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▼火縄銃について語ろう▲

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDM
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0229人間七七四年2009/04/21(火) 00:10:06ID:sRilSvsl
詳しい事は分かりませんがグリップの形状や
銃身が台座から大幅に突き出していたり
どことなく西洋風な感じの銃ですね
0230S字型金具2009/04/21(火) 00:12:16ID:t1C9vbr0
すみません。返答の仕方が解らないので、番号で記入します。
228:の方、情報ありがとうございます。

その銃は、サーペンタインロック式だったでしょうか。
マッチロック式の狭間筒の話は聞いたことがあります。
宇田川説の根拠となる箇所なので、確認したいものです。
0231S字型金具2009/04/21(火) 20:49:52ID:t1C9vbr0
229:の方にお答えします。
「グリップの形状や銃身が台座から大幅に突き出していたり」の様に見えますが、全長228センチメートル、重さ約30キログラム
と長くて重く、置き筒ではないかと思われます。そのため、銃身の下部木質が腐って無くなったように思われ(見え)ます。
「銃身下部」の写真を追加いたしましたので見てください。カルカ(サク杖)の穴はありませんでした。
ご意見有り難うございました。

02322292009/04/21(火) 21:09:07ID:sRilSvsl
わざわざ画像の追加ありがとうございます
確かに経年劣化で失われたように見えますね

それと関ヶ原で出土した狭間筒についてですが

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/wforum/wforum2001/2001.5.4.htm
>関ヶ原歴史民族資料館に地元民家から発見された鉄砲で、
>全長2.3m 重さ30s 安土・桃山時代の堺鉄砲鍛冶士 芝辻理右衛門の銘があり、
>弾丸は3q飛んだらしい。地面に置いて使ったとのことだか、
>関ヶ原の頃は大砲は無かったのだろうか。

という話がありました。画像の鉄砲とほぼ同じサイズですね
掲示板のログなので真偽のほどは分かりかねますが^^;
0233人間七七四年2009/04/21(火) 21:58:18ID:hM6LtJy9
>>232
そのリンク先
「大筒が使われたのは大坂の陣以降」とか変なこと言ってる人がいるね。
文献読んでないのかな?
少なくとも天正期には大筒使用の記録が多数あるんだけど。
0234S字型金具2009/04/21(火) 23:12:41ID:t1C9vbr0
232:情報、有り難うございます。
早速調べて見ましたら、「平成12年、岐阜県関ヶ原町の民家で、全長167cmの火縄銃の銃身が発見された。・・・・・・ 
そこで、平成13年、高木昭郎・竹中博男・澤田平の三者により慶長大鉄砲の完全復元を行った。」の事だと思います。
また、「そもそも現存する慶長期の銃は、全国でも極めて希少なものである。まして、これほどの大鉄砲は大変珍しいものなのである。」と澤田さんは記載しておられます。
しかし、この復元銃と私の調べている銃とは、残念ながらまったく異なっています。

ついでに掲示板のログにあった設楽原歴史資料館にある宗堅寺(新城市)に伝わる信玄砲について調べてみました。
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/1,3110,118,662,html
銃身の部分のみですが、銃身の長さ105センチ、重さ11キロ、ロ径20ミリ (十三匁)。
所荘吉氏は、「日本に残る多くの火縄銃のうちでも、 最も古い火縄銃の一つであることに間違いありません。」と述べていますが、気になる記述と銃身です。
0235人間七七四年2009/04/22(水) 05:27:44ID:G/9+m5rU
>>232
狭間筒は城壁や船の鉄砲狭間に設置する固定銃ですが、発射機構は火縄銃と同じカラクリですね。
石山合戦の第二次木津川海戦に際して、信長が造らせた巨船をフロイスが見学したときも、
2mほどの銃身の大鉄砲が多数設置されていると記録にありますね。
朝鮮の役でも安宅船に狭間筒を積んで恐れられたようです。

>関ヶ原の頃は大砲は無かったのだろうか。
関ヶ原では石田隊が使った他に、東軍も難破したオランダ船リーフデ号の艦載砲を使った説がありますね。
船には19門の青銅砲(カルバリン砲かデミカルバリン砲でしょう)、
500丁のマスケット銃、5000発の砲弾、300発のチェーンショットが積まれており
ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスら船員が家康に従軍し砲撃を行なったとのことです。
0236S字型金具2009/04/22(水) 23:31:32ID:34lTJEd/
国立歴史民俗博物館のデータベースで、同系の火縄銃が見つかりました。

館蔵資料画像データベース・館蔵武器武具データベース・実物資料の検索・検索条件:フリー=H-54-20 
【資料名称】 火縄銃(中国)
【資料名称カナ】 ヒナワジュウ(チュウゴク)
【コレクション名】 火縄銃
【資料番号】 H-54-20
【時代(和暦)】 咸豊5
【時代(西暦)】 1855
【製作地】 中国
【種別】 銃砲-鉄砲-火縄式
【流派】 _
【銘文】 「咸豊五年營□公會□造」
【法量】 口径3.0 全長222.0 銃身長174.4
【材質】 _
【備考】 _

探していた「サーペンタインロック式火縄銃」とよく似ています。
0237人間七七四年2009/04/23(木) 01:39:40ID:Z+B7Mcne
>>236
たしかにこの銃は中国の鳥銃(火縄銃)で主流だったサーペンタインロック式だと思います。
一体化した引き金とアームが、支点のピンとバネで留められている単純な構造だけに、世界中で用いられてますね。

マッチロック式には何種類かあって、
日本の火縄銃の瞬発式機構(Snap matchlock)はポルトガルや東南アジアで多く用いられ、
引金を引いた瞬間ロックが外れ、火挟(アーム)が解放され発射します。

この方式は世界では決してメジャーではなく、
ヨーロッパでは、サーペンタイン式同様引き金を引いた距離だけアームも連動して動く
シアロック式やトリガーロック式に発展していきました。

いわゆる緩発式火縄銃ですね。
引き金を引くのと発射にタイムラグがあるので狙撃には向きません。
シアロック式は引き金とアームがバネとタンブラーを通じて連動しています。

タッチホール式(手で直接火種を持ち点火する)の中国製銅手銃は
火縄銃伝来以前にも国内に輸入されていましたが、サーペンタインロック式は非常に珍しいですね。
伝来後サーペンタイン式機構がすでに日本で知られていたのか、
それとも中国のサーペンタイン式鳥銃を輸入または鹵獲して、発射機構を模倣したものなのか・・・
ポルトガルやスペイン商人が古銃を持ってきた、または中国の銃を仕入れてきた・・・わけないかw
0238人間七七四年2009/04/23(木) 02:10:51ID:Z/KNEkgD
> 【時代(西暦)】 1855
0239人間七七四年2009/04/23(木) 02:51:27ID:Z+B7Mcne
>>238
紛らわしいですが、自分が>>237の後半で言っているのは>>226の銃の出処のことですね。
>>236の銃は清朝後期のものと時代がわかっていますが、
清ではアヘン戦争後洋式軍隊が創設されてもサーペンタインロック式が混在して使われていました。
0240S字型金具2009/04/23(木) 20:37:15ID:Ke2RLDV/
私が知りたいのは、>>237>>239
「伝来後サーペンタイン式機構がすでに日本で知られていたのか、
それとも中国のサーペンタイン式鳥銃を輸入または鹵獲して、発射機構を模倣したものなのか・・・
ポルトガルやスペイン商人が古銃を持ってきた、または中国の銃を仕入れてきた・・・わけないかw 」
その疑問そのものです。

平成9年頃、出所を伏せて写真を見ていただいたところ、赤羽通重先生は「中国のごく古い火縄銃の型です」、名和弓雄先生は「製作されたのは、中国かあるいはモンゴル辺りかもしれない」と回答を頂きました。
当時、鉄砲伝来は1543年の種子島より始まるとされていて、倭寇勢力による宇田川説は少数意見でありました。そのような学説の中で、このような鉄砲は理解不能の存在でした。

今回情報を求めたのは、「倭寇とは、海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事」であることを思い出し、その反対の人たち「海賊に襲われる側の商人や、正規の商人がいても不自然ではない事」を思い付いたからです。
今ではインターネットで情報が簡単に得られるようになり、仕事も少し暇になってきたので、「少しでもこのような鉄砲のことをご存知の方がおられたら教えて頂きたい」と思い投稿しました。

しかし、>>226でもお願いしたように、しばらくは「某寺の所蔵品で、もし間違っていたらそのお寺に迷惑がかかりそうなので匿名のお寺」としてお願いいたします。
0241S字型金具2009/04/26(日) 08:24:04ID:RAioGStN
昨日、10数年ぶりにそのお寺を訪問し、古銃を見てきました。

古銃の保存状態は非常に悪く、朱色はあせ、錆が出ていました。そこで、お寺の方に「もしかしたら鉄砲伝来にかかわる貴重な古銃かもしれないので、大切になさったらどうでしょうか」と保管・管理をお願いしました。
重量の訂正があります。>>226 で重さ約30キログラムとしましたが、地方新聞に掲載されていた重量で、実際に持った感じでは30キログラム以下だと思います。

古銃を所蔵しているお寺(浄土真宗)の歴史は古いのですが、有ることが分かったのは昭和40年代(発見した方に、発見のいきさつを電話でお聞きしました)で、その由来については、前回伺った時と同様、寺のどなたも分かりませんでした。
現在のところ、明治以後の所蔵ではなく、それ以前の所蔵だと判りました。

寺には古文書や所蔵品が大変多く(蔵に入れさせていただきました)、昭和20年代に古文書の調査を始め、最近、ほぼ完璧な所蔵品の目録ができました。

赤羽通重先生と名和弓雄先生の鑑定画像(手紙の一部)を掲載しました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/68112/
0242人間七七四年2009/04/26(日) 09:04:10ID:4bpO2M2r
うちの菩提寺は戦国時代から残っている建物らしい・・・
建て替えるそうだがもったいない話だ
寺って歴史資料の宝庫だなあ
0243S字型金具2009/04/26(日) 10:40:09ID:RAioGStN
追加です。
2ちゃんねるに僧兵の写真(無断で借用してすみません)があったので、ちょっと使わせてもらいます。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yamabushi2.jpg

発見したいきさつは、「寺の蔵の廊下の干し竿に洗濯物がかかっていて、その物干し竿に金具がついていた。よく見ると、その物

干し竿は、石突のある薙刀の柄と長柄傘の柄であった。その近くに色々な古い板や古い物が置いてあり、古銃は陰に立て掛けてあ

った」とのことでした。

蔵の中で、その、刀部の無い、黒漆塗螺鈿(少し剥がれあり)薙刀の柄(寺の目録では傘の柄・192cm)と同じ太さの黒漆塗

螺鈿(剥がれあり)長柄傘の柄(292cm)を見てきました。
同じく完全な黒漆塗螺鈿の長柄傘、家紋入りの蒔絵長柄傘、その他、江戸時代の鎧など、箱に入っている道具がたくさんありました。

0244人間七七四年2009/04/28(火) 22:55:29ID:GIVk1SxP
兼続の時代米沢の鉄砲
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20090425-OYT8T00960.htm

画像http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20090425-OYT9I00959.htm
「米沢筒」など11丁が並べられた鉄砲の展示会(米沢市関で)
0245S字型金具2009/05/01(金) 00:35:08ID:FGHgqPjW
須川薫雄さんのホームページより
http://www.japaneseweapons.net/hinawajyu/shurui/english.htm

「Mino Tetsupo」・「Tsushiura's Seki School」・「Yonezawa Tetsupo」
上杉系統の鉄砲は、銃身が丸型で銃身をバンドで止めています。
0246S字型金具2009/05/03(日) 21:45:42ID:tGCgILtA
途中経過を報告致します。

@須川薫雄先生からの応援メール
 須川先生には、いろいろと教えて頂きました。
 澤田平先生の電話での途中経過をご報告いたしましたら、メールを頂きました。

A国立歴史民俗博物館からの回答メール
 広報サービス室の○○さんには、たいへんお世話になりました。
 照会したようなサーペンタインロック式の銃は、所蔵していないと回答がありました。

B所荘吉先生に鑑定して頂いた時の手紙(1992年・平成4年)
 この手紙の存在を今年の3月に知り、再調査するきっかけとなった手紙。
 この手紙は、私宛ではなく、川越重昌先生を通じてお願いした銃砲史学会員の方から、所荘吉先生の写真鑑定結果の返書です。
 残念ながら、封筒が不明で、お願いした銃砲史学会員の方お名前がわかりません。
 
@ABのメール・手紙の一部を、Yahoo!フォトアルバムに掲載しました。

現在、ご相談している澤田平先生から、「制作年代など色々検討中で、もう少し待って下さい」と電話がありました。
結果に期待しています。
0247人間七七四年2009/05/04(月) 03:35:48ID:j+ZmCmvs
ほうほう
0248人間七七四年2009/05/04(月) 13:57:03ID:erbKPdbY
で、本当に種子島伝来説は嘘だったのか。
最近は朝鮮→九州ルートが主流らしいが・・・。
0249S字型金具2009/05/09(土) 00:15:26ID:+i1DXu/v
>>242
「寺って歴史資料の宝庫だなあ」  私も同感です。
この寺の写真を整理していたら、軍配と箱が写っていました。
戦国時代の物だと思われる軍配について、寺の縁記では「教如上人より拝領」と書いてあり、箱の紋については触れていません。
箱の紋は会津松平家の家紋とよく似ており、次にうかがった時、寺紋について聞いてみようと思います。
お寺は信仰の場ですから、私達の興味や趣味の見地とかけ離れていて当然だと思います。この寺については、特に強く思いました。
0250人間七七四年2009/05/09(土) 18:02:08ID:8KGfg2kI
戦国期の鉄砲は、用途別の弾丸の種類だけでも100種類くらいあったみたいね。
0251人間七七四年2009/05/13(水) 02:41:16ID:g3cIUPbq
>>250
でも玉が銃を選ぶような
実用向けじゃないものもかなり混じってるよね
0252人間七七四年2009/05/16(土) 12:27:38ID:5shZv7lQ
現代の銃は薬莢のサイズが異なれば使えないが、当時の銃の弾丸は鉛製で、自分で作る。銃の口径にあった道具を持っていればまったく問題ない。
規格の統一という発想自体、近代になってからのもの。
0253人間七七四年2009/05/16(土) 15:28:33ID:w/J+E8H0
>>252
あきらかにトンデモな形や素材(鉛ではない)が混ざってるけど
そういうの量産できないし用途が限られると思うんだけどな
0254人間七七四年2009/05/16(土) 15:30:07ID:w/J+E8H0
↑あきらかってのは製造法の記述に有るって意味ね
0255人間七七四年2009/05/16(土) 20:08:13ID:LrzJ8vOo
まあ特定の戦術目的の為の鉄砲も普通に作られていただろうしね。
0256S字型金具2009/05/17(日) 00:32:41ID:zQC0f41q
現在、ご相談している澤田平先生から手紙を頂きました。
澤田先生には、途中、私の父と旧知の仲だと判ったので、寺の名前・簡単な由来をお伝えして鑑定して頂いておりました。
電話でも「東南アジアの作品に似ている」と言っておられ、「是非、現物が見たい。そして判断を下したい」と言っておられました。私も、近い将来、先生と連絡を取って鑑定結果をお聞きしたいと思います。

反省点:
私は、銃が専門ではありませんが、今まで「思い込み」がありました。
澤田先生は、電話でも言っておられましたが、著書「日本の古銃」でも
「鉄砲伝来の天文十年代から慶長初年頃までに製作されたと確定できる遺品は皆無である。」
「戦国期に製作され使用された火縄銃は相当な数量のはずで、その全てが消失してしまっていることは信じがたいことであるが、悲しむべき現実である」と書いておられます。
手紙にも、「現在、日本国内に石山本願寺の時代の火縄銃は一挺も発見されていません」と書いてありました。

Yahoo!フォトアルバムの写真を整理、詳細が判るように自動補正しました。
(色がどぎつくなりましたが・・・・)
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/68112/

0257人間七七四年2009/05/17(日) 03:09:01ID:KGhuUEiA
>>256
拝見しました。レバー状の引き金は中国の火縄銃に似ていますね。

↓中国の火縄銃手(ページ中央の写真)
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%B8%9F%E9%93%B3
↓明の火縄銃操練
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Ming_musketeers.jpg
0258人間七七四年2009/06/06(土) 16:23:39ID:dda0eEMf
戦国時代、火縄銃は一丁いくら?
0259人間七七四年2009/06/07(日) 01:07:23ID:KAMB198x
>>258
時期と型でかなり違う
0260人間七七四年2009/06/21(日) 20:17:20ID:7OuGZGjN
火縄銃で撃たれた時のGSW(GunShot Wound、銃創)ってどんな感じの傷だったんだろ

盲管銃創か、貫通銃創か。

盲管銃創なら、当時の外科手術で摘出などの処置はできたのか?

kwsk!
0261人間七七四年2009/06/22(月) 05:52:13ID:Iidof+Dr
>>260
俺のじいちゃん、太平洋戦争時に撃たれて体内に残ってたままになってた弾丸7発を
15年ぐらい前になってやっと摘出してたな
近所で同じく戦争に行って負傷した人が体内に残った弾丸のせいで鉛中毒で亡くなったので手術した
戦地にはレントゲンなんかないので、その時代でも深いとこに残った弾はそのままなのが普通だったとか
だから火縄銃の時代なんか摘出は不可能じゃないの?
0262人間七七四年2009/06/22(月) 07:50:25ID:kzgjZ0eU
速度700m/s以上の近代以降のライフル弾で撃たれた場合は着弾時に弾丸のエネルギーによって組織に爆発的
な膨張がおき(組織の永久空洞・破裂)そのダメージ・ショックで死亡する。

火縄銃は燃焼速度の遅い黒色火薬を使ってしかも空気抵抗の大きい鉛球弾を打ち出すわけだから
着弾時の速度はせいぜい200〜300m/秒くらいのものだろう。
反面口径は大きく20ミリくらいもあるから、散弾銃で撃ち出すスラッグ弾(一粒玉)をくらったような感じだろうか?
0263人間七七四年2009/06/22(月) 14:53:48ID:6IPFP75E
弾丸摘出用の手術器具があったように記憶している
ハサミの先が半円形に丸くなったようなもの
0264人間七七四年2009/07/03(金) 12:46:04ID:PEb5cboN
>>263
まさか「釘抜き」のこと言ってるんじゃないよな?
矢が刺さった時には釘抜きで抜いてたが…
もしその形状の弾丸摘出道具が有るなら先の丸い部分が小さくないと摘出が難しいし
それで取れる位になら小刀で抉り取る気がする
0265人間七七四年2009/07/12(日) 02:59:27ID:b8WHQE6o
今なら火縄式や管打式にピエゾ素子で着火という方法も使えそうですね。
0266人間七七四年2009/07/12(日) 03:59:45ID:o4NZsPqZ
>>264
釘抜きなら釘抜きと書くよ
0267人間七七四年2009/07/12(日) 04:02:20ID:o4NZsPqZ
ここの一番下にあるわ
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/igakushi/scul/scul.html
0268久々の書き込みなのでageます2009/08/29(土) 12:28:53ID:FPBJHX7L
火縄銃を撃ってた人の
銃撃戦以外の戦い方の技量って
何れ位劣っていたんですか?

>>250>>255
良かったら其れ等について
出来るだけ詳しく教えて頂けませんか?
0269人間七七四年2009/08/29(土) 12:37:15ID:dRqFptAZ
>>268
> 銃撃戦以外の戦い方の技量って
> 何れ位劣っていたんですか?
人それぞれ

> 良かったら其れ等について
> 出来るだけ詳しく教えて頂けませんか?
「戦国の地域国家」収録の『戦いを支えた技術』と言う論文に詳しく出ているので
それを読んだほうが早い。
0270人間七七四年2009/08/29(土) 12:54:30ID:mr+TY6c6
毛利元就の弘冶三年(1557)ごろの書状に
「焔硝を作る人間が来たので、古い厩の槌を調達するように」
ってのが残ってるのね。

この時期既に、各国を渡り焔硝を作る職能集団がいたっぽい。
0271人間七七四年2009/08/29(土) 13:06:07ID:c+6h6gaS
>>268
弾の種類としては合金製とか鋳型から二つの弾がくっ付いているとか、中が中空とか
色々ある
詳しくは、吉川弘文館「鉄砲と戦国合戦」宇田川武久を参照

銃については城の狭間から撃つ事を前提にした、長銃身の狭間鉄砲とか
構造物破壊用の大口径の大鉄砲などがある
0272人間七七四年2009/08/29(土) 19:12:55ID:OdpjtPbi
八王子城から、焼き物の弾丸、つまり粘土で作った弾が出土していたな。

八王子城は、秀吉の小田原攻めのときの激戦場。
0273人間七七四年2009/08/29(土) 19:21:33ID:dRqFptAZ
>>272
八王子に限らず、鉄砲の練習用の弾は粘土や木で作られていたらしい。
0274人間七七四年2009/08/29(土) 19:30:58ID:OdpjtPbi
>>273 確かに、鉛の弾丸は、当時は高価だったろう。

現代でも自衛隊では、小銃は年間(たったの)60発しか撃たないし、
艦載ミサイルは、年間1発、対戦車ミサイルなんぞは、大口径の筒に
小口径の筒を入れて、花火のロケットみたいなものをピューッと飛ばしている。←本物はものすごく高価だから。
0275人間七七四年2009/08/29(土) 19:40:22ID:dRqFptAZ
城攻めの際には鉄砲で発射する、鉄砲火箭と言う焼夷弾のようなものもあったらしいね。
あと、城門を破壊するための「門破」という、特殊な鉄の弾もあったそうな。
0276人間七七四年2009/08/29(土) 19:47:56ID:99hVMHvX
練習用か実戦か知らんが、粘土や木なんて撃った瞬間に木っ端みじんになっちまわないの?
0277人間七七四年2009/08/29(土) 22:30:47ID:fbOb2wVg
木弾は帝国陸軍も演習用に使ってる。タマが飛びすぎないんで狭い射場でも撃てるのがいい。
0278人間七七四年2009/08/29(土) 23:56:32ID:HCtuH8n1
>>270
かなり早いね
0279人間七七四年2009/08/30(日) 01:00:24ID:HCCY9dUF
>>270
「槌」は「土」ですよね?
0280人間七七四年2009/08/30(日) 01:13:43ID:EWG63z1k
>>279
そうです。変換ミスですー。
0281名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 12:53:42ID:YrsG7rU6
古い厠の土って臭そうだな。
0282名無しさん@そうだ選挙に行こう2009/08/30(日) 13:13:34ID:8g7oMup/
厠じゃなくて厩だろ
0283人間七七四年2009/09/04(金) 22:00:02ID:w+z4oqpW
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1250869243/25,30

此はこのスレ向きか?
0284u7dee9885fw5gz62009/09/06(日) 01:52:39ID:qNcXVzls
>>256

初めまして、偶然に内容を拝見させて戴きました。自分は、子供の頃から火繩銃、古式銃のマニアです。(現在36歳)
さて、サーペンタイン式についてですが、佐倉の民俗博物館以外に会津若松の資料館にも展示されておりました。約24年位前です。
さて、私観ですが、国産だとすれば、緊急を要した幕末期の可能性が高いと思います。銃身のみ廃銃から転用等。
本土決戦時の簡易銃製造の主旨と一緒です。
伝来以降、火繩銃は高価な財産です。廃銃もしかり…カラクリ(発射機能)を改装、若しくは修理出来なかった状況を考えた場合、可能性は高いと思います。
当時は、資料価値云々の時代では、ありません。
幕末以前の戦利品の可能性についてですが…やはり大多数を必然的に日本式に改装したと思います。
0285S字型金具2009/09/07(月) 22:36:04ID:Be0dFugC
>>284
会津若松の資料館とは、「若松城天守閣郷土博物館」のことでしょうか。説明書き・解説書きにはどのように書いてあったのでしょうか。また、現在も展示されているのでしょうか?
緊急を要した幕末期、私の所の藩では洋式銃が大量に製作され、圧倒的に銃よりも兵が足りないので農民を徴兵しており、火縄銃は使用しておりません。
銃身のみ廃銃から転用するには、銃身(内部)が錆びていないことが条件になると思います。
銃身のみ転用した(一度錆びさせた場合)銃の命中精度・威力が気になります。
黒色火薬の硫黄成分は酸化して強酸である亜硫酸になり、鉄成分に錆を生じさせます。このことがカラクリに真鍮を使っている理由や古い銃身が殆ど残存しない理由になるかと思います(私見です)。
幕末以前の戦利品の可能性については、何時ごろ・何処の・誰の物かなどを仮定しないと改装した箇所が判りません。あなたの仮定を教えてください。
あなた様の今後の活躍を期待します。
0286人間七七四年2009/09/08(火) 04:39:23ID:EtMYE0zO
大戦の時、日本兵に大昔の銃身の銃つかってるやつがいてどっかの国の兵がおどろいたという話しがあったような
適当過ぎるレスでごめんねw
0287u7dee9885fw5gz62009/09/08(火) 15:14:49ID:FB6Rt2/Y
>>285

確か、西郷頼母の資料館です。但し書きには、会津軍使用とありました。
サーペンタイン式銃は、かなり現存します。
Yahoo!オークションでも、指火式で出品されておりましたが、金具の跡からサーペンタイン式銃と判断出来るものは、最近でも数点ありました。
廃銃からの銃身転用について…例えが変ですが、手榴弾の数が足りないから、火炎瓶を急遽作製するのと一緒です。
銃身の耐久性や命中率は、緊急時においては論外です。(現在の視点と価値観は、当時と違います。)時間が許されれば、雷管式にも後装式にも改装出来るでしょうが…
篭城戦を目前にして、何を造りますか?サーペンタインでも木砲でも造りますよ。西国と違い、東北諸藩は火繩銃を仕方なく標準で装備していましたよ。歴史認識の違いだと思います。急造のサーペンタイン銃でも10メートルで殺傷力有れば御の字でしょう。続く
0288人間七七四年2009/09/08(火) 21:32:14ID:bNKQWw9C
>急造
そういや山川捨松さんのご子息が大東亜戦争末期にバネ式カタパルトで米戦車への抵抗計画されとりましたな…人間爆雷よかマシだって。
0289u7dee9885fw5gz62009/09/09(水) 01:20:45ID:i2V4QjXE
>>287

続き。
時代の古い古式銃が現存していないのは、鋳潰しているからだと思います。
0290人間七七四年2009/09/09(水) 01:44:39ID:i2V4QjXE
>>289

>>287

> 続き。
。鉄自体が大変、貴重な時代です、改装銃の流れを見ても判りますが、洋式銃、和銃共に最低限の加工にて改装しております。又、改装が不可能なものについては、当然、潰して新しく作り直したとみて妥当でしょう。
それから、儀礼的な拝領についてですが、家宝として鎧や刀を拝領する事はあっても、鉄砲を誉れとして拝領する習慣は、皆無であったと考えます。したがって、江戸期以前の銃器が確率的に現存しない理由もやむを得ない事だと思います。
又、幕末以降から、終戦までは、余程美術的な価値が無い限り、相当数が処分されたと思います。金属の供出も含めてです。続く

0291u7dee9885fw5gz62009/09/09(水) 12:08:27ID:i2V4QjXE
>>290

>>289

> 総論として…
今迄の乱文と誤字、ご容赦ください。

僧兵がサーペンタイン式銃を片手に携える詳細な掛け軸を見た事が有ります。現物では有りませんが…
(曖昧な記憶で申し訳ありません。古文書を調べる過程にて、偶然閲覧したと思います。)
私自身、宇田川説を自然のものとして肯定しております。
江戸期以前の火繩銃に関しては、一部の精密な高級品を除いて、氏と同様、殆どがサーペンタイン式の発火装置ではなかったのではないかと思っております。種子島家に所蔵とされる国産火繩銃についても、江戸期の複製の更なるレプリカです。
しかし、現在の火繩銃に対する、我々、若しくは一般の人々のイメージの原型は、やはり伝来されたとされる、カラクリ作動の伝来銃だと思います。この払拭されない、イメージが視野を盲目にしたのかもしれません。
続く
0292u7dee9885fw5gz62009/09/09(水) 13:52:33ID:i2V4QjXE
>>291

>>290

続き。
結論として、鉄砲史の初期に存在したと思われる、サーペンタイン式銃は、現存する可能性が低いと思われます。
国外も含めて…存在を示す資料については、現存しておりますが…琉球王朝と足利将軍家の古文書等。
又、中国の北京軍事博物館にも書画、現物が展示されておりますが、現物に関しては、清王朝後期のものしかありません。
(15年程前に行きました)
当時の余談ですが、万里の長城の売店に銅製手銃三連銃が売っていました。日本円で 三万円位だったと思います。贋作と思い買いませんでしたが、贋作でもよかったと後悔しております。
以上、勝手に色々と書きましたが、現在、現存するサーペンタイン式銃は、幕末の一部のものしか現存していないと思います。
実は、中学生の頃にサーペンタイン式銃を自作した事が有ります。
思い入れがあり、色々と書いてしまいました。
現在、火繩銃、燧石式銃、雷管式銃をコレクションしております。
燧石式銃を入手するのに一番苦労をしました。
結局、国産の物は見つかりませんでした。
雷管式銃は、和銃の改装銃と洋式燧石式銃の改装雷管銃を所持しております。
最低限の加工にて改装されております。
昔、銃は高価な財産でした、リサイクルにて改装した経緯を考えると、現存数が少ないのも頷けます。
長くなりましたが、以上です。
0293S字型金具2009/09/10(木) 01:41:43ID:Xi9oLoDd
u7dee9885fw5gz6 様、色々なお考え、情報、ありがとうございます。「僧兵がサーペンタイン式銃を片手に携える詳細な掛け軸」を見たとの事ですが、是非、思い出してお教えいただけないでしょうか。
現存するサーペンタイン式銃は、北京軍事博物館の他に大英博物館、佐倉の民俗博物館は中国製とチベット製を所蔵、タイ・インドネシア・台湾などの国にもあるみたいです。その他、リンクを介した物でしたらその他各国にも多数存在します。
自作の水道管(鉄管)サーペンタイン式銃は過去にTVで放映しており、火薬に***を使って小動物を撃っておりました。
しかし、国産の存在は不明なので、国産のサーペンタイン式銃をさがしております。

中国(明)への前装式火縄銃(鳥銃)の伝来は東南アジア経由ルートと西域ルート(トルコ経由)が知られています。
神器譜(趙士禎が著した中国の鉄砲解説書)に嚕密銃の記載があり、私は「この銃はサーペンタイン式銃ではないか」、「日本にも伝来したのではないか」と推定しています。
皆様のご意見、ご感想を教えてください。

神器譜(しんきふ)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E5%99%A8%E8%AD%9C/
15.火縄銃の専門家・張士驍ニ『神器譜』
http://www.geocities.jp/fukura1234/heisyo/15.htm
京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫 『神器譜(二)』
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081s351.html
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081s356.html
嚕密銃全形
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081l356.html
0294人間七七四年2009/09/10(木) 13:35:25ID:bZkS29Hy
スレに関係ある話題かどうかはわからないが
ときメモに「朝日奈夕子」とキャラの西友が鉄砲塚葉子というんだが
「鉄砲塚」という苗字の由来は鉄砲に関係あるの?
0295人間七七四年2009/09/10(木) 13:36:41ID:bZkS29Hy
西友は声優
0296人間七七四年2009/09/10(木) 13:47:15ID:mcTPnbxJ
>>294
「鉄砲塚」と言う地名は全国各地にあり、江戸期の鉄砲の教練場があった場所のようだ。
苗字の「鉄砲塚」はおそらく、その近辺に住んでいた住民だったのだろう。
「鉄砲塚の○○さん」→「鉄砲塚さん」と、苗字として定着したものだと考えられる。
0297u7dee9885fw5gz62009/09/10(木) 16:53:12ID:AsZdwcvm
>>293

大変申し訳ありませんが記憶が曖昧です。
近年、見たのは間違いないのですが…
正直、今回の投稿なければ、忘れておりました。
第一印象で、何でサーペンタイン何だろう?と潜在意識の中で引っ掛ったのですが。
僧侶ですが、僧兵の格好では、ありませんでした。天然色(色付き)の掛け軸です。かなり詳細に描かれており、銃床内部より大きな造りの火挟みが斜めに設置されているのも、確認出来ました。
作画の状態から、江戸期か若しくは、以外に近年の作品かもしれません。
歴史関連の書籍、雑誌に至るまで、読み漁っておりますので…
Yahoo!オークションにて火繩銃を検索した時に偶然閲覧したか…
自分も気になりますので、判りましたら連絡致します。
0298S字型金具2009/09/22(火) 07:15:21ID:6V9QesJ5
>>226
>>293
飯塚浩二氏説に所荘吉氏が反論しています。

火縄銃 所荘吉著 雄山閣 P239

補<1> 種子島伝来銃についての考察
 鉄砲伝来の意義および年時について従来数多くの発表がなされているが、初伝の銃そのものについてはあまり問題にされていない。
これは資料がとぼし過ぎるのがその理由であったろうと思われる。
そのためほとんど無批判に初伝の銃をポルトガル製と考え、はなはだしきは直接ポルトガル本国との接触が行なわれたとの誤解が今なお払拭されていない。
それに対して、昭和三十九年朝日新聞紙上で飯塚浩二氏が初伝の銃は西洋系ではなく、トルコ系ではないかとの問題を提起された。
飯塚説の骨子は和銃の火挾が前方へ落ちる点に注目され、これと同様の形式は、趙士禎の著わした『神器譜』に所載された魯密(ルーム)銃に見られるので、
ヨーロッパの銃の火挾が手前に倒れる違いから、ポルトガル製と伝えられた初伝銃は、ヨーロッパ系ではなくポルトガルから日本へ来る途中で入手したトルコ系の銃ではなかろうかということである。
  続く

0299S字型金具2009/09/22(火) 07:29:30ID:6V9QesJ5
>続きです。

 たしかに初伝統がポルトガル製ではないのでないかということに疑問を持ったことは面白い見方であるが、和銃とルーム銃との違いに大きな点がいくつかあることを見落とされているようだ。
たとえば和銃では火挾の位置が側面にあり、開放時には倒れていて引金とは別の部品になっている。
照門の位置は火血より前方にありほとんどがオープンサイトになっている。
また銃床は短く、頬付けで射撃をするようになっている。
特に重要な違いはその点火機構が急速点火式になっていることである。
 それに比ベトルコ系の銃では、火挾の位置が銃の中央にあり常時起き上がった状態にあり、引金とは同一部品であるS字形式である。
照門は銃身後端にあってピープサイトが多い。
また銃床は長く現代銃のように肩付けで射撃を行なうようになっている。
点火様式はスローダウン式で、最も初期の火縄保持具から多少進んだ程度である。
 『神器譜』の中でターバンを巻いた人物がルーム銃を発射するのに支銃具を用いているが、和銃では使用されることはない。
 以上の比較でも判るように、類似点は火挾がただ前方に向いていることだけで、多くの重要な点ではあまりにも違いが多い。
むしろ火挾の方向だけの問題ならばヨーロッパの火縄銃の中にも前方に倒れるものが少なくない。
これによっても飯塚氏のトルコ銃日本伝来説は根拠の薄いものとなろう。

  続く

0300S字型金具2009/09/22(火) 07:41:30ID:6V9QesJ5
>続きです。

 それならば日本へ伝わった銃はどこから来たのかということになるが、まずヨーロッパから東方への伝来経路が二つあったと考えたい。
一つは陸路によるトルコ―イラン−インドを経て中国にはいった魯密銃の系統である。
その理由はこれらの経路にある国々の銃が多少のローカル色を除けば機構的に全く同一型式のものといえるからである。
 今一つは海路によったものである。
ポルトガルの東方進出基地である、ゴア、マラッカ、モルッカ諸島などを経たもので、この経路による火縄銃はあまり知られていないが、当時のマラッカ基地の勢力範囲であったマラヤおよびジャワ地方の銃の特徴は和銃に似ている点が多い。
特に点火機のアクションは和銃のそれと完全に同一でトルコ系やヨーロッパ系の銃には見ることのないものであって、後述する種子島初伝の銃との比較では一層はっきりしてくる。
  以下省略 (昭和四十四年十月十五日)


中国(明)が魯密銃について知ったのは1598年以降なので中国経由の陸路説には無理があるが、
平成4年(1992年)にある人を介して先入観があるといけないので「**県内のものです。」としか伝えず、カラー全形写真を銃砲史学会の会員の方にお見せしたところ、
所荘吉氏と生田氏は、「これは東南アジアのもので戦後そちらへ旅する人がよく買ってくるものと思う。向こうには、台湾にもあるものではないか。」ということでした。

そのため、東南アジアや中国などの売店でのこのような火縄銃の情報がありましたら、お教えください。
0301S字型金具2009/09/30(水) 15:00:42ID:z13uQ8Hn
>>293
『神器譜』には色々なバージョンがあり、谷村文庫の『神器譜』には欠落部分があることがわかりましたので、『玄覧堂叢書』本の一部をYahoo!フォトアルバム に乗せました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/list/4143269/

「明嘉靖、万历朝噜嘧铳的传入、制造及使用」の題名で、《回族研究》2007年第04期に『神器譜の噜嘧铳』についての記載がありました。
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-1.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-2.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-3.html
摘要:明朝一经建立,即与地处小亚细亚的鲁迷(或称肉迷,即奥斯曼土耳其)建立了一定的政治联系。
自明洪武至万历间,鲁迷使臣频频入贡。
而这一时期两 国间交流的重要成果,即为噜嘧铳的传入。
明中书赵士祯于万历二十五年(1597年),由嘉靖时来华鲁迷国使臣朵思麻处,学得噜嘧铳的制造和使用方法,尔后 精心仿制,并于次年进献朝廷。
因当时国内所造鸟铳“远而且狠,无过噜嘧”,明朝政府遂令军工部门大量仿制,装备军队,“以收防倭制虏之效”。
  关键词:万历年间;朵思麻;噜嘧铳;赵士祯;制造与使用
  中圈分类号:e920.8 文献标志码:a 文章编号:1002−0586(2007)04−0070−07
0302人間七七四年2009/09/30(水) 18:41:25ID:Z1mAEeXa
トルコの火縄銃は、銃床が六角形をしている。
0303人間七七四年2009/11/16(月) 17:52:18ID:mrROhO8W
もうすこし詳しく書いてくれないと
文意がわからん
0304人間七七四年2009/12/07(月) 01:40:57ID:BCIeYoHO
>>89
それが使えないから
6.8mm弾のアサルトライフルを
開発してんじゃないの
0305人間七七四年2009/12/10(木) 23:08:37ID:vj95kYP0
ちょっと面白いものを見つけたので

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1meOoW_b0yGnsBKTMufCPCcuHH1gViV4ZQSVHOWwpUN0x6RqT9jaQpUc-K1SKmpxg1oE9mugpPn4grCbNJsQcPi8xJ3j8R6kutFh-C_-xWFTwDaGN--RNJhXw8JFBEJkRh1_szKrubQtIZDmUbZ_MirQ/CIMG0205%5B3%5D.jpg
乾隆御用火槍(火縄銃)
乾隆帝の猟銃、背景の絵は清代の狩猟を描いたもの。

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mxQGV1naRgtSI_prvod26DJURwnL4_RB8ykA10PMUBv2obflPK26OvvakMYsEp1VafvGd_qH9tm7MHcstzWY9asx4IoZy96Xo7v9hwNQtomOkLawSmQL7jEYLSEWdXccDJIhvY8Xvs8HlXgAypXA-oQ/CIMG0206%5B2%5D.jpg
https://egithq.bay.livefilestore.com/y1m7EEzHCfmdND9dLh4TyLVMeurrNJf2BmNHGc40CZEL3fSMqSj7ECFZP2kzu5Cp5zRcQxVfFgslBrIPsiYyIHezZ0MX5X_Mx97eYVNfXnuQehXWCYi4FGLDce5pw8rE3m5N3L15S5ySAE5beOclFR40g/CIMG0207%5B2%5D.jpg
鳥槍の火薬入れと弾丸

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mj-Rytwd0WqUT7lmXrc_ye-PSPlVTSQXWWCuPZFbRx1Yc-7rkc-CM1Dpwj4JL4XVhfebwITylsPm_O6zK3-N_KDGHmYJsGpdqjnNMS-k6X44hXhYNDkOR16R_CL2Kw3TAeQ3FCNRAFpI72xUGor817g/CIMG0209%5B3%5D.jpg
神威将軍砲
康熙年間に宣教師フェルビースト(南懐仁)が造った軽量火砲。
背景の絵は、乾隆年間のジューンガル部・回部平定を描いた「準回両部平定得勝図」

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mHJO3GSB51jVQ1dNz1oMymU9-pr3f87u-6kLqJxrxsd3AJW1MzqmvcPg_WTJ6fYOk_n9yb5MSLyVXYpt0B_Zlvd5FO1XcV07a9lwQOELVnQMrTTI9gIoV30wWxdyeBzvCa6sepnVZ1cKGTfkxnG5cww/CIMG0212%5B3%5D.jpg
威遠将軍砲 
康熙二十九年(1690)製。
威遠将軍砲は散弾を発射する砲。曲射が可能で、攻城戦や山岳戦に威力を発揮。
0306S字型金具2009/12/20(日) 14:01:43ID:XL9PEQ0M
戦国期の火縄銃についての疑問@

「火縄銃 所荘吉著 雄山閣 P49−50」に、「常に最高の状態を求めるのは不可能である」と黒色火薬について記載されています。
火縄銃の威力、命中精度の維持は難しく、名人芸ともいうべき修練や複雑に絡み合う未解決な変動因子が多くあるので、戦国時代の武器としての鉄砲については、再考する必要性があります。


『かように黒色火薬はその粒子の大きさ、形状等により、又集合密度によって燃焼速度が異なってくるので、混合原料たる硝石、硫黄、木炭の三味の純度や配合率に対し厳密な注意も当然ながら、混合方法にも困難な工夫を要求される。
このようにして作られた火薬も、鉄腔内に充填された状態、すなわち搠杖によって圧された度合等、名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が完全に満足されたとき、初めて発射薬としての力を十二分に発揮する事ができるのである。
しかし吸湿性の塩類を含有した黒色火薬に対し、常に最高の状態を求めるのは不可能である。
この事は初期の砲術家による経験によっても知られ、春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになっている。
この装薬量は口径のみでなく、火薬の燃焼が終わっても弾丸が銃腔内にあれば、摩擦によって弾速が落ちるので、銃身長によって量が異なるのは当然である。』
0307人間七七四年2009/12/22(火) 01:39:09ID:p2z4LsyH
だからこそ名人芸としの砲術が存在し
武士達が武芸の一つとして砲術を習得しうようとしたんだろうね。
0308S字型金具2009/12/24(木) 00:10:32ID:FFN+M01h
戦国期の火縄銃についての疑問@の@

16世紀、西洋・倭寇の鳥銃(火縄銃)は、8分の鉛弾(直径8ミリ、3g)を1匁(3.8g)の黒色火薬で飛ばしたようです。
当時の比率では、1:1.3と黒色火薬の方が多く、現在の高性能な黒色火薬での比率では、小さくなっていると思います。
鉄砲の実用化は、鉛弾を飛ばすことのできる、燃焼速度の速い粒状火薬が開発されたことによると思います。
しかし、「黒色火薬はその粒子の大きさ、形状等により、又集合密度によって燃焼速度が異なることが解っている」ので、一定の大きさ・形状の粒状火薬を作成することは困難な作業であったと思います。
特に、集合密度を高めなければ鉄砲薬にならず、硝石、硫黄、木炭の三味を混ぜ、強い圧縮工程が必要です。
また、装藥は容量で計り(重量ではない)、装藥をし易くするために角を取るなどの工夫があったと思うが、粒状火薬の取り扱いには(その時の発射条件や黒色火薬の乾燥具合などに合った)、難しい面もあったと思われます。
0309S字型金具2009/12/25(金) 01:54:47ID:ew5jkodk
戦国期の火縄銃についての疑問@のA

「原料たる硝石、硫黄、木炭の三味の純度」について
鉄砲火薬に使用する硝石(硝酸カリウム)は、混合比率調整のために高い純度が求められる。
硝石は非常に良く水に溶け、純度が高い硝石は、吸湿(潮解性)が少ないが、混ざり物がある(純度の低い)硝石は、乾燥状態の維持が難しい。
そのため、カリウム成分を添加し再結晶させて純度を上げるが、結晶の形から純度の判定は難しい。
硫黄の純度は色で判断でき、純度を上げるには過熱凝固する。
その際発生するガスは有毒である。
樹種によって木炭の特性に違いのあることが知られており、木炭は精製ができないので、木を選ぶことが大事である。
鉄砲火薬用の草木には、柳が良いとされ、杉、松、桐なども使われた。
炭化状態の見極めも大事である。

0310S字型金具2009/12/27(日) 02:19:25ID:tLT1XaO7
戦国期の火縄銃についての疑問@のB

「混合原料たる三味の配合率や混合方法」について
三味の配合率は純度によっても変化するが、燃えかす量を少なくするか、総合的な威力を求めるかによっても異なる。
燃えかす量が少ない火薬は、燃焼度合いが測れ、銃身内の燃えかすの低減となり利点もあるが、燃焼速度や産生ガス量は判らない。
空気中の湿度が高いと、黒色火薬の硫黄配合率を高くする。また、少量の水分が在ったほうが燃焼速度は高く、乾燥しすぎた黒色火薬は良くない。
三味の混合の際は静電気に注意しなければならなく、現在でも爆発事故が起きているが、江戸期の合薬所でも大きな爆発事故を起こした例がある。
薬研や茶臼での混合方法では同一ロットの大量火薬製造はできなく、バラツキのある火薬となる。杵臼での混合は、それよりも多く混合・圧縮ができる。
戦国期の合薬(黒色火薬製造)は、戦地で製造したものかどうかは不明であるが、威力の無い・無くなった火薬は溶解され、硝石成分は回収された。
0311S字型金具2009/12/27(日) 22:25:30ID:tLT1XaO7
戦国期の火縄銃についての疑問@のC

「このようにして作られた火薬も、鉄腔内に充填された状態、すなわち搠杖によって圧された度合等」について
装藥後に鉛弾を綿紙で包み、搠杖によって押し込み固める。
鉛弾の直径と口径の割合(玉割)が知られているが、銃身内に燃えかすがある場合には弾丸の直径または綿紙量を減ずる必要がある。
また、押し込み程度により粒状火薬の空間が変化し(見かけ比重の変化)燃焼速度が変化する。(過ぎたるは猶及ばざるが如し)

「名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が」について
「春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになって」とは、具体的にどうすれば良いのか解らない。
「打った、当たった、さすが名人だ。」「名人でも当たらなかった、しかし自分は当たった、それはまぐれであった。」であったのか?
修練が必要となれば、当時はどのようにしていたのか。鉄砲の数だけでは本当の威力(兵力)は判らない。(威力が無くても、音や焔硝の臭いやまぐれ当たりすることにより当時は鉄砲の価値があったのか?)
0312人間七七四年2009/12/31(木) 19:35:42ID:l3eP2GY/
勉強になります。
0313人間七七四年2010/01/01(金) 04:32:13ID:ryaoXzIx
学研が歴史群像でやった実験ではこんなだったそうだ。

>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃で
>24mmの檜の板2枚を撃ったところ、1枚目を貫通し2枚目の半分くらいで止まったと本に書いてあった。
>普通の矢盾は厚さ30mmくらいなので、鉄砲は防げないんじゃないか?

>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
>の火縄銃で撃つと、1発目は6本の竹全部を貫通した。2発目は4本目で止まっていた。
>口径18.4mm(10匁)では、やはり竹束を貫通。
>30m以内での至近距離から竹束で防ぐのは難しいが、
>50m以上離れるか、竹束を二重にすれば効果があるのではないかという結論だった。

>命中率は、口径8mm(8分ほど)の小口径の銃で、30mから5発撃つと直径10〜15cm以内に全弾が集束した。
>50mから5発だと、着弾範囲は直径30cmほどに広がる。
>実戦では2町(約250m)くらいから撃ち始め、1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。
0314人間七七四年2010/01/01(金) 15:44:51ID:sS7lyNb6
単純に考えれば、
24mm+12mm(半分位)=36mm
矢立ての厚さは30mmだから6mm分の貫通力が残ってる訳だ。
このくらいなら威力が殺されて甲冑でも防ぎきれるんじゃね?

竹束も同様で。
0315S字型金具2010/01/03(日) 11:24:01ID:sw2lx5Z2
>>313
学研の歴史群像については未読ですが、

>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃
「とても威力の弱い火縄銃」と書いてありますが、現代の高性能黒色火薬を使っての実験なので、当時のよりも威力は強いのでは?。
>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
「 6匁、戦場で一般的に使われる口径」について、6匁弾は江戸期に多く、戦後間もない寛永・寛文の一般的な口径(13mm)では、3〜4匁ではないでしょうか。
戦国期の一般は、それ以下かも。
>命中率は、口径8mm(8分ほど)の小口径の銃で、30mから5発撃つと直径10〜15cm以内に全弾が集束した。
「小口径の銃」とは、江戸期の射的用の銃での実験かな。
>実戦では2町(約250m)くらいから撃ち始め、1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。
通常、1町の長さは109mですが、「命中率が上がり始めたそうだ」とはどの程度のことを言うのか判らなく、その時の実戦での有効射程距離は何メートル位になるのだろうか。
0316S字型金具2010/01/03(日) 11:25:39ID:sw2lx5Z2
戦国期の火縄銃についての疑問A

「火縄銃の維持費」について
火縄銃本体の購入費(製造費)の他に、実戦の為の練習や、ためし打ち、対峙したときの火縄の経費などは、かなりの金額になったと思われます。
正確に弾丸を飛ばすばかりではなく、誤射、暴発、やけど、火の粉の飛散などの防止のために練習は不可欠である。
硝石の調達ルートについては分からない所が多いが、結晶の形だけでは純度が分からず、必要不可欠な原料なので足元を見られたり、バッタ品を掴まされることがあったに違いない。合薬した後のためし打ちで判り、不良ならば再々結晶しなければならない。
硫黄や炭、弾丸の鉛については、大きな経費はかからないと思う。
火縄についても、常に火を点けて対峙・対戦すればかなりの経費がかかると思う。特に防城の場合は長期戦になる。
しかし、上野(群馬県)の権現山城の備品に火縄が見えないのが疑問であり、記載漏れなのかも知れないが、火縄銃に火縄を使わないのかな?。出典(諸州古文書)については未確認です。f(^_^;
その他、山中城から出土した弾丸は、鉛の他に銅・鉛・錫の合金弾も出土しており、火縄銃の改良・開発・入れ替えもあって費用もかかったと思います。出典(山中城跡発掘調査・三島市教育委員会)については未確認です。
0317人間七七四年2010/01/04(月) 14:51:16ID:RGqVE14B
>>313
>>315
朝鮮の役中の文禄2年、巨済島に駐屯する島津義弘軍2千の火器装備記録によると。

百丁の内
玉径(mm)
大筒(?)     1丁   
五十目(31.4) 5丁 
三十目(26.5) 5丁 
二十目(23.1) 5丁
十三文め(20.0) 2丁  
六文目(15.5) 10丁 
二文半目(11.6) 72丁 

となっています。
見ての通り、2.5匁筒が72%と圧倒的比率であり、これが標準的口径であったことが判ります。

学研が行った竹束への貫通実験に使われた6匁筒は10%の装備率で、
文禄期の一般的口径ではなく、威力の強い部類になりますね。

学研には当時最も標準的な2.5匁筒による板盾や竹束や鉄板に対する貫通実験を行ってほしかったですね。
また当時は火薬の質も現在のものとは違っていたでしょうし、
弾丸の材料も原材料に不純物が混じっていたり
製法も手製の鋳型に溶けた鉛を流し込むといった方法では完全な真球状にはならず、
空気抵抗を増して威力を減じたり、精度を悪化させたりしたと思われます。
こうした要素を再現した実験であったなら精度の高い実験になったでしょうね。
0318S字型金具2010/01/05(火) 18:35:26ID:QGjIxArf
戦国期の火縄銃についての疑問Aの@

>>317
解りやすい文章が書かれており、同感です。
同じく、朝鮮の役中の文禄2年の小早川隆景軍5千の火器装備記録も、200丁のうち2.5匁筒は155丁で78%の装備率となっており、それ以前の一般的な銃の口径は小さい可能性があります。
鍋島直茂軍(鍋島家文書)の火器装備記録については、未確認なので不明です。
竹束については、竹の種類や太さ、油抜き処理の有無によって結果も異なると思います。

小早川隆景軍の火器装備記録に、塩硝、硫黄、薬、鉛、玉の記載が有り、戦場で玉薬製造をしていた様に思いますが、権現山城と同じく火縄が見えないのが疑問です。(小早川文書の原典未確認)
火縄銃には火縄は必要不可欠の品なので、澤田平さんは「火縄は竹や檜・麻・木綿などを素材にして作られるが、地方によってはその土地特有の植物繊維が用いられることがある。・・・・・軍用には木綿の火縄が用いられる。」と本に記載されています。
未記載の炭のように現地調達できる品物なので未記載なのか、それとも記載漏れなのか、はたまた、要らないのか。
その他、権現山城では鉄砲15丁に合薬1500放、玉3200なので1丁当りの玉薬も少なく、戦国時代の「三段撃ち」や「つるべ撃ち」、「早撃ち」については疑問があります。
「できる」と「使える」とで大きな違いがあり、貴重品なので練習も十分にできなかったと思います。
0319人間七七四年2010/01/07(木) 23:25:05ID:uEIDH2KO
このHPでも射撃実験してるね。
小口径の鉄砲で撃たれても鎧では防げないとのこと。
ある程度距離があれば、当世具足で跳ね返すことはできないんだろうか?
ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/index.htm
0320S字型金具2010/01/10(日) 23:51:26ID:IfKE7cSp
戦国期の火縄銃についての疑問AのA

射撃練習や黒色火薬の出来を見るために試し撃ちをする。
裸眼視力で、計算上識別できる大きさ(o)と対象までの距離(m)は以下の様である。

視力   10  20  50  100  200
1.0   34  69 172  345  690
2.0   69 138 345  690 1379
3.0  103 207 517 1034 2069
4.0  138 276 690 1379 2759

明るい場所でコントラストの強い静止した物体は、裸眼で2.0の人は10oは69m、100oは690mまで見え、裸眼限界の4.0では、10oは138m、100oは1379mまで見えることになる。
10円玉(径23.5o)に例えると、計算上、視力2.0で162m、視力4.0で323mまで見えることになる。
通常、火縄銃の弾丸は音速で飛ぶために裸眼では見えなく、被弾痕で正確性を判断する。
その際、識別できる物を大きくするために、土煙が出る所を造って着弾させるか、水に浮かべた木片を的にして波紋を出させる。
当時は伝染病のトラコーマ、囲炉裏の煙や不潔な手による結膜炎などの眼病が想定され、眼の洗浄剤や目薬もなく、昔の人は視力が良かったとは一概に言えない。
また、動体視力と静止視力は全く別のものであるが、戦闘中の物の見え方は如何であったろうか。
>>313 の「1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。」は、撃ったほうが相手の被弾負傷よる姿勢変化を見てのことであり、何処に弾が飛んで行ったか分からない場合が多い。
標的が動くことや風向・風力、空気中の湿度、照度・靄・霧・雨などの諸条件により命中率(負傷させる)は悪かった様に思われる。
撃たれる側から見ると、耳元での衝撃波音は相手の発射音よりも先に聞こえるが弾は見えなく、直進弾の他に兆弾(跳弾)もあり、当たれば傷害度の大きい恐怖の対象となる武器に遭遇したことになる。
より正確に弾を飛ばすためには、どのくらい練習できたのか(させてもらえたのか)、またその経費は如何様であったかものか。
0321人間七七四年2010/01/11(月) 00:24:17ID:tHuoJza2
火縄銃の弾は多くの種類があるけど、練習は鉄弾を使うと聞いたことがあるな。
鉛弾は変形して再利用できなくなるから。
0322人間七七四年2010/01/14(木) 15:56:04ID:L1fLSl8q
>>317
文禄・慶長の役では安価な二匁半筒を大量に調達したため、
それまでと比べ小口径な銃が多用されたんじゃなかったっけ。
板金鎧を着けない朝鮮兵には十分効果があったんだろうけど。
0323S字型金具2010/01/15(金) 01:10:17ID:eaajzEnG
>>319
射撃実験の Video があります。
「火縄銃の威力検証」
ttp://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm

小口径の鉄砲(小重量の弾)でも、当たれば相当な負傷を与えるでしょうね。
0324S字型金具2010/01/24(日) 00:48:38ID:ETgJfqaP
戦国期の火縄銃についての疑問B

火縄銃の口径と弾丸のサイズは、あまりにもバリエーションが多い。
そのため、口径に合わせて弾丸を作成していたようだ。
そこで、弾丸作成法に疑問がある。
戦国期の弾丸作成は、玉型を使用していたのだろうか。
鉄玉の出土があるから鋳型も使ったと思われるが、鉛の比熱は小さいので鋳型は使った(利用できた)だろうか。
表面張力を利用した溶融滴下法(dripping molten lead)で多量に鉛球を作成し、その中から口径に合った物を選別した
可能性がある。(この方法で真球度の高い物ができるかどうか、何時か再現実験をしてみたい)
0325人間七七四年2010/01/24(日) 01:49:24ID:jVz6q19n
普通に鋳造だろ。
江戸時代や大陸と同じように、先がでかくて中に球状の空間があるペンチつかって
工具は知らんがバリの付いた制作途上の弾丸は発掘調査で出土してるし
鉛製、鉄製のほかに銅製のもあったらしいな。
篭城中に鉛が無くなって、しょうがないから銅銭溶かしてって推測されてたが
0326S字型金具2010/01/24(日) 22:37:47ID:ETgJfqaP
戦国期の火縄銃についての疑問Bの@

>308 の8分弾(直径8ミリ)から2.5匁弾(直径12ミリ)の小球形金属物の作成を考えると、
当時、炭火では鉄を溶融できなく、鉄玉では鎚による作成よりも、鉄鋳型による温鍛造の可能性がある。
銅玉や >316 の合金弾については、銅銭製造のようにルツボ・トリベによる溶融土鋳型法も考えられるが、鎚による鍛造や、鉄鋳型による温鍛造の可能性もある。
鉛玉は、玉型(1発用)による溶融鋳型は現存しているが、多発用の土鋳型の現存は知らない。(私が知らないだけかも)
鋳型による弾製造は、鋳型によって玉径が決まるので、口径にあった鋳型が必要となる。
いずれにしても真球度を上げないと弾の回転が増して直進性が失われる。
鉛は整形が簡便で高比重であることから弾材料に適しているが、数百発の異径鉛弾の一括出土例はどの様に解釈したらよいのか判らない。
0327S字型金具2010/02/03(水) 23:47:26ID:Pn1Hh8JL
戦国期の火縄銃についての疑問C

「真説 鉄砲伝来」に、気になることが書いてあった。
記事の中から、近世初頭における火縄銃と思われるものを拾い上げると、
「鉄炮・鉄放・大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」と多くあり、なぜ色々な名前を付けていたか、呼ばれていたかが疑問である。
著者は「むすび」で、「伝来したものが南蛮筒」で「異風筒は南蛮筒を見本にしてつくられたもの」としているが、異風筒の呼び方にしては多すぎるような気がするし、南蛮筒の呼び方は後の呼び方である。
あえて「南蛮」と付けて、違いを示す必要性があったものか。
また、「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」と記載している。
東南アジアの一地域から工夫・改良されながら続々と渡来したものか、インドを含む東南アジア一帯から渡来したものかが不明である。
その時代のキリシタンご一行様も鉄砲を持っており、その西洋鉄砲の影響についても不明である。
東南アジアに、中国(明)よりも火器の発達した国があったとは思えないが。
0328仙台藩百姓2010/02/05(金) 20:59:18ID:Abgtcxud
そりゃ種類が違うのだから呼び名が違うのは当然だお( ^ω^)
今だって小銃一つとっても数十種類あるのと同じだお( ^ω^)
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