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▼火縄銃について語ろう▲

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDM
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0583S字型金具2011/01/15(土) 00:48:06ID:v0j6cFzd
>>582
>フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから 本国でも全く普及してなさそうだけどな
ミュクレット式銃のメカは、外カラクリの倭銃のルーツのように思われるが、そもそも燧石銃はなぜか日本で普及していないので何とも言えない。

>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
神器譜に倭鳥銃の図はありましたか?

>掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
佛郎机はポルトガル国を意味し、佛狼机夷はポルトガル人、また、佛郎机はカートリッジの子機を持つ大砲をも示す。明は佛郎机のようなカートリッジを使う大型銃の鷹揚砲、カートリッジ銃身の掣電銃を開発した。

>ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋としていて、ヨーロッパとインドを区別していない。
0584人間七七四年2011/01/15(土) 02:38:26ID:Xg7ST/kL
>>583
火縄銃に詳しくないから倭銃と倭鳥銃の違いが解らないけど、文中じゃ区別してる感じしなくて
図には倭銃と書かれてる、結構いい扱い?というか性能は魯密銃の次に買われてる

それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから

あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
0585人間七七四年2011/01/15(土) 10:36:14ID:v0j6cFzd
>>584
>それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
>元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
>いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから
神器譜は鉄砲解説書であり、明の永楽帝が鄭和を西洋に派遣して土地風俗を見聞させ、陳子魯が書いた『西域番国志』などの地理志とは違い、細かい地名・国名はここ(神器譜)では必要がない。
必要に応じて使い分けるもので、『イラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる』の指摘は見当違いでは?

>あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
原文は、『ろ蜜密邇水西洋』と書かれている。したがって、国名ではなく『ろ蜜国は水西洋に密邇(接する)』である。

どこの原典か書籍から引っ張ってきて投稿しているのか判らないけれども、元が違えばその後の解釈も異なるのは当然である。銃砲史・戦国史には曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく孫引きが横行している。
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/b33006ffe0ffd597e8544d1b2ddce5dc
今のところ、私の知っている神器譜には、倭銃・倭鳥銃の図はない。
0586人間七七四年2011/01/15(土) 14:04:21ID:Xg7ST/kL
孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる
神器譜には倭銃・倭鳥銃の図があるよ、私の知っている神器譜って何?意味不明なんだけど
0587人間七七四年2011/01/15(土) 17:47:30ID:v0j6cFzd
>>586
>孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる

温州文献双書ではなく、温州文献叢書(温州文献丛书)の竜門集・神器譜(龙门集・神器谱)のことでしょうか?
温州文献叢書に『倭銃・倭鳥銃の図』が載っていることを知らず、失礼しました。
神器譜には、色々なバージョンがあることが知られており、未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本などを見ています。>>301
中国史研究のために温州文献叢書の編集委員会が結成され、2006年に日本古典研究会の協力を得て出版されたこの本の存在は知っていましたが、国会図書館にも所蔵されておらず、今のところ倭銃図の確認はできません。

>>582
>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
『相当ストックが長い倭鳥銃』は新発見で、倭銃研究・鉄砲伝来に関係すると思われるので、是非、図のアップロードをお願いします。
0588人間七七四年2011/01/15(土) 19:12:28ID:Xg7ST/kL
一応これ↓多分文字見えない‥元々字画の多い字は判別不能だし
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1362811.jpg
左側のページに無門照星乃鳥銃□要討準全在□□倭銃用、左上に棚杖とあるのと
魯密銃全形と西洋銃全形の間に挟まれてるから倭銃と思ったんだけども

>未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本など
温州文献双書は安い値段で普通に新品売ってたから、史書みたいに普及した書物だと思ってた
0589人間七七四年2011/01/15(土) 22:27:11ID:v0j6cFzd
>>588
画像ありがとうございました。
この図はろ蜜銃の説明で、「照門。照星乃鳥銃樞要。討準全在此處。倭銃用一凹字形。不如此更妙。下俱作馬蹄荀。」と書かれ、ろ蜜銃の照門は『回』、倭銃の照門は凹字形と説明しています。

私が調べている「サーペンタインロック式の古銃」の照門は、ろ蜜銃の『回』字形で円形穴が開いています。ルーツが中国かと思い調べましたが、どうやら日本オリジナルの銃のようです。 >>226 >>453 >>454
0590人間七七四年2011/01/15(土) 23:34:24ID:Xg7ST/kL
ちゃんと見れば、西洋銃と違って魯密銃全形の一枚目に銃床が無いか‥失礼しました
でも、なんで倭銃だけ参考にしておきながら全形無いんだろうか
0591S字型金具2011/01/22(土) 00:23:35ID:TN9AdDPW
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるF

どうしても理解できないのが『国立歴史民族博物館(大学共同利用機関法人・人間文化研究機構)』が主張している南蛮筒・異風筒である。 >>340
歴博の「歴史のなかの鉄炮伝来」P15の「伝来した諸銃の系譜」で、『鉄炮は火縄挟みの取り付け位置、狙いを定める前目当(照門)・先目当(照星)、金具の地板や銃床の形式によって使用地の推測が可能である。
異風筒や南蛮筒は火縄挟みの位置が右側であり、目当は上部があいている。なかには銃身の端が鳶ノ尾形式のものがあるが、こうした特徴から日本に伝来した鉄炮は東南アジア方面のものと考えられるのである。』と書いて説明している。

また、歴博の「鉄砲伝来の日本史」P20の「南蛮鉄炮」では、『現在、国内には南蛮筒とそれを見本に作られた異風筒と思われる実物資料が複数存在している』として、表1にその7挺の銃を紹介している。
しかし、同書P22に『鹿児島県個人蔵と靖国神社所蔵の一挺は銃尾が鳶ノ尾の形式になっているので、銃身の形状から「琉球筒」の可能性がある』と書いているので、
表1には現存する「南蛮筒」は無くなってしまい(?)、「琉球筒」の製作地は台湾(?)、まさか沖縄県としているのでは?
南蛮筒そのものが不明・残存していないのに、「現存する南蛮筒(内外カラクリ不明の種子島家所蔵銃か?)および異風筒、炮術秘伝書を根拠に復元した」として歴博は南蛮筒を復元作成・所蔵しているが、論理矛盾があり、どの程度の根拠を持って作成したものか。 >>449

同書P3に、炮術秘伝書は『鉄炮を家業とする当事者によって書かれた点で、史料的価値が高い』として秘伝書を取り上げている。
しかし、炮術は陰陽道の陰陽五行説を取り入れる素地があるので、炮術秘伝書には「こじつけ」がまかり通っており、炮術秘伝書を無批判に取り上げるのは如何なものかと思う。
秘伝書には『玉拵えの秘事として数十種類におよぶ玉の存在を伝えている。鉛以外に鉄の玉、錫と鉛の合金の玉、複数の玉、半円の玉、三角の玉、中空の玉などがあるが・・・・、もはや秘伝書の記述が嘘やデタラメでないことはあきらかである。』と歴博は書いているが、
近松茂矩は宝暦3年(1753年)の書に、『古伝の拵玉についてまだ試射したことはないから、実際に用いるときは、よくよく打ち試してみたのちに用いるがよい』と付記書きしているので、秘伝書の記述には嘘やデタラメの可能性が入っているのでは? >>450
そもそも、歴博は火縄銃に鉄製の玉の存在を認めず、「1554年と1555年の倭人の鍛造火縄銃筒進上」を否定して鉄炮伝来倭寇説を組み立てている。
0592人間七七四年2011/01/22(土) 00:38:42ID:E6xojand
倭寇伝来説は中国でも唱えられてる説じゃなかったっけ
鉄玉はどっかの城跡から出土してるけど
0593人間七七四年2011/01/22(土) 01:12:17ID:di2GlU4/
>>517を信じて八王子城に非常に詳しい人に
「八王子城からは鉛玉が出土しなかったんですよね?」と聞いたら
次の日、やんわりとメールがきた。
「椚国男著 『戦国の終りを告げた城』に銅玉58(内38個未使用と思われる)鉄玉16個 鉛3個が出土したとあります」

「よく調べもせず適当なことを言って申し訳ありませんでした。また教えてください」と送ったら
「こちらこそ勉強し直すきっかけになりました」だって。
本当によく知ってる人は腰が低くて尊敬するよ。
S字金具に限らず、便所の落書きの内容は必ず裏を取らないと恥をかく。
0594人間七七四年2011/01/22(土) 01:34:58ID:x0i6lQvn
>>593
というか、
便所の落書きは他でやれ!と抗議してるのに、申し開きもせず平然と連投続ける奴がまともと思うか?
自分でスレ立ててそこに連載すればいいだけなのに嫌がらせとしか思えん
0595人間七七四年2011/01/22(土) 03:29:55ID:E6xojand
なら便所の落書きより為になること書いてけばいいんじゃね
0596人間七七四年2011/01/22(土) 03:53:25ID:x0i6lQvn
>>595
そういう問題じゃなく、長文連投は他のスレでやってくれってこと。
やめてくれって何度も言ってるのに全部無視だからな。図々しいどころか卑怯だろ。
0597人間七七四年2011/01/22(土) 22:43:33ID:TN9AdDPW
>>593
投稿している内容が内容だけに、出来るだけ一次史料を調べるようにして投稿しています。
517の『この城跡から鉛製の銃弾は1点も出土していない』の根拠は、八王子市教育委員会が2002年に発行した『八王子城跡御主殿発掘調査報告書 CD-ROM版 八王子城跡]V』です。
http://www.free-style.biz/book/archives/2008/07/cdrom_1.html

この調査報告書は、『市では、平成4・5年(1992・93)に、続く御主殿内のさらなる整備事業を実施するために発掘調査を実施し、極めて良好に遺存する遺構群と膨大な量の出土品を発見することができました』について書いてあります。
その347ページに『銃弾(第158図 表42・43 図版162-60〜115)  銅製34点、鉄製453点が出土した。すべて鋳造である。なお、一般的な鉛製のものは今回の調査では1点も出土していない。』と書いてあったので、そのまま採用しました。
この報告書は第13報でしたが、それ以外の発掘調査報告書は教育委員会取り扱い図書一覧に無く、また、その内容も不明なのでそれ以上詮索しませんでしたが、「鉛3個が出土」は貴重な情報です。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kyodoshiryokan/4283/007851.html

「八王子城に非常に詳しい人」が居られるそうなので勝手なお願いですが、『戦国の終りを告げた城』は自費出版の二・三次史料なので銃弾の出土状況なども知りたく、図書館のコピーサービスを受けたいので発掘調査報告書の情報を教えて頂けないでしょうか。
また、「素焼きの土玉163点出土」については非常に重要だと思われるので、その人から『土玉の用途について、どのように判断されているのか』を聞いて頂けないでしょうか。
0598人間七七四年2011/01/22(土) 22:45:44ID:di2GlU4/
>>594
要するに、S字金具は人とコミュニケートする能力がゼロなのは一目瞭然だが、
それどころか火縄銃や歴史に関する知識すら極めてあやしいということ。
0599人間七七四年2011/01/22(土) 22:51:36ID:di2GlU4/
>>597
素直に読めば、
「平成4・5年の調査では鉛玉ひとつも出土しなかったが、それ以前の調査では累計3個出土してる」
ってことでしょ。

うーん、そこまで相手を煩わせるのはちょっと・・・
『戦国の〜』の著者の参考文献を調べるか、著者の人・関係者に手紙等で聞いてみるといいんじゃない?
0600人間七七四年2011/01/22(土) 23:18:40ID:TN9AdDPW
>>599
そうすると、合計、銅玉92個、鉄玉469個、鉛玉3個が出土したことになり、
>>517 で私が主張していた『このことは、戦国時代の火縄銃の弾は鉛とは限らないことを証明している』を了承して頂けたものと理解いたします。
問題は土玉で、国立歴史民俗博物館発行の「歴史のなかの鉄炮伝来」では、33ページに『秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する』と締めくくっている。
0601人間七七四年2011/01/23(日) 09:59:24ID:Dxlg5f/q
>>600
もういい加減にしようや・・・
HPやスレッドくらい自分で立てられるだろ。
0602人間七七四年2011/01/23(日) 10:07:42ID:1/tt+AIJ
>>99
競技用の火縄銃も存在するらしい。
今でいうスナイパーライフルとそこら辺の量産品を一緒にしては駄目だ。

>>600
つまり、削り出しで弾をつくっていたということか。すごい手間だな。
0603人間七七四年2011/01/23(日) 12:31:13ID:EIcXrSgD
>>602
>つまり、削り出しで弾をつくっていたということか。すごい手間だな。
       ↑
>>597 『銅製34点、鉄製453点が出土した。すべて鋳造である』
旋盤やフライス盤があったと思っているのか。少しは頭を使って考えろ。
0604人間七七四年2011/01/23(日) 19:22:12ID:RQhmB9LT
土玉って何なの?粘土焼き?
0605人間七七四年2011/01/23(日) 20:39:51ID:EIcXrSgD
>>604
>土玉って何なの?粘土焼き?
      ↑
>>272 >『八王子城から、焼き物の弾丸、つまり粘土で作った弾が出土していたな。』

『投石と汗のメンテナンス』に、「八王子城から出土する土玉については火縄銃では使えないから弾弓、つまり中国の投石弓があったとする説もありました。」
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/wforum/wforum2001/2001.2.1.htm
ちなみに、弾弓とは、矢ではなく玉をはじいて飛ばす「遊び道具」で、武器ではない。
http://chisuhatatoshi.world.coocan.jp/new7.htm

土玉は他の所でも出土しており、沖縄では珊瑚弾、鉄弾、石弾が出土している。
http://www.gusuku.sakura.ne.jp/gusuku/siryo/sensou/top04.html
0606S字型金具2011/01/29(土) 17:51:40ID:tt32/vL/
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるG

鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、詳細に調べてみると非常に心もとない結果となっている。
国立歴史民族博物館が『鉄炮記』を根拠にした通説、「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられ、日本中に広まった」とする通説に矛盾を感じ、倭寇による伝来説を主張している。
ポルトガル人によるヨーロッパ銃の伝来説は、確たる証拠(鉄炮記以外の文献)・現品(ヨーロッパ由来火縄銃)も無く、ただ「願望論」から成り立っている。ただし、倭銃には何時ごろとは特定できないが、ヨーロッパ銃の影響があったことは否めない。
しかし、「倭寇による伝来説」の東南アジア製銃についても、残存する火縄銃は国内外とも極めて少なく、今のところ東南アジアに古い銃は残存していない。
日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃である。
戦国期末(慶長年間で鉄砲伝来とされた60年後?)までに、東南アジア各国への、贈与の要求、日本から贈答・輸出・持ち出しを認める明確な文献があるので、残存銃にはこれらの交雑の影響があると思える。
徳川美術館所蔵鉄砲は非実戦銃のように思われ、国内には出土銃部品、中国や韓国には文禄・慶長の役の際の遺品など実戦を推定できるものがある。
残存銃の絶対数が少ないのに、制作年代の推定に火皿と照門の相対位置が挙げられているが、例外の銃もあり、本当に銃の年代推定ができるのであろうか?

国立歴史民族博物館の「歴史のなかの鉄炮伝来」P33で、
『「武蔵八王子城跡から発掘された各種の玉と鋳型」 武蔵にある後北条氏の支城八王子城は一五九〇(天正一八)年に秀吉に攻められて落城した。同城跡から出土した鉄製。青銅製の玉、玉の鋳型の類である。土玉とおぼしきものもある。
秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する。』
と書いてあるが、検討結果はどうなったのであろうか?
各地から土玉の出土例もあり、この城跡から鉛製の銃弾はたった3個しか出土していなく、土玉・素焼玉が鉄炮の玉であれば、「鉄砲の定義」そのものが疑われる。 >>600
新城市宗堅寺の「信玄砲」は説明の付かない(誰も解説していない)銃身で、土玉・素焼玉でも発射したものか? >>514
0607人間七七四年2011/01/29(土) 18:03:07ID:EynA4gyi
明代中国で西南の将兵は比較的火器の装備が進んでたらしいけど
あれは何所産なわけ?
0608S字型金具2011/02/05(土) 02:02:56ID:vc21zI0q
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるH

ポルトガル人によってヨーロッパ銃を売りつけたとする鉄砲伝来説は、納得がいかない。

1509年:ポルトガル人は初めて東南アジアに現れ、マラッカ王国と争いを起こし、王国は火器で反撃したけれども1511年に滅亡した。
1513年:この頃からポルトガル人が中国南岸に現れ初め、1517年に明国へ朝貢したが、1520年に追い払われた。
1522年:ポルトガル人は軍艦で広東を攻撃したが撃退され、明国は艦炮の大砲(佛狼機)を鹵獲した。 >>359
1530年:広東の一つの湊が対外通商のために開港されたが、ポルトガル人だけが締め出された。
1545年:鉄砲伝来?
1547年:日本と明との遣明船はこの年が最後。
1548年:明軍は寧波の東方の双嶼島(リャンボー)を攻撃・壊滅したので、双嶼を中心とする密貿易は終わった。
1548年:明国はポルトガル人との鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
1553年:この年から1559年までは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な海賊行為があった。倭寇は火槍などの火器で反抗したが、火縄銃の使用は認められない。>>441
1554年:倭人が李朝に銃筒を進上。 >>450
1554年:明国はポルトガルとの通商関係再開を受け入れ、ポルトガル人は広州で通商する正式の許可を得る。
1555年:ポルトガル政府の勅令によるカピタン・モール制が始まり、1556年からボルトガル官許船は毎年必ず一回一艘が定期的に日本へ来航する大規模な重商業主義的な機構による貿易が始まる。>>462
1556年:明の鄭舜功が倭寇の禁圧と日本の実情調査のために来日し、後に「日本一鑑」を著したが、鉄や硝石など記載内容について疑問がある。>>455
1557年:明国の現地官憲はポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したとして、ポルトガル人のマカオ居住を黙認する。マカオは日本向けの基地となり、官許船での日本貿易は必ずマカオ経由での取引となる。
1559年:明国は倭寇の取り締まりを強化し、王直を処刑した結果、倭冠の活動は縮小していった。
1567年:明国は海禁令を緩和するが日本には適用しないため、ポルトガル人は日明交易を肩代わりして大きな利益をあげるようになった。

有水博さんは、「リスボンの主要な公文書館に通う機会を得た。しかしながら、16世紀の30年代、40年代の中国沿岸における冒険的なポルトガル商人の活動を明らかにするような文書、あるいはこれらの商人の倭寇とのつながりを示す資料は、ついに見出せなかった」と書いている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40004878879 日葡関係開始時における倭寇介在説の検討(文化編) CiNii 論文PDF - オープンアクセス

1950年代以降も、ポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したので明国の現地官憲からマカオ居住を黙認されたのであって、ポルトガル商人と倭寇とのつながりは無かったと思われる。
日本への鉄砲の拡販は倭寇の協力無しには成り立たず、そのため、1556年以前(官許船以前)にポルトガル商人が日本に鉄砲を販売したとは思われない。また、本格的な貿易は1567年以降となるが、鉄砲と硝石の輸出入記録は今のところ発見されていない。

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とすれば、従来の日本の鉄砲技術に、ポルトガルを含む各国からの技術導入・移入により、急速・急激な進歩・改良・発達・生産を遂げて日本独自の火縄銃技術が成立し、従来の鉄砲伝来説の矛盾点が解消する。
0609人間七七四年2011/02/05(土) 16:46:18ID:GK820u5u
えーっと 素人が口を出してゴメンネ
火薬の原料の硝石は確保出来ないから糞便を醗酵させたでしょ
(火薬も量が集まるとウンコ臭いもんな)

で、ポルトガル人が持ち込んだ鉄砲は我々日本人は真似が出来なかったんだよ
何故なら当時日本にはオスメス螺旋の発想が出来ていなかったからね

だから個人的には゛608 :S字型金具゛に同意です
山国地域だと鉄とか火薬の調達は厳しい&高価なので、
変則的だけど今風のボウガンタイプが使い易いし調達可能なんです・・スレチゴメン。
0610人間七七四年2011/02/05(土) 20:46:56ID:vc21zI0q
鉄砲伝来のように、最初に鉄砲その物について良く知らない権威者が定義・解説してしまうとその後の修正は難しく(ポルトガル人→倭寇→?)、適切な解説書が出てこないことは不幸である(日本人は権威に弱い)。
硝石についても同じことが言え、権威者は良く知らない、または調べていないためか「硝石=鉄砲薬」としか捕らえておらず、頭から国産は無くて輸入品として技術史上いい加減に取り扱っています。
硝石の鉄砲薬と医薬品以外の用途について書かれたものはありません(日本国内に)。
日本は古来より朱の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。
鉄砲と同様に硝石についても適切な解説書が少なく、>>609 さんが硝石製法について『糞便を醗酵』と誤解されているのも無理はありませんが、江戸期の硝石製造については「板垣英治」さんの論文を読まれたら良いと思います。
http://hdl.handle.net/2297/7422 「塩硝及び硫黄の生産」
http://hdl.handle.net/2297/7434  「硝石の舎密学と技術史」
0611人間七七四年2011/02/05(土) 22:55:49ID:a6ANbnQX
>>610
本人乙
面白いなこれ
0612人間七七四年2011/02/09(水) 19:10:40ID:zVXWAj1v
>>606
>鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、

その言葉そっくり返したいんですが、
「火縄銃が日本の独創性によって生まれ、発達した」という説の証拠は何かあるんでしょうか?
0613人間七七四年2011/02/13(日) 00:52:52ID:l4cZDhPq
足軽の「初心者用マニュアル?」として「雑兵物語」が伝わっているが、成立事情については原本が無くなっているので不明である。
享保13年(1728年)に書き写された「内閣文庫蔵浅草文庫旧蔵本」が最古の写本とされ、30種以上の写本が残っているが、書き写されるたびに庶民に迎合するように加筆され、娯楽読み物となっている。
この最古の写本の「浅草文庫本」と図が綺麗な東京国立博物館蔵の巻子本とでは、「本文の異同個所は550箇所ある」と指摘されている。
東京国立博物館蔵本に、持筒足軽の筒平が旦那の火縄銃を運搬するために、火縄銃と大小の刀2本とを一緒に左側に差している図がある。火縄銃の重量・長さの点で腰に差せるかどうかを別にしても、左右の重量バランスの点から、これはありえない図ではなかろうか?
國學院大學図書館所蔵の雑兵物語では、持筒足軽の筒平は、右腰に火縄銃、左腰に大小の刀2本を差していて、東京国立博物館蔵の巻子本とは異なる。
http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/library/lime/zohyo01/pages/page016.html
鉄砲足軽小頭の朝日出右衛門の項にも「朔杖をひん抜て、鉄炮を腰にひつばさけて、刀を抜て敵の手と足をねらつて切めされい」と「接近戦は鉄砲を腰に差して戦え」と書いてあるが、鉄砲を腰に差しての白刃戦・運搬には疑問がある。
持筒足軽の鉄平の場合は、大きい鉄砲なので腰に差せなく、帯紐で縛って背中に担いでいる図もあるが、ケース(なめし袋?)に鉄砲を入れてある図もあり、なぜ、倭銃には運搬のためのスリング(負い革)取り付けパーツを付けないのだろうか?
http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/library/lime/zohyo02/pages/page017.html

また、「雑兵物語」は娯楽読み物ではあるが、「トンデモ本」の範疇に入る物でなかろうか? >>348
0614S字型金具2011/02/19(土) 01:31:36ID:hlQDpnLA
1548年(天文17年)、ゴアの聖パウロ学院長ニコラオ宣教師がインドに来た日本人(アンジロー)から聞き取った『日本の世俗的な事柄について』のインド総督宛ての報告書。

私が日本の情報について閣下に送付した第一の文書においては、甚だ簡略にですが、私はその土地において行なわれている宗教と神の礼拝に関する主要な事柄のみをいくつか書き認めました。
その他の世俗的な事柄は、私の職業にそれほど相応しくなく、また必要であると私には思われないため、余り熱心に知ろうとしませんでした。
しかし、閣下が、私が前述の世俗的な事柄に関して質問するように私に命じていますので、私はたくさんの恩義を受けている方に従わない訳にはまいりません。
閣下の質問、日本人の間に、戦いが行なわれるかということについて、彼(アンジロー)が言うところによると、 ・・・・・
日本には、鎖帷子、胸当、兜、頤甲及び腕章があります。
彼等はまた腿や脚部に鉄でできた具足を付ける習わしがあります。
彼等は、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています。
彼等はまたたいそう幅が広くてかなりの長さがある一種の鉾をも所持しており、それは私達のものと同様に柄に付いています。
彼等は私達が片手や両手で剣を持っているように、小刀と大刀とを帯びています。
彼等には卵型の革製の盾はありませんが、その代わりに金属の薄片で被われた革を常用しています。
それは左肩の上に、そしてその箇所に楯の代わりに結び付けられます。それは長さ三パルモ(66cm)、幅はそれよりも少し短くなっています。そして、左手は戦闘のために空いています。
これらの日本人が戦争に赴く時には、土着の兵士(現地人兵士)は各々胸当、兜及び革のあの手楯のようなもの、刀、槍、弓矢を持っていきます。
彼等は武器を運搬するのを手伝う小者一人、あるいは、私達の間に見られるように、彼等の地位に応じてそれ以上の数の小者を連れていきます。
この島のある地域では山がちな土地であるためにすべての者は徒歩で戦いますが、土地が平地である他の地域では弓矢や両手を使う刀を持って騎馬で戦います。
そして敵を幾人か殺した時には、その首を斬って大将のところへ持っていくのが習わしです。そして、首を持参することができない時には、勇しさの証拠及びしるしとしてその耳を切り取って持っていきます。
日本の馬は、私達の馬と同じほどの大きさでがっちりしており、フランスの馬に似て太い脚を持っています。領主達は自分達の牧場に飼育のために数え切れないほどの雌馬を持っていることを誇りにしています。
日本の船はすべて小型であり、その最大のものでもカラヴェラ船ほどであり、丈が短く、私達の船とは別の様式です。すべての船は櫂で漕ぎ、ござ帆を持っています。あの土地に見られる強い風の時には、投錨する度毎に帆柱がおろされます。
日本の商人達はシナ人達と取引を行なっています。彼等は日本からシナに銀、武器及び硫黄や扇子をもたらし、シナからは硝石や多量の生糸を持ってきます。また同様に陶磁器、水銀及び麝香の固まりをも持って来ます。
日本人達はまたシナの下方、東にあるコレー(高麗)と呼ばれる別の人びととも取引を行なっています。
彼等はそこにも銀や貂の皮を持っていきますが、それは、同島にはそれが多量にあるからです。彼等はまた扇子をも持参し、朝鮮からは綿布を招来してきます。 ・・・・・
この島のいくつもの地方に大量の銀があり、僅かではありますが、金山も幾つかあります。また多量の銅、鉛、錫、鉄があり、鋼鉄も非常に豊富にあります。また水銀若干量と硫黄がたくさんあります。 ・・・・・
0615S字型金具2011/02/19(土) 01:37:49ID:hlQDpnLA
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるI

>>614 はポルトガル国が東アジア進出にあたり、ポルトガルが知りたいことを日本人から直接聞き取った報告書である。
この日本人(アンジロー)は、事情により下僕1人を連れて日本を脱出した知的能力が高い貿易商人(?)と思われ、フランシスコ・ザビエルが日本訪問を決意し、彼の故郷鹿児島へ行くことになったほどの人物である。
報告書は他にも存在する書簡から判断して、彼が出国する1546年(天文15年)以前の日本について書かれたもので、他の書簡とも整合性が取れており、戦国時代の第一級資料としての信憑性は非常に高いと思われる。

この報告書に「彼等は、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています。」と書いてあり、アンジローは1546年(天文15年)以前の日本に「エスピンガルダ」(その詳細は今も不明。大型のマスケット銃? >>470 )があることをニコラオ宣教師に伝えている。
天文12年8月(1543年)種子島に鉄砲が伝来したとされているが、その3年以内の年月に、銃の生産・配備・習得などが可能かどうかは判断に迷うが、アンジローが銃について知っている事は注目すべきことである。
『マスケット銃とは異なるエスピンガルダ』を天文12年以前から所持していた可能性もあり、土着の兵士についての銃装備の記載は無いので銃装備は武士の一部かもしれないが、輸入、コピー、または国産オリジナルかは興味のあるところである。
アンジローが活動した日本の地域は判然としないが、ニコラオ宣教師に銃装備を伝えたのは日本で一箇所だけなのか? 1546年までに装備が広く一般的になっていたものであれば、鉄砲伝来を見直さなければならない。

>>556
>フロイスは日本の戦場を見たことがないし、ほら吹きだから
>「西洋では馬に乗って戦い、日本では馬から下りて戦う」の部分は信じない。
>でも、この部分の記述は事実と受け取る。 >>553(?)
>そのダブルスタンダードが理解できません。

フロイスの日本覚書に『われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。』と書いているが、『フロイスは、ほら吹き』の根拠が解らない。
この報告書には「この島のある地域では山がちな土地であるためにすべての者は徒歩で戦いますが、土地が平地である他の地域では弓矢や両手を使う刀を持って騎馬で戦います。」と書いてある。
フロイスは、「山がちな地域で、すべての者が馬から下りて徒歩で戦っている戦闘」を目撃したと思われ、「彼の行動範囲内での宣教師の目で見た日本の覚書」と思えば、的確な記載が多いと思います。
問題なのは、フロイス(1532年生まれ)は1563年(永禄6年)から来日しているが、彼は自国の鉄砲、または彼が知っている鉄砲と日本で見た鉄砲とが明らかに異なっている様に書いている事である。
0616人間七七四年2011/02/19(土) 01:38:39ID:oAf5xFTp
いいなーポルトガル文書、俺も買おうかな‥
0617人間七七四年2011/02/19(土) 06:07:36ID:QOM/rlaL
エスピンガルダとは火縄銃のこと。
マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う。
後に意味が変化し、フロントロック銃の時代には先込銃全般をマスケット銃というようになった。

というか、こういう手合いに譲歩は無駄だな。
人として軽蔑しか感じない。
退治すべきだろうな。
0618S字型金具2011/02/21(月) 01:14:22.67ID:gOPwhLQC
>>617
>エスピンガルダとは火縄銃のこと。
>マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う。
>後に意味が変化し、フロントロック銃の時代には先込銃全般をマスケット銃というようになった。

「マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う」の根拠、「大口径の銃」、「フロントロック銃」の意味が解らなく、何か思い込みでもあるのだろうか?
「大口径の銃」は『大型の銃』、「フロントロック銃」は『フリントロックの銃』とこちらで理解して、>>615 の補足記載をする。

メンデス・ピント、ジョアン・ロドリゲス、ルイス・フロイスをはじめとするポルトガル人の記録では、火縄銃を指す場合にすべてエスピンガルダを使用しているので、「エスピンガルダ」はポルトガル語である。
>>570 『鉄砲伝来に関して発生する疑問に、ポルトガルで古今を通じて銃砲の意味で使用されるエスピンガルダという言葉が、なぜ日本に伝えられなかったのかというものがある。
さらに不思議なことには、鉄砲伝来の直後に種子島で製造法を学んだ畿内の鉄匠系統の伝書には、スペインで銃砲を指して汎用されるアルカブスを採用し、「阿留賀放至」が、ペドロ「皿伊旦崙」の名とともに伝えられている。』
@『松浦軍の攻撃武器は、堺で作られた大型のマスケット銃であるエスピンガルダ銃と・・・・』>>470
A『あるいはマラバルのエスピンガルディーニャスではなく、モスケット銃に似た大型のエスピンガルドンイスであり、一人の男が肩に担いで運搬するには苦労するほどであった・・・・』
B『ポルトガル人は襲撃し、完全に破壊して勝ち取った。かれらはそこで、大小合わせて2500あまりの金属製の銃砲を見つけた。そのなかにはハーク銃やムスケット銃くらいの大きさのもあれば、もう少し大きなもの、ものすごく大ぶりなもの・・・・』
@ABから、1500年代はマスケット銃よりもエスピンガルダ、アルカブスなどの方が大きいのではなかろうか?

有馬成甫氏は、アルケビユースとマスケットの異同について、「この両者には多少の地方的特種を認めうるが何等本質的の相異があるわけではない。」と書いている。
しかし、『四百名からなる傭兵部隊が設置された。アルカブス兵は月額六ペソの俸給を受け、モスケット銃兵は八ペソ、隊長は六人でそれぞれ年間四二〇ペソの俸給を受け・・・・』と職種により明らかに俸給が異なる記述もあり、本質的に異なるのではなかろうか?
0619人間七七四年2011/02/21(月) 03:03:14.60ID:8+3Xk+Dj
>>618
・・・?理解の仕方が奇妙だな。大口径がわからない?
フリントロック銃とフリントロックの銃という言葉遊びになんの違いがあるんだろう?わからん。
俺がしょっちゅう猫に頭をかじられて脳みそ喰われてるからかもしれないけどなw

エスピンガルダは最初火縄銃を指し、のちには小銃全般を指すようになった。
そのうち比較的小口径の物をアーキュバス(アルケブース)、叉杖をつけるような大口径の物をマスケット(ムスケット)と呼ぶ。
例えばテルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。
0620S字型金具2011/02/23(水) 01:03:46.15ID:nLr6HvIo
>>619 さんは、『アーキュバス』という単語を使っているので、
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1179124918/89
の本人、または、これを参考にされたのでしょうか?

http://en.wikipedia.org/wiki/Tercio の Tercio にはMusketes が出ていない。
The tercio which theoretically had up to 3000 men (but usually many fewer) were
armed with an assortment of weapons to deal with any enemy they faced on the
battlefield - 1500 of them were equipped with pikes, 1000 kept the ancient short
sword and javelin armament, and the remaining 500 were armed with
arquebuses of the best and most portable type.

http://en.wikipedia.org/wiki/Musketeer のMusketeer には Arquebuses が出ていない。
The musketeer manned tercios were developed from the earlier arquebusier
manned coronelias which had firmly established their fearsome reputation
by defeating the French at the Battle of Pavia in 1525 and capturing their king.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
このテルシオ(Tercio)の内、『編成』の出典が不明であり、この『編成』部分は正しいのだろうか? また、スペイン方陣、オランダ式大隊、スウェーデン式大隊の図で、MusketeerとArquebusierの違いが解らない。

http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio.JPG では『Arquebusiers』だけのように見え、したがって、MusketeとArquebus、MusketeerとArquebusierは同義語として捉えても良いと思われる。
『テルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。』は根拠の無い思い込みではなかろうか?
0621人間七七四年2011/02/23(水) 05:38:33.71ID:8M6va8y/
>>620
http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio.JPG
あなたが挙げたこの画像と同じサイトに、こんな画像↓もあるようですよ。
http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio_Spanish.JPG
wikiのオランダ式大隊、スウェーデン式大隊の図で両者が区別されていないのは、
それらの全盛期の17世紀にはアルケブスとマスケットの区別がなくなって全てマスケットと呼ぶようになっていたせいです。
スパニッシュ・テルシオの全盛期は16世紀。おわかりいただけたでしょうか。

こんなのもありますが。
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14&15_Spanish.htm
http://forum.milua.org/archive/TactiqueUk.htm
これがMusketeer
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14_Spanish_musketeer.gif
これがArquebusier
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14_Spanish_arquebusier.gif

ていうか自分で
「(アルカブス兵とモスケット兵は)本質的に異なるのではなかろうか? 」って書いてるじゃないですか。>>618
変な人ですね。
当然ながら大型の火器を扱うモスケット兵のほうが給金は高いです。
0622人間七七四年2011/02/23(水) 08:31:19.98ID:4Ggu0FgJ
>>620
>『テルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。』は根拠の無い思い込みではなかろうか?
いいえ。当時のテルシオ編成において常識です。
0623人間七七四年2011/02/23(水) 08:50:53.64ID:7cxcvFmM
常識なのは、マスケットを装備したマスケット隊が前面で
側面や背面に槍兵とアルケブス兵の混成部隊が位置することでしょ
0624人間七七四年2011/02/23(水) 10:40:17.52ID:4Ggu0FgJ
>>623
パイク方陣は側面ではなく中央に位置する。
その四辺を覆うように銃兵。前辺はマスケット兵。
後期には火力補完のため四隅に銃隊方陣を置いた。
0625人間七七四年2011/02/23(水) 12:09:05.60ID:7cxcvFmM
>>624
槍兵は前面にも側面にも配置されてるよ
0626人間七七四年2011/02/23(水) 17:03:25.08ID:cPmdIvZ6
上杉祭りで鉄砲隊が空砲演舞するけど音すさまじいな。
0627人間七七四年2011/02/23(水) 20:51:21.31ID:/IRekkRI
>>626
米沢鉄砲隊は30匁筒撃つからな。ありゃすげえよ
0628人間七七四年2011/02/23(水) 21:02:44.81ID:476lyTqq
>>627
去年行ったときは音に驚いた子供が泣いていたっけ。
0629S字型金具2011/02/25(金) 00:46:09.04ID:dCBmmHGb
1592年ごろ明国の総兵官だった侯継高が、当時の日本についてのそれまでの情報をまとめて書いた「全浙兵制考・日本風土記」がある。写本を重ねる内に、日本での書き込み、改変、省略、欠損があるが、中国人から見た当時の日本が垣間見れる。
その中で、「砲」(鉄朴・テツホウ)を『武具』と『呴器』の両方の分類に入れている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0263/bunko08_d0263_p0034.jpg
『呴器』とは「三絃子」(三皮仙・サミセン)や「鐘」「鑼」「鼓」「鈴」など音を出す道具のことである。
>>626 >>627のコスプレ鉄砲隊の鉄砲は空砲なので『呴器』の範疇に入り、「鉄砲隊」ではなく今で言う「音楽隊」に該当し、演技である。
弾を入れないので空気抜けが良く、また、装填火薬量を多くしても銃身破裂の危険性が低くいので、より大音量が可能となりコスプレ効果が高まっている。

エスパニヤ人であるメンドーサが1580年頃の中国見聞記「シナ大王国誌」には、
『およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。
その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服することができるであろう、とおもったほどである。・・・・
この閲兵は四時間つづいた。チナ人たちが明言したところによれば、たとえ敵襲の恐れのないときでも、国内の全都市において同日の同時刻にこの行事がおこなわれるということであった。』
と書いてあるので、「当時の中国(明)には多量の火縄銃があった」としている人がいる。
しかし、メンドーサは「自国のテルシオ陣形を知っていて記載した」と思われるが、音を聴いたのであって、弾の発射を見ていない。

内閣文庫所蔵本「日本風土記」の『武具』には、火器の「手銃(鉄火也)」「鳥銃(弾我皮世也)」「発狼箕・イシヒヤ(酷尾突治失・クニクヅシ)」「狼銃(一路也里)」などが入っている。
『呴器』に「爆伏」、「火薬」を入れているので、「砲」(鉄朴・テツホウ)が『武具』の分類に入れるほどの威力があったかどうかは疑問である。
「砲」(鉄朴・テツホウ)を日本人が申告したものかどうかは判らぬが、手銃(鉄火也)は九州地方の「手火矢」、または火箭の可能性があり、狼銃(一路也里)は火槍の可能性がある。
当時の朝鮮には「鳥銃」が無く、明国に「鳥銃」があったとしても威力は低く、また、明国の火器の種類も日本と異なり、「テッポウ」に該当するものはどれか、私には判らない。
0630人間七七四年2011/02/25(金) 00:58:50.65ID:SN6Hd6Ye
>>629
君に聞いてないから。
自分の妄想に都合いい史料だけ拾って来て
妄想組み立ててダラダラ書く君より、
「コスプレ鉄砲隊」を一度でも見た方が、はるかに鉄砲について分かる。
0631人間七七四年2011/02/25(金) 10:12:55.06ID:Nt1+42WP
>>629
そういう我田引水的な解釈はやっちゃいけないことなんじゃないの?
0632人間七七四年2011/02/28(月) 17:20:22.29ID:W2BZrexs
詭弁のガイドラインの見本みたいな人だな
0633人間七七四年2011/03/01(火) 19:39:35.51ID:cdeKKpvu
たぶん自分の何がおかしいか未だに気づいてないと思う
0634人間七七四年2011/03/01(火) 19:40:17.96ID:vREV8Dka
偏執的に粘着してる奴も大概だけどな
0635人間七七四年2011/03/01(火) 23:24:37.36ID:Ytb1agpq
なんども迷惑だって言ってるのに無視して居座ってるんだもの。
何言われたってしょうがないわ。

彼は自分がどうして周囲とトラブルを起こすのか理解できないし、そもそも何が問題なのかもわかってない。
相手の言葉も歪曲して自分流に受け取ってしまうから、コミュニケーションが成り立ってない。
0636人間七七四年2011/03/02(水) 11:15:04.16ID:x2ckE6Sm
しかし彼がいなければスレが落ちる罠w
何の役にも立たないお前らよりもずっとか役に立つ
適当に読んでる分にはまあ面白いw
0637人間七七四年2011/03/03(木) 18:30:49.24ID:sMJLjdJE
落ちるなら落ちればいいよ
落とさないためだけなら不快な長文なんぞ要らん
0638人間七七四年2011/03/03(木) 19:36:30.64ID:MWHn21MM
同意です。
不快なだけではなく、彼の書く内容は誤ってるからね
0639S字型金具2011/03/03(木) 20:52:58.93ID:4NZRvxc8
戦国時代の硝石についての疑問@

火縄銃にとって黒色火薬は兵站物資として、最重要物質である。その主成分は炭素、硫黄、硝酸塩であるが、その合薬方法など日本の銃砲史にとって未解決な部分が多い。
『炭素』成分として草木の炭が使われるが、煮炊き、暖房など、火薬以外の用途も良く知られているので、普通「炭=黒色火薬」と捕らえない。
『硫黄』は日本が火山帯に位置するため産出し、火山の少ない中国や朝鮮などへ多量の輸出や献上などの記録がある。しかし、当時の日本での火薬以外の用途は記録されていないのでよく解らなく、その精製法や流通など不明な点がある。
『硝酸塩』については一般的に硝石、また、焔硝、塩硝、煙硝などの名でも呼ばれている。その用途は漢方薬の他、日本では黒色火薬以外の用途について言及されたものが無い。
日本の銃砲史は、鉄砲伝来(?)時には天然硝石の産出は無いとして、すべての硝石は輸入品としている。その後国内で焔硝の生産が始まり、需要が多かった時には一部輸入し、余った時には輸出したとしている。

1448年(文安5年)の朝鮮王朝実録に、源義成(第8代将軍足利義政)が朝鮮国王に焔硝(硝石)20斤を献上した記録がある。
『其書曰:日本国王源義成奉書朝鮮国王殿下。両国中間、海程万里、隣好不渝、天水一碧。・・・・
別幅:彩画扇二百把、黒漆鞘柄大刀一十把、練緯絹二十段、香五十觔、胡椒三百觔、焰硝二十觔、沙魚皮二十片、生脳二十觔、鮫魚皮五十片、朱漆木車椀一百一十事、白鑞一百觔、蘇木一千觔。』

献上品には胡椒などの輸入品が含まれるので、この焔硝が中国産か国産品かどうかは不明であるが、日本人が焔硝についての知識があったことは事実である。
当時の朝鮮も天然の硝石の産出が無いので、自国で床古土法により焔硝を生産して火器を運用している。
焔硝の献上記録はこれのみで、なぜ日本国王(将軍)の献上品に焔硝が含まれていたかは謎である。
1斤600グラムとすれば20斤は12キログラムとなるので飲用漢方薬としては多すぎ、朝鮮に無い高純度焔硝の酸化剤としての用途が考えられる。
日本は古来より朱色を好み、神社や国旗にまで朱色を使う、朱(丹)の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。 >>610
0640人間七七四年2011/03/03(木) 22:50:50.46ID:QKeSzC5e
もういいよ・・・
0641人間七七四年2011/03/03(木) 23:01:54.85ID:lIEQWPvT
疑問点を引いて反論して貰えると見てる側としてはすげー楽しいんだけど
0642人間七七四年2011/03/04(金) 21:38:27.90ID:SMOF1sDs
自分のブログでやってくれねえかな。
0643人間七七四年2011/03/06(日) 17:25:26.88ID:+v5sdylD
>>641
いや、それは無理でしょ。>>642みたいな荒らし兼保守する能力しかないのは今までの流れを見てればねえ。
0644人間七七四年2011/03/06(日) 23:50:36.57ID:jZ5vyJRo
つうかS字は、最初の頃はコミュニケーションが取れていたから問題なかった。
それが一年ちょっと前、変な連載を始めだした頃からおかしくなっていった。
何かあったのか?

S字さんに聞くよ>>639、自分のやってることをどう思ってる?なんで答えるべきことに黙ってるの?
なんか人間味が感じられないんだけど。
0645人間七七四年2011/03/07(月) 00:19:58.30ID:wlwzhSta
S字にとってみりゃ自分以外は皆荒らしなんだろ
0646人間七七四年2011/03/07(月) 17:55:51.67ID:Oylfne9T
居場所が無いんでしょ
話を聞いてくれる人もいない
ここなら誰かは読むもんね
0647S字型金具2011/03/15(火) 19:42:20.94ID:XkroXJrZ
戦国時代の硝石についての疑問A

洞富雄さんは、著書「鉄砲―伝来とその影響」で「古くから日本に火薬があったのではないか?」と指摘している。洞さんが何を言いたいか良く解らないところがあるので、P43・P44の全文を紹介します。

『※なお、「明史」巻322、日本伝には、古くから日本に火薬があったことを示すかのような不思議な話が載っている。それは胡藍の獄で有名な胡維庸の謀反に関係したことで、公武20年(1387)の記につづけてこう述べているのである。
「先是、胡惟庸謀逆、欲籍日本為助、乃厚結寧波衛指揮林賢、佯奏賢罪、謫居日本、令交通其君臣、尋奏復賢職、遣使召之、密致書其王、借兵助己、賢還、其王遣僧如瑤率兵卒四百余人、
詐称入貢、且献巨燭、蔵火薬・刀剣其中、既至、而惟庸己敗、計不行、帝亦未知其狡謀也、越数年、其事始露、乃族賢、而怒日本特甚、決意絶之、専以防海為努、」
この火薬云々の一件は、「明史」の日本伝に記されているだけで、同書、巻308の胡惟庸伝や「明史紀事本末」巻13の胡藍之獄の条には見えていない。
これについて、所荘吉氏は「(補説)天文以前における銃砲伝来の実否について」(「銃砲史研究」第83号、1976年10月)で、「この事件は「明史」のみでなく、「皇明実録」、「皇明祖訓」に掲載されているにもかかわらず、信じ難いことで、
胡惟庸を失脚させるために、明代における仮想敵国日本の名を利用したものと考えられ、このような事実は否定さるべきであり、それにともなって、南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたことも否定されよう」と断じている。
わたくしも所氏同様、「明史」日本伝に見られる、明初の洪武年間はやくも日本人が火薬をつかっていたかのような記述内容を、そのまま真実をつたえていると信じようとするものではない。
ただ、所氏の述べているところを読んで気になる点がある。それは「皇明祖訓」や「明実録」にも、火薬云々と記されているように誤って読みとる向きがあるやもしれないということである。
「皇明祖訓」には、「日本国」として、「雖朝実詐。暗通奸臣胡惟庸、謀為不軌。故絶之」と記しているだけであり、「明実録」(洪武30年8月丙午条)には、胡惟庸の謀乱と外国との関係が記されているが、日本のことは見えていない。』


鉄砲伝来(?)よりも155年前、「南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたこと」を否定して良いのだろうか?
○太祖皇明祖訓の読み下し文で、「朝」を「日本朝」として「日本朝すると雖も実は謀りて、暗に奸臣、胡惟庸と通じ、不軌を為す事を謀る故に之と絶つ。」と書いてあるものがある。
○鄭若曽が1562年に著した「籌海図編」にも、「十五年、賊臣胡惟庸党備倭指揮林賢、入倭搆乱、十六年、寇金郷、進巨燭暗蔵火薬兵器、佐惟庸為不軌、于是高皇帝訓、絶其往来、」とあり、以前より日本に「火薬兵器」があったことを認めている。
0648人間七七四年2011/03/15(火) 20:18:53.20ID:v6I/UQAL
西欧ですら14世紀末には火薬が伝わっていたんだから
日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とか
どこの老害暗黒爺だよ
0649S字型金具2011/03/15(火) 21:14:08.62ID:XkroXJrZ
>>648
>日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とかどこの老害暗黒爺だよ

老害暗黒爺は『所荘吉』さんで、「このような事実は否定さるべき」と書いて日本の銃砲史・火薬史を組み立てており、現在の定説となっている。
「ID:v6I/UQAL」さんのような考え方は、まだまだ少数意見である。
0650人間七七四年2011/03/15(火) 21:32:19.57ID:rvBRvm8A
S字さんもお変わりないようで何より
0651人間七七四年2011/03/15(火) 21:49:17.45ID:v6I/UQAL
とっくに死んでる爺さんの学問とは言えない時代の仮説を、未だに見直しもせずなぞるだけとか
明清の儒学者かよ、というよりこの方面は全然研究者いないの?
0652S字型金具2011/03/15(火) 22:40:02.62ID:XkroXJrZ
>>651
鄭若曽は、明・清の儒学者ではない。
この方面(銃砲?・火薬?・花火?)は、範囲が広い割にはマイナーな分野で、本を書いても多くは売れない。そのため、研究者(学者)は経済的に生活が成り立たないので少なく、殆どの方は趣味の範囲でのサブ研究となっている。
しかし、歴史からも消えており、面白おかしく書けば売れる要素があるのでトンデモ本、ゲームか現実か判らないものが横行している。
0653人間七七四年2011/03/21(月) 00:44:48.11ID:WCz03qyl
確かに武器防具は研究大会的なものがあまり無さそう
0654S字型金具2011/03/23(水) 01:01:33.11ID:1HWRnTyq
戦国時代の硝石についての疑問B

小葉田淳さんは、「天文期以前に日本人が火薬を朝鮮に持参していた」と書いている。
『日本では、ほぼ天文の前期一五三〇年代の終りを画期として、これまでと反対に銀の輸入から輸出へと転ずる。金はこれまでの輸出から輸入へと変ることになる。
朝鮮半島との貿易では、李朝は、はじめ日本との金銀貿易は一般にきびしく統制した。朝鮮銀の輸出を禁上し、日本金の輸入も原則として禁止している。そのため民間で密貿易によって金銀が交易された。
貿易禁制品が民間貿易で取引されるため、十五世紀中期に一切私貿易を禁止してすべて公貿易としたこともあったが、公費が嵩むので私貿易開禁の議論もでた。
しかしそのために生ずる難点の一つは、日本人が火薬や金を持参して朝鮮銀と交換する機会を多くあたえることであった。朝鮮としては日本金の輸入より朝鮮銀の輸出を取り締ることに重点があったのである。
十五世紀後期より大名らの使送船による金の輸出が増加し、十六世紀はじめにも日本金の朝鮮流入はさらに活発になっている。』

朝鮮王朝実録の1485年(文明17年)の2・3月の項、「命召随駕宰相更議倭物私貿易便否」に日本人との火薬貿易について書いてある。
『・・・・如三浦、則倭奴所売者、金、銀、銅、鉄、皮物、朱紅、石硫黄、皆我国功用之物、而我国禁物、亦不過火薬、金、銀数物而已。
・・・・赴京之行、禁物之令、雖厳然、或以銀、或以他禁物、挟帰潜売者有之。但無現発者、故未之罪耳。 今於倭人、如以火薬、銀換金、此実禁物、当置重典。・・・・』
『・・・・右副承旨李世佑啓曰:金、銀、貂鼠皮、我国不産、於中国、則固是禁物、若於倭人、則非是禁物。但火薬雖為禁物、而人民得之為難、此則似若無慮。但倭人、性本軽躁、興販之際、若争利相害、於国体何如・・・・』

朝鮮では金、銀は不産としていていながら、日本の金と朝鮮の銀とを交換すると書いてあるが、この「火薬」の正体については良く解らない。
朝鮮において火器用の火薬は一般人にとって全く必要性は無く、市中に出回ることはない。この文面から、この火薬は火器用の火薬と思えず、小葉田さんが「日本人が火薬を持参した」とするには他にも何か根拠となる文献があるのだろうか?
いずれにしても、鉄砲伝来(?)よりも57年以上前の、1485年以前より、日本人が火薬についての知識があったことは間違いない。
0655人間七七四年2011/03/23(水) 03:07:56.95ID:MWXT1VZC
火薬という言葉は、中国人にしては珍しく炭粉と硫黄と硝石を一定割合で混ぜた
厳密な火薬の意味でしか使われてないから、朝鮮がわざわざ独自の使い方をしてたとも思えんけど
0656人間七七四年2011/03/23(水) 10:54:22.32ID:30TPsPc1
朝鮮は14世紀から大砲・銃・火矢の量産を行っているから市中に出回る可能性は否定出来ない
0657人間七七四年2011/03/23(水) 21:10:35.10ID:vNbVez6l
大量生産したにも関わらず日本の火縄銃(鳥銃)より性能が低いってのは悲しいな。

ロケット花火のお化けみたいなのとか、爆発して金属片を飛ばす震天雷とかは
作ってたみたいだけど、どの程度の規模で運用してたのかねえ。朝鮮史観で
膨らませたのではなく実態に興味がある。
0658S字型金具2011/03/23(水) 21:17:05.71ID:1HWRnTyq
>>655
古代中国では、火薬は「火の薬」として取り扱われ、仙薬、丹薬など火器以外での利用があり、その頃の火薬は炭粉が入っていませんでした。可燃物としての炭素成分は油などであったと思われます。
炭粉を混ぜ合わせた始めの頃は、「黒火薬」として別に扱っていたと思われます(たしか?)。
朝鮮では、火薬(鉄砲薬とは限らない)を医薬品の外、民生用にも使っていたようです。

>>656
量産していたかどうかは判りませんが、14世紀の朝鮮の火器での使用はありえるかもしれません。しかし、15世紀以降の朝鮮では火器用火薬の取り締まりは、非常に厳しいものがありました。
0659人間七七四年2011/03/23(水) 22:17:57.89ID:XIibwn6/
中国の科学と文明に、宋代のそれ的な書物(何処に書かれてたか見つけられず)で「火薬」の語は
炭粉と硫黄と硝石を一定の割合で混ぜたものを指す、とあるから当時は今と同じ意味で「火薬」
「黒火薬」←訳者が注釈無しでこっちに火薬を当ててたらアレだけど、の語を使ってたんじゃね
0660人間七七四年2011/03/27(日) 22:13:46.89ID:1NwP81WZ
銃身が鉄(埋まっている)のホイールロック式を入手しました。
最初、デニックスかと思ったのですが…検索してもありませんでした。
モデルガンなのは間違いないのですが、デニックス以外で販売していましたか?
教えてください。
0661人間七七四年2011/03/28(月) 14:54:14.21ID:0OYyq4bK
画像上げてちょ
0662人間七七四年2011/03/28(月) 18:38:14.37ID:v9sz2nGU
黒光りする長い棒up
0663人間七七四年2011/03/29(火) 20:00:09.54ID:yIQ/bvA8
画像遅くなりました。
詳しい方、教えて下さい。
http://www.bannch.com/bs/bbs/648441
0664人間七七四年2011/04/04(月) 13:40:57.44ID:mE3mKbWE
姉妹スレ
【火縄銃・マスケット銃】鉄砲・大砲の歴史 【種子島・ライフル】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1179124918/
[近世総合]大坂の陣、火縄銃、戦国・江戸・大航海時代3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1296659597/
0665S字型金具2011/04/13(水) 20:20:32.12ID:gpUh9O7X
戦国時代の硝石についての疑問C

『イエズス会士日本通信』の書翰集にポルトガル人へ硝石の入手要請をした手紙が載っている。
この手紙は鉄砲が伝来した(?)とされる25年後の1567年(永禄10年)に、キリシタン大名の大友宗麟がシナ滞在中の司教ドン・ベルショール・カルネイロに送付したものである。
この手紙を硝石輸入の根拠として取り上げられているが、相手の毛利元就には自製している記録(弘治年間)があるので「硝石の当地輸入を一切禁止」はあまり意味が無い。
硝石200斤(黒色火薬として160kg)は石火矢(国崩し)30発分ほどで大友家の必要量としては少なく、国産品の他に「毎年、良質の硝石」の輸入が必要となったものと思われる。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289142325/109
良質の硝石二百斤で毛利元就に勝てるとは安易な考えで、しかも百タイス【銀一貫目】で勝てるとなればあまりにも安い買い物になり、売国奴のバテレン大名独特の甘えが見え、また、何か裏約束でもあったものか?
この手紙の返信やその後の結果(輸入されたかどうか)については不明であり、ポルトガル人からの火薬の融通記録は数点あるが、私の知っているポルトガルからの硝石輸入記録は、この書翰だけである。

『  最も尊敬すべき君。
我等は貴下が本年当地に来られんことを大に待ちゐたる者にして、貴下の渡航を妨げたる原因は小ならざるものと考ふれども、近く相見るの希望を棄てず。
予が常にコンバニヤを庇護せんと欲することはすでに貴下の聞に達したらんと信ず。
予が山口の王【毛利元就】に対して勝利を望むは、かの地にバードレ等を帰住せしめ、始め彼等が受けたるよりも大なる庇護を与へんがためなり。
而して予が希望を実現するに必要なるは、貴下の援助により硝石の当地輸入を一切禁止し、予が領国の防禦のためにカピタン・モール【ポルトガル船の司令官】をして毎年良質の硝石二百斤を持来らしめんことなり。
予はこれに対し百タイス【銀一貫目】または貴下が指定せられる金額を支払ふべし。この方法によれば、山口の暴君は領国を失ひ、予がもとに在る正統の領主【大内輝弘】その国に入ることを得べし。
貴下の手に接吻す。
本日陰暦第九月の十五日【永禄10年9月15日は1567年10月17日に当る】 』
0666人間七七四年2011/04/13(水) 20:59:33.13ID:+RK+iIqU
戦国大名直筆の書簡、というか東西問わずお偉いさんの書簡って割とそんな感じの文書多くね
大仰というか大らかというか気宇壮大というか空想的というか
0667S字型金具2011/04/25(月) 00:25:08.74ID:yReM8OWd
戦国時代の硝石についての疑問D
硝石を輸入品としている人の根拠集

@岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究・昭和11年(1936年)』
『また、火器弾薬原料が輸入せられた。推察するにその数量は頗る多かつたに違ひないが、的確にそれを知ることが出来ない。その理由は蓋し多くの場合商取引として、日本商人の手を経ることがなく、
直接に諸侯、殊に基督教諸侯に引き渡され直に戦争に使用せられたからである。その輸入し直接交付せられた二・三の例を次に挙げる。・・・・』

A田中健夫『倭寇−海の歴史・昭和57年(1982年)』
『「倭好」のなかには入れられていないが、鉄や硝石も倭寇の重要な需要品であった。種子島の鉄砲伝来後、日本各地で鉄砲が生産されるようになったが、日本の鉄はもろく、福建地方やシャムから鉄を輸入したという。
また火薬のもととなる硝石も日本には産出しないので中国から買い、遠くシャムまで足をのばして購入に行ったこともあったそうである。このことは「日本一鑑」に書いてあることである。これらの商品の対価はおおむね銀で支払われた。・・・・
「日本一鑑」は鄭舜功が、嘉靖三十四年(一五五五、弘治元)から同三十六年まで、三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験をもとに嘉靖四十四年に書いたものである。』

B岡田章雄『キリシタン風俗と南蛮文化・昭和58年(1983年)』
『戦国諸大名の間で鉄砲がさかんに利用されるようになると、火薬の原料、とくに硝石の需要が高まった。
わが国には硫黄は多く産出するが、天然硝石は産出しない。そこで外国船により、また海外渡航船によってインドシナやシャム(タイ)・インドなどその産出国からさかんに輸入された。』

C宇田川武久『近世初頭における火器の普及と生産・平成2年(1990年)』
『鉄炮は火薬がなければ、ただの鉄の棒にすぎない。したがって日本に鉄炮が伝えられたころ、火薬は鉄炮とセットでもたらされたとおもう。
このことは鉄炮伝来後、まもない時期と推定される種子島弾正忠宛の将軍足利義藤御内書に「鉄放薬事、南蛮人直令相伝、調合無比類之由、被触御耳、武家御内書如此侯、於無相違者、可為御祝着之旨候、聊以不可有御他言由侯」と、
種子島時尭が南蛮人から相伝した鉄放薬の調合法は比類がないから伝えて欲しいと、述べている事実に明らかである。
倭寇は鉄炮を交易品としたから必需品の火薬も取扱ったに相違ない。』
0668人間七七四年2011/05/03(火) 13:29:12.01ID:GC3cYODu
S字さん、がんばって!
0669S字型金具2011/05/04(水) 00:48:44.73ID:Du9+F7bF
戦国時代の硝石についての疑問E
硝石を輸入品としている人の根拠集

D岩堂憲人『世界銃砲史・平成7年(1995年)』
『すでに述べたように、銃砲類は彼らの対日貿易品ではなかった。しかし、このことを明確に証しうる資料は日本においても、ポルトガルにおいても、またそれ以外の所でも現在までのところ、発見されていない。
したがって、筆者としてもそれらが輸入商品としての規模で日本に持ち込まれた痕跡のない事から推測したのであった。そして、これはまた硝石についても事情は同様である。』

E生田滋『東南アジアの大航海時代・平成13年(2001年)』(原本未読)
『東南アジア史の研究者である生田滋氏が、次のように指摘されている。
なおここで注意しておきたいのは、大砲、鉄砲の導入は、それとともに火薬の原料としての木炭、硫黄、硝石、銃丸の原料としての鉛、火縄の原材料としての綿糸などを供給するシステムが確立しないかぎり不可能だということである。
例を日本にとってみると、これらの原料、原材料のうち、火薬の原料としての木炭、硫黄は豊富に産出するが、その他の原料、とくに硝石と鉛の供給は来航するポルトガル船に仰いでいたのである。
また大砲、鉄砲ともに最初は「輸入品」を使用していたに違いないが、それを「国産化」する場合には、それなりの技術水準が必要である。
日本の場合でも種子島には原材料である砂鉄、製鉄の技術、鉄製品の製造の技術はあったが、尾栓のねじ切りの技術がなく、これをポルトガル人に教わって初めて鉄砲の製造が可能になったのである。』

F井沢元彦『逆説の日本史・戦国野望編・平成13年(2001年)』
『しかし、問題は、世界有数の火山国で鉱物資源の種類は極めて豊富なこの国に、硝石はまったく産出しないという事実である。
鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
ポルトガル人が種子島時尭に鉄砲を献上した(贈与した)というのも、この硝石のことを考えれば、有り得ないことではないことがわかるだろう。』
0670人間七七四年2011/05/04(水) 01:47:31.85ID:LnRPiTYH
2000年代にもなってこれとは酷いな
生田滋とかいう奴も井沢と同レベル
0671人間七七四年2011/05/04(水) 13:22:14.37ID:0qADpV9o
中古だけど、火縄銃のレプリカ欲しい人いない?

送料込みで6000円。
長さ110cm、重さ3kg。メーカー、定価不明。
フロントのカラクリ部分も動きます

http://e.pic.to/16gt37
http://s.pic.to/16c45f
0672人間七七四年2011/05/05(木) 00:38:05.20ID:BdWGGTFM
あくまで音で相手を萎縮させるのが主目的だった感じ
0673S字型金具2011/05/09(月) 00:34:50.78ID:+0e1ksqQ
日本の歴史教育の現状を憂う

雑誌(07703-04)ではあるが、磯田道史(日本史家・茨城大学准教授)と水野和夫(エコノミスト・埼玉大学大学院客員教授)の対談が載っていた。

磯田『話は少しそれますが、武士の格差をなくしたのは、火縄銃がライフル銃になったことが大きいですよ。』
水野『ほう。』
磯田『火縄銃というのは射程距離が百五十メートルしかなくて、毎分一発、せいぜい二発しか撃てない。ですから騎馬武者たちは在来の、あんなに足が短い馬でも足軽の鉄砲隊を蹴散らすことが可能だったんです。
足軽というのは農家のアルバイトがほとんどでしょう。代々武士で、子供の頃から討ち死にしてもかまわんという教育を受けている騎馬武者が向かってくると、やはり怖いわけです。
ところが、そこに射程距離五百メートルのライフル銃が出てきた。もちろん命中率も高い。そうなると、騎馬武者が背中に旗を立てたり派手な鎧を着たりするのはもはや自殺行為でしかないんですね。』
水野『撃ってくださいって言っているようなものだ(笑)。』
磯田『ライフル銃さえ持てば、たとえアルバイトの足軽でも英雄になれてしまう。騎馬武者の時代の終焉です。』
水野『テクノロジーの革新が格差を是正したいい例ですね。皮肉なことに今は金融というテクノロジーが格差拡大を助長していますが・・・・・・。』

個人にとって歴史観は様々であろうが、人々は教育によって大きく影響を受け、特に権威や肩書きに弱い我国では教授クラスの人の発言は社会に影響を与え、その後の訂正・修正は困難を伴う。
田中健夫(東京大学名誉教授)さんによる『倭寇図巻』の解説訂正は、何時・誰が行うのか? <<441
近世初頭から幕末維新期にかけての日本近世史が専門の磯田氏の発言内容は以前からのようで、水野氏も笑って同調している場合ではない。
http://kbaba.asablo.jp/blog/2006/05/03/
戦後の日本の歴史教育の結果がこれであり、今後の歴史教育はどうなるのだろうか?
0674人間七七四年2011/05/09(月) 00:55:19.30ID:IKgmsN4a
日本史でもこんな有様なのか‥
本国で見直しが進んでる西欧史でも、未だに30年以上の前の歴史観を信奉して
新しい研究成果を無視し続ける歳の逝った日本人西欧史家は多いけど
0675人間七七四年2011/05/09(月) 17:13:10.02ID:WIJYIaL8
突っ込みどころしかない
0676S字型金具2011/05/17(火) 01:02:06.27ID:9GbWjj4N
戦国時代の硝石についての疑問F
硝石を輸入品としている人の根拠集

G佐々木稔『火縄銃の伝来と技術・平成15年(2003年)』
『問題は火縄銃を製造するための原材料である。すでにI部の第一章第2節でも簡単に触れたが、亜鉛(もしくは真鍮)・鉛・硝石は、最初から輸入に頼らざるを得なかった。また原料鉄の多くは、それ以前からも輸入されていた。
したがって火縄銃の伝来は、数種の原材料の調達を含む一連の生産システムとして導入された、意図的な事件の可能性がある。
たんに火縄銃が伝来したことだけを見てしまうと、歴史の真実から遠ざかる危険性がある・・・・
(硝石)火縄銃伝来当時は、日本国内では火薬の需要はなく、生産していなかった。明では禁輸品であり、従来説のように密輸品を使用したと考えたい。
(鉄)銑鉄や半製品の鋼材として輸入されていて、その比重は国産の鉄(これには不均質な中間産物が想定されている)よりもずっと高いと考えざるを得ない。』

H武光誠『海外貿易から読む戦国時代・平成16年(2004年)』
『鉄砲伝来をきっかけに、種子島家と倭寇(海商)の頭目、王直との取引が開始されたと思われる。王直の部下の船によって大量の硝石が種子島家にもち込まれ、それが西国各地の商人に売られたのだろう。
種子島家は、この硝石貿易によって大きな儲けを得た。そして、種子島から運ばれた硝石の有力な買い手が織田信長ではなかったかと思われる。』

I久芳崇『東アジアの兵器革命・平成22年(2010年)』
『鉄砲といえば、日本では織豊政権樹立の原動力の一つとなったものとして広くに知られる。そのため、一五四〇年代前半の種子島での鉄砲伝来、およびその後の全国への伝播・普及の状況については、これまでに膨大な研究の蓄積がある。・・・・・
明朝における鉄砲の伝来については、従来の研究ではおおむねその製法がまずポルトガルから伝来したが精妙に模造できず、
次に嘉靖二十七年(一五四八)に密貿易の拠点として倭寇の巣窟となっていた雙嶼を明軍が攻撃した際、倭寇側より獲得した鉄砲、および捕虜となった倭寇を通して日本式鉄砲が伝来したと推定されている。
十六世紀半ばには、威継光らによって鉄砲が積極的に導入され、倭寇対策や北方防衛に効果をあげた。しかしその後、十七世紀初頭にかけての明朝における鉄砲の普及状況については、なお不明確な点が多く、
十六世紀末の朝鮮の役時点における明朝では、十六世紀半ばに伝来した旧式鉄砲が配備されているにとどまり、それは朝鮮の役で日本軍が用いていた鉄砲の性能に遠く及ばないものであったとするのが従来の大方の見解であると言える。・・・・・
朝鮮の役を契機として、日本兵捕虜を介して日本式鉄砲と火器技術とが明朝に伝播し、それが十七世紀の中国北辺での対女真・モンゴル防衛や中国西南部での反乱鎮圧に活用されたことを解明した。
すなわち、十六世紀半ばのポルトガル人などを通じてのヨーロッパ式火器の導入と・・・・・』
0677人間七七四年2011/05/17(火) 01:44:51.28ID:SThxbJMU
全員学者辞めろ、特に後ろの2人は無いわ
0678人間七七四年2011/05/24(火) 01:55:26.77ID:2draH7Ph
話題はかわりますが、
馬を飼ってるところの土から火薬つくれるって本当なんですか?
どうも嘘くさくて……。
0679S字型金具2011/05/24(火) 01:58:25.06ID:kG9R2Jp/
黒色火薬の燃焼残留物量の推定

硝石(KNO3)40〜80%、硫黄(S)3〜30%、炭素(C)10〜40%の範囲内での割合で混合すれば、一応黒色火薬として成り立ち燃焼するが、現在の鉄砲発射薬としての黒色火薬は、硝石75%、硫黄10%、炭素15%が標準的な混合比率とされている。
黒色火薬が燃焼(酸化)すると、N,O,S ,C成分はガス化(N2 ,CO2 ,SO2など)して空中に放出されるが、Kと未燃焼の、S ,C成分はガス化せずに残留する。
標準的な黒色火薬の硝石混合比率75%では、K量は29%『75%×[39÷(39+14+16×3)]=29%』含まれ、この重量割合がガス化しない。
このK量に未燃焼の、S ,C成分が燃えカスとなるが、ガス化した硫黄酸化物量の発生量は少なく、多くの硫黄は燃えカスとなる。(標準的な黒色火薬では、重量の40%以上がガス化しないと推定される)
火縄銃内で発生する燃えカスは、発射の際に銃口と火穴から一部放出するが完全な排出は困難であり、次々と薬室や銃身内にこびり付くので、連続的な発射のために清掃は必須である。
燃えカスのこびり付く量は、火薬の粒形、コーテング、混合比率、薬室構造、火穴の位置、口径などの条件で大きく異なる。
三種の混合比率を変えて燃えカスの少ない火薬は作成できるが、威力のある火薬とは別であり、戦国時代の戦闘中では、薬室までの清掃は必須であった。 >>572 >>310
大砲用の黒色火薬の場合は、砲身の破裂を防ぐために硝石比率を低くして爆発力を抑えているので相対的に硫黄、炭素成分が多くなって燃えカスが増え、また、酸素成分が減るため不完全燃焼となりやすく、炭素成分は多量の黒煙(爆煙)となった。

長篠の戦いで使った3000挺の三段撃ち戦法や輪番による連続射撃が中国明軍に伝播したとして、1638年に明朝で刊行された畢懋康『軍器図説』の鉄砲の一斉射撃戦術図「輪流操作図」を紹介している書籍がある。
この図には、中国銃の特徴である銃床が短く長銃身の火縄銃(長槍?)が描かれているが、中国銃に特有な銃架(又杖?)が描かれていなく、物理的に支えるのが不可能な図が描かれており、連続射撃の伝播の根拠に図だけで判断するのは危険である。
また、燃えカスの事を考慮に入れずに連射が可能であるとしてことや、いまだに火縄銃3000挺の三段撃ちが史実のように思われて、単純に玉数を掛けて総発射弾数量を算出している物もあって定説を覆すにはなかなか難しいものがある。
0680人間七七四年2011/05/24(火) 02:02:12.04ID:OXxEQ/VX
なんで王直を過大評価したがるアホがいるかね。
ほとんど妄想レベルの話ばっかだよな。
0681人間七七四年2011/05/24(火) 08:14:11.28ID:jS5HBQeW
火縄銃より海賊の研究した方がいいよね
0682人間七七四年2011/05/24(火) 11:30:55.74ID:JpYr2H7P
>>678
そのころの厩って確か板敷きだろ、
床下には硝酸カリウムたっぷりの土壌が形成されたと思うよ。
民家の床下の土から火薬作るのと原理は同じだろうし。
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