▼火縄銃について語ろう▲
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDMどのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0553人間七七四年
2010/12/21(火) 00:21:56ID:5P2DmDpx一斉射撃についてルイス・フロイスが1584年に薩摩で見聞した記録がある。
直訳された文章の抜粋で判りにくいが、この事例では槍や弓矢の運用についても記録しているので、戦国時代の実戦を知ることができる。
ドン・プロタジョは山上に留る能はず、また旧位置に引返すことも困難であるを見て徐々下山し、敵の銃撃の大部分を受くべき所に到った。
この間に隆信の軍は非常な勢で月の形になって進撃し、中務とドン・プロタジョの陣を包囲し、第一に銃五百挺を一斎発射した。
わが軍はほとんど皆地上に伏してこれを避け、銃撃が終った後槍隊の突撃せんことを期待したが実現した。
日本人は我等の如く楯を用ひない故ドン・プロタジョとその兄弟ドン・エステバンは銃撃に面して非常な危険を冒してゐた。
備前守殿といふ武士が、彼らの前に幅二パルモ〔約半メートル〕高さは人の腰まで達する鉄の戸を置いた。
これによって彼等は辛うじて銃丸を避けることができた。
敵は激しく銃を発射し、暫くの間弾丸は雨の降るやうであったが、ドン・プロタジョとその兄弟は長く腰を屈めてゐることができず、立って体を露出した時、大きな弾丸が激しくドン・エステバンの兜に当り、彼は地上に倒れた。
ドン・プロタジョは直に救助に駈けつけたが、その兄弟は死したやうであった。
併し再び見た時少しく動き始めたので、手をもって抱き上げたところ、不思議にも傷なく意識を回復した。彼等両人は二回敵銃隊の中に突入して死せんとしたが、部下が彼等を抱き止めた。
戦は四月二十四日の朝八時に始まり、正午過ぎまで続いた。最初の銃撃が終って、一時間槍をもって激しく戦ったが、隆信の軍は槍と共に銃を用ひ、その兵数が比較にならぬ程多かったため、わが兵はその寨内に退くに至った。
・・・・・
敵は再び寨を攻めたので、薩摩の兵は打って出たが、すでに頗る疲労してゐた。而して隆信の兵は多数の銃と少数の弓、長き槍と短き剣を持ってゐたが、薩摩の兵はこれに反して銃器は少数で、弓は多く、槍は短く剣は長かった。
・・・・・
戦闘は激しく行はれ、双方槍を使ふ余地なく、薩摩の兵は前に人なきが如く突進した。
銃は弾丸を込める時がないためこれを用ひず、薩摩の兵は甚だ弓に熟練し大いにこれを用ひ、敵は少からずこれに苦しめられた。
戦闘の最も激しい時薩摩の部将の一人は、最も勇敢なる兵士数人と共に偶然他の兵に離れて進み、隆信の駕籠の側に到って戦ひ始めた。
隆信は部下の兵の間に争が起ったものと考へ、高声に今は互に戦ふ時にあらず、汝等は隆信がここに在ることを知らざるかと言った。
この際彼の轎夫達は槍をもって突かれて駕籠を棄てた。川上左京殿と称する薩摩の青年武将は彼の名を聞き、その起ち上ったところを襲ひ、我等は汝を尋ねて来たと言って槍をもって突いた。
彼に槍をつけた人に直に首を斬られた。
竜造寺隆信の死が伝って、その軍隊は恐怖のあまり混乱し、皆背を転じて急に逃げ始めた。
彼等は啻に鎧のみならず、衣服をも脱し、身を軽うして追撃する敵より遁れんとし、負傷者及び死者の上を越えて逃げた。
かくの如き場合に恐怖は人に翼を与へ、重荷となるものは皆かくの如く急な破滅を免れる邪魔となるものである故、彼等は携へた物を棄て始め、
啻に槍、銃、弓矢、立派なる鎧及び黄金の飾を施したる兜のみならず、後方に聞えた叫喚は前方の死の像を示した故、剣も長剣も棄て、一層早く走るため、或る者は一切脱して裸体となった。
また乗馬の純然たる疲労のため地に倒れて死するものもあった。
・・・・・
0554人間七七四年
2010/12/21(火) 01:38:36ID:qPm52E8N竜造寺独特の戦法なのか、それとも戦国後期の一般的な戦法なのかよく分かんない
0555人間七七四年
2010/12/21(火) 01:45:43ID:zPFFLD6g結構合理的だね。
伏せて銃撃をやりすごしたり、鉄の盾で武将を守ったり。
戦国期の歩兵ってもっと強引に突撃するイメージしかなかったw
鉄砲は連続して撃ち続けてるようなので、少なくともこの合戦に関して言えば、
撃ち始めは一斉に→あとは各個人がバラバラに撃ち続けてるってところかな?
それともいくつかの小隊でローテーションを組むことで間断なく撃ち続けてるんだろうか?
あと気になるのは銃撃が止まって槍戦になった理由。
隆信方が“敵がひるんだ”あるいは“これ以上撃っても無駄”と見て槍兵を出したのか、
それとも単に手元の弾薬が尽きて補給する際に銃撃に隙が生じたのか。
結局は謎だらけ。
実際この目で確かめられれば最高なんだがw
逃げ出す兵に素っ裸の者もいたってのはちょっと笑っちゃうけど、
みんなそれぐらい必死だったんだろうな。
0556人間七七四年
2010/12/21(火) 08:03:05ID:vL4RQaJD「西洋では馬に乗って戦い、日本では馬から下りて戦う」の部分は信じない。
でも、この部分の記述は事実と受け取る。
そのダブルスタンダードが理解できません。
0557人間七七四年
2010/12/21(火) 08:27:37ID:oyQY9ySmうん?変だな?言葉が通じていないのかな?
私は「仮定の話を既定事実として語るのは困る」というあなたの意見を認めると言ったのだけど。
・今の私のリソースでは一次史料を集められない
・したがってあなたを納得させる事が出来ない
・よってあたなの意見を認める
こういうこと。
武田の軍制は知っての通り寄親寄子制を基本とするけど、素直にそのとおりにはなっていない。
この辺りが複雑怪奇で、専門の研究者にとっても難物になっている。
この辺りを解明しろよ、もしくは解明したものをもってこい、と言われると謝るしかないよ。うん。
まぁ逆に言えば、兵科ごとの編成はされていなかったというソースもないんで…まぁそのあたりはいいや。
アレだけの動員をして、そんなこと普通はありえない…もとい、ありえないと私は思うんで。証拠はないが。
これからは「だと思う」「と、考えられる」って付けるよ。これでいいかい?
必要なら、レスアンカー付けて訂正して回るが?
0558人間七七四年
2010/12/21(火) 08:45:35ID:oyQY9ySmソースありがとう。
私は事の成否ではなく、何故そういう考えを持ったのか知りたかっただけだから。
>暗黒期を除く西洋に関して言えば、数kmに渡って隙間を空けないよう戦列を展開するから、
>戦列の両端の大隊以外は、横の防御をあまり心配しなくていいようにしてるね。
>それでもマケドニアファランクスでは横や後方防御用に予備大隊を用意しているな。
この件はもっと単純な事なんだ
方陣の密度を上げることによって衝撃力を上げるという方法が使われたり、
それが仇になって隊形の変形や機動性に問題が出て包囲されやすくなったり。
「カンネーの戦い」を調べてみると、この辺りの有利不利がわかったりするかもしれない。
0559人間七七四年
2010/12/21(火) 08:59:47ID:oyQY9ySm悩ましいところだな。
1つ嘘があるから全部信じないか、1つ事実があるから全部信じるか
『嘘を嘘と見抜けない……』って誰かも行ってたしな。
フロイスさん、ヨーロッパでの乗馬歩兵の成立っていつでしたっけ?
さて、仕事いてくる。
0560人間七七四年
2010/12/21(火) 22:33:37ID:5P2DmDpx>あと気になるのは銃撃が止まって槍戦になった理由。
>隆信方が“敵がひるんだ”あるいは“これ以上撃っても無駄”と見て槍兵を出したのか、
>それとも単に手元の弾薬が尽きて補給する際に銃撃に隙が生じたのか。
一斉射撃後銃撃が止まった理由は、敵は弾薬を多量に携えていたので、手元の弾薬が尽きたとは思えない。
(「彼等は攻撃及び防御の武器を備え、糧食、弾薬その他必要なる物を多量に携え、速に戦争を終了せしむるため、先端の尖った短い棒を多数持参した。これを寨の壁に刺し、梯子の如くして上がり、内に入ってこれを破壊するためであった。」)
それよりも、火縄銃の連発には物理的な限度があり(当時は6発以下か?) >>517 、また不発銃も増えたためでなかろうか?
>結局は謎だらけ。
>実際この目で確かめられれば最高なんだがw
同意。
この事例(沖田畷の戦い)には、大砲についても書かれている。
ドン・プロタジョ(有馬晴信)は聖週(1584年4月12日から始まる週間)となって、陣所に大砲二門を据付けた。
これは日本でも甚だ珍しいもので、操縦する人は少なかったが、この際偶然砲に装薬することのできる黒奴が一人居合せ、
また隆信が不当に殺すことを命じたため、大村より高来に逃げて来たマルチニョMartinhoといふキリシタンの兵士があって、この人が砲の狙いをつけ、マルバラMalabarの人が火を附けた。
大砲は薩摩の兵に取って珍しく且驚くべきものであったが、敵城内の人々には甚だ面白からぬものであった。
暗黒の木曜日及び金曜日に発射した多数の砲弾は木造の家に入って大なる音を立て、この珍しい物に対する驚愕による城内の婦人及び小児の叫喚は、ドン・プロタジョの陣所まで聞えた。
0561人間七七四年
2010/12/23(木) 00:48:33ID:AjLRgbJQカンネーのローマ軍歩兵はひと塊というより、大隊を隙間を空け市松模様に並べこれを縦深厚めにしたものだったけど、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/2/25/Rom-mnpl-1.png
これは錬度・装備と兵数でローマに劣る、カルタゴ軍戦列中央の突破を狙ってのことだった。
カルタゴは中央にヒスパニア・ガリア部族歩兵の弓なり密集陣、側面の主力たるリビア歩兵はファランクス陣形(下リンク)だった。
http://scottthong.files.wordpress.com/2007/05/phalanx2.jpg
歩兵のみならば脆弱なカルタゴ中央が支えきれず崩壊したところを、
ローマは両翼の騎兵が敗れたため、長槍に側面、騎兵に背面を衝かれ壊滅した。
この戦いは騎兵の多寡が最大の勝因だけど、
たしかに縦深をとったために包囲されやすくなった。
もしローマが横長に布陣すれば、左翼の側面攻撃と騎兵の後方迂回は防げただろうね。
0562人間七七四年
2010/12/23(木) 00:50:06ID:AjLRgbJQ古代ローマの場合は、山岳部族との戦いで機動性の確保を悟り、
歩兵は長槍を捨て、短剣に盾を持った歩兵が数十人単位で別行動が取れるようにした
(下リンクは対飛び道具用のテストゥード隊形、ただし装備はマリウスの改革後)。
http://4.bp.blogspot.com/_qsZFggp2bPg/SkQ-xliTolI/AAAAAAAAAC0/uFVAK0jX0Qw/s1600-h/testudo.jpg
マケドニアファランクスはとんでもない正面圧力だが前を向いて進み続けるしかないので、
側・後方を取られたら終わり。隙間なく戦列を組み、騎兵と軽歩兵が両翼をカバーする必要がある。
諸兵科の複合陣形であるテルシオ(下リンク)や、シンプルな長槍円陣であるシルトロンの場合鈍重だが、元は対騎兵陣形として生まれたため、
http://historywarsweapons.com/spanish-tercio/
長槍を全周にわたって突き出せ、包囲攻撃には滅法強い。
0563人間七七四年
2010/12/23(木) 00:56:41ID:IzyyeUJBスレ違いだ
0564人間七七四年
2010/12/23(木) 01:08:18ID:AjLRgbJQ現代砲術だと、端から一人ずつ順番に、バケツリレーみたいに撃っていくけれど
これは各個のタイミングで自由に射撃をしたという意味かもしれないと思うんだが?西洋で言うFire at will。
三段撃ちに関しても、あったとすれば「どの三段撃ち」かあまり言及されてない。
@一列目が撃つと後方に下がり、二列目→三列目と進み出て撃つ方法。
A一列目のみが射撃し、二列目・三列目が装填をして一列目に渡す「繰り込め」。森流砲術などにある分業方法。
Bその場から動かず一列目は膝射、二列目は立射、三列目は二列目の肩の間から撃つ、18世紀フランス軍のような方法。
もしBだとしたらかなり間隔が必要な上、斉射必須だろうなw
雑賀衆の二段撃ちもこのうちどれなのか気になる。
0566人間七七四年
2010/12/23(木) 01:30:23ID:9aig1BPt@は無駄な労力が必要だし、Bは火縄銃ではあまりにも危険すぎるかと。
0567人間七七四年
2010/12/23(木) 02:17:37ID:GkN/tAHe>戦国時代に戻るけど、当時の軍記によく「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」って出てくるよね。
「つるべ」についてだけども、「滑車釣瓶(かっしゃつるべ)」と「撥ね釣瓶(はねつるべ)」の2種類が思いつくのだが、滑車釣瓶の桶(バケツ)は2個、撥ね釣瓶の桶は1個である。
桶を火縄銃にたとえて「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」と表現しているならば、滑車釣瓶ならば2つの銃(2人)が前後入れ替えて発射、撥ね釣瓶ならば1つの銃で前進後退しての発射となろうか?
深井戸ならば滑車釣瓶、浅井戸ならば撥ね釣瓶が妥当だと思われるが、戦国時代に滑車釣瓶があったろうか? あったとしても一般的な物か?
はたして「軍記」はどれを示したものか?
何れにしても火縄銃の連発には物理的な限度があるから、集団での当初だけの発射方法を表現したものではなかろうか?
0568S字型金具
2010/12/23(木) 23:11:18ID:GkN/tAHe徳川家康は足利義輝と同じように鉄砲好きだったようで、色々な鉄砲を収集していたようである。
ただし、他の大名らの記録は見つからないので不明であるが、彼らも武器である鉄砲については興味があったと思いたい。
徳川家康については、柬埔寨(カンボジア)、暹羅(シャム・タイ)の2カ国に鉄砲を要求した結果『極品鐡砲』を貰い受け、逆に日本の鉄砲を贈答していた記録がある。これ等の遺品の一部らしきのもが「徳川美術館に所蔵」されている。
○慶長11年(1606年)9月15日『幕府、呂宋、西洋、安南、柬埔寨及び暹邏諸国渡海の朱印を出す、家康、呂宋、安南二国に復書し、また書を柬埔寨(カンボジア)、暹邏(シャム)二国に遺りて、奇楠香、鉄砲を需む』
○慶長11年9月21日『徳川家康、暹羅(シャム)国に書簡・鎧・太刀を送り、奇楠香(上上奇楠香)と鉄砲(極品鐡砲)を求める』
○慶長13年10月10日『本多正純、徳川家康の意を受け、暹羅(シャム)国に書簡と鎧を送り、家康所望の鉄砲贈呈の催促をす。また塩硝をも求む』
○慶長15年6月25日『徳川家康、柬埔寨(カンボジア)国主に対し、暴悪を働く日本人は柬埔寨(カンボジア)の国法に従い処罰すべき旨の返書を発給し、鉄砲(30挺)をもって贈答す』
○慶長15年7月『これより先、初めて暹羅(シャム)国より返書が来る。
家康所望の鉄砲などを来年の便船にて献上すべき由を記す。よって7月、徳川家康、暹羅(シャム)国に対し返書を送り、国王には鉄砲を、家臣「握雅普控」には鎧と刀を贈る。また本多正純も返書を出し、毎年商船来日のこと』
○慶長15年7月是月『家康、暹邏国王に書及び物を贈りて、鉄砲塩硝の舶載を促す、本多正純もまた、書を其臣握雅普控に遺りて、家康の意を伝ふ』
伝来銃・渡来銃については贈答用の鉄砲と実戦用の鉄砲とは区別して論じるべきで、黒色火薬に硫黄成分が入っている関係上、実戦に使用された銃は消耗が激しく、残存しにくい条件がある。 >>285 >>287 >>290 >>291
「伝来当時の鉄砲は高価であった」と通説になっているが、永禄3年(1560年)猟師の軍用以外の記録があり(伝来17年後)、なぜ猟師が高価な鉄砲を所持できたかも考える必要がある。(たぶん、日本独自の鉄砲ではなかろうか?)
なお、現存する最古の黒色火薬調合の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」は永禄2年(1559年)であり、「両分朱」の単位系を使い、道具立ては東南アジアや西洋の物ではなく、日本の品物である。 >>62 >>339
0569人間七七四年
2010/12/24(金) 00:00:52ID:4Uujrj1u0570S字型金具
2010/12/31(金) 16:13:14ID:yibJp3Ldメンデス・ピント著「東洋遍歴記・岡村多希子訳」に火器の名前が多く出てくる。
この本は、1537年から1558年までの21年間に渡る東洋のことについて書かれ、1578年にポルトガルで脱稿、1583年に死亡、1614年に出版された。
和訳名の根拠やその火器の詳細は不明であるが、一応火器らしき物を和訳記述のまま列挙してみた。
投石器(ロカ・デ・ペドラ)、火薬筒(アルカンズイア・デ・フオゴ)、長さ十ないし十二掌尺の大火縄銃、大火縄銃(エスピンガルダン)、火縄銃、鉄砲(エスピンガルダ)、青銅製のモスケット銃、モスケット銃
青銅製のガルバリン砲、パサムロ砲、大砲(ボンパルダ)、射石砲(ロケイロ)、球砲(エスペラ)、半球砲(メイアエスペラ)、揺籃砲(ベルソ)、半揺籃砲(メイオベルソ)
獅子砲(レアン)、駱駝砲(カメロ)、小駱駝砲(カメレテ)、鷹砲(フアルカン)、鷲砲(アギア)、犬砲(カン)、蛇砲(バジリスコ)
多くの種類・名前の火器が記載されているが、この中で日本に渡来・伝来した火器はあるのだろうか?
>>463 『ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。 フランキ砲は鉄砲より少し遅れ16世紀後半に日本に伝わった。宗麟が最初に導入し、城の攻防に威力を発揮、「国崩し」の異名をとった』のフランキ砲はどれに該当するのだろうか?
的場節子著・ジパングと日本・第五章 ピント『遍歴記』日本初渡来記事と鳥銃伝来・157ページには、
『鉄砲伝来に関して発生する疑問に、ポルトガルで古今を通じて銃砲の意味で使用されるエスピンガルダという言葉が、なぜ日本に伝えられなかったのかというものがある。
さらに不思議なことには、鉄砲伝来の直後に種子島で製造法を学んだ畿内の鉄匠系統の伝書には、スペインで銃砲を指して汎用されるアルカブスを採用し、「阿留賀放至」が、ペドロ「皿伊旦崙」の名とともに伝えられている。』
と書いて、疑問を投げかけている。
なぜ、当時、ポルトガル・スペイン・現地生産の多種類の砲が東洋に存在していたのに、日本へ渡来・伝来・情報の移入が殆ど無かったのか?
また、小銃(火縄銃)のカタカナ部品名も「カルカ」(ポルトガル語?)位しか見当たらず、部品名については色々と疑問があり、謎の部分がある。 >>329
0571人間七七四年
2010/12/31(金) 16:15:37ID:hyNXVgyx誰も読まねーけど
0572人間七七四年
2011/01/07(金) 20:52:33ID:E83uHOQIこの記録は、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の際の、39名分、186放の火縄銃発砲記録です。
与力・小頭9名は、0〜4放・合計12放・平均1.4発砲しており、同心30名は、4〜8放・合計174放・平均5.8発砲していて、ヒストグラムは、0放3名、1放3名、2放1名、3放1名、4放7名、5放6名、6放10名、7放4名、8放4名である。
少数の発砲数例は采配のためや不発もあると思うが、最高発砲数は8放で止まっており、江戸時代での黒色火薬は8放が連発限界数かも知れない。 >>517
連射の際には不発を防止するために火穴掃除器「せせり」が必要となると思うが、その使用法やどのタイミングで使用したものか?
また、不発銃や弾込めした銃の後処理はどの様にしたものか?
尾栓を外さなくても、銃口を下向きにして銃口を木槌で叩けば弾は出てくるような気がするが?
0573S字型金具
2011/01/07(金) 23:18:15ID:E83uHOQI明の趙士驍ヘ、『卷一,聖旨八道,萬?二十五年條上《東援用兵八害》,?議"番銃足以破倭鳥銃"。兵部題覆:"令京營具式轉咨工部制造。"奉聖旨:"是。"二十六年五月,因京營無式,恭進?蜜西洋等銃。』で始まる『神器譜』を著している。
この書は、文禄・慶長の役(1592〜1598)の際、明の朝鮮支援軍が日本の火縄銃(倭鳥銃)が優良なことを認め、明軍にこのような火縄銃が無いので、?蜜銃、西洋等銃、軒轅等銃、鷹揚車などの朝廷献上や運用法などを記述(1598〜1603年)したものである。
この『神器譜』は主に火縄銃について記述されたもので、恭進した火縄銃以外の明軍から見た当時のアジア地域の火縄銃についても記述されている。
同名異種、または異種同名のような記述になっているので、火縄銃らしき物を其のまま抜き出してみた。
中国の銃: 中國鳥銃、中國銃炮、鷹揚銃、翼虎銃、震疊銃、迅雷銃、三長銃、三神銃、軒轅銃、奇勝銃、三眼銃、掣電子銃、霹靂火銃、改放西洋銃
ヨーロッパ・インド系と思われる銃: 佛郎機番銃、西洋番鳥銃、西洋鳥銃、西洋銃、大西洋銃、小西洋銃、水西洋諸國銃
トルコ系と思われる銃: ??銃、?蜜番銃、西域?蜜銃
東南アジア系と思われる銃: 海南各國鳥銃
日本の火縄銃と思われる銃: 倭銃、鳥銃、倭鳥銃、對馬島大鳥銃
神器譜に於いて、倭銃は??銃・西洋銃とともに研究対象の中心となっており、各国の銃とは違う独立した銃として取り扱われている。
和銃の特徴として銃床の頬付けが挙げられる。
神器譜に記載されている図の中で、西洋銃全形図・改放西洋銃図・水西洋各国番人打放図は銃床を頬付けする内カラクリ銃として描かれている。
しかし、倭銃(出土品)を所蔵している徐州博物館の「??和?型的火炮」と比べて、カラクリ、引金、銃床形などはまったく異なっている。
同じく、種子島家所蔵の2挺の古銃は、「ポルトガル人が伝えたとする初伝銃は頬付け式で内カラクリ」、「伝国産第一号は頬付け式で外カラクリ」でなぜか形式が違うが、神器譜に記載図の頬付け銃とまったく異なっている。
海南各國鳥銃の図は無かったが、「喜其初為打鳥而作。床尾稍短,後手不甚定準。打放非極精熟者不能命中。」と書かれており、海南を東南アジアとすれば「マラッカ銃」となるのかな?
本文に燧石(フリント)の単語は現れず、当時の東アジアにはスペインで開発されたミュクレット式銃は伝来・渡来しなかったのでは?
0574人間七七四年
2011/01/08(土) 19:55:15ID:Yko2q4gn??銃は研究対象って言われてもさっぱりだ。
という事で補足説明頼む
0575人間七七四年
2011/01/08(土) 23:44:26ID:Fd45Hba+失礼しました。今回は、中国語の検索にでも引っかかるように『中国語簡体字の神器譜全文』からコピーペーストしたので文字化けしたようです。
前回の >>293 >>301 では文字化けしませんでしたので参考にして下さい。
?蜜 −−>ろ蜜 ??銃 −−>ろみつ銃
萬?二十五年條上《東援用兵八害》,?議"番銃足以破倭鳥銃" −−> 万暦二十五年条上《東援用兵八害》,内議"番銃足以破倭鳥銃"
「??和?型的火炮」 −−> 「鳥槍和軽型的火砲」
0576人間七七四年
2011/01/09(日) 07:15:30ID:WCWuc8e4しかし見たことない文字だ。こりゃ文字化けするわ
0577S字型金具
2011/01/13(木) 17:52:16ID:65UJBWhB歴史REALのDVDは、戦国鉄砲とは思えない江戸時代のベストコンデションの鉄砲で、平和ボケした江戸時代砲術家の雪駄を履いて立放する標的射撃再現DVDである。
18 ページに「A命中精度はおそらく弓よりもかなり低い」と書いてあるが、実験は8ページに「両氏は射撃の名手として実験に参加」となっており、両氏よりももっと射撃の上手な方で再実験すれば見方が変わるかもしれない。
しかし、その根拠となる弓の実験データを示さず、24ページに「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」と書いて今回実験を行わず、読者をなめている。
また、「反復射撃は何秒で可能か」実験では、14ページに「E早撃ちのときには噛ましの布は未使用」と書いているのに、戦国鉄砲では使わない噛まし布を使用し、
2種の「かるか(鉄?)」で突いて余計に時間が掛かるように仕向けるなど、我田引水的な編集・著作となっており、俗書であり歴史書ではない。
朝鮮の役では2.5匁筒(口径11.8mm)が標準的口径で、それ以前はもっと小径だったと思われ、噛まし布を使えばカルカは折れ・曲がり易く相対的に弾も小さくなり、また、綿類は輸入品で火縄にも使っていないほどであった。 >>317 >>318
そのため、下向きに撃つ場合などは弾の転がり出防止のために、弾込め後に少量の発射薬を入れてカルカで再度突き固めるか、弾込め後に紙を丸めてカルカで突き固めるなど知恵を働かせている。
この方がまだREAL。 http://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm 弾は鎧に穴を開け、兜に当たれば脳震盪を起こさせる。>>553
命中率と引き換えに銃の大口径化による弾重量の増大化によって、具足はどの程度役に立ったものか?
この本は、5〜20秒ほどで突撃してくる距離での、敵の存在を1分間以上無視した「戦国合戦を科学する」もので、戦国合戦は面白いが謎だらけであるから慎重に。
0578人間七七四年
2011/01/13(木) 20:27:26ID:hJyX2dEH朝鮮役では、国内では威力不足で小口径の番筒でも
鎧に劣る朝鮮の兵には有効なため、大量調達されたという経緯がある。
0579人間七七四年
2011/01/13(木) 21:17:52ID:65UJBWhBあえて「具足」と書いたのは、鉄砲の出現によりその対応策を練った甲冑(=当世具足・南蛮具足)のことで、脳震盪を起こさせた例もある。
鉄砲の進化と具足は『矛盾』の関係にあり、具足がどの程度防御できた(=役立った)かが知りたい。
朝鮮の防具、従来の甲冑、足軽の防具は弓矢対応用で小口径の鉄砲でも簡単に穴が開き、兆弾には有効であったかも?
0580人間七七四年
2011/01/14(金) 00:58:47ID:V71J0Tb0燧石式の開発って1620年代だし広く普及したわけでもないんだから
そりゃ伝来してないだろ
神器譜には掣電銃や翼虎銃の開発は魯密銃や倭鳥銃、西洋銃を参考にしたとあるし
絵を見るとストックを脇に入れて頬付けてる
あと、威力があって射程が長いのはオスマン製、命中率が高く撃ち易いのは日本製
軽いのはポルトガルかスペイン製とあるね
0581S字型金具
2011/01/14(金) 23:16:52ID:W9cs+/GP>燧石式の開発って1620年代だし広く普及したわけでもないんだから そりゃ伝来してないだろ
洞富雄氏は、天文20年(1551年)にフランシスコ=シァビエルが大内義隆にespingarda de pederneira(燧石銃?)を贈ったことを紹介している。また、ミュクレット式銃(Miquelet)は1570年代に開発されている。
History :Sometime in the middle 1570s, Madrid gunsmiths introduced a prototype miquelet lock, possibly based on a lock developed in Brescia. http://en.wikipedia.org/wiki/Miquelet
>神器譜には掣電銃や翼虎銃の開発は魯密銃や倭鳥銃、西洋銃を参考にしたとあるし 絵を見るとストックを脇に入れて頬付けてる
大きなストックで脇に挟める銃はインドなど各国に見られ、歩きながらの射撃もできるようにしてある。
>あと、威力があって射程が長いのはオスマン製、命中率が高く撃ち易いのは日本製 軽いのはポルトガルかスペイン製とあるね
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋と認識しており、インド、アフリカなども西洋で、ポルトガル、スペインと断定できない。
0582人間七七四年
2011/01/14(金) 23:54:28ID:V71J0Tb0フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから
本国でも全く普及してなさそうだけどな
倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
0583S字型金具
2011/01/15(土) 00:48:06ID:v0j6cFzd>フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから 本国でも全く普及してなさそうだけどな
ミュクレット式銃のメカは、外カラクリの倭銃のルーツのように思われるが、そもそも燧石銃はなぜか日本で普及していないので何とも言えない。
>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
神器譜に倭鳥銃の図はありましたか?
>掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
佛郎机はポルトガル国を意味し、佛狼机夷はポルトガル人、また、佛郎机はカートリッジの子機を持つ大砲をも示す。明は佛郎机のようなカートリッジを使う大型銃の鷹揚砲、カートリッジ銃身の掣電銃を開発した。
>ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋としていて、ヨーロッパとインドを区別していない。
0584人間七七四年
2011/01/15(土) 02:38:26ID:Xg7ST/kL火縄銃に詳しくないから倭銃と倭鳥銃の違いが解らないけど、文中じゃ区別してる感じしなくて
図には倭銃と書かれてる、結構いい扱い?というか性能は魯密銃の次に買われてる
それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから
あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
0585人間七七四年
2011/01/15(土) 10:36:14ID:v0j6cFzd>それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
>元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
>いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから
神器譜は鉄砲解説書であり、明の永楽帝が鄭和を西洋に派遣して土地風俗を見聞させ、陳子魯が書いた『西域番国志』などの地理志とは違い、細かい地名・国名はここ(神器譜)では必要がない。
必要に応じて使い分けるもので、『イラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる』の指摘は見当違いでは?
>あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
原文は、『ろ蜜密邇水西洋』と書かれている。したがって、国名ではなく『ろ蜜国は水西洋に密邇(接する)』である。
どこの原典か書籍から引っ張ってきて投稿しているのか判らないけれども、元が違えばその後の解釈も異なるのは当然である。銃砲史・戦国史には曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく孫引きが横行している。
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/b33006ffe0ffd597e8544d1b2ddce5dc
今のところ、私の知っている神器譜には、倭銃・倭鳥銃の図はない。
0586人間七七四年
2011/01/15(土) 14:04:21ID:Xg7ST/kL神器譜には倭銃・倭鳥銃の図があるよ、私の知っている神器譜って何?意味不明なんだけど
0587人間七七四年
2011/01/15(土) 17:47:30ID:v0j6cFzd>孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる
温州文献双書ではなく、温州文献叢書(温州文献丛书)の竜門集・神器譜(龙门集・神器谱)のことでしょうか?
温州文献叢書に『倭銃・倭鳥銃の図』が載っていることを知らず、失礼しました。
神器譜には、色々なバージョンがあることが知られており、未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本などを見ています。>>301
中国史研究のために温州文献叢書の編集委員会が結成され、2006年に日本古典研究会の協力を得て出版されたこの本の存在は知っていましたが、国会図書館にも所蔵されておらず、今のところ倭銃図の確認はできません。
>>582
>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
『相当ストックが長い倭鳥銃』は新発見で、倭銃研究・鉄砲伝来に関係すると思われるので、是非、図のアップロードをお願いします。
0588人間七七四年
2011/01/15(土) 19:12:28ID:Xg7ST/kLhttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1362811.jpg
左側のページに無門照星乃鳥銃□要討準全在□□倭銃用、左上に棚杖とあるのと
魯密銃全形と西洋銃全形の間に挟まれてるから倭銃と思ったんだけども
>未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本など
温州文献双書は安い値段で普通に新品売ってたから、史書みたいに普及した書物だと思ってた
0589人間七七四年
2011/01/15(土) 22:27:11ID:v0j6cFzd画像ありがとうございました。
この図はろ蜜銃の説明で、「照門。照星乃鳥銃樞要。討準全在此處。倭銃用一凹字形。不如此更妙。下俱作馬蹄荀。」と書かれ、ろ蜜銃の照門は『回』、倭銃の照門は凹字形と説明しています。
私が調べている「サーペンタインロック式の古銃」の照門は、ろ蜜銃の『回』字形で円形穴が開いています。ルーツが中国かと思い調べましたが、どうやら日本オリジナルの銃のようです。 >>226 >>453 >>454
0590人間七七四年
2011/01/15(土) 23:34:24ID:Xg7ST/kLでも、なんで倭銃だけ参考にしておきながら全形無いんだろうか
0591S字型金具
2011/01/22(土) 00:23:35ID:TN9AdDPWどうしても理解できないのが『国立歴史民族博物館(大学共同利用機関法人・人間文化研究機構)』が主張している南蛮筒・異風筒である。 >>340
歴博の「歴史のなかの鉄炮伝来」P15の「伝来した諸銃の系譜」で、『鉄炮は火縄挟みの取り付け位置、狙いを定める前目当(照門)・先目当(照星)、金具の地板や銃床の形式によって使用地の推測が可能である。
異風筒や南蛮筒は火縄挟みの位置が右側であり、目当は上部があいている。なかには銃身の端が鳶ノ尾形式のものがあるが、こうした特徴から日本に伝来した鉄炮は東南アジア方面のものと考えられるのである。』と書いて説明している。
また、歴博の「鉄砲伝来の日本史」P20の「南蛮鉄炮」では、『現在、国内には南蛮筒とそれを見本に作られた異風筒と思われる実物資料が複数存在している』として、表1にその7挺の銃を紹介している。
しかし、同書P22に『鹿児島県個人蔵と靖国神社所蔵の一挺は銃尾が鳶ノ尾の形式になっているので、銃身の形状から「琉球筒」の可能性がある』と書いているので、
表1には現存する「南蛮筒」は無くなってしまい(?)、「琉球筒」の製作地は台湾(?)、まさか沖縄県としているのでは?
南蛮筒そのものが不明・残存していないのに、「現存する南蛮筒(内外カラクリ不明の種子島家所蔵銃か?)および異風筒、炮術秘伝書を根拠に復元した」として歴博は南蛮筒を復元作成・所蔵しているが、論理矛盾があり、どの程度の根拠を持って作成したものか。 >>449
同書P3に、炮術秘伝書は『鉄炮を家業とする当事者によって書かれた点で、史料的価値が高い』として秘伝書を取り上げている。
しかし、炮術は陰陽道の陰陽五行説を取り入れる素地があるので、炮術秘伝書には「こじつけ」がまかり通っており、炮術秘伝書を無批判に取り上げるのは如何なものかと思う。
秘伝書には『玉拵えの秘事として数十種類におよぶ玉の存在を伝えている。鉛以外に鉄の玉、錫と鉛の合金の玉、複数の玉、半円の玉、三角の玉、中空の玉などがあるが・・・・、もはや秘伝書の記述が嘘やデタラメでないことはあきらかである。』と歴博は書いているが、
近松茂矩は宝暦3年(1753年)の書に、『古伝の拵玉についてまだ試射したことはないから、実際に用いるときは、よくよく打ち試してみたのちに用いるがよい』と付記書きしているので、秘伝書の記述には嘘やデタラメの可能性が入っているのでは? >>450
そもそも、歴博は火縄銃に鉄製の玉の存在を認めず、「1554年と1555年の倭人の鍛造火縄銃筒進上」を否定して鉄炮伝来倭寇説を組み立てている。
0592人間七七四年
2011/01/22(土) 00:38:42ID:E6xojand鉄玉はどっかの城跡から出土してるけど
0593人間七七四年
2011/01/22(土) 01:12:17ID:di2GlU4/「八王子城からは鉛玉が出土しなかったんですよね?」と聞いたら
次の日、やんわりとメールがきた。
「椚国男著 『戦国の終りを告げた城』に銅玉58(内38個未使用と思われる)鉄玉16個 鉛3個が出土したとあります」
「よく調べもせず適当なことを言って申し訳ありませんでした。また教えてください」と送ったら
「こちらこそ勉強し直すきっかけになりました」だって。
本当によく知ってる人は腰が低くて尊敬するよ。
S字金具に限らず、便所の落書きの内容は必ず裏を取らないと恥をかく。
0594人間七七四年
2011/01/22(土) 01:34:58ID:x0i6lQvnというか、
便所の落書きは他でやれ!と抗議してるのに、申し開きもせず平然と連投続ける奴がまともと思うか?
自分でスレ立ててそこに連載すればいいだけなのに嫌がらせとしか思えん
0595人間七七四年
2011/01/22(土) 03:29:55ID:E6xojand0596人間七七四年
2011/01/22(土) 03:53:25ID:x0i6lQvnそういう問題じゃなく、長文連投は他のスレでやってくれってこと。
やめてくれって何度も言ってるのに全部無視だからな。図々しいどころか卑怯だろ。
0597人間七七四年
2011/01/22(土) 22:43:33ID:TN9AdDPW投稿している内容が内容だけに、出来るだけ一次史料を調べるようにして投稿しています。
517の『この城跡から鉛製の銃弾は1点も出土していない』の根拠は、八王子市教育委員会が2002年に発行した『八王子城跡御主殿発掘調査報告書 CD-ROM版 八王子城跡]V』です。
http://www.free-style.biz/book/archives/2008/07/cdrom_1.html
この調査報告書は、『市では、平成4・5年(1992・93)に、続く御主殿内のさらなる整備事業を実施するために発掘調査を実施し、極めて良好に遺存する遺構群と膨大な量の出土品を発見することができました』について書いてあります。
その347ページに『銃弾(第158図 表42・43 図版162-60〜115) 銅製34点、鉄製453点が出土した。すべて鋳造である。なお、一般的な鉛製のものは今回の調査では1点も出土していない。』と書いてあったので、そのまま採用しました。
この報告書は第13報でしたが、それ以外の発掘調査報告書は教育委員会取り扱い図書一覧に無く、また、その内容も不明なのでそれ以上詮索しませんでしたが、「鉛3個が出土」は貴重な情報です。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kyodoshiryokan/4283/007851.html
「八王子城に非常に詳しい人」が居られるそうなので勝手なお願いですが、『戦国の終りを告げた城』は自費出版の二・三次史料なので銃弾の出土状況なども知りたく、図書館のコピーサービスを受けたいので発掘調査報告書の情報を教えて頂けないでしょうか。
また、「素焼きの土玉163点出土」については非常に重要だと思われるので、その人から『土玉の用途について、どのように判断されているのか』を聞いて頂けないでしょうか。
0598人間七七四年
2011/01/22(土) 22:45:44ID:di2GlU4/要するに、S字金具は人とコミュニケートする能力がゼロなのは一目瞭然だが、
それどころか火縄銃や歴史に関する知識すら極めてあやしいということ。
0599人間七七四年
2011/01/22(土) 22:51:36ID:di2GlU4/素直に読めば、
「平成4・5年の調査では鉛玉ひとつも出土しなかったが、それ以前の調査では累計3個出土してる」
ってことでしょ。
うーん、そこまで相手を煩わせるのはちょっと・・・
『戦国の〜』の著者の参考文献を調べるか、著者の人・関係者に手紙等で聞いてみるといいんじゃない?
0600人間七七四年
2011/01/22(土) 23:18:40ID:TN9AdDPWそうすると、合計、銅玉92個、鉄玉469個、鉛玉3個が出土したことになり、
>>517 で私が主張していた『このことは、戦国時代の火縄銃の弾は鉛とは限らないことを証明している』を了承して頂けたものと理解いたします。
問題は土玉で、国立歴史民俗博物館発行の「歴史のなかの鉄炮伝来」では、33ページに『秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する』と締めくくっている。
0602人間七七四年
2011/01/23(日) 10:07:42ID:1/tt+AIJ競技用の火縄銃も存在するらしい。
今でいうスナイパーライフルとそこら辺の量産品を一緒にしては駄目だ。
>>600
つまり、削り出しで弾をつくっていたということか。すごい手間だな。
0603人間七七四年
2011/01/23(日) 12:31:13ID:EIcXrSgD>つまり、削り出しで弾をつくっていたということか。すごい手間だな。
↑
>>597 『銅製34点、鉄製453点が出土した。すべて鋳造である』
旋盤やフライス盤があったと思っているのか。少しは頭を使って考えろ。
0604人間七七四年
2011/01/23(日) 19:22:12ID:RQhmB9LT0605人間七七四年
2011/01/23(日) 20:39:51ID:EIcXrSgD>土玉って何なの?粘土焼き?
↑
>>272 >『八王子城から、焼き物の弾丸、つまり粘土で作った弾が出土していたな。』
『投石と汗のメンテナンス』に、「八王子城から出土する土玉については火縄銃では使えないから弾弓、つまり中国の投石弓があったとする説もありました。」
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/wforum/wforum2001/2001.2.1.htm
ちなみに、弾弓とは、矢ではなく玉をはじいて飛ばす「遊び道具」で、武器ではない。
http://chisuhatatoshi.world.coocan.jp/new7.htm
土玉は他の所でも出土しており、沖縄では珊瑚弾、鉄弾、石弾が出土している。
http://www.gusuku.sakura.ne.jp/gusuku/siryo/sensou/top04.html
0606S字型金具
2011/01/29(土) 17:51:40ID:tt32/vL/鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、詳細に調べてみると非常に心もとない結果となっている。
国立歴史民族博物館が『鉄炮記』を根拠にした通説、「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられ、日本中に広まった」とする通説に矛盾を感じ、倭寇による伝来説を主張している。
ポルトガル人によるヨーロッパ銃の伝来説は、確たる証拠(鉄炮記以外の文献)・現品(ヨーロッパ由来火縄銃)も無く、ただ「願望論」から成り立っている。ただし、倭銃には何時ごろとは特定できないが、ヨーロッパ銃の影響があったことは否めない。
しかし、「倭寇による伝来説」の東南アジア製銃についても、残存する火縄銃は国内外とも極めて少なく、今のところ東南アジアに古い銃は残存していない。
日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃である。
戦国期末(慶長年間で鉄砲伝来とされた60年後?)までに、東南アジア各国への、贈与の要求、日本から贈答・輸出・持ち出しを認める明確な文献があるので、残存銃にはこれらの交雑の影響があると思える。
徳川美術館所蔵鉄砲は非実戦銃のように思われ、国内には出土銃部品、中国や韓国には文禄・慶長の役の際の遺品など実戦を推定できるものがある。
残存銃の絶対数が少ないのに、制作年代の推定に火皿と照門の相対位置が挙げられているが、例外の銃もあり、本当に銃の年代推定ができるのであろうか?
国立歴史民族博物館の「歴史のなかの鉄炮伝来」P33で、
『「武蔵八王子城跡から発掘された各種の玉と鋳型」 武蔵にある後北条氏の支城八王子城は一五九〇(天正一八)年に秀吉に攻められて落城した。同城跡から出土した鉄製。青銅製の玉、玉の鋳型の類である。土玉とおぼしきものもある。
秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する。』
と書いてあるが、検討結果はどうなったのであろうか?
各地から土玉の出土例もあり、この城跡から鉛製の銃弾はたった3個しか出土していなく、土玉・素焼玉が鉄炮の玉であれば、「鉄砲の定義」そのものが疑われる。 >>600
新城市宗堅寺の「信玄砲」は説明の付かない(誰も解説していない)銃身で、土玉・素焼玉でも発射したものか? >>514
0607人間七七四年
2011/01/29(土) 18:03:07ID:EynA4gyiあれは何所産なわけ?
0608S字型金具
2011/02/05(土) 02:02:56ID:vc21zI0qポルトガル人によってヨーロッパ銃を売りつけたとする鉄砲伝来説は、納得がいかない。
1509年:ポルトガル人は初めて東南アジアに現れ、マラッカ王国と争いを起こし、王国は火器で反撃したけれども1511年に滅亡した。
1513年:この頃からポルトガル人が中国南岸に現れ初め、1517年に明国へ朝貢したが、1520年に追い払われた。
1522年:ポルトガル人は軍艦で広東を攻撃したが撃退され、明国は艦炮の大砲(佛狼機)を鹵獲した。 >>359
1530年:広東の一つの湊が対外通商のために開港されたが、ポルトガル人だけが締め出された。
1545年:鉄砲伝来?
1547年:日本と明との遣明船はこの年が最後。
1548年:明軍は寧波の東方の双嶼島(リャンボー)を攻撃・壊滅したので、双嶼を中心とする密貿易は終わった。
1548年:明国はポルトガル人との鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
1553年:この年から1559年までは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な海賊行為があった。倭寇は火槍などの火器で反抗したが、火縄銃の使用は認められない。>>441
1554年:倭人が李朝に銃筒を進上。 >>450
1554年:明国はポルトガルとの通商関係再開を受け入れ、ポルトガル人は広州で通商する正式の許可を得る。
1555年:ポルトガル政府の勅令によるカピタン・モール制が始まり、1556年からボルトガル官許船は毎年必ず一回一艘が定期的に日本へ来航する大規模な重商業主義的な機構による貿易が始まる。>>462
1556年:明の鄭舜功が倭寇の禁圧と日本の実情調査のために来日し、後に「日本一鑑」を著したが、鉄や硝石など記載内容について疑問がある。>>455
1557年:明国の現地官憲はポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したとして、ポルトガル人のマカオ居住を黙認する。マカオは日本向けの基地となり、官許船での日本貿易は必ずマカオ経由での取引となる。
1559年:明国は倭寇の取り締まりを強化し、王直を処刑した結果、倭冠の活動は縮小していった。
1567年:明国は海禁令を緩和するが日本には適用しないため、ポルトガル人は日明交易を肩代わりして大きな利益をあげるようになった。
有水博さんは、「リスボンの主要な公文書館に通う機会を得た。しかしながら、16世紀の30年代、40年代の中国沿岸における冒険的なポルトガル商人の活動を明らかにするような文書、あるいはこれらの商人の倭寇とのつながりを示す資料は、ついに見出せなかった」と書いている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40004878879 日葡関係開始時における倭寇介在説の検討(文化編) CiNii 論文PDF - オープンアクセス
1950年代以降も、ポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したので明国の現地官憲からマカオ居住を黙認されたのであって、ポルトガル商人と倭寇とのつながりは無かったと思われる。
日本への鉄砲の拡販は倭寇の協力無しには成り立たず、そのため、1556年以前(官許船以前)にポルトガル商人が日本に鉄砲を販売したとは思われない。また、本格的な貿易は1567年以降となるが、鉄砲と硝石の輸出入記録は今のところ発見されていない。
『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とすれば、従来の日本の鉄砲技術に、ポルトガルを含む各国からの技術導入・移入により、急速・急激な進歩・改良・発達・生産を遂げて日本独自の火縄銃技術が成立し、従来の鉄砲伝来説の矛盾点が解消する。
0609人間七七四年
2011/02/05(土) 16:46:18ID:GK820u5u火薬の原料の硝石は確保出来ないから糞便を醗酵させたでしょ
(火薬も量が集まるとウンコ臭いもんな)
で、ポルトガル人が持ち込んだ鉄砲は我々日本人は真似が出来なかったんだよ
何故なら当時日本にはオスメス螺旋の発想が出来ていなかったからね
だから個人的には゛608 :S字型金具゛に同意です
山国地域だと鉄とか火薬の調達は厳しい&高価なので、
変則的だけど今風のボウガンタイプが使い易いし調達可能なんです・・スレチゴメン。
0610人間七七四年
2011/02/05(土) 20:46:56ID:vc21zI0q硝石についても同じことが言え、権威者は良く知らない、または調べていないためか「硝石=鉄砲薬」としか捕らえておらず、頭から国産は無くて輸入品として技術史上いい加減に取り扱っています。
硝石の鉄砲薬と医薬品以外の用途について書かれたものはありません(日本国内に)。
日本は古来より朱の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。
鉄砲と同様に硝石についても適切な解説書が少なく、>>609 さんが硝石製法について『糞便を醗酵』と誤解されているのも無理はありませんが、江戸期の硝石製造については「板垣英治」さんの論文を読まれたら良いと思います。
http://hdl.handle.net/2297/7422 「塩硝及び硫黄の生産」
http://hdl.handle.net/2297/7434 「硝石の舎密学と技術史」
0612人間七七四年
2011/02/09(水) 19:10:40ID:zVXWAj1v>鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、
その言葉そっくり返したいんですが、
「火縄銃が日本の独創性によって生まれ、発達した」という説の証拠は何かあるんでしょうか?
0613人間七七四年
2011/02/13(日) 00:52:52ID:l4cZDhPq享保13年(1728年)に書き写された「内閣文庫蔵浅草文庫旧蔵本」が最古の写本とされ、30種以上の写本が残っているが、書き写されるたびに庶民に迎合するように加筆され、娯楽読み物となっている。
この最古の写本の「浅草文庫本」と図が綺麗な東京国立博物館蔵の巻子本とでは、「本文の異同個所は550箇所ある」と指摘されている。
東京国立博物館蔵本に、持筒足軽の筒平が旦那の火縄銃を運搬するために、火縄銃と大小の刀2本とを一緒に左側に差している図がある。火縄銃の重量・長さの点で腰に差せるかどうかを別にしても、左右の重量バランスの点から、これはありえない図ではなかろうか?
國學院大學図書館所蔵の雑兵物語では、持筒足軽の筒平は、右腰に火縄銃、左腰に大小の刀2本を差していて、東京国立博物館蔵の巻子本とは異なる。
http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/library/lime/zohyo01/pages/page016.html
鉄砲足軽小頭の朝日出右衛門の項にも「朔杖をひん抜て、鉄炮を腰にひつばさけて、刀を抜て敵の手と足をねらつて切めされい」と「接近戦は鉄砲を腰に差して戦え」と書いてあるが、鉄砲を腰に差しての白刃戦・運搬には疑問がある。
持筒足軽の鉄平の場合は、大きい鉄砲なので腰に差せなく、帯紐で縛って背中に担いでいる図もあるが、ケース(なめし袋?)に鉄砲を入れてある図もあり、なぜ、倭銃には運搬のためのスリング(負い革)取り付けパーツを付けないのだろうか?
http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/library/lime/zohyo02/pages/page017.html
また、「雑兵物語」は娯楽読み物ではあるが、「トンデモ本」の範疇に入る物でなかろうか? >>348
0614S字型金具
2011/02/19(土) 01:31:36ID:hlQDpnLA私が日本の情報について閣下に送付した第一の文書においては、甚だ簡略にですが、私はその土地において行なわれている宗教と神の礼拝に関する主要な事柄のみをいくつか書き認めました。
その他の世俗的な事柄は、私の職業にそれほど相応しくなく、また必要であると私には思われないため、余り熱心に知ろうとしませんでした。
しかし、閣下が、私が前述の世俗的な事柄に関して質問するように私に命じていますので、私はたくさんの恩義を受けている方に従わない訳にはまいりません。
閣下の質問、日本人の間に、戦いが行なわれるかということについて、彼(アンジロー)が言うところによると、 ・・・・・
日本には、鎖帷子、胸当、兜、頤甲及び腕章があります。
彼等はまた腿や脚部に鉄でできた具足を付ける習わしがあります。
彼等は、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています。
彼等はまたたいそう幅が広くてかなりの長さがある一種の鉾をも所持しており、それは私達のものと同様に柄に付いています。
彼等は私達が片手や両手で剣を持っているように、小刀と大刀とを帯びています。
彼等には卵型の革製の盾はありませんが、その代わりに金属の薄片で被われた革を常用しています。
それは左肩の上に、そしてその箇所に楯の代わりに結び付けられます。それは長さ三パルモ(66cm)、幅はそれよりも少し短くなっています。そして、左手は戦闘のために空いています。
これらの日本人が戦争に赴く時には、土着の兵士(現地人兵士)は各々胸当、兜及び革のあの手楯のようなもの、刀、槍、弓矢を持っていきます。
彼等は武器を運搬するのを手伝う小者一人、あるいは、私達の間に見られるように、彼等の地位に応じてそれ以上の数の小者を連れていきます。
この島のある地域では山がちな土地であるためにすべての者は徒歩で戦いますが、土地が平地である他の地域では弓矢や両手を使う刀を持って騎馬で戦います。
そして敵を幾人か殺した時には、その首を斬って大将のところへ持っていくのが習わしです。そして、首を持参することができない時には、勇しさの証拠及びしるしとしてその耳を切り取って持っていきます。
日本の馬は、私達の馬と同じほどの大きさでがっちりしており、フランスの馬に似て太い脚を持っています。領主達は自分達の牧場に飼育のために数え切れないほどの雌馬を持っていることを誇りにしています。
日本の船はすべて小型であり、その最大のものでもカラヴェラ船ほどであり、丈が短く、私達の船とは別の様式です。すべての船は櫂で漕ぎ、ござ帆を持っています。あの土地に見られる強い風の時には、投錨する度毎に帆柱がおろされます。
日本の商人達はシナ人達と取引を行なっています。彼等は日本からシナに銀、武器及び硫黄や扇子をもたらし、シナからは硝石や多量の生糸を持ってきます。また同様に陶磁器、水銀及び麝香の固まりをも持って来ます。
日本人達はまたシナの下方、東にあるコレー(高麗)と呼ばれる別の人びととも取引を行なっています。
彼等はそこにも銀や貂の皮を持っていきますが、それは、同島にはそれが多量にあるからです。彼等はまた扇子をも持参し、朝鮮からは綿布を招来してきます。 ・・・・・
この島のいくつもの地方に大量の銀があり、僅かではありますが、金山も幾つかあります。また多量の銅、鉛、錫、鉄があり、鋼鉄も非常に豊富にあります。また水銀若干量と硫黄がたくさんあります。 ・・・・・
0615S字型金具
2011/02/19(土) 01:37:49ID:hlQDpnLA>>614 はポルトガル国が東アジア進出にあたり、ポルトガルが知りたいことを日本人から直接聞き取った報告書である。
この日本人(アンジロー)は、事情により下僕1人を連れて日本を脱出した知的能力が高い貿易商人(?)と思われ、フランシスコ・ザビエルが日本訪問を決意し、彼の故郷鹿児島へ行くことになったほどの人物である。
報告書は他にも存在する書簡から判断して、彼が出国する1546年(天文15年)以前の日本について書かれたもので、他の書簡とも整合性が取れており、戦国時代の第一級資料としての信憑性は非常に高いと思われる。
この報告書に「彼等は、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています。」と書いてあり、アンジローは1546年(天文15年)以前の日本に「エスピンガルダ」(その詳細は今も不明。大型のマスケット銃? >>470 )があることをニコラオ宣教師に伝えている。
天文12年8月(1543年)種子島に鉄砲が伝来したとされているが、その3年以内の年月に、銃の生産・配備・習得などが可能かどうかは判断に迷うが、アンジローが銃について知っている事は注目すべきことである。
『マスケット銃とは異なるエスピンガルダ』を天文12年以前から所持していた可能性もあり、土着の兵士についての銃装備の記載は無いので銃装備は武士の一部かもしれないが、輸入、コピー、または国産オリジナルかは興味のあるところである。
アンジローが活動した日本の地域は判然としないが、ニコラオ宣教師に銃装備を伝えたのは日本で一箇所だけなのか? 1546年までに装備が広く一般的になっていたものであれば、鉄砲伝来を見直さなければならない。
>>556
>フロイスは日本の戦場を見たことがないし、ほら吹きだから
>「西洋では馬に乗って戦い、日本では馬から下りて戦う」の部分は信じない。
>でも、この部分の記述は事実と受け取る。 >>553(?)
>そのダブルスタンダードが理解できません。
フロイスの日本覚書に『われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。』と書いているが、『フロイスは、ほら吹き』の根拠が解らない。
この報告書には「この島のある地域では山がちな土地であるためにすべての者は徒歩で戦いますが、土地が平地である他の地域では弓矢や両手を使う刀を持って騎馬で戦います。」と書いてある。
フロイスは、「山がちな地域で、すべての者が馬から下りて徒歩で戦っている戦闘」を目撃したと思われ、「彼の行動範囲内での宣教師の目で見た日本の覚書」と思えば、的確な記載が多いと思います。
問題なのは、フロイス(1532年生まれ)は1563年(永禄6年)から来日しているが、彼は自国の鉄砲、または彼が知っている鉄砲と日本で見た鉄砲とが明らかに異なっている様に書いている事である。
0616人間七七四年
2011/02/19(土) 01:38:39ID:oAf5xFTp0617人間七七四年
2011/02/19(土) 06:07:36ID:QOM/rlaLマスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う。
後に意味が変化し、フロントロック銃の時代には先込銃全般をマスケット銃というようになった。
というか、こういう手合いに譲歩は無駄だな。
人として軽蔑しか感じない。
退治すべきだろうな。
0618S字型金具
2011/02/21(月) 01:14:22.67ID:gOPwhLQC>エスピンガルダとは火縄銃のこと。
>マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う。
>後に意味が変化し、フロントロック銃の時代には先込銃全般をマスケット銃というようになった。
「マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う」の根拠、「大口径の銃」、「フロントロック銃」の意味が解らなく、何か思い込みでもあるのだろうか?
「大口径の銃」は『大型の銃』、「フロントロック銃」は『フリントロックの銃』とこちらで理解して、>>615 の補足記載をする。
メンデス・ピント、ジョアン・ロドリゲス、ルイス・フロイスをはじめとするポルトガル人の記録では、火縄銃を指す場合にすべてエスピンガルダを使用しているので、「エスピンガルダ」はポルトガル語である。
>>570 『鉄砲伝来に関して発生する疑問に、ポルトガルで古今を通じて銃砲の意味で使用されるエスピンガルダという言葉が、なぜ日本に伝えられなかったのかというものがある。
さらに不思議なことには、鉄砲伝来の直後に種子島で製造法を学んだ畿内の鉄匠系統の伝書には、スペインで銃砲を指して汎用されるアルカブスを採用し、「阿留賀放至」が、ペドロ「皿伊旦崙」の名とともに伝えられている。』
@『松浦軍の攻撃武器は、堺で作られた大型のマスケット銃であるエスピンガルダ銃と・・・・』>>470
A『あるいはマラバルのエスピンガルディーニャスではなく、モスケット銃に似た大型のエスピンガルドンイスであり、一人の男が肩に担いで運搬するには苦労するほどであった・・・・』
B『ポルトガル人は襲撃し、完全に破壊して勝ち取った。かれらはそこで、大小合わせて2500あまりの金属製の銃砲を見つけた。そのなかにはハーク銃やムスケット銃くらいの大きさのもあれば、もう少し大きなもの、ものすごく大ぶりなもの・・・・』
@ABから、1500年代はマスケット銃よりもエスピンガルダ、アルカブスなどの方が大きいのではなかろうか?
有馬成甫氏は、アルケビユースとマスケットの異同について、「この両者には多少の地方的特種を認めうるが何等本質的の相異があるわけではない。」と書いている。
しかし、『四百名からなる傭兵部隊が設置された。アルカブス兵は月額六ペソの俸給を受け、モスケット銃兵は八ペソ、隊長は六人でそれぞれ年間四二〇ペソの俸給を受け・・・・』と職種により明らかに俸給が異なる記述もあり、本質的に異なるのではなかろうか?
0619人間七七四年
2011/02/21(月) 03:03:14.60ID:8+3Xk+Dj・・・?理解の仕方が奇妙だな。大口径がわからない?
フリントロック銃とフリントロックの銃という言葉遊びになんの違いがあるんだろう?わからん。
俺がしょっちゅう猫に頭をかじられて脳みそ喰われてるからかもしれないけどなw
エスピンガルダは最初火縄銃を指し、のちには小銃全般を指すようになった。
そのうち比較的小口径の物をアーキュバス(アルケブース)、叉杖をつけるような大口径の物をマスケット(ムスケット)と呼ぶ。
例えばテルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。
0620S字型金具
2011/02/23(水) 01:03:46.15ID:nLr6HvIohttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1179124918/89
の本人、または、これを参考にされたのでしょうか?
http://en.wikipedia.org/wiki/Tercio の Tercio にはMusketes が出ていない。
The tercio which theoretically had up to 3000 men (but usually many fewer) were
armed with an assortment of weapons to deal with any enemy they faced on the
battlefield - 1500 of them were equipped with pikes, 1000 kept the ancient short
sword and javelin armament, and the remaining 500 were armed with
arquebuses of the best and most portable type.
http://en.wikipedia.org/wiki/Musketeer のMusketeer には Arquebuses が出ていない。
The musketeer manned tercios were developed from the earlier arquebusier
manned coronelias which had firmly established their fearsome reputation
by defeating the French at the Battle of Pavia in 1525 and capturing their king.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
このテルシオ(Tercio)の内、『編成』の出典が不明であり、この『編成』部分は正しいのだろうか? また、スペイン方陣、オランダ式大隊、スウェーデン式大隊の図で、MusketeerとArquebusierの違いが解らない。
http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio.JPG では『Arquebusiers』だけのように見え、したがって、MusketeとArquebus、MusketeerとArquebusierは同義語として捉えても良いと思われる。
『テルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。』は根拠の無い思い込みではなかろうか?
0621人間七七四年
2011/02/23(水) 05:38:33.71ID:8M6va8y/>http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio.JPG
あなたが挙げたこの画像と同じサイトに、こんな画像↓もあるようですよ。
http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio_Spanish.JPG
wikiのオランダ式大隊、スウェーデン式大隊の図で両者が区別されていないのは、
それらの全盛期の17世紀にはアルケブスとマスケットの区別がなくなって全てマスケットと呼ぶようになっていたせいです。
スパニッシュ・テルシオの全盛期は16世紀。おわかりいただけたでしょうか。
こんなのもありますが。
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14&15_Spanish.htm
http://forum.milua.org/archive/TactiqueUk.htm
これがMusketeer
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14_Spanish_musketeer.gif
これがArquebusier
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14_Spanish_arquebusier.gif
ていうか自分で
「(アルカブス兵とモスケット兵は)本質的に異なるのではなかろうか? 」って書いてるじゃないですか。>>618
変な人ですね。
当然ながら大型の火器を扱うモスケット兵のほうが給金は高いです。
0622人間七七四年
2011/02/23(水) 08:31:19.98ID:4Ggu0FgJ>『テルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。』は根拠の無い思い込みではなかろうか?
いいえ。当時のテルシオ編成において常識です。
0623人間七七四年
2011/02/23(水) 08:50:53.64ID:7cxcvFmM側面や背面に槍兵とアルケブス兵の混成部隊が位置することでしょ
0624人間七七四年
2011/02/23(水) 10:40:17.52ID:4Ggu0FgJパイク方陣は側面ではなく中央に位置する。
その四辺を覆うように銃兵。前辺はマスケット兵。
後期には火力補完のため四隅に銃隊方陣を置いた。
0626人間七七四年
2011/02/23(水) 17:03:25.08ID:cPmdIvZ60629S字型金具
2011/02/25(金) 00:46:09.04ID:dCBmmHGbその中で、「砲」(鉄朴・テツホウ)を『武具』と『呴器』の両方の分類に入れている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0263/bunko08_d0263_p0034.jpg
『呴器』とは「三絃子」(三皮仙・サミセン)や「鐘」「鑼」「鼓」「鈴」など音を出す道具のことである。
>>626 >>627のコスプレ鉄砲隊の鉄砲は空砲なので『呴器』の範疇に入り、「鉄砲隊」ではなく今で言う「音楽隊」に該当し、演技である。
弾を入れないので空気抜けが良く、また、装填火薬量を多くしても銃身破裂の危険性が低くいので、より大音量が可能となりコスプレ効果が高まっている。
エスパニヤ人であるメンドーサが1580年頃の中国見聞記「シナ大王国誌」には、
『およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。
その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服することができるであろう、とおもったほどである。・・・・
この閲兵は四時間つづいた。チナ人たちが明言したところによれば、たとえ敵襲の恐れのないときでも、国内の全都市において同日の同時刻にこの行事がおこなわれるということであった。』
と書いてあるので、「当時の中国(明)には多量の火縄銃があった」としている人がいる。
しかし、メンドーサは「自国のテルシオ陣形を知っていて記載した」と思われるが、音を聴いたのであって、弾の発射を見ていない。
内閣文庫所蔵本「日本風土記」の『武具』には、火器の「手銃(鉄火也)」「鳥銃(弾我皮世也)」「発狼箕・イシヒヤ(酷尾突治失・クニクヅシ)」「狼銃(一路也里)」などが入っている。
『呴器』に「爆伏」、「火薬」を入れているので、「砲」(鉄朴・テツホウ)が『武具』の分類に入れるほどの威力があったかどうかは疑問である。
「砲」(鉄朴・テツホウ)を日本人が申告したものかどうかは判らぬが、手銃(鉄火也)は九州地方の「手火矢」、または火箭の可能性があり、狼銃(一路也里)は火槍の可能性がある。
当時の朝鮮には「鳥銃」が無く、明国に「鳥銃」があったとしても威力は低く、また、明国の火器の種類も日本と異なり、「テッポウ」に該当するものはどれか、私には判らない。
0630人間七七四年
2011/02/25(金) 00:58:50.65ID:SN6Hd6Ye君に聞いてないから。
自分の妄想に都合いい史料だけ拾って来て
妄想組み立ててダラダラ書く君より、
「コスプレ鉄砲隊」を一度でも見た方が、はるかに鉄砲について分かる。
0632人間七七四年
2011/02/28(月) 17:20:22.29ID:W2BZrexs0633人間七七四年
2011/03/01(火) 19:39:35.51ID:cdeKKpvu0634人間七七四年
2011/03/01(火) 19:40:17.96ID:vREV8Dka0635人間七七四年
2011/03/01(火) 23:24:37.36ID:Ytb1agpq何言われたってしょうがないわ。
彼は自分がどうして周囲とトラブルを起こすのか理解できないし、そもそも何が問題なのかもわかってない。
相手の言葉も歪曲して自分流に受け取ってしまうから、コミュニケーションが成り立ってない。
0636人間七七四年
2011/03/02(水) 11:15:04.16ID:x2ckE6Sm何の役にも立たないお前らよりもずっとか役に立つ
適当に読んでる分にはまあ面白いw
0637人間七七四年
2011/03/03(木) 18:30:49.24ID:sMJLjdJE落とさないためだけなら不快な長文なんぞ要らん
0638人間七七四年
2011/03/03(木) 19:36:30.64ID:MWHn21MM不快なだけではなく、彼の書く内容は誤ってるからね
0639S字型金具
2011/03/03(木) 20:52:58.93ID:4NZRvxc8火縄銃にとって黒色火薬は兵站物資として、最重要物質である。その主成分は炭素、硫黄、硝酸塩であるが、その合薬方法など日本の銃砲史にとって未解決な部分が多い。
『炭素』成分として草木の炭が使われるが、煮炊き、暖房など、火薬以外の用途も良く知られているので、普通「炭=黒色火薬」と捕らえない。
『硫黄』は日本が火山帯に位置するため産出し、火山の少ない中国や朝鮮などへ多量の輸出や献上などの記録がある。しかし、当時の日本での火薬以外の用途は記録されていないのでよく解らなく、その精製法や流通など不明な点がある。
『硝酸塩』については一般的に硝石、また、焔硝、塩硝、煙硝などの名でも呼ばれている。その用途は漢方薬の他、日本では黒色火薬以外の用途について言及されたものが無い。
日本の銃砲史は、鉄砲伝来(?)時には天然硝石の産出は無いとして、すべての硝石は輸入品としている。その後国内で焔硝の生産が始まり、需要が多かった時には一部輸入し、余った時には輸出したとしている。
1448年(文安5年)の朝鮮王朝実録に、源義成(第8代将軍足利義政)が朝鮮国王に焔硝(硝石)20斤を献上した記録がある。
『其書曰:日本国王源義成奉書朝鮮国王殿下。両国中間、海程万里、隣好不渝、天水一碧。・・・・
別幅:彩画扇二百把、黒漆鞘柄大刀一十把、練緯絹二十段、香五十觔、胡椒三百觔、焰硝二十觔、沙魚皮二十片、生脳二十觔、鮫魚皮五十片、朱漆木車椀一百一十事、白鑞一百觔、蘇木一千觔。』
献上品には胡椒などの輸入品が含まれるので、この焔硝が中国産か国産品かどうかは不明であるが、日本人が焔硝についての知識があったことは事実である。
当時の朝鮮も天然の硝石の産出が無いので、自国で床古土法により焔硝を生産して火器を運用している。
焔硝の献上記録はこれのみで、なぜ日本国王(将軍)の献上品に焔硝が含まれていたかは謎である。
1斤600グラムとすれば20斤は12キログラムとなるので飲用漢方薬としては多すぎ、朝鮮に無い高純度焔硝の酸化剤としての用途が考えられる。
日本は古来より朱色を好み、神社や国旗にまで朱色を使う、朱(丹)の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。 >>610
0640人間七七四年
2011/03/03(木) 22:50:50.46ID:QKeSzC5e0641人間七七四年
2011/03/03(木) 23:01:54.85ID:lIEQWPvT0642人間七七四年
2011/03/04(金) 21:38:27.90ID:SMOF1sDs0643人間七七四年
2011/03/06(日) 17:25:26.88ID:+v5sdylDいや、それは無理でしょ。>>642みたいな荒らし兼保守する能力しかないのは今までの流れを見てればねえ。
0644人間七七四年
2011/03/06(日) 23:50:36.57ID:jZ5vyJRoそれが一年ちょっと前、変な連載を始めだした頃からおかしくなっていった。
何かあったのか?
S字さんに聞くよ>>639、自分のやってることをどう思ってる?なんで答えるべきことに黙ってるの?
なんか人間味が感じられないんだけど。
0645人間七七四年
2011/03/07(月) 00:19:58.30ID:wlwzhSta0646人間七七四年
2011/03/07(月) 17:55:51.67ID:Oylfne9T話を聞いてくれる人もいない
ここなら誰かは読むもんね
0647S字型金具
2011/03/15(火) 19:42:20.94ID:XkroXJrZ洞富雄さんは、著書「鉄砲―伝来とその影響」で「古くから日本に火薬があったのではないか?」と指摘している。洞さんが何を言いたいか良く解らないところがあるので、P43・P44の全文を紹介します。
『※なお、「明史」巻322、日本伝には、古くから日本に火薬があったことを示すかのような不思議な話が載っている。それは胡藍の獄で有名な胡維庸の謀反に関係したことで、公武20年(1387)の記につづけてこう述べているのである。
「先是、胡惟庸謀逆、欲籍日本為助、乃厚結寧波衛指揮林賢、佯奏賢罪、謫居日本、令交通其君臣、尋奏復賢職、遣使召之、密致書其王、借兵助己、賢還、其王遣僧如瑤率兵卒四百余人、
詐称入貢、且献巨燭、蔵火薬・刀剣其中、既至、而惟庸己敗、計不行、帝亦未知其狡謀也、越数年、其事始露、乃族賢、而怒日本特甚、決意絶之、専以防海為努、」
この火薬云々の一件は、「明史」の日本伝に記されているだけで、同書、巻308の胡惟庸伝や「明史紀事本末」巻13の胡藍之獄の条には見えていない。
これについて、所荘吉氏は「(補説)天文以前における銃砲伝来の実否について」(「銃砲史研究」第83号、1976年10月)で、「この事件は「明史」のみでなく、「皇明実録」、「皇明祖訓」に掲載されているにもかかわらず、信じ難いことで、
胡惟庸を失脚させるために、明代における仮想敵国日本の名を利用したものと考えられ、このような事実は否定さるべきであり、それにともなって、南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたことも否定されよう」と断じている。
わたくしも所氏同様、「明史」日本伝に見られる、明初の洪武年間はやくも日本人が火薬をつかっていたかのような記述内容を、そのまま真実をつたえていると信じようとするものではない。
ただ、所氏の述べているところを読んで気になる点がある。それは「皇明祖訓」や「明実録」にも、火薬云々と記されているように誤って読みとる向きがあるやもしれないということである。
「皇明祖訓」には、「日本国」として、「雖朝実詐。暗通奸臣胡惟庸、謀為不軌。故絶之」と記しているだけであり、「明実録」(洪武30年8月丙午条)には、胡惟庸の謀乱と外国との関係が記されているが、日本のことは見えていない。』
鉄砲伝来(?)よりも155年前、「南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたこと」を否定して良いのだろうか?
○太祖皇明祖訓の読み下し文で、「朝」を「日本朝」として「日本朝すると雖も実は謀りて、暗に奸臣、胡惟庸と通じ、不軌を為す事を謀る故に之と絶つ。」と書いてあるものがある。
○鄭若曽が1562年に著した「籌海図編」にも、「十五年、賊臣胡惟庸党備倭指揮林賢、入倭搆乱、十六年、寇金郷、進巨燭暗蔵火薬兵器、佐惟庸為不軌、于是高皇帝訓、絶其往来、」とあり、以前より日本に「火薬兵器」があったことを認めている。
0648人間七七四年
2011/03/15(火) 20:18:53.20ID:v6I/UQAL日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とか
どこの老害暗黒爺だよ
0649S字型金具
2011/03/15(火) 21:14:08.62ID:XkroXJrZ>日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とかどこの老害暗黒爺だよ
老害暗黒爺は『所荘吉』さんで、「このような事実は否定さるべき」と書いて日本の銃砲史・火薬史を組み立てており、現在の定説となっている。
「ID:v6I/UQAL」さんのような考え方は、まだまだ少数意見である。
0650人間七七四年
2011/03/15(火) 21:32:19.57ID:rvBRvm8A0651人間七七四年
2011/03/15(火) 21:49:17.45ID:v6I/UQAL明清の儒学者かよ、というよりこの方面は全然研究者いないの?
0652S字型金具
2011/03/15(火) 22:40:02.62ID:XkroXJrZ鄭若曽は、明・清の儒学者ではない。
この方面(銃砲?・火薬?・花火?)は、範囲が広い割にはマイナーな分野で、本を書いても多くは売れない。そのため、研究者(学者)は経済的に生活が成り立たないので少なく、殆どの方は趣味の範囲でのサブ研究となっている。
しかし、歴史からも消えており、面白おかしく書けば売れる要素があるのでトンデモ本、ゲームか現実か判らないものが横行している。
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