。
お飾りの当主であった武田信守から数代に渡って頑張ったけど。
信玄がやったことといえば、板垣家の取り潰しや、自身の近臣の取立て(勝頼期には逆に邪魔になるが)、
諏訪家高遠家などの粛清、養子戦略などなどの他、税を広く賦課して豪族の力を弱めたりとか。
0490人間七七四年
2008/11/12(水) 23:58:43ID:jCyFnHlJ信玄晩年は非常に強い権力を持っている。
>>487の言うような甲斐で独裁的な権力というなら
後年にちゃんと確立してる。
0491人間七七四年
2008/11/13(木) 00:07:53ID:czw668xZそれをやったのがまさに信虎
信玄のほうは甲斐国内ではほとんど兵を用いることはなく、
>>489みたいなやり方で権限強めていった、それでも独裁とはいかなかったけど。
0492人間七七四年
2008/11/13(木) 00:22:33ID:4QhGL+E+信玄は信濃在地の豪族と妥協しすぎじゃないか?
調略や切り崩しを使ったらそうせざるを得なくなるのは分かるけど。
本家を乗っ取ってもその家臣団が乗っ取った息子を支える家臣団に
なってしまえば、直轄支配にはほど遠いとしか思えない。
0493人間七七四年
2008/11/13(木) 00:30:16ID:u1xXalOT一門を差し向けてちゃんと取り込んでその軍事力や地域への浸透性を利用してるんだから
十分だと思うけど。
信濃豪族にそこまで妥協した例があるとも思えないが。
信濃の土地の多くが信玄子飼いの家臣や一族の領土として与えられ、
信玄の権威と権力を高めている。
0494人間七七四年
2008/11/13(木) 01:06:48ID:czw668xZ無理に増やそうとして叛乱が起きたりしたら余計な時間かかるし、家臣の協力得られなくなったら、
領土の維持拡大さえ困難、最悪追放されかねないし。
諏訪家は宗家は降伏後切腹、跡継ぎも切腹、勝頼養子
高遠家は高遠の安定後、甲斐に呼び寄せ粛清
藤沢家は降伏後に約を破って追放
小笠原宗家は追放、松尾小笠原家は降伏
木曽家は婚姻
仁科家は粛清後? 養子
村上家は追放
香坂家は内応疑惑により粛清、春日により乗っ取り?
佐久大井家は滅亡
笠原家は滅亡
島津家追放
須田家追放
こんな感じか?付け足し修正ヨロシク
重用されたのは真田ぐらいって気がしないでもない
0495人間七七四年
2008/11/13(木) 01:40:27ID:4QhGL+E+これだけでもそんなに土地が残っていない気が。
権威を高めるというのはともかく、信玄が直轄化を主眼に
戦略を進めていたとはちょっと思えないな。
そんなリスキーなことはやりたくなかったからだろうけど。
0496人間七七四年
2008/11/13(木) 22:56:16ID:JJnmVpC2領地が増えてるから権力は増大してるだろうな。
0497人間七七四年
2008/11/13(木) 23:33:30ID:XeE/BnaO0498人間七七四年
2008/11/13(木) 23:48:54ID:n+tT60wH0499人間七七四年
2009/03/19(木) 13:48:17ID:GoDsnUUE0500人間七七四年
2009/04/12(日) 00:35:48ID:aQbnoOpD0501人間七七四年
2009/06/14(日) 03:58:02ID:NML3felv包囲網を築いた信玄と築かれた信長、この差やな。
家臣領民の離反が全くなかった信玄とありまくりの信長、この差やな。
不利な山岳地帯を経済的に比較的安定させた信玄と、経済地帯で反乱
おきまくりの信長、この差やんけ〜〜〜。
0502人間七七四年
2009/06/14(日) 11:29:28ID:8mVJefuIいるのはアンチ武田厨だけじゃないのかと
0503人間七七四年
2009/09/08(火) 00:01:32ID:WNAeYf/v0505人間七七四年
2009/09/26(土) 00:48:08ID:u0Z31pDo0506人間七七四年
2009/10/12(月) 16:18:38ID:8REQ4034でも信玄のほうがすごい。信玄が浮気がばれ春日源助に言い訳しまくって
(しかも敬語で)信じてくれお願いだから・・・という手紙が残っている。
そして翌年甲州法度が制定され当主である武田信玄自身も法度に
拘束されると記される。すばらしい。
0508人間七七四年
2009/10/12(月) 17:58:28ID:+sO76gEY野球の監督みたいなもんで、戦争の結果は兵隊やその他、監督以外の部分に大きく左右される。
単純にどちらが優れていたかは難しい。
尾田が武田にヘコヘコしていたというが、それは褒めるべき部分であって、
貶す部分ではないだろう?
武田にヘコヘコして時間稼ぎをしたおかげで尾田というチームは天下取りを行えたわけだ。
そこを評価せずして、一体監督のどこを評価しようというのだ。
どっちが強いとか幼稚すぎるぞ?
監督に強い弱いとかないんだよ。
どちらがチームをより上位に導いたかなんだよ。
0509人間七七四年
2009/10/19(月) 13:51:11ID:Z2EFs70N0510人間七七四年
2009/10/19(月) 20:16:48ID:be/FZgCK天下とってないじゃん
監督とその息子の次代監督がまとめて選手に殺されて
チーム崩壊じゃん
こんな監督いたら間違いなく低評価だよ
0511人間七七四年
2009/10/19(月) 22:14:08ID:J2PQVnUj内紛から崩壊せず統一の流れが持続した、監督の交代でも
動じない、最強球団にしか見えない。
0512人間七七四年
2009/10/19(月) 22:21:30ID:be/FZgCKそれ単なる超贔屓目だから。
実際はその3つは全部別物の球団。
その言葉自体もその3つを一つの勢力としてみたものじゃないし。
織田球団は内紛で崩壊して、
羽柴球団が自分で他を圧倒してナンバーワンになって(しかも織田球団の選手や子供迫害しまくり)
徳川球団が羽柴球団を破ってナンバーワンになっただけ。
監督交代なんて都合のいいものじゃないよ。
別チームなんだから。
0513人間七七四年
2009/10/19(月) 22:28:18ID:J2PQVnUj終盤凄い追い上げたのに監督死亡でシーズン3位。プレーオフ
敗退、オフには往年の名選手が全員抜けた武田よりまし
0514人間七七四年
2009/10/19(月) 22:33:35ID:J2PQVnUjクライマックスを前に燃え尽きた。
0515人間七七四年
2009/10/19(月) 22:36:19ID:be/FZgCKだからなんで
>>結局シーズン優勝するから凄いんだが。
こうなるの。
結局シーズン優勝してないでしょ。織田は。
羽柴球団は織田球団の選手や子供を虐待して自分達の選手で
球団作ってるんだけど。
徳川球団に至っては言うまでもなし。
無理やり同一にしてるだけ。
羽柴球団や徳川球団の手柄盗んでどうすんの。
0516人間七七四年
2009/10/19(月) 22:38:55ID:be/FZgCKだから織田球団は崩壊してるんだけど。
羽柴や徳川の手柄盗んでシーズン優勝とかどんだけ恥ずかしいこといってるか
わからないのかい。
それなら武田球団のほうが直接徳川球団の中に入って活躍してるから
(しかも徳川球団は武田球団のやり方を継承してる。)
徳川球団の優勝を武田球団の手柄と言った方がまだましだよ。
0517人間七七四年
2009/10/19(月) 22:40:53ID:J2PQVnUj語られても困る。阪神星野一年目オフのリストラとか楽天参入の
選手分配とかバレンタイン関係とか
0518人間七七四年
2009/10/19(月) 22:42:14ID:be/FZgCKだからもともと野球で語る時点でおかしいと思うんだけど。
名前も指導者も選手も中身も根拠地も全部変わってんのに
何を言ってんの。
0519人間七七四年
2009/10/19(月) 22:43:59ID:J2PQVnUj0522人間七七四年
2009/10/19(月) 22:46:39ID:J2PQVnUj0523人間七七四年
2009/10/19(月) 22:48:29ID:be/FZgCK立ちあげた人も中身も指導者も選手も名前も全部変わってるわけでもないのに。
というかいい加減野球で語るの無理だからやめようよ。
0524人間七七四年
2009/10/19(月) 22:50:23ID:J2PQVnUj0526人間七七四年
2009/10/19(月) 22:55:22ID:J2PQVnUj0528人間七七四年
2009/11/16(月) 19:58:56ID:zpexEArK0529人間七七四年
2009/11/17(火) 12:59:49ID:RyeHvksUケツホリでは信玄に軍配。こんなんで名将と言ってるのと同じ。
0530人間七七四年
2009/11/17(火) 13:16:25ID:kYZEZWyVないない
0531人間七七四年
2009/11/17(火) 20:25:49ID:8ihqJ7wP結局信玄には勝てずに土下座してたのに
名将なんておこがましい限り。
土下座とケツ堀と敗戦数では信長に軍配。こんなんで名将と言ってるのと同じ。
>>530
十分あるある。
0532人間七七四年
2009/11/17(火) 22:24:58ID:aDoeAv3a信玄にいつ負けたの?
お得意の捏造ですか?
0533人間七七四年
2009/11/17(火) 23:18:22ID:8ihqJ7wPいつも捏造してるのは君でそ。
東美濃に入ったときにあわてて婚姻同盟を申し込んできたのは織田。
明らかに織田が下手。
直接対決してないけど馬場や山県は信長を撃退。
>>529の言い方をまねたものだしね。
>>529みたいに信玄も信長には負けてない。一度も。
0534人間七七四年
2009/11/17(火) 23:57:11ID:PG7U0HGz0536人間七七四年
2009/11/18(水) 14:18:11ID:yVx8NIfb信長に外交であしらわれてるだけだろ。
おめでたいね。田舎大名は。
0537人間七七四年
2009/11/18(水) 18:52:11ID:BITRSH2C勝てる状況まで土下座して待つ忍耐力はマイナスにはならん
ましてそれで負けたならともかく勝ったしな
0538人間七七四年
2009/11/18(水) 20:44:10ID:E5AKOWmyあしらわれてるも何も武田にとって不都合なんかなかったしね。
信長さんから勝手に土下座してきてくれたし。
>>537
信玄生きてる時は勝ってないけどねー。
信玄生きてる時は方々手ふさがりと泣いてる―。
0539人間七七四年
2009/11/18(水) 23:03:53ID:6HcisaWE戦略の一貫なのは誰でもわかるだろ
してやったり、て感じじゃないの?
0541人間七七四年
2009/11/19(木) 11:36:54ID:7/BPwZLQ大いなる信玄のミス。不都合どころか致命傷なんだがな。
実際は信玄も信長の心底なんかもちろん見抜いてただろうけど。
ほんとに土下座とか言って喜んでるのは君だけだよ。
はずかしいね。
0542人間七七四年
2009/11/20(金) 03:00:05ID:5DgyafVh長篠の合戦は信長を語る上で外せない。しかもお決まりの虐殺みたいなシーン。
そこから信長は天才だという結論に持っていく為には、どうしても武田軍はめちゃ
くちゃ強いことにしなければならない。主役の弱い者いじめはタブーだから。
子供のころにそれを見て、信長ファンになるかどうかが問題だ。
アンチ信長、しかも武田ファンになってしまうと、判官びいきみたいな情もからみ
もう、手がつけられなくなる。大人になるとさらにひどくなるようだし。
もちろん武田軍が戦国最強だったことは認めるが、信長を倒せたとは思わない。
信長は名将とか、そんなレベルではないから。
0543人間七七四年
2009/11/20(金) 03:15:58ID:CrO3rzxA0544人間七七四年
2009/11/20(金) 07:25:27ID:Y7YfRR8nそりゃ北に謙信がいたからね。
喜ぶも何も単なる事実を述べてるだけ。信長が土下座したという歴然たる事実をね。
>>542
長篠なんか2倍の兵力を持ってるくせに陣地にひきこもってた織田徳川が武田を迎撃したという
変則的な戦いだし。しかもそれでも最初は押されてるし。
>>信長は名将とか、そんなレベルではないから
ああ、確かに生涯の敗戦数十回とか名将とはとてもよべませんね、信長は。
>>543
信長がそれまでのラッキーで稼いだ分のちょうじりあわせみたいなもんね。
しかも崩れてないし。朝倉は三月にはまた動いてる。
0545人間七七四年
2009/11/20(金) 10:32:15ID:6KfwiK4d束になってかからないと各個撃破されて滅ぼされる屑集団
謙信公が絡んでいたなら紛れもない包囲網だったがな
0546人間七七四年
2009/11/20(金) 10:36:06ID:Y7YfRR8n謙信が絡んだのは第2次。
信玄が絡んだのも朝倉浅井本願寺長島その他が終結した立派な包囲網。
一斉反撃の手筈も整ってたし。
ていうか上杉厨のふりしなくていいから。文体と内容でモロばれ。織田厨さん。
0547人間七七四年
2009/11/20(金) 12:05:38ID:m/Ai0whUこのスレ立てたのおまえだろ。
1の文句や文体の低脳さがおまえそっくりだよ。
おまえは信玄を貶めるのは織田厨の仕業だと決めつけた被害妄想を主張しているが
おまえがこんなもん立てて煽ってるだけだろーが。
0548人間七七四年
2009/11/21(土) 08:50:15ID:nkb+Xx+Q僕はスレなんか立てた覚えないよ。
立てたのは別人。ランチェスターとか言われてる人だったかな。
あいにく君と違って明らかに別人なんでね。
君みたいに余計なスレを立てて煽る癖なんかないね。
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