▼火縄銃について語ろう▲
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDMどのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0683S字型金具
2011/05/25(水) 01:15:02.20ID:WHdZI9/Q>馬を飼ってるところの土から火薬つくれるって本当なんですか?
『萩藩閥閲録』に『えんしようの事申越候虚、早々尋越候、祝着侯』、『鹽硝熱させ侯、然者其方馬屋之土可然之由侯間、可所望侯』、『鹽硝熱侯仁爰元罷越侯、就夫古馬屋之土入之由候條中入侯、某元御短息候て可給候』と書いてある。
この文は弘治三年(1557)ころの手紙で、「馬屋之土」から黒色火薬の原料である鹽硝(塩硝・えんしょう・硝石・硝酸塩)が造れることが判る。
明治十年代では、武田司馬介を社長として東京白焔社が設立され、札幌郊外で陸軍より馬糞の払い下げを受け、主に北海道石炭採掘事業用の硝石を製造した記録がある。
>>682
>そのころの厩って確か板敷きだろ、床下には硝酸カリウムたっぷりの土壌が形成されたと思うよ。
『フロイスの日本覚書』に『われらの厩舎は地上に建てられる。彼らのには板の仕切りがなくてはならない』、『ヨーロッパの馬は、厩舎のなかで地面に放尿する。日本では、長い柄杓(ヒシャク)で人が馬の尿をとる』と書いてあるので、板敷きであることが判る。
となると、厩の土と床の有る民家の土との差は無く、あえて「馬屋之土」と書く必要性は無い。
「馬屋之土」とは武士用とは違って、民衆農耕用の床の無い、馬の食べかすや糞尿の混じった土と思える。
したがって、民家の床下の土とは硝酸イオンの形成過程が異なり、また形成されるのは主にカルシウム塩であって、硝酸カリウムとして収量を上げるためには草木灰を添加してカリウム置換が必要となる。
0684人間七七四年
2011/05/25(水) 02:39:16.66ID:5NSVokksそのう、結局、火薬の成分ってなんなの?
話をきいてると馬糞からつくれるってことにならない?
もちろん馬糞からつくれるにしても、
戦争とそのための訓練に使用できるほどの量が取れるのかなあ?
石炭採掘事業に使ったとあるけど、
それってたぶん穴掘り用の発破に使う爆薬としてでしょ?
なんか、凄い意外な感じするんだけど。
0685人間七七四年
2011/05/25(水) 03:37:00.01ID:H/GQjUgOそんなもん
0686人間七七四年
2011/05/29(日) 00:31:50.21ID:5XEqRalu火薬作ろうとしてた描写があったような気がする
作品名が思いだせんが
0687S字型金具
2011/05/30(月) 22:49:52.76ID:61I+nCdP昭和十七年、外山卯三郎さんはポルトガルとの貿易関係の上で、「火器弾薬原料」が贈答品として送られた例はあるが、貿易目的で取り扱って例は無く、貿易品では無いと指摘している。
この指摘は岡本良知氏を批判したためか、なぜか一般には取り上げられず無視されたままになっている。 >>667 @
『以上のやうにポルトガルのカピタン・モールから、或は印度副王から諸侯に贈られた武器と軍需品との記載については、私達も幾つかの文献を知つてゐる。
然しこれがはたして貿易品として輸入されたと言ふ意味において、私達は異義をのべなければなるまい。
岡本良知氏は「火器弾薬原料が輸入せられた。推察するにその数量は頗る多かつたに違ひないが、的確にそれを知ることが出来ない。
その理由は蓋し多くの場合商取引として、日本商人の手を経ることがなく、直接に諸侯、殊に基督教諸侯に引き渡され直に戦争に使用せられたからである。」とのべてゐられる。勿論この岡本氏の言葉にもあるやうに、
(1)これ等の武器や軍需物資の舶載は、日本商人の手を経たものでなく、キリスト教諸侯の手に直接渡されたものである。
(2)しかもそれはキリスト教徒たちの政治的・軍事的な援助として送られたものであつて、商品として取扱はれたものでないと言ふことである。
(3)さうでない場合においても、主として贈答品として送られたものであって、貿易品として舶載されたものでないと言ふことである。
さうした点から見て、岡本氏の「また火器弾薬原料が輸入せられた」 と言ふ言葉は妥当でないと言はねばなるまい。
今日においても贈答品として個人並に使節が携帯する品物には、貿易禁止品もあり得ることをもつて見れば、商業上で言はれる貿易品と明確に区別して考へられねばならないだらう。
従って日本とボルトガルとの最古の貿易においてもまた、鉄砲は明かに貿易品ではなかつたのであつて、私達は現在までにそれ等を貿易品として取扱ってゐる文献は、ひとり日本における間接的な史料以外に見出せないものである。
この点を明僚にするために、私達はこの最古の日葡貿易の時期、即ち一五五五年以前の貿易の項に加へて、それを記述する次第である。・・・・・』
この指摘を確認してみると、一貫した至極自然な流れとなっており、私は真実であると確信している。
0688人間七七四年
2011/05/30(月) 22:55:40.80ID:gR2XkHWN貿易自体も本国から持ってくるケースは稀だし
0689人間七七四年
2011/06/01(水) 01:59:09.46ID:nVk5g2jdかりにそうだとして
鉄砲伝来より前から火薬の使用は来島水軍などが炮烙を使ってる
鉄砲伝来より前に土硝法が伝わってるのは不思議じゃない
0690S字型金具
2011/06/08(水) 00:40:56.59ID:b1Lb/Grd岩生成一さんは著書の中で、イエズス会側から見た日本との貿易について書いている。
『現世的利益は貿易のうえでは直接的であり、効果も期待された。当のバリニャーノが、この点についてするどく見ぬいている。かれの報告によると、つぎのようである。
「諸大名は、イエズス会のパードレを介して銀をマカオに送り、その銀で、金または生糸などを求めんとするが、通常金のみを求める。銀を輸出して金に替えるしきたりは、当初、大村・有馬、その他のキリシタン大小名によって小規模にはじめられた。
大友宗麟ごときも、一五七八年(天正六)受洗以前、年額三千ドカード(一ドカードは日本銀約十匁)の取引をするようになった。
キリシタン大名はもとより、未信者たる大名も、たえずイエズス会のパードレを介して銀を金に替えんと欲している。未信者たる大名にたいしても、これを信者たらしめんためには、とくに便宜をはかってやった。
もしこれをこばめば、かれらには怨恨の結果、おおいに憤り、布教に悪影響をおよぼす虞れがある」
そこで宣教師は、領内の布教のためにも、その領主自身の教化のためにも、ポルトガル船の貿易を極度に利用した。また一方、宣教師は会堂・学校や病院維持のために、有力な信徒の浄財をあおぐとともに、ポルトガル貿易商の喜捨を必要とした。
しかし伝道がいよいよさかんになると、これに応じて商人らの喜捨を無制限に期待することはできなかった。ついに伝道資金獲得のために、宣教師みずから生糸などの商品を定期船に託して貿易経営に参加するようになり、王室もおおいにこれを支持した。』
バリニャーノは、インド地方区長巡察使でイエズス会の大立者であって、彼は「日本の諸大名がイエズス会に近づく目的は、銀を金に替えることである。そのため、信者にするために便宜を図ってやった。」と報告している。
しかし、彼は「日本の諸大名は鉄砲・硝石を求めている」とは報告していない。そのため、ポルトガルとの貿易記録の「鉄砲・硝石」は、いくら探しても出てこないのは当然である。
「倭寇が鉄砲・硝石輸入に介在した」とする論も、「日本が鉄砲・硝石を求めていない」とすれば成立しない。
文献至上主義の日本において、なぜ「鉄砲・硝石を輸入した」とする論がまかり通っているのだろうか。自虐史観のにおいがする日本の歴史教育は変えなければならない。
0691人間七七四年
2011/06/08(水) 01:36:48.67ID:x42Wrcti貨幣として使うだけかな。
良質の火薬を作りたい場合のみ宣教師に宗麟のように頼むんじゃない。
あとはかなり国産の生産量はあったんじゃないかな。
0693人間七七四年
2011/06/08(水) 19:00:07.22ID:tMHSmadP0694人間七七四年
2011/06/08(水) 20:08:12.96ID:43Vw9qnX0695S字型金具
2011/06/08(水) 21:27:37.54ID:b1Lb/Grd井沢元彦著「逆説の日本史(9)戦国野望編」P132〜134
『■「火薬調合法」と「ネジの技術」を伝授したポルトガル商人の真意
そのポイントとは硝石(煙硝)である。硝石とは黒色火薬の主原料であり、今日ではそれを硝酸カリウムと呼ぶ。
無色透明のありふれた鉱物で、世界各地で産出する。南米チリでは硝酸ナトリウムの形で大量に産出するが、これを硝酸カリウムにすることは簡単なので、「チリ硝石」の発見は鉄砲の普及にとって大きな意味があった。
しかし、問題は、世界有数の火山国で鉱物資源の種類は極めて豊富なこの国に、硝石はまったく産出しないという事実である。
鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
ポルトガル人が種子島時堯に鉄砲を献上した(贈与した)というのも、この硝石のことを考えれば、有り得ないことではないことがわかるだろう。
鉄砲は一丁持てば、二丁、三丁と欲しくなる。そして、それを有効使用するためには硝石を大量に輸入しなければならない。ならば初めの一丁ぐらいは「サービス」しても、ポルトガル商人は損はしない。いやむしろ多大な利益が期待できるのだ。
この硝石、いや当時の言葉で煙硝と呼ぶが、この煙硝が輸入品であり、その輸入ルートが確立されない限り鉄砲の大量使用は不可能であることは、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのである。
前節でも述べたように、ポルトガル商人にとって、おそらく誤算だったのは、日本人が他のどの民族よりも素早く高品質の鉄砲の国産化に成功したことだ。これによって完成品の鉄砲を高く売りつけるということは失敗に終わった。
あまり他の歴史家が指摘していないことを言おう。日本人は昔から外国からの輸入製品を「舶来物」と呼んで珍重してきた。その最大にして最良のコレクションが「正倉院御物」である。
たとえば現代でも、時計つまり「時を測る道具」としての品質は日本製が最高なのに、あえて外国の「ブランド物」を買い求める人が多い。日本人にとって「舶来イコール高級品」なのだが、鉄砲に関しては本場のポルトガル製を珍重はせず、すべて国産の鉄砲を使っていた。
あの「南蛮大好き」の織田信長ですら、「オレの鉄砲は舶来物だぞ」とは言わなかった。戦争だからである。戦争をしている以上、兵器は出来るだけ優秀なものを使わないと命にかかわる。
そのギリギリの選択の中で選ばれたのは、決して舶来物ではなく国産の鉄砲だった。今でも世界の古式銃の大会では日本製の評判が高い。』
読み物としてはおもしろいが、八切止夫さんの「チリー硝石輸入論」を取り入れている点で信頼性が落ちる。
八切止夫さん以外の人も『鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない』こと認め、「鉄砲の使用には硝石の輸入が不可欠である」として著述されているが、硝石輸入の有無は鉄砲伝来を含む銃砲史の根幹に関わる問題である。
0696人間七七四年
2011/06/08(水) 23:08:16.94ID:Tq++1Y7Dそれだと鉄包の普及はあまり進んでなかったんじゃないか?
0697S字型金具
2011/06/09(木) 00:49:43.45ID:zHgf5jSx「長篠の戦い」「石山合戦」など日本各地で多くの鉄砲戦が行われ、朝鮮半島での「文禄・慶長の役」でも鉄砲戦が行われたことから、現実に鉄砲は普及していた。
「鉄包の普及はあまり進んでなかった」とする君の推論は、ハズレである。
したがって、「火薬の値段はとんでもなく高かった事になる」もハズレである。
とすると、仮定の「火薬の材料が輸入するしか無理」もハズレとなる。
0699人間七七四年
2011/06/09(木) 06:10:11.27ID:IPxdGDGs輸入のほうが高いとは限らない
土硝法じゃ量が少ないし
硝石は明でとれるから明からの輸入ならそっちが安いんじゃないの
0700人間七七四年
2011/06/09(木) 09:02:30.49ID:ln5GsNhNさすがに輸入だけで奥羽に至るまで全国急普及した大量な鉄砲の火薬を賄えるとは思えんわ。
取り立てて記録に残らないのは普通に身近で調達できたからじゃないのか?
もちろん良質なものになると宗麟みたいに宣教師経由でインド〜マカオあたりから来るポルトガル船から購入したんだろうけど。
禁令を犯して中国内陸部から沿岸まで運んでくるのは現実的じゃないし。
江戸時代の糞尿を肥料にするリサイクルなどからして
糞尿を買い取ったりするシステムもすでにあったんじゃないかな?
0701人間七七四年
2011/06/13(月) 22:00:41.31ID:dxE4jF/u0702人間七七四年
2011/06/13(月) 22:25:44.56ID:WbP75V5n当時の輸入品がそんなに高くないだと?
アホにも程がある。
0703人間七七四年
2011/06/13(月) 22:31:43.32ID:WbP75V5nしかし火薬を大々的に取り合ったという話は聞かない。
0704人間七七四年
2011/06/13(月) 22:42:38.89ID:dxE4jF/u信長公が死ななかったらどうなるかってやってて、天下統一後唐入りして大陸で
戦うんだけどやはりうまくいかず、徳川家康が信長公に謀反を起こすんだけど
結局火薬の補給が途絶えて長くは戦えず鎮圧されるだろうとか言ってたぞ
でもその番組の先生役の人はとくに有名な大学教授というわけでもなさそうだった
0705人間七七四年
2011/06/13(月) 22:45:36.35ID:SBPFXEfr0707人間七七四年
2011/06/14(火) 02:11:20.09ID:ffFZ7w6V輸入品がそんなに高くないなんて言ってないよ
国産と比較しての話し
日本は天然の硝石は産出しない
国産は土硝法といって便所の土の中で化学反応で生じるものを採取するしかない
組織的に生産していたみたいだが少量だから値段も高かった
輸入品のほうが安かったと思うな
0708人間七七四年
2011/06/14(火) 02:16:41.65ID:UGQ7L3iQ超先進国の明から輸入するのはどうしたって高くなる
0709人間七七四年
2011/06/14(火) 08:43:33.62ID:NuILCs5Iふつうに国内各地で大量生産体制を構築してたと思うぞ。
じゃなきゃあんなに鉄砲が普及するわけがない
0710月孔雀
2011/06/14(火) 10:39:47.69ID:gLKEDKb9才能なくても射撃上手くなる。
それで、織田は武田に勝った。
0711人間七七四年
2011/06/14(火) 12:53:35.45ID:m2Gp6AXZしかも自分達より数が多い軍勢に攻撃したら普通負けます
鉄砲関係ありません
0712S字型金具
2011/06/15(水) 01:33:26.41ID:38P0KDil田中健夫さん等は、「日本一鑑」を「硝石輸入」の根拠として取り上げている。>>667 >>669
その記述は「硝:土産所無、近則竊市於中国、遠則興販於暹羅」『硝石:土産なきところ、近くは則ち竊(ひそか)に中国に市し、遠くは暹羅シャム(いまのタイ)と興販す』である。
しかし、「日本一鑑」の此処だけを見れば問題は少ないのだが、次の記述が問題でその中身については怪しいところがある。>>445
「手銃:初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此」
『手銃:はじめ仏郎機(ポルトガル)に出ず。国の商人はじめて種子島の夷に教え作るところなり。つぎは則ち棒津(薩摩)・平戸・豊後(府内)・和泉(堺)等の処、通じて之を作る
国産の鉄は脆くて鉄砲の材料にはならないので、日本は主にシャム(いまのタイ)の鉄を輸入し、また中国の福建の鉄をもひそかに買入れて鉄砲をつくっている。』
「日本一鑑」について、他にも怪しいところが多くあり、その書かれた目的・成立を精査する必要がある。
田中健夫さんは、『「日本一鑑」は鄭舜功が、嘉靖三十四年(一五五五、弘治元)から同三十六年まで、三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験をもとに嘉靖四十四年に書いたものである。』として、倭寇論を展開されているが、
来日と滞在の時期は、1556年(弘治2年)7月から同年12月までの6ヶ月間の短期間で、彼の得た日本に関する情報は豊後の海蔵寺の僧から得たものが多かったと思われる。そのため、矛盾・疑問のある記述の書物になったものと思われる。
そもそも倭寇禁圧のための明国の使いである鄭舜功が、「日本の倭寇についての記載が少ない日本一鑑」を書いた目的や成立時期を知った上で、硝・手銃について判断しなければならない。
手銃について「近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」などと書いてある箇所もある。
0713S字型金具
2011/06/22(水) 00:20:29.86ID:6XgJyGLC「日本一鑑」は「桴海圖經」三巻、「阝絶島新編」四巻、「窮河話海」九巻の三部からなる大著で、書かれた時代背景を神戸輝夫さんが記述しています。
『(前略)鄭舜功が日本に赴き,倭冠禁圧を訴える考えを最初に上奏したのは嘉靖二年発未(1523)年であった。しかし,これはすぐには取り上げられなかった。
その後嘉靖年間の倭冠の猖獗にともない,明朝は倭冠対策に迫られ,倭冠禁圧を諭す使者を直接日本に派遣する政策を取るようになる。
嘉靖三四年乙卯(1555)年,鄭舜功は再び倭冠禁圧の使者となることを願いでて皇帝の裁可を得,浙江総督楊宜によって「大明國客」の名をもって日本に派遣された。
鄭舜功の日本豊後への到着は嘉靖三五年仲夏(1556年5月)であり,以来六カ月に亙って豊後臼杵・府内に滞在し大友義鎮(宗麟)から倭冠禁圧の約束を取り付けている。一方,部下の従事官沈孟綱,胡福寧を京都に派遣し,後奈良天皇とその重臣にも接触させた。
鄭舜功は豊後滞在の間,積極的に日本に関する資料と情報を収集し,また沈孟綱らに対しても各種の絵地図などを収集させた。それらは「日本一鑑」を著述するための貴重な資料となった。
鄭舜功の帰国は嘉靖三五年末に豊後府内出帆,翌三六年(1557)一月に広東帰着であった。鄭舜功はその帰国に際して大友義鎮から明国へ派遣された二人の僧を伴っていた。即ち正使の府内同慈寺華岳院主・佐伯龍護寺住僧清授と副使の野津院到明寺僧清超である。
帰国後の鄭舜功らの運命は苛酷なものであった。
鄭舜功を派遣した総督楊宜は既に失脚しており,時の浙江総督胡宗憲は鄭舜功の功績を認めず,逆に彼を迫害して投獄した。鄭舜功の投獄期間は七年に及びその間に清授・清超らは四川に流謫され,遅れて帰国した沈孟綱・胡福寧らは広東海上で殺害された。
鄭舜功は獄から解放された後の余生を「日本一鑑」の完成のために捧げた。鄭舜功の没年は明確ではないが,嘉靖三六年(1557)の帰国とその後の状況を勘案すると,「日本一鑑」の完成の時期は隆慶年間(1567年〜1572年)から万暦年間の初めの頃(万暦元年1573年)にあると思われる。
言わば「日本一鑑」は,鄭舜功の畢生の大作である。
(中略)
鄭舜功の豊後滞在は僅か六カ月に過ぎない。二人の従事沈孟綱,胡福寧の協力も大きかったにせよ,この短期間に見聞した厖大な情報を纏め得るには,豊後の寺僧ら知識人の協力があったものと推測されるが,残念ながら彼らの氏名は分からない。
「日本一鑑」は,まさに明代の日本研究の専門書の「白眉」である。それは著者鄭舜功が日本の土を踏んだことによる成果であろう。彼の果たした任務の大きさに比べて,帰国後の生涯は極めて不遇であった。(後略)』
0714人間七七四年
2011/06/26(日) 16:20:22.37ID:HNx6se+n0715人間七七四年
2011/06/26(日) 16:25:12.25ID:qNr6RuD+だから、S字よ。
S字は戦国時代にどこから硝石を調達したと考えてるんだ?
自説を論じてみろ
0716人間七七四年
2011/06/26(日) 20:25:44.98ID:EJNTgXOhカキン!ってはね返されたよ。
え?なに?通報?上等だボケ!
0718人間七七四年
2011/06/27(月) 19:58:25.12ID:JwUHPDOX0719人間七七四年
2011/06/27(月) 21:21:13.05ID:BIL38ntG0720S字型金具
2011/06/29(水) 00:44:01.39ID:B3FDx893翌年、浙江総督の胡宗憲(〜1565)はこれらを基にして「籌海図編」(嘉靖41年・1562)を編纂し、「籌海図編」は嘉靖年間に初刻出版された後も再販され続けてきたので広く知られており、中国の日本認識の原点となっている。
しかし、小葉田淳さんはこれらや、鄭曉(〜1566)の「吾学編」(嘉靖43年・1564)について、
『日本図纂・籌海図編の記事には、日本につき清新有用の文字尠からざるも、猶前代の諸書の記録を任意に剪裁縫合して其間誤謬が僅少でない。(中略)一々学説の煩に揕へぬ。吾学編の妄誤は寧ろそれ以上である』と断定している。
そして、これらの書物が架空の事を記載し、誤診を犯した理由は、『嘉靖の大倭寇を被って、倭寇の真相・防備などを述べて日本の国情に及んだ。そのため我が国情に関し潤色的なものが自然的にも或いは意識的にも濃厚である』としている。
浙江総督胡宗憲(〜1565)の死後、鄭舜功は出獄して「籌海図編」と対抗するように、そしてその内容を批判しながら「日本一鑑」(1567〜1573)を著したが、「日本一鑑」は写本で伝えられたために日本語の研究以外は良く知られていない。
その後、鄭舜功は日本に行っていない鄭若曽(〜1570)から「籌海図編」を改訂するための「日本一鑑」の借用の申し出があったがこれを断っており、ケ鍾は1592年に「籌海図編」を編集しなおした「籌海重編」を出版している。
「籌海図編」の巻十三「兵器」は、「紀効新書」巻之十八「治水兵篇」をより詳しく書いているが、「紀効新書」巻之十五の「鳥銃」については間引きの記述であり、なぜか「神器譜」>>573 の図もある。
「日本一鑑」に「國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」と書かれている「鳥嘴銃」について、「籌海図編」にはその鳥嘴銃の図が出ているが、「紀効新書」「籌海図編」共に鳥銃と鳥嘴銃について混乱・矛盾した記述となっており、後の改編・改定が入っているようである。
「紀効新書」では鳥銃と鳥嘴銃はトリガーなどが異なって書かれているので同一形式の銃とは思えず、装備も「鳥嘴銃○○把」「鳥銃火藥○○斤」となっているが、「鳥銃○○把」は出てこない。
硝石を使う火薬は鳥銃薬だけが秘法として詳細に書かれており、鳥銃薬の合薬技術の伝播は難しかったものと思われる。そのため、「紀効新書」を読んでみても、明軍の戚継光らは鳥銃または鳥嘴銃を倭寇に対して実際に使ったようには見えない所がある。
鄭舜功は倭寇対策のために日本に来る前、明軍に鳥銃または鳥嘴銃が有り、それを知っていれば「日本一鑑」に「手銃」とは書けなく、解説文も違うものになるだろう。また、「硝」の用途や「火薬」も記載する必要が出てくる。
0721人間七七四年
2011/06/29(水) 03:28:45.24ID:N31pvr5e0722S字型金具
2011/07/06(水) 02:18:51.54ID:rXC8I/BC室町時代の日本では「連句連歌」などの文芸が盛んとなり、その創作活動には共通認識の基になる知識が必要であった。五山衆は和漢の古典に長じており、文安元年(1444年)に京都五山建仁寺霊洞院の東麓軒の僧により「下学集」という辞書が編纂された。
この「下学集」の注釈は和漢の古典を拠り所として成り立っており、公家衆や博士家等の学問所の人々、連歌師らにとって受け入れられ、器財門(道具の項)には『作詞に必要な品物』が書かれている。
その後、元和三年(1617年)には刊本となり、以後増補、続刊、重刊され続け、百科辞典の体裁になってきた。
鄭舜功は「日本一鑑」の「窮河話海2巻」の「器用」(役に立つ大切な器物)欄に、『手銃』と『硝』について注釈を付けて書いている。
「日本一鑑」は「桴海圖經」「阝絶島新編」「窮河話海」の3部作で、「窮河話海」は9巻より成り、1〜4巻は物の名の解説(収録語は2530語、器用については536語)、5巻は日本語単語、6〜9巻は日明勘合貿易など日本に関しての情報が書いてある。
「日本一鑑」の「器用」は「下学集」の「器財門」から成り立っており、536語の内432語が共通で、104語が異なるが「下学集」が重要な位置を占める。
鄭舜功は「器用」欄を書くに当たり冒頭で、「器用附言土産」(器用の注釈)について『日本の用器が良くわからない時は項目の下に註を附けず、その他知らない事は訳さないことにした』と書いている。
「彼六月諮其風俗詢其他位得聞其説得覧其書」とあるように、「日本一鑑」は鄭舜功が言葉のよく通じない豊後の大友義鎮の所で6ヶ月の間に日本の国情の調査、資料収集を行った結果を記述したものであるので、当然、間違い・思い違いの記事もある。
器用の注釈は半数程に付けてあり、注釈には産地記載に注意がはらわれており、日本国での産地の記載内容などやその内容から見ても情報源は豊後大友家の僧侶からが主と思え、商人や武士など人からは少ないように思える。
「下学集」に殆ど収録語の無い武器・武具については注釈数が少なく、鄭舜功個人での知見と思われるが、ただ、『手銃』と『硝』については他の収録語とは異なる産地「暹羅(シャム)」や「福建」が書いてあり、中国へ帰ってからの知見ではなかろうか。
「窮河話海」の重複、矛盾など錯綜する記述はやむを得ないが、「鳥嘴銃」という単語は日本では使われておらず中国だけで使われており、『近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う』は窮河話海3巻の「漁猟」の欄にあるのは面白い。
0723S字型金具
2011/07/12(火) 21:02:39.66ID:KnD58GbP硝石輸入の根拠として、インドに来た日本人(アンジロー)から聞き取ったインド総督宛ての報告書の『シナからは硝石や多量の生糸を持ってきます』を取り上げている物がある。
しかし、この報告書には続きがあり、『また同様に陶磁器、水銀及び麝香の固まりをも持って来ます』と続き、『また水銀若干量と硫黄がたくさんあります』とも報告している。 >>614 >>615
この報告書はポルトガルが日本進出にあたり、1548年にインド総督が知りたいことについて、ゴアの聖パウロ学院長ニコラオ宣教師がポルトガル語を習得した日本人のアンジローから直接聞き取った情報である。
この報告書には『彼らは、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています』など、日本の大名クラスの武器・防具・馬などについても書いてある。
アンジローは1546年秋(天文15年)ポルトガル人であるアルヴァロ・ヴァス等の手引きで日本を脱出し、1549年にフランシスコ・ザビエルを案内して薩摩の守護大名の島津氏に謁見している。
となると、島津氏など九州地域の大名は1546年よりも前からエスピンガルダ(小銃)を所持し、日本の戦闘にはそれが使われてきた事になる。
当時日本と東南アジア・中国大陸との交通・通信手段は季節風に影響される帆船で行われ、日本への来航は春・秋の2回、日本からの出航は夏の年1回である。
1543年(天文12年)にポルトガル人が種子島へ鉄砲を2挺売ったとする「鉄炮記」との差が3年以内となり、このエスピンガルダ(小銃)は「鉄炮記」のポルトガル銃(?)とは異なる銃となる。>>356
また、この報告書は1546年より前の日本(九州地域?)の硝石の輸入記録でもある。
鉄砲火薬には硝石が必要不可欠であり、この硝石が鉄砲火薬用の輸入品だとするならば硝石の発注・納品には少なくとも1年間が必要となるので、この点でも「鉄炮記」と齟齬が生じる。
しかし、当時、鉄砲火薬に関して「硝石は結晶の形から純度は不明」であり「炭素成分も合薬にはキーポイント」となるので、ポルトガル人等が、貿易船に鉄砲や鉄砲火薬その物を船積して商売に来航する方が合理的で、鉄砲火薬用として硝石単独の船積は疑問である。
また、インド総督が「その他の火器」「火薬」についてニコラオ宣教師に照会していない事も不自然である。
ポルトガル語では、「しょうせき(硝石・消石)」と「えんしょう(焔硝・塩硝)」は同義語として取り扱われるのでこの報告書では区別が着かないが、日本では医薬用は「しょうせき」、火薬用は「えんしょう」の名で取り扱われ、幕末期まで決して混同はされていない。
したがって、「しょうせき」が輸入であるか否かでは無く、「えんしょう」が輸入であるか否かを論じなければならない。
0724人間七七四年
2011/07/12(火) 23:24:05.47ID:B6lKj8HJ権威ある愚かな大学者のせいで後学が迷惑な縛りを受ける文系弊害の典型
0725人間七七四年
2011/07/13(水) 07:17:22.00ID:J9zPKeMG戦国末期になっても鉄砲をあまり使わなかった大名なんているのか?
0726人間七七四年
2011/07/13(水) 07:39:16.14ID:SL6xIeiMもし鮫皮が全部輸入としたら、南蛮貿易をやってない戦国大名は刀をあまり使えなかった事になる。
もし銅銭が全部輸入としたら、南蛮貿易をやってない戦国大名は銅銭をあまり使えなかった事になる。
同じくらい言ってることおかしいね
0727人間七七四年
2011/07/13(水) 15:09:19.50ID:sE0JKdNR硝石・火薬は基本的に自家の為に輸入され、使用すれば消費する
鮫皮は装飾に用いられ必須ではない上に、加工され輸出される
>>726は低脳
0728人間七七四年
2011/07/14(木) 16:28:28.92ID:69SimucK銅銭が輸入しかない時代は一部の都市以外ではほとんど流通して無いだろが
0729人間七七四年
2011/07/19(火) 02:07:18.51ID:XG03nEjtそもそも大量につくれるなら輸入するはずもなく、
戦争用の大量の火薬は輸入に頼ってたと思うがなあ。
0730人間七七四年
2011/07/19(火) 02:47:39.52ID:LoNMD/Gp日本海側ならともかく、太平洋側で輸入とかありえないから
0731人間七七四年
2011/07/19(火) 10:52:06.82ID:c1KYHs1i必要になるんだ?
0732人間七七四年
2011/07/19(火) 12:24:34.93ID:yVYxcZwTジャンク船が400石積み相当として、積載量は60t。
もしジャンクに硝石を満載できれば、1隻でも600万射分の硝石を運べる。
銃1丁につき100射分の火薬を用意しても6万丁相当だな。
大量の船なんか必要ない。
0733人間七七四年
2011/07/19(火) 13:09:28.11ID:rgre85m6煙硝蔵って大して大きくないよね。
一大名家が何百トンも備蓄する必要があったなど到底思えないが
0734人間七七四年
2011/07/19(火) 13:49:09.63ID:uR71Z5NZ睨み合いや小競り合いなら、もっと遥かに消費量は少ないだろうけど
決戦するに及んで十全に鉄砲使うとなれば10t20tは要るね
0735S字型金具
2011/07/20(水) 00:33:04.33ID:tCwGM/gy硝酸塩を「えんしょう」と呼ぶのは、日本と朝鮮である。朝鮮では古来より「焔硝(えんしょう)」であり、「硝石」の名は使われていない。中国(明)では「硝石」「硝」であり、「えんしょう」の単語・用語は使っていない。
朝鮮では日本と同様に温度・湿度の関係で硝石は鉱石として産出しないが、古来より家屋の堀土から硝酸塩を抽出して「焔硝(えんしょう)」を製造していた。この「焔硝」は酸化剤などの用途に一般的に使われており、中国などから天然硝石は輸入していない。
朝鮮では「焔硝」の需要増と堀土の減少により、1430年ごろから国家管理の下に毎年春と秋に各地から堀土を集め、国家管理の下で抽出するようになった。
その後、1450年ごろから「焔硝」製造は秘密裏に製造されるようになり、「火薬」は合薬法を含めて厳重な国家管理品となった。
厳重な国家管理品になった理由は「日本」を非常に恐れたからであり、朝鮮の火器・火薬が日本に伝播したら災いになると思ったからである。しかし、火薬の原料である硫黄について朝鮮では中国と同様に殆ど産出しないので、日本からの輸入に頼っていた。
この厳重な国家管理と自信過剰が皮肉にも朝鮮の火器・火薬の進歩・発達を遅らせ技術者の育成をも怠り、倭寇の火器だけを注目していて日本本国の火器・火薬について見誤っていた。
中国(明)が鉄砲用火薬を知ったのは、嘉靖27年(1548)に倭寇側より獲得した鉄砲、および捕虜となった倭寇を通して日本式鉄砲が伝来してからと推定され、朝鮮が鉄砲用火薬を知り、導入したのは朝鮮の役の後になる。>>676 I
日本では、古くから大量の硫黄を輸出しており、硫黄の用途も当然知りえる立場にあり、また、朝鮮において強制的に家屋の土が掘られていること知っており、その堀土が移送されていることも知っている。
日本では古来より技術管理はなされておらず、個人が自由闊達に行動する「マニア」「オタク」文化・風土があり、この人らが火薬・火器に接するととんでもなく進歩する。
また、「えんしょう」には火薬以外の用途もあるので、日本では古来より製造していたものと思われ、需要増に対して韓国と家屋構造が異なる堀土には限界があり、「馬屋之土」などからも工夫・改良して「えんしょう」を製造していたものと思われる。>>683
その「えんしょう」が丹薬の一つである火薬となり、音響・花火類・狩猟用に利用され、殺人武器となる火器・鉄砲へと発展したものと思われる。
日本でも製造した硝酸塩は「えんしょう」の名で取り扱われ、自然産の輸入硝酸塩は「硝石」と明確に区別されている。 http://hdl.handle.net/2297/28308 『硝石の舎密学と技術史』
その意味で「硝石を全部輸入していた」は正しいが、「硝石は鉄砲火薬の原料」は間違っており、「えんしょうは鉄砲火薬の原料」である。>>639
0736人間七七四年
2011/07/20(水) 01:40:51.08ID:P3ssWlKa朝鮮なんか好きじゃないが、何かソースあんの?
0737人間七七四年
2011/07/20(水) 02:08:30.20ID:Bs1c0cgv火器や火砲用の火薬って、北宋後期には既に手榴弾用や毒火薬(何?)の火薬と
区別して製造されるほど浸透してるし、配合比も文書化されてるけど
0738人間七七四年
2011/07/20(水) 07:44:48.58ID:XmYebFbw毒火薬って毒ガス発生させる燃焼物じゃなかったっけ
中華ってお国柄なのか初期には火薬に毒とかウンコとか混ぜてたよね
0739S字型金具
2011/07/20(水) 21:36:50.59ID:tCwGM/gy>朝鮮なんか好きじゃないが、何かソースあんの?
성종 101권, 10년(1479 ) 2월 26일
경연에 나아갔다. 강하기를 마치자, 지사 강희맹이 아뢰기를,
“이번 일본 통신사가 갈 때에 화약을 잘 합성할 줄 아는 경중의
약장을 데려가게 하셨으나,
신의 생각으로는, 염초 로 만든 화약은 병가에서 중히 여기는 것인데 약장이
왜국에 가서 만일 누설하게 되면 매우 작은 일이 아닐 것이니,
경중의 약장을 보내지 말고 외방 사람을 뽑아 보내소서.”
하니, 임금이 좌우를 돌아보고 물었다. 영사 김국광이 대답하기를,
“왜인이 화약을 사용할 줄 알게 되면 작은 일이 아닐 것이며,
총통군 중에서 화약을 모르는 자를 보내는 것이 옳겠습니다.”
하고, 강희맹이 말하기를,
“세종조에 왜인이 와서 화약 한 말 남짓을 바치며 달이고 볶는다고 말하므로,
세종께서 왜인이 화약을 태우는 법을 아는가 의심하여 통역하는 자를 시켜
사사로이 어디에 쓰는지를 묻게 하셨더니, 대답하기를,
‘일찍이 중국에서 얻었는데 속이 갑자기 아픈 것을 고칠 수 있다.’
하였습니다. 저들이 화약을 쓰는 방법을 안다면 반드시 이것을 노략질하는
밑천으로 삼을 것이니, 매우 두렵습니다.”
하고, 우승지 이경동은 아뢰기를,
“청컨대 경상도의 총통군 2인을 가려서 보내소서.”
하니, 임금이 말하기를,
“그리 하라.”
하였다.
0741人間七七四年
2011/07/20(水) 22:20:54.04ID:P3ssWlKa強いことを終えるや、支社カン・ヒメンが申し上げることを、
“今回の日本通信社が行く時に火薬をよく合成することができる軽重医薬長を連れていくようにされたが、
神の考えでは、煙硝で作った火薬は兵家で大事に思うことなのに約職人倭国に行って万一、漏洩することになれば非常に小さいことでないこととか、
軽重の略章を送らずに他の地方の人を選んで送って下さい。
”ハニ、賃金が左右を見て回って尋ねた。
領事キム・クククァンが答えることを、“倭人が火薬を使うことができることになれば小さいことでないことであり、総統軍(郡)中で火薬を分からない者を送ることが正しいです。”
と、カン・ヒメンが言うことを、“世宗朝に倭人がきて火薬した話余を捧げて煮詰めて炒めると話すので、世宗(セジョン)が倭人が火薬を焼く方法を分かるのか疑って通訳する者をシキョササロイどこで使うかを尋ねるようにされたところ、
答えることを、‘かつて中国で得たが中が突然痛いことを直すことができる。’しました。 あの人たちが火薬を使う方法を分かるならば必ずこれを略奪する元手とすることとか、非常に恐ろしいです。”
と、優勝紙イ・ギョンドンは申し上げることを、“チョンするに慶尚道(キョンサンド)の総統軍(郡)2人を分けて送って下さい。”ハニ、賃金が言うことを、“そんなにしなさい。”した。
>今回の日本通信社が行く時に火薬をよく合成することができる軽重医薬長を連れていくようにされたが
>倭国に行って万一、漏洩することになれば非常に小さいことでない
>倭人が火薬を使うことができることになれば小さいことでない
>あの人たちが火薬を使う方法を分かるならば必ずこれを略奪する元手とすることとか、非常に恐ろしいです。”
結局S字の挙げたソースとやらに書いてあるのは、
「1479年の日本行き使節団に火薬技術者を同行させるべきではないとカン・ヒメンが意見した」
それだけじゃん。
一体どこに『厳重な国家管理品になった理由は「日本」を非常に恐れたから』なんて書いてあるの?
0742人間七七四年
2011/07/20(水) 22:46:07.15ID:5CBby6Frヨーロッパではナポレオン戦争の時代まで
主要会戦でも小銃弾は1人1日20-30発くらいしか消費していない。
よって各兵士がそれぞれ100発程度を携行していれば、
ほとんどの戦役でそれ以上弾薬を補給する必要は生じていない。
詳しくはクレフェルトの「補給戦」を読んでくれ。
ヨーロッパより何倍も弾を消費する戦い方を何日も継続して行わない限り、
兵士1万人火縄銃3千丁で200万発、硝石20tも消費することはありえないから。
他のケースだと、後装式ライフル銃数万丁を使用したと思われる西南戦争田原坂の戦いで、
政府軍が1日あたり32万発消費という記述が「征西戦記稿」にある。
元になったデータがわからないんだけど、
戦闘期間が17日間だとして合計540万発、小銃1丁あたり100発は超えているか。
日露戦争で最大の激戦だった奉天会戦では、本格的な戦闘は10日間ほどで
小銃19万丁で銃弾消費量は2127万発、小銃1丁あたりだと113発。
最も多く銃弾を消費した第6師団で小銃1丁あたり212発となっている。
正確な資料はhttp://www.jacar.go.jp/の検索窓にC02030391200って打ちこめば閲覧可能。
これらのデータから、火縄銃で1日100発という>734の想定は過大だと思われる。
0743人間七七四年
2011/07/20(水) 23:29:49.24ID:b6ultff9しかし結局は銃の性能が14世紀から大きく進歩しなかった事で、後発の日本に遅れをとったな。
騎乗銃兵が多いのも注目に値する。
0744S字型金具
2011/07/21(木) 01:34:18.54ID:/hTwUq3H原文に『儻被知用藥之術, 必以此爲寇掠之資, 深可畏也』とある。
成宗 101卷, 10年(1479 己亥 ) 2月 26日(癸丑)
御經筵。 講訖, 知事姜希孟啓曰: “今日本通信使之行, 令帶行京中藥匠能合火藥者, 臣謂焰硝火藥, 兵家所重, 藥匠至倭國, 萬一漏洩, 則甚非細故, 請勿送京匠, 抄外方人以送。”
上顧問左右, 領事金國光對曰: “使倭人得知用藥, 則非細事, 以銃筒軍中不知火藥者, 送之可也。”
希孟曰: “世宗朝有倭來獻火藥一斗餘, 稱爲煉炒, 世宗疑倭人得燒藥法, 令譯者私問用處, 答云: ‘嘗於中國得之, 能治心腹卒痛。’ 儻被知用藥之術, 必以此爲寇掠之資, 深可畏也。”
右承旨李瓊仝啓曰: “請擇慶尙道銃筒軍二人送之。” 上曰: “可。”
>>437『且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚。』
0745人間七七四年
2011/07/21(木) 01:48:42.03ID:17rELQdS>原文に『儻被知用藥之術, 必以此爲寇掠之資, 深可畏也』
この部分は、>>741で訳した
>あの人たちが火薬を使う方法を分かるならば必ずこれを略奪する元手とすることとか、非常に恐ろしいです。
という意味でしかないだろ。
S字が>>735で言ってる
『厳重な国家管理品になった』だの、『その理由は「日本」を非常に恐れたから』だの、この史料には一行も書いてないだろ
例によってまた脳内ソースか?
0746人間七七四年
2011/07/21(木) 01:54:25.59ID:8bdqS2i9ナポレオン戦争の時代まで、ではなく、ナポレオン戦争の時代は、であって
ナポレオン戦争の時代は、戦争が本来あるべき激烈な形態をとり
決戦志向が強まったために、どの戦役も短期間で終結してる。
また、それ以前の戦争と比べ戦闘が激烈になると同時に
兵士が戦闘へ参加出来る時間も精精3時間程度で、前代の微温い戦争とは様相が変わってる。
16世紀後半の高々数万の軍勢同士がぶつかり合った西仏戦争でも
当面(1ないし2ヶ月分)の弾薬として火薬200樽を持ち込んでいる。
戦役開始2ヶ月後には火薬不足に陥ってるので、樽の大きさが解らないが、仮に200gとして
1月40000g〜20000gの消費量になり、1人当たりでも2g弱〜3g強の火薬を消費してる。
一応火砲に消費する分もあるが、この戦では国内事情もあって
開戦当初大砲が不足してたので数十門しか配備出来ず大した量にはならない
10d20dは本格的な戦になれば普通に消費される程度の火薬量と思われる。
0747S字型金具
2011/07/22(金) 01:12:26.84ID:3IiKjskK「성종 101권」とくれば「朝鮮王朝實録」だと直ぐに判るもので、その原文の一部を紹介したところ飛びついて『>>745この史料には一行も書いてないだろ 例によってまた脳内ソースか?』と「朝鮮王朝實録」が何かを知らないようだ。
「朝鮮王朝實録」は膨大な記録文書であって難解な漢文で記述されているが、ハングルの現代韓国語訳が完成しておりネットでも利用できる。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002829553 http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp
ハングル訳の「日本通信使」の箇所を例示したが、原文を理解するには日本通信使の役割や藥匠の理解と世宗がなぜ「疑倭人得燒藥法」と疑っていたかなど、前後の史料を調べなければ理解できない。
そのときの(1479年)日本通信使(日本からみれば朝鮮通信使)はなぜか中止になっているようだ。
世宗は、「道貢焰焇, 曾於嶺東沿海各官煮取, 因此每人傳習, 慮有奸民及背主奴僕, 逃往茂陵、對馬等島, 將火藥秘術, ヘ習倭人。自今沿海各官, 勿令煮取。」と1426年に日本に焔硝・火薬が伝播することを禁止している。
世宗 の1445年に「今後火砲合藥, 令宦官掌之。火藥匠, 改稱火砲匠, 止令制造火砲」と今までの火藥匠を改めて火砲匠とし、火砲合藥は厳重な国家管理品になっている。
中宗の1542年に「倭人雖曰隣邦, 實爲敵國, 而近來尤爲輕狡, 不如前昔」と昔とは何時からか分らないが、はっきりと「実は日本は敵国である」と書いている。
朝鮮では日本に火炮器具が伝播しないように今まで厳重な注意を払ってきていたが、1544年に「且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚」と中国(明)から日本に伝播するのではないかと危惧している。
「朝鮮王朝實録」にはその他多数の火薬・火器について書かれていますが、日本の鉄砲について知るべきことは少ないと思います。>>336
0748人間七七四年
2011/07/22(金) 02:13:07.03ID:hhCQJVfS李朝世宗の時点で日本に火薬の製造法が伝わってたのか、会得拡散したかどうかはともかく
0749人間七七四年
2011/07/22(金) 19:16:40.16ID:hhCQJVfS唐後期から宋初にかけて火薬に混ぜてたのは鉛の粉末だね、有毒。
元々東晋以来燃焼兵器として使われてた名残らしい。うんこは混ぜてないよw
毒煙火薬に狼毒や烏頭なんかの毒草が混ぜられてたけど
これ、高温で燃焼爆発するのに意味有ったのか?
0750人間七七四年
2011/07/23(土) 09:48:01.56ID:Ytm62Yl6むしろ不純物が混ざるので燃焼爆発の邪魔
0751人間七七四年
2011/07/23(土) 12:46:45.97ID:tGAp+9Lq0752人間七七四年
2011/07/23(土) 14:53:53.68ID:aUV249Gcもちろん煙出すのが目的だけど
燃焼させたら毒素が効果なくなるんじゃねーの?
という素朴な疑問ガガガ
0753S字型金具
2011/07/29(金) 20:28:06.92ID:TY+o1yoE1281年(弘安4年)7月30日の夜、総勢4千4百隻の船と14万人ともいわれる元軍の大半が長崎県伊万里湾の海底に沈んだとされ、鷹島周辺の海では昭和56年7月から調査が行われており、数多くの元寇遺物が発見されている。
そして、平成5年(1993)、鷹島町神崎港の海底から直径15p、厚さ1・5pほどの陶器製の球状物体が発見され、未使用のものとみられる半分に輪切りしたような形の物体からは、一辺2〜3p、厚さ約1pの柱状の鉄片10数個が確認されている。
http://saint-just.seesaa.net/article/20128007.html
この物体を九州国立博物館は「てつはう」(鉄炮)と断定し、モンゴル軍の最新兵器として発表している。
http://www.rkb.ne.jp/kyuhaku/100705.html
http://www.kyuhaku.jp/pdf/asiage_01.pdf
その根拠は、鷹島周辺海域は元寇の際に暴風雨を避けて避難した元軍と高麗軍の軍船が遭難した海域として知られ、元軍の遺物が発見されていることと、「蒙古襲来絵詞」に描かれている「てつはう」から連想しているようだ。
しかし、私には疑問点が残る。
@この物体が元寇の時代のものであると確認されているのだろうか。後世の戦闘や落下物を否定できるのだろうか。
A元軍の爆発火器ならば、「火球」(火毬)の類とするのが妥当ではなかろうか。
B表面は陶器製であるのに、なぜ鉄製品をイメージする「てつはう」を採用するのか。
D「蒙古襲来絵詞」には信頼性を疑う改竄があり、3人の蒙古兵は後世に加筆されたもので、「てつはう」なる物体も後世に加筆されている可能性がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/2953448.html
「蒙古襲来絵詞」は基本的に「日本軍に苦戦する元軍」を描いたものであり、絵からの判断ではあるが、「てつはう」の飛来方向から私には日本軍の火器の様に見え、破裂の仕方も一方向で破裂力も弱く、中に金属片が入っている様には描かれていない。
また、竹崎季長の馬が出血しているが、これは「てつはう」によるものでは無く、2本の矢が刺さったことによる負傷である。
C「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」について、『変体仮名の「てつはう」は文字から、実は後世、江戸時代頃に書かれたものだと言われています』と指摘がある。
http://www.h3.dion.ne.jp/~oneone-p/ii/tetsuhau.html
となると、この物体が「てつはう」なのかどうかも疑わしい。
そもそも「てつはう」(てっぽう)の呼称は中国(明)・朝鮮の史料には現れず、日本独自のものであって、そのため1281年(弘安4年)よりも前から日本に火器があった可能性がある。
独立行政法人国立文化財機構 九州国立博物館は「てつはう」(鉄炮・鉄砲)と断定しているが、正しいのであろうか。
0754人間七七四年
2011/07/29(金) 21:47:09.20ID:2w/rROoR管形兵器の火砲は「火筒」、鉄砲は「火槍」その他、「鉄火砲」が大型の爆発兵器
「鉄砲」も一応あって明初の鋳鉄製火砲は鉄砲と呼ばれてる
なので、絵で使われた兵器が「てつはう」と書かれているのは別に不自然じゃないと思う
どう見ても鉄砲ではないけど
0755S字型金具
2011/07/29(金) 23:36:52.37ID:TY+o1yoE>「鉄砲」も一応あって明初の鋳鉄製火砲は鉄砲と呼ばれてる
その「鉄砲」という明初の鋳鉄製火砲の根拠、出典は?
0756人間七七四年
2011/07/30(土) 00:43:31.33ID:7+lODW8M元末から「砲」や「銃」が大砲や鉄砲の呼称に使われるようになり『元史の巻188』『続資治通鑑の巻211』
1377年に平陽衛で製造された鋳鉄大砲の「鉄砲」が出土していて、これには銘文が掘られている
0757S字型金具
2011/07/30(土) 01:31:24.88ID:gO9hFhG0平陽衛の出土品が「鉄砲」である根拠の「銘文」内容も教えてください。
0758人間七七四年
2011/07/30(土) 02:51:59.82ID:7+lODW8M元史(4303ページ←元本の説明無し)と続資治通鑑(5906ページ←同じく)はここので確認出来るはず?
http://lib.ecit.edu.cn/guoxue/
ただ、どうも抜粋文は原文のままじゃなく多少現代語訳してる気が
元史からの抜粋文が「不一会、山上旗動、于是火炮斉発、伏兵従城外衝殺出来、斬殺敵陣〜」で
著者はここで言う火砲は管状火器だろうと述べてる
同じく続資治通鑑から「以火銃撃退其兵、随樹木柵」で、こちらは字のまんま
『景定建康志の巻39』の抜粋文は「両年零三个月時間之内,共創造、添修火器63754件,其中新創造火器38359件,
計有:十斤重鉄炮殻四只,七斤重鉄炮殻八只,六斤重鉄炮殻一百只,五斤重鉄炮殻一万三千一百零四只,
三斤重鉄炮殻二万二千零四十四只, 火弓箭一千只,火弩箭一千只, 突火筒三百三十三个〜以下長いので省略」
「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)に関しては銘文が書かれてないけど、明代の火砲火器の多くに
製造者が製造時期・兵器名・製造施設その他の銘が彫られているそうなので
間違えようは無いのかなと思う。一応、『文物1988年5』収録、山西省博物館所蔵とあり
0759S字型金具
2011/07/30(土) 21:20:11.77ID:gO9hFhG0史料、ありがとうございます。「国学経典書庫」は膨大で、ページではその箇所の確認はできませんでした。しかし、続資治通鑑・元史には「鉄砲」の記述は無いようですね。
景定建康志卷三十九は1260年ごろのことを(宋)周應合が撰したもので、原典は不明です。
この書物は、続資治通鑑と同じく清乾隆年間(1736〜95)に編纂された書で、中国の書物で初めて「鉄砲」が出てきます。しかし、その後しばらく中国の書物には「鉄砲」の記述が出てきません(たしか?)。
『又剏造添修火攻器具共六萬三千七百五十四件
内剏造三萬八千三百五十九件
鉄砲殻十斤重四隻七斤重八隻六斤重一百隻五斤重一萬三千一百四隻三斤重二萬二千四十四隻火弓箭一千隻火弩箭一千隻突火筒三百三十三箇火蒺藜三百三十三箇火薬棄袴槍頭三百三十三箇霹霢火砲殻一百隻
内添修二萬五千三百九十五件
火弓箭九千八百八隻火弩箭一萬二千九百八十隻突火筒五百二箇火薬棄袴槍頭一千三百九十六箇火薬蒺藜四百四箇小鉄砲二百八隻鉄火桶七十四隻鉄火錐六十三條』(なぜか合計は25435件となり、40件多い)
「鉄砲殻」の記載は1箇所のみであるのに、「巻39の抜粋文」にはなぜか「鉄砲殻」が5箇所もあり、この加筆は何か意図があるようにも思えます。
「殻」の字が付いているので火砲と思われますが、「砲」と「炮」とは明らかに異なる武器であるのに、現代中国語はすべて「炮」と成っているので、原典を調べる必要がでてきます。
思うに、「鉄砲」は中国に古来から記述されている「鉄火砲」の脱字ではなかろうか。この文章には、数が40件多い誤記もあることだし。
ただ気になるのは、添修火攻器具に「小鉄砲」二百八隻の記述があります。「小鉄砲」は添修できることと、数量が208個と中途半端な数であるので、火攻武器というよりも、火器具ではなかろうか。
平陽衛の出土品が「鉄砲」である確証はやはり無いようですね。明代の火砲火器には銘が彫られている物もありますが、面白いのはなぜかシリアルナンバーらしき番号が彫られている火器具があります。
0760人間七七四年
2011/07/30(土) 23:07:40.81ID:7+lODW8M文字化けすると思って砲にしたけど余計だった、ごめんちゃい
「鉄炮殻」は、宋代の炮が爆発物を指すこと、数え方が個でなく消耗品の隻なこと
殻もおそらく宋代の爆発兵器が蝋紙や陶器で覆われていた処から付いた名称なので
火砲ではなく手榴弾とか投石機で撃ち出す榴弾の類。
あと景定建康志参考の文は加筆した抜き出し文でなく筆者の要約文、文体も今風
平陽衛製造の出土品に刻まれた銘文は「鉄炮」で確定だと思います
幾ら何でも研究者が彫られてる銘文を読み間違えたりはしないでしょう。
「鉄銃」ではないので、日本の鉄砲とは違いますけど
明代は、青銅製なら銅炮、鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう
一品だけ銘文の図が載せられてますけど、確かにシリアルナンバーありますね
「莱州衛(竹冠に耒)宇二十九号 大砲筒〜」
0761S字型金具
2011/07/31(日) 01:20:21.85ID:/05xTexq>まず、上の抜粋文で砲の字を当てていたのは全て「炮」です
抜粋文は全て「炮」の字を当てている。何を言いたいか分からん!。
>文字化けすると思って砲にしたけど余計だった、ごめんちゃい
>>753の「てつはう」(鉄炮・鉄砲)の箇所を読まずに投稿したの?
>「鉄炮殻」は、宋代の炮が爆発物を指すこと、数え方が個でなく消耗品の隻なこと
隻が消耗品の単位なら、魚・鳥・船も消耗品?
>殻もおそらく宋代の爆発兵器が蝋紙や陶器で覆われていた処から付いた名称なので
「殻」とは物を覆う硬い物のことで「鉄」も該当するよ。
>火砲ではなく手榴弾とか投石機で撃ち出す榴弾の類。
「火砲」は「砲」なので榴弾の類となる。
>あと景定建康志参考の文は加筆した抜き出し文でなく筆者の要約文、文体も今風
「『景定建康志の巻39』の抜粋文」と書いておいて、今更何を言うの?
>平陽衛製造の出土品に刻まれた銘文は「鉄炮」で確定だと思います
>幾ら何でも研究者が彫られてる銘文を読み間違えたりはしないでしょう。
『「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)に関しては銘文が書かれてないけど』はどこへ行ったの?
「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)の「鋳鉄製大砲」がなぜ「鉄炮」になるの。
>「鉄銃」ではないので、日本の鉄砲とは違いますけど
日本の鉄砲は「鉄製品」ではないと言いたいのかな。なぜここで「鉄銃」がでてくるの。
>明代は、青銅製なら銅炮、鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう
だから、中国で「鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう」の根拠・出典を問うているのだ。>>755
0762人間七七四年
2011/07/31(日) 01:33:18.74ID:wkckuijHまともに話なんてできないってw
> ID:7+lODW8M
0763人間七七四年
2011/07/31(日) 02:43:05.26ID:X5ewivlv上で挙げた文献では「砲」の字は使われてないってこと
文字化け防止目的で書き換えたけど、文献上は全て「炮」
誰も「炮」の字は文字化けせずに使われているな!なんて目的で文章を読みはしないでしょ
景定建康志の記録では消耗兵器の数が隻、そうでない兵器は個
宋代の榴弾「炮」は多くが蝋紙製や木製、「殻」が付くのは火薬を覆って製造する兵器だから
もちろん火薬を鉄球で包めばこれも「殻」が付く、材料の硬度は無関係
宋代の「炮」は爆発兵器に対する呼称、大型管状火器に用いられるのは元末以降
抜粋文は抜粋文。それに、こちらが現代語訳されてると注釈したのを読んだ筈
銘文の内容が書籍に記述されていないだけで、「鉄炮」には当然銘が彫られてる
でなきゃ、製造場所や兵器名が判る筈もなし
「鉄銃」なら鉄砲に似た鉄製小口径火器を指し、「鉄炮」は鋳鉄製の大口径火器を指す。それだけ
そらあ、明代の衛所で兵器を製造していた職人が「鉄炮」という兵器名を刻んでいるから
製造者が「鉄炮」と銘しているのだから、これ以上確実なことはない。
他にも銘文入りの兵器が挙げられていて、青銅製火砲は「銅炮」、青銅製火器は「銅銃」
まあ「大砲筒」や「神銃」もあるから、命名規則があった様には見えないけど
「鉄炮」「銅銃」「銅炮」などの呼称は理に適った自然な命名で、普遍的な名称
0764S字型金具
2011/07/31(日) 10:02:57.29ID:/05xTexqhttp://homepage3.nifty.com/jgrammar/ja/tools/ksimple.htm
「砲」と「炮」とは明らかに異なる武器であるのに、現代中国語はすべて「炮」と成っているので、原典を調べる必要がでてきます。>>759
>1377年に平陽衛で製造された鋳鉄大砲の「鉄砲」が出土していて、これには銘文が掘られている >>756
銘文には、“大明洪武十年丁巳季月吉日平造”と記しているが、どこにも「鉄砲」とは書いていない。形状からは「鉄火砲(鉄製の火砲)」である。昔から中国に「鉄砲があった」と思っている、中国の一部の人達の思い込みである。
「鉄砲薬」と「大砲薬」とは明らかに製法・形状・組成などが異なる黒色火薬であり、この区別が付かない人が思っているもので、中国での「鉄砲薬」の出現は16世紀の末であって、中国での「鉄砲薬」の呼称は「鳥銃藥・鳥銃火藥」である。
0765人間七七四年
2011/07/31(日) 16:43:17.73ID:X5ewivlv宋代の「砲」は爆発兵器を指し、元末明初以降は火砲にも「砲」の字が使われている
「大砲筒」と刻まれた銘文もあるし、当時は「砲」が使われたか。ざっと見た範囲では旧籍に「炮」は使われていない
銘文には「大明洪武十年丁巳??季月吉日平陽衛鋳造」と、刻まれている
1530年代以降、兵仗局で製造された火砲に「仏郎機中様銃」が見られる様になるが
明代後期16世紀以降に刻まれた銘文にも「鉄砲」とは刻まれていない
もっとも、銃に関しては日本に戦国時代の鉄砲が残っていないのと同じく、明代の銘入り銃は銅銃しか出てない
とはいえ「鉄砲」という単語は、17世紀以降も史書には出て来ず、使用されていたとは考え難い
「鉄火砲」が宋元代に爆発兵器を指し、元末明初以降(あまり使用されないが)鋳鉄製火砲を指す様になったのと同じく
宋元代には爆発兵器だった「鉄砲」が、元末明初以降鋳鉄製大砲を指す様になるのは至極自然なこと。
あと、ちゃんと人の書いた文章読んでる?(鉄製の火砲)と、何度も繰り返し説明したのを読んでいる筈だし
日本の鉄砲に該当するのは「〜銃」だと何度か書き、それを読んでいる筈。追記:〜筒も〜銃と同義
そもそも発射機構の元始的な物ではあっても、「火銃・神銃・火槍など」の銅銃・鉄銃は
南宋末元初以降の中国には存在しているのは周知の事実であって
火薬の組成も多少粗末とはいえ、出土した硝石6硫黄2炭2の火薬は、模擬実験でも使用に耐えた。
16世紀末の鳥銃用と大砲用と銃用の火薬組成が、それぞれ概ね6.7:1:1.3と30:1:10と16:2:3で
「鳥銃薬」と「銃薬」の違いはあまり見られない。
0766S字型金具
2011/07/31(日) 19:10:38.93ID:/05xTexq>火薬の組成も多少粗末とはいえ、出土した硝石6硫黄2炭2の火薬は、模擬実験でも使用に耐えた。
>16世紀末の鳥銃用と大砲用と銃用の火薬組成が、それぞれ概ね6.7:1:1.3と30:1:10と16:2:3で 「鳥銃薬」と「銃薬」の違いはあまり見られない。
失礼ですけど、次の話を聞かれたことはありませんでしょうか。
火縄銃の口火薬(火皿に載せる火薬)は発射用の黒色火薬をすり潰し、細かくして使用する。しかし、多くすり潰しすぎた口火薬を発射薬として使用しようとしても、発射薬として使えない。
成分は同じとしても、形状によってでも燃焼速度は異なり、大砲用の黒色火薬の形状を調べられたことはあるでしょうか?
0767人間七七四年
2011/07/31(日) 20:31:43.29ID:X5ewivlv1558年の『武編』では発射用火薬の組成を、硝:硫黄:炭=8:1:1
1560年の『紀效新書』では、50:7:9としているので
16世紀中葉又はそれ以前から組成の大きな変遷は無さそう
明代中国は口火薬、というか着火・導火用の火薬には発射火薬と別の組成を指示してるので
大砲発射用の火薬も用途に合う形状に加工して用いたんじゃないでしょうか?
使用目的毎に成分の違う火薬を作っておきながら、形状に無頓着というのはちょっと考え難い。
ただ、著者は火器使用の研究者じゃないので形状に関しては何も言及してませんが
0768S字型金具
2011/07/31(日) 22:53:27.02ID:/05xTexq日本の鉄砲(鳥銃)は対衝撃性のために鍛鉄を使い、燃焼速度の速い鉄砲火薬が使用でき、対磨耗性、耐久性などの点でも優れていた。(ただし、錆易いことが欠点である)
大砲薬は燃焼速度を遅らせて衝撃波を減じ、発生するガスが有効に弾の推進力になるようにガス産生速度を遅らせるように作られている。
衝撃波の強さと、砲身の材質、砲身の強度、砲身長、口径比率などが関係しながら大砲は進歩・発達してきた。それは大砲薬の改良と共に、砲身が半球形から長砲身長へ変化し、弾の発射速度の向上により飛距離の増大、弾の大型化に繋がっている。
当時の大砲の砲身の材質について、「鉄」と「銅」との優劣は付けがたい。
衝撃波に対しては、「鋳物鉄」は強度の不均等により破裂の危険性があり、銅は粘りがあるので鉄よりも破裂の危険性は少ない。砲身成型の点では銅は鉄よりも融点が低く、成型し易い。比重にはあまり差は無いので、ほぼ同形大となる。
銅が鉄よりも劣る点は、銅の価格が鉄よりも高いことである。したがって、「鉄火砲」が「銅火砲」よりも高性能であるとは言えない。
0769人間七七四年
2011/08/01(月) 12:08:01.53ID:SQ/Ge0u00770人間七七四年
2011/08/02(火) 09:09:35.32ID:jfXa1HUH0771S字型金具
2011/08/05(金) 21:01:40.71ID:X/+w4GBp『八幡愚童訓』という、京都岩清水八幡宮の祠官が書いたとされる鎌倉時代の書物が日本に伝わっている。
この書き物には元寇の事が記載されている箇所が有り、他に類書がまったく無いことから様々な写本が伝わっており、写本の中に「鉄砲」について2箇所記載している物がある。(写本により、鉄砲・鉄放・鉄鉋・鐵包などと表現されている)
@『太鼓ヲ叩銅鑼ヲ打チ、紙砲鉄砲ヲ放シ時ヲ作ル。其の声唱立サニ、日本ノ馬共驚テ進退ナラズ。』
A『大将軍ハ高キ所ニ居リ上リテ、引ベキニハ逃鼓ヲ打、懸ベキニハ責鼓ヲ叩クニ随テ振舞ヒ、逃ル時ハ鉄放ヲ飛シテ暗ク成シ、鳴音闇高レバ、心ヲ迷シ肝ヲツブシ、目眩耳鳴テ、亡然トシテ東西ヲ弁ズ。』
しかし、どの写本にも「鉄砲」は武器では無く、音を出す道具として取り扱われている。
@では、鬨の音(ときの声?)を出すために、太鼓を叩き、銅鑼を打ち、紙砲・鉄砲を放っている。
Aでは、太鼓で退却のときは「逃鼓」打ち、責め懸かかりのときは「責鼓」打ちで指示をしている。逃げる時には「鉄放」を飛ばして(?)鳴音を出している。
蒙古軍は火攻武器である「鉄火砲」などの「火球」(火毬)の類を所持していると思われるのに >>759 、武器ではない「鉄砲」を蒙古軍が使用するのは不自然である。また、蒙古軍の火攻武器の使用は、『八幡愚童訓』のどこにも書かれていない。
戦に「太鼓」・「鉦(銅鑼)」を使うのは蒙古軍ばかりではなく、日本でも古来より使われており、太鼓のたたき方には、合図太鼓・早太鼓・押太鼓・懸かり太鼓等があった。
『八幡愚童訓』は八幡神の霊験を説くために書かれた書物で、その中には中世的思想に基づいた荒唐無稽な記載もあり、霊験により日本が救われたような記述もあり、実際の日本軍と蒙古軍との戦を見てないで後から聞き語りを記述したものと思われる。
著者は当時の日本の戦い方に基づいて@Aを記述していると思われ、日本に「紙砲・鉄砲が鎌倉時代からあった」のではなかろうか。
0772人間七七四年
2011/08/05(金) 21:54:27.61ID:mSHOBj7Zただ、宋代「鉄火砲」は「鉄砲」と同じでどちらも火球・爆弾・煙球を指した
0773人間七七四年
2011/08/11(木) 14:18:06.69ID:APbhCptW甲賀五十三家の一つ・杉谷家の当主与藤次の子で、
「飛ぶ鳥も射落とす」と言われた鉄砲の名人。
1570年に鈴鹿山系千草山中の椋木峠にて織田信長を狙撃したことで有名。
しかし軽傷を負わせただけで失敗、逃走したが3年後に磯野員昌の手に捕らえられ、
土中に埋められ鋸引きの刑に処された。
柘植清広(つげ きよひろ) 1542〜1631
通称三之丞。「威風流(柘植流)」と称される高度な鉄砲術を持つ伊賀の下忍。
一説によると徳川家康の「伊賀越え(甲賀の資料では甲賀越えとある)」を先導したのは服部半蔵ではなく、
この柘植三之丞清広だともいう。
根来の津田監物から雑賀とか伊賀甲賀に広まったのか
堺から買って独自に扱いを学んだのか気になるぇ
0774人間七七四年
2011/08/11(木) 23:09:05.49ID:kdI04jiK鉄砲の生産ならともかく
0775S字型金具
2011/08/13(土) 08:51:49.24ID:Iyb+jbL5鎌倉時代の書物「八幡愚童訓」の一節に『紙砲鉄砲ヲ放シ時ヲ作ル』と書いてある。 >>771 そのため、『紙砲』『鉄砲』について、当時は一般的な物であったことが推察される。
中国(明)人の鄭舜功は「日本一鑑」(1567〜1573)を著したが、その「日本一鑑」の「器用」欄を書くに当たって、京都五山建仁寺霊洞院の東麓軒の僧が連歌のために編纂(1444年)した「下学集」という辞書を参考にしている。 >>720 >>722
東麓破衲著の元和3年(1617)刊の「元和版下学集」は49丁・3292語から成り立っているが、武器類については少なく「太刀・長太刀・鑓・鞘・鐔・鍔・釼・草薙剱・御多羅枝・楊弓・重藤」などとまとめて記載してあるが『鉄砲』の記載は無い。
しかし、山脇道円撰述の寛文9年(1669)刊の「増補下学集」は「元和版下学集」の語彙に追加し、227丁・15000語の浩瀚本となっている。
この「増補下学集」の「増補」部は「いろは」順に記載されていて、『炮』の字が付く語彙は、『銕炮(テツホウ)』、『紙炮(シハウ)』の2語記載されている。
「増補」部の記載は「いろは」順のため武器・防具かどうか分からない物もあるが、『銕炮』、『紙炮』には注釈が付いていないので、当時の読者が理解できる物、一般的な物だったのではなかろうか。
また、 >>327 の「大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」などについての記載は無いので、なおさら『紙炮とは何か』が気になる。
「増補下学集」は辞書・百科辞典の体を成して、「島原の乱」・「慶安の変」などの動乱も治まった江戸時代の初期に刊行されている。『紙炮』を抜きにした銃砲史は片手落ちである。
0776人間七七四年
2011/08/15(月) 15:39:48.80ID:RVKxN5hM銘品までいかなくともブランドがあっても不思議じゃない
0777S字型金具
2011/08/21(日) 01:07:01.33ID:n4BMpwuQ佐藤鉄太郎さんは「蒙古襲来絵詞」の改竄に気付き「蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究」を著し、新聞でも紹介された。
http://www.kinseisha.jp/0317.htm
また、佐藤さんは中村学園のページ「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」の「おわりに」で、その改竄箇所を紹介している。
『絵七は文永の役で竹崎季長が鳥飼潟で蒙古兵と戦っている蒙古襲来絵詞の随一の見せ場として大変有名な場面であり、特にこの場面に描かれた三人の蒙古兵はこれを本来の絵として、これについて種々論じられているが、
竹崎季長と対時している三人の蒙古兵は蒙古襲来絵詞の本来の絵ではなく、後世の描き込みであることを明らかにした。竹崎季長の周辺に描かれている矢、槍も後世の描き込みである。』
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/sato/index.htm
佐藤さんは「鉄砲」について『さく裂している鉄砲の絵も、3人の蒙古兵と同時に書き加えられたのではないか』と問題提起している。
それは『3人の靴や剣、槍の柄の黒と鉄砲が全く同色で、しかも蒙古軍のいる左側ではなく、右側から飛来しているように描かれているのは不自然』というのが理由だ。
佐藤さんは「問題提起」で終わっているが、『「鉄砲」の黒、赤の絵の具はひび割れしていない』、『絵の中央上方に書かれた「てつはう」の変体仮名文字と、その右側の楷書の「季長生年二十九」は明らかに別人の字である』などから、明らかな描き込まれた改竄である。
「てつはう」の緑色は元の絵に松の木が描かれ、「季長生年二十九」に続く文字は消されているようである。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/241640/
そもそも「蒙古襲来絵詞」は竹崎季長が蒙古襲来に於ける自らの戦功や活躍を記したものであり、蒙古襲来の事件全般について記された絵巻物ではない。
日本語記入の無い絵は稚拙で、蒙古軍を描いた絵は筆のタッチが明らかに異なり、改竄ではなく「詞」と関係のない蒙古軍の絵が追加されている。
太鼓、銅鑼を叩き対峙している蒙古軍の「絵八」は、『八幡愚童訓』の『大将軍ハ高キ所ニ居リ上リテ、引ベキニハ逃鼓ヲ打、懸ベキニハ責鼓ヲ叩クニ随テ振舞ヒ』に合わせた追加絵であろう。
「てつはう」の書き込みも『八幡愚童訓』の「鉄砲」に合わせて「パクっている」いると思われ、「蒙古襲来絵詞」は日本の銃砲史と関係が無いと思われる。
情けないのは、「玉川学園・玉川大学」のホームページである。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html#gen1
鎌倉時代の解説のために「蒙古襲来絵詞」や「八幡愚童訓」を無批判にそのまま採用し、真実のように吹聴するのは如何なものかと思う。
0778人間七七四年
2011/08/21(日) 05:04:51.02ID:imWwVaL0改竄された兵士の持つ槍や弓の色も全く同色。はい論破
0779人間七七四年
2011/08/22(月) 18:58:52.75ID:5wXLcBCm0780人間七七四年
2011/08/23(火) 04:04:19.38ID:NhbMheUC絵の具の種類が違うだけで、江戸時代ぐらいと何となく想像。
当初描かれたあろう部分と追加部分を洗い出した功績のみ
0781人間七七四年
2011/08/23(火) 16:08:00.50ID:NCh+4DRK矢には飛跡が描かれてないから、何とも言えないのかも
0782S字型金具
2011/09/01(木) 00:52:20.79ID:2NgpFdbW「蒙古襲来絵詞」について、山田安栄編纂の『伏敵編』(明治24年)には『竹崎季長絵詞』と書かれている。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387705
『伏敵編』は元寇記念碑運動のために書かれた書物で、『実録ハ諸家ノ日記文書、及竹崎季長絵詞、八幡愚童記、日蓮註画讃ノ類ヲ以テ最トス。但愚童記、註画讃ノ如キハ。真偽雑出シ。其他内外群籍互ニ錯誤詳略アリ。』と、注意書きしている。
『竹崎季長絵詞』は『残闕支離シテ。文理接続セス。然トモ当時ノ実録此右ニ出ルモノ無シ。図亦事実ヲ徴スルニ足ル。世上伝写本二三種アリ。字句段落亦各異同アリ。肥後ノ故族大矢野氏所蔵ヲ真本トス。頃者御府ニ奉納ス。』と書かれ、真本は明治23年に奉納された。
「竹崎季長絵詞」は帝室の御物であり、残闕支離で文理が接続していなく、原本の佚脱を模本が補っていることから、模本で『元寇・てつはう』が論じられてきた。
『元寇の新研究』(昭和6年)など原本での研究もあるが、稚拙な蒙古兵についての「絵」の言及が無く、「詞」とその「絵」についてのみであり、歴史的には如何な物かと思う。
『伏敵編』では、〔付録 按〕に「大小火砲考」として項を立て、変体仮名文字の『てつはう』については、『文永外寇ノ時ニ当リ。始テ火砲アルヲ知ル。蒙古来寇図巻ニ鉄丸飛撃ノ図ヲ載セ。又其傍ニ火箭発射ノ図アリ。』と、『火砲の鉄丸飛撃』としている。
「てつはう」・「鉄丸」・「砲」・「炮」の取り扱いには苦慮し、大橋周道著の『元寇紀略』を紹介して、『鉄炮は火器の総称』としている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03659/ri05_03659_0001/ri05_03659_0001.pdf
同年(明治24年)に西村時彦著の『種子島家略譜 附・鉄砲伝来録』が出版され、坪井九馬三など、この頃「鉄砲伝来」が論じられている。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780476
「鉄砲伝来」については、南浦集を節録して天文12年としているが、以下の文が気になる。
『是ヨリ先。天文十年七月。葡萄牙人フランスグサヘイト豊後ノ神宮浦ニ来リ。鳥銃ヲ伝フ。藤原玄斎ト云物、大友宗麟ノ命ヲ受ケテ鍛造セリ。
茅元儀曰。西蕃波羅多伽児人仏来釈古(ポルトガル・フラマチヱーグ)、鳥銃ヲ日本豊州ニ伝フト。即此事ナリ。牟良叔舎、仏郎斯屈撒、仏来釈古、皆一人ニシテ訳音ノ小異ナルヘシ。其後葡国ヨリ大熕二門ヲ豊府ニ贈ル。是ヲ本邦大砲ノ始トス。』
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