▼火縄銃について語ろう▲
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDMどのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0269人間七七四年
2009/08/29(土) 12:37:15ID:dRqFptAZ> 銃撃戦以外の戦い方の技量って
> 何れ位劣っていたんですか?
人それぞれ
> 良かったら其れ等について
> 出来るだけ詳しく教えて頂けませんか?
「戦国の地域国家」収録の『戦いを支えた技術』と言う論文に詳しく出ているので
それを読んだほうが早い。
0270人間七七四年
2009/08/29(土) 12:54:30ID:mr+TY6c6「焔硝を作る人間が来たので、古い厩の槌を調達するように」
ってのが残ってるのね。
この時期既に、各国を渡り焔硝を作る職能集団がいたっぽい。
0271人間七七四年
2009/08/29(土) 13:06:07ID:c+6h6gaS弾の種類としては合金製とか鋳型から二つの弾がくっ付いているとか、中が中空とか
色々ある
詳しくは、吉川弘文館「鉄砲と戦国合戦」宇田川武久を参照
銃については城の狭間から撃つ事を前提にした、長銃身の狭間鉄砲とか
構造物破壊用の大口径の大鉄砲などがある
0272人間七七四年
2009/08/29(土) 19:12:55ID:OdpjtPbi八王子城は、秀吉の小田原攻めのときの激戦場。
0274人間七七四年
2009/08/29(土) 19:30:58ID:OdpjtPbi現代でも自衛隊では、小銃は年間(たったの)60発しか撃たないし、
艦載ミサイルは、年間1発、対戦車ミサイルなんぞは、大口径の筒に
小口径の筒を入れて、花火のロケットみたいなものをピューッと飛ばしている。←本物はものすごく高価だから。
0275人間七七四年
2009/08/29(土) 19:40:22ID:dRqFptAZあと、城門を破壊するための「門破」という、特殊な鉄の弾もあったそうな。
0276人間七七四年
2009/08/29(土) 19:47:56ID:99hVMHvX0277人間七七四年
2009/08/29(土) 22:30:47ID:fbOb2wVg0281名無しさん@そうだ選挙に行こう
2009/08/30(日) 12:53:42ID:YrsG7rU60282名無しさん@そうだ選挙に行こう
2009/08/30(日) 13:13:34ID:8g7oMup/0283人間七七四年
2009/09/04(金) 22:00:02ID:w+z4oqpW此はこのスレ向きか?
0284u7dee9885fw5gz6
2009/09/06(日) 01:52:39ID:qNcXVzls初めまして、偶然に内容を拝見させて戴きました。自分は、子供の頃から火繩銃、古式銃のマニアです。(現在36歳)
さて、サーペンタイン式についてですが、佐倉の民俗博物館以外に会津若松の資料館にも展示されておりました。約24年位前です。
さて、私観ですが、国産だとすれば、緊急を要した幕末期の可能性が高いと思います。銃身のみ廃銃から転用等。
本土決戦時の簡易銃製造の主旨と一緒です。
伝来以降、火繩銃は高価な財産です。廃銃もしかり…カラクリ(発射機能)を改装、若しくは修理出来なかった状況を考えた場合、可能性は高いと思います。
当時は、資料価値云々の時代では、ありません。
幕末以前の戦利品の可能性についてですが…やはり大多数を必然的に日本式に改装したと思います。
0285S字型金具
2009/09/07(月) 22:36:04ID:Be0dFugC会津若松の資料館とは、「若松城天守閣郷土博物館」のことでしょうか。説明書き・解説書きにはどのように書いてあったのでしょうか。また、現在も展示されているのでしょうか?
緊急を要した幕末期、私の所の藩では洋式銃が大量に製作され、圧倒的に銃よりも兵が足りないので農民を徴兵しており、火縄銃は使用しておりません。
銃身のみ廃銃から転用するには、銃身(内部)が錆びていないことが条件になると思います。
銃身のみ転用した(一度錆びさせた場合)銃の命中精度・威力が気になります。
黒色火薬の硫黄成分は酸化して強酸である亜硫酸になり、鉄成分に錆を生じさせます。このことがカラクリに真鍮を使っている理由や古い銃身が殆ど残存しない理由になるかと思います(私見です)。
幕末以前の戦利品の可能性については、何時ごろ・何処の・誰の物かなどを仮定しないと改装した箇所が判りません。あなたの仮定を教えてください。
あなた様の今後の活躍を期待します。
0286人間七七四年
2009/09/08(火) 04:39:23ID:EtMYE0zO適当過ぎるレスでごめんねw
0287u7dee9885fw5gz6
2009/09/08(火) 15:14:49ID:FB6Rt2/Y確か、西郷頼母の資料館です。但し書きには、会津軍使用とありました。
サーペンタイン式銃は、かなり現存します。
Yahoo!オークションでも、指火式で出品されておりましたが、金具の跡からサーペンタイン式銃と判断出来るものは、最近でも数点ありました。
廃銃からの銃身転用について…例えが変ですが、手榴弾の数が足りないから、火炎瓶を急遽作製するのと一緒です。
銃身の耐久性や命中率は、緊急時においては論外です。(現在の視点と価値観は、当時と違います。)時間が許されれば、雷管式にも後装式にも改装出来るでしょうが…
篭城戦を目前にして、何を造りますか?サーペンタインでも木砲でも造りますよ。西国と違い、東北諸藩は火繩銃を仕方なく標準で装備していましたよ。歴史認識の違いだと思います。急造のサーペンタイン銃でも10メートルで殺傷力有れば御の字でしょう。続く
0288人間七七四年
2009/09/08(火) 21:32:14ID:bNKQWw9Cそういや山川捨松さんのご子息が大東亜戦争末期にバネ式カタパルトで米戦車への抵抗計画されとりましたな…人間爆雷よかマシだって。
0289u7dee9885fw5gz6
2009/09/09(水) 01:20:45ID:i2V4QjXE続き。
時代の古い古式銃が現存していないのは、鋳潰しているからだと思います。
0290人間七七四年
2009/09/09(水) 01:44:39ID:i2V4QjXE> >>287
>
> 続き。
。鉄自体が大変、貴重な時代です、改装銃の流れを見ても判りますが、洋式銃、和銃共に最低限の加工にて改装しております。又、改装が不可能なものについては、当然、潰して新しく作り直したとみて妥当でしょう。
それから、儀礼的な拝領についてですが、家宝として鎧や刀を拝領する事はあっても、鉄砲を誉れとして拝領する習慣は、皆無であったと考えます。したがって、江戸期以前の銃器が確率的に現存しない理由もやむを得ない事だと思います。
又、幕末以降から、終戦までは、余程美術的な価値が無い限り、相当数が処分されたと思います。金属の供出も含めてです。続く
0291u7dee9885fw5gz6
2009/09/09(水) 12:08:27ID:i2V4QjXE>>289
>
> 総論として…
今迄の乱文と誤字、ご容赦ください。
僧兵がサーペンタイン式銃を片手に携える詳細な掛け軸を見た事が有ります。現物では有りませんが…
(曖昧な記憶で申し訳ありません。古文書を調べる過程にて、偶然閲覧したと思います。)
私自身、宇田川説を自然のものとして肯定しております。
江戸期以前の火繩銃に関しては、一部の精密な高級品を除いて、氏と同様、殆どがサーペンタイン式の発火装置ではなかったのではないかと思っております。種子島家に所蔵とされる国産火繩銃についても、江戸期の複製の更なるレプリカです。
しかし、現在の火繩銃に対する、我々、若しくは一般の人々のイメージの原型は、やはり伝来されたとされる、カラクリ作動の伝来銃だと思います。この払拭されない、イメージが視野を盲目にしたのかもしれません。
続く
0292u7dee9885fw5gz6
2009/09/09(水) 13:52:33ID:i2V4QjXE> >>290
>
続き。
結論として、鉄砲史の初期に存在したと思われる、サーペンタイン式銃は、現存する可能性が低いと思われます。
国外も含めて…存在を示す資料については、現存しておりますが…琉球王朝と足利将軍家の古文書等。
又、中国の北京軍事博物館にも書画、現物が展示されておりますが、現物に関しては、清王朝後期のものしかありません。
(15年程前に行きました)
当時の余談ですが、万里の長城の売店に銅製手銃三連銃が売っていました。日本円で 三万円位だったと思います。贋作と思い買いませんでしたが、贋作でもよかったと後悔しております。
以上、勝手に色々と書きましたが、現在、現存するサーペンタイン式銃は、幕末の一部のものしか現存していないと思います。
実は、中学生の頃にサーペンタイン式銃を自作した事が有ります。
思い入れがあり、色々と書いてしまいました。
現在、火繩銃、燧石式銃、雷管式銃をコレクションしております。
燧石式銃を入手するのに一番苦労をしました。
結局、国産の物は見つかりませんでした。
雷管式銃は、和銃の改装銃と洋式燧石式銃の改装雷管銃を所持しております。
最低限の加工にて改装されております。
昔、銃は高価な財産でした、リサイクルにて改装した経緯を考えると、現存数が少ないのも頷けます。
長くなりましたが、以上です。
0293S字型金具
2009/09/10(木) 01:41:43ID:Xi9oLoDd現存するサーペンタイン式銃は、北京軍事博物館の他に大英博物館、佐倉の民俗博物館は中国製とチベット製を所蔵、タイ・インドネシア・台湾などの国にもあるみたいです。その他、リンクを介した物でしたらその他各国にも多数存在します。
自作の水道管(鉄管)サーペンタイン式銃は過去にTVで放映しており、火薬に***を使って小動物を撃っておりました。
しかし、国産の存在は不明なので、国産のサーペンタイン式銃をさがしております。
中国(明)への前装式火縄銃(鳥銃)の伝来は東南アジア経由ルートと西域ルート(トルコ経由)が知られています。
神器譜(趙士禎が著した中国の鉄砲解説書)に嚕密銃の記載があり、私は「この銃はサーペンタイン式銃ではないか」、「日本にも伝来したのではないか」と推定しています。
皆様のご意見、ご感想を教えてください。
神器譜(しんきふ)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E5%99%A8%E8%AD%9C/
15.火縄銃の専門家・張士驍ニ『神器譜』
http://www.geocities.jp/fukura1234/heisyo/15.htm
京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫 『神器譜(二)』
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081s351.html
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081s356.html
嚕密銃全形
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081l356.html
0294人間七七四年
2009/09/10(木) 13:35:25ID:bZkS29Hyときメモに「朝日奈夕子」とキャラの西友が鉄砲塚葉子というんだが
「鉄砲塚」という苗字の由来は鉄砲に関係あるの?
0295人間七七四年
2009/09/10(木) 13:36:41ID:bZkS29Hy0296人間七七四年
2009/09/10(木) 13:47:15ID:mcTPnbxJ「鉄砲塚」と言う地名は全国各地にあり、江戸期の鉄砲の教練場があった場所のようだ。
苗字の「鉄砲塚」はおそらく、その近辺に住んでいた住民だったのだろう。
「鉄砲塚の○○さん」→「鉄砲塚さん」と、苗字として定着したものだと考えられる。
0297u7dee9885fw5gz6
2009/09/10(木) 16:53:12ID:AsZdwcvm大変申し訳ありませんが記憶が曖昧です。
近年、見たのは間違いないのですが…
正直、今回の投稿なければ、忘れておりました。
第一印象で、何でサーペンタイン何だろう?と潜在意識の中で引っ掛ったのですが。
僧侶ですが、僧兵の格好では、ありませんでした。天然色(色付き)の掛け軸です。かなり詳細に描かれており、銃床内部より大きな造りの火挟みが斜めに設置されているのも、確認出来ました。
作画の状態から、江戸期か若しくは、以外に近年の作品かもしれません。
歴史関連の書籍、雑誌に至るまで、読み漁っておりますので…
Yahoo!オークションにて火繩銃を検索した時に偶然閲覧したか…
自分も気になりますので、判りましたら連絡致します。
0298S字型金具
2009/09/22(火) 07:15:21ID:6V9QesJ5>>293
飯塚浩二氏説に所荘吉氏が反論しています。
火縄銃 所荘吉著 雄山閣 P239
補<1> 種子島伝来銃についての考察
鉄砲伝来の意義および年時について従来数多くの発表がなされているが、初伝の銃そのものについてはあまり問題にされていない。
これは資料がとぼし過ぎるのがその理由であったろうと思われる。
そのためほとんど無批判に初伝の銃をポルトガル製と考え、はなはだしきは直接ポルトガル本国との接触が行なわれたとの誤解が今なお払拭されていない。
それに対して、昭和三十九年朝日新聞紙上で飯塚浩二氏が初伝の銃は西洋系ではなく、トルコ系ではないかとの問題を提起された。
飯塚説の骨子は和銃の火挾が前方へ落ちる点に注目され、これと同様の形式は、趙士禎の著わした『神器譜』に所載された魯密(ルーム)銃に見られるので、
ヨーロッパの銃の火挾が手前に倒れる違いから、ポルトガル製と伝えられた初伝銃は、ヨーロッパ系ではなくポルトガルから日本へ来る途中で入手したトルコ系の銃ではなかろうかということである。
続く
0299S字型金具
2009/09/22(火) 07:29:30ID:6V9QesJ5たしかに初伝統がポルトガル製ではないのでないかということに疑問を持ったことは面白い見方であるが、和銃とルーム銃との違いに大きな点がいくつかあることを見落とされているようだ。
たとえば和銃では火挾の位置が側面にあり、開放時には倒れていて引金とは別の部品になっている。
照門の位置は火血より前方にありほとんどがオープンサイトになっている。
また銃床は短く、頬付けで射撃をするようになっている。
特に重要な違いはその点火機構が急速点火式になっていることである。
それに比ベトルコ系の銃では、火挾の位置が銃の中央にあり常時起き上がった状態にあり、引金とは同一部品であるS字形式である。
照門は銃身後端にあってピープサイトが多い。
また銃床は長く現代銃のように肩付けで射撃を行なうようになっている。
点火様式はスローダウン式で、最も初期の火縄保持具から多少進んだ程度である。
『神器譜』の中でターバンを巻いた人物がルーム銃を発射するのに支銃具を用いているが、和銃では使用されることはない。
以上の比較でも判るように、類似点は火挾がただ前方に向いていることだけで、多くの重要な点ではあまりにも違いが多い。
むしろ火挾の方向だけの問題ならばヨーロッパの火縄銃の中にも前方に倒れるものが少なくない。
これによっても飯塚氏のトルコ銃日本伝来説は根拠の薄いものとなろう。
続く
0300S字型金具
2009/09/22(火) 07:41:30ID:6V9QesJ5それならば日本へ伝わった銃はどこから来たのかということになるが、まずヨーロッパから東方への伝来経路が二つあったと考えたい。
一つは陸路によるトルコ―イラン−インドを経て中国にはいった魯密銃の系統である。
その理由はこれらの経路にある国々の銃が多少のローカル色を除けば機構的に全く同一型式のものといえるからである。
今一つは海路によったものである。
ポルトガルの東方進出基地である、ゴア、マラッカ、モルッカ諸島などを経たもので、この経路による火縄銃はあまり知られていないが、当時のマラッカ基地の勢力範囲であったマラヤおよびジャワ地方の銃の特徴は和銃に似ている点が多い。
特に点火機のアクションは和銃のそれと完全に同一でトルコ系やヨーロッパ系の銃には見ることのないものであって、後述する種子島初伝の銃との比較では一層はっきりしてくる。
以下省略 (昭和四十四年十月十五日)
中国(明)が魯密銃について知ったのは1598年以降なので中国経由の陸路説には無理があるが、
平成4年(1992年)にある人を介して先入観があるといけないので「**県内のものです。」としか伝えず、カラー全形写真を銃砲史学会の会員の方にお見せしたところ、
所荘吉氏と生田氏は、「これは東南アジアのもので戦後そちらへ旅する人がよく買ってくるものと思う。向こうには、台湾にもあるものではないか。」ということでした。
そのため、東南アジアや中国などの売店でのこのような火縄銃の情報がありましたら、お教えください。
0301S字型金具
2009/09/30(水) 15:00:42ID:z13uQ8Hn『神器譜』には色々なバージョンがあり、谷村文庫の『神器譜』には欠落部分があることがわかりましたので、『玄覧堂叢書』本の一部をYahoo!フォトアルバム に乗せました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/list/4143269/
「明嘉靖、万历朝噜嘧铳的传入、制造及使用」の題名で、《回族研究》2007年第04期に『神器譜の噜嘧铳』についての記載がありました。
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-1.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-2.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-3.html
摘要:明朝一经建立,即与地处小亚细亚的鲁迷(或称肉迷,即奥斯曼土耳其)建立了一定的政治联系。
自明洪武至万历间,鲁迷使臣频频入贡。
而这一时期两 国间交流的重要成果,即为噜嘧铳的传入。
明中书赵士祯于万历二十五年(1597年),由嘉靖时来华鲁迷国使臣朵思麻处,学得噜嘧铳的制造和使用方法,尔后 精心仿制,并于次年进献朝廷。
因当时国内所造鸟铳“远而且狠,无过噜嘧”,明朝政府遂令军工部门大量仿制,装备军队,“以收防倭制虏之效”。
关键词:万历年间;朵思麻;噜嘧铳;赵士祯;制造与使用
中圈分类号:e920.8 文献标志码:a 文章编号:1002−0586(2007)04−0070−07
0302人間七七四年
2009/09/30(水) 18:41:25ID:Z1mAEeXa0303人間七七四年
2009/11/16(月) 17:52:18ID:mrROhO8W文意がわからん
0304人間七七四年
2009/12/07(月) 01:40:57ID:BCIeYoHOそれが使えないから
6.8mm弾のアサルトライフルを
開発してんじゃないの
0305人間七七四年
2009/12/10(木) 23:08:37ID:vj95kYP0https://egithq.bay.livefilestore.com/y1meOoW_b0yGnsBKTMufCPCcuHH1gViV4ZQSVHOWwpUN0x6RqT9jaQpUc-K1SKmpxg1oE9mugpPn4grCbNJsQcPi8xJ3j8R6kutFh-C_-xWFTwDaGN--RNJhXw8JFBEJkRh1_szKrubQtIZDmUbZ_MirQ/CIMG0205%5B3%5D.jpg
乾隆御用火槍(火縄銃)
乾隆帝の猟銃、背景の絵は清代の狩猟を描いたもの。
https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mxQGV1naRgtSI_prvod26DJURwnL4_RB8ykA10PMUBv2obflPK26OvvakMYsEp1VafvGd_qH9tm7MHcstzWY9asx4IoZy96Xo7v9hwNQtomOkLawSmQL7jEYLSEWdXccDJIhvY8Xvs8HlXgAypXA-oQ/CIMG0206%5B2%5D.jpg
https://egithq.bay.livefilestore.com/y1m7EEzHCfmdND9dLh4TyLVMeurrNJf2BmNHGc40CZEL3fSMqSj7ECFZP2kzu5Cp5zRcQxVfFgslBrIPsiYyIHezZ0MX5X_Mx97eYVNfXnuQehXWCYi4FGLDce5pw8rE3m5N3L15S5ySAE5beOclFR40g/CIMG0207%5B2%5D.jpg
鳥槍の火薬入れと弾丸
https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mj-Rytwd0WqUT7lmXrc_ye-PSPlVTSQXWWCuPZFbRx1Yc-7rkc-CM1Dpwj4JL4XVhfebwITylsPm_O6zK3-N_KDGHmYJsGpdqjnNMS-k6X44hXhYNDkOR16R_CL2Kw3TAeQ3FCNRAFpI72xUGor817g/CIMG0209%5B3%5D.jpg
神威将軍砲
康熙年間に宣教師フェルビースト(南懐仁)が造った軽量火砲。
背景の絵は、乾隆年間のジューンガル部・回部平定を描いた「準回両部平定得勝図」
https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mHJO3GSB51jVQ1dNz1oMymU9-pr3f87u-6kLqJxrxsd3AJW1MzqmvcPg_WTJ6fYOk_n9yb5MSLyVXYpt0B_Zlvd5FO1XcV07a9lwQOELVnQMrTTI9gIoV30wWxdyeBzvCa6sepnVZ1cKGTfkxnG5cww/CIMG0212%5B3%5D.jpg
威遠将軍砲
康熙二十九年(1690)製。
威遠将軍砲は散弾を発射する砲。曲射が可能で、攻城戦や山岳戦に威力を発揮。
0306S字型金具
2009/12/20(日) 14:01:43ID:XL9PEQ0M「火縄銃 所荘吉著 雄山閣 P49−50」に、「常に最高の状態を求めるのは不可能である」と黒色火薬について記載されています。
火縄銃の威力、命中精度の維持は難しく、名人芸ともいうべき修練や複雑に絡み合う未解決な変動因子が多くあるので、戦国時代の武器としての鉄砲については、再考する必要性があります。
『かように黒色火薬はその粒子の大きさ、形状等により、又集合密度によって燃焼速度が異なってくるので、混合原料たる硝石、硫黄、木炭の三味の純度や配合率に対し厳密な注意も当然ながら、混合方法にも困難な工夫を要求される。
このようにして作られた火薬も、鉄腔内に充填された状態、すなわち搠杖によって圧された度合等、名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が完全に満足されたとき、初めて発射薬としての力を十二分に発揮する事ができるのである。
しかし吸湿性の塩類を含有した黒色火薬に対し、常に最高の状態を求めるのは不可能である。
この事は初期の砲術家による経験によっても知られ、春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになっている。
この装薬量は口径のみでなく、火薬の燃焼が終わっても弾丸が銃腔内にあれば、摩擦によって弾速が落ちるので、銃身長によって量が異なるのは当然である。』
0307人間七七四年
2009/12/22(火) 01:39:09ID:p2z4LsyH武士達が武芸の一つとして砲術を習得しうようとしたんだろうね。
0308S字型金具
2009/12/24(木) 00:10:32ID:FFN+M01h16世紀、西洋・倭寇の鳥銃(火縄銃)は、8分の鉛弾(直径8ミリ、3g)を1匁(3.8g)の黒色火薬で飛ばしたようです。
当時の比率では、1:1.3と黒色火薬の方が多く、現在の高性能な黒色火薬での比率では、小さくなっていると思います。
鉄砲の実用化は、鉛弾を飛ばすことのできる、燃焼速度の速い粒状火薬が開発されたことによると思います。
しかし、「黒色火薬はその粒子の大きさ、形状等により、又集合密度によって燃焼速度が異なることが解っている」ので、一定の大きさ・形状の粒状火薬を作成することは困難な作業であったと思います。
特に、集合密度を高めなければ鉄砲薬にならず、硝石、硫黄、木炭の三味を混ぜ、強い圧縮工程が必要です。
また、装藥は容量で計り(重量ではない)、装藥をし易くするために角を取るなどの工夫があったと思うが、粒状火薬の取り扱いには(その時の発射条件や黒色火薬の乾燥具合などに合った)、難しい面もあったと思われます。
0309S字型金具
2009/12/25(金) 01:54:47ID:ew5jkodk「原料たる硝石、硫黄、木炭の三味の純度」について
鉄砲火薬に使用する硝石(硝酸カリウム)は、混合比率調整のために高い純度が求められる。
硝石は非常に良く水に溶け、純度が高い硝石は、吸湿(潮解性)が少ないが、混ざり物がある(純度の低い)硝石は、乾燥状態の維持が難しい。
そのため、カリウム成分を添加し再結晶させて純度を上げるが、結晶の形から純度の判定は難しい。
硫黄の純度は色で判断でき、純度を上げるには過熱凝固する。
その際発生するガスは有毒である。
樹種によって木炭の特性に違いのあることが知られており、木炭は精製ができないので、木を選ぶことが大事である。
鉄砲火薬用の草木には、柳が良いとされ、杉、松、桐なども使われた。
炭化状態の見極めも大事である。
0310S字型金具
2009/12/27(日) 02:19:25ID:tLT1XaO7「混合原料たる三味の配合率や混合方法」について
三味の配合率は純度によっても変化するが、燃えかす量を少なくするか、総合的な威力を求めるかによっても異なる。
燃えかす量が少ない火薬は、燃焼度合いが測れ、銃身内の燃えかすの低減となり利点もあるが、燃焼速度や産生ガス量は判らない。
空気中の湿度が高いと、黒色火薬の硫黄配合率を高くする。また、少量の水分が在ったほうが燃焼速度は高く、乾燥しすぎた黒色火薬は良くない。
三味の混合の際は静電気に注意しなければならなく、現在でも爆発事故が起きているが、江戸期の合薬所でも大きな爆発事故を起こした例がある。
薬研や茶臼での混合方法では同一ロットの大量火薬製造はできなく、バラツキのある火薬となる。杵臼での混合は、それよりも多く混合・圧縮ができる。
戦国期の合薬(黒色火薬製造)は、戦地で製造したものかどうかは不明であるが、威力の無い・無くなった火薬は溶解され、硝石成分は回収された。
0311S字型金具
2009/12/27(日) 22:25:30ID:tLT1XaO7「このようにして作られた火薬も、鉄腔内に充填された状態、すなわち搠杖によって圧された度合等」について
装藥後に鉛弾を綿紙で包み、搠杖によって押し込み固める。
鉛弾の直径と口径の割合(玉割)が知られているが、銃身内に燃えかすがある場合には弾丸の直径または綿紙量を減ずる必要がある。
また、押し込み程度により粒状火薬の空間が変化し(見かけ比重の変化)燃焼速度が変化する。(過ぎたるは猶及ばざるが如し)
「名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が」について
「春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになって」とは、具体的にどうすれば良いのか解らない。
「打った、当たった、さすが名人だ。」「名人でも当たらなかった、しかし自分は当たった、それはまぐれであった。」であったのか?
修練が必要となれば、当時はどのようにしていたのか。鉄砲の数だけでは本当の威力(兵力)は判らない。(威力が無くても、音や焔硝の臭いやまぐれ当たりすることにより当時は鉄砲の価値があったのか?)
0312人間七七四年
2009/12/31(木) 19:35:42ID:l3eP2GY/0313人間七七四年
2010/01/01(金) 04:32:13ID:ryaoXzIx>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃で
>24mmの檜の板2枚を撃ったところ、1枚目を貫通し2枚目の半分くらいで止まったと本に書いてあった。
>普通の矢盾は厚さ30mmくらいなので、鉄砲は防げないんじゃないか?
>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
>の火縄銃で撃つと、1発目は6本の竹全部を貫通した。2発目は4本目で止まっていた。
>口径18.4mm(10匁)では、やはり竹束を貫通。
>30m以内での至近距離から竹束で防ぐのは難しいが、
>50m以上離れるか、竹束を二重にすれば効果があるのではないかという結論だった。
>命中率は、口径8mm(8分ほど)の小口径の銃で、30mから5発撃つと直径10〜15cm以内に全弾が集束した。
>50mから5発だと、着弾範囲は直径30cmほどに広がる。
>実戦では2町(約250m)くらいから撃ち始め、1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。
0314人間七七四年
2010/01/01(金) 15:44:51ID:sS7lyNb624mm+12mm(半分位)=36mm
矢立ての厚さは30mmだから6mm分の貫通力が残ってる訳だ。
このくらいなら威力が殺されて甲冑でも防ぎきれるんじゃね?
竹束も同様で。
0315S字型金具
2010/01/03(日) 11:24:01ID:sw2lx5Z2学研の歴史群像については未読ですが、
>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃
「とても威力の弱い火縄銃」と書いてありますが、現代の高性能黒色火薬を使っての実験なので、当時のよりも威力は強いのでは?。
>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
「 6匁、戦場で一般的に使われる口径」について、6匁弾は江戸期に多く、戦後間もない寛永・寛文の一般的な口径(13mm)では、3〜4匁ではないでしょうか。
戦国期の一般は、それ以下かも。
>命中率は、口径8mm(8分ほど)の小口径の銃で、30mから5発撃つと直径10〜15cm以内に全弾が集束した。
「小口径の銃」とは、江戸期の射的用の銃での実験かな。
>実戦では2町(約250m)くらいから撃ち始め、1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。
通常、1町の長さは109mですが、「命中率が上がり始めたそうだ」とはどの程度のことを言うのか判らなく、その時の実戦での有効射程距離は何メートル位になるのだろうか。
0316S字型金具
2010/01/03(日) 11:25:39ID:sw2lx5Z2「火縄銃の維持費」について
火縄銃本体の購入費(製造費)の他に、実戦の為の練習や、ためし打ち、対峙したときの火縄の経費などは、かなりの金額になったと思われます。
正確に弾丸を飛ばすばかりではなく、誤射、暴発、やけど、火の粉の飛散などの防止のために練習は不可欠である。
硝石の調達ルートについては分からない所が多いが、結晶の形だけでは純度が分からず、必要不可欠な原料なので足元を見られたり、バッタ品を掴まされることがあったに違いない。合薬した後のためし打ちで判り、不良ならば再々結晶しなければならない。
硫黄や炭、弾丸の鉛については、大きな経費はかからないと思う。
火縄についても、常に火を点けて対峙・対戦すればかなりの経費がかかると思う。特に防城の場合は長期戦になる。
しかし、上野(群馬県)の権現山城の備品に火縄が見えないのが疑問であり、記載漏れなのかも知れないが、火縄銃に火縄を使わないのかな?。出典(諸州古文書)については未確認です。f(^_^;
その他、山中城から出土した弾丸は、鉛の他に銅・鉛・錫の合金弾も出土しており、火縄銃の改良・開発・入れ替えもあって費用もかかったと思います。出典(山中城跡発掘調査・三島市教育委員会)については未確認です。
0317人間七七四年
2010/01/04(月) 14:51:16ID:RGqVE14B>>315
朝鮮の役中の文禄2年、巨済島に駐屯する島津義弘軍2千の火器装備記録によると。
百丁の内
玉径(mm)
大筒(?) 1丁
五十目(31.4) 5丁
三十目(26.5) 5丁
二十目(23.1) 5丁
十三文め(20.0) 2丁
六文目(15.5) 10丁
二文半目(11.6) 72丁
となっています。
見ての通り、2.5匁筒が72%と圧倒的比率であり、これが標準的口径であったことが判ります。
学研が行った竹束への貫通実験に使われた6匁筒は10%の装備率で、
文禄期の一般的口径ではなく、威力の強い部類になりますね。
学研には当時最も標準的な2.5匁筒による板盾や竹束や鉄板に対する貫通実験を行ってほしかったですね。
また当時は火薬の質も現在のものとは違っていたでしょうし、
弾丸の材料も原材料に不純物が混じっていたり
製法も手製の鋳型に溶けた鉛を流し込むといった方法では完全な真球状にはならず、
空気抵抗を増して威力を減じたり、精度を悪化させたりしたと思われます。
こうした要素を再現した実験であったなら精度の高い実験になったでしょうね。
0318S字型金具
2010/01/05(火) 18:35:26ID:QGjIxArf>>317
解りやすい文章が書かれており、同感です。
同じく、朝鮮の役中の文禄2年の小早川隆景軍5千の火器装備記録も、200丁のうち2.5匁筒は155丁で78%の装備率となっており、それ以前の一般的な銃の口径は小さい可能性があります。
鍋島直茂軍(鍋島家文書)の火器装備記録については、未確認なので不明です。
竹束については、竹の種類や太さ、油抜き処理の有無によって結果も異なると思います。
小早川隆景軍の火器装備記録に、塩硝、硫黄、薬、鉛、玉の記載が有り、戦場で玉薬製造をしていた様に思いますが、権現山城と同じく火縄が見えないのが疑問です。(小早川文書の原典未確認)
火縄銃には火縄は必要不可欠の品なので、澤田平さんは「火縄は竹や檜・麻・木綿などを素材にして作られるが、地方によってはその土地特有の植物繊維が用いられることがある。・・・・・軍用には木綿の火縄が用いられる。」と本に記載されています。
未記載の炭のように現地調達できる品物なので未記載なのか、それとも記載漏れなのか、はたまた、要らないのか。
その他、権現山城では鉄砲15丁に合薬1500放、玉3200なので1丁当りの玉薬も少なく、戦国時代の「三段撃ち」や「つるべ撃ち」、「早撃ち」については疑問があります。
「できる」と「使える」とで大きな違いがあり、貴重品なので練習も十分にできなかったと思います。
0319人間七七四年
2010/01/07(木) 23:25:05ID:uEIDH2KO小口径の鉄砲で撃たれても鎧では防げないとのこと。
ある程度距離があれば、当世具足で跳ね返すことはできないんだろうか?
ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/index.htm
0320S字型金具
2010/01/10(日) 23:51:26ID:IfKE7cSp射撃練習や黒色火薬の出来を見るために試し撃ちをする。
裸眼視力で、計算上識別できる大きさ(o)と対象までの距離(m)は以下の様である。
視力 10 20 50 100 200
1.0 34 69 172 345 690
2.0 69 138 345 690 1379
3.0 103 207 517 1034 2069
4.0 138 276 690 1379 2759
明るい場所でコントラストの強い静止した物体は、裸眼で2.0の人は10oは69m、100oは690mまで見え、裸眼限界の4.0では、10oは138m、100oは1379mまで見えることになる。
10円玉(径23.5o)に例えると、計算上、視力2.0で162m、視力4.0で323mまで見えることになる。
通常、火縄銃の弾丸は音速で飛ぶために裸眼では見えなく、被弾痕で正確性を判断する。
その際、識別できる物を大きくするために、土煙が出る所を造って着弾させるか、水に浮かべた木片を的にして波紋を出させる。
当時は伝染病のトラコーマ、囲炉裏の煙や不潔な手による結膜炎などの眼病が想定され、眼の洗浄剤や目薬もなく、昔の人は視力が良かったとは一概に言えない。
また、動体視力と静止視力は全く別のものであるが、戦闘中の物の見え方は如何であったろうか。
>>313 の「1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。」は、撃ったほうが相手の被弾負傷よる姿勢変化を見てのことであり、何処に弾が飛んで行ったか分からない場合が多い。
標的が動くことや風向・風力、空気中の湿度、照度・靄・霧・雨などの諸条件により命中率(負傷させる)は悪かった様に思われる。
撃たれる側から見ると、耳元での衝撃波音は相手の発射音よりも先に聞こえるが弾は見えなく、直進弾の他に兆弾(跳弾)もあり、当たれば傷害度の大きい恐怖の対象となる武器に遭遇したことになる。
より正確に弾を飛ばすためには、どのくらい練習できたのか(させてもらえたのか)、またその経費は如何様であったかものか。
0321人間七七四年
2010/01/11(月) 00:24:17ID:tHuoJza2鉛弾は変形して再利用できなくなるから。
0322人間七七四年
2010/01/14(木) 15:56:04ID:L1fLSl8q文禄・慶長の役では安価な二匁半筒を大量に調達したため、
それまでと比べ小口径な銃が多用されたんじゃなかったっけ。
板金鎧を着けない朝鮮兵には十分効果があったんだろうけど。
0323S字型金具
2010/01/15(金) 01:10:17ID:eaajzEnG射撃実験の Video があります。
「火縄銃の威力検証」
ttp://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm
小口径の鉄砲(小重量の弾)でも、当たれば相当な負傷を与えるでしょうね。
0324S字型金具
2010/01/24(日) 00:48:38ID:ETgJfqaP火縄銃の口径と弾丸のサイズは、あまりにもバリエーションが多い。
そのため、口径に合わせて弾丸を作成していたようだ。
そこで、弾丸作成法に疑問がある。
戦国期の弾丸作成は、玉型を使用していたのだろうか。
鉄玉の出土があるから鋳型も使ったと思われるが、鉛の比熱は小さいので鋳型は使った(利用できた)だろうか。
表面張力を利用した溶融滴下法(dripping molten lead)で多量に鉛球を作成し、その中から口径に合った物を選別した
可能性がある。(この方法で真球度の高い物ができるかどうか、何時か再現実験をしてみたい)
0325人間七七四年
2010/01/24(日) 01:49:24ID:jVz6q19n江戸時代や大陸と同じように、先がでかくて中に球状の空間があるペンチつかって
工具は知らんがバリの付いた制作途上の弾丸は発掘調査で出土してるし
鉛製、鉄製のほかに銅製のもあったらしいな。
篭城中に鉛が無くなって、しょうがないから銅銭溶かしてって推測されてたが
0326S字型金具
2010/01/24(日) 22:37:47ID:ETgJfqaP>308 の8分弾(直径8ミリ)から2.5匁弾(直径12ミリ)の小球形金属物の作成を考えると、
当時、炭火では鉄を溶融できなく、鉄玉では鎚による作成よりも、鉄鋳型による温鍛造の可能性がある。
銅玉や >316 の合金弾については、銅銭製造のようにルツボ・トリベによる溶融土鋳型法も考えられるが、鎚による鍛造や、鉄鋳型による温鍛造の可能性もある。
鉛玉は、玉型(1発用)による溶融鋳型は現存しているが、多発用の土鋳型の現存は知らない。(私が知らないだけかも)
鋳型による弾製造は、鋳型によって玉径が決まるので、口径にあった鋳型が必要となる。
いずれにしても真球度を上げないと弾の回転が増して直進性が失われる。
鉛は整形が簡便で高比重であることから弾材料に適しているが、数百発の異径鉛弾の一括出土例はどの様に解釈したらよいのか判らない。
0327S字型金具
2010/02/03(水) 23:47:26ID:Pn1Hh8JL「真説 鉄砲伝来」に、気になることが書いてあった。
記事の中から、近世初頭における火縄銃と思われるものを拾い上げると、
「鉄炮・鉄放・大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」と多くあり、なぜ色々な名前を付けていたか、呼ばれていたかが疑問である。
著者は「むすび」で、「伝来したものが南蛮筒」で「異風筒は南蛮筒を見本にしてつくられたもの」としているが、異風筒の呼び方にしては多すぎるような気がするし、南蛮筒の呼び方は後の呼び方である。
あえて「南蛮」と付けて、違いを示す必要性があったものか。
また、「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」と記載している。
東南アジアの一地域から工夫・改良されながら続々と渡来したものか、インドを含む東南アジア一帯から渡来したものかが不明である。
その時代のキリシタンご一行様も鉄砲を持っており、その西洋鉄砲の影響についても不明である。
東南アジアに、中国(明)よりも火器の発達した国があったとは思えないが。
0328仙台藩百姓
2010/02/05(金) 20:59:18ID:Abgtcxud今だって小銃一つとっても数十種類あるのと同じだお( ^ω^)
0329S字型金具
2010/02/05(金) 21:49:29ID:USeLibst異風筒の呼び名が多い割りに、火縄銃の部品名についての異名が少ない。
「照門・照星・銃口・銃床・さく杖」については中国での部品名であり、江戸期になってから使われ始めたもので近世初期には用いられてはおらず、「鉄砲伝来」とは関係ない部品名である。
火縄銃が進歩・発達すれば当然部品点数も増え部品名も増えてくるが、「続々と渡来した」ならば外国語の部品名が付けられていてもおかしくない。
江戸期に入り、数多くの「流派・砲術師」があらわれてバリエーションのある銃が造られ「口伝・秘伝書」で部品名を伝えているが、部品名を漢字に当てはめ直したとしても、なぜ「秘事」にしてはあまりにも共通の部品名を使い、異名が少ないのだろうか。
「カルカ」についてはカタカナで書かれおり、その意味はポルトガル語の歯科道具「calcador」(和名のエキスプローラー・エキスカベーター)に相当するものと思ったが?
また、「火縄銃」の呼称は、何時ごろ、誰が、何と区別するために言い始めたのだろうか?
0330人間七七四年
2010/02/05(金) 23:33:10ID:iJ/MwIDV0331人間七七四年
2010/02/06(土) 00:16:00ID:EWP5qdYJ0332人間七七四年
2010/02/06(土) 00:23:48ID:EgU7dvMD0333S字型金具
2010/02/06(土) 01:08:32ID:X7wPP/N+「朝鮮王朝實録」の「成宗 75卷, 8年(1477年) 1月 28日(丁卯)」には、
「火藥庫有石硫黃二十三萬七千餘斤焰焇四萬斤然今倭人未有來獻者必有窮盡之時」とあり、「火薬庫に石硫黄23万 7千余斤と焔硝4万斤の在庫があるが、今まで献上(献土)してきた倭人(日本人)が来なくなったので,必ず無くなる時が来る」と記述されている。
「朝鮮王朝實録」に鉄砲に関係する倭人の献上品に、硫黄・鉛・銅などが記述されており、これまでに(1418年12月から1449年2月まで)これらを献上してきた主な日本人は以下の人々である。
九州前ハ管右武衛源道鎭、九州ハ管源義俊、筑州石城管事民部少輔平滿景、對馬島都萬戶左衛門大カ
筑前州太守藏親家、濃州太守平宗壽、一岐州太守源重、駿州太守源省、肥州太守源昌C、筑前州太守滕源滿貞、日向大隅薩摩州太守修理大夫、薩摩州太守源久貴
熊州刺史源昌C、作州前刺史平常嘉、九州府石城式部小輔源俊臣、薩摩州伊集院㝢鎭藤原ョ久、筑前州太宰宗貞澄
したがって、その当時、朝鮮に鉄砲原料(無い・不足している物)を送ったのは「倭寇」ではなく、日本の役人である。
また、日本は火薬のことは当然知っているが、朝鮮側が秘密にしていて正式に教えていない。
0334人間七七四年
2010/02/06(土) 22:56:48ID:EgU7dvMD日本の役人が正規に火器の原料を朝鮮に提供していたのは
倭寇による鉄砲伝来説とはまったく矛盾しない。
0335S字型金具
2010/02/07(日) 02:25:12ID:n4nccmJZ「真説 鉄砲伝来」の著者は、「国立歴史民俗博物館研究報告第17集」「壬辰・丁酉の倭乱と李朝の兵器」の中で、
明宗元年(1546年) 四月「濟州漂流人到琉球國刷還到上國時見福建道水車之制而傳習之今若制作激水甚便請令戶曹造作下送各道ヘ民何如且鐵丸火砲唐人之所作用之水戰甚便破敵尤妙請令軍器寺詳究制度造作藏諸沿邊各官以備不虞何如」
について、「鐵丸火砲」を「中国人が造った仏狼機」と推測し記述している。(P11、P46〜)
著者の推測根拠は、
@明宗元年(1546年)は、仏狼機が明国に伝わって二十七年後のことであるから、このとき、李朝に仏狼機があったとみても不自然ではあるまい。唐人の鉄丸火炮はおそらく仏狼機かもしれない。
A宣祖二十六年(1593年)九月、李朝は仏狼機の説明が書いてある「紀效新書」をえたので、研究されていたはずである。
B宣祖二十七年(1594年)六月、明国軍が平壌城を仏狼機で攻撃した。(ただし、李朝ではない)
C宣祖二十八年(1595年)十月、「海上通路遮断するために仏狼機などを装備すべきと啓した」とあるので、仏狼機が打造されたとみなしてもよいだろう。このなかに仏狼機がふくまれていたとおもいたい。
などであるが、その直後の文に「ヨーロッパから明国に伝わった仏狼機は、その後、ほどなくして李朝にもたらされた」「仏狼機が、宣祖二十八年ごろふたたび打造されたのである」と断言している。
しかし、「朝鮮王朝實録」では、「鐵丸火砲」の記載はここ1箇所のみ、「佛狼機(器)」についての記載は宣祖二十七年(1594年)三月からで、訓練は光海二年(1610 年) 十月から、製作は顯宗六年(1665年) 五月からのようである。
また、著者は、宣祖二十五年(1592年)十月四日「賊徒一百名出來則前鋒百人持鐵丸環刀其餘後行皆無兵器我軍誠冒死突入勝之必矣」について、「鉄丸が火縄銃、長剣と環刀が日本刀であることはいうまでもあるまい。」と断言している。(P7)
「朝鮮王朝實録」に「鐵丸」は多く出ているが、「鐵丸火砲」について「中国人が造った鉄砲」と解するほうが妥当な見方ではないだろうか。
そうであれば、「天文十五年(1546年)以前に中国で・・・」となる。
0336S字型金具
2010/02/07(日) 10:41:48ID:n4nccmJZしかし言えることは、「朝鮮は日本のことを恐れている割には、日本のことを知らないし、知ろうとしない」、「中国から火器・火薬について習ったが、その後の改良・進歩が遅い」である。
日本を恐れるあまり火薬製造法を極秘にし、自国の技術伝承さえ危うくなっていて、「朝鮮王朝實録」の記述から日本の鉄砲について知るべきことは少ないと思える。
1449年2月以降、朝鮮への献上(献土)はほとんど無くなり、日本人は私貿易でも硫黄なども扱っており、焔硝は禁制品ではなくその精製法も知っていた。(火薬についての製法は中国より知っていたが性能は不明)
定宗元年(1399年)6月1日「日本國使詣闕 賜酒食日旣夕令軍器監張火戲以視之倭驚曰此非人力所爲乃天神使之然也」で驚き、その原料の硫黄などを献上していれば、中国より情報を得ようとするのは当然だと思える。
今までの「朝鮮王朝實録」による「倭寇による鉄砲伝来説」は状況証拠であり、確証ではない。
「鉄砲伝来」について、中国(明)史料を解明しないと真実は出てこないのかも知れない。
その他、
@「鉛丸」の記述は、宣祖26年(1593年) 1月 11日「提督鼓諸軍薄城賊伏於陴中亂用鉛丸湯水大石滾下拒之」からであった。
A「鉄砲」の定義についてははっきりしていないが、これも「伝来」といえるのかな。
世宗卽位年(1418年)8月14日「對馬島敬差官李藝啓 火(桶)碗口唯以銅鐵鑄造而銅鐵我國所不産因此火(桶)碗口未易鑄造臣至對馬島於賊倭處得中國所鑄水鐵火(桶)碗口以來請以水鐵鑄火(桶)碗口分置諸州鎭命軍器監試之」
0337人間七七四年
2010/02/07(日) 23:18:03ID:XUiYsI1/朝鮮王朝実録(1546年)記述の「鐵丸火砲唐人之所作」が仏狼機という根拠は滅茶苦茶。
ABCは(1593年)(1594年)(1595年)の仏狼機に関する記述で
そんなものが時代大きくを遡って(1546年)に適用できるものじゃない。
@にしても「不自然ではあるまい」とか「かもしれない」といった程度の
殆ど根拠にならないような根拠。
(1546年)頃の明では仏狼機以外の各種火砲が存在していたのだから
仏狼機に限定することはできない。
0338S字型金具
2010/02/08(月) 23:44:03ID:6wVSZddy倭寇による伝来説の根拠を「真説 鉄砲伝来 P44〜P49」から抜き出すと、
@この当時、明政府は朝貢関係にある外国の商船以外の受け入れを禁止し、自国の商船の海外渡航を禁じていた
A天文十五年(一五四六)に薩摩山川港に来泊したポルトガル船の船長が、年々九州地方に来航していた中国船の数はおびただしかったと記録に書き残している
B明の商船がわが国に頻繁に来航するようになると・・・日本の商人がこれに加わって明に出向くようにもなった
C倭寇は・・・国禁を犯して、日本や東南アジアの諸方面に奔走して威勢を誇示していた
D倭寇の構成員の主体は中国人であったが、・・・・倭寇は西日本地域と深い関係があったことになる
E中国人は・・・つまり鉄砲であろう。・・・火砲を日本に売りさばいたことは想像にかたくない
F明宗2年(1547)4月19日の記録によると、すでに福建人が倭奴と交通して、かれらに兵器をあたえ、かつ火砲の撃ち方を教えた
G倭寇の重要な交易品のなかには硝石や硫黄がふくまれているが、これらの商品は鉄砲の必需品である。この点からも倭寇が鉄砲を商ったことはまちがいあるまい
だから、「倭寇が東南アジアから鉄砲を伝えた」としている。
中宗39年(1544年)7月23日「但此唐人漂向倭地則其火砲器具倭人必ョ而傳習
當此憤怨之時其爲我國之害亦豈少哉前者欲以唐船有勿歸倭地之議其言甚爲有理
然興販唐船往來日本者必前後相望倭奴之傳習火砲恐或終不能防閑也」
P48のこの文を著者は、「唐人たちの所持する火砲が商売の末日本に伝わり、日本人が火砲の製作法や射法を学んで、朝鮮に害をなすことにあった」と解説しているが、
「中国人が日本へ行って、日本人に中国の火砲・器具を教える」とも取れるのだが。
ABの薩摩山川港を含む九州地方の人は「倭寇」か。
Fの中国・福建を東南アジアといえるのかな。
0339S字型金具
2010/02/10(水) 01:08:16ID:isGwpU7k由緒書などには信頼性の低いものもあるが、鉄砲について誰から教わったかを「真説 鉄砲伝来」の第4・5章から拾い上げてみると
@P70 天文二十三年に佐々木少輔府次郎が祖父の相模守に授けたもので・・・
AP87 機会があって入唐し、明師から小筒一流の秘術の伝授を受けて帰国し、さらに研鑽を積んだ
(P91 秘伝書の目的は秘事の伝授であって、鉄砲伝来の事実を語ることではない。唐・天竺も南蛮もともに外の国、すなわち海外からということを表現したもので、それほど深い意味はない)
BP95 長ずるにおよんで諸国を遍歴し、諸流の秘伝を学んで・・・
CP98 唐人式部大輔に秘伝を授けた岸和田肥前守重房の消息は不明であるが・・・
DP104 大唐より鉄砲が伝わり、豊後の国に・・・
EP105 その伝来は大友家から世上にひろまった
FP106 鉄砲は大永六年に村上新左衛門という西国の牢人が信虎公へ奉公して教えた
(P106 まだ鉄砲が伝来していないからおかしい)
GP109 唐国から永正七年に初めて渡来した鉄砲と教えられた。
(P109 それが永正七年というのはありえない。鉄砲自体が伝来していないからである)
東南アジア人・南蛮人から教わったような形跡は見えず、著者は「天文十二年伝来説」にこだわっている。
また、P57の「鉄砲薬方並調合次第」では、「両分朱」の単位系を使い、道具も東南アジアのものではない。
(この次第書はなぜか配合比率が2種あり、この処方では火薬は作れず、詳細は口伝となっている)
0340S字型金具
2010/02/11(木) 00:59:27ID:gxF3hfFX「真説 鉄砲伝来」で南蛮鉄砲について、『P64 江戸時代以前、わが国に伝えられた鉄砲は、南蛮筒とか、南蛮鉄砲とよばれていた』、『P82 外国製の鉄砲は「南蛮筒」とよばれ、それを見本につくられた鉄砲が「異風筒」である』と明言している。
「南蛮筒」についての古文書は、P64・65に「天文23年(1554)」、「天正12年(1584)」、「天正14年4月」、「慶長18年(1613)」などを紹介している。
そして、P65から現存する南蛮筒の実物資料7点を紹介し、伝初伝銃を「南蛮筒(銃身だけ)」、他の6点を「異風筒」として、『南蛮鉄砲・南蛮筒に関する文献史料と実物資料は数えるほどしかない・・・』と記述している。
その他国内には、喜蔵とりつき銃、信玄砲、上妻家伝来古銃、慶長大火縄銃、徳川家康所用火縄銃なども存在するが、著者はこれらも「異風筒である」と言うに違いないが、「信玄砲」はどんな「南蛮筒」を見本にして作られたものだろうか。
いずれにしても制作年のわかる(信頼できる)現存銃は、慶長期(1600年ころ)以降とされ、それ以前については確証が得られていない。
P82から「異風筒」についての記載があり、『実在を示す文献史料はつぎの三点を数えるにすぎない』として、紹介している。
@元和3年(1617年) 鉄砲1020挺、イフウ物不同也 285丁、『千二十挺に対して二百八十五挺は、けっして少ない数字ではあるまい』と記述。
A元和4年(1618年) 異風筒 300挺、6匁玉 1000挺、『三百挺におよぶ異風筒が島原城にあったことになる』と記述。
B寛永13年(1636年) 田布施流の秘伝書、『そこには「大薬、種嶋、異風物」とあり・・・・異風物がふくまれていた可能性がある』と記述。
『P85 通説のように種子島を起点に鉄砲が全国に伝播したとすれば、みな種子島の鉄砲とおなじ形式になるはずである。
しかし、そうでないのだから、種子島以外の地域にも南蛮鉄砲が伝わったことになる。
南蛮筒はもとより、多くの異風筒の存在は、鉄砲の伝来が分散波状的にあったことを証明している』と記述している。
しかし、私はこの記述について、全く納得できない。
著者は南蛮筒・異風筒以外の存在を認めていないのに、@ABの「異風筒以外の多量の鉄砲」をも認めている。
これは「おかしい」。「真説」というよりは・・・・・。
だから、私の「戦国期の火縄銃についての疑問C」が出てくる。
0341人間七七四年
2010/02/11(木) 05:47:27ID:WyoPyZni0342u7dee9885fw5gz6
2010/02/12(金) 01:35:50ID:dUAOT1PHS字金具様、お久しぶりです。
掛け軸の件、気にはかけていたのですが、何処で閲覧したか記憶を辿れませんでした。
申し訳ありません。
某寺所蔵のサーペンタイン銃ですが…何か判明しましたか?
宜しければ教えて下さい。
0343S字型金具
2010/02/12(金) 23:09:16ID:4ox+Be+0u7dee9885fw5gz6 様、掛け軸の件は残念です。
サーペンタイン銃については、昨年9月に記録保存のため計測を行いました。
その後、雑賀と関係ない「石山本願寺防城用の狙撃銃」ではないかと推論し、手紙で澤田さんにその批評をお願いしましたが、現在のところお返事はいただいておりません。
その計測値と推論要旨を「デジカメによる計測・コメント欄」で公開しておりますので、ご意見・ご指導をお願いします。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/list/4143269/
訂正 >>256 の「東南アジア」は「東アジア」の入力間違いでした。
0344u7dee9885fw5gz6
2010/02/13(土) 05:39:14ID:iFImjHvb詳細な調査、御苦労様です。
改めて拝見させて頂き大変、勉強になりました。
私見となりますが、S字型金具の設置方法(外装か内装)と火蓋の形状が、かなり判断の目安になるものかと感じました。
0345u7dee9885fw5gz6
2010/02/13(土) 08:21:20ID:iFImjHvb例外もあると思いますが、サーペンタイン式にてS字型金具を内装しているのは、中国を中心としたモデルの特徴だと感じます。
0346u7dee9885fw5gz
2010/02/13(土) 08:24:50ID:iFImjHvb> > 続きです。
展示物以外(オークション等)にも数点、サーペンタイン式を見ておりますが、国産と思われる物で内装式を見ておりません。内カラクリの壊れた火繩銃をサーペンタイン式に改装した物も拝見しましたが、やはり外装でした。
又、あくまで個人的な私見ですが、火蓋の造りが鍛造的に感じます、現存する国産の古式銃、資料でも同形状の火蓋を拝見した事が有りません。
火蓋自体が破損等、紛失している物も多いのですが…
以前にも書きましたが、自分は、否定派ではなく
肯定派です。
新しい事が解りましたら、また教えて下さい。
宜しくお願い致します。
0347S字型金具
2010/02/13(土) 22:47:46ID:rjb9iLsu火蓋の造りは軟らかい鍛造鉄でリベット止めとなっており、ほかの鉄部は硬い鍛造です。
最初、変形していたので、私がエイ!ヤー!と手力で、火門池と合うように整形しました。(20年前なので時効)
炭火では純鉄の融点1535℃まで上がらなく(たたらでも1300℃)、鉄の直接鋳造は不可能です。
金属は不純物(合金を含む)があると融点が低下する(純銅・1085℃、青銅・真鍮・900℃、鋼・1400℃、銑・1200℃)ことや物性が変化するので、銅合金鋳物はよく作成されましたが、鉄鋳物は石炭(コークス)の利用からだったと思います。
ヨーロッパでは、サーペンタイン式銃は早く消え、現物を探していても見つかりません。
クロスボウ(ボウガン)・弩の仕掛けは内装が多く、内装式は支点がしっかりするなどの利点があったと思われます。
0348S字型金具
2010/02/15(月) 02:34:16ID:yo6fb72B宇田川武久(元国立歴史民俗博物館教授)さんは、「真説 鉄砲伝来」で、「鉄炮記」を『そもそもこの書物は、伝来とされる年から約六十年後、・・・・・それほど史料的価値が高いとはいえないものである』として、「倭寇説」を組み立てている。
伊川健二(大阪大学・大学院文学研究科・文化動態論専攻)さんは、「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」で、「鉄炮記」を信頼に足る史料と結論づけ、ポルトガル伝来説を採用している。
その『おわりに』(下・P32)では、
『じつは筆者は、歴史研究者にとって、鉄砲伝来というテーマは、労多くして実り少ない論点であると考えている。・・・・・
しかも、この問題は、本来、文献のみで解釈されるべきものではない点は、前号以来しばしば触れているとおりであり、技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』
と書いている。
ttp://igawa200.hp.infoseek.co.jp/pdf/teppo-1.pdf
ttp://igawa200.hp.infoseek.co.jp/pdf/teppo-2.pdf
太田牛一の「信長公記」は、豊臣家滅亡後に軍記の執筆に専念し、慶長15年(1610年)に書き上げ、小瀬甫庵はその「信長公記」を元にして、翌年、「信長記」を書き上げている。
『甫庵の「信長記」は「偽り多し、3つのうち本当のことは1つ」(大久保彦左衛門の三河物語)と当時の人からも非難されている』とのこと。
ttp://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon09.html
『これは裏を返せば、原本となった牛一の「信長公記」についてもそのまま信じては駄目だと言うことにもつながる』は、正しい。
ttp://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide04.htm
由緒・由来書、伝記について、どこまで信用してよいものか。古文書・手紙にしても、偽物や意図して書いた物もあるし、秘伝書については、「トンデモ本」の範疇に入る物もある。
0349人間七七四年
2010/02/15(月) 11:25:35ID:uONNRbgTまったく話題にならないよな
0350人間七七四年
2010/02/16(火) 20:52:29ID:LfMtO2Viその頃の明に鳥銃ってあったの?
鋳造の粗雑な銅銃しかなかったと思うんだが
0351S字型金具
2010/02/17(水) 03:05:28ID:XI+C2b4T伊川さんの、「鉄炮記」について『技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』と記述していることは、今まで、技術面から鉄砲伝来を見ていない(調べていない)事を言っている。
私なりに「鉄炮記」を読解してみると、
@種子島の位置と地名の由来を紹介。
A天文12年、言葉の通じない外国人(西南蛮人の商人)が乗った船が来て(難破か座礁か不明)、五峯(明人の儒生)と筆談できたので、領主の恵時と時堯は港に運んだ。
B住乗院(島の法華の徒)と五峯は、筆談により意思が通じた。
C商人の長は二人いて、鉄炮を持っていた。
D時堯は鉄炮の原理・用途を理解した。
E今呼んでいる鉄炮の名称は、明の人か、あるいは種子島の人が知らずに名づけたものである。
F時堯は使い方を学び、頼んで二丁手に入れ、妙薬の調合法も学び、鉄炮の練習をして、百発百中になった。
G紀州根来寺の杉坊某公が鉄炮を求めてきたので、隠さずに、妙薬の調合法、使用法を教え、一丁贈った。
H時尭は鍛冶職人に複製品を作らせたが、鉄炮の底の塞ぎ方を知らなかった。
I翌年、蛮人の商人が来て、その中に一人の鍛冶職人がいたので塞ぎ方を学び、その後、数十の鉄炮を製造した。
J時堯は、鉄炮の台の形・飾りの模造が気に入らなかった。(理由は、鉄炮は軍需品である)
K近臣の者は時堯を見習い、多くの人が百発百中になった。
L和泉国堺の橘屋又三郎(商客の徒)が島で鉄炮を学び、畿内・関西・関東の人に伝習させた。
M聞いたところによると、鉄炮を持った松下五郎三郎(時尭の家来)が東海道伊豆州に漂着し、関東八州の人に伝習させた。
N鉄炮が種子島に伝わって六十年余りで、覚えている者がいる。領主の時堯は、蛮人から二丁の鉄炮を求め、学び、日本中を驚かせた。また、鉄炮の製造法を知り、日本中に教えた。
種子島が鉄炮の始まりであることを明らかにするためにこれを書いた。種子島は、種子の意味にあった島の名前である。
読解力不足ですみません。
0352人間七七四年
2010/02/17(水) 10:00:18ID:Wwfg0wWj明が滅亡した時、日本に亡命してきた人らがかなりいたが(朱舜水など)
そういう人たちが護身用に携えていた銃のひとつでは無いかと推測
0353S字型金具
2010/02/17(水) 15:24:07ID:XI+C2b4T「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこない。
佛郎機は国名で、正徳12年(1517年)、佛郎機種は明国へ朝貢したが、その後、国交を断られた。
佛郎機砲は、佛郎機種が中国(明)へ伝え、明が改良した大砲である。
明は、嘉靖2年(1523年)に試作し、嘉靖7年(1528年)には4000門を配備したが、小型火器である銃(佛郎機槍?)については、不明である。
「鉄炮記」に、天文12年(1543年)に着いたのは、「西南蛮種之賈胡也」、すなわち、「東南アジアの商人である」とはっきり書いてある。
文中に、6箇所「蛮種」が出てくるが、「佛郎機種」よりは「西南蛮種」としたほうが妥当だと思え、また「その後どうなったか」については書かれていない。
「鉄炮記」での「蛮種」は、「其形不類,其語不通,見者以為奇怪矣」
明国「武備志」でのポルトガル人は、「顧應祥云、佛狼機國名也、非銃名也、正徳丁丑(1517年)、予任廣東僉事、署海道事、驀有大海船二隻、直至廣城懐遠驛、稱係佛狼機國進貢、其船主名加必丹、其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」
その翌年、「蛮種の鉄匠」(たぶん鍛冶職人)より、「底塞ぎ」を学んだが、通訳や、筆談、風体については書かれていない。
五峯(大明儒生)が「倭寇の王直」説は、天文12年(1543年)現在、日本語が喋れないので、「アウト!」。
天文12年(1543年)の種子島の当主は「恵時」のはずだか(時尭は当時15歳?)、なぜか文中1箇所のみである。
Dについては多くの疑問があり、長くなりますが書かせてください。
0354S字型金具
2010/02/17(水) 17:25:37ID:XI+C2b4T明朝が滅亡したのは崇禎17年・寛永21年(1644年)ですが、この銃については、慶長9年(1604年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までに持ち込むことは、この寺の性格上、殆ど不可能です。
戦後、寺蔵の調査の際に忘れ去られていた物が出てきたが、寺とは合わないためガラクタと一緒に廃棄処分品として置いてあったものではなかろうか。 >>243
文禄・慶長の役(1592年から1598年)の際、日本中から色々な種類・形式の銃を集めて出征しており、また、明からの輸入(戦利品)の可能性もありますが、「本願寺の銃」としたいものです。
朱舜水とは時代が違うので、「この寺所蔵の銃」とは関係ないと思います。
ちょっと面白いものを見つけたので
中国(明)が日本の倭銃について研究していたのは事実ですが、私は「明代徐州衛遺址出土の鳥槍」については、倭銃の可能性が高いと思っています。
火鋏は欠落していますが、引金・元目当の位置?。弾金・締金は、真鍮・青銅?
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/128522/
0355人間七七四年
2010/02/17(水) 23:09:42ID:Wwfg0wWjどこの寺かは存じませんが、明からの帰化人は寺をひとまずの住処とする事が多かったので、
彼らの武器が寺社に持ち込まれる可能性はなくはないでしょう。(当時、漢語に堪能な日本人は学識階級である僧侶くらい)
黙子如定、隠元隆gが身を寄せた興福寺など。
寺社領は権力の及ばない治外法権の領域でもありますし、
そう思えばu7dee9885fw5gz6さんが目撃されたと言う
「なぜかサーペンタイン銃を持った僧兵の掛け軸」の由来も説明がつくような気がしまして。
可能性の一つとしてお留め置きいただければ幸いです。
0356S字型金具
2010/02/20(土) 02:11:06ID:4EuxLzN2「鉄炮記」は種子島氏16代当主の久時(1568〜1612)が、慶長11年(1606年)『和尚である南浦文之』に編纂させたものである。
恵時は、久時の祖父(1503〜1567)で13代当主。「鉄炮記」登場は1箇所。
時堯は、久時の父(1528〜1579)で14代当主。「鉄炮記」登場は14箇所。
@天文12年(1543年)3月23日、禰寝氏が300人の兵を率いて種子島を攻撃し、種子島氏は戦いに負ける。
恵時(当時40歳)は屋久島に逃亡する。時堯(当時15歳)は屋久島を譲ることで和解。その後、恵時は本島へ帰還する。(日時は不明)
A8月25日に南蛮船(百余人乗船)が現れ、恵時と時堯に連絡入る(恵時の記載はここだけ)。すぐに船数十艘に南蛮船を引かせ、27日赤尾木港に入港させる。
Bある日、時堯は通訳を介して、南蛮人から鉄砲の奥義を教えてもらう。
C9月節句の日、時堯は試し撃ちを行い、とても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、2挺の鉄砲を買い求め、家宝とした。
Dこの頃、時堯は、杉坊某公に鉄砲1挺を贈り、妙薬の法と火放の道も教えた。
Eこの後の、南蛮人百余人の動向は不明。
F天文13年(1544年)、恵時は屋久島の禰寝勢を攻撃して戦いに勝ち、屋久島を奪還する。(戦いの日時は不明)
禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施されていて、たちまち浸水、転覆して禰寝勢は全滅した。
以後、禰寝氏との対立が激化する。
G再び来た南蛮人(一人の鉄匠)に鉄砲製法を学ぶ。来航日時、南蛮人の動向は不明。
H何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製することができるようになり、習うものが増えた。
Iその後、商人の橘屋又三郎が種子島に一・二年居住して、鉄砲についてほとんど学んだ。
「鉄炮記」は種子島時堯(当時15・16歳〜)について書かれており、種子島氏は在地領主として種子島を支配していたが、天文12年以来、屋久島・口永良部島などを巡り禰寝氏(大隅国の領主)と争いを繰り返していた。
@Fの原典は未確認ですが、大きく違わないと思います。
このような状況を考慮に入れると、「鉄炮記」の記述内容は「のんびり」していて信憑性は低く、信頼できないところが多い。
「漂流してきた西南蛮船を略奪、葬り去った際に、略奪品の中に鉄砲があった」とするほうが妥当で、「最初の鉄砲伝来・日本発見」とは関連が無いかも知れない。
0357月孔雀
2010/02/20(土) 02:13:12ID:88kOxkdN自衛隊の工作員は、そのくらい、やってるかな・・
0358人間七七四年
2010/02/20(土) 09:19:50ID:5600RxFQ0359S字型金具
2010/02/22(月) 02:41:11ID:Q700ATRt@中国(明)は、1405年から1433年までの28年間に7次の大航海を行い(東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカまでの航海)、キリン・ライオン・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れて帰った。
Aその後、明はマラッカ王国(マレー半島南岸のイスラム港市国家、1402年〜1511年)のスマトラとマラッカに官廠(貿易中継施設)を開設していた。
B中国は、マレー半島の西側を「西洋」と呼び、東側を「南海」と呼んでいた。
Cポルトガルは、インドのゴアに基地を設営(1479 年)した後、そこから18隻、1400人の船隊でマラッカ王国を攻撃したので、マラッカ王国は滅亡(1511年)してしまった。
Dそこで、ポルトガルは日本を含む東アジアの情報を得て、正徳12年(1517年)明国へ朝貢したが、明はポルトガルについては知らなく、国名(後に佛郎機・フランキ)も無かった。
Eしかし、明は「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」として、1520年にポルトガルを追い払い、鎖国を行った。
F1522年、ポルトガルは5隻の軍艦で広東を攻撃してきたが、明軍は岸炮・艦炮で反攻したのでポルトガル軍艦2隻が分捕られ、3隻がマラッカに戻った。このとき、2隻の艦炮の大砲(佛狼機)を20門手に入れた。
G1523年、明は分捕った艦炮から佛狼機を試作し、1528年には4000門を配備した。(小型火器については、不明)
H当時、東アジアにおいて倭寇が活躍していたので、ポルトガル(佛狼機夷)は中国東南部の沿海貿易に倭寇を利用した。
I1548年、明は、鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
Jポルトガルが征服から貿易に転向したことが了解されたので、明は1557年にマカオでの居留権を与えた。
K1604年、明軍とオランダ(紅毛夷)の船と戦闘になり明軍が負けた。その後、佛郎機炮から紅毛炮に切り替えていった。
以上が当時の大まかな東アジア情勢である。
ポルトガルは日本については知っていたが、1522年以降1548年頃(?)までの間は、直接日本に行けない事情があった。
そのため、鉄砲伝来倭寇説も考えられるが、黒潮による漂流、中国からの伝来もありえる。
しかし、今までのところ中国でポルトガル(佛狼機夷)の小銃記録が見られなく、仮に神器譜(しんきふ)の西洋銃がそれだとしたら、倭銃とはまったく異なった銃である。
日本に伝来した銃すべてがポルトガル製とは考えられなく、マラッカ銃についても中国に記録が無いので(私だけか?)、日本の火縄銃について再考が求められる。
0360人間七七四年
2010/02/22(月) 03:41:33ID:dWBE/XKTこのスレではなっから答えを求めない「ボクの見つけたすごい疑問!」をやられてもみんな困っちゃうだろ。
0361u7dee9885fw5gz6
2010/02/23(火) 06:10:32ID:c5chY3op火繩銃のスレなんだから、問題ないでしょ?
むしろ、否定なら自分の持論で反論すれば?
0362人間七七四年
2010/02/24(水) 08:47:30ID:AXA6DHn8いまいちよくわからんのですが。(何年にどこから、どのように)
既知の説では明が日本式の火縄銃の製法を得たのは1548年、
トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが
0364S字型金具
2010/02/25(木) 23:18:53ID:4fLDrvuu天文18年?(1549年?)、摂津の細川晴元は山城の本能寺へ出した書状に
『種子島より鉄炮馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候・・・』と書いてあるので、種子島に鉄砲があったことは間違いない。
「鉄炮記」には当然のことながら、鉄炮について書いてある。
本文中に「鉄炮」の単語は10箇所出てくるが、「種子島筒」「南蛮筒」「異風筒」など「鉄炮」の異名については「ゼロ」である。
文中で、「始め、その名前も使い方もよく分からなかったが、鉄炮の名称は明の人、または種子島の誰かが名づけた」ものとしている。
『始不知其何名。亦不詳其為何用。既而人名為鉄炮者。不知。明人之所名乎。抑不知。我一島者之所名乎。』
しかし、中国(明)の書物に「鉄炮」の記載は無く(私が知らないのか?)、小さい物は「○○銃」、大きい物は「○○槍」などで、総称する名は無い。
なぜ、「鉄炮記」に、「種子島の人がよく分からない内に、鉄炮と名づけた」と記載する必要があったのだろうか?
時堯は、南蛮人から名称も聞かずに買ったり、教えてもらっていたのだろうか?
また、なぜ「自分が初めて名づけた」と書けなかったのだろうか?
その当時の古文書には「鉄炮」のほかに、天文23年の大館晴光より大友義鎭あての書状には「南蠻鐵炮」、永禄3年の大友宗麟より足利義輝あての書状には「種子島筒」、天正年間の土井覺兼日記は「手火矢」、「鐵放」など、用例・異名?はあった。
このことは、種子島以外に鉄炮があったことを示唆している。
0365S字型金具
2010/02/26(金) 00:11:30ID:F0TPVRUD「鉄炮」とは何か、「伝来」とは何処までをいうのかを定義しないと答えがでません。
まだ確証は得られていませんが、私は鉄砲らしきものから(花火を含む)、火薬の材料などを含む技術の伝来について調べています。
人によっては、「火縄銃」に限定、「南蛮筒」に限定して論じていますが、「鉄砲については広く捕らえたほうがよいのでは」と思っております。
「伝来」についても、「手に入れた=伝来」の方もいますが、それを理解し改良できるようになったら伝来したものと解釈しています。
したがって、私は「1400年ごろから伝来が始まった」と思っております。 >>336
「トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが」は、中国(明)の「趙士禎が」であり、日本ではそれ以前の可能性があり、鉄砲の改良に役立ったと思っております。
0366人間七七四年
2010/02/26(金) 15:55:43ID:3iRSp7VP当時は、火薬の爆発圧で金属片を加速して殺傷する兵器全般を示す
一般名詞だったんじゃないの?
0367u7dee9885fw5gz6
2010/02/26(金) 18:15:49ID:7Vs2QGrx日本に於いての火砲の起源は、蒙古襲来のてつはう(震天雷)からの認識で問題ないと思います。
記録が消失している事が残念ですが、当時でも不発、戦利品の震天雷の実態解明は、為されたと思います。
木炭、硫黄に関しては、当時でも即座に解ると思います。
火薬の起源伝来については、ヨーロッパよりも、以外に日本の方が早いかもしれません。
0368人間七七四年
2010/02/26(金) 23:19:38ID:kPG/P8+Q明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。
応仁の乱の時に早くも火砲が使われていたという話などもありますが、
たとえそれが事実だとしても直接的に火縄銃の参考になるものではなかったでしょう。
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