【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0818人間七七四年
2011/09/18(日) 05:00:48.31ID:mhETDW9lガッと連合して、関が原の戦いとかで背後から家康襲えば一発逆転あったね
天下取った後は、連立内閣みたいで幕府やれそうな気がする
0819人間七七四年
2011/09/18(日) 12:17:40.98ID:1iywi3o4政資の長男であるはずの高資が実力行使で家督を奪いに行ったのも既に資胤が居たからと考えたほうが自然。
0820人間七七四年
2011/09/18(日) 14:04:34.57ID:AkRnbrvk連合体は弱いから無理
それぞれ独立勢力だしお互いの利害が絡むから簡単に結束が崩れる
対北条戦でも対伊達戦でも結局それで決定力に欠けた
0821人間七七四年
2011/09/18(日) 14:46:37.61ID:yLI8rgU/そもそも佐竹領内は例の「南方三十三館の仕置き」の余波が未だ続いており、
南方三十三館の残党があの時期ですら策動し、何かあれば東軍と結んで反佐竹行動を取る気
満々だった。
そんなだから佐竹は国境の外に出ることすら不可能だっただろう。
0822人間七七四年
2011/09/18(日) 20:50:15.68ID:x0epvpuv真田と同じで佐竹にも何の相談もなかったから三成挙兵は義宣にとっても寝耳に水
単なる上杉討伐だと思っていた
だから先鋒の須田盛秀らは既に上杉領へ進入していたし
須田氏や葦名盛重らを先鋒にしている事からして、葦名家や二階堂家の復興を目指していたのだろうと思われる
そんな時に三成挙兵の急報が届き、佐竹家中は動揺した
取り敢えず先鋒を赤館で留めて軍議を開いたが、石田と徳川のどちらが「豊臣軍」なのか判断に迷った
義久らは断固徳川支持を主張したが、西軍に人質を取られている事や義宣が乗り気じゃなかった事などで
結局は消極的徳川支持という形になった
初めから徳川と戦う事なんて想定していなかったから、その準備もなかったし
西軍参加は無理なんだよ
0824人間七七四年
2011/09/18(日) 23:48:38.87ID:XujCznxo秋田転封が決まったとき、車丹波が徳川への蜂起を主張したが
「常陸には三十三館の件でまだ佐竹に恨みを持っている者たちがいる。
彼らが混乱に乗じて立ち上がったらどうしようもない」
と義宣がその案を退けた……らしい。
どこで読んだ話だったか忘れたがw、近デジだったかも。
0825人間七七四年
2011/09/19(月) 00:30:46.50ID:alz1j+Rgしかも、関が原の話ですらないし
0826人間七七四年
2011/09/19(月) 00:43:45.10ID:L/LQPez+史料と言われても伝承と紙一重だ
記録する習慣がなかったんじゃないかとさえ思える
0829人間七七四年
2011/09/19(月) 04:01:46.51ID:COgxyVYe義宣は即日、国元に使いを送って一刻も早く常陸を立ち退くように指示している
梅津政景などは行き先が決まってないうちから取り敢えず水戸を立ち退いて下野に滞在するよう家族に連絡している
そして転封先が決まると留守居役の和田昭為や小場義宗らは直ちに秋田へ先行して後続を迎え入れる準備を始めた
義宣、義重、盛重、貞隆、義胤らが上方や江戸を発ったのは3ヶ月近く経って移動が片付いてから
したがって蜂起など思いもよらない事で考えもしなかったと見て良いだろう
まして車はこの頃、家臣ですらないし口出しなどできるわけもなく
恐らく義宣とは一度も顔を合わせる事もなかったと思われる
と言うか義宣が伏見を発ったのは車が死んで1ヶ月以上経ってからだし
どう考えてもその逸話は事実ではない
0830人間七七四年
2011/09/19(月) 05:36:09.19ID:jjAkPAkc逸話は与太でもこの認識はあった、
あるいは周りからそう思われてしまうような状況だったのかね
0831人間七七四年
2011/09/19(月) 07:52:15.45ID:OxbXpGVL>でも恐らく国綱は相馬氏のように江戸で大名復帰運動してたのではないかと思う
だろうな。
死去時に浅草に居たのも、そういう理由だろうし。
相馬氏は外様で大大名の伊達氏への牽制役として使えたので、旧領復帰が叶った。
関東から外様がほぼ消えた状況下で、わざわざ宇都宮氏を
大名に復帰させる必要性は無かったと。
0832人間七七四年
2011/09/19(月) 08:21:22.15ID:alz1j+Rg佐竹は史料豊富だよ。
茨城県史料中世編や秋田藩家蔵文書の膨大な量を見るべし。
もちろん北条や武田の文書量には全く敵わないが。
0833人間七七四年
2011/09/19(月) 10:33:32.97ID:TdreEtDC0834人間七七四年
2011/09/19(月) 11:59:57.90ID:Md7BLRd9佐竹関係書籍は豊富にある一次資料を無視して永慶軍記を丸写ししたような手抜き本ばかりだし
民間にもまだまだ資料が山ほど眠ってる
0835人間七七四年
2011/09/19(月) 15:11:42.95ID:TdreEtDC0836人間七七四年
2011/09/19(月) 17:20:13.90ID:PGzm/wOP里見ですら、佐藤博信・滝川恒昭クラスの人がいるというのに。
0837人間七七四年
2011/09/19(月) 19:39:28.49ID:quEOO99C0838人間七七四年
2011/09/19(月) 20:22:21.93ID:ds6CTBIr0839人間七七四年
2011/09/19(月) 20:34:02.22ID:alz1j+Rg藤木久志 市村高男 佐々木倫朗 今泉徹
好きなの選べ
>>837
冗談きついww
でも、怖いもの見たさってやつで、黒田氏の書く佐竹の戦国史をいつか読んでみたいなw
「佐竹義重は永禄○年に北条氏康に従属し、○年に離反した」
とか目を疑うような記述が満載だろうねw
0840人間七七四年
2011/09/19(月) 23:21:27.59ID:JmShEyj9変に贔屓したり自分の想像で書いたりせずに資料の解析のみに徹しているから信頼できる
0842人間七七四年
2011/09/20(火) 09:30:43.30ID:cZxMxFF/0843人間七七四年
2011/09/20(火) 10:20:18.43ID:eNwFf4nx渋「江」内膳の間違いと思っておk?
茨城訛りか?
0845人間七七四年
2011/09/20(火) 22:18:08.42ID:fx/fbqOr市村が具体的にどう偏ってるの?
0846人間七七四年
2011/09/20(火) 23:12:15.47ID:jqjfj97D黒田といっしょ
ときどきに肩入れしているサイドがある
そこに至るまでに史料をあげるけど
論拠なしに結論にいっていることがチラホラあるよ
そこの結論に至った論拠をなぜ示せないのかと
0848人間七七四年
2011/09/21(水) 01:57:45.50ID:cWJpBq/9必死だにならなくても自分が偏ってないと思っていればいいんじゃないか?
それも人によっての印象だろう。
0849人間七七四年
2011/09/21(水) 02:00:13.35ID:tzUukJC80850人間七七四年
2011/09/21(水) 02:20:04.81ID:McEfLPeG0851人間七七四年
2011/09/21(水) 12:41:12.09ID:XdfUXbYe0852人間七七四年
2011/09/21(水) 20:30:36.76ID:IMi/EJTg0853人間七七四年
2011/09/23(金) 20:35:25.21ID:mtDxpCDR多気山城って惣構えだったんだな。知らなかった。
0854人間七七四年
2011/09/23(金) 21:13:05.83ID:9jw5HCXA城域の外側に堀と土塁の遺構の一部が見つかっただけで、(しかも現在は消滅)
惣構があったかどうかは分からんよ。
西ヶ谷のその本の解説文、酷過ぎるよね。
「天正13年の戦いは、宇都宮勢が岩城に出陣中に小山秀綱が襲来したもので、佐竹義重が後詰となった。
翌年五月の合戦は後北条、小山、佐竹が多気山を直接攻め、大手の大谷口で合戦となった。
この時、佐竹軍は小山に駐屯し、北条氏照の指揮下にあった」
「佐竹が後詰に来た」という書状を、宇都宮支援のためではなく、
何と北条氏照の命令で宇都宮を攻めに来たと誤読してる。
一体どうやったらこんな間違い犯すのかね?
黒田基樹ですらこんなこと書かないよ。
0855人間七七四年
2011/09/23(金) 23:24:47.35ID:xKlNgFie0856人間七七四年
2011/09/24(土) 01:27:32.68ID:Dnp0gP6B0857人間七七四年
2011/09/24(土) 20:39:56.35ID:7EUtQe2W凄すぎるw
宇都宮氏が宿敵の那須氏や、宇都宮を攻めるような関係の佐竹氏の領地をどう掻い潜って岩城を攻めるのだろうか?
とか、書いてて疑問に思わなかったのだろうか
しかも何故宇都宮を攻めるのに小山に駐屯したのか謎過ぎる
0858人間七七四年
2011/09/24(土) 22:37:02.40ID:CTrOPpry俺が読んだ本には
岩城だの小山は出て来なかったから、多分それは別の本。
多気山城に限らず、惣構の全容を遺構・遺跡として
証明するのはハッキリ言って無理だと思う。
町人が住んでた区域なんて宅地化・農地化などの土地改良、
道路整備で消滅してて当然。
惣構があった可能性は高いと思うけどな。
宇都宮城下を焼かれて移ってきた訳だし、移転先でも簡単に
放火されるような構造の城下にはしないだろ。
多気山城って本拠だったのは約5年で、高度な惣構があったとは思わないが。
0859人間七七四年
2011/09/25(日) 02:18:43.66ID:KxZqS004宇都宮城は依然として健在だったし、多気山城は詰め城的なものだったと思う
基本的に宇都宮城と多気山城の二城に篭っていたし、宇都宮城は放棄していない
恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
戦国末期には城がどんどん肥大化して近隣を飲み込んでいるから総構えはあっても不思議ではないね
ただ、江戸時代に見られるような計画的な町割りをしていたのかは謎
城を広げていく過程で、結果的に集落を呑み込んでいったという側面もあるのではないかと考える
常陸の小幡城も外郭は極めて広範囲に及んでおり、集落も取り込んでいたと見て間違いない
これも総構えと言えなくもない
0860人間七七四年
2011/09/25(日) 22:51:42.02ID:JX4oIi3e県史や市史その他の各種資料にも載ってる。
宇都宮城周辺の地名が多気山周辺にも残っていて、
それも塙田や下河原のような明らかに町人百姓が住むような地名だから
武士だけでなく民衆も移転したんだろう。
誰も宇都宮城の方を放棄したとか廃城にしたとは書いてないぞ。
ちょっと取り違えが多すぎじゃないか。
0861人間七七四年
2011/09/26(月) 17:46:43.60ID:UTy1W1EG宇都宮市史にも栃木県史にもそんな事書いてない
北条勢などに攻められた時は宇都宮城を有力家臣に預けて国綱は多気山城に篭った
多気山城は一大「軍事拠点」となった、と書いてあるだけ
宇都宮家系図でも多気城と宇都宮「本城」と記されているし
那須記などでも多気山「出城」と記されている
0862人間七七四年
2011/09/26(月) 19:14:32.76ID:VCjotlXb0863人間七七四年
2011/09/26(月) 21:24:23.57ID:QZO1bXTz>那須記などでも多気山「出城」と記されている
元は出城だから、そう表記される場合もあるだろう。
小田原征伐後、秀吉が宇都宮城に着陣して11日間滞在して宇都宮仕置を行う。
奥羽の各大名(と、その軍勢)も宇都宮に滞陣して秀吉との引見も行う。
秀吉が来る半月前には宇都宮城は増田等の豊臣勢に接収されていた。
帰り道でも秀吉は宇都宮城に10日間滞在。
秀吉が黒川城へ行く間も豊臣勢の一部は宇都宮城で待機してただろう。
という事からすれば、宇都宮氏の政調機能、家臣団、町人街も
多くは秀吉が来る前から多気城に存在してたという事。
それは本拠の移転と捉えるのが普通。
何より知名に町人地の地名が残ってんだから。
移転して5年という短期間で後北条の脅威が無くなったから、文書に残らなかっただけで。
宇都宮城も単なる支城ではないから、有力家臣が配されるのは当然。
姓と同じ名の城だから、本城と強調してるだけだろ。
0864人間七七四年
2011/09/26(月) 21:46:48.94ID:ggiaxP0y本拠移転の問題も同じ。
所詮推定に過ぎないんだから、あまり強弁しすぎるのは良くない。
「おれは遷した可能性が高いと考える。なぜなら・・・」くらいの書き方にしとけばいいんじゃない。
0865人間七七四年
2011/09/26(月) 22:21:48.81ID:QZO1bXTz>恐らく商業地は宇都宮のままで一部の武家屋敷だけ移したものと思われる
少なくともこの部分は推測としてもほぼ当たらないだろ。
戦国時代に「一大軍事拠点」を作るというのは
単に詰城レベルの話ではないだろう。特に追い詰められてる側なら尚更に。
勝頼が新府へ移転したのを詰城に入るとは誰も言わないようにな。
0866人間七七四年
2011/09/26(月) 22:33:51.75ID:QZO1bXTz豊臣勢に差し出していた事も俺個人の「推測」ではなく、公式記録に残っている「事実」だから。
本拠機能がある城をものの数日で、自分から明け渡したり出来ないだろ。
0867人間七七四年
2011/09/26(月) 23:50:13.07ID:YFAbinI/敵が攻めて来た時に宇都宮を出て多気山に篭ったと書いてあるわけだが
つまり平時には宇都宮にいたと考えるのが普通
本拠地を移したとは何処にも書いてない
姓と同じだから本城と強調してるとか滅茶苦茶過ぎる理屈
そもそも多気山に商業地まで含めて本拠地を移したとか一体何が論拠になってるの?
書状類から軍記まで一通り見てみたけど多気山本拠移転の話は見つけられなかった
豊臣方の調書でも宇都宮氏の本拠は宇都宮城となっていて多気山は書いてないし
それに宇都宮城を豊臣に差し出したとか接収したなんて何に書いてあるの?
小田原征伐以後も宇都宮城は宇都宮氏のものだし、秀吉は単に滞在しただけでしょう
0868人間七七四年
2011/09/27(火) 00:56:41.54ID:DsgQ91tU1512年10月 鹿島景幹が下総米野井で討死
1522年月 島崎利幹が長山氏を攻め滅ぼす
1524年月 鹿島氏の内訌に江戸・大掾・島崎・小高・玉造・武田氏らが加担して鹿島義幹が城を追われる
1524年月 高天ケ原の戦いで鹿島義幹が鹿島・島崎氏に討たれる
1530年月 烟田泰幹が鉾田から大和田に逃れる
1531年2月 小田政治と江戸通泰が鹿ノ子原で合戦
1532年月 江戸忠通が小幡義清を誘殺して小幡城を奪う
1533年月 武田氏が木崎砦を築く
1536年月 玉造宗幹が島崎利幹と南郷で戦い富田城を奪う
1536年月 烟田泰幹が鉾田に復帰
1538年月 烟田泰幹が烟田に本拠を移す
1546年月 江戸氏の助けを得た園部兼彦が小田氏から園部城を奪還
1546年月 大掾慶幹が長者原で小田政治・小高直幹を破り小高城を奪う
1559年月 江戸・大掾・玉造・武田氏らと小田・小高氏が柄ケ崎で戦い江戸氏らが勝利
年月 烟田氏を牽制するために鹿島治時が鉾田に城を構えて3男・義清を配す
1563年2月 小田氏治が三村合戦で大掾貞国を破る
1564年1月 上杉輝虎らが小田城を攻め落とす
1566年月 武田通信が烟田忠幹の所領3ケ村を侵略
1568年3月 鹿島氏重臣・津賀大膳が暗殺される
1569年3月 千葉氏派・鹿島氏幹と江戸氏派・鹿島義清兄弟が軍事衝突
1569年6月 鹿島治時が義清派の烟田忠幹を夜討ち
1569年7月 鹿島治時が烟田忠幹を降伏させる
1569年10月 鹿島氏幹が家中の島崎某に暗殺される
1570年4月 江戸重通の妹婿・鹿島義清が家督
1571年月 武田信房が野友城を築く
1571年月 鹿島氏と武田氏が和睦
塚原卜伝のドラマスレにレスしたいから鹿行周辺について訂正と加筆おねがい
0869ついでに作った
2011/09/27(火) 00:58:55.10ID:DsgQ91tU‖――――宇都宮成綱 平野重資
┌佐竹掃部――女子 ‖
佐竹義人―┬佐竹義俊―┴佐竹義治――佐竹義舜――女子 ┌女子
│ ‖ │小山高朝――女子
│江戸通勝―┬江戸通雅―┬江戸通泰―┬江戸忠通―┤ ‖
│ │ │ │ ‖ ├江戸通政―┬江戸重通
│ │ │芳賀高経――女子 │ ├女子
│ │ │ │ │ │ ‖
│ │ ├女子 └女子 │烟田忠幹――烟田通幹
│ │ │ ‖ ‖ │ └女子
│ │ │宍戸政家――宍戸政里 │ ‖
│ │ ├女子 │鹿島治時――鹿島義清
│ │ │ ‖――――女子 └女子
│ │ │鹿島景幹 ‖ ‖――――額田照通
│ │ └女子 ┌鹿島通幹 額田篤通
│ │ ‖ │
│ └女子 岩城由隆 │
│ ‖――――大掾高幹―┴大掾常幹
│ 大掾清幹┐ 土岐原治頼―女子
│ └―女子 ‖――――芹沢国幹
│小高兵部――女子 ‖――――芹沢定幹
└女子 ‖―――┬芹沢秀幹
‖――――芹沢範幹 └女子
芹沢俊幹 ‖――――島崎氏幹
島崎利幹
0870人間七七四年
2011/09/27(火) 01:04:56.94ID:v4Xgzol4そもそも高天原の戦いは大永四年で確定なのか?
どうも調べてもはっきりしないようなんだが。史料の裏付けも期待できないし。
0872人間七七四年
2011/09/27(火) 21:29:18.32ID:2VnhGhWx0873人間七七四年
2011/09/28(水) 00:28:16.19ID:Zf18f4wt0874人間七七四年
2011/09/28(水) 00:42:54.03ID:7I/uI2M1島崎利幹⇒島崎忠幹、島崎氏幹⇒島崎利幹かも
>>870
1526年な気もするけど、そこいら辺も直してほしい
皆川俊宗
‖――――皆川広照
┌女子
┌水谷正吉―┴水谷正村――女子
水谷勝吉―┴女子 ‖ ‖
‖ ‖ ‖
結城政朝―┬結城政勝――女子 ‖
‖ ├小山高朝――――――――結城晴朝
┌宇都宮成綱―女子 └女子
└宇都宮興綱 ‖――――宇都宮広綱┌宇都宮国綱
‖――――――――――宇都宮俊綱 ‖―――┴結城朝勝
┌小田成治女 ‖
└小田成治女 ‖
‖――――――――――佐竹義昭――女子
佐竹義篤
0875人間七七四年
2011/09/28(水) 02:55:41.86ID:DjXleAB2http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/z/i/p/zipperzipper/0185.jpg
0877人間七七四年
2011/10/02(日) 01:19:49.30ID:hekGFqUV南(鹿島か中居)から圧迫されたってこと?
鉾田から烟田への移動は武田氏?
0878人間七七四年
2011/10/04(火) 12:32:54.12ID:3TrVGJX5おつ
0879人間七七四年
2011/10/07(金) 18:07:30.15ID:r0motI9+0880人間七七四年
2011/10/07(金) 23:44:38.58ID:oiuYE2hb0881人間七七四年
2011/10/09(日) 08:59:00.78ID:D9AhLmf/今さらなんだがちょっと待った。
那須高資の実母である岩城常隆の娘が輿入れしたのは1521年だからそれはおかしい。
那須政資の継室に大田原の娘が入って資胤が生まれるのは少なくともこれ以後のはず。
0882人間七七四年
2011/10/10(月) 07:55:23.92ID:koPUepws0883人間七七四年
2011/10/10(月) 13:19:20.51ID:JgKN2Md+1542年の復帰後、その年のうちに娘を継室に出して資胤を懐妊した
と、考えるしかない
0884人間七七四年
2011/10/12(水) 01:38:00.78ID:XExbXqJ2何月に復帰したか知らんけどおそらく年は越すだろうから1543年に資胤が生まれたとしよう。
となると1557年に息子資晴が生まれた時に資胤の歳は多く見積もっても14歳(数え年15歳)か…
当時の結婚の基準なら無理ではないがスレスレだな。
0885人間七七四年
2011/10/12(水) 22:42:19.45ID:ljHUqsOK那須氏は不明な点が多いから、どこかで間違ってる可能性が高いな
0886人間七七四年
2011/10/13(木) 22:10:49.14ID:vm8V9Ctq0887人間七七四年
2011/10/16(日) 12:51:37.33ID:1jl+/a2q0888人間七七四年
2011/10/16(日) 13:19:02.22ID:u3L4YeJ60889人間七七四年
2011/10/16(日) 14:12:20.90ID:NSJeTfb40890人間七七四年
2011/10/16(日) 17:23:32.68ID:hZeWwgU8結婚してるから妊娠させても無問題
しかし母子の死亡率を考えると大問題
「死んでも代わりはいくらでもいる」が大前提
0891人間七七四年
2011/10/16(日) 22:47:34.75ID:Hn9jM1Cs正妻は政治的意味合いが大きいから粗末には扱えないし
セックスするだけなら相手はいくらでもいる
0893人間七七四年
2011/10/17(月) 17:09:24.47ID:rnAtqrRV輩出しているよね。
勝宗の時代には譜代大名になってるし。
ま、その後お家は廃絶になっちゃうけど…
0894人間七七四年
2011/10/17(月) 18:21:14.62ID:ty8+M/p/0895人間七七四年
2011/10/17(月) 20:14:35.77ID:rnAtqrRV役は先手鉄砲組頭だったので役高1500石なんで、
計5000石取りの立派な寄合旗本扱いだったみたい。
幕政においては水谷勝久が鬼兵こと長谷川平蔵の
後見役をしていたらしい。
0896人間七七四年
2011/10/17(月) 20:29:01.27ID:9Wga+kfF0897人間七七四年
2011/10/17(月) 23:21:22.86ID:RznOKSy90898人間七七四年
2011/10/18(火) 00:15:54.03ID:eeMeUflb嫁入りしたりされたりがあったみたいだな。
0899人間七七四年
2011/10/18(火) 16:00:16.14ID:I9in7AK3反小田勢力に加わらせるよう工作したのが
水谷治持。その後真壁が佐竹傘下になっても
私的な交流はあったのかも。
鬼真壁の墓も下館の定林寺にあるしね。
0900人間七七四年
2011/10/18(火) 17:50:16.65ID:4IMIXmpBその相手は氏幹入道道無とあって、氏幹なのか、あるいは
父の久幹(道無)の方なのかはわからんけど。
0901人間七七四年
2011/10/18(火) 18:46:47.20ID:I9in7AK3多賀谷、水谷、山川…あとひとつは何家?
ひょっとして小山なの?
0902人間七七四年
2011/10/18(火) 19:18:21.23ID:K7zIpGD7そういや岩上二郎って茨城県知事いたね
0903人間七七四年
2011/10/18(火) 20:56:42.85ID:4IMIXmpB結城単独スレもあるけどね。
0904人間七七四年
2011/10/18(火) 21:11:37.55ID:4IMIXmpB0905人間七七四年
2011/10/19(水) 23:05:51.40ID:GgFq7/UE多賀谷や水谷はセーフだけど
0907人間七七四年
2011/10/20(木) 01:04:12.74ID:cZGH5aHD0908人間七七四年
2011/10/20(木) 01:40:34.69ID:cZGH5aHD0910人間七七四年
2011/10/21(金) 01:08:04.94ID:hwmFEi740911人間七七四年
2011/10/21(金) 08:12:14.55ID:2tJKaWVy同時代の史料ではどうなんだって話が聞きたかったんだが。
0912人間七七四年
2011/10/21(金) 17:23:13.34ID:imAsbXl6芹沢鴨につながる一族なのですかね?
0913人間七七四年
2011/10/22(土) 01:08:03.11ID:S/29rArL小田から諱をもらうような関係だったんでしょうよ
0915人間七七四年
2011/10/22(土) 12:35:15.77ID:5iwbLZpT北条から諱をもらうような関係だった氏幹は佐竹側に行っちゃいましたね。
0916人間七七四年
2011/10/22(土) 19:50:56.71ID:zJGML9a8真壁氏幹の氏の字は、小田氏治からもらったと考えてる学者って誰か実在するの
0917人間七七四年
2011/10/22(土) 20:21:55.58ID:8Q4zD1gSレス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。