鄭舜功が浙江総督胡宗憲によって投獄されている間に、王直など日中の倭寇が駆逐され始め、戚継光(〜1588)は「紀効新書」(1560?)、鄭若曽(〜1570)は「日本図纂」(1561)を著し、日本に関心が持たれるようになった。
翌年、浙江総督の胡宗憲(〜1565)はこれらを基にして「籌海図編」(嘉靖41年・1562)を編纂し、「籌海図編」は嘉靖年間に初刻出版された後も再販され続けてきたので広く知られており、中国の日本認識の原点となっている。
しかし、小葉田淳さんはこれらや、鄭曉(〜1566)の「吾学編」(嘉靖43年・1564)について、
『日本図纂・籌海図編の記事には、日本につき清新有用の文字尠からざるも、猶前代の諸書の記録を任意に剪裁縫合して其間誤謬が僅少でない。(中略)一々学説の煩に揕へぬ。吾学編の妄誤は寧ろそれ以上である』と断定している。
そして、これらの書物が架空の事を記載し、誤診を犯した理由は、『嘉靖の大倭寇を被って、倭寇の真相・防備などを述べて日本の国情に及んだ。そのため我が国情に関し潤色的なものが自然的にも或いは意識的にも濃厚である』としている。
浙江総督胡宗憲(〜1565)の死後、鄭舜功は出獄して「籌海図編」と対抗するように、そしてその内容を批判しながら「日本一鑑」(1567〜1573)を著したが、「日本一鑑」は写本で伝えられたために日本語の研究以外は良く知られていない。
その後、鄭舜功は日本に行っていない鄭若曽(〜1570)から「籌海図編」を改訂するための「日本一鑑」の借用の申し出があったがこれを断っており、ケ鍾は1592年に「籌海図編」を編集しなおした「籌海重編」を出版している。
「籌海図編」の巻十三「兵器」は、「紀効新書」巻之十八「治水兵篇」をより詳しく書いているが、「紀効新書」巻之十五の「鳥銃」については間引きの記述であり、なぜか「神器譜」>>573 の図もある。
「日本一鑑」に「國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」と書かれている「鳥嘴銃」について、「籌海図編」にはその鳥嘴銃の図が出ているが、「紀効新書」「籌海図編」共に鳥銃と鳥嘴銃について混乱・矛盾した記述となっており、後の改編・改定が入っているようである。
「紀効新書」では鳥銃と鳥嘴銃はトリガーなどが異なって書かれているので同一形式の銃とは思えず、装備も「鳥嘴銃○○把」「鳥銃火藥○○斤」となっているが、「鳥銃○○把」は出てこない。
硝石を使う火薬は鳥銃薬だけが秘法として詳細に書かれており、鳥銃薬の合薬技術の伝播は難しかったものと思われる。そのため、「紀効新書」を読んでみても、明軍の戚継光らは鳥銃または鳥嘴銃を倭寇に対して実際に使ったようには見えない所がある。
鄭舜功は倭寇対策のために日本に来る前、明軍に鳥銃または鳥嘴銃が有り、それを知っていれば「日本一鑑」に「手銃」とは書けなく、解説文も違うものになるだろう。また、「硝」の用途や「火薬」も記載する必要が出てくる。