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▼火縄銃について語ろう▲

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDM
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0353S字型金具2010/02/17(水) 15:24:07ID:XI+C2b4T
戦国期の火縄銃についての疑問DのA

「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこない。
佛郎機は国名で、正徳12年(1517年)、佛郎機種は明国へ朝貢したが、その後、国交を断られた。
佛郎機砲は、佛郎機種が中国(明)へ伝え、明が改良した大砲である。
明は、嘉靖2年(1523年)に試作し、嘉靖7年(1528年)には4000門を配備したが、小型火器である銃(佛郎機槍?)については、不明である。

「鉄炮記」に、天文12年(1543年)に着いたのは、「西南蛮種之賈胡也」、すなわち、「東南アジアの商人である」とはっきり書いてある。
文中に、6箇所「蛮種」が出てくるが、「佛郎機種」よりは「西南蛮種」としたほうが妥当だと思え、また「その後どうなったか」については書かれていない。
「鉄炮記」での「蛮種」は、「其形不類,其語不通,見者以為奇怪矣」
明国「武備志」でのポルトガル人は、「顧應祥云、佛狼機國名也、非銃名也、正徳丁丑(1517年)、予任廣東僉事、署海道事、驀有大海船二隻、直至廣城懐遠驛、稱係佛狼機國進貢、其船主名加必丹、其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」
その翌年、「蛮種の鉄匠」(たぶん鍛冶職人)より、「底塞ぎ」を学んだが、通訳や、筆談、風体については書かれていない。

五峯(大明儒生)が「倭寇の王直」説は、天文12年(1543年)現在、日本語が喋れないので、「アウト!」。
天文12年(1543年)の種子島の当主は「恵時」のはずだか(時尭は当時15歳?)、なぜか文中1箇所のみである。

Dについては多くの疑問があり、長くなりますが書かせてください。
0354S字型金具2010/02/17(水) 17:25:37ID:XI+C2b4T
>>352
明朝が滅亡したのは崇禎17年・寛永21年(1644年)ですが、この銃については、慶長9年(1604年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までに持ち込むことは、この寺の性格上、殆ど不可能です。
戦後、寺蔵の調査の際に忘れ去られていた物が出てきたが、寺とは合わないためガラクタと一緒に廃棄処分品として置いてあったものではなかろうか。 >>243
文禄・慶長の役(1592年から1598年)の際、日本中から色々な種類・形式の銃を集めて出征しており、また、明からの輸入(戦利品)の可能性もありますが、「本願寺の銃」としたいものです。
朱舜水とは時代が違うので、「この寺所蔵の銃」とは関係ないと思います。

ちょっと面白いものを見つけたので
中国(明)が日本の倭銃について研究していたのは事実ですが、私は「明代徐州衛遺址出土の鳥槍」については、倭銃の可能性が高いと思っています。
火鋏は欠落していますが、引金・元目当の位置?。弾金・締金は、真鍮・青銅?
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/128522/
0355人間七七四年2010/02/17(水) 23:09:42ID:Wwfg0wWj
>>354
どこの寺かは存じませんが、明からの帰化人は寺をひとまずの住処とする事が多かったので、
彼らの武器が寺社に持ち込まれる可能性はなくはないでしょう。(当時、漢語に堪能な日本人は学識階級である僧侶くらい)
黙子如定、隠元隆gが身を寄せた興福寺など。
寺社領は権力の及ばない治外法権の領域でもありますし、
そう思えばu7dee9885fw5gz6さんが目撃されたと言う
「なぜかサーペンタイン銃を持った僧兵の掛け軸」の由来も説明がつくような気がしまして。
可能性の一つとしてお留め置きいただければ幸いです。
0356S字型金具2010/02/20(土) 02:11:06ID:4EuxLzN2
戦国期の火縄銃についての疑問DのB

「鉄炮記」は種子島氏16代当主の久時(1568〜1612)が、慶長11年(1606年)『和尚である南浦文之』に編纂させたものである。
恵時は、久時の祖父(1503〜1567)で13代当主。「鉄炮記」登場は1箇所。
時堯は、久時の父(1528〜1579)で14代当主。「鉄炮記」登場は14箇所。

@天文12年(1543年)3月23日、禰寝氏が300人の兵を率いて種子島を攻撃し、種子島氏は戦いに負ける。
恵時(当時40歳)は屋久島に逃亡する。時堯(当時15歳)は屋久島を譲ることで和解。その後、恵時は本島へ帰還する。(日時は不明)
A8月25日に南蛮船(百余人乗船)が現れ、恵時と時堯に連絡入る(恵時の記載はここだけ)。すぐに船数十艘に南蛮船を引かせ、27日赤尾木港に入港させる。
Bある日、時堯は通訳を介して、南蛮人から鉄砲の奥義を教えてもらう。
C9月節句の日、時堯は試し撃ちを行い、とても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、2挺の鉄砲を買い求め、家宝とした。
Dこの頃、時堯は、杉坊某公に鉄砲1挺を贈り、妙薬の法と火放の道も教えた。
Eこの後の、南蛮人百余人の動向は不明。

F天文13年(1544年)、恵時は屋久島の禰寝勢を攻撃して戦いに勝ち、屋久島を奪還する。(戦いの日時は不明)
禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施されていて、たちまち浸水、転覆して禰寝勢は全滅した。
以後、禰寝氏との対立が激化する。
G再び来た南蛮人(一人の鉄匠)に鉄砲製法を学ぶ。来航日時、南蛮人の動向は不明。

H何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製することができるようになり、習うものが増えた。
Iその後、商人の橘屋又三郎が種子島に一・二年居住して、鉄砲についてほとんど学んだ。

「鉄炮記」は種子島時堯(当時15・16歳〜)について書かれており、種子島氏は在地領主として種子島を支配していたが、天文12年以来、屋久島・口永良部島などを巡り禰寝氏(大隅国の領主)と争いを繰り返していた。
@Fの原典は未確認ですが、大きく違わないと思います。
このような状況を考慮に入れると、「鉄炮記」の記述内容は「のんびり」していて信憑性は低く、信頼できないところが多い。
「漂流してきた西南蛮船を略奪、葬り去った際に、略奪品の中に鉄砲があった」とするほうが妥当で、「最初の鉄砲伝来・日本発見」とは関連が無いかも知れない。
0357月孔雀2010/02/20(土) 02:13:12ID:88kOxkdN
米兵海兵隊の銃を、一丁、盗んできなさい。
自衛隊の工作員は、そのくらい、やってるかな・・
0358人間七七四年2010/02/20(土) 09:19:50ID:5600RxFQ
海兵隊が火縄銃使ってるとは知りませんでした
0359S字型金具2010/02/22(月) 02:41:11ID:Q700ATRt
戦国期の火縄銃についての疑問DのC

@中国(明)は、1405年から1433年までの28年間に7次の大航海を行い(東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカまでの航海)、キリン・ライオン・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れて帰った。
Aその後、明はマラッカ王国(マレー半島南岸のイスラム港市国家、1402年〜1511年)のスマトラとマラッカに官廠(貿易中継施設)を開設していた。
B中国は、マレー半島の西側を「西洋」と呼び、東側を「南海」と呼んでいた。
Cポルトガルは、インドのゴアに基地を設営(1479 年)した後、そこから18隻、1400人の船隊でマラッカ王国を攻撃したので、マラッカ王国は滅亡(1511年)してしまった。
Dそこで、ポルトガルは日本を含む東アジアの情報を得て、正徳12年(1517年)明国へ朝貢したが、明はポルトガルについては知らなく、国名(後に佛郎機・フランキ)も無かった。
Eしかし、明は「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」として、1520年にポルトガルを追い払い、鎖国を行った。
F1522年、ポルトガルは5隻の軍艦で広東を攻撃してきたが、明軍は岸炮・艦炮で反攻したのでポルトガル軍艦2隻が分捕られ、3隻がマラッカに戻った。このとき、2隻の艦炮の大砲(佛狼機)を20門手に入れた。
G1523年、明は分捕った艦炮から佛狼機を試作し、1528年には4000門を配備した。(小型火器については、不明)
H当時、東アジアにおいて倭寇が活躍していたので、ポルトガル(佛狼機夷)は中国東南部の沿海貿易に倭寇を利用した。
I1548年、明は、鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
Jポルトガルが征服から貿易に転向したことが了解されたので、明は1557年にマカオでの居留権を与えた。
K1604年、明軍とオランダ(紅毛夷)の船と戦闘になり明軍が負けた。その後、佛郎機炮から紅毛炮に切り替えていった。

以上が当時の大まかな東アジア情勢である。
ポルトガルは日本については知っていたが、1522年以降1548年頃(?)までの間は、直接日本に行けない事情があった。
そのため、鉄砲伝来倭寇説も考えられるが、黒潮による漂流、中国からの伝来もありえる。
しかし、今までのところ中国でポルトガル(佛狼機夷)の小銃記録が見られなく、仮に神器譜(しんきふ)の西洋銃がそれだとしたら、倭銃とはまったく異なった銃である。
日本に伝来した銃すべてがポルトガル製とは考えられなく、マラッカ銃についても中国に記録が無いので(私だけか?)、日本の火縄銃について再考が求められる。
0360人間七七四年2010/02/22(月) 03:41:33ID:dWBE/XKT
もう自分のブログつくってそこでやれよ。
このスレではなっから答えを求めない「ボクの見つけたすごい疑問!」をやられてもみんな困っちゃうだろ。
0361u7dee9885fw5gz62010/02/23(火) 06:10:32ID:c5chY3op
>>360

火繩銃のスレなんだから、問題ないでしょ?
むしろ、否定なら自分の持論で反論すれば?
0362人間七七四年2010/02/24(水) 08:47:30ID:AXA6DHn8
S字型金具氏が作業仮説としてどのような形の伝来ルートを想定されているか、
いまいちよくわからんのですが。(何年にどこから、どのように)
既知の説では明が日本式の火縄銃の製法を得たのは1548年、
トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが
0363人間七七四年2010/02/24(水) 09:32:54ID:XgOo50Dr
>>360
スルーしているからいいよ
読ませようとする努力もないみたいだから
ブログにもならない
0364S字型金具2010/02/25(木) 23:18:53ID:4fLDrvuu
戦国期の火縄銃についての疑問DのD

天文18年?(1549年?)、摂津の細川晴元は山城の本能寺へ出した書状に
『種子島より鉄炮馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候・・・』と書いてあるので、種子島に鉄砲があったことは間違いない。

「鉄炮記」には当然のことながら、鉄炮について書いてある。
本文中に「鉄炮」の単語は10箇所出てくるが、「種子島筒」「南蛮筒」「異風筒」など「鉄炮」の異名については「ゼロ」である。
文中で、「始め、その名前も使い方もよく分からなかったが、鉄炮の名称は明の人、または種子島の誰かが名づけた」ものとしている。
『始不知其何名。亦不詳其為何用。既而人名為鉄炮者。不知。明人之所名乎。抑不知。我一島者之所名乎。』

しかし、中国(明)の書物に「鉄炮」の記載は無く(私が知らないのか?)、小さい物は「○○銃」、大きい物は「○○槍」などで、総称する名は無い。
なぜ、「鉄炮記」に、「種子島の人がよく分からない内に、鉄炮と名づけた」と記載する必要があったのだろうか?
時堯は、南蛮人から名称も聞かずに買ったり、教えてもらっていたのだろうか?
また、なぜ「自分が初めて名づけた」と書けなかったのだろうか?

その当時の古文書には「鉄炮」のほかに、天文23年の大館晴光より大友義鎭あての書状には「南蠻鐵炮」、永禄3年の大友宗麟より足利義輝あての書状には「種子島筒」、天正年間の土井覺兼日記は「手火矢」、「鐵放」など、用例・異名?はあった。
このことは、種子島以外に鉄炮があったことを示唆している。
0365S字型金具2010/02/26(金) 00:11:30ID:F0TPVRUD
>>362 様
「鉄炮」とは何か、「伝来」とは何処までをいうのかを定義しないと答えがでません。
まだ確証は得られていませんが、私は鉄砲らしきものから(花火を含む)、火薬の材料などを含む技術の伝来について調べています。
人によっては、「火縄銃」に限定、「南蛮筒」に限定して論じていますが、「鉄砲については広く捕らえたほうがよいのでは」と思っております。
「伝来」についても、「手に入れた=伝来」の方もいますが、それを理解し改良できるようになったら伝来したものと解釈しています。
したがって、私は「1400年ごろから伝来が始まった」と思っております。 >>336
「トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが」は、中国(明)の「趙士禎が」であり、日本ではそれ以前の可能性があり、鉄砲の改良に役立ったと思っております。
0366人間七七四年2010/02/26(金) 15:55:43ID:3iRSp7VP
元寇の時代には、鉄炮と言うと鉄片入り陶製手榴弾の事だったよな。
当時は、火薬の爆発圧で金属片を加速して殺傷する兵器全般を示す
一般名詞だったんじゃないの?
0367u7dee9885fw5gz62010/02/26(金) 18:15:49ID:7Vs2QGrx
>>365

日本に於いての火砲の起源は、蒙古襲来のてつはう(震天雷)からの認識で問題ないと思います。
記録が消失している事が残念ですが、当時でも不発、戦利品の震天雷の実態解明は、為されたと思います。
木炭、硫黄に関しては、当時でも即座に解ると思います。
火薬の起源伝来については、ヨーロッパよりも、以外に日本の方が早いかもしれません。

0368人間七七四年2010/02/26(金) 23:19:38ID:kPG/P8+Q
ここでの鉄砲の定義は「鉄製の、鍛造による、マッチロックのマスケット銃」で良いかと。
明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。
応仁の乱の時に早くも火砲が使われていたという話などもありますが、
たとえそれが事実だとしても直接的に火縄銃の参考になるものではなかったでしょう。
0369S字型金具2010/02/27(土) 00:33:46ID:76ojZ+Hy
>>367
「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」の実物が、長崎県鷹島町神崎港の海底から出土しています。
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics011025.html
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics020811.html
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics020811-2.html
これは、中に鉄片が入った手榴弾のような「火器」ですが、「てつはう」→「てつほう」→「鉄放」で鉄砲をイメージしますが、私は「火砲」には入らないと思います。
「てつはう」の単語は「蒙古襲来絵詞」以来、しばらく記録に出てきません。(たぶん?)
火薬の使用目的は「火器」以外にもありますので、起源伝来についてはよくわかりません。
0370S字型金具2010/02/27(土) 01:14:59ID:76ojZ+Hy
>>368
『明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。』

明国の「神鎗(神槍)」(1410年ごろからか?)などは、銃身が鉄、握りが木で作られた銃砲武器で、青銅製の鋳造砲だけではありません。
>>332 に関連がありそうです。
0371人間七七四年2010/02/27(土) 13:10:28ID:rezmG18b
>>370
失礼しました。
ここで言いたかったのは材質が青銅か鉄かではなく、鋳造と鍛造の違いです。
神槍とはこのような火器でしょうが
ttp://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/shenqiang.html
ttp://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/huoqiang.html
これらは鍛造ではなく、鋳型に流し込んで作る鋳鉄製ですね。
鍛造ならば尾詮にネジが切られているはずですが、それだとこのような柄は付きません。
マスケットとの製造技術の関連は火薬の基礎技術以外の点では薄そうに思います。
0372S字型金具2010/02/27(土) 14:26:02ID:76ojZ+Hy
>>371
武器図書館の管理人さんはよくがんばって情報収集され、頭の下がる思いです。
参考文献に「篠田耕一著 武器と防具 中国編」を上げておられますが、紙面(?)の都合上全文を採用されておられません。
篠田さんの本では、「銃身は鉄を鍛造したもので、後部の握る部分は木で作ります。(225ページ)」となっております。
「鋳鉄」のためには、石炭(またはコークス)の利用が必要と思いますが、当時の中国ではどうだったでしょうか?
また、鉄砲に「ネジを切った尾栓」は、絶対的な必要条件ではありません。
0373人間七七四年2010/02/27(土) 15:47:20ID:rezmG18b
鍛造の銃も存在したのですか。
しかしそれだけの技術を持ちながら、なぜ明はマスケットに相当する火器を自力で発明できなかったのでしょうか?

ちなみに中国では鋳鉄は紀元前から使われてますよ。
石炭、コークス高炉も(驚くべき事に)宋代には出現しており、古来から鋳物大国と言って良い国です。
ただ明代には森林資源の減少からかつてほどは盛んでなくなっていたようです。
>尾詮
中国の鍛造がどのようなものだったかはわかりませんが、
少なくとも日本の種子島のように鉄板を巻いて作る方式には不可欠なのでは。できたらやってるはずなので。
0374人間七七四年2010/02/28(日) 11:00:47ID:JgSQ5S+e
16世紀の明は銅手銃より、銃身が三つある三眼銃に力を入れている。
編成を見ると華北は三眼銃が多く、華南は戚継光以降急速に鳥銃(火縄銃)が普及してるな。
火器のみで編成された歩兵の運用、馬上での運用などは日本よりもはるかに進んでいたが、
いかんせん銃自体がローテクなのが惜しい。

戦術的には槍兵と鳥銃兵を組み合わせたり、戚継光のように諸兵科混成で小隊を組んだりさまざま。
ヨーロッパのように整然とした陣形を組み、小隊の隊形まで決め事があった。
演習に立ち会ったスペイン人は「中国以上に規律のある軍隊を持つ国はない、彼らは世界を征服できる」なんて記録してるね。
0375人間七七四年2010/02/28(日) 13:17:28ID:XKvqPeBe
明は生産力と動員力はすさまじいものがあるんだけど、
国策で技術の進歩をある程度放棄しちゃってるのがな…
海禁さえしてなければ鳥銃も真っ先に伝来してただろうね
0376S字型金具2010/03/03(水) 23:33:39ID:uiB0tezS
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述について@

@『手に一物を携う。長きこと二三尺』
「西南蛮種は、長さ60cmから90cmの物を手に持っていた」と書いてある。
種子島開発総合センター寄託の初伝銃の全長は100cm(口径17mm)、八坂金兵衛初作銃は100cm(口径14mm)である。
一般的に火縄銃の長さは100cmよりも長く、西南蛮種は、時尭が買った2丁の他に、短い銃を所持していたのだろうか?
A『その体たるや、中通じ外直にして、重きをもって質となす。』
「胴体は、中空状の真っ直ぐな、重たい材質」と書いてあり、種子島は砂鉄の産地で、鉄匠(鍛冶職人)もいたのに、なぜ、「鉄」と書いてないのだろうか?
もしかしたら、「青銅製品」?
B『その中は常に通ずと雖も、その底は密塞を要とす。』
胴体は管状であるが、その底は密封する必要があると書いてあるが、「栓」については書かれていない。
C『その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり』
本文中に、「火皿」「火蓋」、「引金」などの点火部品の記載は無い。
D『形象物の比倫すべきなし。』
「いままで、似た形の物は、見たことが無かった」とのことである。
E『その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛をもってす。』
なぜ、火薬のことを「妙薬」と書いているのだろうか。
当時、火薬のほかに、合薬、口火薬、玉薬などと書かれている古文書はあるが、「妙薬」「小団鉛」は今のところ、この古文書だけだったような気がする。(私だけ知らないのか)
「小団鉛」は鉛製の弾だと思うが、ちなみに朝鮮での鉛弾使用は、1593年からである。>>336 @
青銅製の銃でも「鉄弾」を発射していたら、「鉄放」の名前でもよいのかな?
F『みずから一物を手にして、その身を修め、目を眇にして、その一穴より火を放つときは。』
目を眇にして(目を細くして狙いを付ける?)と書いてあるが、本文中には、「元目当」「先目当」が出てこない。
「火を放つとき」としているが、その点火方法(引金)が書いてない。

以上の記述では、火縄銃というよりも「指火式(タッチホール)」銃砲の記述のように思えます。
0377人間七七四年2010/03/04(木) 21:12:41ID:O3SmebTK
カルチャーショックを表現するためにわざと朴訥な書き方してんでしょそりゃ
0378人間七七四年2010/03/06(土) 12:55:49ID:rUnAFpOw
元禄期の尾張藩では、鉄砲の鍛錬の1つに「千撃ちというのがあったそうだ。
一人で文字通り、的に向けて鉄砲を1000発撃つこと。

これは通例卯の一刻(午前五時)から申の半刻(午後四時)まで行われるもので、
不発弾や上手く発射されなかった、カウントされないのもの含めてこの11時間の間に
1100〜1400発ほど撃ったらしい。
平均して1時間に100発前後くらいですな。
0379人間七七四年2010/03/06(土) 13:01:25ID:yPipITQT
戦時に備え火薬を備蓄しとかなきゃならんが、消費期限の問題もあり
劣化廃棄するよりは景気良く使っちゃえってことなのか

単にスポ根物なのか
0380人間七七四年2010/03/06(土) 14:29:14ID:tK9HNH8K
弓でも同じことしてるしスポ根物なんだろ
0381人間七七四年2010/03/06(土) 14:56:45ID:VzSI7BEX
日本人は狙撃大好きだからなぁ
0382人間七七四年2010/03/06(土) 17:06:46ID:yPipITQT
物資が少ないからね、

ウンコしたとき紙が少なかったら大事に丁寧に効率よく拭き取るだろ
0383人間七七四年2010/03/06(土) 17:13:51ID:VzSI7BEX
それもあるけど、妙に凝り性というか求道的な所があるしな
職人芸大好き的な
0384人間七七四年2010/03/06(土) 17:32:46ID:w+XoreIK
>>382
旧軍も短機関銃や特殊鋼を作れるだけの技術力自体は一応あったけど、
先立つ物資が慢性的に欠けてたもんなぁ。
0385人間七七四年2010/03/06(土) 18:03:03ID:fpWQDvI3
まあ何とかかんとか道にしたが最後、
戦争には絶対勝てないと言う事だ
0386人間七七四年2010/03/07(日) 21:15:52ID:aHxWa1vS
ちなみに同じ元禄期、鉄砲組ではない武士の鉄砲の練習は、だいたい1回20発くらいだったようだ。
弾丸の製造や火薬の調合も自分たちでやったらしい。
0387人間七七四年2010/03/09(火) 22:16:34ID:GOQ3odqi
0388人間七七四年2010/03/11(木) 01:52:25ID:o1h2QYbf
火縄銃は毎回、実包を自作するようなもんだしな。
ある程度の命中率を維持しようとするなら、毎回、同じ大きさ形状の弾、
同じ調合の火薬を、同じ硬さに付き固める必要があるわけで、撃つ技術だけで済む
現代のライフルとは比較にならないぐらいの熟練が必要だろうな。
しかも、銃ごとの癖もかなりバラつくから、銃の個体ごとに習熟が必要になるわけだ。
こう考えると、鉄砲足軽って相当の技術職だよな。
熟練の鉄砲足軽が大勢討たれてしまえば、かなりの時間を掛けないと
穴を埋められないんじゃないか?
0389人間七七四年2010/03/11(木) 02:42:36ID:Zd1wJlq6
そんなもんある程度の命中率とやらしだいだろ
0390S字型金具2010/03/11(木) 10:07:04ID:SQQpJy0k
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述についてA

@『その形象を熟視せしめ、月鍛季錬して、新たにこれを製せんと欲す。その形制すこぶるこれに似たりと雖も、その底のこれを塞ぐる所似を知らず』
「よく似た銃ができたが、底の塞ぎ方が分からなかった」と書いてあるが、張り塞ぎにしてでも銃として使わなかったのだろうか?
銃身の尾部は密封すればよいことで、鉄砲には必ずしも「尾栓」は必要でない。
「尾栓」の最大の利点は銃口内の掃除に便利なことで、大砲や青銅製銃では「尾栓」の無いものがある。
また、実際、張り塞ぎの火縄銃の遺品も残っているようである。
A『その底の塞ぐところを学ばしむ。漸く時月を経て、その巻いてこれを蔵むることを知る』
翌年に来た蛮種から「尾栓」について学び、数ヶ月かけて習得した。
B『これにおいて歳余にして新たに数十の鉄炮を製す』
こうして、何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製造した。
C『しかして後に、その台の形製と、その飾の鍵鑰のごとくなるものとを製しつくる』
その後、銃の台(銃床?)の形製と、銃に鍵鑰のような飾り(内カラクリ?)を付けて製造した。
ということは、初伝の銃には、銃床とカラクリが無かったのか?
D『時尭の意は、その台とその飾とにあらず。これを軍を行るの時に用うべきにあり』
時尭は、「銃床」と「カラクリ」について不満があった。
「銃を行軍の際に用いるつもりで作った」としているが、理由がよく解らず、『時尭の意』とは何であったのだろうか?

「鉄炮記」の記述は、種子島開発総合センター寄託の初伝銃とは、長さも形も異なるに様に書いてある。
記述が違うのか、初伝銃が違うのか、両方とも違うのか?
0391人間七七四年2010/03/11(木) 18:50:47ID:TnOWVZzX
>>388
少数の狙撃兵が足軽頭や侍大将を狙うならまだしも、
多数の兵員が敵部隊を撃つなら命中精度はほとんど問題ないのでは?
0392人間七七四年2010/03/11(木) 19:23:07ID:Kxm7rb1o
集団で密集してるなら当たるだろうけど、日本は違うから
0393人間七七四年2010/03/11(木) 20:42:24ID:Ezr9a9AX
日本の備もあれくらいの密度があって、秩序だって整列しているから密集隊形だよ
縦深が浅いだけ
0394人間七七四年2010/03/11(木) 21:12:45ID:nNom8eXm
足軽隊は横隊だが間隔は開いているから密集と言えるかは微妙な気がする
基本的に一列だし、射撃前の移動はかなり好き勝手に走るし
0395人間七七四年2010/03/11(木) 21:25:12ID:Ezr9a9AX
備の規模によるが最前列の幟・長槍をすり抜けても、二・四列目の徒士、三・五列目の長槍、
その後ろの侍大将の護衛や方陣、騎馬に当たるんじゃない?
0396人間七七四年2010/03/11(木) 21:45:27ID:nNom8eXm
10〜20m程、間隔が開いているからあまりあたらないと思う
流れ弾が当たればラッキー程度
0397人間七七四年2010/03/11(木) 23:26:03ID:Ezr9a9AX
>>396
大抵の備は二列目までの縦の間隔は1〜数m離れている程度じゃない?
長槍は体を揺らすと隣と肩が触れるくらいで並んでるし
0398人間七七四年2010/03/12(金) 00:22:07ID:rC00D5ZV
どっちにしろ日本の使い方は命中力重視だから、
敵が固まってるから問題ないって事は無いな。
0399人間七七四年2010/03/12(金) 08:39:31ID:fYSkWgHC
>>397
甲陽軍鑑抜書にはそう書かれていた
長柄についてはそこら辺が鉄砲普及以降、長柄が戦場の主力から後退した一因と思われる
(雑兵物語でも長柄は補助的な任務)
0400人間七七四年2010/03/13(土) 00:11:56ID:DVEWF4kd
ゴルゴ13の第500話は火縄銃ネタだそうな
0401人間七七四年2010/03/13(土) 10:28:19ID:/0W8oLv5


.     _ ._ ._
     |_||_||_|∧_∧    火縄銃?
     |_||_||_|(・ω・ )    竹束でボコボコにしてやんよ!
     |_||_||_|⊂   )
     |_||_||_| (   ヽ
     |_||_||_| ∪ ̄\ )
0402人間七七四年2010/03/13(土) 11:25:20ID:Ji6nMPdL

                                   、_人_从_人__/
                                   _)
 ,..r;;:  (  人)  ) ,;`ー、          | ヽ丶       _) 消  竹
 ヾゞ、  ゞ'´   '`´   `ヾ、     ─|─           _) 毒   束
          -‐':、ゞ'``  ,l      / | ヽ            _) だ  は
ヾ、 ゞ;;.  ,r-、   `ヾ、    ヽ、                   _)  l
, rヾ    ,r!/r'ヽ    '`      \      _|_      _) っ
   _,,,.,ノ、_ ヽ,       `ゞ;;    ;:、    /|        `) !
,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、      ``  ´;;i             V^V⌒W^Y⌒
__,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、        `i;:、      オ
;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i   . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、                   ,ィ
彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ  ,t'´           ,.、ー、  ゝ     ォ             i|l;
;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´    ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r    ヽ、            ,j|l;;
j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ    ``´ー  ゙i ;;: ,r'      )  ,r、       ,rヾlir'ミ,
  / ,;:' '´/ ー≡;i{、      /ヾr'´  ,.   '`;;:、 〉ゝ  r-ー-、_ ,{i=i= }i、
ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ  ;:、 `' (´  `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、
,,:'  ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´  `ヾ、ヾ   '    ー、  ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ
'   ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´     ヾ,ゞ         、 ゞ,ミ;:l;;l  ,!  ,!,i;;'´¨/
;.   r-‐;;'"}            ``ヾ、  ノ       ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l
....   _,,,ィ、 i        'ヾ人  、}( /     ノ   ,r'i  r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
0403人間七七四年2010/03/13(土) 14:29:32ID:bk22E319
竹束の防火対策として、竹束に土を塗って焼けるのを防ぐという手段がとられていたそうな。
これでだいたいどうにかなったらしい。
0404人間七七四年2010/03/13(土) 15:43:19ID:URRIk2KA
>>403
要するに動く土塀と化すわけだな。
まあ、重量はかなり増えそうだが。
0405人間七七四年2010/03/13(土) 16:05:10ID:79M95/C7


          .__
          |風|
          |林|
          |火|       __________
          |山|     /
  _∧ .∧(oノヘ| ̄     <  それじゃ騎馬隊が歯輪式拳銃持ってきたらどうすんだYO 
 (_・ |/(゚Д゚ )|\      \__________
    |\Ю ⊂)_|√ヽ
   (  ̄ ~∪ )^)ノ
    ||` || ( | ( |
    '~ ~ '~ '~
0406S字型金具2010/03/17(水) 23:55:04ID:Ag7bPn4I
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述についてB

本文に『その妙薬の搗篩・和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ』と書いてある。
天文21年?(1552年?)、将軍足利義輝が島津貴久と種子島時堯に、妙薬(鉄放薬)について照会を掛けた古文書がある。
『嶋津修理太夫あて  雖不寄思儀候、鉄放薬事、南蛮人直令相伝、種子嶋調合無比類之由、触御耳、武家御内書如此候条、令啓候。此趣被伝達、無相違候者可然候也。猶不断光院西堂可有漏脱候也。状如件。』
『種子嶋弾正正忠あて  雖不寄思儀候、鉄放薬事、南蛮人直被相伝、調合無比類之由、被触御耳、武家御内書如之候。於無相違者、可為御祝着之旨候。卿以不可有御他言由候。猶自嶋津匠作可有伝達候也。状如件。』

足利義輝は鉄放薬について、調合方法により性能差があることを知っているため照会をしたのであって、種子島の南蛮人直伝調合方法はその一つで、それ以外の南蛮人直伝や他の調合方法も知っている。
この古文書では、「南蛮人直被相伝、調合無比類之由」と煽てて「教えてくれ」と書いているが、その結果については不明である。

南蛮人直伝以外の鉄放薬調合方法は、南蛮人の鉄砲伝来よりも前でなければならなく、南蛮以外から鉄砲が伝来(または、日本国内で進歩・発達)したことになる。
0407人間七七四年2010/03/18(木) 00:46:24ID:87ODpzt3
世界史板の銃砲スレでやった方がいいんじゃない
0408人間七七四年2010/03/18(木) 01:13:18ID:IVPQOWhL
やめて!
0409S字型金具2010/03/24(水) 21:58:34ID:gi2GMbBx
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述についてC

その翌年(1544年)に、蛮種の商人がまた種子島に来た。商人の中に、一人の鉄匠がいたので『金兵衛尉清定なるものをして、其底の塞くところ学ばしむ』と書いてある。
今まで、尾栓製作法については実証実験や文献について報告されているが、現在においても当時の尾栓製作法の確証が得られていない。
ttp://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index.html
尾栓製作法は蛮種の鉄匠から学んでいるのだから、蛮種の製作法を知り、その上で実証実験で確認するのが普通ではないだろうか。
不思議なことに、今までの報告例では日本がオリジナルのように書かれており、蛮種の製作法と比較検討されていない。
また、蛮種の鉄匠から学んでいるのだが、その他の火縄銃製作技術、パーツ名も殆ど見受けられない。(カルカの他には、何があるだろうか?)

『漸く時月を経て、其巻いてこれを蔵むることを知る』と書いてあるので、「捻子」「捩子」ではなく、「螺子(らし)」が正解であり、尾栓はプラグ(Plug)・螺螄底である。
0410S字型金具2010/03/31(水) 20:09:54ID:Qyf6zJg2
戦国期の火縄銃についての疑問DのF
伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠について@

伊川さんは、前後の文章のつじつまがあわないなどの現象(内在的疑問)、「種子島で鉄砲の製造が始まるまでの年代と、明への貢船の派遣年代」について、
『李氏は鉄砲製造開始を早くとも1545年末だとするが、年末である必要はない。鉄炮記を素直に読むならば、鉄砲伝来は1543年8月で、ポルトガル商人再来はその「翌年」、すなわち1544年中であればいつでもよく、
したがって、それから「歳余」(語義としては、1年余りの意)を経た製造開始も、1545年中のどの時期かを確定する根拠はなにもない。
一方で三貢船の動向であるが、なるほど一度は1544年に渡航を試みているものの、種子島に吹き戻され、実際に渡航したのは翌45年である。松下五郎三郎はその段階で乗船したと理解すれば矛盾は解消する。
したがって鉄炮記に記された年次を修正する必要はないものと考えられる。』
『以上により、鉄炮記の内在的疑問を解決することができたと考える』としている。

○「1544年中であればいつでもよく」は、当時は帆船のため、季節風(モンスーン)、海流の影響を考えて考察をしなければならないのではないだろうか。
○松下の乗船には、「漸経時月」+「歳余」(語義としては、1年余りの意?)+「然後製造其台之刑制与其飾之如鍵鑰者」でないと、完成した火縄銃ではない。
○資料Cの鄭瞬功『日本一鑑』では「其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此」となっており、種子島産砂鉄を使っていない鉄砲となる。
○三貢船について、「我嘗聞之於故老曰。天文壬寅癸卯之交。」の解釈が抜けており、外在的疑問の範疇に入る「種子島家譜」で論じている。また、家譜では「天文十四 (一五四五) 年乙巳六月十四日、二合船帰朝す」となっているのだが。
0411人間七七四年2010/04/06(火) 00:58:06ID:mrItx6ti
昔見たテレビで、インドネシアの原住民が自作の火縄銃で猟をしてた。
銃身 車のハンドルシャフト
ストック そこら辺の樹を削って作ったみたいな奴
弾 歯磨き粉のチューブを溶かした奴。
火ばさみとかトリガー周りは、ぶっとい針金見たいのひん曲げて作った
緩発式のバネなし版みたいな奴だった。

火薬の方も、やっぱり自作なのだろうか?
それとも、行商人みたいのが売りにくるのだろうか。
0412S字型金具2010/04/07(水) 22:46:55ID:7LXaSvNR
戦国期の火縄銃についての疑問DのF
伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠についてA

伊川さんは、『鉄炮記を素直に読むならば、鉄砲伝来は1543年8月で、ポルトガル商人再来はその「翌年」、』として、「ポルトガル商人再来」と断定して考察している。
「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこなく、「牟良叔舎」・「喜利志多侘孟太」は、「此是西南蛮種之賈胡・賈胡之長」と明確に書いてあるので、東南アジア人のキリシタンの可能性がある。 >>353
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7
種子島氏(地頭)・島津氏(守護)は、明の海禁政策の中、二合船を出しているので「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」の情報は当然得ていると思われる。
鉄炮記では、天文十二年(一五四三)八月二十五日、南蛮種の船に対して、二十七日己亥までに、数十艘の舟で引かせて、十三里離れた港に入れたことになっている。
明国「武備志」でのポルトガル人は、「其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」と書いてあり、見た目で区別が付くので、百余人の南蛮種を抹殺したものであろうか。
このような状態の船は、通常難破船・漂流船と見るのが妥当で、仮に修理を行っても、翌年中に、季節風、黒潮の大蛇行の中を、同じ所(種子島)に再来できるものだろうか?
また、来る必要性があるだろうか?
一度戻るとしたらマラッカであろうか?(マカオでの居留権は1557年から >>359

となると、「ポルトガル商人再来」よりも、前年と異なった東南アジアの人達が漂着した方が妥当ではなかろうか。
0413人間七七四年2010/04/08(木) 19:29:12ID:tlNQOG+j
>>385
そりゃまた何とも極端な結論ですね……
○○道にしたからって全く戦争で使えなくなるなんて言い切れるんですか?
0414人間七七四年2010/04/14(水) 22:33:58ID:uQjdyyri
撃つためのデザイン 「東洋の銃」
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm10382526

削除されないうちにお早めに


>>411
俺が昔見た番組だと
狩人のおっちゃんが大量のマッチを携帯してて
頭薬をナイフで削ったものを火薬に使って虎撃ってた記憶がある
0415S字型金具2010/04/16(金) 07:03:27ID:0g5BytGD
戦国期の火縄銃についての疑問DのF
伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠についてB

伊川さんは、
『この点を修正した私見をまとめるならば、次のようになるであろう。1542年、ポルトガル人2名は、阿久根近海で遭難した。上陸はできなかったものの、なんらかの経路により琉球にたどり着いた。
翌43年には3名で渡航した。ところが今度は琉球への上陸は許されなかった。他方、彼らとは別途種子島へたどり着いたポルトガル人がいた。』
『史料@「ビーリャロボス艦隊報告」、史料B「発見記」と史料E「鉄炮記」は別の出来事を記していることが明らかなので、史料BとEを切り離し、史料Bの年代が1542年であることを根拠に、
史料Eの記述を錯誤とする外在的批判は成立せず、史料Eを信頼に足る史料と結論づけたい。』
としている。

だからと言って、鉄砲伝来が技術移転の問題を包含している以上、史料Eを信頼に足る史料といえるのかな〜。

また、伊川さんは、『ほぼ同時代の明史料である史料C「日本一鑑」もまた、「手銃、初め佛郎機國に出で、國の商人始め種島之夷に教え作る所なり」と述べ、伝来地が種子島であることを明記していることは大変示唆的である。』としているが、
『曰手銃〈初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此、〉』の中身については怪しいところがある。
0416人間七七四年2010/04/16(金) 10:45:58ID:hm5YhNAp
もういい加減にしてほしいわ
このマスカキ
0417人間七七四年2010/04/16(金) 11:36:21ID:6+DhYf+q
そろそろ自分のブログでやった方がいいぞ
0418S字型金具2010/04/22(木) 23:54:13ID:APoJhTEK
戦国期の火縄銃についての疑問DのG

鉄炮記は、
『 ○鉄炮記  代種子島久時公
隅州の南に一嶋あり、州を去ること一十八里、名づけて種子と曰う。我が祖世々これに居る。古来相伝う、嶋を種子と名づくるは、
この嶋小なりと雖どもその居民もろもろありてかつ富めり、譬えば、種を播くにこれ一種子を下せば、しかも生々窮まりなきが如し、
この故にこれに名づくと。これより先、天文癸卯(十二年)八月二十五丁酉、わが西村の小浦に一の大船あり、何れの国より来るを知らず。』
で始まり、
『いまそれ、この物のわが朝におこなわるるや、けだし六十有余年、鶴髪の翁、なお明らかにこれを記する者あり。ここに知りぬ、
さきの蛮種の二鉄炮、わが時尭これを求めてこれを学び、一たび発して扶桑六十州を聳動す。かつまた、鉄匠をしてこれを製するの道を知りて、
五畿七道にあまねからしむ。しからばすなわち鉄炮のわが種子嶋に権輿するや明らけし。むかし一種子の生々窮まりなきの義をとって、
わが嶋に名づくるは、今もってその識に符えりとなす。古にいわく、先徳善有りて世に昭々たること能わざるは、後世の過ちなりと、
よってこれを書す。 慶長十一年丙午 重陽節 
(洞富雄「鉄砲・思文閣出版」・読み下し文)』
で終わっています。

本文中には、守護職の島津氏や九州の大内氏・大友氏などの記載が無く、種子島から日本全国に鉄砲を普及させたとするこの内容については疑問があります。

続く
0419S字型金具2010/04/23(金) 00:05:02ID:iknMvSLn
戦国期の火縄銃についての疑問DのG
>続きです。

鉄炮記の古文書は3通残っています。
@文之玄昌自筆本の南浦文集の内。
鹿児島大学附属図書館コレクション・玉里文庫(島津久光及び玉里島津家の旧蔵書)・天の部・南浦文集・第1冊に書かれています。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/45186  (図書ID:0110030001)
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/cgi-bin/prec_img_disp.cgi?ts_id=0110030001&start_pos=1&lang_mode=J
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000019.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000020.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000021.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000022.jpg

A文之玄昌の鉄炮記写者或は伊地知季安による半紙写本。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/44243 (図書ID:0100600001)
末文に「慶長十一年丙午重九之節種子島左近大夫将監藤原久時」と書き入れあり。

B1667年に上妻隆直が編纂した『種子島家譜』の内。
末文に「慶長十一年丙午重九之節種子島左近大夫 平久時」と書き入れあり。
鉄炮記とほぼ同様の記述となっている。

鉄炮記(代種子島久時公)は、16代種子島久時が文之玄昌に代作させたもので、著者は、島津家の学僧・禅僧であるため、代作文が多く残っています(南浦文集内に)。
そのためか火縄銃そのものについてはよく知らず、当時の日本での鉄砲に関する種子島以外の逸話・寓話をも含めた文章ではないだろうか。
その内容は、嶋を愛する気持ちのこもったとても良い文章だと思いますが、種子島の名前と種子島時尭の鉄砲に関する美徳を絡ませて、多禰島から種子島、肥後氏から種子島氏への変化の正統性を示すためのものではなかろうか。
0420u7dee9885fw5gz62010/04/23(金) 22:55:05ID:ChtoxhEn
419
S字型金具様、お久しぶりです。
色々と情報交換をしたいと思いますが、掲示板が荒れておりますので、宜しければ、ご連絡下さい。問題の無いアドレスです。
u7dee9885fw5gz6@softbank.ne.jp
0421人間七七四年2010/04/27(火) 02:00:21ID:aMFE8iyW
>>414
それ硫黄の変わりにマッチで代用してんじゃないの?
塩素酸カリとかも入ってるけど、マッチオンリーで虎を殺せるぐらいの撃てるのかな?
炭とかは、そこらの樹を燃やして作ればいいだろうけど。
あそこらへんは、硝石は採掘できないでしょ、
さすがに硝石なんて自分では作らないだろうし。
0422S字型金具2010/04/28(水) 20:25:20ID:hvUQtwJl
戦国期の火縄銃についての疑問DのH

伊川さんは、『史料Bの「発見記」と史料Eの「鉄炮記」は別の出来事を記していることが明らか』としているが、逆に、なぜ、多くの人が『同じ出来事として取り扱っていたか』が疑問である。

日本の中学生歴史教科書には、「種子島の鉄砲伝来」・「宣教師のフランシスコ・ザビエル」が必ず書いてあります。
しかし、今まで、トルデシリャス条約・サラゴサ条約などについては教えられては無く、我々は日本の教科書で洗脳されていたように思います。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080607
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/index.html
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon19.html

次のブログに、売国奴のキリシタン大名らの火薬・硝石の入手例が書かれています。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
しかし、売国奴らが輸入した火薬・硝石だけで、国内需要全てを賄っていたとは考えられず、売国奴以外の大名らはいかにして火薬を入手しただろうか?
当時、ポルトガルばかりではなく、スペイン、オランダ、イギリスなども来航していたが、火縄銃についての技術移転はあったのだろうか? >>329
火縄銃は総合的な技術や材料、軍事、時代の要請などのバックボーンの上で成り立っており、硝石についても記録が無いから、不明だから輸入品として取り扱っても良いものだろうか?
火縄銃についてはいまだに解らないことが多く、解らないことは解らない・不明として、文献至上主義で結論を出されることについては反対である。

明治以降の『上等舶来志向』、戦後の『日本自虐史観』、日本独特の『権威主義』などによって、当時の日本の技術・文化まで歪曲されてしまってはたまりません。
なぜ、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方、とらえ方がなされなかったのでしょうか?
「倭寇による伝来説」で本当に良いのでしょうか? >>327
0423人間七七四年2010/04/28(水) 20:40:44ID:Aq6pmqlE
なにか思想的なスレになっていますね
0424人間七七四年2010/04/29(木) 02:51:01ID:TmNHpqjL
確かに
0425S字型金具2010/04/30(金) 23:10:09ID:xOWnwMBe
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問@

倭寇伝来説は、宇田川武久さんが「戦国日本と世界」に『「鉄砲伝来」再検討』として昭和61年に論文発表されたのが最初だと思われる。
本文85ページ『鉄砲伝来の経路』で
『「鉄砲記」は鉄砲の普及について、種子島を基点に全国へ広まったと説明している。そうしたルートもたしかに鉄砲伝来の経路のひとつと考えてもよいが、真倭の出身地や王直の活動範囲と日本との深い関係、
それにいま述べた朝鮮国王から明政府への報告書の内容などから、ポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたとするより、大方は倭寇が伝えたとみなすほうが至極妥当だとおもう。
倭寇は禁制品の硝石や硫黄を重要な交易品としたが、ときには鉄砲も取り扱ったに相違ない。』としており、
倭寇説の根拠は、「ポルトガル人説よりも至極妥当であり、だから鉄砲(マラッカタイプ)も取り扱ったに相違ない」である。

須川薫雄さんは、「宇田川教授のポルトガル人でなく倭寇が日本に鉄砲を伝えたと言う説には現実性も具体性もない。」としている。
http://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/denrai/index.htm

私は、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方なので、矛盾の多い倭寇説を論考し、その後自説を展開したい。
0426人間七七四年2010/05/01(土) 01:09:55ID:xqT3oOJD
電波ゆんゆん
0427人間七七四年2010/05/01(土) 11:10:00ID:CjX1EIo0
人に読ませようって文章じゃないよな
気持ち悪い
0428人間七七四年2010/05/01(土) 11:41:08ID:bxZIOQsc
彼の備忘録だからここ
0429人間七七四年2010/05/01(土) 13:43:02ID:cfV+xXXA
某研ですら自分のHP持ってるというのに・・・
0430人間七七四年2010/05/02(日) 19:24:06ID:9vxJijHN
まぁ、正直面白そうだとは思うんだけど、
2chでこういうことやられてもひたすら読み辛いからさかのぼって読もうとは絶対に思わないんだよな。
やってる本人は本当にちゃんと把握できてるんだろうか。
0431人間七七四年2010/05/02(日) 19:59:42ID:m81ds3o9
こういう人をアスペルガーっていうのかね
0432人間七七四年2010/05/03(月) 02:05:51ID:urLEQjEv
5/5 愛知県 長篠で長篠合戦のぼりまつり 実演もあり
ttp://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3185,152,719,html
ttp://www.chubu-hakkenden.com/spot/130/
0433人間七七四年2010/05/03(月) 08:55:00ID:Ymv8QZuu
倭寇伝来説は主流でも何でもない宇田川氏だけの主張だからいちいち否定しなくてもいいよ
0434S字型金具2010/05/06(木) 21:21:34ID:u4ZR8J+l
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問A

宇田川さんは、『鉄炮記』は伝来から六十年後、種子島久時が祖父時尭?の鉄砲入手の功績を称えるために(当初は、鉄砲入手の功績を記念して孫の久時?がと書いていた)
南浦文之に書かせたものだが、文之の創作もあり、すべてを史実とすることはできなく、それほど史料的価値が高いとはいえないものであるとしている。

だから、
「十六世紀なかごろ、海外から日本への来航船は頻繁であったが、漂着によるものは一部で、多くは交易の目的で来航し、莫大な利益をあげて帰港した。
こうした来航船が鉄炮を積荷にしていれば、種子島以外の地にも鉄炮が伝来するのはごく自然なのだが、大勢は『鉄炮記』に目を奪われて、こうした発想をしない。」
として、「倭寇」説を組み立てている。

この当時、中国(明朝)は海禁政策を採っており、朝貢関係にある外国の商船以外の受け入れを禁止し、自国の商船の海外渡航を禁じ「海寇」を取り締まっている。
海禁政策では朝貢以外は全て密貿易になり、宇田川さんの「倭寇」説では、日本人・中国(明)人・朝鮮人・東南アジア人・ポルトガル人も「倭寇」に該当してしまい、
また、中国(明)人が主体になり鉄砲を伝えたように書いてあるが、判然としない。

日本からの観点では、中国(明)以外の各国に対しては通常の商業行為であり、密貿易や禁制品という概念は無い。
また、当時の中国には「鉄砲」に関する記述が無く、当時の朝鮮にしても、鉄砲は無く、火薬も市中には無いため、鉄砲・火薬・硝石・硫黄は禁制品となっていない。
鉄砲伝来は日本の問題であり、中国(明)や朝鮮の観点から「密貿易」「禁制品」「倭寇」「鉄砲伝来」を取り上げるよりも、
「日本の問題である」とした発想をすれば、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする見方・考え方が出てくる。

0435人間七七四年2010/05/08(土) 01:32:26ID:ev7hHapT
S字型金具さん、>>226のアルバムが見られないのですが
0436S字型金具2010/05/13(木) 16:40:29ID:5Xr61etU
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問B

「倭寇」説の疑問は、日本に鉄砲が伝来したとしているが、倭寇の構成員でもある中国(明)や朝鮮に伝来した形跡が無いことである。
「倭寇」説では、『来航船が鉄炮を積荷にしていれば、種子島以外の地にも鉄炮が伝来するのはごく自然なのだが』としているが、当時の中国(明)や朝鮮について、鉄砲、火薬、伝承、残品、弾丸などの記録については言及していなく、「倭寇」説は公平な理論とはなっていない。

また、ポルトガルの書簡、報告書などの史料については厳密に検討がなされていなく、都合のいいところだけを取り出して論じている。
ポルトガルの記述では、鉄砲や火薬についてどのように書かれているのだろうか?(それらの史料にはあまり目を通していないので・・・)

「倭寇」説の鉄砲の根源・由来について、『日本に伝えられた火縄銃はヨーロッパのそれではなく、東南アジアで使用されていた火縄銃とみなせるのである。東南アジアが倭寇の交易圏内にあったことはいうまでもあるまい。』としている。
だから、「倭寇」説は、「種子島に伝わった鉄炮は東南アジアの火縄銃(南蛮筒)」という見方をして、多くの、多種類の南蛮筒が次々と渡来したとしている。
所荘吉さんは、『東南アジアの火縄銃の製作地は、マラッカがそれであるとするのが至当であろうと思われる』としているだけで、伝来銃『マラッカ銃』は、状況証拠によるものである。

しかし、『火縄銃は、東南アジアの独創性によって生まれ、発達した』ものとみなせるのなら、『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方もできる。

>>435 サーペンタインロック式古銃の情報を求めておりましたが、これ以上情報が得られないのでアルバムから削除しました。
0437S字型金具2010/05/21(金) 18:39:57ID:x7DV/0VE
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問C

「倭寇」説は、朝鮮王朝の記録『中宗実録』と『明実録』を引き合いに出している。
◎中宗三十九年七月のことである【1544年・天文13年】。一艘の唐船が羅州の飛弥島に停泊した。・・・・中略・・・・。
いきなり火砲を発してきた【卽發火炮】。それにわが船の二人が中って死亡し、二人が傷をうけた【二人中炮而死, 二人中炮而傷,】。
そこでやむなくわが方は火砲と弓箭で応戦したが【而勢不得已應以火炮弓箭】、やがて唐人らは楯に身を隠しながら、櫓を漕いで東方に向かった。このとき、たまたま唐船の船足が鈍くなったので追いついて捕獲することができた。
◎朝鮮王朝が漂流民を保護して明に送還するのは、明との朝貢関係からであるが、なによりも恐れたのは、唐人たちの所持する火砲が商売の末日本に伝わり、日本人が火砲の製作法や射法を学んで、朝鮮に害をなすことにあった。
【且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚。】、
◎福建省の国禁を犯した者たちを送還したとき、朝鮮国王は「今、また馮淑ら前後とも千人以上を捕らえたが、かれらは軍器と貨物をもっている。これ以前、倭奴は火砲がなかったが、今では多くこれをもっている」と明政府に報告している。

「倭寇」説は、
『かつて日本には火砲がなかったが、いまでは多量にもっているというのである。
この時期、朝鮮王朝はおびただしい数の中国人を保護したが、かれらは一様に軍器を所持していたという。
この軍器は火砲、つまり鉄炮であろう。朝鮮海峡で漂着し朝鮮王朝に拿捕された明の商船はごく一部であるから、それ以外は積載した火砲を日本に売りさばいたことは想像にかたくない。』
つまり、軍器=火砲=鉄炮(東南アジア製)として、多くの鉄炮を日本に売りさばいたとしている。

朝鮮王朝の記録に没収・鹵獲した鉄炮の記録が無い。倭寇を取り締まった中国(明)にも鉄炮の記録が無い。
ということは、当時の倭寇は鉄炮を使っていない。取り扱っていない。
軍器・火砲=鉄炮の前提が崩れていれば、「倭寇」説そのものが成り立たない。

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、その後の中国・朝鮮の鳥銃伝来の説明がつく。
また、東南アジア製の鉄砲が朝鮮に伝来(将来?)しなかった説明もつくし、ポルトガルの鉄炮の商売記録が無いことも説明がつく。
0438人間七七四年2010/05/21(金) 23:11:51ID:7/4wScJH
抗倭図巻に描かれた倭寇は鉄砲持ってるけどね
0439人間七七四年2010/05/22(土) 10:51:51ID:97Wb0+2W
鉄砲と弓の殺傷力の差を教えて下さい
0440人間七七四年2010/05/22(土) 18:55:51ID:DXYmGW9j
単純に弾の運動エネルギーで比べれば10倍超。
0441S字型金具2010/05/27(木) 14:51:42ID:UeAUGIIb
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問D

『抗倭図巻』(中華人民共和国国家博物館所蔵)は今まで未公開でしたが、2006年12月発行の『中国国家博物館館蔵文物研究叢書•絵画巻(歴史画)』に収録されています。
この本は、国立国会図書館でも所蔵されておらず(見つかりませんでした?)、17000円位の輸入書なので購入予定はありません。
http://www.chuka-shoten.co.jp/62_181.html
>>438 さんが『鉄砲を持っている』という『抗倭図巻』については確認できませんので、『抗倭図巻』をアップロードなり、その『鉄砲』所持について解説したものがあれば教えてください。
http://www.japanology.cn/japanese/picture/06.html

『倭寇図巻』(東京大学史料編纂所蔵)は、じつは倭寇を描いたものではなく,明代の台湾戦役を描いたものである。ただし,描かれているのは日本人である。
『倭寇図巻』の複製画と考えられている中国側の『抗倭図巻』は,じつは複製ではなく,船・服装・兵器などが相違している。その一方で,ふたつの絵巻には共通点もあるから,これら二点は同一画家によるセットの作品である可能性が高い。
http://human.kanagawa-u.ac.jp/kenkyu/publ/pdf/syoho/no41/4106.pdf

日本の武器兵器ブログのjapaneseweaponsさんや「海の歴史 倭寇」の著者 田中健夫さん、和歌山博物館、
http://blogs.yahoo.co.jp/japaneseweapons/50053735.html
浙江工商大学日本文化研究所の所長の王勇さんは、『倭寇図巻』に『鉄砲が描写されている』としていますが、
http://www.japanology.cn/japanese/picture/11.html
所持しているのは『火槍』であり、『鉄砲』とはまったく異なる『火攻兵器』です。

『倭寇図巻』は公開されているので、図中の『火槍』が確認できます。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/conference-seminar/science/ez01.html
この図巻は官軍を立派に、賊軍(倭寇=日本人?)への誇張や偏見に満ちた描き方をしているので、私個人的に受け入れがたく、そのまま信ずるわけにはいかないところがあります。
しかし、当時の中国(明)軍軍備を立派・豪華に描いてあっても、『火攻兵器』は『ボール状火器?』らしきものぐらいで、『鉄砲』などの火器は見えません。
拡大した『火槍』を持つ『倭寇(日本人?)』をアルバムにのせました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/159088/

倭寇=軍器・火砲=鉄炮(東南アジア製)の前提が崩れていれば、「倭寇」説そのものが成り立ちません。
『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、東南アジアに少数残存する類似火縄銃の説明がつく。
徳川美術館に収蔵されている「SAM THOME刻銘銃」は、土産用(献上用?)として、日本で製造した鉄砲の一つではなかろうか。
0442人間七七四年2010/05/28(金) 00:44:10ID:frNDFhgb
ポルトガル植民地での鉄砲、火器の記録は
「大航海時代とモルッカ諸島」(中公新書)に何か載ってたような覚えがある
0443人間七七四年2010/05/30(日) 01:06:03ID:qd5gaZGW
朝鮮は14世紀の時点で大々的に火砲や銃の量産にとりかかっており、
日本の戦国期には天字銃筒や地字銃筒といった大砲を配備していた。
これらは鉄弾のほか、烏弾(散弾)や焼夷性の燃料と木片を詰めた棒火矢を発射することもできた。

タッチホール点火式の銃も生産していた。
朝鮮の鉄砲は14世紀から存在したが短銃身で、16世紀になっても大して進化しなかったのだ。
0444人間七七四年2010/05/30(日) 01:22:32ID:qd5gaZGW
中国の場合は元の時代、至順3年(1332年)に銃を初めて製造した。
その後ほどなく散弾も発射できる銅手銃を開発し、
これはおそらくキプチャク=ハン国からロシアや東欧に伝わり西洋の鉄砲の元となった。

その後三眼銃という3つの銃身を持つ銃を大量配備することになるが、
これは朝鮮の銃と同じくまったく西洋の影響を受けていない銃であり、
短い銃身のため轟音の割に威力がなく、火縄銃が伝わると早期に廃れていった。
1558年には年間1万丁の火縄銃が量産されるようになった。
0445S字型金具2010/06/04(金) 22:25:38ID:1rXrvW06
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問E

明人が書いた「倭好」がある。この史料は、鄭若曾の『日本図纂』や『籌海図編』に収められており、当時の日本人が好んだ中国品すなわち貿易品22種あげて解説したものである。
『東アジア通交圏と国際認識』の著者、田中健夫さんは、『倭好は、鄭若曾が独自に蒐集して執筆した記事と考えてよいが、「倭好」に煙硝(硝石)が含まれていないため、
「倭好」には日本人の中国品に対する受容を必ずしも正確には伝えていないと思われる点もある』として2つの事例を挙げている。
@『石山本願寺日記』の記事、「室町殿へ、鹽(塩)硝十斤進献之」からの推察。
A『日本一鑑』の記事、「土産所無、近則竊市於中国、遠則興販於暹羅」を密貿易よる取引と解釈。
それで、田中健夫さんは、『煙硝は鉄砲の普及とともに戦国大名の必需品になったものであるが、中国ではこれを輸出の禁制品としていたので、
もしこれを手に入れようとすれば、密貿易の方法に頼らざるをえなかった』として、日本は密貿易で焔硝(煙硝、硝石)を輸入していたとしている。

しかし、なぜか堺商人の日本国内ルートを取り上げ、また、海禁政策では朝貢以外は全てが禁制品となるので密貿易の証明になっていない。 >>434
煙硝、焔硝、硝石、鹽(塩)硝は、用途により名前を変えて使い分けをした物質であるから、塩硝は鉄砲火薬原料以外の用途もある。
なぜ、足利将軍の権威で直接堺から取り寄せなかったのか、できなかったのか。
「日本一鑑」に、『曰手銃〈初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此、〉』と書いてあり、その中身については怪しいところがある。
また、「倭好」に鉄砲・火薬・火器・原料鉄・亜鉛(真鍮の原料)が含まれていないことについては触れていない。

田中健夫さんは、『倭寇図巻』について、『この図巻は最も精密・詳細な倭寇風俗の記録で、倭寇の服装や船舶および鉄砲などの兵器だけでなく、上陸・放火・掠奪・水戦等の行動の様式を描写していて貴重である。
同時代の文献の記述ともよく合致し、信頼度は高い』と書いていますが、所持しているのは『火槍』であり『鉄砲』とはまったく異なる『火攻兵器』である。 >>441

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、火縄銃の部品名が外国語ではなく日本語であることの説明が付く。 >>329
0446人間七七四年2010/06/08(火) 20:33:10ID:mL+xBhSW
鉄砲ではなく火槍だとすると倭寇はその火槍をどこで手に入れたんですか?
0447人間七七四年2010/06/09(水) 04:41:07ID:K2rBfR3i
火槍は鉄砲を指すこともあればロケット弾(火箭)を指すこともあるので注意が必要

日本の火縄銃の発射機構、いわゆるカラクリはSnapLock式だが、これはドイツ南部で開発された。
主に南欧や北欧、ロシアで使われそれぞれ独自の発展をしたが、
そのうち南欧由来で東南アジア産のマラッカ式が日本に伝わったというのが一般の説。

1530年代の最初期のドイツ製SnapLockのカラクリを見ると、外カラクリでバネは松葉バネのようにU字ではなくI字ではあるが、
1540年代のものは日本のように松葉バネに似た形状になっている。
日本の火縄銃のカラクリは欧州産SnapLockに由来するのは明らかだと思う。
0448S字型金具2010/06/14(月) 22:27:40ID:AJOMXJEq
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問F

「倭寇」説では、「五峰」について、『鉄炮記はそれほど史料的価値が高いとはいえない』としながら、
『「鉄炮記」の五峰が倭寇の大頭目の王直の号であったことは、弘治二年(一五五六)、倭寇の禁圧交歩のため明から派遣され、豊後や周防(山口県)に滞在した鄭舜功のあらわした「日本一鑑」に「王直は五峰」とあり、
また嘉靖三十九年(一五六〇・永禄三)編さんの「寧波府志」にも「王直、すなわち、五峰」とあることによってわかる』により、倭寇の大頭目の王直として断定している。

だから、ポルトガルの史料を絡めて、
『王直のジャンクはシャム(夕イ)から明に航行中、暴風雨にあって種子島に漂着した』
『王直の活動、日本との深い関係、朝鮮海峡の紛争事件、朝鮮国王が明政府へ送った報告書の内容などから、日本に鉄炮を伝えた主体は倭寇とみたほうが現実的である。』
として、「倭寇」説をまとめている。

しかし、「鉄炮記」では、「其中有大明儒生一人名五峯者。今不詳其姓字。」(その中に明の国の儒者で五峰という者がいた。その姓や字を詳しくここに書き記すことはできない。)と書いてある。
国立歴史民俗博物館の研究報告編集員会は、「倭寇の五峰(王直)だ」と認めてお墨付きを与えたが、「大明儒生」・「今不詳其姓字」についての説明を求めていない。
なぜか「鉄炮記」から「五峰」だけを採用し、他の記述を全く無視している。この研究報告編集員会の古文書に対する取り扱い方は、おかしい。

種子島の「五峰」さんは「偶遇五峯以杖書於沙上云」「五峯即書云」「偶遇五峯。以文字通言語」とそのとき日本語が喋れないので、商人=倭寇(日本人を含む)、日本にも行ったこともある(たぶん、未確認?)「王直」では不自然である。
その後の「五峰」についても、『王直と日本との関係は深く、肥前の五島に屋敷を構え、なおかつ九州各地や西国大名の大内義隆や大友義鎮(宗麟)とも接触があった。』としているが、具体的な「鉄砲と倭寇の大頭目の王直との関係について」は、証明・説明がなされていない。

鉄炮記を代作した南浦文之が、当時中国海商で有名だった五峰の名を拝借した。
「倭寇」説でも、有名な五峰の名をこじつけたと思える。
0449S字型金具2010/06/22(火) 22:43:27ID:pGndUtVT
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問G

宇田川武久さんの「真説 鉄砲伝来」を何度読み返しても理解・了解できない箇所が多くある。
P67では、『鹿児島個人蔵の銃床はだいぶ剥げ落ちているが、朱塗りの痕跡がみとめられ、断定はできないものの、銃身の形状からみて琉球筒の可能性がある。』とあり、琉球起源の鉄砲があるかのように記述している。
P82では、『外国製の鉄胞は「南蛮筒」とよばれ、それを見本につくられた鉄炮が「異風筒」である。そのことは、南蛮流の秘伝書にある「いふう物はり様之事」の秘事からわかる。』とあり、
鉄砲は「南蛮筒」と「異風筒」しかありえないように記述している。
P96では、『十六世紀半ばから十七世紀初頭にかけて銃身や台尻の形、外・内カラクリの別、銃身の長短などさまざまな仕様の南蛮筒が倭寇をふくめた外国勢力によって、日本の西国地方にもたらされた。
これまで唯一のように思われてきた種子島への鉄炮伝来は、数多くあったひとつの事例にすぎないのである。』と記述している。
簡単に、『さまざまな仕様の鉄炮が日本にもたらされた』と記述しているが、その鉄砲の由来・起源を示さないのは、非常に無責任な記述で鉄砲伝来になっていない。
また、必須物質の火薬・真鍮(亜鉛)などについても示されていなくて同様であり、鉄砲に近い「大砲の伝来」が無視されている。これで『真説』とするのは『読者をなめている』としか思えない。
時と場合により、「異風筒以外の多量の鉄砲」をも認めていて、この本の内容はむちゃくちゃである。 >>340

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、『従来の日本の鉄砲技術に、その後のポルトガルを含む西洋・インド・東アジア・中国大陸からの鉄砲に関する技術導入・移入により、急速・急激な進歩・改良・発達・生産を遂げ、
日本独自の火縄銃技術を形成した』と見なせて、大概の鉄砲伝来の矛盾点が解消する。
0450S字型金具2010/07/01(木) 01:17:00ID:4mhvoKPN
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問H

「真説 鉄砲伝来」は、『鉄炮に関する文献史料および実物資料を徹底的に活用して、これまで未開拓であった鉄炮の伝来と普及の実像をあきらかにしたいのである。P12』を目的として書かれている。
その、P230で、『史料的価値が疑問視されて、歴史学における秘伝書の活用はさっばりである。秘伝書には玉拵えの秘事として数十種類におよぶ玉の存在を伝えている。
鉛以外に鉄の玉、錫と鉛の合金の玉、複数の玉、半円の玉、三角の玉、中空の玉などがあるが、これを裏付ける資料が国内の各地の遺跡から出土しており、もはや秘伝書の記述が嘘やデタラメでないことはあきらかである。』
として、遺跡からの鉄の玉出土や秘伝書の記述により、「火縄銃の鉄の弾」の存在を認めている。

ところが、同じ著者は、「国立歴史民俗博物館研究報告(第17集)、壬辰・丁酉の委乱と李朝の兵器(P12)」で
『倭人の銃筒進上は、事変の兵器補強の反映とみて差支えない。
さきに李朝が中国の火砲を唐人から伝習している事実をみた。
ところが、右記の両啓によれば、李朝の銃筒改良には中国人ばかりではなく、日本人が関係しているのである。
倭人が銃筒を進上した明宗九年は、西暦一五五四年であり、日本年号でいえば、天文二十二年にあたっている。
すでにこのころ、日本には倭寇によって東南アジア系の火縄銃が伝えられているから、倭人の進上した銃筒は火縄銃と考えられなくもないが、それは以下の理由から否定せざるをえない。
まず、第一に鉄丸を発する銃身は物理的に考えて鉄より軟度のある物質、銅を用いなければならないこと、また李朝の銃筒製造の技術は鋳造であるのに、日本の火縄銃は鍛造であることを考慮すると、すなわち両名が進上した銃筒は日本の火縄銃とは認め難い。
このことは後章で説くが、壬辰・丁酉の倭乱のとき、日本の火縄銃、つまり鳥銃の製造にたいそう李朝は苦慮している。
もし倭人信長や平長親が日本の火縄銃を伝えていれば、そうした事態は起こらないはずである。』
として、「倭寇」説のために「火縄銃の鉄の弾」と「1554年と1555年の倭人の鍛造火縄銃筒進上」をも否定している。

「倭寇」説を唱えている国立歴史民俗博物館研究報告は、わけのわからない物理的理由など、何度読み返しても理解・了解できない箇所が多くある。 >>335 >>336

0451S字型金具2010/07/07(水) 23:38:05ID:AC62ePp5
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議あり@

井沢元彦著「逆説の日本史〔9〕戦国野望編」・サブタイトル「鉄砲伝来と倭冦の謎」で、『この鉄砲伝来という「イベント」を「プロデュース」したのは、「中国人倭寇」の王直だ』という「逆説の鉄砲伝来」論が書かれている。

要点を原文から抜き出すと、
■鉄砲を伝えたのは「南蛮船に乗ったポルトガル人」ではない!?
日本に鉄砲を伝えたのは、倭寇の大ボス王直の船(中国船)に便乗していたポルトガル人なのである。(中略)
このポルトガル人は王直も紹介した通り「商人」である。王直自身も「商人」だ。そして日本は戦国時代で、優秀な武器は誰もが必要としている―――。
つまり、鉄砲伝来は果たして「偶然の出来事」なのか、ということなのだ。
■鉄砲伝来の翌年に国産化に成功した鉄鋼技術
完成品である鉄砲を輸出して大儲けをしようと思っていたのに、日本人はなんと鉄砲伝来の翌年に、国産化に成功してしまったのである。(中略)
これはポルトガル人にとって大ショックであり大誤算でもあった。しかし、そこは世界の海を制覇した、転んでもタダでは起きない(?)ポルトガル商人である。
実は、決してポルトガル商人は損はしない。そして、その事実こそ戦国史全体を見るための重要なポイントなのである。
■「火薬調合法」と「ネジの技術」を伝授したポルトガル商人の真意
ポルトガル人は日本人などには自力で鉄砲をつくれないと思い、見本のつもりで渡したところ、あっという間に複製を作ってしまったので、あわてて技術を出し惜しみしたという考え方が妥当なのではないだろうか?
■織田信長「堺直轄」「本能寺の変」の秘密は″煙硝ルート″にあった
堺を直轄地としたことは、鉄砲という兵器の運用面から見れば、大変画期的なことであった。つまり、堺を押さえるということは、煙硝ルートを押さえることであり、煙硝を安定的かつ独占的に入手できるということなのである。

素朴な疑問だが、@利益を求める「商人」が、売り込んだのは日本で種子島だけだったのか。A「倭好」商品ではなく、なぜ鉄砲関連商品だけなのか。Bパクリ品の鉄砲は優秀であったのか。C「煙硝ルート」で利益はでたのか。

また、本文のページ数は407であるが、鉄砲伝来に拘る箇所はP115からP146で、サブタイトルは「!?」ではなかろうか。
0452S字型金具2010/07/15(木) 00:43:40ID:wNSsyDz3
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありA

ポルトガル商人であるメンデス・ピントが書いた、「日本人は他国の国民よりも生来武事を好み、武事に楽しみを持っている国民である」と言う事について、鉄砲伝来当時の日本の記述がある。
この記述は「東洋遍歴記」の第百三十四章の中にあり、鉄砲伝来について「逆説の鉄砲伝来」論によく似ているが、私の異議の原因ともなっている。

『(前略)したがって、この鉄砲熱はその後ますます盛んになり、それから五ヵ月半後、私たちがそこを立去った時には、その地には六百挺以上の鉄砲があった。
そして、のちに、副王ドン・アフォンソ・デ・ノローニャが進物を託して私を豊後王のもとに最後に派遣した際、すなわち一五五六年に、日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった。
そして、この物がそんなにひどく殖えるなどということはあり得ないように思われたので、私がこれにたいそう驚いたところ、信頼し得る立派な人である数人の商人が言い、
また多くの言葉をもって断言したことには、日本全島で三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも、六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行ったということである。
したがって、ゼイモトが善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキンから受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、
どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。
このことから、この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。彼らは、既知の他のいずれの国民よりもそれに楽しみを見出しているのである。』

メンデス・ピントの「東洋遍歴記」では、ポルトガル商人の鉄砲や硝石(煙硝)の商売関与した記述が見られない。
第百三十四章では、「六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行った」と注目に値する記述がある。
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