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▼火縄銃について語ろう▲

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDM
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0453S字型金具2010/07/19(月) 19:58:52ID:IDSGBBuc
>>435
サーペンタインロック式古銃の動画が入手できましたので、「YouTube(ユーチューブ)」に「S字型金具」のタイトルでアップロードしました。
動画は2000年に撮影されたもので、火鋏を持って移動したためかサーペンタインの支持部が壊れ、塗装の赤色が退色しています。
0454人間七七四年2010/07/19(月) 21:04:28ID:BJ2kCleF
リンク貼ってくれりゃいいのに
ttp://www.youtube.com/watch?v=MIvvdZ8hhUE

結構大きいもんだな
0455S字型金具2010/07/23(金) 01:54:34ID:zwxAg/Cr
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありB

ルイス・フロイスの1555年(天文24年)12月1日付、マラッカ発書翰
『我等は昨年當地に於て支那より來れる船より次のことを聞きたり。
支那と日本との間に實に猛烈なる爭ありて、鹿兒島より一大艦隊支那に赴き、支那沿海の諸地方を數多く破壊せり。
殊に甚だ人口多き一都市に大打撃を加へ、その都市にありたる諸貴人を捕へたり。
これらの戰爭は深き縁由ありて多年の間鎭定することなかりしといふ。
支那と日本との爭ひは日本に行かんとするポルトガル人にとりて甚だ好き都合なるべし。
そは蓋し支那人その商貨を載せて船を日本に送らざれば、ポルトガル商人(日本にて)、交易をなすの好き便りとなるの故なり。』

「日本一鑑」は、「明の鄭舜功が倭寇の禁圧と日本の実情調査のために1556年来日し、後に著した」としている。
この書物は、上記の「日本の一大艦隊が中国沿岸都市を攻撃した」ことについての記載が無く、「深き縁由」とは何か解らない。
また、日本と琉球との鉄砲・刀剣などの武器交易についても記載が無く、鉄や硝石などの記載内容についても疑問があり、鄭舜功の本当の来日目的は解らなく、「日本一鑑」の記載内容で、当時の日本全体を判断することはできない。
しかし、この戦争の結果、東アジア貿易はポルトガル人の独占となり、倭寇による貿易は途絶えた。

「逆説」では、日本の事情にも詳しい倭寇の王直というスペシャルアドバイザーが、船主として、ポルトガル人の「鉄砲の売り込み」の手助けをしについてきたとしているが、1555年以前について以下の疑問がある。
@倭寇自体が使用していない鉄砲を売ること自体が、おかしい。
Aスペシャルアドバイザーが選んだ、「日本の貿易最適地は種子島」ではおかしい。
B売り込み地は、なぜ種子島1箇所だけなのか。
Cなぜポルトガル船が使っている大砲を売り込まなかったのか。倭寇は使わなかったのか。
D倭寇による東アジア貿易実態は、生糸、絹製品と銀がメイン商品なのでは。
Eタダでくれた鉄砲の後、なぜすぐに追加発注を受けなかったのか。
F倭寇の黒色火薬(鉄砲火薬用)についての商取引は如何に。(硝石は火薬の原料であって、火薬ではない)
0456人間七七四年2010/07/27(火) 08:14:34ID:FH3p4yKq
卒論で雑賀のことを調べてるんだけど南浦文集が手に入らなくて困っています
0457人間七七四年2010/07/28(水) 21:25:59ID:ZMlsq6f1
古式銃のサウンドガン
ttp://auction.item.rakuten.co.jp/10591707/a/10001887
0458S字型金具2010/08/01(日) 01:27:25ID:ChRPR7v2
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありC

『種子島にて鐵砲製し始めし事南浦文集に委しく見えたり始は筒の底を子ヂにする様をしらずして只底を張りふさぎたるなり此の事も彼の文集に見えたり
薩摩人丹生兵衛恒好が談に今鹿兒島の城下に昔の種子張の鐵砲もち傳へたる者間々有り其の筒の底は子ヂに非ず作付けに張り塞ぎたる物なりといへり』
上記は、江戸時代中期の伊勢貞丈が「ネジ尾栓ではない火縄銃の存在」を記述し、「火縄銃にネジ尾栓は絶対必要条件ではない」ことを示している。 >>390

井沢さんの逆説の本のP136〜137に尾栓について、私が理解不能な事が書いてある。
『(前略)また火薬滓も暴発の原因となる。中に残っている滓の高温によって銃身の「焼き」が戻ってしまい、もろくなるのである。
金兵衛が最初に造った銃は、よく筒底の部分が破裂した。そこは文字通り「目の前」にあるから、下手をすると頭が吹っ飛ぶということになる。
ところが、ポルトガル人の銃はそういう事がまったくない。しかも、不発もない。ということは、筒底を好きな時に開けて掃除ができるうえに、一度閉めたら火薬の爆発にも耐える「技術」があるということだ。
金兵衛は底を塞ぐのに、伝統的な方法では最も強度の高い「焼き締め」を行なった。つまり「焼き入れ」で塞いだのだ。しかし、それでも暴発するし、(後略)』

火薬滓が暴発の原因となるならば、井沢元彦さんは「早合(はやごう)」の存在を無視しているし、「銃身の焼きを戻す」には、1回数グラムの発射薬の発熱量ではおかしい。
破裂は、銃身底部の強度と発射薬量との関係によるのものでネジ尾栓と直接関係がなく、「不発もない」と、どこにこのようなことが書ける根拠となる文献や事実はあるのだろうか?
また、井沢さんは、P135で『その穴は細いとはいえ銃身の中まで通じているのだから、水などが入ると銃が使用不能になる危険がある。そこで普段は蓋をしておく。』と書いて、
「火蓋」は水の浸入を防ぐために在ると思い込んでいるが、銃口のほうが「その穴」よりも圧倒的に大きく、水が浸入する。

尾栓など火縄銃についての誤解の原因は、盲目的に「鉄炮記」を信じて(採用して)日本の銃砲史が創作されているからである。
0459人間七七四年2010/08/03(火) 09:55:32ID:1WDpv+Dw
S字金具さんは、自分のHPを作ってそこで交流をされてはいかがでしょうか。
他HPとのリンクを増やしていけば、その方が情報提供や交流もスムーズに行くでしょう。
このような一方的な連続投稿は、いくらレスが少ないスレとはいえあまりするものではないです。
0460人間七七四年2010/08/09(月) 15:55:29ID:x6mELivm
演武される方、危険物取扱者や火薬類保安責任者の資格持ってますか?
その勉強って役に立ちます?
0461S字型金具2010/08/12(木) 00:52:41ID:4S3ohsRA
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありD

井沢元彦さんの逆説の本のP133にポルトガル商人による硝石輸入について、根拠の無い(?)ことを記述している。
『鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
(中略)その輸入ルートが確立されない限り鉄砲の大量使用は不可能であることは、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのである。』

十六世紀日欧交通史の研究(岡本良知著)の「第二章 ボルトガル船の日本航海」に
『ボルトガル印度間では多くは十数艘少くも数艘の船隊をなして航海したが、当時日本へは通例一艘、ときに船一艘の外一・二艘のジャンクが来た。
三百年前のこの極東の航海に従った僚船を有せぬ一帆船は、印度を出帆してマラッカ海峡を過ぎ、寂莫たる南支那海を北上して遠路広東沖に達し、
それより更に糧食を補給し貨物を積んで台湾海狭の荒波を蹴り東支那海を東走して日本に達し、帰航にはまた同じ経過を逆に追って行ったのである。』
同著、第四章の『至一五九〇年日本航末ヨーロッパ船一覧表』に「航海年度・出発・経由地・入港地・到着月日・出発月日・カピタン名・備考」が詳しく調べられている。
これによると、ボルトガル官許船による諸侯との貿易期間である1555〜1587年(弘治元年〜天正15年)では、年間1〜3隻(33年間に66隻で年平均2隻)が7・8月に、九州各地に入港している。

今まで、ポルトガル商人との鉄砲・火薬・硝石の輸出入記録は発見されておらず、ただ、若干の贈答、融通した記録はある。
当時のポルトガル人の日本貿易は、終始一貫して支那物資(生糸・絹織物)と日本物資(銀)との仲買貿易をしていたとされている。
硝石が生糸・絹織物よりも量や利益があれば輸出入記録に残るはずだし、仮に年間1〜3隻のガレオン船のサブ輸入品としても当時の日本の使用量から見ると足りる量では無く、しかも7・8月の入荷である。

ボルトガル官許船1〜3隻の貿易記録にも残らない量の火薬が、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのであろうか?
0462S字型金具2010/08/25(水) 23:58:42ID:WKDylxhz
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありE

ポルトガル政府の勅令によるカピタン・モール制は1555年から始まり、1556年からボルトガル官許船は毎年必ず一回一艘が定期的に日本へ来航し、大規模な重商業主義的な機構による貿易が始まった。
ポルトガルが支那(明)のマカオでの居留権を得たのは1557年からであり、官許船での日本貿易は必ずマカオ経由での取引となった。 >>359
今までポルトガル商人による硝石の輸出入記録は発見されていないが、支那は硝石の産地なので、仮に硝石の輸出入があってもインドやマラッカで集荷された品物とは考えにくく、硝石はマカオで集荷された物になるであろう。
しかし、明が日本への輸出や通過を認めたかどうかは不明であり、当時の輸出入の記録は少ないながらも、日本への硝石の輸出入に関する書翰の痕跡すらも発見されていない(たぶん?)。
通常、ポルトガル官許船は、南方季節風を利用して7・8月に日本に入港し、北方季節風が吹くのを待って11・12月に出帆しており、その間に日本の商人と取引を行い、それ以外の期間には日本の港にポルトガル船はいなかった。
また、当時の日本の港に支那船がいない事を1558年に来航したカピタン・モール・レオネル・デ・ソーザが1561年の書翰で記述している。
『かくして予は支那に至るや、ポルトガル・印度の凡ての煩はしき要求を忘却し、日本の港に行きて自己を利せんと決意せり。
日本人の支那に対してなしてありたる大戦争(倭寇)の故に、(支那)商人来往せず港は閉ざされてありて、予が載せ行きし商貨の価は、予をして利益に倦怠せしむるまでの額に達し、(後略)』

このような重商業主義のカピタン・モール制の現況において、井沢元彦さんの逆説の本のP133
『鉄砲は一丁持てば、二丁、三丁と欲しくなる。そして、それを有効使用するためには硝石を大量に輸入しなければならない。ならば初めの一丁ぐらいは「サービス」しても、ポルトガル商人は損はしない。いやむしろ多大な利益が期待できるのだ。』
の根拠は何処にあるのだろうか?

倭寇による鉄炮伝来説の宇田川武久さんは、硝石について殆ど触れていなく、1558年以降の倭寇説はどのような展開で成り立っているのだろうか?
0463人間七七四年2010/09/06(月) 13:37:56ID:4n+w2dAj
ロシアに眠る幕府の大砲 江戸後期の紛争略奪品・東大調査

 江戸時代後期に起きた日ロ紛争による幕府軍からの略奪品が、ロシアのサンクトペテルブルクの博物館に多数収蔵されていることが
東京大史料編纂(へんさん)所の調査で明らかになった。近代へと向かうなか、外国との初めての軍事衝突に慌て戸惑う日本の姿が見えてくる。

ロシアにある日本関連資料の調査を同編纂所は10年来続けている。今年は7月に保谷徹教授らが博物館などを回り調べた。
一行を最も驚かせたのは砲兵博物館で確認した大砲だ。「フランキ砲」「石火矢(いしびや)」などと呼ばれる種類で青銅製。2門あり、どちらも口径79ミリ、全長約260センチだった。

大砲の一つには「FRCO」と刻まれていた。同編纂所の岡美穂子助教によると、これは戦国時代に大分を本拠に活躍したキリシタン大名、大友宗麟の印章だという。
宗麟の洗礼名フランシスコから図案化したもので、1579年から2年ほど使っていた。
「宗麟が注文したか、宗麟の受洗を祝いイエズス会が贈った可能性が考えられる」と東大の五野井隆史名誉教授。

ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。
フランキ砲は鉄砲より少し遅れ16世紀後半に日本に伝わった。宗麟が最初に導入し、城の攻防に威力を発揮、「国崩し」の異名をとった。

(続く)
0464人間七七四年2010/09/06(月) 13:41:17ID:4n+w2dAj
そんな大砲がなぜ、ロシアに渡ったのか。江戸時代の紛争での略奪品であることをロシア側の記録は示していた。

 ロシア使節のレザノフが、通商を求めて長崎にやってきたのは1804年。半年にわたり江戸幕府に交渉を求めた。

 だが、幽閉さながらの状態に置かれたうえ、交渉そのものもまったく進展しなかったことから仕返しを計画。
部下に命じ、1806年と1807年に樺太や択捉島など日本の拠点を攻撃させた。当時の年号から「文化露寇」と呼ばれる。

 保谷教授によると、利尻島で襲われた幕府の船から大砲が奪われたとの記録が日本にある。

記録では、この大砲は「さはりの大ハラカン」と呼ばれていた。かつて豊臣秀吉の軍が朝鮮から奪い、大坂城に持ち帰ったと伝わる大砲だ。
今回確認した2門のうち、もう1門がそれに当たるのではないかという。

 「幕府には、戦国時代の様々な武器が集まっていた。使用法も秘伝として継承されていたはず。
 ロシアの襲撃に驚き、そうした武器から慌てて大砲を引っ張り出したものの、奪われてしまったのでしょう」と保谷教授は話す。

大友宗麟が所有していたとわかった大砲。右下は表面の装飾を拡大したもの=砲兵博物館の資料から
ttp://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201009060084.jpg

大砲を特定する決め手となった大友宗麟の印章。左の文字はFとRの合わせ文字=保谷徹教授提供
ttp://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201009060083.jpg

(続く)
0465人間七七四年2010/09/06(月) 13:44:22ID:4n+w2dAj
人類学・民族学博物館では日本担当研究員のA・シィニーツィンさんが、多数の品を見つけ出した。刀や鉄砲、よろいやかぶとのほか、鏡やきせるなど日用品も多い。

津軽、南部両藩から動員された兵はロシア勢より多かったが、さして戦うことなく敗走した、という記録を裏付けるように、品々には傷みがみられない。

 ロシアはナポレオン戦争の時代。武器も士気も整っていたようだ。一方の日本は11代将軍家斉の治世。太平の社会にこの紛争は衝撃だった。
平田篤胤が国学を志すようになったきっかけといわれ、時にみられる「ロシアは怖い国」というイメージの出発点ともされる。

 「襲撃は私的な海賊行為とされ、関係者は罪に問われた。ロシア政府は無関係だった」とK・サルキソフ山梨学院大名誉教授は説明する。
外交手続きを重んじて交渉を求めたレザノフに対し、時間がたてばあきらめて帰るだろうというのが幕府の方針。
かみ合わない姿勢や文化の違いに端を発した感情のもつれによる衝突だった。

 こうした日ロの初遭遇を今年出版した『黒船前夜』で描いた評論家の渡辺京二さんは
「相手のことを知らないために起きた事件。それにしても、200年も前の年代物の大砲が役に立つわけもないだろうに、あきれた話だ。
 ペリー来航の半世紀前、当時の日本にはそんな物しかなかったということなのでしょう」と語った。(渡辺延志)

鉄砲や刀、鏡なども多数確認された。鉄砲の左に二つあるのは鉄砲入れ。南部家の紋がついている=保谷徹教授提供
ttp://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201009060082.jpg

ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201009060087.html

(終わり)
0466人間七七四年2010/09/06(月) 22:53:03ID:GNiVcTdt
これはすごい
0467人間七七四年2010/09/07(火) 02:11:48ID:VTPWN4gM
>>461
最大の貿易相手は明の商人だし明の交易船

鉄砲を伝来したのも明船

硝石は大部分が明から輸入していた
0468人間七七四年2010/09/07(火) 02:35:45ID:FMztYf/B
実戦に使用したなら、フランキ砲は分離カートリッジ式子砲に火薬と弾を込めて撃つので、暴発やガス漏れが激しい。
対してナポレオン戦争時のロシアは前装式艦載砲を揚陸させて使ったろう。
ただの鉄球を打ち出すカノン砲だから、フランキと連射速度は違えど威力に差はないよ。
榴弾砲か臼砲があれば違ってくるけど。

しかしロシアのマスケット銃兵に負けるとはな。日本の火縄銃よりずっと命中率低いのに。
M1756にいたっては照星すら付いていない。密集隊形の敵にこそ使うもので、散兵戦ではほんとに使えない。
これより前になるがロシアは朝鮮の猟師を射撃教官に招いたりもしている。
命中率は鳥銃の方が上だったんだ。
0469人間七七四年2010/09/07(火) 05:17:33ID:VtiUJo4B
津軽、南部両藩から動員された兵はロシア勢より多かったが、さして戦うことなく敗走した、という記録を裏付けるように、品々には傷みがみられない。
ロシアはナポレオン戦争の時代。武器も士気も整っていたようだ。一方の日本は11代将軍家斉の治世。太平の社会にこの紛争は衝撃だった。



武器の質はともかく、士気旺盛な戦国時代であればそうあっさり敗走はしないだろうな
0470S字型金具2010/09/11(土) 01:24:19ID:/A10A+ws
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありF

織田信長の堺支配(1570年〜?)の前、1565年(永禄8年)に、日本の商人等が貿易相手であるポルトガル官許船への略奪未遂事件を起こした。
この事件については日本とポルトガル両方に記録が残っているが大きな相違があり、日本側の記録「大曲記」はそれ自体の信用性が疑われる内容である。
ポルトガル側の記録は幾つかあり、それぞれ詳細に記載されている。
ポルトガル船の入港はそれまで平戸であったが、ポルトガル側の都合により1962年から横瀬浦に変わった。
1965年に来航したポルトガル官許船は、横瀬浦が戦乱中で破壊されているので、調査済みの大村領の福田浦へ入港した。
今後平戸領内にポルトガル船が入港しなくなるので、領主の松浦隆信は堺の商人等と略奪計画を盟約し、武装した商人等の大船8艘と松浦軍の小船で官許船へ奇襲攻撃を掛けた。
フロイスは、「その時の松浦軍の攻撃武器は、堺で作られた大型のマスケット銃であるエスピンガルダ銃と矢であり、商人等は生糸を買うために来た堺の商人等である」と書いている。
福田浦には、ポルトガルの小型ガレアン船1艘と支那商人の船数艘がいて、不意を突かれたポルトガル官許船にそれらの船は全力で近づき、援助を行った。
大村領の大村純忠は、ポルトガル船への援助をしなかった(できなかった?)。
ガレアン船の砲撃により松浦軍側は大船3艘が撃破され、200名以上の死傷者を出して略奪は失敗に終わった。
襲撃されたポルトガル官許船の積荷がその後どうなったかの記録は無いが、12月(?)に出帆している。

この記録から見ても、当時の日本側の貿易体制は海賊行為が行われており(瀬戸内海は海賊が横行していたが、日本海側は不明)、ポルトガル船は直接堺港に入港できない状態ではなかろうか。
この当時ポルトガルは日本の諸侯を通じて日本の商人等と商売をしており(日本在住の支那商人もか?)、堺との直接貿易ルートが確立しているとは思えず、「硝石(煙硝)」が略奪商品名や貿易記録に出てこないことから、
井沢元彦さんの逆説の本に書いてある「織田信長の煙硝の輸入ルート」そのもの自体がありえないのではなかろうか。
また、支那商人が来往しなかった時期もあり(>>462)、硝石の輸入については再検討を要する。
0471S字型金具2010/09/12(日) 09:41:06ID:Fn9idrLd
訂正 >>470 の(1962年から横瀬浦)は(1562年から横瀬浦)、(1965年に来航)は(1565年に来航)です。
0472人間七七四年2010/09/12(日) 22:48:23ID:Www7C5Bb
硝石は自給できるようになったらしい。
0473S字型金具2010/09/18(土) 02:16:12ID:bXAS04K/
大友家の「鉄炮伝来記」@

大友氏第21代当主の大友義鎮(宗麟)の時代、「鉄炮」と「石火矢=国崩」の伝来についての記録があります。
「国崩し」の意味を調べている内に入手した物で、種子島氏の「鉄炮記」 >>351 と比べてみると共通点などもあり、なぜ今まで取り上げられていなかったのか不思議なことです。
「石火矢=大砲=佛郎機(フランキ)」の威力(性能)についての記載はありません。
「国崩し」の意味は「音響により地形が崩れる事」で、「弾で地形が崩れる事」では無い事が判りました。

『九艘唐船之事』
厥後、享禄三庚寅年夏の頃、南蛮国より大船九艘、豊後臼杵に着岸しけり。
商売のため渡海したる船なれば、絹布・薬種・其外美妙の重宝、其数あげて斗り尽し難く、諸国に其隠れなければ、国々の商入金銀を持参して、幾千人と云ふ数を知らず相集る。
然共、此船に乗来る商人は云ふに不及、船頭其外以下の船手の者共、何れも言語に通じがたきにより,何れの国より渡海したるといふ事をしらず。
文字も日本の筆法に相応ぜざれば、筆談もなり難し。
され共、大明国より儒学の仁を其船に雇ひ、乗来ると見へしかば、禅僧に保首座といふ出家、書翰を認め、船中に遣しければ、三官と云ふ儒学の大明人披見して、夫より保首座に初参会所したり。
三官筆誌に我は大明国の者なれ共、言語通達の為に、彼商人宿はじむるにより、此船に乗来り、商売の客は云ふに不及、船頭・楫取・以下の船方共皆南蛮の者共也。
依之、某南蛮の作法為業を偏に知らず。
然共、船中の者共のていたらくを見るに、君臣の分は有りけれ共、一円に礼儀不法の国と見へて、君臣の分ちは礼儀正しからず。
朝夕の食事をも、大勢一器に入て箸を用意せずして手づから握み食して、我や人やと云ふ。貴賎を撰ぶる事なしと答書する。

続く
0474S字型金具2010/09/24(金) 00:13:40ID:l/6b8G1b
大友家の「鉄炮伝来記」A

『九艘唐船之事』 >続きです。

当国の大守大友義鎮公は、府内に在住し給ひ、異国人よりの進物として、種々の重宝美妙の数を尽し捧げ進上する。
其中に兵具を三(二)つ指上る。
誰がとなへ始めしとは知れざれ共、鉄炮と云ひ始めしとて、其長さ二三尺も有りたると也。中に竹の筒の如くの穴あり。
外は直にして其底は厳敷く塞ぎ堅めて、手元の傍に小き穴あり。
火の通ずる道あり。
たとへて云ふべき様もなく、妙薬を其筒に少し込みて、円き小玉を後に入て、四方の細き的の中に、墨にて星を顕はし、射垜に立置き、自彼鉄炮を手に持ち、火縄に火を付け取添て、其身を直治にして、其仁片目をすがめ、手前の小穴より火を放つ。
時に立所に星にあたらすと云ふ事なし。
其発時の甚しき事は、さながら稲妻の光りの如く、騒ぐ事は雷電霹靂の如く山に響き、大地も動く如く覚へたり。
見物の貴賎耳に手を覆ひ、岩石も只今崩るゝ如くなり。誠に肝魂を消す如く覚へけれ共、彼鉄炮を翫ぶ異国人は、少も騒ぎたるけしきもなし。
鳥獣をも刹那が間に歿命する事眼前也。
希代不思議の重宝の兵具なり。
これによりて、当国の若き侍方伝受して、もてはやしければ、其後は鳴響く音にも恐れ騒がず、何れ達者の上手と沙汰したり。

扨、南蛮の商人共、商売たやすく仕舞ければ、順風に帆あげて本国へ帰りけり。

其後数年指過ぎ、天文二十辛亥の年、石火矢迚大筒二挺、南蛮の国より進物の由にて、大友義鎮公へ送りける一挺は、大の筒にて、筒の穴口四寸余有り。
一挺は些細き筒にて、口の指渡し三寸余有りけるとかや。
此大筒共一度放せば、其響にて高山岩石も崩れ、大地も震ひわれるかと覚へけり。
此石火矢を国崩といひならはしけり。
されば大友家御代々九州を掌の内に治め給ふといへ共、威勢異国迄も聞へ、南蛮国迄も隠れなければ、如斯の重宝を捧げ、大友義鎮を尊敬する事は、古今ためしなき事共也。

この一文は、天正15年(1587年)で終わっている「豊筑乱記(著者、成立年代とも不明)」に含まれています。
種子島氏の「鉄炮記」 >>419 は、文末には慶長11年(1606年)の記載があり、この『九艘唐船之事』を参考にして書かれた可能性がある。
また、このような伝承がこの地域に流布していた可能性もあり、興味のあるところです。
0475人間七七四年2010/09/26(日) 20:44:27ID:k9S5PXk5
 戦国時代の鉄砲兵達には訓練とかあったのでしょうか?またある程度の
腕がなければ採用しないと言った要件はあったのでしょうか?また鉄砲を
扱う兵士達の指揮官には条件とかあったのでしょうか。
0476人間七七四年2010/09/29(水) 01:51:27ID:PbTioBne
>>475
もちろんあるよ。俺の知ってる話だと、
・鉄砲は組ごとに20〜30人ずつで編成されていた
・当時の鉄砲は微妙に銃身が曲がってて、それぞれ弾道にクセがあるので試射して把握する必要があった。
・訓練には変形する鉛弾ではなく、再利用できる鉄弾を使った。
なんてのがあったな。
0477人間七七四年2010/09/29(水) 02:37:38ID:QDIWCE7w
>>475
鉄砲が、比較的早く普及した西国と遅かった東国では、鉄砲を扱う人間が微妙に違った。

西国(大友・島津・長曽我部)では、士分が鉄砲を使っていた。
戦いになると自分と数人を引き連れていく騎馬武者か、徒歩武者。
大名とか有力な家臣・一族とかの被官たち。

東国(上杉・武田・北条)では、その階層の武士は、鉄砲より馬を使った。

0478S字型金具2010/10/01(金) 00:21:12ID:G1dTIrGc
大友家の「鉄炮伝来記」B

大友義鎮(宗麟)に関係すると思われる大砲発見のニュースがあった。>>463
東京大史料編纂所は、次のように解釈している。
『大砲の一つには「FRCO」と刻まれていた。同編纂所の岡美穂子助教によると、これは戦国時代に大分を本拠に活躍したキリシタン大名、大友宗麟の印章だという。
宗麟の洗礼名フランシスコから図案化したもので、1579年から2年ほど使っていた。
「宗麟が注文したか、宗麟の受洗を祝いイエズス会が贈った可能性が考えられる」と東大の五野井隆史名誉教授。
ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。』
『かつて豊臣秀吉の軍が朝鮮から奪い、大坂城に持ち帰ったと伝わる大砲だ。今回確認した2門のうち、もう1門がそれに当たるのではないかという。』

しかし、天正10年(1582年)、前田利家の鋳玉を使う国産の大鉄炮の使用や大鉄炮鋳造の記録がある。
この大鉄炮が「フランキ砲」であるかどうかは不明ですが、西国大名では無い前田利家の鋳造記録であり、これ以前にも大砲を鋳造していたことが推定される。
このとき、前田利家は鋳物師に「捕虜を釜煎りするための大釜」も鋳造させている。
これは石川五右衛門(〜1594年)で有名な「釜茹での刑」のためで、前田利家は以前にも一向宗門徒を釜煎りしたようだ。
日本には古来より青銅の精緻な梵鐘製造技術があり、大釜鋳造に転用できるし、大砲鋳造も困難な仕事では無いと思われる。
また、フロイスの天正13年(1585年)の書翰に、「信長がシナ人に命じ伊勢の国において鋳造させた大砲一門と、小砲数門を用いた」と書いてある。
中国(明)は、1528年に「フランキ砲」4000門を配備している。>>359
大砲が日本国内に普及・発展しなかった理由は色々考えられるが、単純に「大砲の製造地がインドのゴア」や「朝鮮から奪った大砲だ」とは言えない点がある。
銃砲の製造については、刀匠のほかに、鍛冶師、鋳物師なども考慮に入れる必要がある。
0479人間七七四年2010/10/02(土) 16:42:01ID:CR6ip9tu
大砲が日本で普及しなかった理由?

移動・運搬が困難だからに決まってるだろう。
平野面積が狭く、ほとんど山岳の国なのに。
0480人間七七四年2010/10/03(日) 00:59:27ID:NlXq0YYT
秀吉の小田原の役で、大筒が1000門使われたそうだが、
これは大鉄砲が大半なんだろうか
0481人間七七四年2010/10/03(日) 10:08:14ID:mTXqrpKo
まあ殆どそうだべ
0482人間七七四年2010/10/04(月) 01:05:57ID:Tc4POjVn
>>479
大友宗麟が、大砲を輸入したとき、それを長崎から豊後府内まで、
陸上輸送したんだが、その総益が大変だと不平が出ていたそうだ。

あと炸裂弾じゃないので、効果がうすかったというのもある。
この欠点は、丹生島城で篭城した際、大小の玉を使用して
有る程度解決できた。
0483人間七七四年2010/10/04(月) 03:21:28ID:TSRLvZSh
>>482
炸裂する榴弾も、ナポレオンの頃ですらそんなに威力があるわけではなかったんだよな。
近距離で使う散弾(戦国日本では烏弾と言った)と比べると戦果は微々たるものだった。
19世紀前半から順次普及したシュラプネル弾の登場で、大砲の対人攻撃力は飛躍的に上がった。
これは榴散弾ともいい、遠距離で信管が作動して散弾をばら撒くもの。
0484人間七七四年2010/10/04(月) 03:26:20ID:TSRLvZSh
大砲の散弾の対人威力はとんでもない。
マスケット銃で使う程度の大きさの玉を数十〜数百個詰め発射すると、
射程こそ短いが拡散し一網打尽にする。
戦国時代だと大鉄砲で使うことがあったというが、詳しくは知らない。
0485人間七七四年2010/10/04(月) 18:17:10ID:ElL8hpwO
至近距離で一回しか使えないからな、進入路限定できるとこじゃないとあんま意味ないし
城とか拠点でそこまでワララワ肉薄されるようだとオワタに近いし
0486人間七七四年2010/10/05(火) 16:02:56ID:RuHwCpc3
上下方向にも拡散するだろうからロスが大きいな。
ゾウを一撃で肉片に変える、とかになら使えるかも知れん。
0487人間七七四年2010/10/07(木) 11:14:40ID:fTBhdny6
 大砲の運搬が当時の日本の牛馬では不可能だったみたいな意見もあったけど、
当時の大砲より重くて嵩張る石垣や木材なんかを運んでるだからやろうと思えば
できただろうねえ。
0488人間七七四年2010/10/07(木) 12:13:33ID:BkCzsT3S
日本では組で扱う兵器は好まれないからな
0489人間七七四年2010/10/07(木) 13:01:38ID:dwOw7UoZ
一発一発に
大量の火薬を使うからってだけかと。

大砲一門で一発撃つあたり
火縄銃100発分以上



0490人間七七四年2010/10/07(木) 18:35:57ID:fTBhdny6
 攻城戦にはそれなりに有効だったとは思うんだけど。戦国時代は数キロあるけば
城にあたるって位、出城・砦だらけ。壁崩すとかには有効だったろう。火薬について
もそれなりに大量になければ100年位で火器装備率があがる訳がない。やっぱり文化
的要因があったのかな。
0491人間七七四年2010/10/07(木) 18:56:52ID:hFa+1whA
柵と土塁のビンボ臭い城と砦ばっかです・・・
0492人間七七四年2010/10/07(木) 19:00:49ID:9471OaSW
攻城戦で壁崩すのに有効といっても、戦国時代の城は壁なんかないのも多いし、
山城なんかだとそこまで近づけるかどうか、届くかどうかも微妙。
そんな役に立つかどうかわからないものを必死こいて野を越え山越え運ぶくらいなら、
鉄砲をたくさんそろえたほうがよっぽど効果的だろう。
大砲の使用は、近代的な平城・平山城への攻撃や、平地での運用、篭城戦に限られたと思う。
0493人間七七四年2010/10/08(金) 04:29:16ID:cBwapAsw
戦国時代、大砲を楽に通せるような道が整備されてなかったのも大きいね。
そんなこと考えて日本の道は作られてないから。
0494人間七七四年2010/10/08(金) 04:35:17ID:cBwapAsw
臼砲は役に立ったかなと思う。
短砲身の攻城砲で、壁越しに高い放物線を描いて射撃できる。
ただ17世紀後半にならないと榴弾を発射できるには至らない。
0495人間七七四年2010/10/08(金) 10:14:25ID:0XwusplB
朝鮮の「飛撃震天雷」みたいな弾丸を開発すれば良かったんだよ
0496人間七七四年2010/10/08(金) 11:19:58ID:TGyd0ZCh
ヨーロッパや中国みたいに石の城壁があるわけじゃないんだから
大砲の必要性は薄い
0497人間七七四年2010/10/08(金) 12:14:53ID:lo4LKbra
 防御砲としても一定の効果はあったと思うんだけどね。17世紀のヨーロッパ
の城塞なんかはハリネズミの様に砲台があっちこっちにある。日本の場合はすぐ
天下太平の徳川時代に入ったから同列には論じられないが、大阪城や江戸城とか
にも砲台の概念は殆ど無いよね。
0498S字型金具2010/10/08(金) 22:29:26ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」C

現在の著作物は著作権法により守られている。この大友氏の『豊筑乱記(九艘唐船之事)』と種子嶋氏の『南浦文集(鉄炮記)』の酷似は、その内容が「日本の銃砲史」や「教科書の記述」に関わることから、著作権の侵害だけでは済まされない。
どちらかが(または両者が)『パクッた』のは間違いないので、ここに両者の読み下し文を記述順に列記してみた。
【大】は垣本言雄校訂「大分県郷土史料集成 戦記篇 豊筑乱記」より。《種》は洞富雄さんの「南浦文集の新仮名遣い読み下し文」である。

【大】『九艘唐船之事』 厥後、享禄三庚寅年夏の頃、南蛮国より大船九艘、豊後臼杵に着岸しけり。
《種》『鉄炮記』 隅州の南に一嶋あり、州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々これに居る。古来相伝う、嶋を種子と名づくるは、この嶋小なりと雖どもその居民もろもろありてかつ富めり、
譬えば、種を播くにこれ一種子を下せば、しかも生々窮まりなきが如し、この故にこれに名づくと。これより先、天文癸卯(十二年)八月二十五丁酉、わが西村の小浦に一の大船あり、

【大】商売のため渡海したる船なれば、絹布・薬種・其外美妙の重宝、其数あげて斗り尽し難く、諸国に其隠れなければ、国々の商入金銀を持参して、幾千人と云ふ数を知らず相集る。
《種》何れの国より来るを知らず。船客百余人、

【大】然共、此船に乗来る商人は云ふに不及、船頭其外以下の船手の者共、何れも言語に通じがたきにより,何れの国より渡海したるといふ事をしらず。文字も日本の筆法に相応ぜざれば、筆談もなり難し。
《種》その形類せず、その語通ぜず、見る者もって奇怪となす。

【大】され共、大明国より儒学の仁を其船に雇ひ、乗来ると見へしかば、禅僧に保首座といふ出家、書翰を認め、船中に遣しければ、三官と云ふ儒学の大明人披見して、夫より保首座に初参会所したり。
《種》その中に大明の儒生一人、五峯と名づくる者あり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞という者あり、すこぶる文字を解す。たまたま五峯に遇いて杖をもって沙上に書して曰く、船中の客、いずれの国の人なるを知らざるなり、何ぞその形の異なるやと。

【大】三官筆誌に我は大明国の者なれ共、言語通達の為に、彼商人宿はじむるにより、此船に乗来り、商売の客は云ふに不及、船頭・楫取・以下の船方共皆南蛮の者共也。
《種》五峯すなわち書していわく、これはこれ西南蛮種の賣胡なり
0499S字型金具2010/10/08(金) 22:30:52ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」D

【大】依之、某南蛮の作法為業を偏に知らず。然共、船中の者共のていたらくを見るに、君臣の分は有りけれ共、一円に礼儀不法の国と見へて、君臣の分ちは礼儀正しからず。
《種》ほぼ君臣の義を知ると雖ども、いまだ礼貌のその中に在るを知らず、

【大】朝夕の食事をも、大勢一器に入て箸を用意せずして手づから握み食して、
《種》この故に、その飲むや杯飲して杯せず、その食するや手食して箸せず、

【大】我や人やと云ふ。貴賎を撰ぶる事なしと答書する。
《種》徒に嗜欲のその情に愜うを知りて、文字のその理を通ずることを知らざるなり、いわゆる賣胡一処に到れば輙ち止まるという、これその種なり、その有るところをもって、その無きところに易うるのみ、怪むべき者にあらずと。
これにおいて、織部丞また書して曰く、ここを去る十又三里に一津あり、津を赤尾木と名づく、わが由って頼むところの宗子、世々居る所の地なり、津の口に数千戸あり、戸富み家昌えて、南商北買、往還織るがごとし、いま船をここに繋ぐと雖ども、要津の深くして、
かつ漣ざるのまされるにしかざるなりと。これをわが祖父恵時と老父時尭とに告ぐ。時尭すなわち扁艇数十をして、これを拏かせ、二十七日己亥に至りて船を赤尾木の津に入らしむ。期の時に丁って、津に忠首座という者あり、日州龍源の徒なり、法華一乗の妙を聞かんと欲して、
津の口に寓止して、ついに禅を改めて法華の徒となる、号して住乗院という、ほとんど経書に通じて、筆を揮うこと敏捷なり。たまたま五峯に遇いて文字をもって言語を通ず、五峯もまたおもえらく知己の異邦にありと、いわゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。

【大】当国の大守大友義鎮公は、府内に在住し給ひ、異国人よりの進物として、種々の重宝美妙の数を尽し捧げ進上する。其中に兵具を三(二)つ指上る。
《種》買胡の長二人あり、一を牟良叔舎といい、一を喜利志多佗孟太という。

【大】誰がとなへ始めしとは知れざれ共、鉄炮と云ひ始めしとて、其長さ二三尺も有りたると也。
《種》手に一物を携う、長きこと二三尺、

【大】中に竹の筒の如くの穴あり。外は直にして其底は厳敷く塞ぎ堅めて、手元の傍に小き穴あり。火の通ずる道あり。
《種》その体たるや、中通じ外直にして、重きをもって質となす、その中は常に通ずと雖ども、その底は密塞を要とす、その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり、
0500S字型金具2010/10/08(金) 22:32:52ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」E

【大】たとへて云ふべき様もなく、妙薬を其筒に少し込みて、円き小玉を後に入て、
《種》形象物の比倫すべきなし。その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛をもってす。

【大】四方の細き的の中に、墨にて星を顕はし、射垜に立置き、自彼鉄炮を手に持ち、火縄に火を付け取添て、其身を直治にして、其仁片目をすがめ、手前の小穴より火を放つ。時に立所に星にあたらすと云ふ事なし。
《種》まず一小白を岸畔に置き、みずから一物を手にして、その身を修め、目を眇にして、その一穴より火を放つときは、すなわちたちどころに中らざるなし。

【大】其発時の甚しき事は、さながら稲妻の光りの如く、騒ぐ事は雷電霹靂の如く山に響き、大地も動く如く覚へたり。見物の貴賎耳に手を覆ひ、岩石も只今崩るゝ如くなり。
《種》その発するや製電の光のごとく、その鳴るや警雷の轟くがごとく、聞くものの耳を掩わざるなし。一小白を置くは、射る者の鵠を侯の中に捿くの比のごとし。この物ひとたび発して、銀山くだけつべく、鉄壁うがつべし。

【大】誠に肝魂を消す如く覚へけれ共、彼鉄炮を翫ぶ異国人は、少も騒ぎたるけしきもなし。鳥獣をも刹那が間に歿命する事眼前也。
《種》姦宄の仇を人の国になす者、これに触るればすなわちたちどころにその魄をうしなう、いはんや麋鹿の苗稼に禍する者においてをや。その世に用あるもの、勝げて数うべからず。時尭これを見てもって希世の珍となす。
はじめはその何という名なるを知らず、またその何の用たることを詳らかにせず。すでにして人なづけて鉄炮となすは、知らず明人の名づくるところか、そもそも知らずわが一嶋の者の名づくるところか。
0501S字型金具2010/10/08(金) 22:34:58ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」F

【大】希代不思議の重宝の兵具なり。
《種》一日、時尭重訳して二人の蛮種にいって曰く、
われこれを能くせんというにはあらず、願くば学ばんと。蛮種もまた重訳して答えて曰く、君もしこれを学ばんと欲せば、われもまたその蘊奥をつくしてもってこれを告げんと。時尭曰く、蘊奥聞くことをうべけんかと。
蛮種曰く、心を正うすると、目を眇にするにあるのみと。時尭曰く、心を正うするは、先聖の人に教うる所以にして、われのこれを学ぶ所以なり、おおよそ天下の理、事ここに従わざれば、動静云為、おのずから差うなきこと能わず、公のいうところの正心、
あにまた異ることあらんや、目を眇にするは、その明もって遠きをてらすに足らず、これをいかにしてか、その目を眇にするやと。蛮種答えて曰く、それ物ごとに約を守らんことを要す、約を守るは、ひろく見るをもって、いまだ至らずとなす、
目を眇にするは見ることの明らかならざるにあらず、その約を守ってもってこれを遠きに致さんことを欲するなり、君それこれを察せよと。時尭よろこんで曰く、老子のいわゆる見ること小なるを明というと、それこれの謂いかと。
この歳、重九の節、日は辛亥にあり、良辰を涓びとりて、試みに妙薬と小団鉛とをその中に入れ、一小白を百歩の外に置いて、これが火を発てば、すなわちそれほとんど庶幾からんか。時人はじめはすなわち驚き、中ごろはすなわち恐れてこれを畏ぢ、
おわりには翕然としてまたいう、願くば学ばんと。時尭その価の高くして及びがたきことをいわずして、蛮種の二鉄炮を求めて、もって家珍となす。

【大】これによりて、当国の若き侍方伝受して、もてはやしければ、其後は鳴響く音にも恐れ騒がず、何れ達者の上手と沙汰したり。
《種》その妙薬の搗篩・和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ。時尭朝に磨き夕に淬め、勤めてやまず、さきのほとんど庶きもの、これにおいて百発百中し、一つとして失うものなし。

【大】扨、南蛮の商人共、商売たやすく仕舞ければ、順風に帆あげて本国へ帰りけり。其後数年指過ぎ、天文二十辛亥の年 (後略)
《種》この時において、紀州根来寺に杉坊某公という者あり、千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す(中略)。その後、和泉堺に橘屋又三郎という者あり、商客の徒なり、(中略)。船中にわが僕臣松下五郎三郎という者あり、手に鉄炮を携えて、(後略)。
0502人間七七四年2010/10/09(土) 01:30:16ID:sgaDBwFZ
>>487
大友家では、ソリを使った。
それでも、平地の多い場所はよかったが、阿蘇から竹田の坂道はきつかったと思う。
それで>>482にあるような>労役が大変だと不平が出たわけだ。


0503S字型金具2010/10/17(日) 03:27:59ID:wnz501Mp
大友家の「鉄炮伝来記」G

『豊筑乱記(昭和13年発行)』の異本には、歴史図書社が昭和55年に発行した『大友豊筑乱記(岡藩由学館本か?)』があります。
この異本は ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/teppou/teppou.html でも紹介されていますが脱落や誤記が多々あり、管理人さんも解説に苦労されています。
たとえば、本文の「九艘唐船」の単語抜け、永禄と享禄、三寉と三官、義鑑と義鎮など、重大な書き写し間違いがあります。
『豊筑乱記』は大友家初代より天正15年(1587年)の22代大友義統までの当主順に書かれていますが、鉄砲伝来のような事項については年代が交雑しているため、思い込みによる書き写しミスが発生したと思われます。
『豊筑乱記(九艘唐船之事)』は、第21代大友義鎮(宗麟)の顕彰を目的として書かれており、南蛮より大友家への鉄砲伝来事項(伝来年月未記載)と石火矢・国崩伝来事項(天文20年)により成り立っている。
文頭の享禄三庚寅年(1530年)は大友義鎮(宗麟)の生年で、死没は天正15年(1587年)である。
種子嶋氏の『南浦文集(鉄炮記)』の成立は慶長11年(1606年)であるので、『九艘唐船之事』が『鉄炮記』を『パクッた』のであれば、それ以降に書かれた物となる。

『国友鉄砲記』は寛永10年(1633年)に国友の鉄砲代官4名の連署で国友の鉄砲由来を書いたものであるが、作為的な所や矛盾点もあり、成立年代もおかしい。
その本文には、『然此兵器之用法。倭人雖有流伝之願。思不叶所。初文亀元年・永正七年。従南蛮国相続渡是共。委不伝妙法。故其用知者希也。』と気になることが書いてあるが、『鉄炮記』の伝来を天文8年(1539年)として、その文に尾ひれを付けて由来を書いている。
国友の鉄砲代官らは、当時、『鉄炮記』が有名であったために、『九艘唐船之事』・『鉄炮記』どちらを採用しても由来書には影響を与えず、矛盾点を判っていながら、あえて『鉄炮記』を付け加える必然性があったのではなかろうか?
国友の鉄砲代官から見れば、『鉄炮記』の方が種子島時尭の顕彰のために圧倒的に記述が詳細で本当らしく書いてあるので『鉄炮記』を『パクッた』が、なぜか『尾栓ネジ』につては記述が違い気になる所である。

大友家からすれば鉄砲伝来については重大事項では無く、国崩しの命名の方に関心がある。
大友家は長く続き(江戸時代は高家旗本)、大友家の記録事項は数多く残っているので『鉄炮記』を『パクる』必要性は少ないと思われる。
『豊筑乱記(昭和13年発行)』の底本が不明なので、他の記録事項との突合せも必要であるが・・・。
0504S字型金具2010/10/27(水) 01:11:42ID:WUWjhNpm
大友家の「鉄炮伝来記」H

『豊筑乱記(九艘唐船之事)』または『この地域に流布していた鉄砲伝来の伝承』が『南浦文集(鉄炮記)』に『パクられた』可能性は高い。
両記録で問題となる個所は
@享禄三庚寅年夏の頃・豊後臼杵に着岸 → 天文癸卯八月二十五丁酉・わが西村の小浦に一の大船あり
A三官(儒学の大明人) → 五峯(大明の儒生)
B保首座(禅僧の出家) → 忠首座(禅を改めて法華の徒となる、号して住乗院という)
C異国人 → 買胡の長二人あり、一を牟良叔舎といい、一を喜利志多佗孟太という
D其底は厳敷く塞ぎ堅めて → その底は密塞を要とす
であり、『鉄炮記』より「織部丞」・「時尭」・「蛮種」等の『曰く』個所を削除してみると両記述内容は非常によく似ているので、『パクッた』後に『曰くの個所を付け加えた』と思われても止むを得ない。

『鉄炮記』が「三官」を「五峯」と書かなかったら、国立歴史民俗博物館の「鉄砲伝来倭寇説」は根底から崩れ去り、『抗倭図巻』の疑問も解消する。 >>425 >>441
『鉄炮記』が「保首座」を「忠首座(住乗院)」と書かなかったら、井沢元彦さんの「織田信長の本能寺煙硝ルート」は無い。 >>451
『九艘唐船之事』の異国人は、「ポルトガル人」の可能性が高いが、「南蛮国からの鉄砲伝来年月」の特定ができない。
Dは鉄砲の尾栓ねじが絶対必要条件でないことを記している。 >>458

「世界銃砲史(上)」で岩堂憲人さんは、P128で次のように書いている。
『日本側にはこれ以上の史料は見当らないし,また事件後60年余といえば,さして長期でもない。
当時としても鉄砲の伝来というのは大事件だったろうから、文之が鉄砲記を編纂するに当っては、「種子島家譜」以外にも、今日では散逸している確実な史料を駆使したことが考えられる。
それゆえに、「鉄砲記」を日本側のもっとも確とした史料として扱うのに不都合はないものとしてよいだろう。』

しかし、『鉄炮記』の『即遣津田監物丞持以贈其一於杉坊矣』の記述は明らかにおかしい。
『鉄炮記』の『この時において、紀州根来寺に杉坊某公という者あり、千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す(中略)。その後、和泉堺に橘屋又三郎という者あり、商客の徒なり、(中略)。船中にわが僕臣松下五郎三郎という者あり、手に鉄炮を携えて、(後略)。』
これらも『パクッた』記述ではなかろうか。

私は、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方なので、日本の銃砲史・技術史をいい加減な物にしたくない。
0505人間七七四年2010/10/28(木) 02:17:38ID:iV0wB1K+
レス番号が盛大に飛ぶなあw
まだ繰り返してんのかキチガイ
0506人間七七四年2010/10/30(土) 23:25:48ID:qIp+U5pi
もうこのスレこいつにやって新スレ立てた方がよくね?
0507人間七七四年2010/11/03(水) 00:45:33ID:/MYolesd
火縄銃だけのスレにする?
それとも大砲スレも落ちちゃったし、大砲や焙烙玉、棒火矢なども含めた火器総合スレにする?
0508人間七七四年2010/11/03(水) 14:52:18ID:ApeJkgSy
当時は火器の区分も曖昧みたいだし
全部一緒でいいべ
0509S字型金具2010/11/10(水) 00:48:42ID:KojOOsib
徳永家の「鉄炮伝来記」@

徳永氏は、種子島家初代信基の種子島入部に同行して以来の家臣としている。
その徳永氏の家系図、「徳永祐家」の欄に鉄砲伝来の記述がある。『』内はその読み下し文である。

祐家、大八。大永元年辛巳生母氏不詳。為側用人。天文十二年癸卯八月二十六日。南蛮船来于西之村海浜。適祐家展祖先廟在于西之村。
『祐家、大八。大永元年辛巳生まれ。母、氏不詳。側用人と為る。天文十二年癸卯八月二十六日、南蛮船西之村海浜にゆく。たまたま祐家、祖先の廟を展みて西之村に在り。』

祐家与地頭西村織部丞及村松七郎朝光欲乗南蛮船。々中有声。其響如雷。衆驚愕。
『祐家と地頭西村織部丞及び村松七郎朝光、南蛮船に乗らんと欲す。船中より声有り。其の響は雷の如く、衆驚愕す。』

即贈書曰。何故到此地乎。欲以兵仇我乎。然則吾亦当待以兵也。報書曰。我輩通商也。欲航某国洋中遇颱遂漂着于貴地。非敢仇也。
『即ち書を贈りて曰く。何故に此の地に到るや、兵を以て我を仇せんと欲するか。然れば則ち吾亦当に兵を以て待つべき也と。書を報じて曰く、我輩は商に通う也。某国に航せんと欲し、洋中颱に遇い貴地に漂着を遂ぐ。敢えて仇するに非らざる也。』

即贈鉄砲三挺以示信。三人大喜持到城府献時尭公。公愛賞之。吾国鉄砲之権輿也。
『即ち鉄砲三挺を贈り以て信を示す。三人、大いに喜び、城府に持ち到り時尭公に献ず。公之を愛賞す。吾国鉄砲の権輿也』

「鉄炮記」は主君の種子島時尭を顕彰する目的で書かれた文書である。
「徳永氏系図」の成立時期は不明であるが、その当時の種子島氏の家臣である「徳永祐家」の欄は、明らかに「鉄炮記」と異なった鉄砲伝来記述となっており、「贈鉄砲三挺・献時尭公」となっている。
このような由緒書きが、種子島家中で黙認されていたものであろうか。
それも、家臣の西村、村松をも含めて書く必要性があったものだろうか。
そもそも「鉄炮記」に、出典として「我嘗聞之於故老曰」とか「鶴髪之翁。猶有明記之者矣」と明記して書くことは、記録が無い(検証ができない)ことを意味しているのではなかろうか。
この家系図の記載から南蛮船にはポルトガル人の乗船が確認できず、また、国立歴史民俗博物館の「鉄砲伝来倭寇説」の根拠となる「五峰」の記載も無い。
0510人間七七四年2010/11/10(水) 04:51:03ID:fqO7/fWX
>>508
立てたよ〜

☆☆☆火縄銃・大砲について語ろう☆☆☆
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289332220/
0511S字型金具2010/11/18(木) 21:37:14ID:iZ/VFald
徳永家の「鉄炮伝来記」A

南蛮船から鉄砲三挺を貰った、あと二人の家系図を見ると、

村松七郎朝光の系図は
『村松家系図』朝光
天文十二年癸卯八月二十五日南蛮船之至也、朝光適在西之村、乃就誥其来到之由、蛮人以非敢為冦者、答且請献鳥銃、朝光喜急馳使報之島主時尭公、公受而試之、其用甚利、於是大賞朝光処分称♂]、
『村松家文書』治承前家改俗相伝記
(前略)七郎朝光、文禄四年卒ス、法名太源院良遠ト号、此七郎ハ文武二道ニ達、知謀有ル人、時ニ天文十二年癸卯八月廿五日南蛮人ノ船西ノ村之濱来著ス、其時七郎西ノ村ニ有合南蛮人ニ逢度ト思イ、彼ノ船ニ趣キシ処ニ、鉄炮ヲ打懸ケ其音雷ノ如ク、
七郎大キニ驚一通書南蛮人ニ被遣、其ノ文ニ曰其方風不順吹流此地ニ漂著有哉ト、存処武具ヲ用兵船ト相見エ謀叛人之於輩ニ者、是非此方モ軍勢ヲ催集一戦ヲ可致返答如何、承度候謹言、
南蛮人エ城ノ七郎朝光ト書送リ、南蛮人返答ニ曰、我等謀叛人不有(アラス)、商売之望売物積風天ニ有テ出帆ス、天俄ニ逆風吹来遠海長洋中流不順甚成テ当地漂著喜悦候、無謀叛之証拠、
鉄炮ヲ国主エ奉謹上降人ニ参候ト返事仕テ、鉄炮ノカラクリヲ馳テ持来リ、七郎ハ大キニ?ヒ急キ城下ニ致通達、諸士頭衆被差越、鉄炮御受納有テ御家御宝物ト成、角テ種子嶋鍛治鉄炮作事伝受仕テ、日本之鉄炮ノ初リ者種子嶋ト云伝エ珎敷事共也、(中略)
慶長三年戌四月五日  平 時信花押

地頭西村織部丞の系図は
時貫、織部丞。
○天文十二年癸卯三月廿三日奉従直時君内城有軍功
○同八月日廿三日西村浦着岸一大船、船客其形而異言不通、見者怪之、時貫以杖書沙上云、不知何国人乎、客即書云、是西南蛮種之賈胡也、勿怪矣、時貫速遣人告恵時君(御居城赤尾木西村行程十三里)
乃僉津々浦々遣扁舟拏之、入赤尾木津而滞在於此逾月、是船客之内有手携一物者、名鉄砲、時尭君其体無比物問其用道、客答云、用於世者可勝、故○公?学之、我亦声薀奥以告焉、時尭君欣然聞其薀奥矣、時貫亦放之、是我朝鉄砲之権輿攷、

『種子島家譜』の明治11年(1878)2月15日の記事に、
○西村時彦、鉄胞一挺を献ず、初め天文十二年、南蛮人鳥銃を法性公に献ずる也、時彦の遠祖西村織部正(丞)も亦一挺を獲たり、去歳の戦いに公室の蔵する所は兵火のために焼かれる。時彦之を聞き、乃ち己が家に蔵する所を献ず。

三人とも、主君の種子島時尭を顕彰する目的で書かれた「鉄炮記」と内容が異なる。
このような由緒書きが、種子島家中で黙認されていたものであろうか。
また、種子島家中では鉄砲を『種子島』ではなく、『鳥銃』と呼んでいた。
0512人間七七四年2010/11/25(木) 15:19:31ID:jW4xaQYN
新スレ落ちたな・・・
0513人間七七四年2010/11/25(木) 17:52:21ID:h67I64k2
意外と簡単に落ちるもんなんだな
保守しておけばよかった
0514S字型金具2010/11/26(金) 00:38:03ID:9MATwgcj
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考える@

日本に火縄銃が伝来したとすると、『その銃が何処で製作されたものか』が気になる。
初伝銃の製作地については、ヨーロッパ・ポルトガル・インド・ゴア・東南アジア・マラッカなど色々と言われて来た。
近年紹介されたマラッカ説でも、その内容は以下の記述のように甚だ曖昧で根拠に乏しい。
『ここにおいて天文十二年に種子島に伝来した銃は「種子島記」ならびに定堅作の模製銃によってその形態を知ることができ、またその製作地は、ヨーロッパでもトルコでもなく、
ポルトガルのアジア基地のいずれかであって、多くの資料によって論ぜられた伝来時のいきさつから考えればマラッカがそれであるとするのが至当であろうと思われる(火縄銃・所荘吉)』
また、その後の伝来・渡来についても曖昧で、鉄砲史・技術史として不完全である。
倭寇説(真説鉄砲伝来)では「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」としているが、その説の根拠については理解しがたい。(戦国期の火縄銃についての疑問C >>327 以下のシリーズ)
国立歴史民族博物館でも、東南アジアの何処か(特定していない)で火縄銃の進歩・発達・改良があり、そこで製作され渡来した火縄銃が南蛮筒であり、その南蛮筒を真似して日本で製作したものが異風筒としている。
したがって倭寇説では、江戸初期までは日本に南蛮筒・異風筒以外の火縄銃が存在しないことにしているが、なぜかそれ以外の多量の鉄砲の存在をも認める記述をしていて矛盾している。  >>340

今までの製作地の推定では、東南アジア地域に極少数残存している火縄銃で比較検討をしているが、その記録も無く、呼称も判らなく、年代も判らない銃、19世紀の火縄銃で論じられている。
東南アジア地域を含めて、慶長年間以前の火縄銃の残存は極めて少なく、日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃であり、新城市宗堅寺の『信玄砲』は説明の付かない銃身である。
現物資料が出てくる江戸初期になると、日本の火縄銃の優秀性が理解されるが、それまでの間は不明なことが多く、火縄銃の進歩・発達・改良はどうであったろうか?
戦場・城郭の発掘調査で火縄銃の部品・弾丸が出土している現実がある。この部品類をも考慮に入れて伝来論を考察しなければならないと思う。
0515S字型金具2010/12/03(金) 00:04:52ID:xQelSgTZ
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるA

江戸時代前期まで、日本が武器輸出国であったことはあまり知られていない。
私は「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」と見ているので、いずれの製作推定地説も承服しがたく、日本から輸出した火縄銃をも考慮に入れて、伝来論を考察しなければならないと思う。

江戸幕府の鎖国体制が完成したのは1641年(寛永18年)であるが、それまでに幕府は2回も武器輸出禁止令を出しており、その当時の武器装備状況などから、日本が火縄銃を含む武器輸出国であったとみなしても良いだろう。

@元和7年7月27日(1621年)『幕府、豊前小倉城主細川忠利・肥前平戸城主松浦隆信・同大村城主大村純信等に令して、外国人の、邦人を買取、渡航せしめ、又武器を購入、搬出し、更に洋中に於て、賊をなすを制止せしむ、』
A寛永11年5月29日(1634年)『幕府、薩摩鹿児島城主島津家久・肥前大村城主大村純信・同国福江邑主五島盛利等をして、耶蘇会宣教師の上陸・邦人の渡航及び外人への武器販売を禁ぜしむ、』

2回も武器輸出禁止令が出されたことは、海外に日本の武器が大量に輸出されていたことと、なぜ武器輸出を禁止するのかも理解しなければならない。
東南アジア各地や各国の東インド会社商館において傭兵として多くの日本人が海外で雇われ、「邦人買取」項目は「日本人の傭兵」をも意味し、当時の「日本人傭兵」は戦国時代も終わり、火縄銃をも持つ戦争慣れした戦闘集団である。
大坂の役(慶長19年〜慶長20年・1615年)で天下統一となってから多くの浪人が発生し、彼らが傭兵となって海外で活躍した。ピーター・ウォーレン・シンガーによると、イギリス東インド会社の例では、傭兵の半数は日本人であったとしている。

鎖国について、次のような見方もある。
『単純にキリスト教流入の阻止だけが目的ではなく、貿易の覇権を求めた闘争の禁止と日本への波及の阻止、
そして日本から海外に武器と武人が輸出されることで、海外における武力紛争に日本人が巻き込まれ、それが日本に波及することで、貿易が阻害されたりすることを恐れてのものでもあったのだ。』
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-15.htm
0516人間七七四年2010/12/04(土) 19:51:13ID:a9JXCk93
実射実験のDVD付き
けっこう迫力あった……が、音はよく空砲でやってる時代祭のほうが
すごいような。火薬の量の違いか?

http://www.yosensha.co.jp/book/b75914.html
0517S字型金具2010/12/05(日) 00:42:31ID:qKzVk9TI
>>516
『歴史REAL vol.1、中身を少しだけご紹介!』を見た感じでは、戦国合戦を科学するといいながら、いい加減なことが書かれている。
「検証2」の三段一斉射撃の可能性の検証は、『戦国時代においては、一発目を発射したあと、次の玉込めを早めるために、火薬と弾丸を一セットにした小道具である早合が使用された。本誌でも同様の手続きで試みる。』という前提で実弾の反復射撃実験を行っている。

なぜ『戦国時代に早合が使用された』と断定して、鉛弾でのみ実験を行っている根拠が判らない。
所荘吉著・火縄銃に次の様に書かれている。
『このようにして作られた火薬も、銃腔内に充填された状態、すなわち棚杖によって圧された度合等、名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が完全に満足されたとき、始めて発射薬としての力を十二分に発揮する事ができるのである。
しかし吸湿性の塩類を含有した黒色火薬に対し、常に最高の状態を求めるのは不可能である。この事は初期の砲術家による経験によっても知られ、春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになっている。』

火縄銃用の黒色火薬に吸湿性があることは周知のとおりであり、戦国時代でも条件により配合比率を変えており、あらかじめ誰が火薬と弾を装填して早合を準備したのであろうか。
戦国時代では、早合で発射の最高の状態を維持することは困難であり、早合は江戸時代の非実戦用の物ではなかろうか。

実験は現代の黒色火薬で行っているが、当時の黒色火薬の燃えかす量はどの位であったろうか。 >>308   >>309   >>310
要するに、連発は何発まで可能であって、その結果によって三段一斉射撃の可能性を考える必要がある。江戸時代の文献では『鉄砲玉五つ六つ放せば火薬筒の中に焼け付きて玉込澁りて玉入り難し』と書いてある。

90ページの『戦国合戦・戦国の城を往く』で史跡八王子城を紹介しているが、この城は天正18年(1590年)6月23日にわずか半日で落城してしまった山城で、この城跡から鉛製の銃弾は1点も出土していない。
出土した銃弾は銅製が34点、鉄製が453点であり、素焼の土玉(私は銃弾と見た?)も検出個体として163点出土している。
このことは、戦国時代の火縄銃の弾は鉛とは限らないことを証明している。
また、この本、114ページ『鉄砲玉の原産地はタイのソントー鉱山だった』は早合点であり、鉄砲の弾丸がタイの鉱山の鉛でなくてもよいことを証明している。

本文は読んでいないが、その他、火縄の種類、火縄銃など、戦国時代の実験再現方法の前提に問題がある。
0518人間七七四年2010/12/05(日) 09:53:13ID:LiHwvEN5
これは久しぶりにいいレス
0519人間七七四年2010/12/06(月) 08:43:14ID:miT6Uh07
>本文は読んでいないが

ワロタ、つーか椅子から滑り落ちかけたぞ
0520S字型金具2010/12/06(月) 22:07:39ID:mxBABFqa
>>517 は以下の抜粋した部分が公開されているので、其処だけを指摘した。
>『歴史REAL vol.1、中身を少しだけご紹介!』 http://stand.honzuki.jp/9784862486394/_SWF_Window.html

>>516 「歴史REAL vol.1、特集、戦国合戦を科学する」は本体838円+税で、永久保存版という触れ込みである。
抜粋個所以外の本文もいい加減なことが書いてあったので、追加の指摘をする。

特別付録DVDのタイトルは「戦国鉄砲・実弾発射」となっているが、死闘を演じる戦国時代の再現とするには迫力もなくて程遠く、噛まし布(パッチ)や鉄のカルカなど時代錯誤のある実弾発射であったが、それなりに興味ある映像もあった。
発射映像では、火鋏から火の付いた火縄が外れたのは1回であったが、火鋏の形状、火縄の種類・長さにより外れる(飛ばされる)ことはよく生じるのか?
フロイスは「われわれの間では兵士たちは左腕に火縄を持ち運ぶ。日本人は右手に持ち運ぶ」「われわれの火縄は紡糸でできている。彼らのは紙または竹の皮でできている」と書いている。
戦国時代の火縄銃の再現には、紡糸でない(縄ではない?)当時の日本式の火縄で着火させ、火縄の火は消えるか、材質、長さによりどのくらい飛ぶのか、火持ちなど興味が尽きない。
火縄の状態によって、連射時間間隔に差がでると思うが?
映像より、発射時に火花が広がって出てくるのは解ったが、風が吹いている時には非常に危険な状態に陥ることも解った。
実験での火縄銃の口径と装薬量ははっきり判らなかったが、16世紀、西洋・倭寇の鳥銃(火縄銃)は、8分の鉛弾(直径8ミリ、3g)を1匁(3.8g)の黒色火薬で飛ばしたようで、戦国時代の日本の火縄銃は如何であったろうか。 >>308
本誌では「思っている以上に鉄砲の総合評価は低い」とし、
「したがって鉄砲の登場は、従来の弓矢が鉄砲に置き換えられたというにすぎない(しかも全部ではない)。武器としての総合評価は、前述の革新性を含めて考えても小さくならざるをえないのである」と書いているが、はたしてそうであろうか?
戦国末期の鉄砲装備率は高く、確かに黒色火薬は湿度に弱いが、打たれる側から見ると音速で飛んで恐怖を覚える武器であり( >>320 )、防御用としては最適な武器であると思うのだが?

P114、「鉄砲玉の原産地はタイのソントー鉱山だった!」は、戦国時代末期から江戸時代初期の約50〜60年ほどの時期のことで、鉄砲伝来当時のことではなく、非常に紛らわしいタイトルである。
当時は塩硝(硝石)もタイ国から輸入しており、天下統一後には塩硝(硝石)が余り、逆に東南アジアに輸出している。
0521S字型金具2010/12/10(金) 20:53:12ID:tEglVc5O
>>516  歴史REAL vol.1、第一部 戦国のリアルを科学する!鉄砲・弓の真の威力、「検証5 戦国合戦の主力武器・弓矢の飛距離、速度、その構造を明らかにする」となっている。

しかし、この本では威力実験を行わずに道具の紹介で終わっており、科学的な検証になっていない。
このような書籍は根拠が曖昧で、戦国時代の「弓矢」にあった鍛錬・訓練は当然必要であり、「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」と書いて記述全体を誤魔化している。
385.4メートルと長い飛距離を書いているが、これは18gの特製の軽い矢を使ったもので戦国時代の矢とはまったく異なるものであり、少なくとも戦国時代の矢を再現した上で、風向、風力、湿度などの影響を調べ、武器としての弓を明らかにすることが必要ではなかろうか。
「弓」の記述は、『019ページの「結局のところ鉄砲は、弓より総合力はやや低い」の拠り所のために書いた』と勘繰られる内容である。

036ページに、鈴木眞哉氏が「軍忠状」を集計した負傷要因と比率を紹介しており、171年間の史料142点(0.8点/年)、負傷者1567人(9.2人/年)と年間例数が少ない史料からであるが、『石・礫疵が12.4%』と書かれている。
この集計について、『戦国時代を勝ち抜いた者の家に残る記録』、『初戦の制圧戦で負傷して戦列を退いた原因の統計に過ぎない』など、『軍忠状に現れた結果は著しく偏向したものだ』と批判する人もいる。
また、「注進状」ともなると、負傷者15人全員が「石疵」となって書かれた物もあり、戦国時代の様相を調べる手法としての「軍忠状」は、注意を要する。
「石・礫疵」の負傷比率は高く、山城攻撃の際には投石・落石などによる負傷は多かったと思われるが、平地での戦いには笠などの防具を着用しているので、軍忠状に現れるような「石・礫疵」は少ないと思われる。

そこで、日本各地での「土弾・素焼弾」の出土品や、「石銃」「団子銃」「手火矢」など「鉄砲」以外の記述もあり、「軍忠状」の「石・礫疵」にこの火器(鉄砲?)による負傷も考えられるのではないだろか?
自分が火器を持っていない、其の名を知らなかった場合は、負傷要因に「石・礫疵」と書いた物もあったのではないだろうか?
また、「伝来当時の鉄砲は高価であった」と曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく書かれているが、猟師の軍用以外の記録(永禄3年)があり、なぜ猟師が弓矢の他に鉄砲を所持できたかも考える必要がある。
0522人間七七四年2010/12/10(金) 21:04:36ID:HloUx1ZN
>>521
>「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」

これ近藤好和の言葉だろ?
なぜか2chではあの人の信者結構多いけど
基本的にこの人の書いてるものメチャクチャだよねw
「命懸けの戦いのために修練を積んでいた武士ならできたはずだ!」とかそんな記述ばっかり。
「弓矢と刀剣」も「騎兵と歩兵の中世史」ももちろんのこと、
「人類にとって戦争とは」や、民俗博物館の近藤担当スペースも全部そう。
彼にとっての「武士」ってドラゴンボールや北斗の拳のキャラと変わらないスーパーマンだしな。

それから、近藤批判を無理に鈴木批判につなげるなよw
この二人全く別物だから。
0523人間七七四年2010/12/12(日) 13:59:32ID:BOruVDhl
というよりな、S字金具さん。
皆が迷惑だといっているのに、平然と居座ってシリーズものの連レスを続けるのは良くないよ。
もともとそういうスレじゃないし、
住人が困って避難スレまで立てるに及んでいるんだよ。

もし俺であれば、困らせたことは謝り、専用スレを立てるか自分のHPを作ってそこで自説を披露するよ。
0524人間七七四年2010/12/12(日) 18:04:14ID:rrpuB5Pt
>>523

禿同だ。私物化すんなs痔
0525人間七七四年2010/12/12(日) 21:20:59ID:ZjJ2J/np
俺はもう諦めたがな。

キ印になに言っても無駄
スルーするしかないんだよ
0526人間七七四年2010/12/13(月) 03:19:13ID:qBpmnI+c
と言って立てた別スレ速攻で落ちたやんw
0527人間七七四年2010/12/13(月) 06:56:56ID:Z91s89rY
>>526
そりゃもともとレスの多い話題じゃないからね。
こんなことが起きているんだし、S字金具氏も何かレスポンス返していいんじゃないの?
最初は問題なかったけど。長文連載はじめてから妙になっていったなあ。
0528人間七七四年2010/12/13(月) 13:52:31ID:2vGCaAzy
黙らぬならころ…NGにしよう、S字金具

織田信長
0529人間七七四年2010/12/13(月) 17:11:03ID:gxD+74Og
とりあえず、何故ブログじゃなくてここで書かなきゃいけないのか、理由が知りたい所。
0530人間七七四年2010/12/13(月) 19:26:27ID:HlHDq8Dp
集客がめんどいんじゃないのw
2chなら過疎板でもそれなりに人いるからね
0531S字型金具2010/12/17(金) 00:41:35ID:MSwNZJpc
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるB

その他、日本から鉄砲を輸出した記事がある。

メンデス・ピント著「東洋遍歴記・岡村多希子訳」で日本人の気質について、『この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。彼らは、既知の他のいずれの国民よりもそれに楽しみを見出しているのである』と書いている。
( 我が国固有の文化への鋭い指摘であり、それは現代にも通じている。 http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1221013.htm )

そして、その気質を紹介する意味で、
『(前略)1556年(弘治2年)に、日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった。そして、この物がそんなにひどく殖えるなどということはあり得ないように思われたので、私がこれにたいそう驚いたところ、
信頼し得る立派な人である数人の商人が言い、また多くの言葉をもって断言したことには、日本全島で三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも、六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行ったということである(後略)』と書いている。
この中で、「日本に大量の鉄砲の存在」「琉球を介して火縄銃を輸出」など無視できない記述がある。 >>452
メンデス・ピントの「東洋遍歴記」には記載内容に問題点のある記述もあるが、全部が全部嘘とは言えない所があり、最近再検討されるようになって来ている。

原本未確認ではあるが、的場節子著「ジパングと日本」に以下の記述がある。
『一五八九年五月二十日付けで、マニラ総督府審議会が作成した武装蜂起首謀者による供述書には、一五八八年十月二十日の蜂起発覚数日前に、イスラム系原住民首領が、ボルネオ王に火縄銃などの日本の武器を送り届けたとある。
この事実は、前年に続く日本船による武器輸送を意味するもので、ルソン金と日本製武器との交易が生き続けていたことを示す。
ところがついに、吉近と原住民ドン・アグスティンとの間の密約発覚をきっかけとして、ゴーレス交易以来の原住民に対する日本の武器輸出は終焉へと向かう。そして、その後の刀剣搭載船の取引相手は、マニラ総督府に取って代わるのであった。』

この武装蜂起失敗の一因は日本人にあったようで、日本人は航海が不慣れのため(倭寇征伐により航海する機会が減ったため)バックアップ要員が送れず、結果として未遂になったようである。
0532人間七七四年2010/12/17(金) 20:05:14ID:53QhON30
まあキチガイに何言っても無駄ってことだよね
0533人間七七四年2010/12/17(金) 20:15:13ID:AlcsiFux
ブログにでも書いてろ キチガイS字型金具
0534人間七七四年2010/12/18(土) 02:36:40ID:kAcqvuCu
鉄砲組って一斉射してたのか個別射撃してたのか。

音が半端ないからやっぱ一斉射かな。
足軽投入時に射撃中止の命令聞こえなかったらまずいし。
0535人間七七四年2010/12/18(土) 20:34:51ID:MGce7drF
まあ「鉄砲組」が組織されたのは戦国末期だからな。
その頃には少なくとも最初の2,3発は斉射してたんじゃね?
その後は足軽の再装填技量に大きく左右されて個別射撃だろうけどね。
0536人間七七四年2010/12/19(日) 04:56:16ID:7Bbd7dzs
その後は、って…2〜3発も撃ったら普通、敵がすぐ目の前まで来てるんじゃね?
その前に撃ち方止め→長柄などの白兵戦力を前に出して迎撃、だと思うぞ。
実際信長は長篠でそうしてる。
柵なんかの防御陣地があっても鉄砲組だけで敵の突撃を抑えきれるわけがないし、
白兵戦力を投入すれば同士討ちの危険があるので鉄砲は撃てない。
>>534の言うように指揮統制の問題からも個別射撃はないと思うよ。
0537人間七七四年2010/12/19(日) 06:37:04ID:dWAXYZhi
>>536
日本の伝統的な合戦手順は
1.射撃武器による攻撃
2.射撃によって敵の陣形が崩れたら、白兵攻撃
の手順。
射撃は、歩兵の攻撃の準備攻撃でもある。
相手が崩れてないのに、長柄の投入は損害が大きすぎる。
だから
>…2〜3発も撃ったら普通、敵がすぐ目の前まで来てるんじゃね?
は、かなり特殊な状況といえる。
鉄砲隊の攻撃力が低すぎて、長柄の衝撃力を押さえ込めなかったって事だし
長篠ではそんな感じだったんだろう。

実際、日本の鉄砲隊の訓練は個人技の狙撃が多い。狙撃による被害も多い。
一斉射撃による弾幕をはっても、日本の隊列は密集陣じゃないんであまり効果がないんだ。
0538人間七七四年2010/12/19(日) 07:31:29ID:7Bbd7dzs
>>537
一斉射撃がただの弾幕とは限らんのでは?
狙撃重視での一斉射撃もありうるわけで…。

つか突撃してくる敵を、有効射程距離…
すなわちたかだか100〜200m程度の距離内で崩すことなんてできるかなあ?
相当な連射速度と鉄砲の数が必要だと思うけど。

まあ仮に崩すことができたとしても、各自好きなタイミングでバラバラに狙撃してたんじゃ、
ひっきりなしに続く轟音にかき消されて射撃中止の合図に気付くのが遅れる危険性がないか?
そうすれば同士討ちの危険から迂闊に白兵戦力を前に出すことはできず、
追撃の機会を失うと思うんだが。

>射撃は、歩兵の攻撃の準備攻撃でもある。
だったら敵の何割か何分かを削るだけでも十分な効果があると思う。
その分、味方歩兵が有利に戦えるんだし。
0539人間七七四年2010/12/19(日) 07:43:52ID:r/Rsa8lz
>>537の言う通りだな〜

付け加えていうと、天正三年の長篠の段階で鉄砲衆や長柄組がどれほど組織化されていたかはよく分からない。
軍役で集められたのと同じ戦闘単位で、騎乗の侍が長柄や鉄砲を従えてめいめい戦っていた可能性も大いにある。
25年後の関ヶ原、40年後の大坂の陣ではかなりの程度、鑓や鉄砲を集めての組織化が行われてたようだけどね。

まあ、俗説では織田軍は組織化されてたように言われてるが、何の根拠もないんだよね。
織田の軍役の実態がほとんど何も分かってないし。
鉄砲の装備率が高かったのかどうかも分からん。
0540人間七七四年2010/12/19(日) 11:00:47ID:dWAXYZhi
>一斉射撃がただの弾幕とは限らんのでは?
>狙撃重視での一斉射撃もありうるわけで…。
Boy、それは集団による各個射撃であって、一斉射撃ではない。
そして、こちらは狙撃を否定していない。ok?

>つか突撃してくる敵を、有効射程距離…
>すなわちたかだか100〜200m程度の距離内で崩すことなんてできるかなあ?
>相当な連射速度と鉄砲の数が必要だと思うけど。
鉄砲以前は弓でやっていた。弓で崩れるものが鉄砲では無理という事はない。
陣が崩れず、矢も尽きると、後日に仕切りなおす例も存在する。
あと、崩れる主原因は物理的ダメージではなく、心理的ダメージによる。

>まあ仮に崩すことができたとしても、各自好きなタイミングでバラバラに狙撃してたんじゃ、
>ひっきりなしに続く轟音にかき消されて射撃中止の合図に気付くのが遅れる危険性がないか?
10人未満の番ごとに小頭が付き、数番からなる組を組頭が指揮する。
指揮系統に問題が発生する事はない。そもそも鉄砲や弓は技能職であり、常雇いが普通で訓練が行き届いている。
そんなドジは踏まない。

>だったら敵の何割か何分かを削るだけでも十分な効果があると思う。
戦争では何人殺したかではなく、いかに士気をくじいたかが重要。
損害が軽微でも士気崩壊した敵に攻撃を加えれば大損害を与えられる。
損害が重度でも士気が維持されている敵に攻撃を仕掛ければ、負ける可能性がある。
0541人間七七四年2010/12/20(月) 00:28:25ID:B/aJj5uQ
>>539
同時代の北条は兵科ごとの編成だったみたいだよ。

> 244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 03:33:28 ID:Q06NYw8U
>>243
> 1577年に北条氏直が岩付衆にあてた御朱印状だね。歴史群像アーカイブにも載ってたな。

> このとき宮城四郎兵衛個人に届いた着到状では、
> 騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人連れて来い、と動員が割り当てられてるんだが、
> 備を編成する段階では、武田氏と同様に一旦バラバラに解体され
> 槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。
0542人間七七四年2010/12/20(月) 00:31:31ID:B/aJj5uQ
>>537
長柄組は互いの肩が触れるくらいの間隔で横隊を組んでたよ。
0543人間七七四年2010/12/20(月) 02:02:51ID:8QIMUW8i
>長柄組は互いの肩が触れるくらいの間隔で横隊を組んでたよ。
申し訳ないがソースを
時と場合に応じて密度を変化させるのが基本だが、こんなに密集しては満足に動く事が出来ない。
20人ほどの横隊を戦闘機動させることを考えてみるといい。
同時代の密集方陣のテルシオでさえそんなに密集しない。

まぁ、普通に整列となるとそんな形になるが、実戦でのソースが欲しいな。
0544人間七七四年2010/12/20(月) 02:49:59ID:8QIMUW8i
> 槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。

こいつの具体的な編成も知りたい。
武田は寄親・寄子制がベースで、これに足軽を組み合わせて備を編成した。
足軽は地縁血縁による上下関係から外れた大名直属の兵だったんだ。
これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
0545人間七七四年2010/12/20(月) 06:05:22ID:RBboo+6w
横槍でスマンが、オレはむしろ
>武田は寄親・寄子制がベースで、これに足軽を組み合わせて備を編成した。
>足軽は地縁血縁による上下関係から外れた大名直属の兵だったんだ。
>これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
こっちのソースの方が知りたいぞ。

長柄組に関しては「肩が触れるくらいに」かどうかはさておき、
ある程度密集しないと長柄の持ち味が活かせないだろうとは思う。
散開して行動するなら長い槍は簡単に懐にもぐりこまれて意味ないだろうし、
振り回したら味方に当たったりもするだろうしなあ。
0546人間七七四年2010/12/20(月) 10:15:16ID:8QIMUW8i
>>545
おおすまん。こちらのページがよく調べてある。
ttp://kagiya.rakurakuhp.net/i_684871.htm

>ある程度密集しないと長柄の持ち味が活かせないだろうとは思う。
答えはこれ。
>時と場合に応じて密度を変化させるのが基本だが、

 槍兵の展開は相手の隊列に合わせて展開するのが、古今東西の槍兵の基本なんだ。
相手より密集していれば攻撃力は上がるが、横から回りこまれる。
 逆に相手より広がっていると攻撃力が下がるので、突破されやすくなる。
相手と自分の兵力、展開している地形、各種状況によって密度を調整するものなんだ。
 で、世界的に見ると日本の槍兵の横陣は密度か低い類なんだな。
日本の地形は開けたところでも樹木が多く、密集していると移動時に陣が乱れてしまう所に起因していると思う。
 これは西洋でも同様で、指揮官はその場の状況に応じて、密度を決めている。
0547人間七七四年2010/12/20(月) 13:37:04ID:B/aJj5uQ
>>546
日本の場合は備の二列目より後ろに、横を向いた長柄や徒士の縦列が配置されることが多いように思う。
0548人間七七四年2010/12/20(月) 14:01:02ID:B/aJj5uQ
>>546
>>541はこのスレからの引用なので、ここから聞いてみて・・・
戦国時代における騎馬武者の実像とは
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245948808/

暗黒期を除く西洋に関して言えば、数kmに渡って隙間を空けないよう戦列を展開するから、
戦列の両端の大隊以外は、横の防御をあまり心配しなくていいようにしてるね。
それでもマケドニアファランクスでは横や後方防御用に予備大隊を用意しているな。

もしくはテルシオのように四方から攻撃されてもいいように方陣化するか。
ただこれは側・後面に余計な戦力を割くため、正面戦力が低下する。
0549人間七七四年2010/12/20(月) 16:06:09ID:RBboo+6w
>>546
読んだけど、想像の域を出ない部分が多いね。
既定事実として語られても困る。
0550人間七七四年2010/12/20(月) 19:03:41ID:/+NExu49
横スレだが、長柄槍の密集(穂先を一本に束ねる)という戦術が、
勝海舟の「氷川清談」に、「合理的な方法で西洋兵術を学んだ俺にも納得がいった」
と、記述がある。これ、八王子千人同心(武田家臣団の末裔)の集団槍術訓練を
評してのもの。つまり、千人同心には武田流の槍衾が伝承されていたという話。
0551人間七七四年2010/12/20(月) 19:12:11ID:gL03Uorg
>>549
判りやすくピックアップするとこれだな。
>武田家の場合、その軍役衆は大名(武田氏)直接の被官であり、
>家臣(寄親および寄子)に預けられる形であり、彼らを指揮する領主とは御恩奉公に関係しない。

これを元に件の章は仮説を立てている。想像と仮説は違うよ。
あとは個人の評価だな。君の評価を私は否定しないよ。
0552人間七七四年2010/12/20(月) 21:19:37ID:RBboo+6w
>>551
ん?キミはID:8QIMUW8iかい?

あのサイトの仮説に特別ケチをつける気はないが、
>>544の断定的な意見がちょいと気になったもんでね。
「〜と考えられる」「〜と思う」がついてりゃいいんだけど、
さも見てきたように言い切ってるから「困る」と言ったんだよ。

>これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
ここはもろそのサイトの仮説部分だしね。
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